小穴隆一
小穴 隆一(おあな りゅういち、1894年11月28日 - 1966年4月24日)は、日本の洋画家、随筆家、俳人。俳号は一游亭。
経歴
[編集]長野県で生まれ、長野県塩尻市出身の祖父のもと、北海道函館市で育つ[1]。父は中山道洗馬宿(現在の塩尻市宗賀)の旧家である志村家の出だった。
旧制開成中学校中退。太平洋画会研究所にて中村不折に師事。二科展には第1回から出品。のち春陽会に移る。
1919年、瀧井孝作に連れられて東京・田端の芥川龍之介邸を訪れ、以後芥川の無二の親友となる。誕生日が芥川の母の命日だったため、芥川から「僕の母の生まれかはりではないかと思ふよ」[2]と言われていた。
1921年の『夜来の花』以降、芥川の著書の装丁を担当。1922年、親友芥川龍之介をモデルに『白衣』を制作、この作品を二科展に出品して話題となる。同年、芥川は次男が誕生したとき、隆一の名に因んで多加志と命名した。
1923年、脱疽のため右足を足首から切断。以後、義足を使用するようになる。
1926年、芥川が神奈川県鵠沼の旅館東屋の貸別荘「イ-4号」を借りると、隣接する「イ-2号」を借りて住む。「蜃気楼--或は「続海のほとり」--」に出てくる「O君」が小穴のことである。翌年、芥川が田端に引き揚げると、小穴も東京に戻った。
1927年、芥川が子供たちに「小穴隆一を父と思へ。従つて小穴の教訓に従ふべし」との遺書を残して自殺。以後、芥川の遺族と親しく交際。しかし芥川の甥である葛巻義敏とは険悪な関係だった。1933年、文士賭博事件により久米正雄、 里見弴らとともに検挙され、罰金刑となる。
1956年、著書『二つの絵』(中央公論社、1956年)の中で芥川が私生児だったという説を発表し、波紋を呼ぶ。その他の著書に『白いたんぽぽ』(日本出版協同、1954年)などがある。
このほか、画家としては宮沢賢治や坪田譲治の作品に挿絵を描いた。
主な作品
[編集]著書
[編集]- 『鯨のお詣り』(随筆集)中央公論社、1940年
- 『白いたんぽぽ』(随筆集) 日本出版協同、1954年
- 『二つの絵:芥川竜之介の回想』 中央公論社、1956年
- 『芥川竜之介遺墨』 中央公論社、1960年
挿絵
[編集]- 『夜来の花』(短編集) 芥川龍之介 著、新潮社、1921年
- 『三つの宝』(童話集) 芥川龍之介 著、改造社、1922年
- 『子供の四季』 都新聞(連載)、1938年
- 『風の又三郎』(童話集) 宮澤賢治 著、坪田譲治 解説、羽田書店、1939年
- 『ビハの實』 坪田讓治 著、中央公論社、1941年
- 『ねむりねこ』 真船豊 著、小山書店、1948年
- 『オランダとけいとが』(童話集) 小学館、1948年
- 『虎彦龍彦』 坪田譲治 著、桐書房、1949年
- 『四羽の小鳥』 坪田譲治 著、新潮社、1949年
- 『春の夢秋の夢』 坪田譲治 著、新潮社、1949年
- 『雪国のおんどり』 浜田広介 著、講談社、1949年
- 『白』(童話集) 芥川龍之介 著、中央公論社、1949年
洋画
[編集]脚注
[編集]- ^ a b “(1月~3月)「第33回坪田譲治文学賞記念 坪田譲治展 坪田譲治と小穴隆一:名作『子供の四季』の背景」”. 岡山市. 2021年6月20日閲覧。
- ^ 小穴隆一『二つの絵』p.127(中央公論社、1956年)