コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「杉村春子」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目: 1行目:
{{画像提供依頼|顔写真|date=2011年8月}}
{{ActorActress
{{ActorActress
| 芸名 = 杉村 春子
| 芸名 = 杉村 春子

2011年8月22日 (月) 12:20時点における版

すぎむら はるこ
杉村 春子
本名 石山 春子(いしやま はるこ)
生年月日 (1906-01-06) 1906年1月6日
没年月日 (1997-04-04) 1997年4月4日(91歳没)
出生地 広島県広島市
死没地 東京都文京区
国籍 日本の旗 日本
血液型 O型
職業 女優
ジャンル 舞台映画テレビ
活動期間 1927年-1997年
配偶者 最初の夫・長広岸郎、二番目の夫・石山季彦
受賞
日本アカデミー賞
会長特別賞
1997年
ブルーリボン賞
助演女優賞
1951年麦秋』、『めし』、『命美わし
その他の賞
キネマ旬報賞
主演女優賞
1995年午後の遺言状
毎日映画コンクール
女優助演賞
1953年にごりえ』、『東京物語
女優主演賞
1995年午後の遺言状
日刊スポーツ映画大賞
主演女優賞
1995年午後の遺言状
紀伊國屋演劇賞
個人賞
1991年
テンプレートを表示

杉村 春子(すぎむら はるこ、1906年1月6日 - 1997年4月4日)は、広島県広島市出身の新劇女優。本名は石山 春子(いしやま はるこ)。旧姓は中野(なかの)であり、杉村は芸名である。築地小劇場より始まり文学座に至る日本の演劇界の屋台骨を支え続け、演劇史・文化史に大きな足跡を残した文字通り、日本を代表するカリスマ女優[1][2]称号東京都名誉都民

来歴・人物

遊女の私生児として広島市の色街に出生。幼時に母親が死んだため、材木商の養女にもらわれ何不自由なく育つ。山中高等女学校(現・広島大学付属福山高)卒業後、声楽家になるべく上京して東京音楽学校(現・東京芸術大学)を受験するが、2年続けて失敗。広島に戻り広島女学院で音楽の代用教員をしていたが、築地小劇場俳優座の前身)の旅芝居を見て感動。再び上京してテストを受けるが、広島訛りがひどくまたも不合格。しかし、次回公演の背中を向けてオルガンを弾く役(台詞無し)で採用され築地小劇場最後の研究生となる。こうして以後70年に及ぶ演劇人生の第一歩を踏み出す。

築地小劇場の分裂・解散、次に加わった築地座の解散を経て1937年岸田国士久保田万太郎岩田豊雄らが創立した劇団文学座の結成に参加。以来、同座のみならず、日本演劇界の中心的存在として活躍。特に戦時1945年4月、東京大空襲下の渋谷東横映画劇場で初演された森本薫作『女の一生』の布引けいは当たり役となり、1990年までに上演回数は900回を超え、日本の演劇史上に金字塔を打ち立てた。作中の台詞 "だれが選んでくれたんでもない、自分で歩き出した道ですもの―" は、生涯"女優の一生"を貫いた杉村の代名詞として有名。1948年には演劇部門で戦後初の芸術院賞受賞。

しかし、1963年1月、杉村の感情の起伏が激しい性格と、専横ともいえる劇団への統率ぶりに不満を持った芥川比呂志岸田今日子仲谷昇神山繁加藤治子小池朝雄ら、中堅劇団員の大半が文学座を集団脱退し、現代演劇協会・劇団雲を結成。さらに同年12月には、それまで杉村主演の戯曲を何本も書いていた三島由紀夫の新作戯曲上演拒否問題(喜びの琴事件)が起こって、三島を筆頭に丹阿弥谷津子中村伸郎賀原夏子南美江ら、文学座の古参劇団員が次々に脱退していった。杉村は、これらの脱退メンバーの大半とはその後の関係を断絶し、特に反杉村を鮮明にしていた福田恆存が代表となった劇団雲に参加したメンバーに対しては、共演を頑なに拒否するなど終生許すことはなかった[3][4]。文学座は、主要メンバーの2度にわたる大量離脱で創立以来最大の危機を迎え、当時の新聞は"崩壊に瀕する文学座"などと書きたてたが、太地喜和子江守徹樹木希林小川真由美高橋悦史ら若手を育てることで何とか乗り切った[1][5][2][6]。しかし、杉村の専横に批判的だった人物が抜けてしまったことにより、杉村の劇団に対する独裁に近い影響力にさらに拍車がかかったとの見方もある。

戦後、『女の一生』の再演は文学座が立ち直るきっかけとなった。経営の苦労が身に染みて知る杉村はお客を大切にした。このことは新劇の商業演劇進出の走りといわれる[7]

『女の一生』のほか、『華岡青洲の妻』、『欲望という名の電車』、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』など創作劇、翻訳劇のいずれの分野でも、リアルな女性像を描き出した。舞台のみならず、映画・テレビでも幅広く活躍。映画初出演は築地小劇場時代の1927年に小山内薫が監督をした『黎明』か[8]1932年初代水谷八重子と共演した『浪子』[9]か、1937年、『浅草の灯』[10]か、文献によって記述が異なる。その後も小津安二郎黒澤明成瀬巳喜男豊田四郎木下惠介といった名監督たちから、既存の映画俳優には無い自然でリアルな演技力を高く評価され、『東京物語』を初め日本映画史を彩る名作群約100本に出演、映画史にもその名を刻んだ。森雅之と共に最も映画に貢献した新劇俳優でもある[8]。小津組でたった一人、読み合わせへの不参と"縫い"(かけ持ち)を許された俳優[11]高峰秀子が『小島の春』を観た際に杉村の演技に感動、「仕方なしにやっていた(本人談)」役者稼業に以後本気で取り組むようになったという逸話も残す[12]。また森光子がやはりこの映画の杉村の演技に大きな衝撃を受け、これ以上の衝撃を以降感じたことはないと話している。森は「演技の師匠を持たない私が、心から尊敬しお手本としたのは10代から憧れた杉村先生ただ一人です。時代劇の娘役の頃からいつか近づきたいとひそかに思い続けてきました」と話している[13]成瀬巳喜男監督『流れる』で共演した山田五十鈴は、あの映画の杉村さんの芝居は、ぜんぶ杉村さんがお考えになったもの、「そういうことが許されるようになった時代です。それこそ役者の力量が問われる時代になってきたんです」と述べている[14]若尾文子は「杉村春子さんは特別な存在」と話し、杉村の代表作『華々しき一族』を熱望し2008年に演じた[15][16][17]吉永小百合は美しい所作の先生は杉村と話している[18][19]

1940年に初演された山田耕筰歌劇黒船』では姐さん役を担当している。これは、彼女の声こそ日本語でオペラを歌うのにふさわしいと山田が判断したことによる。

日本の伝統演劇、女形芸などを熱心に吸収し、色艶の有る独持の演技を完成させる。酒もたばこもたしなまず、ひたすら仕事と恋に生きた。生涯愛した三人の男(最初の夫、森本薫、二度目の夫)には全て、それも結核で先立たれた。しかしその都度女優として成長し、芸を追求した。

1974年、女優としては東山千栄子初代水谷八重子に次いで3人目の文化功労者に選ばれた。1995年には文化勲章の候補に名があがったが、「勲章は最後にもらう賞、自分には大きすぎる。勲章を背負って舞台に上がりたくない、私はまだまだ現役で芝居がしていたいだけ」「戦争中に亡くなった俳優を差し置いてもらうことはできない」と周りの説得も聞かず辞退した。1996年日本新劇俳優協会会長。1997年70年の芸能生活で仕事を一度も降りたことがなかった杉村だが、1月19日NHKドラマ『棘・おんなの遺言状』の収録中に貧血と腰痛を訴えて入院し降板、代役は南美江が演じた。2月に入り文学座の会見では「十二指腸潰瘍」と発表されたが、そのときすでに膵臓癌でもあると、医師から文学座の社長・戌井市郎北村和夫江守徹など近しい人にだけ知らされていたという。3月に新橋演舞場で予定されていた『華岡青洲の妻』も、チケットが発売されている状態での緊急降板、代役は藤間紫が演じた。しかし病室では簡単なストレッチをしたり、男性の見舞い客が来ると聞くと長い時間をかけてお化粧をしたりと常に弱っている姿を見せまいと気丈に振る舞っていたという。3月16日に意識が混濁、4月4日午前0時30分頭部膵臓癌のため東京都文京区にある日本医科大学病院で、長女のヒロ、当時70歳の長年のファン女性二人に最期を看取られ逝去。本人は癌であることは知らされず亡くなる直前まで台本を読んでおり、最期まで女優であり続けた。享年91。死後、政府から銀杯一組が贈られた。

杉村の死後1998年、若手演劇人の育成に力を注いだ杉村の遺志を尊重し、新人賞的意味合いを持つ杉村春子賞が新たに創設された。

エピソード

  • 黒澤明監督の『赤ひげ』においては、憎まれ役である娼屋の女主人・きんを演じた。その際、養生所の賄婦たちに大根で殴られるコミカルなシーンがある。賄婦を演じていた女優達も既にベテランであったが、杉村はその上を行く彼女達の大先輩に当たる存在で、大根で殴るとき遠慮してしまいNGが連発され、撮影のために用意していた大根がすべてなくなってしまった事がある。

主な出演

映画

テレビドラマ

舞台

年月日は、杉村が最初に演じたときのものである。

★=上演回数の多い演目トップ5 ●=その他の注目すべき演目

「女の一生」以前

最初は端役やスタアが演じないような老け役、そして、だんだんと重要な役を演じるようになっていく。

  • 彼女(1927年4月)築地小劇場藤森成吉の「何が彼女をさうさせたか」を、当局の要請により改題して上演したもの。杉村の初舞台。ただし、台詞は無く、舞台上でオルガンを弾くだけの役であった。
  • 富島松五郎伝(1942年5月、主役松五郎の相手役・吉岡良子役)文学座。翌年映画化(無法松の一生)されることになる岩下俊作の小説を舞台化。森本薫による脚色。
  • 北京の幽霊(1943年2月、會伸英(女官)役)文学座。飯沢匡のオリジナル戯曲。戦時下に書かれた風刺劇。
  • 鳥獣合戦(1944年10月、梟(ふくろう)ハラグ大使役)文学座。飯沢匡のオリジナル戯曲。鳥と動物とが戦うという風刺劇。戦時体制に対するシニカルな姿勢がうかがえる作品であり、その上演をめぐって検閲機関ともめたという。

最初の充実期

後に再演が繰り返され代表作となる作品に、次々出会う。

  • 女の一生(1945年4月、主役・布引けい役)文学座。森本薫のオリジナル戯曲。初演時の台本は、戦後版とはいくつかの点で大きな違いがある。渋谷の映画館を借りて行なわれた初演(当初上演劇場に予定された国民新劇場〈戦時体制で築地小劇場から改称〉は、1945年3月10日の空襲で焼失していた)は、上演中に空襲警報で中断されることも度々であったという(※TV放送のため収録された、1961年当時の記録映像が現存する。2度にわたる分裂/大量脱退以前の公演であるため、資料的にも価値があると考えられる。杉村の死後、NHKで再放送され、DVDとしても発売された)。上演回数947回。
  • 華々しき一族(1950年5月、主役・諏訪役)文学座。森本薫のオリジナル戯曲。1935年に発表されたが未上演であったもの。
  • 欲望という名の電車(1953年3月、主役のブランチ・デュボア役)文学座。テネシー・ウィリアムズのオリジナル戯曲、日本初演。上演回数594回。
  • 二号(1954年11月、主役・御園とく役)文学座。飯沢匡のオリジナル戯曲。コメディ。

三島由紀夫との時代

後に起こった文学座と三島とのトラブルにより、杉村はこの時期以外にはこれらの作品を演じていない。

  • 鹿鳴館(1956年11月、主役・影山朝子役)文学座創立20周年記念公演。三島由紀夫のオリジナル戯曲。後に新派・さまざまな商業演劇・劇団四季などによって上演される当戯曲の、これが初演になる。
  • 大障碍(だい・しょうがい)(1957年4月、主役・岑子役)文学座。三島由紀夫のオリジナル戯曲。
  • 薔薇と海賊(1958年7月、主役・楓阿里子役)文学座。三島由紀夫のオリジナル戯曲。
  • 熱帯樹(1960年1月、主役・律子役)文学座。三島由紀夫のオリジナル戯曲。
  • 十日の菊(1961年11月、主役・奥山菊役)文学座。三島由紀夫のオリジナル戯曲。
  • トスカ(1963年6月、主役・トスカ役)文学座。ヴィクトリアン・サルドゥの原作を、三島由紀夫が潤色したもの。11月に三島が退座した(⇒喜びの琴事件)ために、これが三島との最後の作品になった。

円熟・絶頂期

文学座公演として、レパートリーとなった代表作や新作に主演しながら、商業演劇にも数多く出演。商業演劇のスタアたちと同格の主演として舞台に立つ。

  • 華岡青洲の妻(1970年6月、主役・於継役)文学座。有吉佐和子の同名原作を、有吉が自身で戯曲化したもの。初演は1967年の東宝公演、主演は山田五十鈴であった。杉村がその演目のオリジナル・キャストではないという意味で、杉村の当たり役の中では珍しい演目(翻訳劇を除く)。上演回数634回。
  • ふるあめりかに袖はぬらさじ(1972年12月、主役・お園役)文学座。有吉佐和子の短篇「亀遊の死」を、有吉が自身で戯曲化したもの。初演。
  • [既出]華岡青洲の妻(1973年5月、於継役)新派公演への客演。中村勘三郎の青洲、水谷八重子の加恵というキャスティング。
  • 怪談 牡丹燈籠(1974年8月、お峰・お米の二役)文学座。三遊亭圓朝の怪談噺を、大西信行が杉村に請われて脚色したもの[20]。コメディ。
  • [既出]怪談 牡丹燈籠(1976年4月、お峰・お米の二役)松竹公演。尾上松緑との初顔合わせ。
  • やどかり(1978年1月、向井さつ子役)東宝公演。作・榎本滋民。山田五十鈴と、舞台での初共演[21]。映画

では『流れる』がある。山田の新劇出演は1959年の「関漢卿」以来。

  • 風流浮世ぶし(1979年1月、おみね役)新派公演。作・川口松太郎。水谷八重子との最後の共演。
  • ターリン行きの船(1979年3月、主役のリージャ・ワシリーナ役)松竹公演。作・アレクセイ・アルブーゾフ。尾上松緑との2人芝居。
  • 月夜の海(1979年11月、由良琴女役)東宝公演。作・小幡欣治。山田五十鈴との共演。
  • 路地に咲く花(1982年6月、おかね役)松竹公演。歌舞伎の演目を大西信行が脚色したもの。尾上松緑との共演。
  • ウェストサイドワルツ(1985年2月、主役・マーガレット役)文学座。アーネスト・トンプソンのオリジナル戯曲。
  • 浮巣(1985年6月、おけい役)東宝公演。作・八木柊一郎。森光子と、舞台での初共演。
  • 木瓜(ぼけ)の花(1986年11月、木村正子役)東宝公演。有吉佐和子の同名小説を、大藪郁子が脚色したもの。森光子との共演。

最後の10年

「女の一生」を文学座内で平淑恵に継承(杉村生前の1996年に平主演の公演があった)。商業演劇での活躍も続き、スタアとの共演ではない大劇場での単独主演も行なう。89歳まで新作公演に出演、90歳まで主演舞台に立った。

  • [既出]欲望という名の電車(1987年2月、主役のブランチ・デュボア役)文学座創立50周年記念公演。杉村による最後の上演。
  • 流れる(1988年4月、染香役)東宝公演。幸田文の同名小説を、平岩弓枝が脚色したもの。山田五十鈴との共演。
  • 花霞(1990年4月、秀千代役)東宝公演。作・川口松太郎、脚色・戌井市郎。森光子との共演。
  • [既出]女の一生(1990年6月、主役・布引けい役)文学座。杉村による最後の上演。
  • 初演以来947回。  初演:1945年(昭和20年4月~平成2年6月)終演:1990年 45年間ロングラン上演記録
  • 恋ぶみ屋一葉(1992年6月、主役・前田奈津役)松竹公演。斎藤雅文のオリジナル戯曲。
  • 晩菊(1993年3月、主役・相沢しの役)東宝公演。林芙美子の同名小説を、山崎圓が脚色したもの。
  • [既出]ふるあめりかに袖はぬらさじ(1994年9月、主役・お園役)文学座。杉村による最後の上演。初演以来365回。
  • 絹布の法被(けんぷのはっぴ)(1995年2月)文学座。江守徹のオリジナル戯曲。杉村にとって、最後の新作公演。
  • [既出]華岡青洲の妻(1996年1月、主役・於継役)文学座。杉村による最後の上演。初演以来634回。
  • [既出]華々しき一族(1996年9月、主役・諏訪役)文学座。杉村による最後の上演。初演以来309回。また、この演目での旅公演(最終日は1996年12月12日)が、杉村自身にとっても最後の舞台となった。

1997年には、3月に新橋演舞場で「華岡青洲の妻」(松竹公演。杉村主演としてチケットはすでに発売されていた。藤間紫が代役で於継を演じた)、5月に紀伊國屋サザンシアターで文学座60周年記念舞台「柘榴のある家」(新作、文学座公演)、9-10月には芸術座で「もず」(東宝公演、山岡久乃と舞台での初共演)などが予定されていた。 また、主演連続ドラマ「棘 おんなの遺言状」(NHK 竹山洋脚本 大竹しのぶ、島田正吾共演)は第1回収録途中に病気降板。没後10年のBS特集番組でその一部が放送された。

文献

著書

参考文献

杉村春子を演じた女優

関連項目

脚注

  1. ^ a b 日本経済新聞2009年6月7日24面。
  2. ^ a b 文春写真館 あのとき、この一枚|文藝春秋
  3. ^ 週刊朝日1978年1月6日号、130-135頁
  4. ^ サンデー毎日1978年10月1日号、56、57頁
  5. ^ 文学座:藤田弓子オフィシャルブログ 2010年3月21日
  6. ^ 『回想の文学座』北見治一著、中央公論社、1987年、238、239頁
  7. ^ 『新宿 歴史に生きた女性一〇〇人』、折井美那子・新宿女性史研究会編者、ドメス出版、2005年、97頁。
  8. ^ a b 日本経済新聞2009年6月14日24面。
  9. ^ 『日本映画俳優全集・女優編』キネマ旬報社、371頁。
  10. ^ 『演劇研究 第8集』、演技研究所、371頁。
  11. ^ 高橋治『絢爛たる影絵 小津安二郎』、文藝春秋、1982年、57頁。
  12. ^ 週刊朝日1980年1月4日号、142頁。
  13. ^ 森光子 『人生はロングラン』 日本経済新聞出版社、2009年、218頁。
  14. ^ 川本三郎『君美わしく―戦後日本映画女優讃』 文藝春秋、1996年、302頁。
  15. ^ e+ Theatrix! Pick Up: 『華々しき一族』
  16. ^ 芸能人インタビュー|連載コラム|はいからOnline
  17. ^ 産経新聞2008年11月26日27面。
  18. ^ ドコモ 団塊倶楽部
  19. ^ 吉永 小百合 - ドコモ団塊倶楽部スペシャルコラム - gooマスターズ
  20. ^ 伊藤蘭さん(2/3) - インタビュー - ひと - どらく
  21. ^ 詳細-週刊朝日1978年1月6日号、130-135頁。
  22. ^ 『アルバム・徹子の部屋』テレビ朝日、1983年、132-135頁。
  23. ^ 広島女学院の代用教員時代の教え子。広島女学院付属小学校に通っていた中原とは生涯にわたり交遊を持った(『別冊太陽 美しく生きる 中原淳一 その美学と仕事』 平凡社、1999年、p176、178-183)。
  24. ^ 中原洲一『父・中原淳一』 中央公論社、1987年、p174、175

外部リンク