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* [[鳥取城北高等学校]] |
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* [[デュプロ硬式野球部|デュプロ]] |
* [[デュプロ硬式野球部|デュプロ]] (1978 - 1980) |
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* [[広島東洋カープ]] (1981 - 1994) |
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* [[読売ジャイアンツ]] (1995 - 1998) |
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'''川口 和久'''(かわぐち かずひさ、[[1959年]][[7月8日]] - )は、[[鳥取県]][[鳥取市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]])、[[野球解説者]]。 |
'''川口 和久'''(かわぐち かずひさ、[[1959年]][[7月8日]] - )は、[[鳥取県]][[鳥取市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]])、[[野球解説者]]。{{by|2011年}}からは[[読売ジャイアンツ]]の投手総合コーチを務める。 |
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== 来歴・人物 == |
== 来歴・人物 == |
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=== アマチュア時代 === |
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[[鳥取市]]の[[吉岡温泉]]で[[旅館]]と[[食堂]]を経営していた家庭の、男ばかり三兄弟の末子として生まれる<ref name="base_19900514_109">「プロフェッショナルの『原風景』 3回 川口和久 『だれよりも長く野球をやりたい』すべてのはじまりはそこからだった」『[[週刊ベースボール]]』、1990年5月14日号、P.109</ref>。兄たちの影響もあって早くから[[野球]]を始め、[[鳥取市立湖南学園小学校|湖南小学校]]4年生で少年野球チームに入った<ref name="base_19900514_110">『週刊ベースボール』、1990年5月14日号、P.110</ref>。当初は[[一塁手]]だったが6年生で[[投手]]になり、[[鳥取市立湖南学園中学校|湖南中学校]]では市大会で優勝する原動力となった<ref name="base_19900514_110"/>。味方がエラーをしても怒らずに慰めるなど、冷静な投手だったという<ref name="base_19900514_110"/>。 |
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[[吉岡温泉]]で食堂を経営していた家の、男ばかり三兄弟の末子として生を受ける。[[鳥取城北高等学校|鳥取城北高校]]時は速球派投手として注目されるが、[[全国高等学校野球選手権大会|夏の選手権大会]]・[[選抜高等学校野球大会|春の選抜大会]]にはともに縁がなかった(ただし、2年生時の{{by|1976年}}に[[明治神宮野球大会]]に出場した)。[[1977年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1977年のドラフト会議]]で[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]から6位指名を受けるがプロ入りせず、[[社会人野球]]チームの[[デュプロ硬式野球部|デュプロ]]に進む。 |
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速球派投手として注目され県内の各高校野球部から誘いを受けたが、[[鳥取城北高等学校|鳥取城北高校]]に進学<ref name="mainichi_20120223">毎日新聞、2012年2月23日付朝刊、鳥取地方面</ref>。1年生秋の鳥取県大会で3位に入って[[明治神宮野球大会]]に出場し、1回戦で関東代表の[[作新学院中等部・高等学校|作新学院]]に1対3で敗れた<ref name="mainichi_20120223"/>。これをきっかけに県外遠征も増え、2年生となった{{by|1976年}}の春季中国大会では[[黒田真二]]を擁して[[第48回選抜高等学校野球大会|同年の選抜大会]]で優勝した[[崇徳中学校・高等学校|崇徳高校]]を8回まで1失点に抑える好投を見せ、敗れはしたもののプロの[[スカウト_(勧誘)|スカウト]]から注目を集めるようになった<ref name="mainichi_20120223"/>。同年の[[全国高等学校野球選手権鳥取大会|夏の県大会]]では優勝候補と見られていたが[[四球]]を連発して2回戦で敗れ、大きなショックを受けて野球に対する考え方が厳しくなったという<ref name="base_19900514_110"/>。 |
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当時のデュプロは、プロのスカウトが全く注目していない無名チームだったが、人伝に川口の噂を聞いた広島スカウトの[[木庭教]]は一目見てその才能に惚れ込み、他のチームのスカウトが目をつけていない事を知ると指名を約束、交換条件としてドラフト会議まで怪我をしている事にして投げないで欲しいと要請した。このため、社会人時代は試合に出ても全力投球をしなかった。 |
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3年生になると[[日本プロ野球|NPB]]の10球団から獲得を打診され<ref name="base_19900514_111">『週刊ベースボール』、1990年5月14日号、P.111</ref>、[[1977年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1977年のドラフト会議]]で[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]から6位指名を受けた。プロ志望だったため入団を周囲から勧められたが「まだ自信がない」として断り<ref name="base_19900514_111"/>、高校野球部の監督と同じ[[鳥取県立鳥取西高等学校|鳥取西高]]のOBが監督と部長を務める[[社会人野球]]の[[デュプロ硬式野球部|デュプロ]]に進んだ<ref name="base_19900514_108">『週刊ベースボール』、1990年5月14日号、P.108</ref>。なお、ロッテからは契約金3,500万円を提示されていたという<ref name="mainichi_19990114">毎日新聞、1999年1月14日付朝刊、P.26</ref>。 |
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そして[[1980年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1980年のドラフト会議]]当日、[[広島東洋カープ]]が1位指名([[原辰徳]]のハズレ1位)。よもや自社の選手が1位指名されるなど予想していなかったデュプロは、急遽記者会見場を用意。会見場に現れた川口は、作業服にトンボ眼鏡、見るからに線の細い技術者のような姿でとても野球選手とは見えず、誰もこの後の成長を予感、期待していなかった。 |
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しかし当時のデュプロは自社のグラウンドがないなど環境は厳しく<ref name="base_19900514_108"/>、平日は朝から夕方まで自動車を運転して営業の業務を行ない、野球の練習は夜の2時間半だけだった<ref name="sponichi_web">[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_10march/KFullNormal20100301184.html スポニチ日めくりプロ野球10年3月【3月11日】1981年(昭56) 強心臓のドラフト1位川口和久 4イニングで2勝]</ref>。入社2年目の{{by|1979年}}には初先発の対[[パナソニック野球部|松下電器]]戦でバスターの構えから[[本塁打]]を打たれて自信をなくし、高校時代にヒザを痛めていたのに走り込みを強要されそうになった事もあり、一時は退部を真剣に検討した<ref name="base_19900514_108"/>。しかし翌年までプロ入りできないため、もう1年続けることを決めたという<ref name="base_19900514_108"/>。地区大会などで好投して注目を集めた<ref name="base_19900514_108"/>が、[[広島東洋カープ|広島]]入りを希望しているという噂を聞いて視察したスカウトの[[木庭教]]から高い評価を受け、「ドラフトで指名するので、注目を避けるため故障という事にして1年間投げないでほしい」と頼まれた<ref name="asahi_19980218">朝日新聞、1998年2月18日付夕刊、P.3</ref>。[[横浜DeNAベイスターズ|大洋]]の監督の[[別当薫]]が来た時も痛みをアピールし、これによって故障を信じる関係者が増えたという<ref name="asahi_19980218"/>。[[1980年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1980年のドラフト]]で、[[原辰徳]]を抽選で外した広島から1位指名を受け、契約金と年俸それぞれ3,300万円、360万円(いずれも推定)で入団契約を結んだ<ref>読売新聞、1980年12月8日付朝刊、P.17</ref>。 |
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入団2年目の{{by|1982年}}にプロ初勝利を挙げるものの、2年目までは制球に苦しみ、一軍と二軍の往復が続いていたが、3年目の{{by|1983年}}春、臨時コーチで招かれた[[長谷川良平]]から、コントロールを意識したノーワインドアップ投法ではなく、入団時のワインドアップ投法に戻すように指示されたことが転機となり、同年から[[先発ローテーション]]投手として一軍に定着。この時長谷川からは、「ノーワインドアップだと上体に頼り過ぎ、肩・肘を痛める。制球難は気にせず荒れ球は味方にすればよい」と助言されたと言われている。<!---デイリースポーツ 広島版10面 2007年10月10日---> |
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{{by|1984年}}、同年に日本一になった広島と、前年にワールド・チャンピオンになった[[ボルチモア・オリオールズ]]とで[[日米野球]]が行われた。その第1戦に先発し、6被安打10奪三振の快投で完封勝利を収めている。 |
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プロ1年目の{{by|1981年}}はオープン戦から落ち着いたマウンドさばきを監督の[[古葉竹識]]に評価されていた<ref name="sponichi_web"/>。すぐに一軍に登録され自信を持っていたが、初登板となった4月10日の対[[中日ドラゴンズ|中日]]戦で左打者相手に起用されながら[[二塁打]]を打たれ、二軍で調整したいと志願した<ref name="base_19981214_156">「去りゆく男たちへの賛歌 川口和久(巨人) 最後のマウンド」『週刊ベースボール』、1998年12月14日号、P.156</ref>。これは却下されたが、6月頃にはキャッチボールを見ていた[[山本浩二]]に投球フォームのクセから全ての球種をあっという間に看破され、恐怖を感じたという<ref name="base_19981214_156"/>。同月の対[[阪神タイガース|阪神]]戦で投手の[[山本和行]]に満塁本塁打を打たれて二軍落ちし、[[大下剛史]]や[[大石清]]によって徹底的に走らされた<ref name="base_19900514_111"/>。 |
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一方で厳しい練習を乗り越えた事で自信がつき<ref name="base_19900514_111"/>、入団2年目の{{by|1982年}}は7月8日に一軍に昇格して7月15日には[[急性腰痛症|ギックリ腰]]の[[福士敬章]]に代わって[[先発投手|先発]]を任され、この試合でプロ初勝利を挙げた<ref name="base_19981214_156"/>。9月2日の対中日戦では4安打[[完封]]で初完投勝利を達成する<ref>読売新聞、1982年9月3日付朝刊、P.17</ref>など、同年は15試合に登板して4勝を挙げ[[防御率]]は1.94となっている。同年オフは前年に続きアメリカの教育リーグに参加した<ref name="asahi_19841028"/>。 |
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球威のある速球と落差の大きいカーブを武器に三振の山を築き上げ、[[最多奪三振]]のタイトルを{{by|1987年}}、{{by|1989年}}、{{by|1991年}}と3度獲得。[[北別府学]]、[[大野豊 (野球)|大野豊]]らと共に1980年代の広島『投手王国』の一翼を担い、又、[[リチャード・ギア]]似の甘いマスクの持ち主でありながらそれに似合わぬ強気なピッチングで、女性人気も高かった。しかし制球に難があり、シーズン最多暴投を記録したこともある他、かつては通算暴投数の[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]記録保持者でもあった。 |
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3年目の{{by|1983年}}春、臨時コーチで招かれた[[長谷川良平]]から、コントロールを意識したノーワインドアップ投法ではなく、入団時のワインドアップ投法に戻すように指示されたことが転機となり、同年から[[先発ローテーション]]投手として一軍に定着。この時長谷川からは、「ノーワインドアップだと上体に頼り過ぎ、肩・肘を痛める。制球難は気にせず荒れ球は味方にすればよい」と助言されたという<ref>デイリースポーツ、2007年10月10日付朝刊、広島版、P.10</ref>。6月には初の[[月間MVP_(日本プロ野球)|月間MVP]]を受賞している<ref>朝日新聞、1983年7月7日付朝刊、P.19</ref>。[[1983年のオールスターゲーム_(日本プロ野球)|オールスターゲーム]]に初出場を果たし、登板した第2戦では[[門田博光]]から三振を奪ったものの[[落合博満]]に本塁打を打たれている<ref>[http://bis.npb.or.jp/scores/allstargame/boxscore1983_2.html 日本野球機構 1983年度オールスター・ゲーム 試合結果(第2戦)]</ref>。ペナントレース終盤まで[[読売ジャイアンツ|巨人]]を追うチームにあって9月3日の直接対決では188球を投げて完投勝利を挙げ<ref>朝日新聞、1983年9月4日付朝刊、P.17</ref>、中3日の登板となった9月21日の対[[横浜DeNAベイスターズ|大洋]]戦でも完投勝利を挙げた<ref>朝日新聞、1983年9月22日付朝刊、P.18</ref>。 |
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{{by|1984年}}は前年を下回る8勝となったが、チームは[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]優勝を果たした。[[1984年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では第3戦に登板し、初回を3者凡退で切り抜けるとペースをつかみ、シリーズ初登板で完投勝利を挙げている<ref>朝日新聞、1984年10月17日付朝刊、P.17</ref>。しかし第6戦では[[福原峰夫]]に満塁本塁打を打たれるなど、3回途中7失点で敗戦投手になった<ref>[http://bis.npb.or.jp/scores/nipponseries/boxscore1984_6.html 日本野球機構 1984年度日本シリーズ 試合結果(第6戦)]</ref>。チームが日本一となったため。前年の[[ワールドシリーズ|ワールド・チャンピオン]]として来日した[[ボルチモア・オリオールズ]]と[[日米野球]]で対戦し、第1戦に先発して[[カル・リプケン]]や[[エディ・マレー]]らを6被安打10奪三振に抑えて完封勝利を収めている<ref name="asahi_19841028">朝日新聞、1984年10月28日付朝刊、P.17</ref>。最終戦でも再び先発したが、敗戦投手になった<ref>朝日新聞、1984年11月2日付朝刊、P.17</ref>。また、同年に結婚している<ref name="mainichi_19990114"/>。 |
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{{by|1994年}}オフ、広島の球団史上初となる[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]権を行使し、巨人に移籍(関東在住で巨人ファンの義父が重病を患い、妻が看病する必要もあった)。[[広澤克実|広沢克己]]、[[ジャック・ハウエル]]らとの33億円補強で話題となる。移籍当初の{{by|1995年}}は全盛期並みの活躍ができず二軍暮らしが続いたが、当時の[[宮田征典]]二軍投手コーチに[[リリーフ]]転向を打診され、リリーフ投手(クローザー)に転向。以降一軍に定着し、{{by|1996年}}10月6日[[ナゴヤ球場]]最後の公式戦で9回裏2死[[立浪和義]]から奪三振を記録し、[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]優勝の胴上げ投手、[[メークドラマ]]の立役者となった。 |
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{{by|1986年}}は前年優勝した阪神からの5勝<ref>朝日新聞、1986年8月23日付朝刊、P.19</ref>を含め、3年ぶりの二桁勝利となる12勝を記録している。[[1986年のオールスターゲーム_(日本プロ野球)|オールスターゲーム]]にも3年ぶりに出場し、[[広島市民球場_(初代)|広島市民球場]]で開催された第3戦で先発した<ref>[http://bis.npb.or.jp/scores/allstargame/boxscore1986_3.html 日本野球機構 1986年度オールスター・ゲーム 試合結果(第3戦)]</ref>。なお、腰痛のため[[1986年の日本シリーズ|日本シリーズ]]には出場できなかった<ref>読売新聞、1991年10月13日付朝刊、P.19</ref>。オフには800万円増の年俸2,400万円(推定)で契約を更改した<ref>読売新聞、1986年11月26日付朝刊、P.17</ref>。 |
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{{by|1998年}}シーズン限りで現役引退。[[引退試合]]は対広島戦でセレモニーには広島の選手も参加しており、挨拶の際には広島の選手に対してお礼の言葉を述べた。 |
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{{by|1987年}}は6月6日まで無敗で7連勝を挙げる<ref>読売新聞、1987年6月7日付朝刊、P.17</ref>など好調なスタートを切り、シーズンでは初のリーグ最多奪三振を記録している。{{by|1988年}}は[[1988年のオールスターゲーム_(日本プロ野球)|オールスターゲーム]]第3戦で2番手として登板し、3回を1安打無失点、3奪三振に抑えた<ref>[http://bis.npb.or.jp/scores/allstargame/boxscore1988_3.html 日本野球機構 1988年度オールスター・ゲーム 試合結果(第3戦)]</ref>9月に登板した4試合全てで完投勝利を挙げ、特に9月15日の対巨人戦では1安打完封の好投を見せ、2度目の月間MVPを受賞した<ref>読売新聞、1988年10月7日付朝刊、P.19</ref>。日米野球では第3戦に先発したが、2回4失点で敗戦投手となっている<ref>読売新聞、1988年11月9日付朝刊、P.19</ref>。{{by|1989年}}も4月に月間MVPに選ばれ、オフを挟んで2ヶ月連続の受賞となった。シーズンでは2年ぶりにリーグ最多奪三振を記録した。 |
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ストレートとカーブの比率からカーブを見逃されるケースが増えたため、[[スライダー_(球種)|スライダー]]を覚え<ref name="base_20050606_16">「プロが明かす球種のツボ 変化球奥義 変化球はこう投げる! 川崎憲次郎×川口和久」『週刊ベースボール』、2005年6月6日号、P.16</ref>、{{by|1991年}}はシーズン通算230奪三振を記録して同年タイトルとして制定された[[最多奪三振]]を獲得するなど、チームのリーグ優勝に貢献した。[[1991年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では前日に[[佐々岡真司]]がノックアウトされてターニングポイントとなった第2戦に先発し<ref name="Number_19911120">「天国と地獄を見た男 川口和久」『Sports Graphic Number』、1991年11月20日号、P.46</ref>、[[オレステス・デストラーデ]]に2ランホームランを打たれたものの8回まで被安打3、2失点の内容で勝利投手となっている。監督の山本浩二はシリーズの流れを引き寄せるため、シーズン中は1度もなかった中3日の間隔で川口を第5戦の先発として起用した<ref name="Number_19911120"/>。川口もこれを意気に感じて104球を投げて8回無失点の好投を見せ、シリーズMVPの最有力候補とも言われた<ref name="Number_19911120"/>。しかしリリーフとして登板した第6戦では同点の6回2死満塁から[[鈴木康友]]に2点タイムリー、第7戦では5回1死3塁から[[平野謙_(野球)|平野謙]]と[[田辺徳雄]]に決勝タイムリーを打たれている<ref name="Number_19911120"/>。先発での好投が評価され、シリーズ敢闘賞を受賞した。契約更改では1,750万円増の年俸7,550万円(推定)となっている<ref>読売新聞、1991年12月21日付朝刊、P.17</ref>。 |
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{{by|1992年}}は6月まで2勝8敗と成績が低迷し<ref>毎日新聞、1992年7月5日付朝刊、P.23</ref>、速球を打たれることが多く<ref>読売新聞、1992年8月31日付朝刊、P.23</ref>シーズンでも6年連続で達成していた二桁勝利が途切れ、オフの契約更改では自身初のダウンとなる350万円減の年俸7,200万円(推定)となっている<ref>毎日新聞、1992年12月3日付朝刊、P.21</ref>。また、同年は日米野球に出場して第3戦で[[デーブ・ホリンズ]]と[[シェーン・マック]]に本塁打を打たれて敗戦投手となった<ref>毎日新聞、1992年11月2日付朝刊、P.17</ref>。{{by|1993年}}は6月に急性左ひじ関節炎で一軍登録を抹消され<ref>毎日新聞、1993年6月28日付朝刊、P.15</ref>、シーズン終盤には左手人差し指が血行障害となっている<ref>朝日新聞、1994年3月28日付朝刊、P.17</ref>。なお同年に[[フリーエージェント (日本プロ野球)|フリーエージェント]]の権利を獲得したが、行使せずに年俸8,000万円(推定)で契約を更改した<ref>毎日新聞、1993年11月24日付朝刊、P.17</ref>。 |
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{{by|1994年}}は開幕から勝ち星を上げられず7連敗して一時は先発ローテーションを外れる<ref>朝日新聞、1994年6月20日、P.23</ref>など成績が低迷したが、7月以降は7勝3敗と調子を取り戻した<ref>朝日新聞、1994年9月1日付朝刊、P.27</ref>。一方で、前年に難治性の[[悪性腫瘍|ガン]]で倒れた[[日野市]]に住む妻の父の容態が9月に悪化し、東京に移住して看病したいと妻が強く訴えた<ref name="mainichi_19990114"/><ref name="yomiuri_19981002">読売新聞、1998年10月2日付朝刊、P.23</ref>。川口自身は第2の故郷となった広島に愛着があり、師匠のような存在の[[大野豊_(野球)|大野豊]]をはじめとする同僚と離れる事に抵抗があったという<ref name="mainichi_19990114"/>。しかし毎晩のように話し合いを重ね、遠征が続く生活を長年送ってさらに離れて生活したくないと考えた事もあり、悩んだ末に手続きの期限である11月8日の夜になって球団へFA権の行使を連絡した<ref name="mainichi_19990114"/>。これは広島の球団史上初のFA権行使となったが、11月10日に川口と会談した広島の球団常務は「気持よく送り出したい」と話し、慰留はしなかった<ref name="yomiuri_19941111">毎日新聞、1994年11月11日付朝刊、P,24</ref>。また、この時点ですでに巨人や阪神が獲得の意志を広島側に伝えている<ref name="yomiuri_19941111"/>。 |
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プレースタイルなどが知られていない[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]でプレーするメリットなども考えて[[埼玉西武ライオンズ|西武]]へ入団するつもりだったが、監督の[[長嶋茂雄]]から直接誘われた事もあって巨人に入団した<ref name="base_19981214_157">『週刊ベースボール』、1998年12月14日号、P.157</ref>。巨人側にとっては[[宮本和知]]しかいなかった左の先発投手を補強できる点<ref>毎日新聞、1995年1月24日付朝刊、P.17</ref>や、前年に巨人から4勝を挙げていた苦手投手との対戦がなくなる点<ref name="base_19981214_157"/>などを評価されていた。なお、[[広澤克実|広沢克己]]に続いてFAによる巨人への入団が決まった事で、同じくFA宣言をして去就を取り沙汰された[[工藤公康]]の巨人入りの可能性がなくなった事が報じられている<ref>朝日新聞、1994年11月20日付朝刊、P.27</ref>。移籍にともない、年俸は2,000万円増の1億円(推定)となった<ref>朝日新聞、1994年12月6日付朝刊、P.23</ref>。一方で、週刊誌などでは「一桁勝利が3年続いており、FA移籍による高年俸の獲得を狙った」と皮肉的な論調の記事が書かれていた<ref name="mainichi_19990114"/>。妻の父は移籍を喜んだ後、1995年の3月に逝去している<ref name="yomiuri_19981002"/>。 |
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しかし左の先発の柱として期待された{{by|1995年}}は4勝に終わり、{{by|1996年}}も4月から不振で5月に先発ローテーションから外され、6月上旬まで二軍で調整を行なっていた<ref name="base_19991004_19">「D vs. G 歓喜の追憶 長嶋巨人のメークドラマを完結させた男 川口和久 96年リーグ優勝の胴上げ投手」『週刊ベースボール』、1999年10月4日号、P.19</ref>。この間に引退も考えたが、二軍投手コーチの[[宮田征典]]に誘われて[[リリーフ]]に転向した<ref name="base_19981214_157"/>。先発は8月10日の対中日戦が最後となった<ref name="yomiuri_19960928">読売新聞、1996年9月28日付夕刊、P.7</ref>ものの、7月から8月にかけて負け試合の救援登板で安定した投球を見せ、リードしている場面での起用が増えていった<ref name="base_19991004_21">『週刊ベースボール』、1999年10月4日号、P.21</ref>。リリーフでは防御率1点台前半の好成績を残し、9月24日にはプロ16年目にして初の[[セーブ]]を記録している<ref name="base_19991004_21"/>。[[メークドラマ]]に向かって調子を上げたチームにあって同じ左投げの[[河野博文]]とともにリリーフの軸となった<ref name="yomiuri_19960928"/>。10月6日の対中日戦では9回裏2死で[[立浪和義]]から奪三振を記録し、自身初の胴上げ投手となった<ref name="base_19991004_21"/>。[[1996年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では第1戦、第2戦、第5戦の3試合に登板し、計4回2/3を無失点で終えている<ref>[http://bis.npb.or.jp/scores/nipponseries/linescore1996.html 日本野球機構 1996年度日本シリーズ 試合結果]</ref>。 |
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{{by|1997年}}からは古傷である腰や左足の痛みなどから二軍での調整が増え、[[趙成ミン|趙成珉]]や[[小野仁]]ら若手選手に投球や心構えについての助言を送っていた<ref name="yomiuri_19981002"/>。{{by|1998年}}シーズン限りで現役引退。[[引退試合]]となった10月3日の対広島戦では、挨拶の際にセレモニーに参加した広島の選手に対して礼を述べた。 |
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=== 引退後 === |
=== 引退後 === |
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引退後 |
引退直後の1998年から[[TBSテレビ|TBS]]の[[おはようクジラ]]にコメンテーターとしてレギュラー出演し<ref name="base_19981214_158">『週刊ベースボール』、1998年12月14日号、P.158</ref>、同局との契約は[[2009年]]まで続き[[2010年]]からはCS・ラジオに出演している。{{by|1999年}}には7月31日の広島市民球場における公式戦で[[始球式]]を行なった<ref>毎日新聞、1999年6月29日付朝刊、広島地方面</ref>。[[中国放送]]で野球解説者を務める傍ら、[[プロ野球マスターズリーグ]]では札幌アンビシャスに所属した。またタレントとしてテレビやラジオに出演したり、趣味である[[競艇]]の解説も行ったりするなど様々な方面で活動している。 |
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{{by|2005年}}には故郷の鳥取県で[[加藤伸一]]らとともに[[クラブチーム (社会人野球)|社会人野球クラブチーム]]の設立に携わり、12月8日に[[鳥取キタロウズ]]が誕生すると総監督に就任した<ref>朝日新聞社、2005年12月25日付朝刊、鳥取地方面</ref>。1年間務めた後、解説者などの仕事との両立が難しく十分に指導する時間が取れないとして辞任を申し出た<ref name="mainichi_20070204">毎日新聞、2005年2月4日付朝刊、鳥取地方面</ref>。球団からは慰留されたが2007年1月に了承され、関係者からはチームを盛り上げた事wo感謝されている<ref name="mainichi_20070204"/>。 |
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== プレースタイル == |
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一番得意な球種は[[速球|ストレート]]で、そこに同じフォームで投げる[[カーブ_(球種)|カーブ]]や[[スライダー_(球種)|スライダー]]を加えるという投球スタイルが基本だった<ref name="base_20050606_17"/>。制球を改善するとともに球種を見破られないようにするため、リリースポイントを一定に保つ事を重視していた<ref name="base_20050606_14"/>。腕の振りがストレートとカーブやスライダーで全く変わらないため、打者が打ちにくいだけでなく[[捕手]]もキャッチングが難しかったという<ref name="hon_199904_60">『本』、[[講談社]]、1999年4月号、P.60</ref>。このため巨人ではノーサインで川口の投球を捕れる[[達川光男]]のような捕手がおらず、空振りを取っても[[捕逸|パスボール]]になることも数回に上った<ref name="hon_199904_60"/>。 |
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バッテリーを組み始めた頃は達川と全く息が合わず、気分が乗らず試合開始直後にサインに3回連続で首を振って達川を怒らせた事もあった<ref name="hon_199904_60"/>が、投手が塁に出ても[[牽制球]]を投げたりする川口の独特のリズムを尊重し、打者の弱点を攻めるよりも投げやすさを重視するようになって相性が良くなったという<ref name="hon_199905_55">「野球の唯物論 52 達川晃豊vs.川口和久『バッテリ-とは何か』(後編)」『本』、[[講談社]]、1999年5月号、P.55</ref>。このようにムラッ気があり、なんでもないような打者に簡単に四球を出す事がある一方で、強打者に対しては非常に気持の入った投球をして抑えていたという<ref name="hon_199904_60"/>。コントロールが良くないこともあり、2ストライクまでは捕手に大きく構えてもらい、追い込んでからはコースに体ごと構えさせて集中力を高めて勝負に行っていた<ref name="hon_199905_55"/>。 |
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=== 球種 === |
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ストレートについては140[[キロメートル毎時|km/h]]台の球速やコースよりも、思い切り握ってスピンを利かせて手元で伸びるようにする事を心がけたという<ref name="base_19981214_158"/>。ストレートにキレがあるため、狙った場面で確実に[[三振]]を取る力があり<ref name="base_19990621_49">「プロフェッショナルたち 落合博満『球界紳士録』 vol.19 川口和久」『週刊ベースボール』、1999年6月21日号、P.49</ref>、{{by|1987年}}、{{by|1989年}}、{{by|1991年}}の3回にわたってセ・リーグ最多奪三振を記録している。現役だった[[1980年代|1980]]-[[1990年代]]は後年と違い、速球]キレと球威があれば変化球に多少難があっても打者を打ち取れた、と語っている<ref name="base_20050606_13">『週刊ベースボール』、2005年6月6日号、P.13</ref>。 |
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少年時代に目標としていた[[新浦壽夫]]の影響でまずカーブを覚え、続いてスライダー、プロ入り後に縦の変化球として[[フォークボール]]や[[シンカー・スクリューボール|スクリュー]]など、研究熱心で2、3年ごとに新しい球種を習得していた<ref name="base_20050606_13"/><ref name="hon_199905_57>『本』、[[講談社]]、1999年5月号、P.57</ref>。なお、実戦で投げることが変化球の上達には最も重要で<ref name="base_20050606_16"/>、例えばフォークボールは対ヤクルト戦の[[大杉勝男]]の打席で初めて投げたという<ref name="base_20050606_13"/>。 |
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カーブは手の平とボールを離す特徴的な握り方で、リリースの際に中指でボールを潰すような感覚で投げるとスピンのかかりが良かったという<ref name="base_20050606_14"/>。軸足でタメを作る事が重要で、現役晩年はカーブの曲がりが悪化していた<ref name="base_20050606_15"/>。リリースポイントの位置を変えることで、速いカーブと遅いカーブの2種類を投げ分けていた<ref name="base_20050606_15">『週刊ベースボール』、2005年6月6日号、P.15</ref>。左打者に対しては、内角に投げると頭の上で消えるような軌道だったという<ref name="base_19990621_49"/>。 |
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スライダーはカーブと同じ握りで手の平をボールに付け、離す瞬間に手首を斜めに向ける以外はストレートと同じフォームだった<ref name="base_20050606_14"/>。打者からは、ストレートと同じ軌道から曲がって消えるように見えていたという<ref name="base_20050606_16"/>。この球種を習得した事で1991年はリーグトップの230奪三振を記録した<ref name="base_20050606_16"/>が、その後は変化量が落ちていった<ref name="hon_199905_55"/>。 |
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スクリューボールはフォークボールをベースにしており、リリースの際にボールが曲げた人差し指に引っかって外に逃げながら落ちていた<ref name="base_20050606_14"/>。また、中指は縫い目にかけなかったという<ref name="base_20050606_14"/>。右打者に対しては有効だったが左打者には通用しなかったため、[[シュート_(球種)|シュート]]を習得した<ref name="base_20050606_17">『週刊ベースボール』、2005年6月6日号、P.17</ref>。ストレートから少しだけ変えた握りで投げて変化量はわずかだったが、左打者に対しては狭い角度で入ってくるため内角に投げると打球が詰まらせる効果があり、カーブとの組合せが効果的だった<ref name="base_20050606_17"/><ref name="base_19990621_49"/>。 |
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=== 制球 === |
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コントロールが悪かったため、上半身をブレさせないよう下半身でリズムを取ることを意識していた<ref name="base_20050606_14">『週刊ベースボール』、2005年6月6日号、P.14</ref>。シーズン最多[[暴投]]を記録したほか、{{by|1994年}}には通算暴投数の[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]記録(従来は[[権藤正利]]の69)を更新している<ref>読売新聞、1994年7月11日付夕刊、P.10</ref>。一方、[[四球]]を含めて球数が多いもののリズムが良いため試合時間は短く、守備についている[[野手]]の集中力が切れなかったという<ref name="hon_199904_61">『本』、[[講談社]]、1999年4月号、P.61</ref>。[[落合博満]]からは、10四球を出して150球以上投げても完投勝利を挙げるようなタイプと評されている<ref name="base_19990621_49"/>。 |
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四球を続けて満塁になって次の打者にも0-3となるような事も少なくなかったが、そこからは粘り強く点を簡単に与えないなど、普通の打者とは四球の意味が違うと達川光男は語っている<ref name="hon_199904_59">「野球の唯物論 51 達川晃豊vs.川口和久『バッテリ-とは何か』(前編)」『本』、[[講談社]]、1999年4月号、P.59</ref>。また、一般的に投手が不利とされる2-3や1-3の[[ボールカウント]]を非常にうまく使うと評されていた<ref name="base_20040705_25">『週刊ベースボール』、2004年7月5日号、P.25</ref>。打者が高確率で打ってくるこれらのカウントでも腕をしっかり振って投げるため、ボール球でもスイングさせたり、甘いコースでも力が入って打ち損じとなる事があったという<ref name="base_20040705_25"/>。 |
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=== 先発 === |
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1年間を通じて[[先発ローテーション]]を守るため、体力をつけるとともに二軍での調整も視野に入れて不調の時期をなるべく短くすることを心がけていた<ref name="base_20070813_22">「スターターの美学 川口和久が語るスターター論 『2ケタ勝利をクリアして初めて先発投手の称号が与えられる』」『週刊ベースボール』、2007年8月13日号、P.22</ref>。 |
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毎年2桁勝利を挙げることを先発のノルマとして捉え、ペナントレースが6ヶ月のため毎月2勝という目標をクリアするために月の初めの登板で勝つ事に全力を注いだ<ref name="base_20070813_22"/>。ここで勝つと残りの試合は非常に気が楽になったという<ref name="base_20070813_22"/>。 |
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先発では[[完投]]を常に念頭に置き、5回までは全力で投げて以降は毎回先頭打者を出さないよう注意し、8、9回は1人ずつ抑えていく事を重視していたという<ref name="base_19981214_158"/><ref name="base_20040705_24">「投球術 勝ちをつかむ『1球の攻防』 川口和久×槙原寛己」『週刊ベースボール』、2004年7月5日号、P.24</ref>。打者1巡目はストレートを軸にカウントを整えて2巡目はカーブに切り替え、持ち球の中で比重を変えながら配球を組み立てていた<ref name="base_20040705_24"/>。また、先頭打者については試合を通じて出塁を防ぐことを意識していた<ref name="base_20070813_22"/>。立ち上がりを苦手として3回までに何度もピンチとなったが、そこを乗り越えるとスムーズに勝利に向かうことが多かったという<ref name="base_20070813_22"/>。 |
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巨人移籍後に先発を外れた時は現役を辞めようとも思い、リリーフ転向後も1球ずつ全力で投げるなどのリズムをつかむのに1ヶ月かかった<ref name="yomiuri_19960928"/>。「警戒する打者にはボール球で入って、四球になれば次の打者と勝負」という先発での投球スタイルが通じないため、苦手な打者でも大胆に勝負する事を心がけたという<ref name="yomiuri_19960928"/>。負け試合を整えていくことは難しかったが、中継ぎや抑えを経験したことは長期的にプラスになったという<ref name="base_19981214_158"/>。 |
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=== 落合博満との対戦 === |
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落合博満との対戦成績は118打数32安打で、打率.271、6本塁打、15打点と特別に良くはなかったが、落合からは「プロで唯一の精神的な[[天敵]]」というほどの苦手意識を持たれていた<ref name="base_19990621_49"/>。ボールを呼び込む打撃スタイルが左投手と相性が悪かった事に加え、速球のキレとコントロールの水準が一試合を通じて高く、投球パターンを研究しても投球の途中で球種を変えられてしまい、深く考えず本能的に立ち向かうしかなかったという<ref name="base_19990621_49"/>。また川口が全盛期に[[イチロー]]と対戦していれば、シーズンを通じて抑えられる可能性が最も高い投手だっただろう、と語っている<ref name="base_19990621_49"/>。 |
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一方、川口自身も落合との対戦は一試合を通じた駆け引きなどが非常に面白かったと述べている<ref name="base_20040705_27">『週刊ベースボール』、2004年7月5日号、P.27</ref>。普通に勝負すると打たれるため、1球1球を大事にして伏線を使いながら抑えようとし、勝負の過程を互いに堪能していた<ref name="base_20040705_27"/>。 |
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{{by|2005年}}12月8日、故郷・鳥取県に[[クラブチーム (社会人野球)|社会人野球クラブチーム]]の「[[鳥取キタロウズ]]」が設立され、県内出身のプロ野球選手のなかでも高い知名度があり、総監督に就任したが一年あまりで退任した。 |
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* [[広島東洋カープの選手一覧]] |
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* [[読売ジャイアンツの選手一覧]] |
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2013年3月11日 (月) 10:14時点における版
読売ジャイアンツ コーチ #71 | |
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2012年5月13日、こまちスタジアムにて | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 鳥取県鳥取市 |
生年月日 | 1959年7月8日(65歳) |
身長 体重 |
183 cm 75 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投両打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1980年 ドラフト1位 |
初出場 | 1981年4月10日 |
最終出場 | 1998年10月3日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
コーチ歴 | |
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この表について
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川口 和久(かわぐち かずひさ、1959年7月8日 - )は、鳥取県鳥取市出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者。2011年からは読売ジャイアンツの投手総合コーチを務める。
来歴・人物
アマチュア時代
鳥取市の吉岡温泉で旅館と食堂を経営していた家庭の、男ばかり三兄弟の末子として生まれる[1]。兄たちの影響もあって早くから野球を始め、湖南小学校4年生で少年野球チームに入った[2]。当初は一塁手だったが6年生で投手になり、湖南中学校では市大会で優勝する原動力となった[2]。味方がエラーをしても怒らずに慰めるなど、冷静な投手だったという[2]。
速球派投手として注目され県内の各高校野球部から誘いを受けたが、鳥取城北高校に進学[3]。1年生秋の鳥取県大会で3位に入って明治神宮野球大会に出場し、1回戦で関東代表の作新学院に1対3で敗れた[3]。これをきっかけに県外遠征も増え、2年生となった1976年の春季中国大会では黒田真二を擁して同年の選抜大会で優勝した崇徳高校を8回まで1失点に抑える好投を見せ、敗れはしたもののプロのスカウトから注目を集めるようになった[3]。同年の夏の県大会では優勝候補と見られていたが四球を連発して2回戦で敗れ、大きなショックを受けて野球に対する考え方が厳しくなったという[2]。
3年生になるとNPBの10球団から獲得を打診され[4]、1977年のドラフト会議でロッテオリオンズから6位指名を受けた。プロ志望だったため入団を周囲から勧められたが「まだ自信がない」として断り[4]、高校野球部の監督と同じ鳥取西高のOBが監督と部長を務める社会人野球のデュプロに進んだ[5]。なお、ロッテからは契約金3,500万円を提示されていたという[6]。
しかし当時のデュプロは自社のグラウンドがないなど環境は厳しく[5]、平日は朝から夕方まで自動車を運転して営業の業務を行ない、野球の練習は夜の2時間半だけだった[7]。入社2年目の1979年には初先発の対松下電器戦でバスターの構えから本塁打を打たれて自信をなくし、高校時代にヒザを痛めていたのに走り込みを強要されそうになった事もあり、一時は退部を真剣に検討した[5]。しかし翌年までプロ入りできないため、もう1年続けることを決めたという[5]。地区大会などで好投して注目を集めた[5]が、広島入りを希望しているという噂を聞いて視察したスカウトの木庭教から高い評価を受け、「ドラフトで指名するので、注目を避けるため故障という事にして1年間投げないでほしい」と頼まれた[8]。大洋の監督の別当薫が来た時も痛みをアピールし、これによって故障を信じる関係者が増えたという[8]。1980年のドラフトで、原辰徳を抽選で外した広島から1位指名を受け、契約金と年俸それぞれ3,300万円、360万円(いずれも推定)で入団契約を結んだ[9]。
プロ野球選手時代
プロ1年目の1981年はオープン戦から落ち着いたマウンドさばきを監督の古葉竹識に評価されていた[7]。すぐに一軍に登録され自信を持っていたが、初登板となった4月10日の対中日戦で左打者相手に起用されながら二塁打を打たれ、二軍で調整したいと志願した[10]。これは却下されたが、6月頃にはキャッチボールを見ていた山本浩二に投球フォームのクセから全ての球種をあっという間に看破され、恐怖を感じたという[10]。同月の対阪神戦で投手の山本和行に満塁本塁打を打たれて二軍落ちし、大下剛史や大石清によって徹底的に走らされた[4]。
一方で厳しい練習を乗り越えた事で自信がつき[4]、入団2年目の1982年は7月8日に一軍に昇格して7月15日にはギックリ腰の福士敬章に代わって先発を任され、この試合でプロ初勝利を挙げた[10]。9月2日の対中日戦では4安打完封で初完投勝利を達成する[11]など、同年は15試合に登板して4勝を挙げ防御率は1.94となっている。同年オフは前年に続きアメリカの教育リーグに参加した[12]。
3年目の1983年春、臨時コーチで招かれた長谷川良平から、コントロールを意識したノーワインドアップ投法ではなく、入団時のワインドアップ投法に戻すように指示されたことが転機となり、同年から先発ローテーション投手として一軍に定着。この時長谷川からは、「ノーワインドアップだと上体に頼り過ぎ、肩・肘を痛める。制球難は気にせず荒れ球は味方にすればよい」と助言されたという[13]。6月には初の月間MVPを受賞している[14]。オールスターゲームに初出場を果たし、登板した第2戦では門田博光から三振を奪ったものの落合博満に本塁打を打たれている[15]。ペナントレース終盤まで巨人を追うチームにあって9月3日の直接対決では188球を投げて完投勝利を挙げ[16]、中3日の登板となった9月21日の対大洋戦でも完投勝利を挙げた[17]。
1984年は前年を下回る8勝となったが、チームはセ・リーグ優勝を果たした。日本シリーズでは第3戦に登板し、初回を3者凡退で切り抜けるとペースをつかみ、シリーズ初登板で完投勝利を挙げている[18]。しかし第6戦では福原峰夫に満塁本塁打を打たれるなど、3回途中7失点で敗戦投手になった[19]。チームが日本一となったため。前年のワールド・チャンピオンとして来日したボルチモア・オリオールズと日米野球で対戦し、第1戦に先発してカル・リプケンやエディ・マレーらを6被安打10奪三振に抑えて完封勝利を収めている[12]。最終戦でも再び先発したが、敗戦投手になった[20]。また、同年に結婚している[6]。
1986年は前年優勝した阪神からの5勝[21]を含め、3年ぶりの二桁勝利となる12勝を記録している。オールスターゲームにも3年ぶりに出場し、広島市民球場で開催された第3戦で先発した[22]。なお、腰痛のため日本シリーズには出場できなかった[23]。オフには800万円増の年俸2,400万円(推定)で契約を更改した[24]。
1987年は6月6日まで無敗で7連勝を挙げる[25]など好調なスタートを切り、シーズンでは初のリーグ最多奪三振を記録している。1988年はオールスターゲーム第3戦で2番手として登板し、3回を1安打無失点、3奪三振に抑えた[26]9月に登板した4試合全てで完投勝利を挙げ、特に9月15日の対巨人戦では1安打完封の好投を見せ、2度目の月間MVPを受賞した[27]。日米野球では第3戦に先発したが、2回4失点で敗戦投手となっている[28]。1989年も4月に月間MVPに選ばれ、オフを挟んで2ヶ月連続の受賞となった。シーズンでは2年ぶりにリーグ最多奪三振を記録した。
ストレートとカーブの比率からカーブを見逃されるケースが増えたため、スライダーを覚え[29]、1991年はシーズン通算230奪三振を記録して同年タイトルとして制定された最多奪三振を獲得するなど、チームのリーグ優勝に貢献した。日本シリーズでは前日に佐々岡真司がノックアウトされてターニングポイントとなった第2戦に先発し[30]、オレステス・デストラーデに2ランホームランを打たれたものの8回まで被安打3、2失点の内容で勝利投手となっている。監督の山本浩二はシリーズの流れを引き寄せるため、シーズン中は1度もなかった中3日の間隔で川口を第5戦の先発として起用した[30]。川口もこれを意気に感じて104球を投げて8回無失点の好投を見せ、シリーズMVPの最有力候補とも言われた[30]。しかしリリーフとして登板した第6戦では同点の6回2死満塁から鈴木康友に2点タイムリー、第7戦では5回1死3塁から平野謙と田辺徳雄に決勝タイムリーを打たれている[30]。先発での好投が評価され、シリーズ敢闘賞を受賞した。契約更改では1,750万円増の年俸7,550万円(推定)となっている[31]。
1992年は6月まで2勝8敗と成績が低迷し[32]、速球を打たれることが多く[33]シーズンでも6年連続で達成していた二桁勝利が途切れ、オフの契約更改では自身初のダウンとなる350万円減の年俸7,200万円(推定)となっている[34]。また、同年は日米野球に出場して第3戦でデーブ・ホリンズとシェーン・マックに本塁打を打たれて敗戦投手となった[35]。1993年は6月に急性左ひじ関節炎で一軍登録を抹消され[36]、シーズン終盤には左手人差し指が血行障害となっている[37]。なお同年にフリーエージェントの権利を獲得したが、行使せずに年俸8,000万円(推定)で契約を更改した[38]。
1994年は開幕から勝ち星を上げられず7連敗して一時は先発ローテーションを外れる[39]など成績が低迷したが、7月以降は7勝3敗と調子を取り戻した[40]。一方で、前年に難治性のガンで倒れた日野市に住む妻の父の容態が9月に悪化し、東京に移住して看病したいと妻が強く訴えた[6][41]。川口自身は第2の故郷となった広島に愛着があり、師匠のような存在の大野豊をはじめとする同僚と離れる事に抵抗があったという[6]。しかし毎晩のように話し合いを重ね、遠征が続く生活を長年送ってさらに離れて生活したくないと考えた事もあり、悩んだ末に手続きの期限である11月8日の夜になって球団へFA権の行使を連絡した[6]。これは広島の球団史上初のFA権行使となったが、11月10日に川口と会談した広島の球団常務は「気持よく送り出したい」と話し、慰留はしなかった[42]。また、この時点ですでに巨人や阪神が獲得の意志を広島側に伝えている[42]。
プレースタイルなどが知られていないパ・リーグでプレーするメリットなども考えて西武へ入団するつもりだったが、監督の長嶋茂雄から直接誘われた事もあって巨人に入団した[43]。巨人側にとっては宮本和知しかいなかった左の先発投手を補強できる点[44]や、前年に巨人から4勝を挙げていた苦手投手との対戦がなくなる点[43]などを評価されていた。なお、広沢克己に続いてFAによる巨人への入団が決まった事で、同じくFA宣言をして去就を取り沙汰された工藤公康の巨人入りの可能性がなくなった事が報じられている[45]。移籍にともない、年俸は2,000万円増の1億円(推定)となった[46]。一方で、週刊誌などでは「一桁勝利が3年続いており、FA移籍による高年俸の獲得を狙った」と皮肉的な論調の記事が書かれていた[6]。妻の父は移籍を喜んだ後、1995年の3月に逝去している[41]。
しかし左の先発の柱として期待された1995年は4勝に終わり、1996年も4月から不振で5月に先発ローテーションから外され、6月上旬まで二軍で調整を行なっていた[47]。この間に引退も考えたが、二軍投手コーチの宮田征典に誘われてリリーフに転向した[43]。先発は8月10日の対中日戦が最後となった[48]ものの、7月から8月にかけて負け試合の救援登板で安定した投球を見せ、リードしている場面での起用が増えていった[49]。リリーフでは防御率1点台前半の好成績を残し、9月24日にはプロ16年目にして初のセーブを記録している[49]。メークドラマに向かって調子を上げたチームにあって同じ左投げの河野博文とともにリリーフの軸となった[48]。10月6日の対中日戦では9回裏2死で立浪和義から奪三振を記録し、自身初の胴上げ投手となった[49]。日本シリーズでは第1戦、第2戦、第5戦の3試合に登板し、計4回2/3を無失点で終えている[50]。
1997年からは古傷である腰や左足の痛みなどから二軍での調整が増え、趙成珉や小野仁ら若手選手に投球や心構えについての助言を送っていた[41]。1998年シーズン限りで現役引退。引退試合となった10月3日の対広島戦では、挨拶の際にセレモニーに参加した広島の選手に対して礼を述べた。
引退後
引退直後の1998年からTBSのおはようクジラにコメンテーターとしてレギュラー出演し[51]、同局との契約は2009年まで続き2010年からはCS・ラジオに出演している。1999年には7月31日の広島市民球場における公式戦で始球式を行なった[52]。中国放送で野球解説者を務める傍ら、プロ野球マスターズリーグでは札幌アンビシャスに所属した。またタレントとしてテレビやラジオに出演したり、趣味である競艇の解説も行ったりするなど様々な方面で活動している。
2005年には故郷の鳥取県で加藤伸一らとともに社会人野球クラブチームの設立に携わり、12月8日に鳥取キタロウズが誕生すると総監督に就任した[53]。1年間務めた後、解説者などの仕事との両立が難しく十分に指導する時間が取れないとして辞任を申し出た[54]。球団からは慰留されたが2007年1月に了承され、関係者からはチームを盛り上げた事wo感謝されている[54]。
2009年、2010年にはジャイアンツの宮崎春季キャンプにて臨時投手コーチを勤め、2011年シーズンより投手総合コーチに就任した[55]。
プレースタイル
一番得意な球種はストレートで、そこに同じフォームで投げるカーブやスライダーを加えるという投球スタイルが基本だった[56]。制球を改善するとともに球種を見破られないようにするため、リリースポイントを一定に保つ事を重視していた[57]。腕の振りがストレートとカーブやスライダーで全く変わらないため、打者が打ちにくいだけでなく捕手もキャッチングが難しかったという[58]。このため巨人ではノーサインで川口の投球を捕れる達川光男のような捕手がおらず、空振りを取ってもパスボールになることも数回に上った[58]。
バッテリーを組み始めた頃は達川と全く息が合わず、気分が乗らず試合開始直後にサインに3回連続で首を振って達川を怒らせた事もあった[58]が、投手が塁に出ても牽制球を投げたりする川口の独特のリズムを尊重し、打者の弱点を攻めるよりも投げやすさを重視するようになって相性が良くなったという[59]。このようにムラッ気があり、なんでもないような打者に簡単に四球を出す事がある一方で、強打者に対しては非常に気持の入った投球をして抑えていたという[58]。コントロールが良くないこともあり、2ストライクまでは捕手に大きく構えてもらい、追い込んでからはコースに体ごと構えさせて集中力を高めて勝負に行っていた[59]。
球種
ストレートについては140km/h台の球速やコースよりも、思い切り握ってスピンを利かせて手元で伸びるようにする事を心がけたという[51]。ストレートにキレがあるため、狙った場面で確実に三振を取る力があり[60]、1987年、1989年、1991年の3回にわたってセ・リーグ最多奪三振を記録している。現役だった1980-1990年代は後年と違い、速球]キレと球威があれば変化球に多少難があっても打者を打ち取れた、と語っている[61]。
少年時代に目標としていた新浦壽夫の影響でまずカーブを覚え、続いてスライダー、プロ入り後に縦の変化球としてフォークボールやスクリューなど、研究熱心で2、3年ごとに新しい球種を習得していた[61][62]。なお、実戦で投げることが変化球の上達には最も重要で[29]、例えばフォークボールは対ヤクルト戦の大杉勝男の打席で初めて投げたという[61]。
カーブは手の平とボールを離す特徴的な握り方で、リリースの際に中指でボールを潰すような感覚で投げるとスピンのかかりが良かったという[57]。軸足でタメを作る事が重要で、現役晩年はカーブの曲がりが悪化していた[63]。リリースポイントの位置を変えることで、速いカーブと遅いカーブの2種類を投げ分けていた[63]。左打者に対しては、内角に投げると頭の上で消えるような軌道だったという[60]。
スライダーはカーブと同じ握りで手の平をボールに付け、離す瞬間に手首を斜めに向ける以外はストレートと同じフォームだった[57]。打者からは、ストレートと同じ軌道から曲がって消えるように見えていたという[29]。この球種を習得した事で1991年はリーグトップの230奪三振を記録した[29]が、その後は変化量が落ちていった[59]。
スクリューボールはフォークボールをベースにしており、リリースの際にボールが曲げた人差し指に引っかって外に逃げながら落ちていた[57]。また、中指は縫い目にかけなかったという[57]。右打者に対しては有効だったが左打者には通用しなかったため、シュートを習得した[56]。ストレートから少しだけ変えた握りで投げて変化量はわずかだったが、左打者に対しては狭い角度で入ってくるため内角に投げると打球が詰まらせる効果があり、カーブとの組合せが効果的だった[56][60]。
制球
コントロールが悪かったため、上半身をブレさせないよう下半身でリズムを取ることを意識していた[57]。シーズン最多暴投を記録したほか、1994年には通算暴投数のセ・リーグ記録(従来は権藤正利の69)を更新している[64]。一方、四球を含めて球数が多いもののリズムが良いため試合時間は短く、守備についている野手の集中力が切れなかったという[65]。落合博満からは、10四球を出して150球以上投げても完投勝利を挙げるようなタイプと評されている[60]。
四球を続けて満塁になって次の打者にも0-3となるような事も少なくなかったが、そこからは粘り強く点を簡単に与えないなど、普通の打者とは四球の意味が違うと達川光男は語っている[66]。また、一般的に投手が不利とされる2-3や1-3のボールカウントを非常にうまく使うと評されていた[67]。打者が高確率で打ってくるこれらのカウントでも腕をしっかり振って投げるため、ボール球でもスイングさせたり、甘いコースでも力が入って打ち損じとなる事があったという[67]。
先発
1年間を通じて先発ローテーションを守るため、体力をつけるとともに二軍での調整も視野に入れて不調の時期をなるべく短くすることを心がけていた[68]。 毎年2桁勝利を挙げることを先発のノルマとして捉え、ペナントレースが6ヶ月のため毎月2勝という目標をクリアするために月の初めの登板で勝つ事に全力を注いだ[68]。ここで勝つと残りの試合は非常に気が楽になったという[68]。
先発では完投を常に念頭に置き、5回までは全力で投げて以降は毎回先頭打者を出さないよう注意し、8、9回は1人ずつ抑えていく事を重視していたという[51][69]。打者1巡目はストレートを軸にカウントを整えて2巡目はカーブに切り替え、持ち球の中で比重を変えながら配球を組み立てていた[69]。また、先頭打者については試合を通じて出塁を防ぐことを意識していた[68]。立ち上がりを苦手として3回までに何度もピンチとなったが、そこを乗り越えるとスムーズに勝利に向かうことが多かったという[68]。
巨人移籍後に先発を外れた時は現役を辞めようとも思い、リリーフ転向後も1球ずつ全力で投げるなどのリズムをつかむのに1ヶ月かかった[48]。「警戒する打者にはボール球で入って、四球になれば次の打者と勝負」という先発での投球スタイルが通じないため、苦手な打者でも大胆に勝負する事を心がけたという[48]。負け試合を整えていくことは難しかったが、中継ぎや抑えを経験したことは長期的にプラスになったという[51]。
落合博満との対戦
落合博満との対戦成績は118打数32安打で、打率.271、6本塁打、15打点と特別に良くはなかったが、落合からは「プロで唯一の精神的な天敵」というほどの苦手意識を持たれていた[60]。ボールを呼び込む打撃スタイルが左投手と相性が悪かった事に加え、速球のキレとコントロールの水準が一試合を通じて高く、投球パターンを研究しても投球の途中で球種を変えられてしまい、深く考えず本能的に立ち向かうしかなかったという[60]。また川口が全盛期にイチローと対戦していれば、シーズンを通じて抑えられる可能性が最も高い投手だっただろう、と語っている[60]。
一方、川口自身も落合との対戦は一試合を通じた駆け引きなどが非常に面白かったと述べている[70]。普通に勝負すると打たれるため、1球1球を大事にして伏線を使いながら抑えようとし、勝負の過程を互いに堪能していた[70]。
記録など
広島時代は巨人キラーとしても活躍、対巨人戦33勝31敗を記録している。巨人戦で30勝以上している投手のうち勝ち越しを記録している選手は星野仙一、平松政次、川口の3人だけである。同時に阪神キラーでもあり、1983年には阪神戦4試合連続完封勝利を記録、1987年は5勝0敗、1988年は5勝1敗の好成績を挙げるなど、広島時代だけで巨人戦を上回る通算34勝(21敗)を記録した。また巨人移籍後に阪神から2勝を挙げており、対阪神戦の生涯成績は36勝21敗となる。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1981 | 広島 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 44 | 11.0 | 8 | 3 | 5 | 0 | 0 | 12 | 0 | 0 | 7 | 7 | 5.73 | 1.18 |
1982 | 15 | 11 | 1 | 1 | 0 | 4 | 5 | 0 | -- | .444 | 301 | 69.2 | 57 | 1 | 34 | 0 | 1 | 50 | 3 | 0 | 23 | 15 | 1.94 | 1.31 | |
1983 | 33 | 32 | 14 | 4 | 0 | 15 | 10 | 0 | -- | .600 | 920 | 218.2 | 189 | 23 | 104 | 1 | 8 | 166 | 2 | 1 | 87 | 71 | 2.92 | 1.34 | |
1984 | 24 | 22 | 5 | 1 | 0 | 8 | 6 | 0 | -- | .571 | 522 | 123.1 | 110 | 16 | 59 | 0 | 3 | 104 | 5 | 0 | 64 | 58 | 4.23 | 1.37 | |
1985 | 31 | 21 | 5 | 2 | 0 | 9 | 9 | 0 | -- | .500 | 627 | 143.2 | 150 | 15 | 62 | 3 | 2 | 116 | 4 | 0 | 73 | 70 | 4.39 | 1.48 | |
1986 | 24 | 24 | 6 | 1 | 0 | 12 | 9 | 0 | -- | .571 | 711 | 164.2 | 153 | 17 | 63 | 7 | 2 | 145 | 6 | 0 | 61 | 55 | 3.01 | 1.31 | |
1987 | 27 | 27 | 8 | 2 | 0 | 12 | 11 | 0 | -- | .522 | 756 | 183.1 | 154 | 21 | 62 | 8 | 2 | 184 | 1 | 0 | 67 | 60 | 2.95 | 1.18 | |
1988 | 27 | 25 | 8 | 2 | 1 | 13 | 10 | 0 | -- | .565 | 794 | 190.2 | 155 | 15 | 72 | 4 | 7 | 179 | 11 | 0 | 61 | 54 | 2.55 | 1.19 | |
1989 | 26 | 26 | 11 | 2 | 1 | 12 | 7 | 0 | -- | .632 | 851 | 208.1 | 167 | 18 | 73 | 8 | 6 | 192 | 8 | 0 | 65 | 58 | 2.51 | 1.15 | |
1990 | 29 | 29 | 11 | 2 | 0 | 11 | 13 | 0 | -- | .458 | 895 | 208.2 | 187 | 26 | 87 | 3 | 5 | 180 | 6 | 0 | 101 | 92 | 3.97 | 1.31 | |
1991 | 29 | 29 | 8 | 2 | 0 | 12 | 8 | 0 | -- | .600 | 840 | 205.0 | 169 | 16 | 82 | 4 | 3 | 230 | 10 | 0 | 70 | 66 | 2.90 | 1.22 | |
1992 | 26 | 26 | 9 | 2 | 1 | 8 | 12 | 0 | -- | .400 | 766 | 183.0 | 168 | 18 | 65 | 0 | 2 | 156 | 5 | 0 | 79 | 68 | 3.34 | 1.27 | |
1993 | 25 | 25 | 7 | 3 | 0 | 8 | 11 | 0 | -- | .421 | 722 | 162.2 | 167 | 15 | 74 | 2 | 3 | 128 | 5 | 0 | 71 | 64 | 3.54 | 1.48 | |
1994 | 27 | 22 | 3 | 1 | 0 | 7 | 10 | 0 | -- | .412 | 631 | 139.1 | 142 | 18 | 93 | 1 | 1 | 96 | 5 | 0 | 74 | 73 | 4.72 | 1.69 | |
1995 | 巨人 | 17 | 17 | 2 | 0 | 0 | 4 | 6 | 0 | -- | .400 | 396 | 91.2 | 90 | 12 | 37 | 1 | 3 | 66 | 2 | 0 | 47 | 45 | 4.42 | 1.39 |
1996 | 29 | 11 | 0 | 0 | 0 | 1 | 4 | 3 | -- | .200 | 331 | 76.1 | 68 | 8 | 33 | 5 | 6 | 62 | 4 | 0 | 28 | 25 | 2.95 | 1.32 | |
1997 | 22 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 3 | 1 | -- | .500 | 81 | 16.1 | 23 | 3 | 7 | 0 | 1 | 17 | 1 | 0 | 20 | 18 | 9.92 | 1.84 | |
1998 | 17 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 62 | 13.2 | 15 | 1 | 9 | 1 | 0 | 9 | 1 | 1 | 8 | 7 | 4.61 | 1.76 | |
通算:18年 | 435 | 347 | 98 | 25 | 3 | 139 | 135 | 4 | -- | .507 | 10250 | 2410.0 | 2172 | 246 | 1021 | 48 | 55 | 2092 | 79 | 2 | 1006 | 906 | 3.38 | 1.32 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- 最多奪三振:3回 (1987年、1989年、1991年) ※セントラル・リーグでは、1991年より表彰
表彰
記録
- オールスターゲーム出場:6回 (1983年、1986年 - 1990年)
- 初記録
- 初登板:1981年4月10日、対中日ドラゴンズ1回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に4番手で救援登板・完了、3回3失点
- 初奪三振:同上、7回裏に平野謙から
- 初先発・初勝利:1982年7月15日、対横浜大洋ホエールズ14回戦(横浜スタジアム)、6回1失点
- 初完投勝利・初完封勝利:1982年9月2日、対中日ドラゴンズ24回戦(広島市民球場)
- 初セーブ:1996年9月24日、対広島東洋カープ26回戦(東京ドーム)、7回表に2番手で救援登板・完了、3回無失点
- 節目の記録
- 1000投球回数:1988年7月7日、対阪神タイガース13回戦(広島市民球場)、5回表3死目に達成
- 1000奪三振:1989年6月8日、対ヤクルトスワローズ10回戦(広島市民球場)、2回表に角富士夫から ※史上79人目
- 1500投球回数:1990年9月22日、対読売ジャイアンツ24回戦(東京ドーム)、6回裏2死目に達成
- 100勝:1991年6月16日、対読売ジャイアンツ14回戦(広島市民球場)、完封勝利 ※史上102人目
- 1500奪三振:1991年9月7日、対読売ジャイアンツ23回戦(東京ドーム)、4回裏に岡崎郁から ※史上34人目
- 2000投球回数:1993年7月15日、対読売ジャイアンツ16回戦(札幌市円山球場)、3回裏3死目に達成 ※史上71人目
- 2000奪三振:1995年9月27日、対横浜ベイスターズ10回戦(東京ドーム)、3回表に波留敏夫から ※史上14人目
背番号
- 34 (1981年 - 1994年)
- 25 (1995年 - 1998年)
- 71 (2011年 - )
著作等
- 著書
- 『反逆の左腕』(ネコ・パブリッシング) ISBN 4873662419
- 『投球論』(講談社現代新書) ISBN 4061494600
- DVD
- 川口和久の右脳的ピッチング術 (スポーツDVDのRealStyle) JAN 4562277739756
- 出演番組
- ザ・プロ野球(地上波は1999年から2009年まで、2010年からはTBSニュースバード、横浜ベイスターズホームゲーム中継のみの出演)
- TBSラジオ エキサイトベースボール
- RCCカープナイター
- HBCファイターズナイター(2003年~2006年)
- ビッグウイング(2001年)第2話ゲスト
- 競馬場の達人(2010年7月11日放送)
出典
- ^ 「プロフェッショナルの『原風景』 3回 川口和久 『だれよりも長く野球をやりたい』すべてのはじまりはそこからだった」『週刊ベースボール』、1990年5月14日号、P.109
- ^ a b c d 『週刊ベースボール』、1990年5月14日号、P.110
- ^ a b c 毎日新聞、2012年2月23日付朝刊、鳥取地方面
- ^ a b c d 『週刊ベースボール』、1990年5月14日号、P.111
- ^ a b c d e 『週刊ベースボール』、1990年5月14日号、P.108
- ^ a b c d e f 毎日新聞、1999年1月14日付朝刊、P.26
- ^ a b スポニチ日めくりプロ野球10年3月【3月11日】1981年(昭56) 強心臓のドラフト1位川口和久 4イニングで2勝
- ^ a b 朝日新聞、1998年2月18日付夕刊、P.3
- ^ 読売新聞、1980年12月8日付朝刊、P.17
- ^ a b c 「去りゆく男たちへの賛歌 川口和久(巨人) 最後のマウンド」『週刊ベースボール』、1998年12月14日号、P.156
- ^ 読売新聞、1982年9月3日付朝刊、P.17
- ^ a b 朝日新聞、1984年10月28日付朝刊、P.17
- ^ デイリースポーツ、2007年10月10日付朝刊、広島版、P.10
- ^ 朝日新聞、1983年7月7日付朝刊、P.19
- ^ 日本野球機構 1983年度オールスター・ゲーム 試合結果(第2戦)
- ^ 朝日新聞、1983年9月4日付朝刊、P.17
- ^ 朝日新聞、1983年9月22日付朝刊、P.18
- ^ 朝日新聞、1984年10月17日付朝刊、P.17
- ^ 日本野球機構 1984年度日本シリーズ 試合結果(第6戦)
- ^ 朝日新聞、1984年11月2日付朝刊、P.17
- ^ 朝日新聞、1986年8月23日付朝刊、P.19
- ^ 日本野球機構 1986年度オールスター・ゲーム 試合結果(第3戦)
- ^ 読売新聞、1991年10月13日付朝刊、P.19
- ^ 読売新聞、1986年11月26日付朝刊、P.17
- ^ 読売新聞、1987年6月7日付朝刊、P.17
- ^ 日本野球機構 1988年度オールスター・ゲーム 試合結果(第3戦)
- ^ 読売新聞、1988年10月7日付朝刊、P.19
- ^ 読売新聞、1988年11月9日付朝刊、P.19
- ^ a b c d 「プロが明かす球種のツボ 変化球奥義 変化球はこう投げる! 川崎憲次郎×川口和久」『週刊ベースボール』、2005年6月6日号、P.16
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- ^ 読売新聞、1991年12月21日付朝刊、P.17
- ^ 毎日新聞、1992年7月5日付朝刊、P.23
- ^ 読売新聞、1992年8月31日付朝刊、P.23
- ^ 毎日新聞、1992年12月3日付朝刊、P.21
- ^ 毎日新聞、1992年11月2日付朝刊、P.17
- ^ 毎日新聞、1993年6月28日付朝刊、P.15
- ^ 朝日新聞、1994年3月28日付朝刊、P.17
- ^ 毎日新聞、1993年11月24日付朝刊、P.17
- ^ 朝日新聞、1994年6月20日、P.23
- ^ 朝日新聞、1994年9月1日付朝刊、P.27
- ^ a b c 読売新聞、1998年10月2日付朝刊、P.23
- ^ a b 毎日新聞、1994年11月11日付朝刊、P,24
- ^ a b c 『週刊ベースボール』、1998年12月14日号、P.157
- ^ 毎日新聞、1995年1月24日付朝刊、P.17
- ^ 朝日新聞、1994年11月20日付朝刊、P.27
- ^ 朝日新聞、1994年12月6日付朝刊、P.23
- ^ 「D vs. G 歓喜の追憶 長嶋巨人のメークドラマを完結させた男 川口和久 96年リーグ優勝の胴上げ投手」『週刊ベースボール』、1999年10月4日号、P.19
- ^ a b c d 読売新聞、1996年9月28日付夕刊、P.7
- ^ a b c 『週刊ベースボール』、1999年10月4日号、P.21
- ^ 日本野球機構 1996年度日本シリーズ 試合結果
- ^ a b c d 『週刊ベースボール』、1998年12月14日号、P.158
- ^ 毎日新聞、1999年6月29日付朝刊、広島地方面
- ^ 朝日新聞社、2005年12月25日付朝刊、鳥取地方面
- ^ a b 毎日新聞、2005年2月4日付朝刊、鳥取地方面
- ^ 読売新聞、2010年11月2日付朝刊、P.19
- ^ a b c 『週刊ベースボール』、2005年6月6日号、P.17
- ^ a b c d e f 『週刊ベースボール』、2005年6月6日号、P.14
- ^ a b c d 『本』、講談社、1999年4月号、P.60
- ^ a b c 「野球の唯物論 52 達川晃豊vs.川口和久『バッテリ-とは何か』(後編)」『本』、講談社、1999年5月号、P.55
- ^ a b c d e f g 「プロフェッショナルたち 落合博満『球界紳士録』 vol.19 川口和久」『週刊ベースボール』、1999年6月21日号、P.49
- ^ a b c 『週刊ベースボール』、2005年6月6日号、P.13
- ^ 『本』、講談社、1999年5月号、P.57
- ^ a b 『週刊ベースボール』、2005年6月6日号、P.15
- ^ 読売新聞、1994年7月11日付夕刊、P.10
- ^ 『本』、講談社、1999年4月号、P.61
- ^ 「野球の唯物論 51 達川晃豊vs.川口和久『バッテリ-とは何か』(前編)」『本』、講談社、1999年4月号、P.59
- ^ a b 『週刊ベースボール』、2004年7月5日号、P.25
- ^ a b c d e 「スターターの美学 川口和久が語るスターター論 『2ケタ勝利をクリアして初めて先発投手の称号が与えられる』」『週刊ベースボール』、2007年8月13日号、P.22
- ^ a b 「投球術 勝ちをつかむ『1球の攻防』 川口和久×槙原寛己」『週刊ベースボール』、2004年7月5日号、P.24
- ^ a b 『週刊ベースボール』、2004年7月5日号、P.27
関連項目
外部リンク
- ジャパン・スポーツ・マ・[ケティング
- 川口和久の右脳的ピッチング術 (DVD) (RealStyle、2010年)