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本項では、1950年から1999年までに発生した日本の鉄道事故について記述する。
- 1949年以前に発生した日本の鉄道事故については日本の鉄道事故 (1949年以前)を参照。
- 2000年以降に発生した日本の鉄道事故については日本の鉄道事故 (2000年以降)を参照。
事故一覧
1950年代
桜木町事故
(京浜線桜木町駅電車火災事故、桜木町国電火災、国鉄戦後五大事故の一つ)
- 京浜線の電車(モハ63形、5両編成1271B列車)が、桜木町駅構内で、がいし交換工事中に誤って切断され垂れ下がっていた架線に接触し、電流の地絡により炎上。先頭車が全焼、2両目が半焼し、死者106名、重傷者92名を出す大事故となった。
- その当時、京浜線電車に使用していた戦時設計の63系の粗悪な構造が死傷者を多くしたとして、国電の安全対策強化の契機となった。
→詳細は「桜木町事故」を参照
参宮線六軒駅列車衝突事故
- 参宮線(当該箇所は現・紀勢本線)六軒駅での列車衝突事故。
- 同駅を通過の予定だった名古屋発鳥羽行き下り快速列車が、機関士の信号見落としにより安全側線に突っ込み脱線、本線側に横たわった所に上り列車が進入し、大破。死者42名、負傷者94名。
→詳細は「六軒事故」を参照
播但線真名谷トンネル列車脱線転覆事故
- 播但線生野駅~長谷駅間の真名谷トンネル北側(生野駅より長谷方約4km)で、福知山駅発溝口駅行きの臨時回送上り8630列車(7両編成)が脱線転覆し、機関車(C54 5号機)と前部3両が大破、福知山鉄道管理局豊岡機関区所属の機関士と機関助手の2人が即死した。機関車はトンネル内に頭を突っ込み横転、1両目は崖に乗り上げ、2両目は下腹を見せて転覆、その上に3両目が乗り上げたため、生野駅~寺前駅間が不通となった。
- この時、機関車は逆向き運転をしており、テンダー側からトンネル側壁に衝突したため、運転台はテンダーに押しつぶされた状態になっており、乗務員の遺体収容は凄惨な状態だったという。原因としては、生野駅手前(新井駅側)にある生野トンネル (614.73m) が、播但線において難所とされている生野峠から続く25‰という上り勾配で、かつ、開口面積が狭いため、通過の際に乗務員がばい煙により意識を失い、登坂のために加減弁が引かれた状態のまま下り勾配を駆け下りたこととされている。
- この事故の後、播但線の蒸気機関車乗務員に対し、非常用のガスマスクが支給され、翌年には生野峠越え用補機として、当時最新鋭のDF50形ディーゼル機関車が配備されることとなった。
- 現場の線路脇に、遺族らが建立した慰霊碑が残されている(兵庫県神崎郡神河町渕地区)。
1960年代
小田急線列車衝突転落事故
- 小田急電鉄小田原線和泉多摩川~登戸間、多摩川土手にある和泉多摩川2号踏切(事故当時は第3種踏切:踏切遮断機なし、踏切警報機のみ)で、新宿発各停向ヶ丘遊園行き下り列車(2400形4両編成)とダンプカーが衝突した。ダンプカーが踏切鳴動中の踏切を突破しようとしたことが原因とみられている。
- この事故でダンプカーは鉄橋上約100m程登戸駅側に引きずられ炎上、運転者が死亡した。一方、列車は先頭車が多摩川の河川敷に転落、2両目は鉄橋から宙吊り、3両目は脱線、4両目(最後尾)は無傷。運転士1名と乗客約数十名が重軽傷を負った。この事故後、現場踏切は車両通行止めとなった。その後事故から40年余りが過ぎた2004年頃に高架線が完成し、この踏切は廃止された。
山陽本線「さくら」・「あきよし」衝突事故
- 山陽本線西宇部(現・宇部)~小野田間で20系客車による東京発長崎行き下り寝台特急「さくら」に、2時間57分遅れで運転されていた山口発博多行き気動車準急「あきよし」(キハ55系気動車)が追突した。
- この日は大雪の影響で通信不能となり、列車の運転は前方を目視で確認しながら15km/h程度の低速で一定時間間隔毎に列車を運行する隔時法によっていた。前方に先行列車を見つけて停車中の「さくら」に「あきよし」の運転士が気づいたのは「さくら」最後尾から約80m手前で、45km/hと速度を出していたこともあり非常ブレーキを扱ったが間に合わなかった。この事故を機に隔時法は廃止された。
- この事故では双方の列車に乗客がいたが、「さくら」「あきよし」で計50名の重軽傷者を出したものの、20系客車の軽量構造が衝撃を吸収し、客室部分の損傷を最小限にとどめ、死者は出さなかった。この点では軽量車体の優位性を示したといえる。しかし、当時20系は予備編成が確保されていない状態での運転だったため、付属編成6両が不足する事態となった。そのため、急遽10系ナハネ10形・オハネ17形や旧型客車スハネ30形を20系と併結して、急場をしのいだ(→うばざくらも参照)。
三河島事故
(常磐線三河島駅列車多重衝突事故、国鉄戦後五大事故の一つ)
- 常磐線三河島駅構内で貨物線から下り本線に進入しようとした田端操車場発水戸行の下り貨物列車(蒸気機関車牽引)が、赤信号を冒進して安全側線に進入し脱線。先頭の機関車が下り本線を支障した直後に三河島駅を1分遅れで出発し下り本線を進行してきた上野発取手行きの下り電車と衝突し、上り本線を支障した。約6分後、さらにその現場に上野行きの上り電車が突入。双方の先頭車両は原形を留めず粉砕され、一部の車両が築堤下の小屋に突っ込み、死者160名を出す大事故になった。
- 列車や設備、事後直後の保安対策が十分に行われなかったことが原因とされ、自動列車停止装置(ATS)や列車無線の設置を推進することになった。
→詳細は「三河島事故」を参照
南武線踏切事故
- 1962年(昭和37年)8月7日
- 南武線津田山駅~久地駅間の第3種踏切で警報を無視して進入したトラックに下り電車が衝突。上り線を支障した下り電車に上り電車が衝突し、3名が死亡した。
- 踏切事故の多発が問題視され、踏切設備の改良や立体化など、踏切の抜本的な整備対策が検討され、当面の対策として踏切支障警報装置の設置が進められた。
羽越線正面衝突事故
- 1962年(昭和37年)11月29日
- 羽越本線羽後本荘駅~羽後岩谷駅間で下り単行機関車(D51形蒸気機関車)と上り貨物列車(DF50形ディーゼル機関車牽引)が正面衝突。ディーゼル機関車は前頭部が完全に粉砕されて炎上し、貨物列車の乗務員2名が殉職し、単行機関車の乗員3名が重軽傷を負った。
→詳細は「羽越本線列車衝突事故」を参照
鶴見事故
(東海道線鶴見列車多重衝突事故、国鉄戦後五大事故の一つ)
- 東海道本線鶴見駅~新子安駅間で、貨物線(現在の横須賀線線路)走行中の下り貨物列車が脱線し、そこに上下旅客列車が進入して三重衝突事故となる。合わせて死者161名、重軽傷者120名という大事故になった。
- 調査の結果、競合脱線が原因だとされた。
→詳細は「鶴見事故」を参照
京阪電鉄蒲生信号所列車衝突事故
- 大阪市城東区の京阪電気鉄道京阪本線蒲生信号所(現在は廃止)構内の複々線の緩行線(B線、外側線)と急行線(A線、内側線)との合流ポイント付近で、緩行線から急行線側に進行中の下り普通列車の側面に、急行線を併走中の下り急行が信号冒進して衝突。普通列車の先頭車両はその衝撃で上り線側に飛び出し、信号所の建物に突っ込む。乗客など51名が重軽傷を負った。原因は急行運転士の過労とされたが、この事故を契機に京阪は自動列車停止装置の導入に踏み切った。
南海電鉄男里川橋梁列車脱線転落事故
- 大阪府泉南郡泉南町(現、泉南市)の南海電気鉄道南海本線「樽井9号踏切」で立ち往生していた大型トラックに、難波発和歌山市行き下り急行電車(5両編成)が衝突し、その弾みで男里川橋梁から1、2両目が川に転落して5名が死亡、208名が重軽傷を負った事故。直接の原因は、狭い踏切(ただし大型車に対する通行規制はなかった)に進入した大型トラックが立ち往生しているのに急行電車の運転士が気付き、非常制動を行ったものの間に合わず衝突し、脱線転覆したことである。
- しかしこの運転士は、自分の長男を乗務員室内に入れて運転を行っていた上、非常制動を行った後にその長男を抱いて乗務員室から脱出したことが発覚したため、同社の安全に対する姿勢が問われる結果となった。当時、子供に気を取られたのではないかとしていた報道もあった。
米軍燃料輸送列車衝突炎上事故
- 1967年(昭和42年)8月8日
- 新宿駅構内で、渡り線を通過中の中央線立川行き貨物列車(電気機関車EF10 、タンク車18両)の側面に、中央線上りの浜川崎行き貨物列車(電気機関車EF10 、ホッパ車20両)が、停止信号を示していた場内信号機を越えて衝突。脱線・転覆したタンク車から漏れた航空燃料に引火し、機関車とタンク車3両が炎上した。この事故で死傷者は出なかったものの、激しい火災の消火と、炎上を免れたタンク車からの燃料の抜き取り作業や復旧作業に手間取ったことから復旧が遅れ、中央線は丸1日ストップした。
→詳細は「米軍燃料輸送列車事故」を参照
南海電鉄天下茶屋駅列車衝突事故
- 1968年(昭和43年)1月18日
- 17時17分頃、南海電気鉄道の春木発難波行臨時急行電車(11001系5両編成)が天下茶屋駅ホーム通過後、停止信号を無視して進行、別方向に開通していた分岐器を割り出し、その先の分岐器から分岐側に進入して、出発待機していた回送電車(モハ561形2両編成)に正面衝突した。急行の前頭2両と回送の前頭1両が脱線し、急行電車の旅客と双方の乗務員合わせて296名が負傷した。
- 直接原因は、急行運転士の信号無視と制動操作の誤りとされたが、競輪・競馬(競輪場のほか、1974年まで春木競馬場があった)の観戦客輸送で急行通過が10分程度遅れていたことを理由として、回送電車の出発を優先して急行に停止信号を出した駅員の運転取扱いも問題とされた。
- 南海電鉄は前年4月の男里川橋梁列車脱線転落事故と7月の箱作駅構内列車衝突事故に続き、1年以内に重大事故を3度も引き起こしたため(これらは「南海3大事故」と呼ばれており、同社の安全報告書にもその記述がある)、その体質を厳しく批判されることとなった。
営団地下鉄日比谷線神谷町駅車両火災事故
- 1968年(昭和43年)1月27日
- 営団地下鉄(現:東京メトロ)日比谷線神谷町駅付近で、回送中の東武鉄道2000系(6両編成)の3両目の主抵抗器付近から出火して火災を起こし、1両が全焼、1両が半焼した。
- 事故列車は、六本木駅で主抵抗器が赤熱して付近から発煙していることが見つかったために営業を打ち切って乗客を降ろし、霞ケ関駅の側線へ向けて回送中だったので幸いにして死者は発生しなかったが、火災発生が駅と駅の中間だったために消火に手間取り、乗務員や消防士ら11人が負傷した。なお、全焼した車両は車体・機器ともすべて造り直され修理扱いで復帰した。
- 火災の原因は、主抵抗器が過電流により過熱して、上部にある樹脂製電線管から出火し延焼したものとされた。この事故の1時間ほど前、この編成が中目黒行きとして運行中に主制御器の進段トラブルが発生し、その際3両目含む第2ユニット開放の処置を行ったが、3両目の主制御器は並列段の進段途中で停止したままになっており、北春日部への折り返し運転時運転士が転換器を操作しても(ユニットが開放されているため)極性が転換せず、走行中は常時発電ブレーキがかかっている状態となっていたのが主抵抗器過熱の原因である。
- この事故で、当時の耐火基準の最高ランクだったA-A様式に該当する車両が1両全焼したことは可燃性の車両部品の使用を見直すきっかけとなり、事の重大さを重く見た運輸省(当時。現国土交通省)は営団中野工場内での実車燃焼実験等を含む抜本的検討を行い、翌1969年(昭和44年)5月に従来の通達に代わる「電車の火災事故対策について」を通達することによって新たな耐火基準(いわゆるA-A基準)を定め、火災事故対策を強化した。この基準は世界的に見ても厳格なもので、以後の鉄道火災事故防止に貢献している。
御茶ノ水駅電車追突事故
- 1968年(昭和43年)7月16日 午後10時38分
- 中央本線・御茶ノ水駅に停車中の豊田駅行き2239F電車(10両編成)に、後続の高尾駅行き2201F電車が追突した。双方の電車とも5両ずつが脱線した。負傷者210名(昭和44年度運輸白書参照)。事故原因は後続運転士の制限速度オーバーとブレーキ操作遅れという人的ミスとされた。
- またこの年は、4月に上越線群馬総社駅構内列車衝突事故(69名負傷)、6月に伊豆急行川奈駅構内列車接触事故(60名負傷)、8月に相模鉄道瀬谷駅構内列車衝突事故(83名負傷)と豊橋鉄道老津駅構内列車衝突事故(58名負傷)、10月の函館本線奈井江駅における列車脱線事故(29名負傷)など、鉄道事故が多発していた。
山陽電鉄・中八木駅・江井ヶ島駅間列車衝突事故
- 1968年(昭和43年)11月23日 午後6時20分
- 山陽電鉄の下り姫路行き3両普通電車が中八木駅を誤って通過し次の江井ヶ島駅近くの1.5kmオーバーランした。運転手は通過した中八木駅に戻るために電車を逆走させた。ところが中八木駅西方650m戻った地点で後続の東二見駅行き2両普通電車と正面衝突した。この事故で後続電車の運転手1名が運転室で押し潰され殉職し乗客ら72名が負傷した。原因であるが先行電車の運転手が考え事をしていて通過したうえに、自身3度目の停車駅通過だったため処分を恐れて後続列車が来ないと思い込み後退したためだった。
寝台特急日本海北陸トンネル列車火災事故
- 1969年(昭和44年)12月6日 6時20分
- 青森発大阪行き寝台特急「日本海」が北陸本線敦賀~今庄間の北陸トンネル通過中に最前部電源車から火災が発生。機関士はとっさにトンネル内での停止は危険だと判断し当時の運転規則に逆らい、トンネルを脱出して停車してから消防車の協力を得て消火作業を行い火元車両焼損だけで無事鎮火させた。このことは、乗客の安全を守る機転のトンネル脱出として好意的に報道された。
- ところが国鉄は、この犠牲者・負傷者ゼロをもたらした機転の利いた行為を運転規則の改訂に反映させるのではなく「運転規則違反」だとして乗務員を処分し、後に急行「きたぐに」で起きる北陸線北陸トンネル列車火災事故の引き金を引いた(「きたぐに」事故後に行われた運転規則訂正後に処分撤回)。
1970年代
山陰線川棚温泉駅~小串駅間列車脱線踏切障害事故
- 1970年(昭和45年)3月30日
- 下関発京都行き上り普通第826列車(現車7両)は山陰本線川棚温泉駅を定時に発車し、時速55kmの惰行運転中、進行方向右側から第3種踏切を警報を無視し直前横断しようとするミキサー車と衝突し、1両目客車は全軸脱線し、進行右側に横転破損し、2両目も全軸脱線した。旅客4名、ミキサー車運転者1名の計5名が死亡し、旅客29名が負傷した。
富士急行列車脱線転覆事故
- 午前8時25分頃富士急行大月線月江寺駅の富士吉田駅方踏切(緑ケ丘第二踏切。大月駅起点21.990km。第1種自動)で、河口湖駅発大月駅行き電車(3100形3103+3104)が、積み荷の落下に気を取られ、ブレーキ処置をしないまま運転者が下車したため転動し、遮断機を突破し踏切内に進入した小型トラックと衝突。車両の下に引きずり込まれたトラックが空気溜めを破損したためブレーキが全く使えなくなり、電車は逸走し約4kmを暴走。月江寺駅~暮地駅(現寿駅)間の4駅を通過した後、暮地駅~三つ峠駅間(最急40‰の下り勾配)のカーブに猛スピードで進入し、進行方向左側の沢に転落し、後部車両が大破した。乗客約120名のうち17名が死亡、69名が負傷した。トラック側2名が負傷した。
- この事故後、空気ブレーキの系統を多重化するなどの対策が採られるようになった。また、同社ではこの事故以降、車両番号の末尾が忌み番である「4」の車両は存在しない(後に登場した1000形のうち、1204-1304は欠番)。
土佐電気鉄道鴨部正面衝突事故
- 土佐電気鉄道の伊野線鏡川橋南詰~鴨部のカーブで、伊野発知寄町行電車(200形203号)が手前の交換所で待避待ち(タブレット交換)をせずに進行し、知寄町発伊野行電車(同205号)と正面衝突した。重軽傷66名。衝突後203号はさらに、衝撃でブレーキが損壊し、下り坂を逆行、後方のダンプトラックとも衝突した。事故車のうち203は廃車。205は修理され運用に復帰した。鏡川橋~鴨部市場前間は、同年中に特殊単線自動閉塞式の信号方式に変更されている。
近鉄大阪線列車正面衝突事故
(青山トンネル事故・垣内東事故)
- 1971年(昭和46年)10月25日
- 近鉄大阪線の西青山駅~東青山駅間の青山トンネル東口手前200m地点のトンネル内で、ATS故障時の制動装置の取り扱いを誤ったことにより下りの特急列車が暴走し、総谷トンネル手前の垣内東信号所の安全側線で脱線して転覆したまま一部車両がトンネルへ進入、そこへ上りの特急が正面衝突し、現場がトンネル内だったこともあり、死者25名(乗務員3名)、重軽傷者255名という大事故になった。
→詳細は「近鉄大阪線列車衝突事故」を参照
船橋駅構内追突事故
- 総武本線船橋駅で、7時21分頃、駅構内の信号機トラブルにより停車中の緩行線上り613C列車(中野行き、101系10両編成)に、後続の緩行線上り711C列車(三鷹行き、101系10両編成)が追突し、三鷹行きの6両目が脱線した。幸い死者は出なかったものの、朝の通勤時間帯で乗客が非常に多かったため、重軽傷者758名という負傷者数では国内最悪の事故となった。
- 事故発生の直前、蕨変電所の送電線が断線したことにより信号系が停電し、そのため先行の緩行列車は船橋駅に停車中だった。信号系の停電で閉塞信号機、および場内信号機が消灯していて、通常であれば後続列車もこれを確認して直ちに停止の手配が取られるところだったが(信号機消灯は停止現示とみなして直ちに停止するよう規定で定められている)、後続列車の運転士は信号系停電時にATS-B型の警報が確認ボタンを押しても鳴り止まないことを認識できなかったため(停電時に警報が鳴り止まないことは運転士教育で教えられていたが、運転士はこのとき自分の置かれている状況がそれであることに思い及ばなかったという)、鳴り止まないATS警報に気を取られて故障ではないかとATSスイッチを操作しているうちに消灯している信号機を見落としてそのまま進行し、ブレーキ操作が遅れて追突したものである。
日暮里駅構内追突事故
- 京浜東北線北行第1332C電車(桜木町発大宮行き:103系10両編成)が日暮里駅で客扱いを終了し、2分遅れで発車したところ運転台の戸閉表示灯が消灯したためブレーキを掛け、約90m進んだ所で停止した。一方で、後続の山手線内回り第1370電車の運転士は(当時は線路保守のため、データイムは田端~田町間で山手線と京浜東北線が同じ線路を走行していた。この運転方式は現在でもリフレッシュ工事と称される工事が行われる際に見かける)、一つ手前の鶯谷駅を1分遅れで発車し日暮里駅に進入しようとする際、先行列車がホーム中央部分に停車しているのに気付き、非常ブレーキを掛けたが間に合わずに追突し、143名が負傷した。
- 原因は山手線の運転士が場内信号機の制限速度を超過して運転したためで、この事故をきっかけに信号保安機器の検討がなされ、京浜東北線・山手線のATC化が決定されることになった。しかし車両面での準備が遅れたため、実施は1981年12月6日まで待たねばならなかった。
北陸線北陸トンネル列車火災事故
(急行「きたぐに」火災事故)
- 北陸トンネル内を走行中だった、大阪発青森行き客車急行列車「きたぐに」の11号車食堂車(オシ17形)喫煙室椅子下から火災が発生し、列車が当時の規則に基づいてトンネル内で停車した。しかし、密閉された空間であるトンネル内だったことから、乗客・乗務員の多くが一酸化炭素中毒にかかり、30名が死亡、714名が負傷した。
- この事故を教訓に、地下鉄や長大トンネルを走る車両の難燃化・不燃化の基準が改訂され、車両の防火対策が進められた。
→詳細は「北陸トンネル火災事故」を参照
地下鉄日比谷線広尾駅車両火災事故
- 帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)日比谷線下りB871S電車(3000系8両・全電動車)が、広尾駅600m手前で過負荷継電器により編成内の電源が落ち、復旧後もノッチ操作に制御器が応答せず力行不可能となった。電車は広尾駅で運転を中止し乗客を降車させた。
- 直後の点検では車両に異常は認められなかった。しかし、乗客から「4両目の床下からボーンという音がした」「床下から少し煙が出ていた」という話を聞いた乗員と駅係員は、上記の北陸トンネル火災の直後ということもあり、大事をとって編成を広尾駅の側線に退避させ、パンタグラフを降下させた上で再度点検することにした。
- 点検中、5号車(運転中の前から4両目)の断流器から発煙しているのを発見。粉末式消火器で消火を試みたが、作業中に爆発音とともに煙の勢いが強くなり、退避した。その後煙がおさまらないため消防に通報。
- 3539号車の断流器焼損、高圧ツナギ箱等の床下機器を一部焼損した。死傷者はゼロだった。
関西線平野駅列車脱線転覆事故
- 関西本線平野駅構内を走行中の湊町(現:JR難波)発奈良行き普通第722列車(113系6両編成)の運転士は、8時12分頃、上り第1閉塞信号機の減速信号および平野駅場内信号機の注意信号の確認を欠き、分岐器に対する制限速度を超過したまま運転し、平野駅3番線で第56ロ転轍機にさしかかった際に制限速度35km/hを超過していることに気付き、非常ブレーキを使用した。当該列車は、56号転轍機のトングレール先端から34m進入した上り本線と上下待避線のわたり線で進行右側に脱線、196m進行して停止した。先頭車両が全軸脱線、車体が進行右側に横転転覆、2~6両目車両も全軸脱線転覆し、3名が死亡、149名以上(156名とも)が重軽傷を負った。当該列車が関西線では快速運用に入ることが多かった113系電車による編成だったことから運転士が平野駅を通過する快速と勘違いしており、制限速度35km/hの分岐器を70km/h以上で通過したため。運転士は意識朦朧となった状態で運転したもの。
- この事故を契機に関西本線における113系の運用はJR発足まで長らく快速運用に限定されることになる。さらに関西本線ではトランスポンダ式Pとの比較で廃止された変周式ATS-Pの長期試験も実施された。事故列車の先頭車は廃車となった。なおJR西日本発足後に登場し主に快速で使用される221系では同線の普通列車の運用も存在している。
東北本線列車脱線衝突事故
- 東北本線古河駅~野木駅間で大宮操発郡山操車場行き貨物列車が脱線、上り方面の線路を支障した。そこへ、上野行の急行「まつしま5号」「ばんだい4号」(455系電車)が突入。上野方の「ばんだい4号」は左側前面の一部を破損し、脱線転覆。52名が衝撃で跳ね飛ばされたり、ガラス片で手足を負傷するなどした。
信越線軽井沢駅-横川駅間回送機関車脱線転落事故
- 信越本線軽井沢~横川間上り線で、単行機関車列車(回送列車)列車番号単5462列車(4両編成、EF63 5,9+EF62 12,35)が下り勾配でブレーキが利かなくなり、スピードが超過したため、脱線転落した事故。乗務員3名が重軽傷を負った。事故機は4両とも現場で解体され廃車となった。
- 事故がおきたのは、午前6時16分ごろ。信越線上り線第一トンネル内で暴走し、出口付近で脱線した後、転覆・転落した。この区間は、最大66.7‰の急勾配のため、下り勾配を走行するEF63は、発電ブレーキという抑速ブレーキを作動させながら、列車が過速度で暴走しないように下りてくる。その際にすべての列車は、過速度検知装置(OSR)によって最高速度を旅客列車40km/h、貨物列車25km/hに制限されており、機関車の回送列車である当該列車は貨物列車と同じ扱いで25km/hの制限によって走ることになっていた。ところが何らかの原因でこのスイッチが正常に作動しなかったものと見られ(一説には運転士が誤って旅客列車側にスイッチを入れていたとも)、制限速度を大幅に超過して坂を下り、トンネル内壁に傷をつけるなど暴走した後に脱線・転覆した。
- EF63には下り勾配で暴走したときのために、回路をショートさせ、電動機を破壊してでも列車を止めるための装置が装備されていた。この事故の際、運転士は最終手段であるこのブレーキも使用しているが、それでも下り坂で暴走する列車を止めることはできなかった。急勾配の恐ろしさを関係者に知らしめた事故である。この事故を教訓に、EF63全車両に設置されている過速度検知装置(OSR)に、より厳重な安全対策が施された。
山陽線須磨駅ホーム転落事故
- 須磨駅にて新快速(153系または165系の6両編成)の通過待避をしていた各駅停車の大山健一車掌が、ホームから転落した泥酔の老人を救おうと線路に飛び降りたが、老人とともに新快速にひかれて死亡する事故が起こった。大山車掌は入局2年目であり、その勇気を称えて碑が立てられている。
高松琴平電鉄志度線列車正面衝突事故
- 高松琴平電鉄志度線の今橋駅付近にある向良横踏切(高松市松島町)で上下2両編成の電車が約時速30kmで正面衝突した。当日は日曜日で海水浴に向かう家族連れら約450名が乗車していたが、重傷者17名を含む負傷者224名を出す事故となった。なお事故車両(上下いずれも1000形)は運転台が潰れたため廃車になったが、同社にとって有責事故による廃車は唯一である。
- 事故は志度線が全線単線であり、上下電車が今橋駅で交換するダイヤだったにもかかわらず、下り電車の運転手が失念し先に出発した人為的ミスだった。また当時志度線にATSは設置されていなかった。
東海道線蒸気機関車接触事故
- この日、東海道本線の京都駅~大阪駅間で同区間の開業100周年を記念し、C57形蒸気機関車が牽引するイベント列車の「京阪100年号」が1往復運行されていたが、その上り列車に線路際で撮影をしていた小学5年生の男児が接触し、死亡した。
- 事故そのものは、国鉄側に責任のない鉄道人身障害事故だったが、国鉄における蒸気機関車の動態保存に対する考え方を大きく変えた事故となった。
→詳細は「京阪100年号事故」を参照
営団地下鉄東西線列車横転事故
- 営団地下鉄東西線の中野行き快速列車(営団5000系10両編成)が、南砂町~葛西間の荒川中川橋梁上で竜巻による突風を受けて後部2両が西船橋方面行きの線路上に横転、1両が脱線。負傷者23人。
- 当時、営団では地上部要所に風速計を設置、風速15m/s以上でブザーが鳴動、注意運転を指示、20m/sで列車運転を見合わせ、25m/s以上で運転休止を指示することになっていた。現場から800mの地点に風速計が設置されていたが、大手町運輸司令所では警報ブザーは鳴動しなかった。当時、天候は、午後9時の気圧配置では、北緯40度東経137度付近に低気圧988mbがあり、不連続線の1本が東京上空を通過、非常に不安定な気象状況だった。竜巻突風による被害は、午後9時20分頃、川崎市戸田で突風により民家8戸が全壊、60戸の屋根が飛ぶなど、被害区域は幅300~500mの帯状の範囲、川崎市から市川市東方までの30kmの範囲、時間は25~30分間に集中した。竜巻突風は時速80~100kmで北東ないし東北東に直進したものと思われる。
- ステンレスカーの車重が問題となったが、その後の調査により、走行中の列車を竜巻が直撃する確率は50~100年に1回と計算され、不可抗力という結論になった。
- 脱線および転覆した2両は、橋梁上で復旧が困難と言う理由から現地解体され、その後同じ番号の車両が2両代替として新製された。
- なお、このとき一部テレビ局のニュース速報で「地下鉄電車が突風で転覆」とテロップされ、地上区間や鉄橋があることを知らない人に混乱を招いた。
信越本線篠ノ井駅列車衝突脱線事故
- 信越本線篠ノ井駅において、入換中の貨車7両と長野行き臨時修学旅行電車(165系8両編成)が衝突。電車の先頭車1両(クハ165-190)と貨車2両が脱線・転覆し、乗客の中学生と教師ら364人が負傷した。
- 当時、駅構内で貨車の入換中だったが、貨車を機関車から突放する際に、操車掛が貨車にブレーキをかける構内掛が待機しているのを確認しないまま入換機関車に突放指示を出したため、機関車より突放された7両の貨車はブレーキをかけられる事無くそのまま構内を800m逸走し、分岐器を割り込んで篠ノ井線の本線へ侵入し、駅に進入中の修学旅行電車が衝突したものである。衝突時の速度は貨車が約5km/h、電車は非常制動をかけたこともあって約30km/hと比較的遅い速度での衝突だったが、衝突した両数が多かったためか多くの負傷者を出す惨事となった。
京王帝都電鉄京王線列車障害事故
- 京王帝都電鉄(現:京王電鉄)京王線飛田給駅~武蔵野台駅間の踏切で、トラックの荷台から転落した重機(ショベルカー)に新宿行き上り急行列車(5000系7両編成)が衝突して下り線を支障したところに、京王八王子行き下り特急0015列車(5000系7両編成)が衝突し前2両が脱線転覆。重機を退かそうとして重機に乗り込んだトラックの運転手が列車に轢かれて死亡し、列車の乗員・乗客ら52名が負傷した。荷物重量制限の確認が厳重にされているが、注意を見落とした可能性もある。この踏切には障害物検知装置が設置されていなかったことから、以後京王線の踏切の安全対策強化が進められた。事故車両は高幡不動駅構内の高幡不動検車区に運ばれ、損傷が酷かった京王八王子方の先頭車1両(クハ5871号車)が廃車となった。
1980年代
京阪電気鉄道置石脱線事故
- 大阪府枚方市の京阪電鉄京阪本線の枚方市駅~御殿山駅間で、同市内の枚方市立第一中学校2年生5人組のグループが悪戯で側溝のU字溝用のコンクリート蓋を線路に置き、ここを通りかかった淀屋橋駅発三条駅行の急行電車(5000系7両編成・乗客約400名)の先頭3両が脱線、先頭車輛が民家に突っ込んだ。幸い犠牲者は出なかったが負傷者104名の大事故になった。
- この事故により先頭車両5554号車は廃車になった。また中学生グループおよび保護者に対して京阪電鉄は損害賠償訴訟を起こし、その内の1人の親権者は「グループに入っていたが、実行行為に関与していなかった」と主張して最高裁まで争った。最高裁では謀議に入った者も賠償責任が発生すると判旨を出し、高裁に差し戻されたが、1988年に実際の損害額の10分の1を支払うよう命じた判決が出され、和解が成立した(残る9割の損害は保険で対処した)。またこの反省から京阪電鉄京阪本線においては、沿線から線路に進入させないようなフェンスをきわめて積極的に設置した。さらに、先頭車輛への排障器の設置と、先頭台車への補助的な排障器具の設置を進めた。
名古屋駅寝台特急「紀伊」機関車衝突事故
- 1982年(昭和57年)3月15日
- 2時16分頃、機関車付け替えのため名古屋駅に停車中の東京発紀伊勝浦行寝台特急「紀伊」(14系客車6両編成)に、連結しようとしていたDD51形ディーゼル機関車(DD51 717)が約20km/hで衝突し、客車3両が脱線した。負傷者14名。機関士が前日の夜、仮眠時間に飲酒しており、それによる居眠り運転をしたことが原因だった。この事故は、当時マスメディアを中心に展開されていた、国鉄職員のモラル欠如への批判キャンペーンをさらに強めることとなり、国鉄と国労などでは、本社職員幹部を更迭するなどし、マル生運動破綻以来の労使癒着関係を解消させることにもつながった。機関車と事故列車の先頭車(スハネフ14 102)が廃車となった。
阪急神戸線六甲駅列車衝突事故
- 阪急神戸本線六甲駅構内で、本線に出てきた上り回送列車(山陽電鉄3050系4両編成)に、同駅を通過していた上り特急列車(阪急電鉄2000系8両編成)が衝突。特急列車の前部3両と、回送列車の4両が脱線し、負傷者72名を出した。事故による死者は出なかった。遅れていた回送列車の運転士(山陽電鉄の運転士)が故意に自動列車停止装置(ATS)のスイッチを切り、車掌の合図と信号を無視して発車したことが原因。
- ゴールデンウィーク中だったため、特急列車は満員状態だった。また事故時には、神戸方面へ向かう対向列車(普通列車)が同駅に向かって走行しており、衝突した特急列車の運転士(阪急電鉄の運転士)が異常を知らせるために重傷を負いながらも発煙筒を手に線路上を大阪方へ向かって走ったことにより、二次的事故を免れたとされる。当該車両のうち、損傷の酷かった阪急2000系2050号車が廃車となった。
- 事故を起こした山陽電鉄の運転士は後に懲戒解雇され(動力車操縦者免許も剥奪)、同乗していた同社の車掌も直接の責任はないながら、事故を未然に防げなかったという自責の念に駆られ、事故から11日後の5月16日に自社線の特急列車に飛び込み自殺をした。大阪陸運局(現在の近畿運輸局)が特別保安監査を行ったところ、安全教育の不徹底が指摘され、同年5月31日に山陽電鉄に対して業務改善命令が出された。
- なお、山陽電鉄の列車は、1968年の相互乗入れ開始から一貫して、六甲駅で乗客を降車させた後に回送列車としてすぐ発車し、御影駅西方の待避線で折り返すというダイヤが設定されていたが、当事故より1ヶ月あまり前となる1984年3月25日のダイヤ改正から、休日ダイヤに限って六甲駅で特急を退避してから回送列車を発車させるダイヤとなっていた。事故を起こした山陽電鉄の運転士は、新ダイヤでは初めての勤務だったとされ、特急退避の必要を事前確認していなかった可能性も指摘されている。
西明石駅寝台特急列車脱線事故
- 1984年(昭和59年)10月19日 1時48分頃
- 西明石駅を通過中の宮崎発東京行寝台特急「富士」(機関車+24系25形客車14両)の先頭客車(13号車)が脱線してホームに激突し、車体側面下部が大きく削り取られて大破した。最後尾の電源車を除く他の12両の客車もすべて脱線した。負傷者32名。
- 駅構内で保守工事が実施されており、「富士」の機関士にも分岐器の曲線側を減速通過するように通達が出されていたもの、その旨を忘れて高速で進入したのが原因だった。機関士が飲酒運転を行っていたことも発覚し、世間からは2年前の「紀伊」の事故とあわせて、強い非難を浴びた。
→詳細は「西明石駅列車脱線事故」を参照
上信電鉄列車正面衝突事故
- 上信電鉄上信線赤津信号所付近において、下り列車(6000系2両編成)と上り列車(100形2両編成)が正面衝突し、上り列車の運転士1名が死亡、乗客132人が負傷した。
- 原因は下り列車の運転士が、上り列車と交換予定だった同信号所の停止信号を冒進したため。 事故当時、同線にはATSは設置されておらず、赤信号を無視しても列車を止めることができなかった。
- 当時のダイヤでは上下列車の交換地点が列車によってばらつきがあり、そのことが事故の遠因になったのではないかと指摘されたため、事故後列車交換駅の統一や列車の減便を伴う大規模なダイヤ改正が行われた。 またATSについては、事故発生から1年後の1985年12月までに整備を完了している。
- この事故により運転士が死亡した上り列車の車両2両(クモハ102+クハ102)が廃車されている。
能登線列車脱線事故
- 能登線(後に第三セクター化されてのと鉄道能登線に変更、現在当該区間は廃止)古君駅~鵜川駅間で、下り気動車急行列車「能登路5号」(金沢発蛸島行き、キハ58系4両編成)が、古君駅を15分遅れで速度約50km/hで力行運転、進行左側の築堤の盛土が一部崩壊し線路が浮いている場所に進入して、直ちに非常ブレーキを使用したが、全車両が脱線、気動車の前3両が築堤の約8m下の水田上に落下、横転、4両目が進行左側に約30度傾斜して停止した。旅客7名が横転した2両目気動車の下敷きになって死亡、32名(気動車運転士、車掌、従業外の国鉄職員)が負傷した。
- 事故現場の築堤の盛土は水抜きパイプがなく、両端に草を植えた古い方式の土工法によるものだった。前日夜から当日朝まで連続雨量95mmの豪雨が観測されていたが、事故当時は降雨はなかった。豪雨時の運転規制条件の見直しと、同種の方式の盛土の一斉点検が実施された。事故車両はすべて廃車となった。
- 付近の累計雨量は7月10日から11日8時まで約100mmだったが、その後、降雨は無かった。現場より約2km離れた鵜川駅の雨量計によれば、6月30日より降り始めた雨は7月1日までに107mm、その後7月4日から降り始めた雨は8日まで降り続き、5日間で445mmにまで達した。続く2日間降り止んだ後、7月10日から降り始め、7月11日8時までに95mm、全体で12日間に540mmの累計雨量だった。
- 開業以来、最大の連続降雨により盛土内水位が異常に上昇し、安定が損なわれ、クリープ的破壊が生じ始めたところに列車が進入し、急激な滑動に至ったものと推定される。
- 盛土は軟弱地盤(厚さ約2m)の上に高さ7.5mで建設され、盛土右側は斜面に接していた。盛土材料は粘性土だった。盛土の崩壊は線路中心から起き、円弧すべり(後述)により約3mの沈下を生じた。盛土のり尻付近ではあぜ道が盛土とともに横移動、田面が隆起、基底破壊が引き起こされていた。崩壊の原因は、長期にわたる降雨による台地からの浸透水と台地上の表流水が徐々に盛土本体および支持地盤に浸透、盛土および地盤の隙間水圧が上昇、また盛土重量が増大したためと思われる。降雨後約6時間を経て崩壊したのは、盛土材料が粘性土であり、台地も粘性地盤であるために、降雨の影響が及ぶのにタイムラグが生じたためであると思われる。
- 土木工学上、円弧すべりは、盛土が締め固め不足である、また排水工事が不十分であるときなど、土中の水により新しい盛土が滑る、一般的な現象である。すなわち盛土内で飽和状態にある水により滑り台のように盛土が滑るのである。円弧すべりによる事故としては、1938年6月、山陽本線和気~熊山間の、半年前に新たに築堤を造成し線路移転を図った箇所で、長期にわたる降雨により築堤崩壊がおこり、列車が横転、死者25名、負傷者108名の重大事故が起きていた。1938年の事故は線路改良後短期間で起きたが、1985年の当該事故は、建設後長期間が経過し安定したかに思われる地盤においても長期にわたる降雨とその他予想し得ない条件が重なれば円弧すべりが発生することをしめしたものである。
- 従来の要領で定められていた連続降雨および降雨量では危険性を適切に評価できない長期にわたる降雨に対する防災対策と運転規制については、日本鉄道施設協会内に、学識経験者をまじえた「降雨時の災害防止に関する研究委員会」が設置され、審議、抜本的な見直しが行われた。
- その後、同様な崩壊が発生すると考えられる軟弱地盤上の粘性土高築堤その他を、長雨重点警備箇所として指定、これら対象区間には、従来の運転規制基準に加え、ひと雨の降り止み、降り始めを定義する降雨中断時間を48時間とする「累積雨量」による運転規制を定め、この規制ルールにも対応し得る演算機能を有する雨量警報装置(レインピュータ)の配備を行った。長雨重点警備箇所のうち、防護工の設置による対策が講じられ、土中水位の断続観測によりその効果が確認され長雨による後(おく)れ破壊が起こるおそれがないと判定されたものについては逐次、指定の解除が行われた。
東急東横線横浜駅脱線事故
- 東急東横線横浜駅構内において、元住吉発桜木町行き急行電車(9000系8両編成)の最後尾が脱線。負傷者はいなかった。
- 原因は、輪重比不均衡で乗客乗降の荷重急変に追従できなかったためと考えられ、以降、東急では輪重比10%以内(輪重0.9~1.1)に管理、脱線防止ガード設置基準を半径450R以下の曲線へ引き上げる、という基準を独自で制定。後の日比谷線中目黒事故において東急と同じ輪重管理と新たにガードレール設置判別式を制定、全事業者に採用されたが、運輸省(当時)はこの時点では他事業者に対する注意喚起を行わなかった。
- (その為、もしこのとき注意喚起が行なわれていれば中目黒の事故も防げたのではないか、と言われている。)
- 東急横浜駅脱線事故を参照。
西武新宿線田無駅列車追突事故
- 西武新宿線田無駅構内に接近した西武新宿行き上り急行電車(2000系8両編成)のブレーキが効かなくなり、ホームに停車中の準急電車(2000系8両編成)に追突、200名余が負傷した。
- 当日は大雪であり、車輪とブレーキシューの間に雪が挟み込まれたのが原因とされた。事故にあった車両のうち、損傷のひどかった8両(2両編成1本のほか、6両編成2本のうちそれぞれ2両と4両)が廃車となった(残った6両編成の車両はまとめられて6両編成1本として復旧)。その後、事故車両と同系の車両全車には耐雪ブレーキが装備された。事故当時、新宿線専用だった2000系には、耐雪ブレーキは装備されていなかった。
山陰線余部鉄橋列車転落事故
- 1986年(昭和61年)12月28日 (日本国有鉄道としては最後の大規模事故)
- お座敷列車「みやび」の回送列車(DD51形ディーゼル機関車(1187号機)+14系客車7両、臨回 9535 列車)が山陰本線鎧駅~餘部駅間にある余部鉄橋を時速約 50 キロメートルで走行中の午後 1 時 25 分ごろ、日本海からの強風にあおられて客車がすべて鉄橋より転落した(機関車のみ橋梁上に残った)。転落した車両は真下にあった食品加工場(蟹加工工場)を直撃し、工場の従業員 5 名と車掌 1 名が死亡、車内販売員 1 名と工場の従業員 5 名が重軽傷を負った。転落した客車「みやび」は全車廃車となった。
- この列車を運転していた機関士は鉄橋通過中に、非常ブレーキが動作したのを感じて後方を確認したが、この時すでに客車は転落していて、鉄橋上には台車の一部が残されたのみだった。非常ブレーキが動作したのは、機関車と客車をつなぐブレーキホースが引きちぎられたためであると考えられている。
- 列車運行を規制するために沿線には風速計が設置されているが、この設置が不十分だったことや、地形的な理由などから、列車運行に支障を及ぼす強風を予測しきれなかったことが主な原因と見られている。当時から現在に至るまで現場の風速計は、この地方特有の突風で頻繁に動作し、列車遅れの原因となっていた。そのため、台風の接近により連続的な強風となっていた当日も、運転指令ではいつもと同じ突風と勘違いをして列車を進行させたとも言われている。単線区間では列車を長時間止めると、ダイヤを正常に戻すのに長時間かかることも警報軽視の遠因であろうと推測されている。事故後、国鉄は運行規制基準を見直し、風速毎秒 20 メートル以上の風が吹くと自動で列車の運行を停止するように改善した。
- なお、余部鉄橋については老朽化や、この事故で厳しくなった運行基準のために列車の運休や遅れが続出していることから2010年完成を目指し架け替えが予定されている。
- 事故後、関係者5人が送検され、神戸地裁で、当時の国鉄福知山鉄道管理局CTC指令長と指令員2人に執行猶予付きの禁固刑(2年6月から2年)の判決が言い渡された。この事故の背景には、分割民営化を3か月後に控え、運行停止を頻発させると、JRになった後の再雇用に不利になるという風潮が現場にあったのではないかと考えられている。
- 外部リンク:失敗知識データベース・余部橋梁列車転落事故
中央線東中野駅列車追突事故
- JR東日本の中央緩行線東中野駅に停車中の津田沼発中野行下り各駅停車(103系10両編成)に後続の千葉発中野行下り各駅停車(201系10両編成)が追突し、後続電車の運転士と乗客1名が死亡、116名が重軽傷を負い、両端の車両を除く18両が廃車となった。JR発足後初の死者の出た事故。
→詳細は「東中野駅列車追突事故」を参照
飯田線北殿駅列車正面衝突事故
- JR東海の飯田線北殿駅において、停車中の天竜峡発長野行き下り普通列車(第537M。3両編成)に上諏訪発天竜峡行き上り普通列車(第248M。2両編成)が正面衝突。下校途中の高校生ら146名が負傷した。
- 原因は、上り列車運転士がATSロング地上子の警報を受け、確認扱いを行い、出発信号機の進行現示を場内信号機の停止現示から進行現示に変更したものと誤認、速度節制を行わず運転を継続、場内信号機の赤信号を冒進した。場内信号機のATS直下による非常ブレーキが作動したが、車両接触限界内に停車できず、下り列車の過走対策によりポイントが下り列車方向を向いていたタイミングだったため正面衝突した。
- 飯田線ではATS-Sが使用されていたが、このシステムでは、警報が鳴動し運転士が確認扱いを行った後は、停止信号を忘れて、あるいはこの事故のように信号を誤認して運転しても非常ブレーキが作動しなくなる、運転士の注意力に全面的に依存したものだった。この弱点を突かれた事故だったとも言える。上記の東中野追突事故とこの北殿駅正面衝突事故を受けてJR各社はATS-Sの緊急改良を決め、JR東日本と東海が開発を担当し、ATS-Sの場内信号機と出発信号機などの絶対信号機直下に非常停止機能を追加したATS-Snを開発してJR東日本と北海道が採用、東海は更に時素式速度照査機能を追加してATS-STとし、-STから列車番号通知機能を除いたものを西日本(ATS-SW)・九州(ATS-SK)・四国(ATS-SS)・貨物(新ATS-SF)で採用した。
1990年代
信楽高原鐵道列車正面衝突事故
- 滋賀県の信楽高原鐵道信楽線の小野谷信号場~紫香楽宮跡駅間で、信楽発貴生川行きの上り普通列車(レールバスSKR200形 4両編成)と、京都発信楽行きのJR直通下り臨時快速列車「世界陶芸祭しがらき号」(キハ58系 3両編成・先頭車両はキハ58-1023)が正面衝突。乗員5名、乗客37名の計42名が死亡、614名が重軽傷を負った。
- 信楽高原鐵道が閉塞方式の概念を軽視し、信楽駅の出発信号機が赤信号現示のまま列車を出発させたことと、信楽高原鐵道とJR西日本が信号装置の改造を双方が無認可で行ったことが原因とされた。なお信楽線にはATSが設置されている。
→詳細は「信楽高原鐵道列車衝突事故」を参照
関東鉄道常総線列車衝突事故
- 関東鉄道常総線取手駅構内において、入線してきた同駅終着(新守谷発)上り列車(キハ300形気動車2両とキハ800形気動車2両の4両編成、乗客約900名)が停止せず暴走、車止めを飛び出し、そのまま駅ビルの2階の壁を突き破り、先頭車両が駅ビル店舗に突入し大破。乗客1名が死亡。列車の駅進入前に運転士が窓から飛び降りて逃げ、250名以上が重軽傷を負った。
- 原因はブレーキ故障であるとされる。非常ブレーキも一駅手前の西取手駅で作動させた後に、発車しようとしたところ、ブレーキが緩まなくなり、運転士がブレーキ締め切りコックを閉めてブレーキを緩め、元に戻さずに発車してしまい、常用・非常の両系統のブレーキが作動しなかった。
- 別記述として :西取手駅でブレーキ不緩解となり、運転士は異常時の取扱として保安ブレーキ締切コックを閉とした。そのさい、車掌が扱った車掌弁を復位せず、保安ブレーキスイッチがオンとなっていたので、ブレーキ系統の圧縮空気が車掌弁と保安ブレーキ締切コックの側穴から外部に放出され、ブレーキシリンダーに空気が供給されず、ブレーキ装置が動作しない状態だった。なおキハ300形気動車は旧国鉄のキハ35・36・30系を購入しており使用していたものであるが、さすがに経年劣化は覆いがたく、メンテナンスをよく行っていたが、この事故車両に関してはブレーキ不緩解が、時々あったと言われていた。しかし当時の同線は急激な乗客増加という環境もあり、修理しながらラッシュ時間帯を中心によく使われていた。さらに関東鉄道常総線は勾配が極めて少ない線区(最大が西取手~取手駅間で3パーミルだった)ということから、事故に対する問題点が見出せなかった可能性が指摘できる。事故以降の同社は、新製車両の投入を中心とする方法をとるようになったが、旧国鉄のキハ35・36・30系も残存しており、よく使われている。
営団地下鉄日比谷線中目黒駅引上線衝突事故
- 中目黒駅構内の引き上げ線ポイント上で、出庫中の営団3000系の後ろから3両目付近の側方に、入庫中の東武2000系が突っ込む形となった。引上線での衝突事故のため乗客への被害は無かった。
- 直接的な原因は東武2000系電車側に乗務の運転士の第2入換信号見落としであるが、従前は本線停止目標位置の第1入換信号で制御していたものを、折り返し時間を短縮して線路容量を増やすために入出双方向同時進入を許容し第2入換信号まで進出するよう改めたが、そこは引上線内としてATC防護を行わなかったから、支障限界まで10mしかなく、誤って過走したら停められる余地がなかった。
- 従って本線ATC導入線区ではあるがATC設備設置下の事故ではなかった。
東海道線来宮駅構内列車衝突事故
- 7時頃、東海道本線来宮信号所(伊東線来宮駅構内)で出発待機中の品川行回送列車(185系電車10両編成)の運転士が、上り本線の出発信号機5Lを自列車の上り1番線の出発信号機6Lと見誤って発車したところ、前方の分岐器46号が異方向に開いているのを認め、直ちに停止手配をとったが、出発信号機を約45m通過し、隣の本線の車両限界内に侵入して、走行中の貨物列車第1066(EF66形電気機関車+コンテナ貨車19両編成)と衝突した。回送列車の先頭車両と貨物列車の機関車が脱線した。負傷者1名(回送列車の運転士)。
- 直接の原因は信号誤認であるが、10両編成の列車が15両の停止目標に停車して折り返したこと(これ自体は、事故の時点では正当な取り扱い)も間接的な原因とされた。すなわち、ATSは正常に作動したが、地上子までの距離が15両編成の場合と比べて5両分長く、その分加速が付いて、ATSが停められる速度を超えてしまったことである。
- この事故を受けて、折り返し列車の両数が多種にわたる場所では、両数に応じて停止目標を細かく設定しなおす、という対策が採られた。他に、ATS直下地上子を当初位置からさらに16m手前の位置に移設し、また信号機には番線表示標を設置した。
- また当該運転士は当該番線から出発するのは1年半ぶり、通算5回目だった。
成田線大菅踏切事故
- JR東日本の成田線・久住駅~滑河駅間の大菅踏切で、遮断機が下りていた踏切に進入していた大型ダンプカー側面に千葉発佐原行き113系普通電車が激突。先頭車は脱線大破し、電車の運転士が死亡、乗客65名が負傷した。
- 運転士は直前に衝突を覚悟し、パンタグラフ降下による電源遮断等の安全措置をとっていた。
- 事故の原因は、過積載(最大搭載量の4倍もの山砂を積んでいた)のダンプカーが踏切の停止線でブレーキが効かず停止することができなかったことに起因するものである。法律上はダンプカー側の道路交通法違反であり、JR東日本は被害者的立場ではあったが、この事故は先の東中野事故と合わせて当時のJR東日本の上層部を含む社内にも多大なショックを与えた。
- これによりCMやポスター等、車のドライバーに注意を呼びかける「踏切事故防止キャンペーン」を実施することになる。
- 衝突当時、運転士は生きていたが、当時の運転室は狭く、ひしゃげた運転室からの救助は困難を極め、搬送途中で亡くなった。房総地区では、この事故以前にも踏切に強行進入したミキサー車と衝突して運転士が死亡する事故が起こっており(1984年(昭和59年)3月30日外房線八積-茂原間、運転士死亡、負傷者50名)、そのため、この事故以後には113系など既存車両の前面に鋼板を巻いて強度を上げる工事(通称「鉄仮面」)を実施したほか、以降登場する209系量産車やE217系等における運転席背面からの脱出口の設置や運転室の拡大、衝撃吸収構造(クラッシャブルゾーン)の採用に踏み切るきっかけとなった。
- この踏切は事故後撤去され、大菅跨線橋に立体交差化された。
- この当時、本事故に代表されるような大型車の過積載による重大事故が多発していたため、翌1993年(平成5年)に道路交通法が改正され(平成6年5月施行)、過積載に対する取り締まりと罰則が強化された。
- またこの事故に際し、JR東日本は過積載ダンプカーの運転手らを相手に総額1億3000万円余の賠償を求める民事訴訟を起こした。この裁判は、1998年(平成10年)10月26日千葉地裁において判決が下され、運転手、山砂の運搬を依頼した荷主、山砂を積み込んだ砕石会社、砕石会社の2人の作業員に対して1億円余の賠償を命じている。
島原鉄道列車正面衝突事故
- 島原鉄道・阿母崎駅~吾妻駅間において、加津佐行下り列車(2000形気動車1両編成)と諫早行上り列車(2000形気動車1両編成)が正面衝突し、乗客74名が負傷(うち1名は事故後2週間後に死亡)。この事故で車両も2両とも廃車となっている。
- 原因は、上り列車運転士が運転している列車を別の列車と思い込み、所定の交換駅で下り列車を待たずに赤信号を冒進して発車してしまったため。事故当時、同線にATSは設置されていなかった。
- 当時同線は、前年に発生した雲仙普賢岳の噴火災害により一部区間が不通になるなど甚大な被害を受けた最中での事故で、同社の経営に深刻なダメージを与えた。
- 事故後同線はダイヤの改正を実施、交換駅の統一を進めたほか、事故から1年後の1993年12月までにATSの整備を完了している。
営団地下鉄半蔵門線鷺沼車庫脱線事故
- 1992年(平成4年)10月および12月
- 営団地下鉄半蔵門線鷺沼車庫内で続けて脱線事故が発生。軽量車体とボルスタレス台車への危惧が云われ、軌道区と検車区合同の社内調査委員会を設けて検討され、翌年5月輪重バランス測定の必要性を報告、さらに見積もりを行っている。営団はこれを取り上げず、半蔵門線車両のみの輪重調整に留めたことで日比谷線中目黒事故を防げなかった(参照)。
- 軽量車体では台車対角線の重量の差が比率として大きくなり脱線係数を大きくするので、軽量化に見あった輪重バランス調整が求められるが横浜駅事故後の東急を除き鉄道各社ともまったく行っていなかった。
ニュートラム暴走衝突事故
- 大阪府大阪市住之江区の新交通システムである大阪市営南港ポートタウン線(愛称:ニュートラム)住之江公園駅構内で、中ふ頭発住之江公園行き電車(4両編成・無人運転)が本来の停止位置から50mも暴走し、約30km/hで車止めに衝突して停止。乗客217人が負傷した。
- 事故の原因は、ブレーキ指令信号を伝える中継継電器内のリレーの一部が通電不良を起こし、ブレーキが作動しなかったものと見られるが、警察の再現実験では再現ができなかった。
- 大阪市交通局は事故から1か月半は全線で運行を停止し代行バスを走らせたが、その後11月19日に配線の組み換えや二重化を行うなどの対策を施した上で、添乗員を乗せて運行を再開し、2000年2月19日に無人での運行を再開した。
- また、2006年4月に発生したゆりかもめ車輪脱輪事故の直後は事故に対する警戒の為、有人手動運行を行っていたが、同年4月17日に無人運行を再開した。
特急おおぞら脱線事故
- JR北海道根室本線西新得信号場~広内信号場間で強風にあおられた釧路発札幌行特急「おおぞら10号」(キハ183系7両編成)の3両が脱線、1両が横転し28名が負傷した。
- この事故をきっかけに防風フェンスを設置したほか、基準を超える風速を記録した場合運転を停止する措置を取っている。
三陸鉄道突風転覆事故
- 1994年(平成6年)2月22日
- 岩手県の三陸鉄道南リアス線小石浜駅~甫嶺駅間の矢作川橋梁上で36-100形と36-200形2両編成の盛発久慈行普通列車が突風にあおられ転覆、5名が負傷した。なお、転覆の瞬間が撮影されたホームビデオが番組で放送された。2両とも廃車されたが、予備車が不足したため36-500形を代替製造することになった。
銚子電鉄線列車正面衝突事故
- 銚子電気鉄道線・本銚子駅~笠上黒生駅間において、下り列車(1両編成)と上り列車(同)が正面衝突し、両列車の運転士2名と、出勤のため下り列車に添乗していた笠上黒生駅長、および上り列車の乗客4名が負傷した。
- 上り列車の運転士が、自分の運転していた列車を下り列車との交換を行わない始発列車と勘違いし、下り列車の到着を待たずに発車したため。事故当時、同線にはATSは設置されていなかった。
- 同線では、通常は仲ノ町駅~笠上黒生駅間を票券閉塞、笠上黒生駅~外川駅間をスタフ閉塞として取り扱っているが(銚子駅~仲ノ町駅は単線自動閉塞式)、事故当時は合理化のため(当時、笠上黒生駅は上り最終列車発車時から翌日の下り始発列車到着時までは無人であり、当駅場内信号機は後述する併合閉塞の取扱により使用停止状態だった。
- 本来のダイヤでは、下り始発列車が、笠上黒生駅に到着後、当務駅長において上り場内信号機を進行現示に操作し、当該上り列車が到着、その後上下列車の携行するタブレットを交換し、当務駅長の出発合図によって上下列車が出発する手順になっていたが、事故発生時は当該上り列車が下り始発列車より先に到着しており、下り列車が入線していなかったことから、上り列車の運転士が自分の運転する列車をタブレット交換を行わない始発列車と誤認したと見られた。
- 事故後同線では併合閉塞の取り扱いを中止し、全列車が笠上黒生駅でタブレットを交換する運用に改めた。
東海道新幹線三島駅乗客転落事故
- JR東海の東海道新幹線三島駅で、東京発名古屋行き「こだま475号」(0系16両編成)の6号車ドアに、駆け込み乗車をして指を挟まれた男子高校生の乗客が、列車に引きずられてホーム下に転落、死亡した。
- 死亡した高校生は、閉まりかけていたドアに無理矢理手をかけたことで指挟みに至ったものであり、また列車の車掌とホームの係員が指挟みに気付かず、ドアの隙間がわずかだったため、運転席の戸閉ランプが点灯したことで運転士も気が付かず、そのまま列車が発車したことが主な原因である。
- 新幹線において、初めて乗客の死亡を生じた事故。
→詳細は「三島駅乗客転落事故」を参照
京浜急行電鉄脱線事故
- 京浜急行電鉄本線の京急田浦駅~安針塚駅間の切り通しでがけ崩れが発生し、走行中の上り普通電車(1500形)が突っ込んで脱線した。この事故で、乗客乗務員19人が重軽傷を負った。事故発生時、下りの快速特急(快特)電車が接近中だったが、運転士が負傷しながらも防護無線を発報したため、防護無線を受けた快特は現場の手前で緊急停車し二重事故を逃れた。
- 当事故において、脱線した車両が軌道を大きく逸脱したり横転したりしなかったのは、先頭車が重量の重い電動車だったためであるといわれている。この事故は、京浜急行が衝突事故対策として、先頭車を電動車にして来た慣例が有効に発揮した実例とされている。
弘南鉄道弘南線列車正面衝突事故
- 弘南鉄道弘南線館田駅に於いて、交換列車の待ち合わせ駅を上り列車運転士が勘違いし発車したため、下りの列車との正面衝突事故が起こる。32名が重軽傷
東海道線片浜列車追突事故
- JR東海の東海道本線沼津駅~片浜駅間で、停車中の泉発百済行き下り貨物列車(EF65形1139号機牽引)に三島発静岡行き下り普通列車839M(クハ111-549先頭)が追突し、43名が負傷。
- 無閉塞運転中における、速度超過が原因。何者かのいたずらと思われる踏切支障通報ボタンで停止現示だった先行列車に対する停止信号が解除操作で進行に変わったことを自列車に対するものと勘違いして、規定に反して次信号到達前に加速した。運輸省はJR各社に対応を求め、JR東日本が無閉塞運転を廃止し指令の許可を条件とする閉塞指示運転に改め、北海道・四国は追随したが当該JR東海など残り3社は無視(出典=衆院国交委議事録、および通達、実施状況報告、その他)[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。して同様の鹿児島線列車追突事故に繋がった。無閉塞運転による事故を参照。
中央線大月駅列車衝突事故
- JR東日本の中央本線大月駅構内で、下り本線を通過中の新宿発松本行き特急「スーパーあずさ13号」(E351系12両編成)の側面に、待避線から下り本線上に進入してきた入換車両(201系6両編成)が衝突し、特急列車(8号車は横転)の5~9号車と入換車両の前2両が脱線、特急の乗客77名が負傷した。
- 入換車両の運転士が、構内での入換作業のために自動列車停止装置(ATS)を独断で解除した後、下り本線の出発信号機の進行現示を入換車両の信号と誤認し、入換信号機の停止現示を見落としたため。
- ATS投入はハンドル連動改造中で、事故車が未改造だったことと、運転士が切替操作を勘違いして断にしたことで誤出発を止められず衝突に至ったと推認されている。
→詳細は「大月駅列車衝突事故」を参照
平成10年以降(1998~ )
土佐くろしお鉄道中村線列車衝突事故
- 9時15分ごろ、土佐くろしお鉄道中村線西大方~古津賀間において窪川発宿毛行普通列車(1両編成・乗客約40人)が、エンジン故障で立ち往生した。この列車を救援するため、伝令法を施行した救援列車が中村から現場に向かったが、徐行が原則のところを60km/hで進行したため、見通しの悪い曲線(R400m)の先に止まっていた事故列車に気が付くのが遅れ、非常制動をかけたものの止まりきれず衝突し、38人が負傷した。
- エンジン故障とは、踏切通過の際に、踏切改良工事のための仮設踏切舗装板が浮き上がり、列車車両床下にある変速機オイル冷却用配管と接触、これを損傷したもの。
- 故障列車の運転士は信号煙管または赤旗による防護措置を怠った。
- 救援列車運転士に渡された運転通告券には故障列車の停止位置(現場のキロ程)が記載されていなかったため、故障列車の位置は不明だった。
山手貨物線作業員触車死亡事故
- 東京都目黒区のJR山手貨物線大崎~恵比寿間で、信号保安装置の工事のため、軌道内を資機材運搬中だった東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本)の工事請負会社の作業員5人が、品川駅発小淵沢駅行きの臨時回送列車(回9531列車 EF64型電気機関車+お座敷客車「江戸」:計7両編成)にはねられ、5人全員が死亡した。
- この事故では、請負会社の工事指揮者が作業現場に遅刻した上、大崎駅信号扱所に列車の運転状況を確認せずにJR信号通信指令室(東京都北区)に作業開始連絡をしたこと、現場点呼(ミーティング)をせずに作業員に軌道内への立入りを許可したこと、列車見張員に臨時列車の記載された当日の列車ダイヤを渡さずなおかつ立哨位置を指示しなかったこと、また列車見張員も列車の進来方向とは反対側にいたことが原因とされる。
- JR東日本では、この事故が発生する前から列車運行と軌道内作業の分離を検討していたが、この事故により列車運行中の軌道内作業は原則禁止となった。