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大正時代は、[[藩閥]]政治に関わりを持った[[江戸時代]]生まれの人々が引退他界していった時代で、試験選抜され[[高等教育]]機関で養成された世代の人々が社会の中枢を担うようになっていった。<ref>皿木喜久 『大正時代を訪ねてみた 平成日本の原景』「大正世代」 (産経新聞社、2002年の178ページから〜181ページの明治人たり逝くの項目</ref>
大正時代は、[[藩閥]]政治に関わりを持った[[江戸時代]]生まれの人々の[[元勲]]政界から引退したり他界していった時代で、試験選抜され[[高等教育]]機関で養成された世代の人々が社会の中枢を担うようになっていった。<ref>皿木喜久 『大正時代を訪ねてみた 平成日本の原景』「大正世代」 (産経新聞社、2002年の178ページから〜181ページの明治人たり逝くの項目</ref>


== 護憲運動と政治 ==
== 護憲運動と政治 ==

2013年2月27日 (水) 14:57時点における版

大正(たいしょう)とは、明治昭和の間にある日本元号大正天皇の在位期間である1912年明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの期間。

改元

大正改元の詔書1912年(明治45年)7月30日

朕菲德ヲ以テ大統ヲ承ケ祖宗ノ威靈ニ誥ケテ萬機ノ政ヲ行フ茲ニ先帝ノ定制ニ遵ヒ明治四十五年七月三十日以後ヲ改メテ大正元年ト爲ス主者施行セヨ(以下略)[1]
  • 1926年(大正15年)12月25日 - 大正天皇が崩御して、摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)が践祚したため、昭和に改元、同日は昭和元年12月25日となった。皇太子裕仁親王は1921年(大正10年)11月25日に、病が篤くなった大正天皇の摂政に就き、以来天皇の名代としての務めを行っていた。

出典

「大正」の由来は『易経』彖伝・臨卦の「亨以、天之道也」(大いに亨(とほ)りて以て正しきは、天の道なり)から。「大正」は過去に4回候補に上がったが、5回目で採用された。

なお大正天皇実録によれば元号案として「大正」「天興」「興化」「永安」「乾徳」「昭徳」の案があったが、最終案で「大正」「天興」「興化」に絞られ、枢密顧問の審議により「大正」に決定した。

特徴

大正天皇

大正天皇の治世を指している。日本の歴史上の時代区分で、日本近代史で、年号によって時代区分された大正時代は学術上は絶対的に認められた時代ではないが、大正時代は(年数で15年間・期間は14年間)で日本史で一番短い時代である。平成時代(大正時代を超える期間の1989年(平成元年)〜2013年(平成25年)の25年間以上)と安土桃山時代(大正時代を超える期間の1573年天正元年)〜1603年慶長8年)の30年間)が次に短い時代である。大正デモクラシーの影響で大日本帝国憲法議会制民主主義的な面が最も機能していた政治安定期として見られることが多い。第二次世界大戦前の日本における転換期に当たる。

1912年(大正元年)は辛亥革命が終わって中華民国が成立した年で、「民国N年」が「大正N年」に当たる。この時期の世界は、第一次世界大戦が起こった時期でもあり、その結果として敗れた帝国が続々と解体されて、ヴァイマル共和国など共和制国家が多数成立した。大正年間を通じて都市に享楽的な文化が生まれる反面、スラムの形成、民衆騒擾の発生、労働争議の激化など社会的な矛盾が深まっていった。

大正年間には、2度[2]に及ぶ護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、明治以来の藩閥支配体制が揺らいで、政党勢力が進出した。それは大正デモクラシーと呼ばれて、尾崎行雄犬養毅[3]がその指導層となった。大正デモクラシー時代は、1918年(大正7年)の米騒動の前と後で分けられることが多いが、米騒動後、初めて爵位を持たず、衆議院に議席を持つ平民宰相原敬が内閣を組織した。

しかし、原はその登場期に期待された程の改革もなさないままに終わり、一青年により東京駅頭で暗殺された。普選運動が活発化して、平塚雷鳥市川房枝らの婦人参政権運動も活発となった。1925年(大正14年)には、普通選挙法が成立したが、同時に治安維持法が制定された。言論界も活況を呈して、君主制民主主義を折衷しようとした吉野作造民本主義[4]美濃部達吉天皇機関説などが現れた。

1921年(大正10年)11月25日皇太子裕仁親王大正天皇の病状悪化によって摂政宮となった。力強かった時代の明治時代を見直す機運から明治天皇昭憲皇太后を祀る明治神宮が建立された。

1923年(大正12年)に関東大震災が起こり、首都が壊滅的な打撃を受けたが、程なく復興した。震災後、山本権兵衛内閣が成立した。その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した。第一次世界大戦後には、ベルサイユワシントン体制に順応的な幣原外交(加藤内閣)が展開され、中華民国への内政不干渉、ソビエト連邦と国交回復など、一定のハト派・国際協調的な色彩を示した。

大正時代は、藩閥政治に関わりを持った江戸時代生まれの人々の元勲が政界から引退したり他界していった時代で、試験選抜され高等教育機関で養成された世代の人々が社会の中枢を担うようになっていった。[5]

護憲運動と政治

1913年(大正2年)2月5日、尾崎行雄桂内閣弾劾演説(大正政変)。
1913年(大正2年)2月5日、桂太郎首相の施政方針演説に対する質問に立った尾崎行雄は、桂首相を激しく糾弾した。
1920年(大正9年)、赤軍の攻撃により燃え落ちた日本領事館(尼港事件
ニコラエフスク住民数千人とともに、日本人700人余りが殺害された。

1911年明治44年)に第2次西園寺内閣が成立したころ、日本の国家財政は非常に悪化していたが、中国辛亥革命に刺激された陸軍は、抗日運動対策もかねて朝鮮に駐屯させる2個師団の増設を強く政府にせまった。緊縮財政方針の西園寺公望がこれを拒否し、政府・与党(立憲政友会)と陸軍が対立すると、多くの国民が陸軍の横暴に憤った。一方、1912年(明治45年/大正元年)7月30日明治天皇が崩御して大正天皇が君主となり桂園時代藩閥政権に君臨した事や、美濃部達吉が『憲法講話』を刊行して、天皇機関説政党内閣論をとなえたことは、国民に新しい政治を期待させた。

1912年(大正元年)の末、2個師団増設が閣議で認められなかったことに抗議して、上原勇作陸相が単独で辞表を大正天皇に提出し、陸軍が軍部大臣現役武官制をたてにその後任を推薦しなかったため、西園寺内閣は総辞職に追い込まれた。代わって長州閥と陸軍の長老である桂太郎が、就任したばかりの内大臣侍従長を辞して第3次桂内閣を組織すると、「宮中府中の別」の原則を無視して宮中の職から首相に転じたことが、藩閥勢力が新天皇を擁して政権独占を企てているとの非難の声が上がった。

立憲国民党犬養毅立憲政友会尾崎行雄を先頭とする野党勢力や新聞に、商工業者や都市部の知識階級も加わり、「閥族打破・憲政擁護」を掲げる運動が全国に広がった(第一次護憲運動)。桂は立憲同志会を自ら組織してこれに対抗しようとしたが、護憲運動は強まる一方だったので、1913年(大正2年)、民衆が議会を包囲するなか、在職わずか50日余で退陣した(大正政変)。

桂のあとは、薩摩出身の海軍大将山本権兵衛立憲政友会を与党に内閣を組織した。山本内閣は行政整理を行うと共に、文官任用令を改正して政党員にも高級官僚への道を開き、また軍部大臣現役武官制を改めて、予備・後備役の将官にまで資格を拡げ、官僚軍部に対する政党の影響力拡大に努めたが、1914年(大正3年)、外国製の軍艦や兵器の輸入をめぐる海軍高官の汚職事件(シーメンス事件)が発覚すると、都市民衆の抗議行動が再び高まり、やむなく退陣した。

これを見た山県ら元老は、庶民の間で人気のある大隈重信を急遽後継首相に起用した。第2次大隈内閣長州藩や陸軍の支援のもと、立憲同志会を少数与党として出発したが1915年(大正4年)の総選挙では立憲同志会などの与党が立憲政友会に圧勝した。この結果、懸案の2個師団増設案が議会を通過した。

第一次世界大戦の勃発でイギリスドイツに宣戦すると、日英同盟を理由にドイツに宣戦して、中国における青島山東省南洋諸島の一部を占領した。ついで大戦のためヨーロッパ諸国が中国問題に介入する余力のないのを利用して、1915年(大正4年)に袁世凱政府に、加藤高明外相が二十一か条の要求を提出した(対華21ヶ条要求)。続く寺内正毅内閣では、袁のあとを継いだ北方軍閥の段祺瑞内閣に巨額の借款をあたえて(西原借款)、政治・経済・軍事にわたる中国における日本の権限を拡大しようとつとめた。極東の権益を保持するため第4次日露協約イギリスとの覚書、特派大使石井菊次郎石井・ランシング協定を締結した。1917年(大正6年)のロシア革命を好機とみた寺内内閣北満州沿海州まで勢力を広げようとした(シベリア出兵)。

寺内正毅超然内閣に対抗して憲政会が結成されると、寺内首相は1917年(大正6年)に衆議院を解散、総選挙の結果立憲政友会憲政会に代わって衆議院の第一党となった。大戦による急激なインフレーションシベリア出兵を見越した米の買い占めによって国内では米価が暴騰して、1918年(大正7年)8月には富山県の漁村で主婦達が米の安売りを要求したことが新聞に報道されると米騒動が全国に広がった。さらに労働者の待遇改善、小作人の小作料引き下げの運動も起こった。

政府はようやくそれを鎮圧したが、シベリア出兵を推進した寺内正毅首相は1918年(大正7年)9月21日に退陣した。

原敬

民衆運動の力を目の当たりにした元老たちはついに政党内閣を認め、立憲政友会原敬を首相に指名し、華族でも藩閥でもない「平民宰相」が1918年(大正7年)9月29日に誕生した。普通選挙の要求が高まった情勢を背景に、原は政党の地位を高めながら、自党の党勢拡大を行い、大資本や地主の間に築いた。しかし、国民の期待に対して原内閣は普通選挙制の導入には「現在の社会の組織に向かって脅迫を与えるもの」として拒み、他方では、元老との衝突を避けながらも、元老の政治力の縮小に努力した[6]。選挙権の納税資格を3円以上に引き下げ、小選挙区制を導入するにとどまった。これらは「党利党略」として世論の不信を招いた。1920年(大正9年)の尼港事件では在留邦人と駐留日本軍が赤軍に皆殺しにされ内閣の責任が追及された。1921年(大正10年)11月4日に、原が東京駅頭で一青年(中岡艮一)に暗殺された(原敬暗殺事件)。続いて政友会総裁となった高橋是清が首相となったが、短命に終わり、代わって海軍大将加藤友三郎が事実上の与党として内閣を組織して1922年(大正11年)6月から〜1923年(大正12年)8月までの期間に非政党内閣が続いた。 その後、関東大震災虎ノ門事件の発生は、それまでの藩閥に危機意識を抱かせ、第2次山本権兵衛内閣が虎ノ門事件で倒れた後、枢密院議長から天下って清浦奎吾が内閣を組織しようとした。それに対し憲政会革新倶楽部政友会の三派は、普選(普通選挙)の採用、政党内閣制の樹立を掲げて、藩閥勢力と官僚勢力を主体とした政友本党に対抗した(第二次護憲運動)。護憲三派(憲政会、政友会、革新倶楽部)は選挙で勝利して、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した1924年(大正13年)、第二次大正政変)。加藤高明内閣は1925年(大正14年)、普通選挙法を成立させ、ついに身分や財産によらず成人男子すべてに選挙権を与える普通選挙が実現することになる。しかし、婦人の参政権は認めず、生活貧困者の選挙権も認めないなどの制約があった。

またそれは「革命」の安全弁としての役割も期待されていたが、それと同時に治安維持法1925年(大正14年)4月22日に公布されて5月22日に施行した法律を成立させ、「国体の変革」「私有財産否定」を目的とした活動の禁止と、そうした結社に加入することを厳重に取り締まった[7]。また、勅令175号1925年(大正14年)5月8日により、朝鮮台湾樺太にも治安維持法が施行される。しかし、これによって政党政治が定着するようになった。この後、1932年昭和7年)に犬養毅内閣が五・一五事件で倒れるまでの8年間は、政党政治が続き、明治以来の藩閥政治は一応終焉した。政党内閣時代はこのときまで続き(憲政の常道)、政治は、官僚や軍部を基盤にしつつも政党を中心に動いていくこととなった。

第一次世界大戦と景気

1914年(大正3年)には第一次世界大戦が勃発した。元老の井上馨はその機会を「天佑」と言い、日英同盟を理由に参戦した。本土や植民地が被害を被る事こそなかったものの、連合国の要請を受けてヨーロッパにも派兵し多数の戦死者を出した結果、戦勝国の一員となった。

発生直後こそは世界的規模への拡大に対する混乱から一時恐慌寸前にまで陥ったが、やがて戦火に揺れたヨーロッパの列強各国に代わり日本米国両新興国家が物資の生産拠点として貿易を加速させ、日本経済は空前の好景気となり、大きく経済を発展させた。特に世界的に品不足となった影響で繊維東洋紡績の設立など紡績産業・漁網製造産業)などの軽工業造船業製鉄業など重工業が飛躍的に発展して、後進的な未発達産業であった化学工業も最大の輸入先であるドイツとの交戦によって自国による生産が必要とされて、一気に近代化が進んだ。こうした中で多数の「成金」が出現する。また、政府財政も日露戦争以来続いた財政難を克服することに成功する。

しかし、1918年(大正7年)に戦争が終結すると過剰な設備投資と在庫の滞留が原因となって反動不況が発生して景気が悪化した。更に戦時中停止していた金輸出禁止の解除(いわゆる「金解禁」)の時期を逸したために、日本銀行に大量のが滞留して金本位制による通貨調整の機能を失って、政府・日銀ともに景気対策が後手後手に回った。更に関東大震災による京浜工業地帯の壊滅と緊急輸入による在庫の更なる膨張、震災手形とその不良債権化問題の発生などによって、景気回復の見通しが全く立たないままに昭和金融恐慌世界恐慌を迎えることになる。

パリ講和会議では、人種差別撤廃案を主張し、人種差別撤廃を訴え大多数の国の支持を得たが、アメリカ、イギリス、オーストラリアなどの反対によって否決された。日本大日本帝国)はアジア独立国で数少ない国際連盟加盟国となりアメリカ合衆国イギリスフランスイタリアの5カ国と並ぶ世界の1等国として国際連盟常任理事国となる。また、旧ドイツ帝国領であったマーシャル諸島南洋諸島南洋庁を設置して)日本が信託統治するようになり、アメリカ合衆国と直接的に領土領海の境域が接するようにもなり、日英同盟が解消されるなど、太平洋戦争大東亜戦争)への伏線が芽生えることとなった。

震災復興

1923年(大正12年)には関東大震災が生じた。この未曾有の大災害に東京は大きな損害を受けるが、震災後、山本権兵衛内閣が成立した。新内閣の内務大臣山本内閣の内務相)となった後藤新平が震災復興で大規模な都市計画を構想して辣腕を振るった。震災での壊滅を機会に江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行いインフラストラクチャーが整備され、大変革を遂げた。

この際、江戸の伝統を受け継ぐ町並みが一部を残して破壊され、東京は下水道整備やラジオ放送が本格的に始まるなど近代都市へと復興を遂げた。しかし、一部に計画されたパリロンドンを参考にした環状道路や放射状道路等の理想的な近代都市への建設は行われず、東京は戦後の自動車社会になってそれを思い知らされることとなり、戦後の首都高速の建設につながる。

一方、この震災に乗じて、警視庁官房主事の正力松太郎らが、首都に暴動が生じるというデマを振り撒き、混乱した民衆による朝鮮人などの殺害事件が多数起こったことや、震災直後の緊急対策であった筈の震災手形の処理を遅らせて不良債権化させた結果として金融恐慌を招いたことは歴史の負の側面であろう。

文化

大正時代の洋風住宅(兵庫県芦屋市旧山邑家住宅

芸能文化

日本初の歌謡曲として松井須磨子カチューシャの唄をはじめとする数々の歌謡曲が誕生して、実はジャズもこの時代に日本に伝わり、それなりに発展する。文楽歌舞伎新派劇新国劇などの日本的な伝統演劇に対して西洋劇を導入する新劇運動が盛んになり、[8]昭和時代に発展する芸能界の基礎となる俳優女優歌手などの職業が新しく誕生して、その後の大衆文化の原型が生まれた。

都市文化

日露戦争頃から、当時の経済文化の中心地であった大阪神戸において都市を背景にした大衆文化が成立し(阪神間モダニズム)、全国へ波及した。今日に続く日本人の生活様式もこの時代にルーツが求められるものが多い。

道路交通機関が整備されて、路面電車青バス東京乗合自動車)や円太郎バス[9]などの乗合バスが市内を走行して、大正後期から〜昭和初期までの大大阪時代大阪府では、東京府よりも先におびただしい私鉄網が完成し、なかんずく小林一三が主導した阪神急行電鉄の巧みな経営術により、阪神間に多くの住宅衛星都市群が出現した。一方、日清戦争1894年1895年〔明治27年〜明治28年〕)を経て東洋一の貿易港となっていた神戸港に夥しく流入する最新の欧米文化を彼ら衛星都市の富裕層が受け入れて広まり、モダンな芸術・文化・生活様式が誕生した。大阪・神戸は関東大震災1923年〔大正12年〕)後に東京から文化人の移住等もあって、文化的に更なる隆盛をみた。大正中期に都市部で洋風生活を取り入れた「文化住宅」が一般向け住宅として流行をした。

東京府東京市)では、関東大震災で火災による被害が甚大だった影響で江戸期から下町江戸時代の街並みを失う一方、震災の影響が総じて少なかった丸の内大手町地区にエレベーターの付いたビルディングの建設が相次ぎ、一大オフィス街が成立した。下町で焼け出された人々が世田谷、杉並等それまで純然たる農村であった地域に移住して、新宿、渋谷を単なる盛り場から「副都心」へと成長させた。1918年(大正7年)に専門学校から昇格する形で私立大学を中心に旧制大学を認可する大学令高等学校令が公布されて高等教育機関が整備されて、東京帝大の卒業生の半数が民間企業に就職するようになり、「サラリーマン」が大衆の主人公となった。明治時代まで呉服屋であった老舗が次々に「百貨店」に変身を遂げ、銀座デパート街へと変貌した。井戸やまきによるかまどの使用や明治時代石油ランプが廃れて、上水道ガス電気が普及する。神前結婚大本教霊友会など新宗教が盛んになる。家庭電気器具では扇風機電気ストーブ・電気アイロン・電気コンロが普及した。[10]

スポーツの開始

戦中に中断されて、戦後に復活して継続されている箱根駅伝甲子園球場で行われるようになった中等学校野球などのスポーツが開始された。明治神宮外苑に「神宮外苑野球場」ができたのが1926年(大正15年)で、その前年出発した「東京六大学野球」が愈々隆盛をきわめるようなる。

マスコミの発達

また、東京に拠点を置いていた『時事新報』、『國民新聞』、『萬朝報』の主要紙が関東大震災の影響で被災して凋落し、取って代って大阪に本社を置いていた『大阪朝日新聞』、『大阪毎日新聞』が100万部を突破して東京に進出、それに対抗した『讀賣新聞』も成長を果たして、今日「三大紙」といわれるようになる新聞業界の基礎が築かれた。

1925年(大正14年)3月には、東京、大阪、名古屋でラジオ放送が始まり、新しいメディアが社会に刺激を与えるようになる。

自動車の登場

震災で鉄道が被害を受けたこともあって、「自動車」が都市交通の桧舞台にのし上がり、「円タク」などタクシーの登場もあって、旅客か貨物であるかを問わず陸運手段として大きな地位を占めるようになる。また、オースチンフォード等の輸入車が中心ではあるものの、上流階級や富裕層を中心に自家用車の普及も始まった。

食文化

都市部では新たに登場した中産階級を中心に“洋食”が広まり「カフェ」「レストラン」が成長して、飲食店のあり方に変革をもたらした。カレーライスとんかつコロッケ大正の三大洋食と呼ばれた。特にコロッケ益田太郎冠者[11]作詞の楽曲のコロッケの唄1917年(大正6年)にヒット曲となり、コロッケ以外にオムレツが大正の3大洋食と呼ばれた)の登場により、洋食とは縁のなかった庶民の食卓にまで影響が及ぶこととなった。米騒動による米価高等対策として原敬内閣は積極的にパンの代用食運動を展開した。パンは昭和の戦後期になって普及するが、和製洋食御飯と云う、戦後の日本人の食事の主流は大正時代に定着して、中華料理中華そばの普及や和食復権運動があった。[12]子供たちに人気があったロシアパンが伝来して、1919年(大正8年)7月7日 に日本で初めての乳酸菌飲料カルピスが発売される。人造氷が発達してコロッケ・フライなど副食が洋風化した。アイスクリームパンチキンライスコーヒーラムネ紅茶サイダービールなど洋食品が普及した。喫茶店レストランが増加した。昭和一桁(昭和時代の初期)にかけて、中華料理(南京料理)の麺類缶詰類など簡易食品が発達した。[13]

ファッション

女性の間で、洋髪が流行して、七三分け・髪の毛の耳隠しなどが行われて洋風が普及した。女学生に制服が使用された。男子はセルが良く使用された。明治時代まで庶民には縁のなかった「欧米式美容室」、「ダンスホール」が都市では珍しい存在ではなくなり、男性の洋装が当たり前になったのもこの時代である。一方、地方(特に農漁村)の労働者階級ではそういった近代的な文化の恩恵を受けることはまれで、都市と地方の格差は縮まらなかった。

文学史

文学界には、新現実主義芥川龍之介耽美派谷崎潤一郎、さらに武者小路実篤志賀直哉人道主義(ヒューマニズム)を理想とした白樺派が台頭した。このころまでに近代日本語が多くの文筆家らの努力で形成された。和歌では萩原朔太郎が新しい口語自由詩のリズムを完成させ、今日に続く文章日本語のスタイルが完成し、上記の他に、中里介山の『大菩薩峠』や『文藝春秋』の経営にも当った菊池寛などの文芸作品が登場した。

1冊1円本が飛ぶように売れた[14]この時期の1921年(大正10年)には、小牧近江らによって雑誌『種蒔く人』が創刊され、昭和初期にかけてプロレタリア文学運動に発展した。また1924年(大正13年)には、演劇で小山内薫築地小劇場を創立し、新劇を確立させた。新聞、同人誌等が次第に普及し、新しい絵画や音楽、写真や「活動写真」と呼ばれた映画などの娯楽も徐々に充実した。俳壇では『ホトトギス』が一大勢力を築き、保守俳壇の最有力誌として隆盛を誇った。

学門

哲学の発展として西田幾多郎が唱えた、の研究を参考に、西洋哲学の考え方と東洋哲学の考え方を1つにした西田哲学が完成した。[15]京都大学出身の哲学者京都学派と呼ばれて、昭和時代になって、太平洋戦争中に時局の意味を詳しく哲学的に解説した。大正期~昭和期の哲学は官学のドイツ哲学の研究者が多かったが、イギリス流やアメリカ流の経験と現実を重視する哲学があった。田中王道長谷川是閑が代表的な哲学者で、アメリカのデゥーイや日本の二宮尊徳の思想を研究して、個人主義が完全に行わなければ民主主義は実現しないとする哲学である。[16]マルクス主義が盛んになり、社会主義哲学の唯物論の主張が行われた。[17]代表的なマルクス主義者が河上肇であり、代表的なマルクス経済学者が西田幾太郎門下の三木清である。[18]昭和の戦争時代の基礎となる右翼的な国家主義も強調されて、日本精神論が唱えれれて、日本神話国史が大きく唱えられた。[19]文化史運動があり、代表的な文化史学者西田直二郎や代表的な哲学者の和辻哲郎の日本精神史研究がある。[20]津田左右吉明治維新研究や江戸幕府研究や日本古代史研究を行い、日本書記や古事記は創作とした。[21]東洋史研究では京都大学教授の内藤湖南変革論が主張された。[22]欧米学者が中心に研究する西洋史以外にドイツのランケが開始した世界史研究が盛んになり、明治時代に西洋化や近代化をした大日本帝国の日本で、旧制中学・旧制高校で熱心に西洋史が教育されて日本人が西洋人以外で一番西洋史に詳しい民族となった。[23]明治時代の国家主義的な法律学から大正時代に社会法が盛んになった。刑法学者の牧野栄一憲法学者美濃部達吉の観念的で国家的なドイツ法学より経済学的で社会学的な文法末広厳太郎などの学者の間で主流となった。[24]大正時代は経済において生産と分配の問題が大きく取りあげられた時代で経済学が発展して、東京大学で東京大学経済学部東京大学法学部から分離独立した。日本の経済学はイギリスの自由主義経済学からドイツの社会政策思想やマルクス経済学が盛んになった。[25]

社会問題

社会事業

この当時、社会事業をめぐる議論が盛んとなり、米騒動後には政府・地方で社会局および方面委員制度の創設が相次いで行われ、それらの機関によって都市の貧民調査や公設市場の設置などが進められていった。

教化総動員運動

また1919年(大正8年)には、第一次世界大戦を契機とした国民の思想・生活の変動に対処するという目的で内務省の主導による民力涵養運動が開始されており、後の教化総動員運動の先駆けともなる、国家が国民の生活の隅々まで統制を行おうとする傾向がこの時期から見られるようになる。

労働運動

こうして大正年間において社会事業が活発となった原因として、小作争議の頻発や労働運動の大規模化など、地方改良運動に見られるような従来の生産拡大方針では解決不可能な問題が深刻化したことが指摘されている。鈴木文治によって友愛会が設立されて、第一次世界大戦期間中にインフレが進行した事によって米騒動が発生した。成金が誕生する一方で貧富の差が拡大したことで急増した労働争議に友愛会などの労働組合が深く関係した。

部落解放運動

大正デモクラシーによって様々な社会運動が行われた。中世から近世江戸時代)に形成された武士百姓町人(いわゆる士農工商)以外の穢多非人と呼ばれた賎民を差別する封建制度の負の遺産として、新平民の呼称で平民扱いされなかった国民がいた。明治政府の貧困対策や身分解放政策の不備や賎民専用の皮革産業などを失い貧困となった事や旧百姓の農民層からの偏見があったため、明治時代になっても被差別部落問題が存在した。明治維新によって四民平等となったが、近代化以後も被差別部落問題が解決されなかったために西光万吉阪本清一郎らが中心となり1922年(大正11年)に全国水平社が結成された。

女性解放運動

女性の解放が叫ばれて、女性が勤務した職業として事務員デパート店員バスガール電話交換手ウェートレス和文英文タイピスト保母看護婦劇場の案内人・美容師など社会に進出して働く職業婦人が増加した。女性運動家が出現して、[26]普通選挙運動の要求が男性のみであった事から、日本にも婦人参政権獲得を目的とする女性解放運動を推進する新婦人協会が設立されて、女性が地位向上を求めるようになった。

朝鮮植民地問題

三・一独立運動によって日本統治時代の朝鮮朝鮮総督府がこれまでの憲兵警察制度による武断統治を見直し、内鮮一体朝鮮半島近代化を目的とする文化政治に改めた。貧困から逃れるため朝鮮人の外地から内地への密航が多発して、在日朝鮮人の増加に伴う内地人との軋轢や社会不安が社会問題となった。

略年表

西暦との対照表

大正 元年 2年 3年 4年 5年 6年 7年 8年 9年 10年
西暦 1912年 1913年 1914年 1915年 1916年 1917年 1918年 1919年 1920年 1921年
干支 壬子 癸丑 甲寅 乙卯 丙辰 丁巳 戊午 己未 庚申 辛酉
大正 11年 12年 13年 14年 15年
西暦 1922年 1923年 1924年 1925年 1926年
干支 壬戌 癸亥 甲子 乙丑 丙寅

大正を冠するもの

企業

地名(公共施設)

テーマパーク

文化作品名

商品

  • 大正海老(タイショウエビ)

学校

大正時代の評価

参考文献

  • 『平成日本の原景大正時代を訪ねてみた』(著者は皿木喜久
  • 『日本の歴史第17巻大正時代〜大正デモクラシー』(著者は松尾尊兌
  • 『大正デモクラシー』(著者は成田龍一)
  • 『絵葉書で読み解く大正時代』(著者は学習院大学史料館)
  • 『少年少女日本の歴史大正から昭和へ』(著者は東京教育大学名誉教授肥後和男

脚注

  1. ^ 明治45年(1912)7月|大正と改元:日本のあゆみ
  2. ^ 第一次は1912年(大正元年)12月から翌年にかけて第3次桂内閣打倒運動が東京を中心にして各地で憲政擁護大会が開かれた。第二次は1924年(大正13年)1月清浦内閣打倒運動を起こし、政党内閣、普通選挙、貴族院改革を要求した。
  3. ^ 政党側の闘志であるこの二人は、中国に対する「21か条要求」には日本の特権を肯定していた。(遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 15ページ)
  4. ^ デモクラシーの訳語(遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 14ページ)
  5. ^ 皿木喜久 『大正時代を訪ねてみた 平成日本の原景』「大正世代」 (産経新聞社、2002年の178ページから〜181ページの明治人たり逝くの項目
  6. ^ 遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 16ページ
  7. ^ 1925年(大正14年)の新聞は治安維持法に批判的な論評を掲載するとともに、社説でも正面から反対した。「社説」では同法は「人権蹂躙・人権抑圧」であり、国民の生活や思想まで取り締まりの対象になり、集会結社の自由はなきに至ると論じた。同法成立の背景として、第一次世界大戦とロシア革命以後の社会運動や社会主義運動の盛り上がりを抑制する政策として考えられてきたものであったが、また、アメリカの無政府主義取締法を初めとする世界的な治安立法の動きが影響したと考えられる。(成田)龍一『大正デモクラシー』シリーズ日本近代史④ 岩波書店 〈岩波新書1045〉 2007年 210-211ページ
  8. ^ 大正から昭和へ少年少女日本の歴史202頁~207頁
  9. ^ 明治・大正・昭和のくらし②大正のくらしと文化の14ページ。汐文社が出版社である。
  10. ^ 集英社学習漫画日本の歴史大正時代大正デモクラシー125頁
  11. ^ [1]
  12. ^ 皿木喜久 『大正時代を訪ねてみた 平成日本の原景』「大正世代」 (産経新聞社、2002年148ページから〜151ページの大正時代の3大洋食-『明日もコロッケ』だった時代の項目
  13. ^ 少年少女日本の歴史大正から昭和へ224頁
  14. ^ 明治・大正・昭和のくらし②大正のくらしと文化の37ページ。汐文社が出版社である
  15. ^ 少年少女日本の歴史大正から昭和へ156頁~157頁
  16. ^ 少年少女日本の歴史大正から昭和へ159頁
  17. ^ 少年少女日本の歴史大正から昭和へ160頁
  18. ^ 少年少女日本の歴史大正から昭和へ162頁
  19. ^ 少年少女日本の歴史大正から昭和へ163頁
  20. ^ 少年少女日本の歴史大正から昭和へ166頁
  21. ^ 少年少女日本の歴史大正から昭和へ167頁~168頁
  22. ^ 少年少女日本の歴史大正から昭和へ169頁
  23. ^ 少年少女日本の歴史大正から昭和へ170頁
  24. ^ 少年少女日本の歴史大正から昭和へ171頁
  25. ^ 少年少女日本の歴史大正から昭和へ172頁
  26. ^ 『日本の歴史第17巻大正時代〜大正デモクラシー』(著者は松尾尊兌)118ページ〜120ページの復興する都市と女性の進出の項目
  27. ^ 『日本の歴史第17巻大正時代〜大正デモクラシー』(著者は松尾尊兌)15ページの上段の2コマ
  28. ^ 『平成日本の原景大正時代を訪ねてみた』(著者は皿木喜久)216ページ10行目から〜17行目

関連項目