「オジェ・ル・ダノワ」の版間の差分
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File:Barrois-ed-Ogier-MS A-fol199v-eschecs.jpg シャルロ王子とボードワネットのチェス競技. A写本=フランス国立図書館蔵 français, 24403 写本 File:Chivalry-Gautier-tr-eng1891-p429.jpg 剣とめる天使 |
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[[File:Bulletin arch du comite(1905)-Pl XI-tete-meaux.jpg|thumb|(伝)オジエ像の頭部。{{small|{{right|―聖ファロ大修道院の遺物。}}}}]] |
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[[ファイル:Holger danske.jpg|thumb|デンマークのクロンボー城にあるH.P.ペデルセンダンによるオジェ・ル・ダノワの像]] |
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'''デーン人オジエ'''、'''デンマルク人{{small|〔びと〕}}オジエ'''{{Efn2|{{harvp|有永 (訳)|1965}}『ロランの歌』、253頁(112行の注)の表記(ただし人物名でなく題名)。}}、'''デンマルクのオジエ'''<ref name=arinaga-roland-v747/>、または'''オジエ・ル・ダノワ'''{{Efn2|{{harvp|トマス・ブルフィンチ|市場 (訳)|2007}}、pp.325–360、第23–25章の表記。}}([[フランス語]]:Ogier le Danois, Ogier de Danemarche)は、中世[[フランス]]の[[カール大帝|シャルルマーニュ]]伝説の[[武勲詩]]に登場する[[パラディン]]の一人で[[伝説]]上の[[英雄]]。 |
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'''オジェ・ル・ダノワ'''([[フランス語]]:''Ogier le Danois'', ''Ogier de Danemarche''、[[デンマーク語]]:''Holger Danske'')は、中世[[フランス]]の[[武勲詩]]『ドーン・ド・マイアンス([[:en:Doon de Mayence|Doon de Mayence]])』に登場する[[伝説]]上の[[英雄]]である。[[デンマーク]]では'''ホルガー・ダンスク'''の名で親しまれている。なお、フランス語の呼び名に含まれる「ル・ダノワ」や「ダーヌマルシュ」は、デンマークではなく[[アルデンヌ]]の所領に由来するとされる。 |
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「短い」という意味の名の、切っ先が欠けた剣コルタン{{Efn2|[[:en:Cortain|Cortain]]。}}を持つ。 |
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[[伝承]]によると、オジェ・ル・ダノワは、デンマーク王、[[ゴズフレズ (デンマーク王)|ジェフロワ]]の息子であった。『オジェ・ル・ダノワの騎士道』によれば、オジェ・ル・ダノワは[[カール大帝|シャルルマーニュ]]の息子シャルロに我が子を殺されたため、シャルロへの復讐を誓い、大帝の命をも奪おうとした。その後7年にわたってオジェ・ル・ダノワはシャルルマーニュに抵抗したが、『[[ローランの歌]]』にもあるように[[サラセン人]]との戦いでは王に味方し、サラセンの長で巨躯のブレフスを倒した。 |
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オジェを主人公とした武勲詩、『オジェの騎士道』は、「[[ドーン・ド・マイヤンス]]の武勲」の詩群(別称「叛臣の[[サイクル (文学)|物語群]]」){{Efn2|Geste de Doon de Mayence(cycle des barons revoltés)。「叛臣の物語群」は仮訳。}}の一つに数えられ<ref name="keller-medieval-france-ency" /><ref name="geddes" />、[[カール大帝|シャルル王]]に歯向かう氏族の物語のひとつをなしている{{Efn2|家系図上は、ドーンの子のひとりがデンマルク公ゴーフロワ(ジョフロワ)でありドーンの孫がオジェ<ref name="geddes" /><ref group="注">Gaufroi de Danemarche (Langlois 人名事典の見出しでの綴り</ref>で、その息子がオジェである。よってオジェは、大逆臣{{仮リンク|ガヌロン|en|Ganelon}}の従兄弟や[[魔法使い]][[モージ (魔法使い)|モージ]](マラジジ)の従兄弟でもあるわけだが、これはあまり強調される側面ではない。}}。 |
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[[アーサー王]]や[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|バルバロッサ]]がそうであるように、ヨーロッパには英雄的な主人公が山や洞穴に入り、復活の時まで眠り続けるという伝説があるが、オジェ・ル・ダノワの場合にも、[[ヘルシンオア]]の[[クロンボー城]]の地下に眠り、デンマークの危機には目を覚まして人々を救うという伝承がある。このことからクロンボー城地下には、長いあごひげの武人の姿で眠るオジェ・ル・ダノワの像がおかれている。オジェ・ル・ダノワの最期については、魔女[[モーガン・ル・フェイ]]が[[アヴァロン]]へ彼を連れて行ったという言い伝えも残っている。 |
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特に[[デンマーク]]では「ホルガー・ダンスク」<ref group="注">[[デンマーク語]]:''Holger Danske''</ref>の名で親しまれ、地元の英雄とされている。 |
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1534年にペデルセン(Christian Pedersen)がデンマーク語でオジェ・ル・ダノワの伝説を本にまとめ、ホルガー・ダンスクの年代記として出版したことにより、この伝承がデンマークの人々に知られることとなった。デンマークでは[[ハンス・クリスチャン・アンデルセン|アンデルセン]]の童話や、クンツェン(F.L.Æ. Kunzen)のオペラに『デンマーク人ホルガー』があり、またインゲマン([[:en:Bernhard_Severin_Ingemann|Bernhard Severin Ingemann]])の詩にゲバウアー([[:da:Johan_Christian_Gebauer|Johan Christian Gebauer]])が曲をつけた歌もよく知られている。このほか、[[第二次世界大戦]]中、[[ナチス・ドイツ]]の占領に抵抗したデンマークの[[レジスタンス運動|レジスタンス]]には「ホルガー・ダンスク」の名の下に活動を行なったグループがあった。 |
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==各言語の表記== |
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* アングロノルマン語: Oger 〔オジェ〕(『ロランの歌』) |
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* 古ノルド語:Oddgeir danski 〔オッドゲイル・ダンスキ〕(『カルル大王のサガ』) |
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* フランコ=イタリア語: Uggeri il Danese 〔ウッジェーリ・イル・ダネーセ〕 |
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* 近世のイタリア語:Ogieri, Ogiero, Uggieri 〔オジエリ、オジエロ、ウッジェーリ〕等。 |
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==総覧== |
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この英雄がフランス系かデンマーク系かについては、いささか見解の対立がある。フランスでは19世紀の編者バロワが、オジェの添え名である「ル・ダノワ」や「ダーヌマルシュ」はデンマークではなく[[アルデンヌ]]の所領に由来すると仮説を立てた<ref>{{Harvp|Ward|1883|loc=Vol. '''1''', p.605}}</ref>。 |
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これに対し、16世紀のデンマーク訳本は、英雄の父親ゴーフロワを、[[サクソ・グラマティクス]]著の史書にもある歴史上のデンマーク王[[ゴズフレズ (デンマーク王)|グードリグ]]に比定し、英雄自身は、その王子オルフであると断定している<ref name="#1">{{Harvp|Brandt|1882|p=271}}</ref>。<br /> |
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(* フランスで発見の伝オジェの石像頭部については[[#モー市と聖ファロ僧院|§モー市と聖ファロ僧院]]、デンマークの石膏像については [[#スカンジナビア|§スカンジナビア]]の各節を参照)。 |
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<!--ただ、上のごとき近代の国家主義観の問題は少しさしおいて、本項は、中世においてオジェの伝説がどう形成されていったかというのが本題であろう。--> |
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==コルタン== |
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オジェが「短い剣」を持つという伝承は相当古く、[[カスティーリャ語]]で書かれた{{仮リンク|サン・ミリャンの注記|es|Nota Emilianense|label=『サン・ミリャンの注記』}}(1060年頃成立)に、「短い剣のオジェーロ(オジェーロ・スパタ・クルタ)」{{Efn2|Oggero spat curta }}という二つ名だったことが記されている<ref>{{cite book|ref=harv|last=Sholod |first=Barton |title=Charlemagne in Spain: The Cultural Legacy of Roncesvalles |
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|publisher=Librairie Droz |year=1966|url=https://books.google.com/books?id=RF5RMtPJBiMC&pg=PA189 |page=189}}</ref>。 |
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オジェを主人公ととした武勲詩では、後述するようにサラセン人{{Efn2|カラウー(→カラヒュー)}}からこの{{仮リンク|コルタン (剣)|en|Cortain|label=コルタン}}という剣と{{Refn|group="注"|コルタナとも表記<ref>{{harvp|トマス・ブルフィンチ|市場 (訳)|2007}}、p. 332等の表記。</ref>}}、名馬ブロワフォール(→ベフロール){{Efn2|name=broiefort}}を入手した。 |
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後世の脚色では、アーサー王伝説『散文トリスタン』(1210-1230年頃)で、[[トリスタン]]が持つ刃こぼれの剣をオジェが受け継ぎコルタンと命名したことになっている<ref name="loeseth" /><ref name="loomis1922b" />。ちなみに英国の戴冠剣のひとつは[[カーテナ]]と呼ばれ、オジェの剣と同名(「短い」の意)で{{Efn2|英国の戴冠剣がカータナと呼ばれた初出は1236年。ある解説者は『散文トリスタン』作者は英国戴冠剣のことを知悉していたと仮説する<ref name="mason"/>。<!--しかしだからといって英国戴冠剣がオジェの剣と信じられていたとまでは言えまい。脱線であり、オジェの本項に関しての重要性は低いと判断する。--><!--ヘンリーIII世本人ではなく、その王妃の1236年の戴冠式を伝える文献で始めて剣は「カーテナ」と呼ばれ、ここで「短い」つまり先端が欠けた剣が使用されたことは断定できる。だがそれ以前、いつから使われていたかは断定できなくて、ヘンリーIII世の父のジョン説、叔父の[[若ヘンリー王]]だとか諸説あるので、ヘンリーIII世の剣だと称するのは[[WP:POV]]である。-->}}、ある学者によればトリスタンの先の毀れた剣(トリスタン伝説では剣先がモルオルトの頭に刺さった)が伝わったものと昔は認識されてはずだという<ref name="loomis1922a"/><ref name="loomis1922b" />。 |
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==作品== |
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日本語で手軽に読める資料に、[[市場泰男]]訳[[トマス・ブルフィンチ]]再話『シャルルマーニュ伝説』「第23-25章:オジエ・ル・ダノワ」がある。 |
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オジェ誕生のときに六人の「{{仮リンク|名付け親の妖精|en|fairy godmother}}」的な女性たちが現れて吉凶こもごもの授け物する。そのうちの[[フェアリー|仙女]]のひとり[[モルガン・ル・フェイ]](ブ氏再話では→モルガナ)が、やがてのち物語の終盤でオジエを[[アヴァロン]]に連れて行き、いわば夫婦同然に同棲させる。こうした「ケルト物語的」要素は、本来の武勲詩にはない部分で、[[中世後期]]に追加された([[#中世後期|§中世後期]]の節を参照)。ともあれ、このことでオジエは[[アーサー王物語]]の住人に仲間入りさせられた。 |
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古武勲詩から抜粋した粗筋は、以下に記した。ブルフィンチ再話とは、大筋では合致するが、差異も多い。 |
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==オジェの騎士道== |
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伝ランベール・ド・パリ<!--Raimbert de Paris-->作『オジェの騎士道』{{Efn2|バロワ編の版本の題名は''Chevalerie Ogier de Danemarche''。<!--直訳は「ダヌ辺境領のオジェの騎士道」か。有永の257頁(275行の注)では、「マルシュ」は「州」の意か、としている。-->また、{{harvp|有永 (訳)|1965}}『ロランの歌』、253頁(112行の注)では、題名を単に『デンマルク人{{small|〔びと〕}}オジエ』としている。}}(''Chevalerie Ogier de Danemarche''; 原型は12世紀だが、伝わる作品は13世紀初頭<ref name=keller-medieval-france-ency/>)は、約13,000行におよぶ武勲詩で、全12枝篇に分けられている{{sfnp|Barrois|1842}}{{sfnp|Togeby|1969|p=46}}{{sfnp|Renier|1891|pp=397–404}}。 |
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===第1枝篇:オジェの出自=== |
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第1枝篇(全3109行、「オジェの幼年時代」の部や章などとも仮称される{{sfnp|Renier|1891|p=399}}{{Refn|フォーレッチュ(Voretzsch)は作品を全5章に分割しており、第1章 「オジェの幼年時代 (Les enfances Ogier)」を第1枝篇(1–3100行目)と同一とした{{sfnp|Togeby|1969|p=46}}。}}は、オジェの青少年期の部ともいえるが、おおよそ次のような筋書きである:<ref>{{Harvp|Barrois|1842}}</ref><ref>{{Harvp|Ludlow|1865}}</ref>{{efn2|以下、固有名詞はフランス発音を用いるが、便宜上、{{harvp|トマス・ブルフィンチ|市場 (訳)|2007}}の再話における表記も"→ボルドウィン"のように付記する。}} |
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:オジェはデンマルク公ゴーフロワ(→ジョフロワ)を父に生まれる(ちなみに他の作品によれば、ゴーフロワは[[ドーン・ド・マイヤンス]]の息子に設定されている<ref name="geddes"/><ref>Or "Doolin of Mayence", {{harvp|Dunlop|1906|p=332}}</ref>)。 |
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: 若きオジェは人質となり、シャルル王に預けられる。それでも監禁先の[[サントメール]]城主の娘と情事をおこない、息子ボードワン{{Efn2|実際はでなくBaudouinetという[[指小形]]が使われる。まだ未成年(騎士の叙勲を受けていない)ということ。}}(→ボルドウィン<ref>{{harvp|トマス・ブルフィンチ|市場 (訳)|2007}}では「第26章オジエ・ル・ダノワ(2)」、p. 339に"ボルドウィンの父となった"という記述が見える。</ref>)をもうける。 |
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:そのうち父ゴーフロワの不遜が度を増し、シャルル王は、オジェを絞首刑にすると決める。ところがローマ教皇から、[[異教徒]]の侵略に対する救援依頼状が届き、シャルルは、オジエも連行しイタリアに向かう。身元保証人は、親戚のバイエルン公ネーム(→ナモ)が引受ける。オジェは元服(騎士叙任の儀礼)を受けておらず[[具足]]もなく{{linktext|丸腰}}だった。観戦していると、前衛で{{仮リンク|旗手|en|Standard-bearer}}を務めるアロリー・ド・プイユ([[プッリャ州]]のアロリー){{Efn2|Alori de Puille。}}の[[敵前逃亡]]を目にする。オジェたちは、アロリー隊から甲冑・軍旗([[オリフラム]])を奪い、奮迅した。苦戦中のフランス軍は応酬し、オジェは感謝され王から佩刀の叙勲を受ける{{Refn|group="注"|『ロランの歌』ではオリフラムを掲げる役をアンジュー公ジェフロワに甘んじるものの、オジェは前衛や先陣を務めるに最適任とされており<ref name=arinaga-roland-v747>{{harvp|有永 (訳)|1965}}『ロランの歌』、50頁、747行-</ref>、『サガ』によればオジェは旗手の役目であった<ref>{{Harvp|Hieatt|1975|loc=54章(最終章)}}: "Oddgeir was his standar-bearer as long as they both lived". </ref>。}} |
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:しかし新手の強敵カラウー(→カラヒュー)<ref group="注">Caraheu, Karaeus, Karahues 等、変体綴り多数。<!--邦文で「カラウー」のカナ表記の例がないが、参考として現代フランス語 [[:en:wiktionary:heureux|heureux]] {{IPA|/œ.ʁø/|lang=fr}} が「ウールー」と一般表記されることによる。--></ref>の報告が入る。カラウーは、敵の総大将である都督〔アミラル〕コルスブルの娘グロリアンドの[[許嫁]]だったが、異教徒ながら、たいへん義を重んずる人物であった。またカラウーは、聖剣コルタン( →コルタナ){{Efn2|Cortain}}の所有者で、姫の御前でのオジェと決闘を申し込む。シャルルの息子シャルロ<ref group="注">Charlot(指小形)</ref>が自分の出番だと駄々をこねるので、もうひとりサドワヌ(→サドン<ref group="注">Sadoine</ref>)という対戦相手をつけて、二組で決闘をおこなう。ところが戦いが佳境に入った頃、水をさすように、都督の息子ダヌモンの一団が乱入し、オジェを捕獲する。説得に応じず釈放しないため、律儀なカラウーは、フランス陣営に投降し、もし、オジェが処刑されようものなら、自分も殺して構わない、と言った。 |
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:ここで異教徒側にまた強者の救援が到着する。[[マヨルカ王国|マヨルカ国]]{{Efn2|メオルグル(?)Maiolgre}}のブリュナモン{{Efn2|Brunamont}}という猛者である。都督は姫とカラウーの婚約は破談にし、このブリュナモンと娶わせるという。姫は反対だが、阻止するとなると、勇士を立ててブリュナモンと戦わねばならない。姫はその勇士の役を、なんと俘虜のオジェに依頼し、カラウーも聖剣コルタンをオジェに与えて一任する。オジェはみごとブリュナモンを斬り捨て、額に白点のある黒馬ブロワフォール(→ベフロール){{Efn2|name=broiefort|Broiefort}}を手に入れる。 |
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===第2枝篇:息子の死と出奔=== |
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[[File:Barrois-ed-Ogier-MS A-fol199v-eschecs.jpg|thumb|シャルロ王子とボードワネットのチェス競技。写本画{{efn2|武勲詩『オジェの騎士道』のA写本、すなわちパリ市[[フランス国立図書館]]蔵 français, 24403 写本、第174r–277v葉の第232r葉目。}}]] |
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第2枝篇{{Refn|group="注"|フォーレッチュの第2章「チェスの部 {{lang|fr|La partie d'éschecs}}」は、第2枝篇(第3101–3472行目)と同一{{sfnp|Togeby|1969|p=46}}。}}は他と比べて400行弱ときわめて短いが、重要な展開の部分。シャルロ王子が、オジェの息子ボードワネットと[[チェス]]将棋を指して遊んでいたが、「王手詰み〔[[チェックメイト]]〕」を宣告されてかっとなり将棋盤で相手の頭をたたき割ってしまう。息子の変わり果てた姿に憤慨したオジェは、棒切れをふりまわして王子を追いまわす。王は金銭で解決しようとするが、オジェは王子の命で償ってもらうとゆずらない。オジェは追放の身となり、[[パヴィア]]国のデジエ(≒史実のランゴバルド国王[[デシデリウス (ランゴバルド王)|デシデリウス]]とされる<ref group="注">Desier</ref>)に身を寄せる。 |
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===オジェの反乱・投獄・復帰=== |
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この後、追討しようとするフランス王軍を、オジェがさんざんに翻弄する。オジェは、[[ローヌ川]]沿いのシャ[ス]テルフォール<ref group="注">Chastel-fort; 現代風ならChâteau-fort</ref>に牙城を得、[[マンゴネル]]などの大型兵器で攻撃されても、従者ベノワ<ref group="注">Beneoit</ref>が[[ギリシア火薬]]で対抗するなど、痛快に立ち回る劇が語られる<ref>{{Harvp|Ludlow|1865|pp=282-3}}</ref>{{Refn|group="注"|フォーレッチュは第3章を「ロンバルディア戦{{lang|fr|La guerre de Lombardy}}」と題して、第3枝篇(第 3473–5864行目)をあて、第4章「シャテルフォール {{lang|fr|Castelfort}}」に、第4~8枝篇(第 5865–9551行目)をあてる{{sfnp|Togeby|1969|p=46}}。}}。 |
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しかしそんなオジェも、やがて捕えられる。五人分の食欲があるこの囚人に対し、毎日パンを四分の一と水で薄めた古ワイン一杯しか与えませんから、と言って[[テュルパン]]司教が、その監視役を買って出るが、そのじつ特大パンを焼かせ、巨大な銀杯を調達させて文字通りその四分の一だけを与えて存分に養った。七年が経ち、オジェのひげも白くなったが、二の腕や首筋はまだまだ太かった<ref>{{Harvp|Ludlow|1865}}, p.290</ref>。 |
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[[File:Chivalry-Gautier-tr-eng1891-p429.jpg|thumb|240px|オジェがシャルロ王子めがけて振りかぶる剣を天使が阻止{{right|{{small|—[[レオン・ゴーティエ]]編『騎士道』(1884年)より、[[リュック=オリヴィエ・メルソン]](画)}}<ref name="gautier1884"/><ref name="gautier-eng-1891"/>}}]] |
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この展開で、第9枝篇(第9796~11040行)が始まる:{{Refn|group="注"|フォーレッチュは第5章「サクソン人対戦{{lang|fr|La guerre des Saxons}}」と題して、第9~12枝篇(第 9552–12346行目)をまとめる{{sfnp|Togeby|1969|p=46}}。}} |
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:フランスは、アフリカの王ブルイエまたはブレユス(→ブリュイエ<ref group="注">Brehier, Brehus</ref>)率いる軍の侵攻を受け、被害は甚大、「オジェがおれば」の声高まる。王は不承不承オジェの復帰を承諾。巨躯のオジェに耐久できる馬探しが始まる(王の馬ブランシャールを含む数頭の馬を試乗してぺしゃんこにする滑稽な場面が盛り込まれる{{Efn2|原典では、別の箇所ではシャルルがブランシャール Blancart つまり白馬に乗るが、ここでは都督バランから奪った早馬とされている({{Harvp|Barrois|1842}}, 10435-7行, "le bon ceval corant que je conqis à l'amiraus Balant"。}}。しかしオジェの愛馬ブロワフォール(→ベフロール)が、[[モー (フランス)|モー]]市の聖ファロ大修道院(→サンファロン大修道院)に預けられていると判明。見違えるほど痩せこけた馬は、前の主人とめぐり合うと、鼻息を鳴らしていななき、体を平伏させオジェを迎え、涙をさそう。戦闘準備は整ったが、オジェは自分の息子を殺した王子の命を差し出さねば働かないと、条件を出す。王は困惑するが、ネームにより、フランスの国運がかかっている事案であり、自分も息子ベルトランをオジェに斬られたが、私情ははさまない、と諫言される。しかしオジェが聖剣コルタンを振りかぶり、いざ王子の首をはねようとしていたその時、天使が降臨してその手をとどめた<ref>散文オジェの[[インキュナブラ|古い印刷本]]にもこの場面はある:{{Harvnb|Benoit Rigaud|1579|p=233}}:"Comment.. Charlemaigne fut contrainct de liurer son filz Charlot à Ogier.. &comment l'Ange ainsi qu'il vouloit coupper la teste de Charlot luy retint le bras".</ref>{{Efn2|天使の場面のイラストは、{{Harvp|Gautier|1895|p=608}}(第3版)や、{{Harvp|Hausen|1842|p=139}}にある)。}}。 |
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第9枝篇はここで終結するが、編者バロワによれば詩人ランベールが書き綴った真正の部分はここまでで、残りはより後年に書き足されたものだという<ref>{{Harvp|Ludlow|1865|p=296}}</ref>。第十詩編では、オジェは実際にブルイエ(→ブリュイエ)と戦う。相手は途中で休戦を請い、亡きキリストを[[聖墳墓教会|聖墳墓]]に納棺する前、その遺骸に塗りこめたという塗り薬を使って回復した。決闘が再開し、オジェの馬ブロワフォールは悲しくも殺されてしまう。オジェは応酬し、相手を討ち取って、新たにボーサン(→マルシュヴァレー<ref group="注">Bauchan</ref>)という馬を得る。 |
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この後、オジェは、さる英国王女を救助するが、<ref>{{Harvp|Ludlow|1865|p=300}}</ref>この王女と結婚し、シャルル帝から[[エノー州]]と[[ブラバント州]]の領地を与えられた。英国王女と夫婦になったという作り話は、そののちオジェが{{仮リンク|サウザンプトンのビーヴィス|en|Bevis of Hampton|label=ハンプトンのビーヴィス}}の父親になったという言い伝えへの布石のようである<ref>{{Harvp|Ludlow|1865|pp=300, 303}}</ref>。死後、オジェの遺体は従者ベノワとともに、前述モー市の僧院に安置されたという<ref>{{Harvp|Ludlow|1865|p=301}}</ref>([[#モー市と聖ファロ僧院]])。 |
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===改作や翻案=== |
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後年、古い武勲詩の第1枝篇の部分を拡張して、{{仮リンク|アドネ・ル・ロワ|en|Adenes Le Roi}}(1300年没)が、『オジェの幼年時代』(''Enfances Ogier'')を詩作した<ref>{{cite encyclopedia|title=アドネ・ル・ロア |encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%A2-26215 |accessdate=<!--2019-04-12-->}}2019年4月12日閲覧.[[コトバンク]]掲載.</ref>。北欧でも、『オジェの騎士道』の第一枝篇に近似するテクストが十三世紀に[[古ノルド語]]の散文に翻案されて、『{{仮リンク|カルル大王のサガ|en|Karlamagnús saga}}』集の第3部『オッドゲイル・ダンスキ (''Oddgeir Danski'')』として収録された。内容は古武勲詩にほぼ近いが、エンディングが独自の顛末になっている<ref>{{Harvp|Hieatt|1975}}参照</ref>。また、オジェの青少年期は、フランコ=イタリア語にも翻訳された{{sfnp|Farrier|2019|p=268}}。 |
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===中世盛期末頃=== |
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{{仮リンク|フィリップ・ムスケ|en|Philippe Mouskes}}は『韻文年代記』<!--Chronique rimée-->(1243年頃)において、オジェの死について記している{{sfnp|Togeby|1969|pp=111–112}}。 |
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{{仮リンク|ジャン・ドゥートルムーズ|en|Jean d'Outremeuse}}(1338-1400年)は、われわれ後世に伝わらないバージョンのオジェ伝を使っていたらしく、その著書『歴史の鑑』には、オジェが[[アーサー王伝説]]の妖猫カパリュ([[キャスパリーグ]])と戦ったという伝承を記録する<ref>{{harvp|Togeby|1969|pp=158, 171}}: "capalus".</ref> 。 |
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[[File:Fairies by H.J. Ford.jpg|thumb|upright|「妖精たちがデンマーク人オジェに会いに来た」<!--How the Fairies Came to See Ogier the Dane-->{{right|{{small|―[[ヘンリー・ジャスティス・フォード]]画、[[アンドルー・ラング]]編『Red Romance Book』所収「Ogier the Dane」(1921年)より。<!--"And then the sixth fairy, the youngest and the most beautiful of all, who was none other than Morgan le Fay, the Queen of Avalon, caught up the child, and danced about the room in rapturous joy."-->}}}}|alt=|240px]] |
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オジェの文学では、他にもアーサー王伝説が絡められており、上述したモルガン・ル・フェイによってアヴァロンに誘われるあらすじは、{{仮リンク|十音綴|en|decasyllable}}詩版ロマンス(31000行、14世紀初頭{{sfnp|Farrier|2019|p=268}}、 1310年頃{{sfnp|Togeby|1969|p=134}})にみえ{{sfnp|Togeby|1969|pp=140–142}}、また、[[アレクサンドラン]]韻律(十二音綴)詩版(29000行、14世紀中葉{{sfnp|Farrier|2019|p=268}}、1335年頃{{sfnp|Togeby|1969|pp=148}})にも追加される{{sfnp|Paton|1903|p=74}}。後者は極彩色の挿絵で有名な「{{仮リンク|タルボット・シュルーズベリーの書|en|Talbot Shrewsbury Book}}」([[大英図書館]]所蔵 Royal 15 E VI写本。1445年頃)<ref>{{Harvp|Ward|1883|loc=Vol. '''1''', p.605-}}: "MS Royal 15 E VI"</ref><ref>[http://www.bl.uk/catalogues/manuscripts/HITS0001.ASP?VPath=html/39295.htm&Search=15+E+vi.&Highlight=F British Museum/Library オンライン写本カタログ]</ref>等、三点の写本に現存する{{Refn|group="注"|略称P本がパリ、{{仮リンク|アルスナル図書館|fr|Bibliothèque de l'Arsenal}} 2985 本(旧190-191本)、L本がロンドン、大英図書館蔵《タルボット・シュルーズベリーの書》(MS. Royal 15 E vi.)、 T"本がトリノ、イタリア国立図書館L. IV, 2(旧G.I.38本)。}}{{sfnp|Togeby|1969|pp=148}}。 |
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アレクサンドラン詩版は、いわば十音綴詩版と、のちに散文に起こされたバージョンとの中間段階の作品である{{sfnp|Voretzsch|1931|p=477}}。このアレクサンドラン詩版では、冒頭部にモルガンとの宿命があるという内容を継ぎ足した。新生児のオジェが、六人の妖精女たちの訪問を受け、恩寵を授かる場面を加えており、妖精のひとりモルグ・ラ・フェー(モルガン)は、自分の愛人となってすごすときまで、決してオジェ死ぬことは無いという運命を与えた{{sfnp|Ward|1883|loc='''I''', p. 607}}{{Refn|{{harvp|Togeby|1969|p=151}}: 妖精のグロリアンド {{lang|fr|Gloriande}} はキリスト教圏随一の騎士となる、サグルモワール {{lang|fr|Sagremoire}}は、 欠戦することなからず、フォラモンドは {{lang|fr|Foramonde}}は戦で不敗、もうひとり("[[フルール・ド・リス]](アヤメの花)の白い妖精({{lang|fro|fee blanche con fleur de liz}}"{{sfnp|Renier|1891|p=439}})は、恋愛の幸、ベアトリクス{{lang|fr|Beatrix}}は甘美さと優雅、モルグは{{lang|fr|Morgue}} は、彼女の愛人となるので、その前には死なせはしない}} 。オジェの武勲は水増しされ、ついには英国王に即位したともされている{{efn2|かつての物語では、英国王女を助けて結婚する展開はある。}}。そして年齢100に達した時、船が遭難してモルガンのいるアヴァロンへといざなわれる。200年後、フランスの救国のために帰参するが、そのとき燃えさしの木切れ{{Refn|group="注"|{{lang-fr|tison}}{{sfnp|Renier|1891|p=432}}。英語解説では"firebrand"{{sfnp|Ward|1883|loc='''I''', p. 607}}。}} を渡される(その火が尽きれば寿命も尽きる){{Refn|group="注"|[[メレアグロス]]にまつわる伝説にも同モチーフがみられると指摘される<ref>{{harvp|Ward|1883|loc='''I''', p. 607}}: "The firebrand .. suggested by that of Meleager".</ref>。}}。 オジェは使命を達成すると命を捨てようとするが、モルガンに救われる{{sfnp|Ward|1883|loc='''I''', pp. 607–609}}<ref>{{citation|last=Child|first=Francis James|title=37. Thomas Rymer|work=The English and Scottish Popular Ballads|volume=I <!--Part 2-->|publisher=Houghton Mifflin|year=1884|url=https://books.google.com/books?id=m9IVAAAAYAAJ&pg=PA319|page=319}}</ref>{{Refn|group="注"|脚色の多くは「ギヨーム・ドランジュ詩群」に属する武勲詩{{仮リンク|ロキフェールの戦い|fr|La Bataille Loquifer|label=『ロキフェールの戦い』}}に負うところが多いのではないか、と指摘される。その武勲詩では{{仮リンク|ギヨーム・ドランジュ|fr|Guillaume d'Orange (chanson de geste)}}がめとったサラセン人妻の弟レヌアールが妖精モルガーヌ(モルガン)と子をもうけ、やはり妖猫カパリュ/シャパリュ(Chapalu)と戦う{{sfnp|Ward|1883|loc='''I''', pp. 607–608}}。}}。 |
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この展開では、オジェはモルガンとの間にムールヴァン(Meurvin, Marlyn)をもうけたとされる{{sfnp|Paton|1903|p=77}} 。ムールヴァン自身も、後世のロマンスの題名主人公となった(『Histoire du Preux et Vaillant Chevalier Meurvin、1540年)。その創作において、オジェは史実上の[[ゴドフロワ・ド・ブイヨン]]([[第1回十字軍]]指導者、[[エルサレム王国|エルサレム国王]])の祖先と設定された{{sfnp|Dunlop|1906|p=337}}。 |
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===近世=== |
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[[印刷機]]の発明後、アレクサンドラン韻律詩と同様な内容のフランス散文訳『オジェ物語』が、1498年にパリで出版された<ref>{{harvp|Togeby|1967}}; {{harvp|Togeby|1969|pp=13, 121}}</ref>。こうした[[インキュナブラ|揺籃印刷本]]をかわきりに、16世紀にも複数の版が刊行し、以後、何度も再版されて広まった{{sfnp|Togeby|1969|p=122}}。 |
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オジェは、アヴァロンの仙女モルガンと、ムールヴァンと言う名の子をもうけたとされていて、あまり知られていないが『Roman de Meurvin, fils d'Oger le Danois』(1531年)も出版されており、ここではムールヴァンの子オリアン<ref group="注">Oriant</ref>が、[[ローエングリン (アーサー王伝説)|白鳥の騎士]]の祖先とされている<ref name="britannica1880"/><ref>{{Harvp|Dixon-Kennedy|1995}}</ref>。 |
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イタリア語では、たとえば{{仮リンク|ルイジ・プルチ|en|Luigi Pulci}}(1432-1484)作の『[[モルガンテ]]』第1詩章17詩節で、[[ローラン (シャルルマーニュ伝説)|オルランドー]]が、デーン人ウッジェーリ(=オジェ)の妻エルメリーナから聖剣コルタナと名馬ロンデル<ref group="注">ロンデロ; Rondel, Rondello</ref>をかっぱらっていってしまう(この詩の冒頭部分は、[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン卿]]が『モーガンテ・マッジョーレ』の題で英訳している<ref name="byron"/>)。(<small>*このロンデロという馬号は、{{仮リンク|ブオーヴォ・ダントーナ|it|Buovo d'Antona}}の馬と同名であることが興味深い。上述ビーヴェス卿の馬アランデルに相当し「燕子〔つばくろ〕」を意味する</small>)。 |
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==モー市と聖ファロ僧院== |
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[[File:ActSanctOrdSBen1677-p664b - cropped-to-statues.jpg|thumb|霊廟。聖オトゲルス(オジェ)と聖ベネディクト(聖ベノワ、聖ベント)の[[石棺]]が奥に見える(右下部分。モー市、当時の聖ファロ大修道院)。<br />{{small|{{right|―『聖ベネディクト修道会聖人伝』(1677年版)より。[[:File:ActSanctOrdSBen1677-p664b - cropped-to-statues.jpg|右半上下]]を見る・[[:File:ActSanctOrdSBen1735-p624.png|左右全体]](1735年本)を見る。}}}}]] |
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モー市にかつてあった聖ファロ僧院には、霊廟があり、聖オトゲル(オトゲリウス)と聖ベネディクトが横に並んだ仰臥像を蓋に配した石棺に、両聖人の遺体が納められていた。武勲詩でもオジェとその従者ベノワがこの僧院に永眠することになっており、彼らと二聖人を同一視する伝承があった<ref name=britannica1911/>。 |
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この霊廟の挿絵は、[[ジャン・マビヨン]]著の『聖ベネディクト修道会聖人伝』に、折り畳みページとして差し込まれている(右の図参照)<ref>{{citation|last1=d'Achery |first1=Lucas |last2=Mabillon |first2=Jean |title=Acta sanctorum ordinis S. Benedicti: Pars Prima |volume=IV |place=Paris |publisher=Louis Biliaine |year=1677 |url=https://books.google.com/books/content?id=KBDsYnABUeIC&hl=ja&pg=PA664-IA2 |page=664}}</ref><ref>{{citation|last=Mabillon |first=Jean |title=Acta Sanctorum Ordinis S. Benedicti: Pars Prima |volume=IV |publisher=Coletus & Bettinellus |year=1735 |url=https://books.google.com/books/content?id=rt1JAAAAcAAJ&pg=PA624-IA2 |page=624}}</ref><ref name=britannica1911/>。 |
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僧院は[[1751年]]に取り壊しにあったが、[[1874年]]に霊廟のものと思われる伝・オジェの頭部が発見された<ref name="tete-dogier"/>。これは、頭部と、上掲の『聖ベネディクト修道会聖人伝』の横臥像の容貌を比較してその結論に至ったとされる<ref name="tete-dogier"/>。頭部は現在は{{仮リンク|ボシュエ美術館|en|Musée Bossuet}}が所蔵<ref>{{cite web|url= http://www.musee-bossuet.fr/fr/collection-permanente.html |title=Collection permanente |author=Musée Bossuet |accessdate=2017年11月}}</ref> |
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==スカンジナビア== |
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北欧では、「オッドゲイル」のサガが写本に残された時代を経て、近世になると{{仮リンク|クリスチャン・ピーダセン|en|Christiern Pedersen}}が、パリ大学に在学中に、フランス語散文オジェ物語の印刷本『デンマルク人オジェ』(''Ogier le Dannoys'') を求め、帰国後デンマーク訳本を1534年に『ホルガー・ダンスク年代記』(''Kong Holger Danskes Krønike'')として出版した。このことにより、オジェ伝説がデンマーク民間により広く伝播した。このときピーダセンは、オルガー・ダンスクは、じつは、デンマークの王子で、ゴトリク王({{lang-da|Gøtrik}})の息子だとしている<ref name="#1"/>。[[サクソ・グラマティクス]]の『[[デンマーク人の事績]]』などによれば、ゴトリク王の息子の名はオーラーブであるが<ref>サクソ・グラマティクス、p.439</ref>、それと同一人物だと説明した。。 |
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[[ファイル:Holger danske.jpg|thumb|left|[[クロンボー城]]のホルガー・ダンスク像。{{right|{{small|―{{仮リンク|ハンス・ピーダ・ピーダセン=ダン|da|H.P. Pedersen-Dan}}作 (1907年)の原作品。}}}}]] |
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デンマークではさらに[[ハンス・クリスチャン・アンデルセン|アンデルセン]]の童話や、{{仮リンク|フリーズリク・ルズヴィ・エミリウス・クンツェン|en|F.L.Æ. Kunzen|label=クンツェン|}}のオペラに『デンマーク人ホルガー』があり、また{{仮リンク|ベアンハード・セヴェリン・インゲマン|en|Bernhard Severin Ingemann|label=インゲマン}}の詩に{{仮リンク|ヨハン・クリスティアン・ゲバウアー|en|Johan Christian Gebauer|label=ゲバウアー}}が曲をつけた歌も知られている。 |
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ヨーロッパには([[アーサー王]]や[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|バルバロッサ]])など、洞穴の眠れる巨人や英雄が、国の有事に復活するという伝説があるが、デンマークでもそういうした眠れるホルガー・ダンスク伝説が出現し、とりわけ、ペデルセンの郷土[[ヘルシンオア|ヘルシンガー]]市にまつわりつくようになったといわれる。この都市の某ホテルがホルガーの銅像([[1907年]])を制作依頼し、その石膏型を[[クロンボー城]]の砲郭に置いたところ、そちらの方が一躍有名になった。しかし石膏像は湿気で劣化をおこし、1985年以来コンクリート像に置き換えられている<ref name="kronborgcastle"/>。 |
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[[第二次世界大戦]]中は、[[ナチス・ドイツ]]の占領に対するデンマークの[[抵抗分子]]が、「ホルガー・ダンスク」の名で[[レジスタンス運動]]を行なった。 |
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==大衆文化のオジェ== |
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オジェ・ル・ダノワは、[[トランプ]]のスペードのジャックの人物とされる。アメリカの作家、[[ポール・アンダースン]]の『魔界の紋章』もオジェ・ル・ダノワの伝承を下敷にしている。 |
オジェ・ル・ダノワは、[[トランプ]]のスペードのジャックの人物とされる。アメリカの作家、[[ポール・アンダースン]]の『魔界の紋章』もオジェ・ル・ダノワの伝承を下敷にしている。 |
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==関連項目== |
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* 武勲詩[[ユオン・ド・ボルドー]]の続編では、妖精郷を統治するアーサーが王位をユオンに禅譲させられまいかと不安になる。 |
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* オジェが妖猫[[キャスパリーグ]]と戦ったとする伝記がある。 |
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==脚注== |
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===補注=== |
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{{reflist|3|group="注"}} |
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===出典=== |
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{{reflist|2|refs= |
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<ref name="britannica1880">Encyclopedia Britannica (1880-1899の各版), vol.20, "Romance" の項</ref> |
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<ref name=britannica1911>{{cite encyclopedia|title=Ogier the Dane |encyclopedia=The Encyclopaedia Britannica |volume=20 |year=1911|page=23|url=https://books.google.com/books?id=6SpLAQAAMAAJ&pg=PA23}}</ref> |
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<ref name="byron">{{citation|last=Gordon|first=George, Lord Byron|title=Complete works|year=1841|place=Place|publisher=A. and W. Galignani|url=https://books.google.co.jp/books?id=nEoJAAAAQAAJ&pg=PA328}}</ref> |
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<ref name="gautier1884">{{cite book|last=Gautier |first=Léon |author-link=:fr:Léon Gautier |title=La chevalerie |location=Paris |publisher=V. Palmé |year=1884 |url=https://books.google.com/books?id=0PoLrHxlnV8C&pg=PA608 |pages=608–609 |lang=fr}}</ref> |
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<ref name="gautier-eng-1891">{{cite book|last=Gautier |first=Léon |author-link=:en:Léon Gautier (historian) |others=translated by [[Henry Frith]] |title=Chivalry |publisher=G. Routledge and sons |year=1891 |url=https://books.google.com/books?id=VUMKAAAAIAAJ&pg=PA429 |pages=429, 432, 21}}</ref> |
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<ref name="geddes">{{cite book|translator-last=Geddes |translator-first=James |translator-link=<!--James Geddes, Jr. (linguist) 1858-1948--> |title=La Chanson de Roland |location=New York |publisher=Macmillan |year=1920 |url=https://books.google.com/books?id=yyfrAAAAMAAJ&pg=PA171 |pages=171–172}}</ref> |
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<ref name="keller-medieval-france-ency">{{cite book|last=Keller |first=Hans-Erich |author-link=:de:Hans-Erich Keller |title=Chevaleri Ogier |editor1-last=Kibler |editor1-first=William |editor1-link=<!--William Kibler--> |editor2-last=Zinn |editor2-first=Grover A. |editor2-link=<!--Grover A. Zinn--> |work=Medieval France: An Encyclopedia |url=https://books.google.com/books?id=MQoKeohhNkMC&pg=PA406 |publisher=Garland |year=1995 |pages=405–406 |isbn=978-0-8240-4444-2}}</ref>> |
|||
<ref name="kronborgcastle">{{cite web|url=http://www.kronborgcastle.com/en/HolgerDanske.aspx|title=Kronborg Castle site (Holger the Dane)|accessdate=2012-03-02}}</ref> |
|||
<ref name="loeseth">{{citation|last=Löseth |first=Eilert |author-link=:no:Eilert Løseth |title=Analyse critique du Roman de Tristan en prose française |place=Paris |publisher=Bouillon |year=1890 |page=302 |url=https://archive.org/stream/analysecritiqued00lsuoft#page/302/mode/2up/}} {{fr icon}}</ref> |
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<ref name="loomis1922a">{{citation|last=Loomis |first=Roger Sherman |author-link=:en:Roger Sherman Loomis |title=Tristram and the House of Anjou |journal=The Modern Language Review |volume=17 |number=1 |date=January 1922a |page=29 <!--24–30--> |doi=10.2307/3714327 |jstor=3714327 |url=https://archive.org/stream/modernlanguager05assogoog#page/n40/mode/2up}}</ref> |
|||
<ref name="loomis1922b">{{citation|last=Loomis |first=Roger Sherman |author-link=:en:Roger Sherman Loomis |title=Vestiges of Tristram in London |journal=The Burlington Magazine |volume=41 |date=July–September 1922b |pages=56–59 <!--54–64 --> |url=https://books.google.com/books?id=Ufc4AQAAMAAJ&pg=RA1-PA54-IA2}}</ref> |
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<ref name="mason">{{cite book|last=Mason |first=Emma |title=The Hero's Invincible Weapon: an Aspect of Angevin Propaganda|editor-last1=Harper-Bill |editor-first1=Christopher |editor-last2=Harvey |editor-first2=Ruth |work=The Ideals and Practice of Medieval Knighthood III|url=https://books.google.com/books?id=qa62nUs53kkC&pg=PA134 |publisher=Boydell & Brewer |year=1990 |pages=132–134 |isbn=978-0-85115-265-3}}</ref><!--もと name="Harper" だったが、論文集の編者の名前だけを挙げて、論文の筆写を明記しない出典方法だっので是正した。--> |
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<ref name="tete-dogier">{{cite web|title=Tête d’Ogier le Danois, Meaux|work=Topic Topos|url=http://fr.topic-topos.com/tete-dogier-le-danois-meaux|accessdate=2012-03-03}}</ref> |
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}} |
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==参考文献== |
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;(邦書) |
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*{{citation|和書|ref={{SfnRef|トマス・ブルフィンチ|市場 (訳)|2007}}|author=トマス・ブルフィンチ|others=市場泰男 訳|title=シャルルマーニュ伝説 |publisher=講談社 |year=2007 |url= |at=pp. 325–360、第23–25章 オジエ・ル・ダノワ(一)~(三) |isbn=978-4-06-159806-5 ||series=講談社学術文庫 1806}} |
|||
** [https://books.google.com/books?id=zXvkAAAAQBAJ&pg=PT200 グーテンベルク21]版 |
|||
*{{citation|和書|author=サクソ・グラマティクス|others=谷口幸男 訳|title=デンマーク人の事績|year=2007|series= |volume=1806|publisher=東海大学出版会|isbn=4-486-01224-0}} |
|||
;(事典・一般書) |
|||
*{{citation|editor-last=Kibler |editor-first=William |title=Medieval France: an encyclopedia |publisher=Psychology Press |year=1995 |isbn=9780824044442 |url=https://books.google.co.jp/books?id=4qFY1jpF2JAC&pg=PA215 |pages=215-}} |
|||
*{{citation|last=Gautier |first=Léon |author-link=:en:Léon Gautier (historian) |title=La chevalerie |year=1895 |place=Paris |publisher= H. Welter |url=https://archive.org/details/lachevalerie00gautuoft |edition=3ème éd.}} |
|||
*{{citation|last=Gautier |first=Léon |author-link=:en:Léon Gautier (historian) |others=Translated by [[:en:Hernry Frith|Henry Frith]] |title=Chivalry |year=1891 |place=London |publisher=George Routledge and sons |url=https://books.google.com/books?id=XttCAAAAIAAJ&pg=PA429 }}(英訳) |
|||
*{{citation|last=Dixon-Kennedy |first=Mike |author-link=<!--Mike Dixon-Kennedy--> ||title=Arthurian Myth & Legend, an A-Z of People and Places |publisher=Blandford |year=1995 |isbn=978-0713725612}}; Brockhampton Press (Reprint) 1998 [url=https://books.google.co.jp/books?id=a622vq_g6nkC snippet] |
|||
;(一次資料) |
|||
*{{Cite book|和書|ref={{SfnRef|有永 (訳)|1965}}|others=有永弘人 (訳)|year=1965|title=ロランの歌|series=岩波文庫 赤501-1|publisher=岩波書店|isbn=4-00-325011-7|url=http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN4-00-325011-7}} |
|||
*{{citation|author=Raimbert de Paris |editor-last=Barrois |editor-first=Joseph |editor-link=<!--Joseph Barrois--> |year=1842 |title=La chevalerie Ogier de Danemarche |place=Paris |publisher=Techener}} [https://books.google.com/books?id=3ewWAAAAYAAJ Tome 1], [https://books.google.com/books?id=Ql5JAAAAMAAJ Tome 2]. |
|||
*{{citation|editor-last=Unger |editor-first=Carl Rikard |editor-link=:en:Carl Richard Unger |title=Karlamagnus saga ok kappa hans |place=Christiania |publisher= H.J. Jensen |year=1859 |url=https://books.google.co.jp/books?id=iOQTAAAAQAAJ)}} |
|||
*{{citation|editor-last=Hieatt |editor-first=Constance B. |editor-link=:en:Constance Bartlett Hieatt |year=1975 |work=Karlamagnús saga: The Saga of Charlemagne and his heroes |volume=1|place=Toronto |publisher=Pontifical Institute of Mediaeval Studies |isbn=0-88844-262-9}} (英訳 Kms branches I ~ III) |
|||
;(揺籃期・早期印刷本のテキスト) |
|||
*{{citation|last=Togeby |first=Knud |author-link=:da:Knud Togeby |title=Ogier le Dannoys: Roman en prose du XVe siècle |place=København |publisher=Munksgaard |year=1967}} (facsimile)[Fotografisk Optryk af Antoine Véerards udg., Paris 1498] |
|||
*{{citation|ref={{SfnRef|Benoist Rigaud ed.|1579}}|author= |editor-last=Rigaud |editor-first=Benoist |editor-link=:fr:Benoist Rigaud |title=L'Histoire d'Ogier le Dannoys Duc de Dannemarche, Qui fut l'un des douze Pers de France |publisher=Benoist Rigaud |year=1579 |url=https://books.google.com/books?id=0_E7bj4m5bsC}} |
|||
*{{citation|editor-last=Hanssen |editor-first=Nis |editor-link=<!--Nis Hanssen--> |others=Fortale af [[:en:Christian Molbech|C. Molbech]] |title=Olger Danskes Krønike |location=Kjöbenhavn |publisher=Louis Klein |year=1842 |pages=|url=https://books.google.com/books?id=TG9WAAAAcAAJ |lang=da}} |
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;(二次資料) |
|||
*{{citation|last=Brandt |first=Carl Joakim |author-link=:da:Carl Joakim Brandt |year=1882 |title=Om Lunde-kanikken Christiern Pedersen og hans skrifter|place=Kjøbenhavn |publisher=G. E. C. Gad, |url=https://books.google.co.jp/books?id=WBRBAAAAYAAJ&pg=PA271&redir_esc=y&hl=ja |pages=271–}} |
|||
*{{citation|last=Dunlop |first=John Colin |author-link=:en:John Colin Dunlop |chapter=Chapter IV: Romances of chivalry relating to Charlemagne and his peers: § Ogier le Danois § Meurvin|title=History of Prose Fiction |volume=1 |location=London |publisher=George Bell and sons |year=1906 |chapter-url=https://books.google.com/books?id=hv8-AAAAYAAJ&pg=PA337 |pages=329–337; 337–338}} |
|||
*{{citation|editor-last=Farrier |editor-first=Susan E. |editor-link=<!--Susan E. Farrier--> |title=The Medieval Charlemagne Legend: An Annotated Bibliography |place=|publisher=Routledge|year=2019 |url=https://books.google.com/books?id=gzj3DwAAQBAJ&pg=PA268 |pages=262–271 |isbn=<!--0429523920, -->9780429523922}} |
|||
*{{citation|last=Ludlow |first=John Malcolm Forbes |author-link=:en:John Malcolm Forbes Ludlow|title=Popular epics of the middle ages of the Norse-German and Carlovingian Cycles |volume=2 |place=London |publisher=Macmilla n|year=1865 |url=https://books.google.co.jp/books?id=0FgmAAAAMAAJ&pg=PA247 |pages=247-}} |
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;(―モー市の伝オジエの頭部と聖オトゲル霊廟) |
|||
*{{citation|last=Gassies |first=Georges |author-link=<!--Georges Gassies--> |title=Note sur une tête de statue touvée à Meaux |journal=Bulletin archéologique du Comité des travaux historiques et scientifiques |year=1905 |volume=1 |url=https://books.google.co.jp/books?id=YT4ZQOHmG_sC&pg=PA40 |pages=40-42}} {{fr icon}} |
|||
*上記の古書{{Harvnb|Luc d'Achery|Jean Mabillon|1677}}の見開きの図「聖オトゲルと聖ベネディクトの霊廟」 |
|||
* {{citation|last=Paton |first=Lucy Allen |author-link=<!--Lucy Allen Paton--> |title=Studies in the Fairy Mythology of Arthurian Romance |publisher=Ginn&Company |year=1903 |pages=74–77 |url=https://books.google.com/books?id=MR4bAAAAYAAJ&pg=RA1-PR74}} |
|||
* {{cite journal|last=Renier |first=Rodolfo |author-link=:it:Rodolfo Renier |title=Ricerche sulla leggenda di Uggeri il Danese in Francia |journal=Memorie della Reale accademia delle scienze di Torino |volume=41 |series=serie II |date=19 April 1891 |url=https://books.google.com/books?id=PvpDAQAAMAAJ&pg=RA2-PA439 |pages=389–459 |lang=it}} |
|||
* {{citation|last=Togeby |first=Knud |author-link=:da:Knud Togeby |title=Ogier le Danois dans les littérratures européennes |publisher=Munksgaard |year=1969 |url=https://books.google.com/books?id=SVdEAQAAIAAJ}} |
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* {{cite book|ref={{SfnRef|Voretzsch|1931}}|last=Voretzsch |first=Karl |author-link=:de:Karl Voretzsch|title=Introduction to the Study of Old French Literature |place=Genève |publisher=Slatkine |year=1976 |orig-year=1931 |url=https://books.google.com/books?id=BkoMzwXRiREC&pg=PA207 |pages=208–210}} |
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*{{citation|last=Ward |first=Harry Leigh Douglas |author-link=<!--Harry Leigh Douglas Ward--> |year=1883 |title=Catalogue of romances in the Department of manuscripts in the British Museum |place=London |publisher=William Clowes |url=https://books.google.co.jp/books?id=AegtAAAAIAAJ&pg=PA604 |pages=604-}} |
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==外部サイト== |
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* クロンボー城のオジエ像案内{{cite web|url=http://www.kronborgcastle.com/en/HolgerDanske.aspx|title=Kronborg Castle site (Holger the Dane)|accessdate=2012-03-02}} |
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*モー市のオジエの石像頭部の案内:{{cite web|title=Tête d’Ogier le Danois, Meaux |
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|work=Topic Topos|url=http://fr.topic-topos.com/tete-dogier-le-danois-meaux|accessdate=2012-03-03}} |
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2023年8月1日 (火) 17:30時点における最新版
デーン人オジエ、デンマルク人〔びと〕オジエ[注 1]、デンマルクのオジエ[1]、またはオジエ・ル・ダノワ[注 2](フランス語:Ogier le Danois, Ogier de Danemarche)は、中世フランスのシャルルマーニュ伝説の武勲詩に登場するパラディンの一人で伝説上の英雄。
「短い」という意味の名の、切っ先が欠けた剣コルタン[注 3]を持つ。
オジェを主人公とした武勲詩、『オジェの騎士道』は、「ドーン・ド・マイヤンスの武勲」の詩群(別称「叛臣の物語群」)[注 4]の一つに数えられ[2][3]、シャルル王に歯向かう氏族の物語のひとつをなしている[注 6]。
特にデンマークでは「ホルガー・ダンスク」[注 7]の名で親しまれ、地元の英雄とされている。
各言語の表記
[編集]- アングロノルマン語: Oger 〔オジェ〕(『ロランの歌』)
- 古ノルド語:Oddgeir danski 〔オッドゲイル・ダンスキ〕(『カルル大王のサガ』)
- フランコ=イタリア語: Uggeri il Danese 〔ウッジェーリ・イル・ダネーセ〕
- 近世のイタリア語:Ogieri, Ogiero, Uggieri 〔オジエリ、オジエロ、ウッジェーリ〕等。
総覧
[編集]この英雄がフランス系かデンマーク系かについては、いささか見解の対立がある。フランスでは19世紀の編者バロワが、オジェの添え名である「ル・ダノワ」や「ダーヌマルシュ」はデンマークではなくアルデンヌの所領に由来すると仮説を立てた[4]。
これに対し、16世紀のデンマーク訳本は、英雄の父親ゴーフロワを、サクソ・グラマティクス著の史書にもある歴史上のデンマーク王グードリグに比定し、英雄自身は、その王子オルフであると断定している[5]。
(* フランスで発見の伝オジェの石像頭部については§モー市と聖ファロ僧院、デンマークの石膏像については §スカンジナビアの各節を参照)。
コルタン
[編集]オジェが「短い剣」を持つという伝承は相当古く、カスティーリャ語で書かれた『サン・ミリャンの注記』(1060年頃成立)に、「短い剣のオジェーロ(オジェーロ・スパタ・クルタ)」[注 8]という二つ名だったことが記されている[6]。
オジェを主人公ととした武勲詩では、後述するようにサラセン人[注 9]からこのコルタンという剣と[注 10]、名馬ブロワフォール(→ベフロール)[注 11]を入手した。
後世の脚色では、アーサー王伝説『散文トリスタン』(1210-1230年頃)で、トリスタンが持つ刃こぼれの剣をオジェが受け継ぎコルタンと命名したことになっている[8][9]。ちなみに英国の戴冠剣のひとつはカーテナと呼ばれ、オジェの剣と同名(「短い」の意)で[注 12]、ある学者によればトリスタンの先の毀れた剣(トリスタン伝説では剣先がモルオルトの頭に刺さった)が伝わったものと昔は認識されてはずだという[11][9]。
作品
[編集]日本語で手軽に読める資料に、市場泰男訳トマス・ブルフィンチ再話『シャルルマーニュ伝説』「第23-25章:オジエ・ル・ダノワ」がある。
オジェ誕生のときに六人の「名付け親の妖精」的な女性たちが現れて吉凶こもごもの授け物する。そのうちの仙女のひとりモルガン・ル・フェイ(ブ氏再話では→モルガナ)が、やがてのち物語の終盤でオジエをアヴァロンに連れて行き、いわば夫婦同然に同棲させる。こうした「ケルト物語的」要素は、本来の武勲詩にはない部分で、中世後期に追加された(§中世後期の節を参照)。ともあれ、このことでオジエはアーサー王物語の住人に仲間入りさせられた。
古武勲詩から抜粋した粗筋は、以下に記した。ブルフィンチ再話とは、大筋では合致するが、差異も多い。
オジェの騎士道
[編集]伝ランベール・ド・パリ作『オジェの騎士道』[注 13](Chevalerie Ogier de Danemarche; 原型は12世紀だが、伝わる作品は13世紀初頭[2])は、約13,000行におよぶ武勲詩で、全12枝篇に分けられている[12][13][14]。
第1枝篇:オジェの出自
[編集]第1枝篇(全3109行、「オジェの幼年時代」の部や章などとも仮称される[15][16]は、オジェの青少年期の部ともいえるが、おおよそ次のような筋書きである:[17][18][注 14]
- オジェはデンマルク公ゴーフロワ(→ジョフロワ)を父に生まれる(ちなみに他の作品によれば、ゴーフロワはドーン・ド・マイヤンスの息子に設定されている[3][19])。
- 若きオジェは人質となり、シャルル王に預けられる。それでも監禁先のサントメール城主の娘と情事をおこない、息子ボードワン[注 15](→ボルドウィン[20])をもうける。
- そのうち父ゴーフロワの不遜が度を増し、シャルル王は、オジェを絞首刑にすると決める。ところがローマ教皇から、異教徒の侵略に対する救援依頼状が届き、シャルルは、オジエも連行しイタリアに向かう。身元保証人は、親戚のバイエルン公ネーム(→ナモ)が引受ける。オジェは元服(騎士叙任の儀礼)を受けておらず具足もなく丸腰だった。観戦していると、前衛で旗手を務めるアロリー・ド・プイユ(プッリャ州のアロリー)[注 16]の敵前逃亡を目にする。オジェたちは、アロリー隊から甲冑・軍旗(オリフラム)を奪い、奮迅した。苦戦中のフランス軍は応酬し、オジェは感謝され王から佩刀の叙勲を受ける[注 17]
- しかし新手の強敵カラウー(→カラヒュー)[注 18]の報告が入る。カラウーは、敵の総大将である都督〔アミラル〕コルスブルの娘グロリアンドの許嫁だったが、異教徒ながら、たいへん義を重んずる人物であった。またカラウーは、聖剣コルタン( →コルタナ)[注 19]の所有者で、姫の御前でのオジェと決闘を申し込む。シャルルの息子シャルロ[注 20]が自分の出番だと駄々をこねるので、もうひとりサドワヌ(→サドン[注 21])という対戦相手をつけて、二組で決闘をおこなう。ところが戦いが佳境に入った頃、水をさすように、都督の息子ダヌモンの一団が乱入し、オジェを捕獲する。説得に応じず釈放しないため、律儀なカラウーは、フランス陣営に投降し、もし、オジェが処刑されようものなら、自分も殺して構わない、と言った。
- ここで異教徒側にまた強者の救援が到着する。マヨルカ国[注 22]のブリュナモン[注 23]という猛者である。都督は姫とカラウーの婚約は破談にし、このブリュナモンと娶わせるという。姫は反対だが、阻止するとなると、勇士を立ててブリュナモンと戦わねばならない。姫はその勇士の役を、なんと俘虜のオジェに依頼し、カラウーも聖剣コルタンをオジェに与えて一任する。オジェはみごとブリュナモンを斬り捨て、額に白点のある黒馬ブロワフォール(→ベフロール)[注 11]を手に入れる。
第2枝篇:息子の死と出奔
[編集]第2枝篇[注 25]は他と比べて400行弱ときわめて短いが、重要な展開の部分。シャルロ王子が、オジェの息子ボードワネットとチェス将棋を指して遊んでいたが、「王手詰み〔チェックメイト〕」を宣告されてかっとなり将棋盤で相手の頭をたたき割ってしまう。息子の変わり果てた姿に憤慨したオジェは、棒切れをふりまわして王子を追いまわす。王は金銭で解決しようとするが、オジェは王子の命で償ってもらうとゆずらない。オジェは追放の身となり、パヴィア国のデジエ(≒史実のランゴバルド国王デシデリウスとされる[注 26])に身を寄せる。
オジェの反乱・投獄・復帰
[編集]この後、追討しようとするフランス王軍を、オジェがさんざんに翻弄する。オジェは、ローヌ川沿いのシャ[ス]テルフォール[注 27]に牙城を得、マンゴネルなどの大型兵器で攻撃されても、従者ベノワ[注 28]がギリシア火薬で対抗するなど、痛快に立ち回る劇が語られる[22][注 29]。
しかしそんなオジェも、やがて捕えられる。五人分の食欲があるこの囚人に対し、毎日パンを四分の一と水で薄めた古ワイン一杯しか与えませんから、と言ってテュルパン司教が、その監視役を買って出るが、そのじつ特大パンを焼かせ、巨大な銀杯を調達させて文字通りその四分の一だけを与えて存分に養った。七年が経ち、オジェのひげも白くなったが、二の腕や首筋はまだまだ太かった[23]。
この展開で、第9枝篇(第9796~11040行)が始まる:[注 30]
- フランスは、アフリカの王ブルイエまたはブレユス(→ブリュイエ[注 31])率いる軍の侵攻を受け、被害は甚大、「オジェがおれば」の声高まる。王は不承不承オジェの復帰を承諾。巨躯のオジェに耐久できる馬探しが始まる(王の馬ブランシャールを含む数頭の馬を試乗してぺしゃんこにする滑稽な場面が盛り込まれる[注 32]。しかしオジェの愛馬ブロワフォール(→ベフロール)が、モー市の聖ファロ大修道院(→サンファロン大修道院)に預けられていると判明。見違えるほど痩せこけた馬は、前の主人とめぐり合うと、鼻息を鳴らしていななき、体を平伏させオジェを迎え、涙をさそう。戦闘準備は整ったが、オジェは自分の息子を殺した王子の命を差し出さねば働かないと、条件を出す。王は困惑するが、ネームにより、フランスの国運がかかっている事案であり、自分も息子ベルトランをオジェに斬られたが、私情ははさまない、と諫言される。しかしオジェが聖剣コルタンを振りかぶり、いざ王子の首をはねようとしていたその時、天使が降臨してその手をとどめた[26][注 33]。
第9枝篇はここで終結するが、編者バロワによれば詩人ランベールが書き綴った真正の部分はここまでで、残りはより後年に書き足されたものだという[27]。第十詩編では、オジェは実際にブルイエ(→ブリュイエ)と戦う。相手は途中で休戦を請い、亡きキリストを聖墳墓に納棺する前、その遺骸に塗りこめたという塗り薬を使って回復した。決闘が再開し、オジェの馬ブロワフォールは悲しくも殺されてしまう。オジェは応酬し、相手を討ち取って、新たにボーサン(→マルシュヴァレー[注 34])という馬を得る。
この後、オジェは、さる英国王女を救助するが、[28]この王女と結婚し、シャルル帝からエノー州とブラバント州の領地を与えられた。英国王女と夫婦になったという作り話は、そののちオジェがハンプトンのビーヴィスの父親になったという言い伝えへの布石のようである[29]。死後、オジェの遺体は従者ベノワとともに、前述モー市の僧院に安置されたという[30](#モー市と聖ファロ僧院)。
改作や翻案
[編集]後年、古い武勲詩の第1枝篇の部分を拡張して、アドネ・ル・ロワ(1300年没)が、『オジェの幼年時代』(Enfances Ogier)を詩作した[31]。北欧でも、『オジェの騎士道』の第一枝篇に近似するテクストが十三世紀に古ノルド語の散文に翻案されて、『カルル大王のサガ』集の第3部『オッドゲイル・ダンスキ (Oddgeir Danski)』として収録された。内容は古武勲詩にほぼ近いが、エンディングが独自の顛末になっている[32]。また、オジェの青少年期は、フランコ=イタリア語にも翻訳された[33]。
中世盛期末頃
[編集]フィリップ・ムスケは『韻文年代記』(1243年頃)において、オジェの死について記している[34]。
ジャン・ドゥートルムーズ(1338-1400年)は、われわれ後世に伝わらないバージョンのオジェ伝を使っていたらしく、その著書『歴史の鑑』には、オジェがアーサー王伝説の妖猫カパリュ(キャスパリーグ)と戦ったという伝承を記録する[35] 。
オジェの文学では、他にもアーサー王伝説が絡められており、上述したモルガン・ル・フェイによってアヴァロンに誘われるあらすじは、十音綴詩版ロマンス(31000行、14世紀初頭[33]、 1310年頃[36])にみえ[37]、また、アレクサンドラン韻律(十二音綴)詩版(29000行、14世紀中葉[33]、1335年頃[38])にも追加される[39]。後者は極彩色の挿絵で有名な「タルボット・シュルーズベリーの書」(大英図書館所蔵 Royal 15 E VI写本。1445年頃)[40][41]等、三点の写本に現存する[注 35][38]。
アレクサンドラン詩版は、いわば十音綴詩版と、のちに散文に起こされたバージョンとの中間段階の作品である[42]。このアレクサンドラン詩版では、冒頭部にモルガンとの宿命があるという内容を継ぎ足した。新生児のオジェが、六人の妖精女たちの訪問を受け、恩寵を授かる場面を加えており、妖精のひとりモルグ・ラ・フェー(モルガン)は、自分の愛人となってすごすときまで、決してオジェ死ぬことは無いという運命を与えた[43][45] 。オジェの武勲は水増しされ、ついには英国王に即位したともされている[注 36]。そして年齢100に達した時、船が遭難してモルガンのいるアヴァロンへといざなわれる。200年後、フランスの救国のために帰参するが、そのとき燃えさしの木切れ[注 37] を渡される(その火が尽きれば寿命も尽きる)[注 38]。 オジェは使命を達成すると命を捨てようとするが、モルガンに救われる[48][49][注 39]。
この展開では、オジェはモルガンとの間にムールヴァン(Meurvin, Marlyn)をもうけたとされる[51] 。ムールヴァン自身も、後世のロマンスの題名主人公となった(『Histoire du Preux et Vaillant Chevalier Meurvin、1540年)。その創作において、オジェは史実上のゴドフロワ・ド・ブイヨン(第1回十字軍指導者、エルサレム国王)の祖先と設定された[52]。
近世
[編集]印刷機の発明後、アレクサンドラン韻律詩と同様な内容のフランス散文訳『オジェ物語』が、1498年にパリで出版された[53]。こうした揺籃印刷本をかわきりに、16世紀にも複数の版が刊行し、以後、何度も再版されて広まった[54]。
オジェは、アヴァロンの仙女モルガンと、ムールヴァンと言う名の子をもうけたとされていて、あまり知られていないが『Roman de Meurvin, fils d'Oger le Danois』(1531年)も出版されており、ここではムールヴァンの子オリアン[注 40]が、白鳥の騎士の祖先とされている[55][56]。
イタリア語では、たとえばルイジ・プルチ(1432-1484)作の『モルガンテ』第1詩章17詩節で、オルランドーが、デーン人ウッジェーリ(=オジェ)の妻エルメリーナから聖剣コルタナと名馬ロンデル[注 41]をかっぱらっていってしまう(この詩の冒頭部分は、バイロン卿が『モーガンテ・マッジョーレ』の題で英訳している[57])。(*このロンデロという馬号は、ブオーヴォ・ダントーナの馬と同名であることが興味深い。上述ビーヴェス卿の馬アランデルに相当し「燕子〔つばくろ〕」を意味する)。
モー市と聖ファロ僧院
[編集]モー市にかつてあった聖ファロ僧院には、霊廟があり、聖オトゲル(オトゲリウス)と聖ベネディクトが横に並んだ仰臥像を蓋に配した石棺に、両聖人の遺体が納められていた。武勲詩でもオジェとその従者ベノワがこの僧院に永眠することになっており、彼らと二聖人を同一視する伝承があった[58]。
この霊廟の挿絵は、ジャン・マビヨン著の『聖ベネディクト修道会聖人伝』に、折り畳みページとして差し込まれている(右の図参照)[59][60][58]。
僧院は1751年に取り壊しにあったが、1874年に霊廟のものと思われる伝・オジェの頭部が発見された[61]。これは、頭部と、上掲の『聖ベネディクト修道会聖人伝』の横臥像の容貌を比較してその結論に至ったとされる[61]。頭部は現在はボシュエ美術館が所蔵[62]
スカンジナビア
[編集]北欧では、「オッドゲイル」のサガが写本に残された時代を経て、近世になるとクリスチャン・ピーダセンが、パリ大学に在学中に、フランス語散文オジェ物語の印刷本『デンマルク人オジェ』(Ogier le Dannoys) を求め、帰国後デンマーク訳本を1534年に『ホルガー・ダンスク年代記』(Kong Holger Danskes Krønike)として出版した。このことにより、オジェ伝説がデンマーク民間により広く伝播した。このときピーダセンは、オルガー・ダンスクは、じつは、デンマークの王子で、ゴトリク王(デンマーク語: Gøtrik)の息子だとしている[5]。サクソ・グラマティクスの『デンマーク人の事績』などによれば、ゴトリク王の息子の名はオーラーブであるが[63]、それと同一人物だと説明した。。
デンマークではさらにアンデルセンの童話や、クンツェンのオペラに『デンマーク人ホルガー』があり、またインゲマンの詩にゲバウアーが曲をつけた歌も知られている。
ヨーロッパには(アーサー王やバルバロッサ)など、洞穴の眠れる巨人や英雄が、国の有事に復活するという伝説があるが、デンマークでもそういうした眠れるホルガー・ダンスク伝説が出現し、とりわけ、ペデルセンの郷土ヘルシンガー市にまつわりつくようになったといわれる。この都市の某ホテルがホルガーの銅像(1907年)を制作依頼し、その石膏型をクロンボー城の砲郭に置いたところ、そちらの方が一躍有名になった。しかし石膏像は湿気で劣化をおこし、1985年以来コンクリート像に置き換えられている[64]。
第二次世界大戦中は、ナチス・ドイツの占領に対するデンマークの抵抗分子が、「ホルガー・ダンスク」の名でレジスタンス運動を行なった。
大衆文化のオジェ
[編集]オジェ・ル・ダノワは、トランプのスペードのジャックの人物とされる。アメリカの作家、ポール・アンダースンの『魔界の紋章』もオジェ・ル・ダノワの伝承を下敷にしている。
関連項目
[編集]- 武勲詩ユオン・ド・ボルドーの続編では、妖精郷を統治するアーサーが王位をユオンに禅譲させられまいかと不安になる。
- オジェが妖猫キャスパリーグと戦ったとする伝記がある。
脚注
[編集]補注
[編集]- ^ 有永 (訳) (1965)『ロランの歌』、253頁(112行の注)の表記(ただし人物名でなく題名)。
- ^ トマス・ブルフィンチ & 市場 (訳) (2007)、pp.325–360、第23–25章の表記。
- ^ Cortain。
- ^ Geste de Doon de Mayence(cycle des barons revoltés)。「叛臣の物語群」は仮訳。
- ^ Gaufroi de Danemarche (Langlois 人名事典の見出しでの綴り
- ^ 家系図上は、ドーンの子のひとりがデンマルク公ゴーフロワ(ジョフロワ)でありドーンの孫がオジェ[3][注 5]で、その息子がオジェである。よってオジェは、大逆臣ガヌロンの従兄弟や魔法使いモージ(マラジジ)の従兄弟でもあるわけだが、これはあまり強調される側面ではない。
- ^ デンマーク語:Holger Danske
- ^ Oggero spat curta
- ^ カラウー(→カラヒュー)
- ^ コルタナとも表記[7]
- ^ a b Broiefort
- ^ 英国の戴冠剣がカータナと呼ばれた初出は1236年。ある解説者は『散文トリスタン』作者は英国戴冠剣のことを知悉していたと仮説する[10]。
- ^ バロワ編の版本の題名はChevalerie Ogier de Danemarche。また、有永 (訳) (1965)『ロランの歌』、253頁(112行の注)では、題名を単に『デンマルク人〔びと〕オジエ』としている。
- ^ 以下、固有名詞はフランス発音を用いるが、便宜上、トマス・ブルフィンチ & 市場 (訳) (2007)の再話における表記も"→ボルドウィン"のように付記する。
- ^ 実際はでなくBaudouinetという指小形が使われる。まだ未成年(騎士の叙勲を受けていない)ということ。
- ^ Alori de Puille。
- ^ 『ロランの歌』ではオリフラムを掲げる役をアンジュー公ジェフロワに甘んじるものの、オジェは前衛や先陣を務めるに最適任とされており[1]、『サガ』によればオジェは旗手の役目であった[21]。
- ^ Caraheu, Karaeus, Karahues 等、変体綴り多数。
- ^ Cortain
- ^ Charlot(指小形)
- ^ Sadoine
- ^ メオルグル(?)Maiolgre
- ^ Brunamont
- ^ 武勲詩『オジェの騎士道』のA写本、すなわちパリ市フランス国立図書館蔵 français, 24403 写本、第174r–277v葉の第232r葉目。
- ^ フォーレッチュの第2章「チェスの部 La partie d'éschecs」は、第2枝篇(第3101–3472行目)と同一[13]。
- ^ Desier
- ^ Chastel-fort; 現代風ならChâteau-fort
- ^ Beneoit
- ^ フォーレッチュは第3章を「ロンバルディア戦La guerre de Lombardy」と題して、第3枝篇(第 3473–5864行目)をあて、第4章「シャテルフォール Castelfort」に、第4~8枝篇(第 5865–9551行目)をあてる[13]。
- ^ フォーレッチュは第5章「サクソン人対戦La guerre des Saxons」と題して、第9~12枝篇(第 9552–12346行目)をまとめる[13]。
- ^ Brehier, Brehus
- ^ 原典では、別の箇所ではシャルルがブランシャール Blancart つまり白馬に乗るが、ここでは都督バランから奪った早馬とされている(Barrois (1842), 10435-7行, "le bon ceval corant que je conqis à l'amiraus Balant"。
- ^ 天使の場面のイラストは、Gautier (1895), p. 608(第3版)や、Hausen (1842), p. 139にある)。
- ^ Bauchan
- ^ 略称P本がパリ、アルスナル図書館 2985 本(旧190-191本)、L本がロンドン、大英図書館蔵《タルボット・シュルーズベリーの書》(MS. Royal 15 E vi.)、 T"本がトリノ、イタリア国立図書館L. IV, 2(旧G.I.38本)。
- ^ かつての物語では、英国王女を助けて結婚する展開はある。
- ^ フランス語: tison[46]。英語解説では"firebrand"[43]。
- ^ メレアグロスにまつわる伝説にも同モチーフがみられると指摘される[47]。
- ^ 脚色の多くは「ギヨーム・ドランジュ詩群」に属する武勲詩『ロキフェールの戦い』に負うところが多いのではないか、と指摘される。その武勲詩ではギヨーム・ドランジュがめとったサラセン人妻の弟レヌアールが妖精モルガーヌ(モルガン)と子をもうけ、やはり妖猫カパリュ/シャパリュ(Chapalu)と戦う[50]。
- ^ Oriant
- ^ ロンデロ; Rondel, Rondello
出典
[編集]- ^ a b 有永 (訳) (1965)『ロランの歌』、50頁、747行-
- ^ a b Keller, Hans-Erich (1995). Kibler, William; Zinn, Grover A.. eds. Chevaleri Ogier. Garland. pp. 405–406. ISBN 978-0-8240-4444-2
- ^ a b c La Chanson de Roland. New York: Macmillan. (1920). pp. 171–172
- ^ Ward (1883), Vol. 1, p.605
- ^ a b Brandt (1882), p. 271
- ^ Sholod, Barton (1966). Charlemagne in Spain: The Cultural Legacy of Roncesvalles. Librairie Droz. p. 189
- ^ トマス・ブルフィンチ & 市場 (訳) (2007)、p. 332等の表記。
- ^ Löseth, Eilert (1890), Analyse critique du Roman de Tristan en prose française, Paris: Bouillon, p. 302
- ^ a b Loomis, Roger Sherman (July–September 1922b), “Vestiges of Tristram in London”, The Burlington Magazine 41: 56–59
- ^ Mason, Emma (1990). The Hero's Invincible Weapon: an Aspect of Angevin Propaganda. Boydell & Brewer. pp. 132–134. ISBN 978-0-85115-265-3
- ^ Loomis, Roger Sherman (January 1922a), “Tristram and the House of Anjou”, The Modern Language Review 17 (1): 29, doi:10.2307/3714327, JSTOR 3714327
- ^ Barrois (1842).
- ^ a b c d e Togeby (1969), p. 46.
- ^ Renier (1891), pp. 397–404.
- ^ Renier (1891), p. 399.
- ^ フォーレッチュ(Voretzsch)は作品を全5章に分割しており、第1章 「オジェの幼年時代 (Les enfances Ogier)」を第1枝篇(1–3100行目)と同一とした[13]。
- ^ Barrois (1842)
- ^ Ludlow (1865)
- ^ Or "Doolin of Mayence", Dunlop (1906), p. 332
- ^ トマス・ブルフィンチ & 市場 (訳) (2007)では「第26章オジエ・ル・ダノワ(2)」、p. 339に"ボルドウィンの父となった"という記述が見える。
- ^ Hieatt (1975), 54章(最終章): "Oddgeir was his standar-bearer as long as they both lived".
- ^ Ludlow (1865), pp. 282–3
- ^ Ludlow (1865), p.290
- ^ Gautier, Léon (1884). La chevalerie. Paris: V. Palmé. pp. 608–609
- ^ Gautier, Léon (1891). Chivalry. translated by Henry Frith. G. Routledge and sons. pp. 429, 432, 21
- ^ 散文オジェの古い印刷本にもこの場面はある:Benoit Rigaud 1579, p. 233:"Comment.. Charlemaigne fut contrainct de liurer son filz Charlot à Ogier.. &comment l'Ange ainsi qu'il vouloit coupper la teste de Charlot luy retint le bras".
- ^ Ludlow (1865), p. 296
- ^ Ludlow (1865), p. 300
- ^ Ludlow (1865), pp. 300, 303
- ^ Ludlow (1865), p. 301
- ^ "アドネ・ル・ロア". ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典.2019年4月12日閲覧.コトバンク掲載.
- ^ Hieatt (1975)参照
- ^ a b c Farrier (2019), p. 268.
- ^ Togeby (1969), pp. 111–112.
- ^ Togeby (1969), pp. 158, 171: "capalus".
- ^ Togeby (1969), p. 134.
- ^ Togeby (1969), pp. 140–142.
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- ^ Paton (1903), p. 74.
- ^ Ward (1883), Vol. 1, p.605-: "MS Royal 15 E VI"
- ^ British Museum/Library オンライン写本カタログ
- ^ Voretzsch (1931), p. 477.
- ^ a b Ward (1883), I, p. 607.
- ^ Renier (1891), p. 439.
- ^ Togeby (1969), p. 151: 妖精のグロリアンド Gloriande はキリスト教圏随一の騎士となる、サグルモワール Sagremoireは、 欠戦することなからず、フォラモンドは Foramondeは戦で不敗、もうひとり("フルール・ド・リス(アヤメの花)の白い妖精(fee blanche con fleur de liz"[44])は、恋愛の幸、ベアトリクスBeatrixは甘美さと優雅、モルグはMorgue は、彼女の愛人となるので、その前には死なせはしない
- ^ Renier (1891), p. 432.
- ^ Ward (1883), I, p. 607: "The firebrand .. suggested by that of Meleager".
- ^ Ward (1883), I, pp. 607–609.
- ^ Child, Francis James (1884), “37. Thomas Rymer”, The English and Scottish Popular Ballads (Houghton Mifflin) I: p. 319
- ^ Ward (1883), I, pp. 607–608.
- ^ Paton (1903), p. 77.
- ^ Dunlop (1906), p. 337.
- ^ Togeby (1967); Togeby (1969), pp. 13, 121
- ^ Togeby (1969), p. 122.
- ^ Encyclopedia Britannica (1880-1899の各版), vol.20, "Romance" の項
- ^ Dixon-Kennedy (1995)
- ^ Gordon, George, Lord Byron (1841), Complete works, Place: A. and W. Galignani
- ^ a b "Ogier the Dane". The Encyclopaedia Britannica. Vol. 20. 1911. p. 23.
- ^ d'Achery, Lucas; Mabillon, Jean (1677), Acta sanctorum ordinis S. Benedicti: Pars Prima, IV, Paris: Louis Biliaine, p. 664
- ^ Mabillon, Jean (1735), Acta Sanctorum Ordinis S. Benedicti: Pars Prima, IV, Coletus & Bettinellus, p. 624
- ^ a b “Tête d’Ogier le Danois, Meaux”. Topic Topos. 2012年3月3日閲覧。
- ^ Musée Bossuet. “Collection permanente”. 2017年11月閲覧。
- ^ サクソ・グラマティクス、p.439
- ^ “Kronborg Castle site (Holger the Dane)”. 2012年3月2日閲覧。
参考文献
[編集]- (邦書)
- トマス・ブルフィンチ『シャルルマーニュ伝説』市場泰男 訳、講談社〈講談社学術文庫 1806〉、2007年、pp. 325–360、第23–25章 オジエ・ル・ダノワ(一)~(三)。ISBN 978-4-06-159806-5。
- サクソ・グラマティクス『デンマーク人の事績』 1806巻、谷口幸男 訳、東海大学出版会、2007年。ISBN 4-486-01224-0。
- (事典・一般書)
- Kibler, William, ed. (1995), Medieval France: an encyclopedia, Psychology Press, pp. 215-, ISBN 9780824044442
- Gautier, Léon (1895), La chevalerie (3ème éd. ed.), Paris: H. Welter
- Gautier, Léon (1891), Chivalry, Translated by Henry Frith, London: George Routledge and sons(英訳)
- Dixon-Kennedy, Mike (1995), Arthurian Myth & Legend, an A-Z of People and Places, Blandford, ISBN 978-0713725612; Brockhampton Press (Reprint) 1998 [url=https://books.google.co.jp/books?id=a622vq_g6nkC snippet]
- (一次資料)
- 『ロランの歌』有永弘人 (訳)、岩波書店〈岩波文庫 赤501-1〉、1965年。ISBN 4-00-325011-7 。
- Raimbert de Paris (1842), Barrois, Joseph, ed., La chevalerie Ogier de Danemarche, Paris: Techener Tome 1, Tome 2.
- Unger, Carl Rikard, ed. (1859), Karlamagnus saga ok kappa hans, Christiania: H.J. Jensen
- Hieatt, Constance B., ed. (1975), Karlamagnús saga: The Saga of Charlemagne and his heroes (Toronto: Pontifical Institute of Mediaeval Studies) 1, ISBN 0-88844-262-9 (英訳 Kms branches I ~ III)
- (揺籃期・早期印刷本のテキスト)
- Togeby, Knud (1967), Ogier le Dannoys: Roman en prose du XVe siècle, København: Munksgaard (facsimile)[Fotografisk Optryk af Antoine Véerards udg., Paris 1498]
- Rigaud, Benoist, ed. (1579), L'Histoire d'Ogier le Dannoys Duc de Dannemarche, Qui fut l'un des douze Pers de France, Benoist Rigaud
- Hanssen, Nis, ed. (1842), Olger Danskes Krønike, Fortale af C. Molbech, Kjöbenhavn: Louis Klein
- (二次資料)
- Brandt, Carl Joakim (1882), Om Lunde-kanikken Christiern Pedersen og hans skrifter, Kjøbenhavn: G. E. C. Gad,, pp. 271–
- Dunlop, John Colin (1906), “Chapter IV: Romances of chivalry relating to Charlemagne and his peers: § Ogier le Danois § Meurvin”, History of Prose Fiction, 1, London: George Bell and sons, pp. 329–337; 337–338
- Farrier, Susan E., ed. (2019), The Medieval Charlemagne Legend: An Annotated Bibliography, Routledge, pp. 262–271, ISBN 9780429523922
- Ludlow, John Malcolm Forbes (1865), Popular epics of the middle ages of the Norse-German and Carlovingian Cycles, 2, London: Macmilla n, pp. 247-
- (―モー市の伝オジエの頭部と聖オトゲル霊廟)
- Gassies, Georges (1905), “Note sur une tête de statue touvée à Meaux”, Bulletin archéologique du Comité des travaux historiques et scientifiques 1: 40-42
- 上記の古書Luc d'Achery & Jean Mabillon 1677の見開きの図「聖オトゲルと聖ベネディクトの霊廟」
- Paton, Lucy Allen (1903), Studies in the Fairy Mythology of Arthurian Romance, Ginn&Company, pp. 74–77
- Renier, Rodolfo (19 April 1891). “Ricerche sulla leggenda di Uggeri il Danese in Francia”. Memorie della Reale accademia delle scienze di Torino. serie II 41: 389–459 .
- Togeby, Knud (1969), Ogier le Danois dans les littérratures européennes, Munksgaard
- Voretzsch, Karl (1976). Introduction to the Study of Old French Literature. Genève: Slatkine. pp. 208–210
- Ward, Harry Leigh Douglas (1883), Catalogue of romances in the Department of manuscripts in the British Museum, London: William Clowes, pp. 604-
外部サイト
[編集]- クロンボー城のオジエ像案内“Kronborg Castle site (Holger the Dane)”. 2012年3月2日閲覧。
- モー市のオジエの石像頭部の案内:“Tête d’Ogier le Danois, Meaux”. Topic Topos. 2012年3月3日閲覧。