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「桑名藩」の版間の差分

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== 藩史 ==
== 藩史 ==
=== 前史 ===
[[ファイル:Honda Tadakatu.jpg|thumb|300px|初代藩主[[本多忠勝]]]]
[[ファイル:Takigawa Kazumasu.png|thumb|[[滝川一益]]]]
[[天正]]18年([[1590年]])の[[小田原の役]]後、伊勢を支配していた[[織田信雄]]は、[[豊臣秀吉]]の[[駿河国|駿河]]転封を拒絶して[[改易]]され、伊勢は豊臣家臣が分散して入封することになったが、桑名にはかつて[[西美濃三人衆]]として[[織田信長]]の下で勇名を轟かせた[[氏家直元]]の次男・[[氏家行広]]が2万2000石で入った。[[慶長]]5年([[1600年]])9月、[[関ヶ原の戦い]]で行広は西軍に与して桑名城を守備したが、西軍が敗れて壊滅したため、戦後に[[徳川家康]]によって改易された。
桑名は中世より「十楽の津」と呼ばれ、商人の港町と交易の中心地として発展した<ref name="桑名藩1">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P1</ref>。永正12年([[1515年]])頃の[[連歌]]師・[[宗長]]の手記では「港の広さが5、6町。寺々家々の数が数千軒、停泊する数千艘の船の明かりが川に映って、星のきらめくように見える」とある<ref name="桑名藩1"/>。


伊勢国はやがて[[織田信長]]の支配下に入り、桑名には信長の家臣・[[滝川一益]]が入るが、一益は[[長島城]]を修築して居城としたため、桑名城は家臣が守備した<ref name="桑名藩20">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P20</ref>。滝川は信長没後に[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]と対立して没落し([[賤ヶ岳の戦い]])、信長の次男・[[織田信雄]]の支配下に入る。[[天正]]18年([[1590年]])の[[小田原征伐]]後、伊勢国を支配していた信雄は、秀吉の[[駿河国|駿河]]転封の命令を拒絶して[[改易]]され、伊勢国は豊臣家臣が分散して入封することになった。桑名には天正19年([[1591年]])に秀吉の家臣・[[一柳直盛]]が入封し、規模は小さいが築城も行なわれている<ref name="桑名藩20"/>。[[文禄]]4年([[1595年]])からはかつての[[西美濃三人衆]]として信長の下で勇名を轟かせた[[氏家直元]]の次男・[[氏家行広]]が2万2,000石で入った<ref name="桑名藩20"/>。[[慶長]]5年([[1600年]])9月、[[関ヶ原の戦い]]で行広は西軍に与して桑名城を守備したが、西軍が敗れて壊滅したため、戦後に[[徳川家康]]によって改易された<ref name="桑名藩20"/>。
慶長6年([[1601年]])1月1日、[[上総国|上総]][[大多喜藩]]より家康譜代の重臣・[[本多忠勝]]が10万石で入ったことにより、桑名藩が立藩する。忠勝は[[徳川四天王]]の1人としてその武名を天下に轟かせた猛者であり、[[武田信玄]]や信長らからも賞賛された武将で、桑名藩の歴代藩主の中で最も有名な人物である。忠勝は関ヶ原では本戦に参加して武功を挙げるなど、武勇ばかりが際立って目立つが、藩政では大規模な町割りや城郭の増改築などを積極的に行ない、実質的に桑名藩政を確立した名君でもあった。慶長14年([[1609年]])、忠勝の嫡男・[[本多忠政]]が第2代藩主となり、[[大坂の陣]]にも参加して武功を挙げたため、西国の抑えとして[[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]])7月14日に[[播磨国|播磨]][[姫路藩]]に移封された。


=== 本多家(忠勝系)の時代 ===
代わって家康の異父弟である[[松平定勝]]が、[[山城国|山城]][[伏見藩]]から11万石で入った。元和6年([[1620年]])には[[長島藩|伊勢長島領]]7000石を与えられて11万7000石となる。定勝の後を継いだ第2代藩主・[[松平定行]]は、[[寛永]]元年([[1624年]])に7000石を弟の[[松平定房]]に分与したため、再び11万石となった。定行は水道の設置、城下における湿地の開拓による三崎新田の開発などに尽力したが、寛永12年([[1635年]])7月28日に[[伊予松山藩]]に移封された。
[[ファイル:Honda Tadakatu.jpg|thumb|初代藩主[[本多忠勝]]]]
慶長6年([[1601年]])1月1日、[[上総国|上総]][[大多喜藩]]より家康譜代の重臣・[[本多忠勝]]が10万石で入ったことにより、桑名藩が立藩する<ref name="桑名藩1"/><ref name="桑名藩12">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P12</ref>。忠勝は[[徳川四天王]]の1人としてその武名を天下に轟かせた猛者であり、[[武田信玄]]や織田信長らからも賞賛された武将で、桑名藩の歴代藩主の中で最も有名な人物である。忠勝は関ヶ原の戦いでは本戦に参加して武功を挙げるなど、武勇ばかりが際立って目立つが、藩政では「慶長の町割り」と呼ばれる大規模な町割りや城郭の増改築などを積極的に行って<ref name="桑名藩1"/>、今日まで続く桑名市街の基礎となり<ref name="桑名藩17">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P17</ref>、さらに[[東海道]]宿場の整備も行なわれて<ref name="桑名藩22">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P22</ref>、実質的に桑名藩政を確立した名君でもあった。


慶長14年([[1609年]])、忠勝は[[隠居]]して嫡男・[[本多忠政]]が第2代藩主となる<ref name="桑名藩18">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P18</ref>。[[大坂の陣]]では徳川方の先鋒として参戦し<ref name="桑名藩18"/>、大坂方の[[薄田兼相]]や[[毛利勝永]]らと激戦を繰り広げた<ref name="桑名藩19">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P19</ref>。また大坂の陣後、家康の孫娘で[[豊臣秀頼]]の正室であった[[千姫]]と忠政嫡男の[[本多忠刻]]が婚姻したこともあり、[[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]])7月14日に忠政は先の武功により西国の押さえとして[[播磨国|播磨]][[姫路藩]]15万石に加増移封され<ref name="桑名藩2">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P2</ref><ref name="桑名藩19"/><ref name="桑名藩30">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P30</ref>、忠刻は千姫の脂粉料として10万石を([[姫路新田藩]])、忠刻の実弟・[[本多政朝]]が5万石をそれぞれ与えられて播磨に移封となった<ref name="桑名藩30"/>。
このため、[[美濃国|美濃]][[大垣藩]]より定行の弟・[[松平定綱]]が11万3000石で入る。定綱も新田開発や水利の整備、家臣団編成などに尽力した。しかし桑名は洪水が相次ぐ場所で、[[慶安]]3年([[1650年]])の大洪水では6万4000石もの被害をもたらす大惨事となった。その後、第4代藩主・[[松平定良]]を経て第5代藩主となった[[松平定重]]は、53年にわたって桑名を支配するという長期政権であったが、この時代には天災が相次ぎ、家臣の減給やリストラが頻繁に行なわれた。このため、定重は8石3人扶持の小者であった[[野村増右衛門]]を郡代に抜擢し、藩政の再建に敏腕を振るった。これは大成功だったのだが、譜代の無能な家臣団の嫉視を買い、[[宝永]]7年([[1710年]])5月29日に野村は死罪に処された([[野村騒動]])。そしてこの騒動が幕府にも知られるところとなり、閏8月15日に定重は[[越後国|越後]][[高田藩]]に懲罰的な移封を命じられた。


=== 久松松平家の時代(第一期) ===
次に藩主となったのは、[[奥平氏|奥平松平家]]の当主・[[松平忠雅]]で、[[備後国|備後]][[備後福山藩|福山藩]]から10万石で入った。第3代藩主・[[松平忠啓]]時代の[[天明]]2年([[1782年]])に洪水が起こって被害が大きく、それに連鎖して年貢減免を求める百姓一揆も起こる始末だった。第4代藩主・[[松平忠功]]や第5代藩主・[[松平忠和 (桑名藩主)|松平忠和]]は[[紀州徳川家]]の出身で、学問の奨励などを中心とした藩政改革を行ない、[[藩校]]の進修館創設の基礎を築いている。第7代藩主・[[松平忠堯]]時代の[[文政]]6年([[1823年]])3月24日、[[武蔵国|武蔵]][[忍藩]]に移封を命じられるが、これに反対する一揆も起こるほどだった。
本多家に代わって家康の異父弟である[[松平定勝]]が、[[山城国|山城]][[伏見藩]]5万石から6万石加増の11万石で入った<ref name="桑名藩35">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P35</ref>。元和6年([[1620年]])には[[長島藩|伊勢長島領]]7,000石を与えられて11万7,000石となる<ref name="桑名藩35"/>。定勝は[[寛永]]元年([[1624年]])3月14日に死去し、第2代藩主は次男の[[松平定行]]が継いだ<ref name="桑名藩35"/>。この際に7,000石を弟の[[松平定房]]に分与したため<ref name="桑名藩35"/>、再び11万石となった。定行は水道の設置<ref name="桑名藩36">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P36</ref>、上水道(町屋御用水)工事、城下における湿地の開拓による三崎新田の開発などに尽力したが、寛永12年([[1635年]])7月28日に15万石に加増された上で[[伊予松山藩]]に移封された<ref name="桑名藩36"/>。


このため、[[美濃国|美濃]][[大垣藩]]6万石<ref name="桑名藩39">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P39</ref>より定行の弟・[[松平定綱]]が11万3,000石に加増されて入る<ref name="桑名藩38">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P38</ref>。定綱も新田開発や水利の整備、家臣団編成などに尽力し名君としての誉れが高く、実際の桑名藩祖は定綱であるともいわれており、実際に鎮国公、鎮国大明神として祭られている<ref name="桑名藩38"/>。しかし桑名は洪水が相次ぐ場所で、[[慶安]]3年([[1650年]])の大洪水では6万4,000石もの被害をもたらす大惨事となった。
代わって、[[陸奥国|陸奥]][[白河藩]]から[[松平定永]]が白河藩の[[飛び地]]である越後国[[柏崎]]の所領と共に合計11万石で入った。定永の久松松平家は、かつて桑名藩主であった定重の系統である。定永は[[寛政の改革]]を行なった[[松平定信]]の嫡男であり、この移封は隠居の定信が桑名の港の利権を求めて嘆願したものともいわれる。しかし定永の後に藩主となった第2代藩主・[[松平定和]]や第3代藩主・[[松平定猷]]時代は天災が相次ぎ、藩財政を苦しめた。
[[ファイル:TobaFushimiBattle2.jpg|thumb|300px|[[鳥羽・伏見の戦い]]での戦闘を描いた絵。和装と[[槍]]で[[突撃]]する桑名藩の[[歩兵]]が描かれている。左奥の集団も「桑名兵」とある。]]


慶安4年([[1651年]])12月に定綱は没し、第4代藩主には次男の[[松平定良]]が[[承応]]元年([[1652年]])2月に就任するも、病弱のため[[明暦]]3年([[1657年]])7月に死去した<ref name="桑名藩47">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P47</ref>。このため伊予松山藩より養子として[[松平定重]]が第5代藩主として入る<ref name="桑名藩48">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P48</ref>。この定重は53年にわたって桑名を支配するという長期政権であったが、この時代には天災が相次ぎ、[[天和]]元年([[1681年]])、天和3年([[1683年]])、[[貞享]]3年([[1686年]])、[[元禄]]3年([[1690年]])、元禄8年([[1695年]])、元禄14年([[1701年]])、[[宝永]]4年([[1707年]])と立て続けに水害が発生し、火災においても[[寛文]]5年([[1665年]])、元禄14年(1701年)、元禄15年([[1702年]])、宝永4年(1707年)と発生した<ref name="桑名藩49">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P49</ref>。
本多忠勝が前期の桑名藩主として有名なら、後期の藩主として最も有名なのが、[[幕末]]動乱の時期に第4代藩主となった[[松平定敬]]である。定敬は[[会津藩]]主・[[松平容保]]や[[尾張藩]]主・[[徳川慶勝]]らの実弟であり、佐幕派として行動した人物である。一説では[[坂本龍馬]]暗殺事件は定敬が指示したものともいわれているほど、幕末期では重きを成した人物で、[[京都所司代]]を務めたこともある。[[慶応]]4年([[1868年]])1月、[[鳥羽・伏見の戦い]]で幕府軍の惨敗後、定敬は[[徳川慶喜]]に随行した。このため、桑名藩は藩主不在となり、定猷の実子である[[松平定教]]が第5代藩主として擁立され、定敬には相談せず、無血開城して新政府軍に恭順した。しかし定敬や[[立見尚文|立見鑑三郎]]など一部の藩士は柏崎を拠点として抗戦し、[[江戸]]、[[会津]]、[[函館|箱館]]へと[[戊辰戦争]]を転戦したため、桑名藩は逆賊として取り潰された。


このため家臣の減給やリストラが頻繁に行われたが、定重は8石3人扶持の小者であった[[野村増右衛門]]を郡代に抜擢し、野村は倹約令や新田開発など藩政の再建に敏腕を振るった<ref name="桑名藩64">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P64</ref>。これは大成功だったのだが、譜代の家臣団の嫉視を買い、宝永7年([[1710年]])5月29日に野村は死罪に処された([[野村騒動]])<ref name="桑名藩65">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P65</ref>。そしてこの騒動が幕府にも知られるところとなり、閏8月15日に定重は[[越後国|越後]][[高田藩]]に懲罰的な移封を命じられた<ref name="桑名藩66">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P66</ref>。
明治2年([[1869年]])に定敬が降伏したことや[[大久保利通]]らと親交が厚い同藩出身の[[箏曲師]][[椙村保寿]]の嘆願もあって、8月15日に桑名藩は再興を許され、定教は桑名藩知事に任じられる。ただし所領を11万3000石から6万石に減らされた上であった。明治4年([[1871年]])の[[廃藩置県]]で桑名藩は廃藩となり、[[桑名県]]、[[安濃津県]]を経て三重県に編入されたのである。

=== 奥平松平家の時代 ===
次に藩主となったのは[[奥平氏|奥平松平家]]の当主[[松平忠雅]]で、[[備後福山藩]]から10万石で入った。この奥平松平家は徳川家康の重臣・[[奥平信昌]]と家康の長女・[[亀姫 (徳川家康長女)|亀姫]]との間に生まれた四男・[[松平忠明]]の系統である<ref name="桑名藩69">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P69</ref>。奥平松平家は元禄4年([[1691年]])に忠雅の祖父・[[松平忠弘]]が[[陸奥国|陸奥]][[白河藩]]主だった時に[[白河騒動]]と称される御家騒動を起こして5万石削減と家老の処罰、[[出羽国|出羽]][[山形藩]]への左遷移封など処罰を受けていた家であったが<ref name="桑名藩69"/>、忠弘の跡を継いだ忠雅は中興の名君として学問の振興や寺社の改築などを行なった<ref name="桑名藩70">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P70</ref>。[[延享]]3年([[1746年]])に忠雅は死去し<ref name="桑名藩70"/>、四男の[[松平忠刻]]が第2代藩主を継いだ<ref name="桑名藩71">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P71</ref>。この忠刻の時代に[[宝暦治水]]が行なわれて[[薩摩藩]]では[[平田靭負]]以下病死者32人、自殺者52人を出して幕府と桑名藩に対する怨念が残った<ref name="桑名藩71"/>。忠刻は[[明和]]8年([[1771年]])に隠居し、次男の[[松平忠啓]]が第3代藩主となる<ref name="桑名藩71"/>。この時代には[[天明]]2年([[1782年]])に4度の洪水が起こって被害が大きく、それに連鎖して年貢減免を求める百姓一揆も起こる始末で、藩財政も悪化した<ref name="桑名藩71"/>。

天明6年([[1786年]])に忠啓が死去すると<ref name="桑名藩71"/>、家督は婿養子で[[紀州徳川家]]の出身の[[松平忠功]]が第4代藩主となり、寛政期に学問の奨励を中心とした改革を行なうが病弱のため、[[寛政]]5年([[1793年]])に隠居した<ref name="桑名藩72">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P72</ref>。第5代藩主には忠功の実弟・[[松平忠和 (桑名藩主)|松平忠和]]が継ぎ、学問の振興を行ない[[藩校]]・[[進修館]]を創設した<ref name="桑名藩72"/>。[[享和]]2年([[1802年]])に忠和は死去し<ref name="桑名藩72"/>、家督は越後[[与板藩]]から迎えた婿養子の[[松平忠翼]](ただすけ)が第6代藩主を継いだ<ref name="桑名藩73">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P73</ref>。忠翼は[[文政]]4年([[1821年]])に死去し、長男の[[松平忠堯]]が第7代藩主を継いだ<ref name="桑名藩73"/>。そして文政6年([[1823年]])3月24日、忠堯は[[武蔵国|武蔵]][[忍藩]]に移封を命じられるが、これに反対する一揆も起こるほどだった([[文政桑名農民一揆]]<ref name="桑名藩87">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P87</ref>)<ref name="桑名藩73"/>。これは藩が農民から講金を預かり藩財政の助成に当てていたが、突然の移封命令で返済できぬままに忍に移ろうとしたためで、藩は豪商の山田彦右衛門に肩代わりしてもらって共に忍藩に移った<ref name="桑名藩73"/>。しかし移封準備の最中に一揆が起こったので武士も農民も動揺し<ref name="桑名藩86">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P86</ref>、農民一揆で庄屋は20も襲われ、一揆の鎮定には周囲の藩から援軍を得て鎮定して一揆の首謀者は処刑された<ref name="桑名藩87"/>。この引越しの移動では漬物樽や墓石まで持って引っ越す家族までおり<ref name="桑名藩87"/>、忍に12日〜13日かけてようやく到着しても武士やその家族が住むための家の数が足りず、やむなく共同生活を強いられて人々は桑名時代の愚痴をこぼしたという<ref name="桑名藩87"/>。これは奥平松平家が白河騒動で5万石を削減されていたのに家臣の数を減らしておらず、忍藩主だった阿部家は家臣が391人だったのに対して奥平松平家はその3倍も存在したからであり、藩では大慌てで住居の増設を行なったが、このために奥平松平家は桑名時代の借財から引越し費用、引越し後の費用で合計して10万両以上の借財を築き上げてしまった<ref name="桑名藩88">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P88</ref>。

=== 久松松平家の時代(第二期) ===
[[ファイル:Matsudaira Sadanobu 2.jpg|thumb|移封を望んだ[[松平定信]]]]
==== 三方お得替え ====
代わって陸奥白河藩から[[松平定永]]が白河藩の[[飛び地]]である越後国[[柏崎市|柏崎]]の所領と共に合計11万石で入った<ref name="桑名藩96">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P96</ref>。この久松松平家はかつて桑名藩主であった定重の系統であり、定永は[[寛政の改革]]を行った[[老中]]首座で白河藩主であった[[松平定信]]の嫡男である。この所領替えは隠居していた定信が藩祖・定綱以来の先祖の地である桑名に戻りたいという願望があり<ref name="桑名藩85">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P85</ref>、かつては[[尊号事件]]で定信と対立していた将軍・[[徳川家斉]]も寛政の改革の功労者であり老中であった定信に対する報恩として動いたという<ref name="桑名藩86"/>。これに対して桑名藩主として113年間も就任し、民心も藩政も安定して墳墓もあり、さらに左遷されるような致命的な失政も無かった奥平松平家の藩主・松平忠堯は何とかこの移封命令を撤回してもらおうと裏工作を行なうも、将軍・家斉の力が動いておりどうしようも無かった<ref name="桑名藩85"/>。しかもそれまで忍藩主であり忠堯同様に失政も無く忍に9代155年もいた[[阿部正権]]が白河へ移るという三方替えであったため、江戸では、
* 住み慣れし(阿部正権)忍をたちのきあべこべに、お国替えとはほんに白川
* 忍様はおし流されて白川へ、あとの始末はなんと下総(松平忠堯)
* 白川に古ふんどし(松平定永)の役おとし、今度は桑名でしめる長尺
という落首がはやったという<ref name="桑名藩86"/>。これは松平定信の威光と存在が当時は絶大なものであり、両家は逆らうこともできなかった<ref name="桑名藩86"/>。

この国替えの際、白河藩では家臣一同が大いに喜びあい、赤飯を炊いてお祝いをしたといわれる<ref name="桑名藩89">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P89</ref>。理由は先祖代々の墳墓の地であり故郷に帰還できるためと、寒冷の厳しい白河から温暖で物成もよい桑名であること、京都や大坂に近く東海道の要衝として繁栄していること、桑名には良港があり海の幸の恩恵がありこれは久松松平家にとってはお得替えといわれた<ref name="桑名藩89"/>。ただし白河藩主時代に久松松平家は1万4,000両<ref name="桑名藩92">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P92</ref>、そしてこの移封に伴う諸経費が9万両かかって<ref name="桑名藩91">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P91</ref>借財は10万4,000両になり、藩財政はますます火の車になった<ref name="桑名藩92"/>。

なお、定信自身が望んだ移封であるが、定信本人は高齢のため桑名には来ることなく、文政12年([[1829年]])に72歳で江戸で死去した<ref name="桑名藩96"/>。

==== 定永から定猷までの時代 ====
藩主となった松平定永は藩財政の再建にとりかかり、文政7年([[1824年]])からは10年の期限で藩士の知行を削減した<ref name="桑名藩96"/>。しかし文政12年(1829年)には江戸八丁堀の上屋敷が類焼し、その後も幕府のお手伝い普請を命じられて藩財政はさらに悪化した<ref name="桑名藩97">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P97</ref>。定永は桑名の大商人や大坂商人からの借財と御用金でしのいでいる<ref name="桑名藩97"/>。なお、大坂で発生した[[大塩平八郎の乱]]に触発されて起こった[[生田万の乱]]では、桑名藩領として越後にあった魚沼・刈羽・三島・蒲原など4郡の飛び地を統括する柏崎陣屋が襲撃されており、生田ら6人全員が死亡、桑名藩も3名が死亡している<ref name="桑名藩97"/>。

定永は[[天保]]9年([[1838年]])に死去し、長男の[[松平定和]]が第2代藩主となる<ref name="桑名藩97"/>。定和も財政の再建に努めたが、在任3年足らずで天保12年([[1841年]])に死去した<ref name="桑名藩97"/>。このため定和の長男・[[松平定猷]]が第3代藩主となるが、彼の時代には水害に見舞われた<ref name="桑名藩98">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P98</ref>。幸いにして豊作が続いて藩の米蔵が満杯になり、借財をすることも5年間は無くなった<ref name="桑名藩98"/>。しかし手伝い普請に江戸屋敷の類焼、[[安政の大地震]]による被災と災害が相次ぐ<ref name="桑名藩98"/>。しかもこの定猷の時代に[[幕末]]の激動期に突入し、房総沿岸の警備や京都警備などを任命されて藩財政はますます苦しくなり、その最中で[[安政]]6年([[1859年]])に急死した<ref name="桑名藩98"/>。

なお、桑名藩領は表高は11万石であるが、実高は桑名本領地は8万3,000石(桑名・員弁・朝明・三重)、越後柏崎が5万9,000石の14万石であった<ref name="桑名藩96"/>。また、[[天保の改革]]で[[水野忠邦]]や[[鳥居耀蔵]]に排斥された南町奉行の[[矢部定謙]]は桑名藩に預けられて絶食して憤死している<ref name="桑名藩122">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P122</ref>。

==== 定敬と幕末の動乱 ====
[[ファイル:Matudaira Sadaaki.jpg|thumb|第4代藩主[[松平定敬]]]]
[[ファイル:TobaFushimiBattle2.jpg|thumb|[[鳥羽・伏見の戦い]]での戦闘を描いた絵。和装と[[槍]]で[[突撃]]する桑名藩の[[歩兵]]が描かれている。左奥の集団も「桑名兵」とある]]
[[ファイル:Takasu quartet.jpg|thumb|高須四兄弟(1878年9月撮影)<br/>左から定敬、容保、茂徳、慶勝]]

松平猷(定猷は[[徳川家定]]の時代になると改名していた)の死後、家督は幕末の多事多難のため、嫡子の万之助([[松平定教]])では無理と見られて、美濃[[高洲藩]]から[[松平定敬]]が初姫の婿養子として第4代藩主に就任した<ref name="桑名藩130">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P130</ref>。この定敬は[[御三家]]筆頭の[[尾張藩]]主・[[徳川慶勝]]や[[徳川茂徳]]、[[会津藩]]主・[[松平容保]]や[[石見国|石見]][[浜田藩]]主・[[松平武成]]らの実弟にあたる<ref name="桑名藩131">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P131</ref>。定敬は将軍・[[徳川家茂]]と同じ[[弘化]]3年([[1846年]])生まれであったことから家茂と仲が良く、厚い信任を受けた<ref name="桑名藩133">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P133</ref>。[[元治]]元年([[1864年]])には[[京都所司代]]に任命されるが、この際に若年であるからと拒絶したものの<ref name="桑名藩134">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P134</ref><ref group="注釈">(『[[自歴譜]]』)</ref>、実兄の容保が[[京都守護職]]にあったために拒絶しきれず就任した<ref name="桑名藩135">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P135</ref>。定敬は容保と兄弟のコンビで兄を助けて京都の治安と西国の監視監督を勤めた<ref name="桑名藩135"/>。[[池田屋事件]]や[[禁門の変]]はこの兄弟の時代に起こっている。2回の[[長州征討]]や[[天狗党の乱]]でも京都の守備を勤めた。

だが容保や定敬にとって後ろ盾となっていた[[孝明天皇]]が崩御すると幕府の権力は一気に失墜し<ref name="桑名藩159">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P159</ref>。[[小御所会議]]では[[徳川慶喜]]も定敬も容保も出席を許されない欠席裁判が行なわれて幕府は廃止、次いで[[王政復古の大号令]]が出された<ref name="桑名藩160">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P160</ref>。これにより旧幕府は討薩派、いわゆる主戦派が権限を握り<ref name="桑名藩161">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P161</ref>、[[鳥羽・伏見の戦い]]では会津・桑名の藩兵が主力となって薩摩・長州と激突した<ref name="桑名藩162">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P162</ref>。 兵力では幕府軍が有利であり、さらに桑名では軍制改革が行なわれて近代洋式の軍隊となっていたが、肝心の首脳部が旧態依然とした老職で占められていたために<ref name="桑名藩162"/>、[[新居良次郎]]の奮戦も空しく<ref name="桑名藩165">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P165</ref>、実力を発揮できずに敗れた<ref name="桑名藩162"/>。この時の桑名兵の死者は11名<ref name="桑名藩164">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P164</ref>、 さらに定敬は大坂城まで撤退して大坂城の守りに兵をつかせていたが、徳川慶喜が単身で関東への敵前逃亡を図ると、命令でそれに同行することを余儀なくされた<ref name="桑名藩163">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P163</ref>。

藩主が逃亡し、桑名藩は会津藩と共に朝敵賊軍とされると、本国桑名は大混乱となり、先代・猷の実子である松平定教が第5代藩主として擁立された<ref name="桑名藩170">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P170</ref>。藩内では主戦派と和平派が論争し、和平派の家老・[[酒井孫八郎]]が実権を握って和平に持ち込んだ<ref name="桑名藩171">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P171</ref>。この際、酒井は藩祖の神前で神籤を引くことで桑名城を開城に持ち込んだとされる神前籤引き騒動を起こしている<ref name="桑名藩172">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P172</ref>。ただし、実際問題として定敬が京都所司代として重職にあったために藩の財政は火の車であり<ref name="桑名藩173">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P173</ref>、軍兵も鳥羽・伏見の戦いで敗れて桑名にいたのは老幼兵500名に過ぎず<ref name="桑名藩171"/>、抗戦は不可能に近い状態で、酒井ら和平派は猷の正室であった[[真田氏]]の娘・珠光院を味方にして主戦派を粛清した<ref name="桑名藩173"/>。この際にあくまで降ることを潔しとしない30名ほどが脱藩して定敬のもとに走った<ref name="桑名藩173"/>。桑名城は1月28日<ref name="桑名藩173"/>に無血開城となった<ref name="桑名藩174">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P174</ref>。

一方、江戸に移った定敬は兄の容保と共に抗戦を主張したが、徳川慶喜が恭順派に回った上に自らの責任を定敬と容保らになすりつけて2月10日には遂に2人を登城禁止にする有様であった<ref name="桑名藩174"/>。慶喜にまで見捨てられた定敬は、飛び地である越後柏崎に入って兄の容保と共に抗戦の意を固めた<ref name="桑名藩176">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P176</ref>。この逃亡の際に定敬は会津藩、さらに[[越後長岡藩]]の[[河井継之助]]らと攻守同盟を結んだとされている<ref name="桑名藩177">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P177</ref>。

桑名藩は会津藩など旧幕府軍と共同して[[立見尚文|立見鑑三郎]]など一部の藩士が関東各地を転戦し、[[宇都宮戦争]]でも敗れはしたが奮戦した<ref name="桑名藩178">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P178</ref>。

ところが柏崎では家老の[[吉村権左衛門]]が恭順派として強い権勢を誇っていた<ref name="桑名藩180">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P180</ref>。この吉村は藩祖の松平定綱が5,000石で招いた[[吉村又左衛門]]の子孫である<ref name="桑名藩180"/。当代の彼は800石であったが、定敬から主戦派の[[山脇十左衛門]]を遠ざけてしまった<ref name="桑名藩180"/。さらに吉村が柏崎の全藩士を連れて桑名に戻り恭順しようとする計画を知った定敬は山脇と結託して吉村を暗殺した<ref name="桑名藩181">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P181</ref>。こうして柏崎の桑名兵は主戦派が実権を握り、山脇や立見が中心人物となって雷神隊など4隊が結成された<ref name="桑名藩182">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P182</ref>。この桑名軍は旧幕府軍最強としてその名を轟かせ<ref name="桑名藩183">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P183</ref>、旧態依然とした家老らを排除して能力優先の革新的な軍隊となった<ref name="桑名藩182"/>。この軍隊は高田藩から進撃してきた[[山県有朋]]率いる新政府軍を[[鯨波の戦い]]で撃破し<ref name="桑名藩184">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P184</ref>、その後も各地で新政府軍を破ったのだが、友軍の長岡藩、会津藩などが敗れて重要な拠点である鯨波と柏崎を放棄せざるを得なくなる<ref name="桑名藩184"/>。新たに妙法寺を拠点とした桑名軍は、立見の活躍で5月には兵の損失皆無で新政府軍を赤田北方で破っている<ref name="桑名藩185">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P185</ref>。[[長岡戦争]]でも朝日山合戦で立見は大いに活躍し、[[東山道]]軍仮参謀で[[松下村塾]]出身の[[時山直八]]を討ち取って新政府軍に大打撃を与えた<ref name="桑名藩186">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P186</ref>。

だが立見と共に優秀な指揮官だった河井が戦死。さらに[[新発田藩]]の裏切りで新政府軍が海路から新潟に上陸するに及んで戦線は瓦解した<ref name="桑名藩188">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P188</ref>。定敬は兄の容保を頼って会津に落ち延びた<ref name="桑名藩188"/>。[[会津戦争]]でも桑名軍は会津軍と共同して激戦を繰り広げ、立見は自ら抜刀して薩摩軍と戦うほどに奮戦した<ref name="桑名藩190">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P190</ref>。その後、寒河江で最後の決戦をした立見ら桑名軍は[[庄内藩]]の軍勢と共に降伏した。

会津からさらに逃亡を続ける定敬は、名を一色三千太郎と改めて[[榎本武揚]]と共に箱館に渡った<ref name="桑名藩195">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P195</ref>。この際に定敬に随従した17人が[[土方歳三]]の[[新撰組]]に入隊している<ref name="桑名藩195"/>。だが[[五稜郭]]も陥落し、定敬は[[上海]]にまで密航逃亡した<ref name="桑名藩196">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P196</ref>。だが路銀が尽きて外国への逃亡を諦め、新政府に遂に降伏した<ref name="桑名藩197">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P197</ref>。

==== 桑名藩の再興と終焉 ====
定敬は新政府に降伏すると東京で取調べを受け、[[明治]]5年([[1872年]])1月まで謹慎を続けた<ref name="桑名藩197"/>。桑名藩は定敬のために取り潰しとなり滅亡したが、定敬が降伏したことや[[大久保利通]]らと親交が厚い同藩出身の[[箏曲師]]・[[椙村保寿]]の嘆願もあって、明治2年([[1869年]])8月15日に桑名藩は再興を許され、定教が桑名藩知事に任じられる。ただし所領を11万石から6万石に減らされた上であった<ref name="桑名藩199">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P199</ref>。

明治4年([[1871年]])の[[廃藩置県]]で桑名藩は廃藩となり<ref name="桑名藩199"/>、[[桑名県]]、[[安濃津県]]を経て三重県に編入されたのである。

== 桑名藩その後 ==
桑名藩士は廃藩置県から2年後に禄高交付が廃止されて収入が絶たれると、下級役人や教員・軍人に求職した<ref name="桑名藩200">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P200</ref>。しかし桑名は朝敵となったことからいわれなき差別を受けて肩身の狭い思いをしており、[[西南戦争]]では怨みを晴らすために400名もが出征している<ref name="桑名藩200"/>。[[明治時代]]には地の利を生かして富国強兵の軍需産業の活発化に便乗して重工業が大いに発展した<ref name="桑名藩201">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P201</ref>。

== 社会 ==
=== 産業 ===
桑名は藩の成立前から[[楽市]]制が敷かれて「十楽の津」と呼ばれて繁栄していたが、藩が成立して本多忠勝が慶長期に周到な町割を実施すると商工業者が呼び集められて城下発展が経済発展となるっことを最重要時とした<ref name="桑名藩51">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P51</ref>。鋳物師や瓦師、陶工などには住居が与えられて税は免除、名字帯刀は許されるなどの保護特権が与えられ、商工業者は町割りの際に同業者を集めてそのまま油町、紺屋町、鍛冶町、鍋屋町、魚町、船馬町、風呂町、伝馬町が誕生してその町名がそのまま現在まで続いている<ref name="桑名藩51"/>。

桑名で商業が盛んになった理由は、やはり東海道の要衝であり船便の良さに求められる。農業に関しても桑名米は品質優良で、桑名は船便で全国有数の米集散地でもあったが、江戸時代になると米取引所まで開かれてその相場は江戸や大坂にも大きな影響を与えた<ref name="桑名藩52">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P52</ref>。また桑名米は近隣諸国の酒造には欠かせず争って使用されたため、その価値は大変高かった<ref name="桑名藩52"/>。江戸時代中期に江戸が大消費都市になると、桑名米や[[天領]]の年貢米(美濃など)は桑名に運ばれた上で江戸と大坂に運ばれている<ref name="桑名藩52"/>。

松平定綱が藩主になると彼が地場産業を奨励して自ら何度も巡視に訪れたこともあり、果樹に醸酒、銘茶などの特産が新たに生まれた<ref name="桑名藩52"/>。これらも桑名が交通の要衝地であったためで、木材などは木曾や飛騨、伊勢南部に紀州から集められて集散地となっている<ref name="桑名藩52"/>。

幕府による[[参勤交代]]が定められると街道が整備されたが、桑名も例外ではなく陸上・海上交通が盛んになった<ref name="桑名藩57">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P57</ref>。御船奉行が設置され、桑名には大小の回船(御座舟)が10数艘があった<ref name="桑名藩57"/>。他の漁船や大小の船を合わせると300艘は優に超えていた<ref name="桑名藩58">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P58</ref>。このため桑名には諸大名が逗留するための定宿の本陣や脇本陣が造られ<ref name="桑名藩58"/>、一般の旅客が宿泊する旅籠も120軒もあり、東海道でも有数の賑わいとなった(同じ伊勢国内でも、亀山は旅籠が21軒しかなかった)<ref name="桑名藩59">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P59</ref>。

=== 特産物 ===
桑名といえばやはり海産物の[[ハマグリ|蛤]]である<ref name="桑名藩53">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P53</ref>。桑名蛤は殻が大きく、肉厚でその味は極めて耽美であった<ref name="桑名藩53"/>。これは[[木曽川]]や[[揖斐川]]の河口が淡水海水が交じり合って栄養豊富で、かつ深い泥砂があり蛤の成長に適した場所だったためである<ref name="桑名藩53"/>。そのため桑名蛤は徳川家康をはじめ歴代将軍にも献上された<ref name="桑名藩53"/>。当時は焼蛤が主流であり、街道沿いの茶屋では必ず売られて旅人は必ず焼蛤を食したといわれるほどであり、また殻の形や色合いも見事で貝合わせや膏薬の容器としても珍重された<ref name="桑名藩53"/>。また時雨蛤(煮蛤)は美味な保存食として有名となり、販路も広かった<ref name="桑名藩54">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P54</ref>。

陶器では[[万古焼]]が主流となったが<ref name="桑名藩54"/>、これは製品に万古あるいは万古不易の烙印を押したためであり、幕府の御用も務めたほどで江戸万古となり、その後も各地に技術が伝わってそれぞれの地名を冠した万古焼が誕生した<ref name="桑名藩55">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P55</ref>。

刀剣では[[徳川氏]]に祟りをなしたとされる[[村正]]が伊勢刀鍛冶の元祖である<ref name="桑名藩55"/>。村正は切れ味抜群で比類無しと称えられたが、この祟りのために徳川時代には冷遇された<ref name="桑名藩56">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P56</ref>。ただし幕末には[[志士]]からその伝説のために愛用された<ref name="桑名藩56"/><ref name="桑名藩116">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P116</ref>。

他に現在に伝わる名産品として、[[安永餅]]や[[たがね煎餅]]、地ビールとして上馬、清酒では上馬にかれかわ、久波奈がある<ref name="桑名藩74">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P74</ref>。

== 文化・教育 ==
桑名では江戸時代中期まではあまり文化的には発展が無かった<ref name="桑名藩105">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P105</ref>。しかし[[松尾芭蕉]]が3度桑名を訪れて<ref name="桑名藩105"/>、桑名で数度歌を詠んでいることが文化発展の端緒となる<ref name="桑名藩106">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P106</ref>。[[滝沢馬琴]]も桑名を訪問しているが、この際に桑名の俳諧を酷評している<ref name="桑名藩106"/>。他にも[[歌川広重]]に[[清河八郎]]、河井継之助などが訪れるなど、著名人がたびたび桑名を訪れた記録が多い。著名人では他に[[坂本龍馬]](彼は七里の渡しで放尿したところを警備の桑名藩士に一喝されたといわれる)、江戸遊学途中の[[吉田松陰]]、[[シーボルト]]なども桑名を訪れている。

桑名藩主に松平定永が就任すると、陸奥白河藩主だった定信により創設されていた[[藩校]]の[[立教館]]がそのまま白河から桑名に移っている<ref name="桑名藩101">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P101</ref>。教育内容は国学、漢学、詩歌、軍学など多岐にわたっていた。

== 人口の増減 ==
桑名は江戸時代前期から元禄にかけて人口や家数が増大し、ピーク時には1万3,000人を突破した<ref name="桑名藩111">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P111</ref>が、元禄以降は伸び悩んだ。これは、緊縮財政下による増税や災害、飢饉の多発で子供の養育が困難になり、また日本全国で間引き(中絶)や堕胎が行なわれていたためであり、農村でも離農者が多かったためであった<ref name="桑名藩112">郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P112</ref>。


== 歴代藩主 ==
== 歴代藩主 ==
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=== 松平(久松)(まつだいら(ひさまつ))家 ===
=== 松平(久松)(まつだいら(ひさまつ))家 ===
親藩 11万石→11万7000石→11万石→11万3000
親藩 11万石→11万7,000石→11万石→11万3,000
#[[松平定勝|定勝]]
#[[松平定勝|定勝]]
#[[松平定行|定行]]
#[[松平定行|定行]]
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=== 松平(久松)(まつだいら(ひさまつ))家 ===
=== 松平(久松)(まつだいら(ひさまつ))家 ===
親藩 11万3000石→6万石
親藩 11万3,000石→6万石
#[[松平定永|定永]]
#[[松平定永|定永]]
#[[松平定和|定和]]
#[[松平定和|定和]]
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上記のほか、古志郡17村、魚沼郡20村、刈羽郡31村(以上は第1次柏崎県に編入)、蒲原郡144村(うち56村を第1次新潟県、63村を[[新発田藩]]、7村を[[村上藩]]、18村を[[村松藩]]に編入)の[[天領|幕府領]]を預かった。
上記のほか、古志郡17村、魚沼郡20村、刈羽郡31村(以上は第1次柏崎県に編入)、蒲原郡144村(うち56村を第1次新潟県、63村を[[新発田藩]]、7村を[[村上藩]]、18村を[[村松藩]]に編入)の[[天領|幕府領]]を預かった。

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>

=== 引用元 ===
<references/>

== 参考文献 ==
* [[郡義武]]『シリーズ藩物語、桑名藩』([[現代書館]], [[2009年]][[11月]])


== 関連項目 ==
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*[[藩の一覧]]
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*[[桑名宿]]
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2012年9月23日 (日) 14:32時点における版

桑名城石垣

桑名藩(くわなはん)は、江戸時代伊勢国に存在した。藩庁は桑名城(現在の三重県桑名市吉之丸)。

藩史

前史

滝川一益

桑名は中世より「十楽の津」と呼ばれ、商人の港町と交易の中心地として発展した[1]。永正12年(1515年)頃の連歌師・宗長の手記では「港の広さが5、6町。寺々家々の数が数千軒、停泊する数千艘の船の明かりが川に映って、星のきらめくように見える」とある[1]

伊勢国はやがて織田信長の支配下に入り、桑名には信長の家臣・滝川一益が入るが、一益は長島城を修築して居城としたため、桑名城は家臣が守備した[2]。滝川は信長没後に羽柴秀吉と対立して没落し(賤ヶ岳の戦い)、信長の次男・織田信雄の支配下に入る。天正18年(1590年)の小田原征伐後、伊勢国を支配していた信雄は、秀吉の駿河転封の命令を拒絶して改易され、伊勢国は豊臣家臣が分散して入封することになった。桑名には天正19年(1591年)に秀吉の家臣・一柳直盛が入封し、規模は小さいが築城も行なわれている[2]文禄4年(1595年)からはかつての西美濃三人衆として信長の下で勇名を轟かせた氏家直元の次男・氏家行広が2万2,000石で入った[2]慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いで行広は西軍に与して桑名城を守備したが、西軍が敗れて壊滅したため、戦後に徳川家康によって改易された[2]

本多家(忠勝系)の時代

初代藩主本多忠勝

慶長6年(1601年)1月1日、上総大多喜藩より家康譜代の重臣・本多忠勝が10万石で入ったことにより、桑名藩が立藩する[1][3]。忠勝は徳川四天王の1人としてその武名を天下に轟かせた猛者であり、武田信玄や織田信長らからも賞賛された武将で、桑名藩の歴代藩主の中で最も有名な人物である。忠勝は関ヶ原の戦いでは本戦に参加して武功を挙げるなど、武勇ばかりが際立って目立つが、藩政では「慶長の町割り」と呼ばれる大規模な町割りや城郭の増改築などを積極的に行って[1]、今日まで続く桑名市街の基礎となり[4]、さらに東海道宿場の整備も行なわれて[5]、実質的に桑名藩政を確立した名君でもあった。

慶長14年(1609年)、忠勝は隠居して嫡男・本多忠政が第2代藩主となる[6]大坂の陣では徳川方の先鋒として参戦し[6]、大坂方の薄田兼相毛利勝永らと激戦を繰り広げた[7]。また大坂の陣後、家康の孫娘で豊臣秀頼の正室であった千姫と忠政嫡男の本多忠刻が婚姻したこともあり、元和3年(1617年)7月14日に忠政は先の武功により西国の押さえとして播磨姫路藩15万石に加増移封され[8][7][9]、忠刻は千姫の脂粉料として10万石を(姫路新田藩)、忠刻の実弟・本多政朝が5万石をそれぞれ与えられて播磨に移封となった[9]

久松松平家の時代(第一期)

本多家に代わって家康の異父弟である松平定勝が、山城伏見藩5万石から6万石加増の11万石で入った[10]。元和6年(1620年)には伊勢長島領7,000石を与えられて11万7,000石となる[10]。定勝は寛永元年(1624年)3月14日に死去し、第2代藩主は次男の松平定行が継いだ[10]。この際に7,000石を弟の松平定房に分与したため[10]、再び11万石となった。定行は水道の設置[11]、上水道(町屋御用水)工事、城下における湿地の開拓による三崎新田の開発などに尽力したが、寛永12年(1635年)7月28日に15万石に加増された上で伊予松山藩に移封された[11]

このため、美濃大垣藩6万石[12]より定行の弟・松平定綱が11万3,000石に加増されて入る[13]。定綱も新田開発や水利の整備、家臣団編成などに尽力し名君としての誉れが高く、実際の桑名藩祖は定綱であるともいわれており、実際に鎮国公、鎮国大明神として祭られている[13]。しかし桑名は洪水が相次ぐ場所で、慶安3年(1650年)の大洪水では6万4,000石もの被害をもたらす大惨事となった。

慶安4年(1651年)12月に定綱は没し、第4代藩主には次男の松平定良承応元年(1652年)2月に就任するも、病弱のため明暦3年(1657年)7月に死去した[14]。このため伊予松山藩より養子として松平定重が第5代藩主として入る[15]。この定重は53年にわたって桑名を支配するという長期政権であったが、この時代には天災が相次ぎ、天和元年(1681年)、天和3年(1683年)、貞享3年(1686年)、元禄3年(1690年)、元禄8年(1695年)、元禄14年(1701年)、宝永4年(1707年)と立て続けに水害が発生し、火災においても寛文5年(1665年)、元禄14年(1701年)、元禄15年(1702年)、宝永4年(1707年)と発生した[16]

このため家臣の減給やリストラが頻繁に行われたが、定重は8石3人扶持の小者であった野村増右衛門を郡代に抜擢し、野村は倹約令や新田開発など藩政の再建に敏腕を振るった[17]。これは大成功だったのだが、譜代の家臣団の嫉視を買い、宝永7年(1710年)5月29日に野村は死罪に処された(野村騒動[18]。そしてこの騒動が幕府にも知られるところとなり、閏8月15日に定重は越後高田藩に懲罰的な移封を命じられた[19]

奥平松平家の時代

次に藩主となったのは奥平松平家の当主松平忠雅で、備後福山藩から10万石で入った。この奥平松平家は徳川家康の重臣・奥平信昌と家康の長女・亀姫との間に生まれた四男・松平忠明の系統である[20]。奥平松平家は元禄4年(1691年)に忠雅の祖父・松平忠弘陸奥白河藩主だった時に白河騒動と称される御家騒動を起こして5万石削減と家老の処罰、出羽山形藩への左遷移封など処罰を受けていた家であったが[20]、忠弘の跡を継いだ忠雅は中興の名君として学問の振興や寺社の改築などを行なった[21]延享3年(1746年)に忠雅は死去し[21]、四男の松平忠刻が第2代藩主を継いだ[22]。この忠刻の時代に宝暦治水が行なわれて薩摩藩では平田靭負以下病死者32人、自殺者52人を出して幕府と桑名藩に対する怨念が残った[22]。忠刻は明和8年(1771年)に隠居し、次男の松平忠啓が第3代藩主となる[22]。この時代には天明2年(1782年)に4度の洪水が起こって被害が大きく、それに連鎖して年貢減免を求める百姓一揆も起こる始末で、藩財政も悪化した[22]

天明6年(1786年)に忠啓が死去すると[22]、家督は婿養子で紀州徳川家の出身の松平忠功が第4代藩主となり、寛政期に学問の奨励を中心とした改革を行なうが病弱のため、寛政5年(1793年)に隠居した[23]。第5代藩主には忠功の実弟・松平忠和が継ぎ、学問の振興を行ない藩校進修館を創設した[23]享和2年(1802年)に忠和は死去し[23]、家督は越後与板藩から迎えた婿養子の松平忠翼(ただすけ)が第6代藩主を継いだ[24]。忠翼は文政4年(1821年)に死去し、長男の松平忠堯が第7代藩主を継いだ[24]。そして文政6年(1823年)3月24日、忠堯は武蔵忍藩に移封を命じられるが、これに反対する一揆も起こるほどだった(文政桑名農民一揆[25][24]。これは藩が農民から講金を預かり藩財政の助成に当てていたが、突然の移封命令で返済できぬままに忍に移ろうとしたためで、藩は豪商の山田彦右衛門に肩代わりしてもらって共に忍藩に移った[24]。しかし移封準備の最中に一揆が起こったので武士も農民も動揺し[26]、農民一揆で庄屋は20も襲われ、一揆の鎮定には周囲の藩から援軍を得て鎮定して一揆の首謀者は処刑された[25]。この引越しの移動では漬物樽や墓石まで持って引っ越す家族までおり[25]、忍に12日〜13日かけてようやく到着しても武士やその家族が住むための家の数が足りず、やむなく共同生活を強いられて人々は桑名時代の愚痴をこぼしたという[25]。これは奥平松平家が白河騒動で5万石を削減されていたのに家臣の数を減らしておらず、忍藩主だった阿部家は家臣が391人だったのに対して奥平松平家はその3倍も存在したからであり、藩では大慌てで住居の増設を行なったが、このために奥平松平家は桑名時代の借財から引越し費用、引越し後の費用で合計して10万両以上の借財を築き上げてしまった[27]

久松松平家の時代(第二期)

移封を望んだ松平定信

三方お得替え

代わって陸奥白河藩から松平定永が白河藩の飛び地である越後国柏崎の所領と共に合計11万石で入った[28]。この久松松平家はかつて桑名藩主であった定重の系統であり、定永は寛政の改革を行った老中首座で白河藩主であった松平定信の嫡男である。この所領替えは隠居していた定信が藩祖・定綱以来の先祖の地である桑名に戻りたいという願望があり[29]、かつては尊号事件で定信と対立していた将軍・徳川家斉も寛政の改革の功労者であり老中であった定信に対する報恩として動いたという[26]。これに対して桑名藩主として113年間も就任し、民心も藩政も安定して墳墓もあり、さらに左遷されるような致命的な失政も無かった奥平松平家の藩主・松平忠堯は何とかこの移封命令を撤回してもらおうと裏工作を行なうも、将軍・家斉の力が動いておりどうしようも無かった[29]。しかもそれまで忍藩主であり忠堯同様に失政も無く忍に9代155年もいた阿部正権が白河へ移るという三方替えであったため、江戸では、

  • 住み慣れし(阿部正権)忍をたちのきあべこべに、お国替えとはほんに白川
  • 忍様はおし流されて白川へ、あとの始末はなんと下総(松平忠堯)
  • 白川に古ふんどし(松平定永)の役おとし、今度は桑名でしめる長尺

という落首がはやったという[26]。これは松平定信の威光と存在が当時は絶大なものであり、両家は逆らうこともできなかった[26]

この国替えの際、白河藩では家臣一同が大いに喜びあい、赤飯を炊いてお祝いをしたといわれる[30]。理由は先祖代々の墳墓の地であり故郷に帰還できるためと、寒冷の厳しい白河から温暖で物成もよい桑名であること、京都や大坂に近く東海道の要衝として繁栄していること、桑名には良港があり海の幸の恩恵がありこれは久松松平家にとってはお得替えといわれた[30]。ただし白河藩主時代に久松松平家は1万4,000両[31]、そしてこの移封に伴う諸経費が9万両かかって[32]借財は10万4,000両になり、藩財政はますます火の車になった[31]

なお、定信自身が望んだ移封であるが、定信本人は高齢のため桑名には来ることなく、文政12年(1829年)に72歳で江戸で死去した[28]

定永から定猷までの時代

藩主となった松平定永は藩財政の再建にとりかかり、文政7年(1824年)からは10年の期限で藩士の知行を削減した[28]。しかし文政12年(1829年)には江戸八丁堀の上屋敷が類焼し、その後も幕府のお手伝い普請を命じられて藩財政はさらに悪化した[33]。定永は桑名の大商人や大坂商人からの借財と御用金でしのいでいる[33]。なお、大坂で発生した大塩平八郎の乱に触発されて起こった生田万の乱では、桑名藩領として越後にあった魚沼・刈羽・三島・蒲原など4郡の飛び地を統括する柏崎陣屋が襲撃されており、生田ら6人全員が死亡、桑名藩も3名が死亡している[33]

定永は天保9年(1838年)に死去し、長男の松平定和が第2代藩主となる[33]。定和も財政の再建に努めたが、在任3年足らずで天保12年(1841年)に死去した[33]。このため定和の長男・松平定猷が第3代藩主となるが、彼の時代には水害に見舞われた[34]。幸いにして豊作が続いて藩の米蔵が満杯になり、借財をすることも5年間は無くなった[34]。しかし手伝い普請に江戸屋敷の類焼、安政の大地震による被災と災害が相次ぐ[34]。しかもこの定猷の時代に幕末の激動期に突入し、房総沿岸の警備や京都警備などを任命されて藩財政はますます苦しくなり、その最中で安政6年(1859年)に急死した[34]

なお、桑名藩領は表高は11万石であるが、実高は桑名本領地は8万3,000石(桑名・員弁・朝明・三重)、越後柏崎が5万9,000石の14万石であった[28]。また、天保の改革水野忠邦鳥居耀蔵に排斥された南町奉行の矢部定謙は桑名藩に預けられて絶食して憤死している[35]

定敬と幕末の動乱

第4代藩主松平定敬
鳥羽・伏見の戦いでの戦闘を描いた絵。和装と突撃する桑名藩の歩兵が描かれている。左奥の集団も「桑名兵」とある
高須四兄弟(1878年9月撮影)
左から定敬、容保、茂徳、慶勝

松平猷(定猷は徳川家定の時代になると改名していた)の死後、家督は幕末の多事多難のため、嫡子の万之助(松平定教)では無理と見られて、美濃高洲藩から松平定敬が初姫の婿養子として第4代藩主に就任した[36]。この定敬は御三家筆頭の尾張藩主・徳川慶勝徳川茂徳会津藩主・松平容保石見浜田藩主・松平武成らの実弟にあたる[37]。定敬は将軍・徳川家茂と同じ弘化3年(1846年)生まれであったことから家茂と仲が良く、厚い信任を受けた[38]元治元年(1864年)には京都所司代に任命されるが、この際に若年であるからと拒絶したものの[39][注釈 1]、実兄の容保が京都守護職にあったために拒絶しきれず就任した[40]。定敬は容保と兄弟のコンビで兄を助けて京都の治安と西国の監視監督を勤めた[40]池田屋事件禁門の変はこの兄弟の時代に起こっている。2回の長州征討天狗党の乱でも京都の守備を勤めた。

だが容保や定敬にとって後ろ盾となっていた孝明天皇が崩御すると幕府の権力は一気に失墜し[41]小御所会議では徳川慶喜も定敬も容保も出席を許されない欠席裁判が行なわれて幕府は廃止、次いで王政復古の大号令が出された[42]。これにより旧幕府は討薩派、いわゆる主戦派が権限を握り[43]鳥羽・伏見の戦いでは会津・桑名の藩兵が主力となって薩摩・長州と激突した[44]。 兵力では幕府軍が有利であり、さらに桑名では軍制改革が行なわれて近代洋式の軍隊となっていたが、肝心の首脳部が旧態依然とした老職で占められていたために[44]新居良次郎の奮戦も空しく[45]、実力を発揮できずに敗れた[44]。この時の桑名兵の死者は11名[46]、 さらに定敬は大坂城まで撤退して大坂城の守りに兵をつかせていたが、徳川慶喜が単身で関東への敵前逃亡を図ると、命令でそれに同行することを余儀なくされた[47]

藩主が逃亡し、桑名藩は会津藩と共に朝敵賊軍とされると、本国桑名は大混乱となり、先代・猷の実子である松平定教が第5代藩主として擁立された[48]。藩内では主戦派と和平派が論争し、和平派の家老・酒井孫八郎が実権を握って和平に持ち込んだ[49]。この際、酒井は藩祖の神前で神籤を引くことで桑名城を開城に持ち込んだとされる神前籤引き騒動を起こしている[50]。ただし、実際問題として定敬が京都所司代として重職にあったために藩の財政は火の車であり[51]、軍兵も鳥羽・伏見の戦いで敗れて桑名にいたのは老幼兵500名に過ぎず[49]、抗戦は不可能に近い状態で、酒井ら和平派は猷の正室であった真田氏の娘・珠光院を味方にして主戦派を粛清した[51]。この際にあくまで降ることを潔しとしない30名ほどが脱藩して定敬のもとに走った[51]。桑名城は1月28日[51]に無血開城となった[52]

一方、江戸に移った定敬は兄の容保と共に抗戦を主張したが、徳川慶喜が恭順派に回った上に自らの責任を定敬と容保らになすりつけて2月10日には遂に2人を登城禁止にする有様であった[52]。慶喜にまで見捨てられた定敬は、飛び地である越後柏崎に入って兄の容保と共に抗戦の意を固めた[53]。この逃亡の際に定敬は会津藩、さらに越後長岡藩河井継之助らと攻守同盟を結んだとされている[54]

桑名藩は会津藩など旧幕府軍と共同して立見鑑三郎など一部の藩士が関東各地を転戦し、宇都宮戦争でも敗れはしたが奮戦した[55]

ところが柏崎では家老の吉村権左衛門が恭順派として強い権勢を誇っていた[56]。この吉村は藩祖の松平定綱が5,000石で招いた吉村又左衛門の子孫である[57]。こうして柏崎の桑名兵は主戦派が実権を握り、山脇や立見が中心人物となって雷神隊など4隊が結成された[58]。この桑名軍は旧幕府軍最強としてその名を轟かせ[59]、旧態依然とした家老らを排除して能力優先の革新的な軍隊となった[58]。この軍隊は高田藩から進撃してきた山県有朋率いる新政府軍を鯨波の戦いで撃破し[60]、その後も各地で新政府軍を破ったのだが、友軍の長岡藩、会津藩などが敗れて重要な拠点である鯨波と柏崎を放棄せざるを得なくなる[60]。新たに妙法寺を拠点とした桑名軍は、立見の活躍で5月には兵の損失皆無で新政府軍を赤田北方で破っている[61]長岡戦争でも朝日山合戦で立見は大いに活躍し、東山道軍仮参謀で松下村塾出身の時山直八を討ち取って新政府軍に大打撃を与えた[62]

だが立見と共に優秀な指揮官だった河井が戦死。さらに新発田藩の裏切りで新政府軍が海路から新潟に上陸するに及んで戦線は瓦解した[63]。定敬は兄の容保を頼って会津に落ち延びた[63]会津戦争でも桑名軍は会津軍と共同して激戦を繰り広げ、立見は自ら抜刀して薩摩軍と戦うほどに奮戦した[64]。その後、寒河江で最後の決戦をした立見ら桑名軍は庄内藩の軍勢と共に降伏した。

会津からさらに逃亡を続ける定敬は、名を一色三千太郎と改めて榎本武揚と共に箱館に渡った[65]。この際に定敬に随従した17人が土方歳三新撰組に入隊している[65]。だが五稜郭も陥落し、定敬は上海にまで密航逃亡した[66]。だが路銀が尽きて外国への逃亡を諦め、新政府に遂に降伏した[67]

桑名藩の再興と終焉

定敬は新政府に降伏すると東京で取調べを受け、明治5年(1872年)1月まで謹慎を続けた[67]。桑名藩は定敬のために取り潰しとなり滅亡したが、定敬が降伏したことや大久保利通らと親交が厚い同藩出身の箏曲師椙村保寿の嘆願もあって、明治2年(1869年)8月15日に桑名藩は再興を許され、定教が桑名藩知事に任じられる。ただし所領を11万石から6万石に減らされた上であった[68]

明治4年(1871年)の廃藩置県で桑名藩は廃藩となり[68]桑名県安濃津県を経て三重県に編入されたのである。

桑名藩その後

桑名藩士は廃藩置県から2年後に禄高交付が廃止されて収入が絶たれると、下級役人や教員・軍人に求職した[69]。しかし桑名は朝敵となったことからいわれなき差別を受けて肩身の狭い思いをしており、西南戦争では怨みを晴らすために400名もが出征している[69]明治時代には地の利を生かして富国強兵の軍需産業の活発化に便乗して重工業が大いに発展した[70]

社会

産業

桑名は藩の成立前から楽市制が敷かれて「十楽の津」と呼ばれて繁栄していたが、藩が成立して本多忠勝が慶長期に周到な町割を実施すると商工業者が呼び集められて城下発展が経済発展となるっことを最重要時とした[71]。鋳物師や瓦師、陶工などには住居が与えられて税は免除、名字帯刀は許されるなどの保護特権が与えられ、商工業者は町割りの際に同業者を集めてそのまま油町、紺屋町、鍛冶町、鍋屋町、魚町、船馬町、風呂町、伝馬町が誕生してその町名がそのまま現在まで続いている[71]

桑名で商業が盛んになった理由は、やはり東海道の要衝であり船便の良さに求められる。農業に関しても桑名米は品質優良で、桑名は船便で全国有数の米集散地でもあったが、江戸時代になると米取引所まで開かれてその相場は江戸や大坂にも大きな影響を与えた[72]。また桑名米は近隣諸国の酒造には欠かせず争って使用されたため、その価値は大変高かった[72]。江戸時代中期に江戸が大消費都市になると、桑名米や天領の年貢米(美濃など)は桑名に運ばれた上で江戸と大坂に運ばれている[72]

松平定綱が藩主になると彼が地場産業を奨励して自ら何度も巡視に訪れたこともあり、果樹に醸酒、銘茶などの特産が新たに生まれた[72]。これらも桑名が交通の要衝地であったためで、木材などは木曾や飛騨、伊勢南部に紀州から集められて集散地となっている[72]

幕府による参勤交代が定められると街道が整備されたが、桑名も例外ではなく陸上・海上交通が盛んになった[73]。御船奉行が設置され、桑名には大小の回船(御座舟)が10数艘があった[73]。他の漁船や大小の船を合わせると300艘は優に超えていた[74]。このため桑名には諸大名が逗留するための定宿の本陣や脇本陣が造られ[74]、一般の旅客が宿泊する旅籠も120軒もあり、東海道でも有数の賑わいとなった(同じ伊勢国内でも、亀山は旅籠が21軒しかなかった)[75]

特産物

桑名といえばやはり海産物のである[76]。桑名蛤は殻が大きく、肉厚でその味は極めて耽美であった[76]。これは木曽川揖斐川の河口が淡水海水が交じり合って栄養豊富で、かつ深い泥砂があり蛤の成長に適した場所だったためである[76]。そのため桑名蛤は徳川家康をはじめ歴代将軍にも献上された[76]。当時は焼蛤が主流であり、街道沿いの茶屋では必ず売られて旅人は必ず焼蛤を食したといわれるほどであり、また殻の形や色合いも見事で貝合わせや膏薬の容器としても珍重された[76]。また時雨蛤(煮蛤)は美味な保存食として有名となり、販路も広かった[77]

陶器では万古焼が主流となったが[77]、これは製品に万古あるいは万古不易の烙印を押したためであり、幕府の御用も務めたほどで江戸万古となり、その後も各地に技術が伝わってそれぞれの地名を冠した万古焼が誕生した[78]

刀剣では徳川氏に祟りをなしたとされる村正が伊勢刀鍛冶の元祖である[78]。村正は切れ味抜群で比類無しと称えられたが、この祟りのために徳川時代には冷遇された[79]。ただし幕末には志士からその伝説のために愛用された[79][80]

他に現在に伝わる名産品として、安永餅たがね煎餅、地ビールとして上馬、清酒では上馬にかれかわ、久波奈がある[81]

文化・教育

桑名では江戸時代中期まではあまり文化的には発展が無かった[82]。しかし松尾芭蕉が3度桑名を訪れて[82]、桑名で数度歌を詠んでいることが文化発展の端緒となる[83]滝沢馬琴も桑名を訪問しているが、この際に桑名の俳諧を酷評している[83]。他にも歌川広重清河八郎、河井継之助などが訪れるなど、著名人がたびたび桑名を訪れた記録が多い。著名人では他に坂本龍馬(彼は七里の渡しで放尿したところを警備の桑名藩士に一喝されたといわれる)、江戸遊学途中の吉田松陰シーボルトなども桑名を訪れている。

桑名藩主に松平定永が就任すると、陸奥白河藩主だった定信により創設されていた藩校立教館がそのまま白河から桑名に移っている[84]。教育内容は国学、漢学、詩歌、軍学など多岐にわたっていた。

人口の増減

桑名は江戸時代前期から元禄にかけて人口や家数が増大し、ピーク時には1万3,000人を突破した[85]が、元禄以降は伸び悩んだ。これは、緊縮財政下による増税や災害、飢饉の多発で子供の養育が困難になり、また日本全国で間引き(中絶)や堕胎が行なわれていたためであり、農村でも離農者が多かったためであった[86]

歴代藩主

本多(ほんだ)家

譜代 10万石

  1. 忠勝
  2. 忠政

松平(久松)(まつだいら(ひさまつ))家

親藩 11万石→11万7,000石→11万石→11万3,000石

  1. 定勝
  2. 定行
  3. 定綱(定行移封に伴い、美濃大垣より弟・定綱入封)
  4. 定良
  5. 定重

松平(奥平)(まつだいら(おくだいら))家

親藩 10万石

  1. 忠雅
  2. 忠刻
  3. 忠啓
  4. 忠功
  5. 忠和
  6. 忠翼
  7. 忠堯

松平(久松)(まつだいら(ひさまつ))家

親藩 11万3,000石→6万石

  1. 定永
  2. 定和
  3. 定猷
  4. 定敬〔京都所司代〕
  5. 定教

幕末の領地

上記のほか、古志郡17村、魚沼郡20村、刈羽郡31村(以上は第1次柏崎県に編入)、蒲原郡144村(うち56村を第1次新潟県、63村を新発田藩、7村を村上藩、18村を村松藩に編入)の幕府領を預かった。

脚注

注釈

  1. ^ (『自歴譜』)

引用元

  1. ^ a b c d 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P1
  2. ^ a b c d 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P20
  3. ^ 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P12
  4. ^ 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P17
  5. ^ 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P22
  6. ^ a b 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P18
  7. ^ a b 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P19
  8. ^ 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P2
  9. ^ a b 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P30
  10. ^ a b c d 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P35
  11. ^ a b 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P36
  12. ^ 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P39
  13. ^ a b 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P38
  14. ^ 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P47
  15. ^ 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P48
  16. ^ 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P49
  17. ^ 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P64
  18. ^ 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P65
  19. ^ 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P66
  20. ^ a b 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P69
  21. ^ a b 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P70
  22. ^ a b c d e 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P71
  23. ^ a b c 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P72
  24. ^ a b c d 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P73
  25. ^ a b c d 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P87
  26. ^ a b c d 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P86
  27. ^ 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P88
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  84. ^ 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P101
  85. ^ 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P111
  86. ^ 郡『シリーズ藩物語、桑名藩』、P112

参考文献

関連項目

先代
伊勢国
行政区の変遷
1601年 - 1871年 (桑名藩→桑名県)
次代
安濃津県