ダイナナホウシユウ
ダイナナホウシユウ | |
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品種 | サラブレッド |
性別 | 牡 |
毛色 | 鹿毛 |
生誕 | 1951年5月11日 |
死没 | 1974年1月 |
父 | シーマー |
母 | 白玲 |
母の父 | レヴューオーダー |
生国 | 日本(北海道伊達市) |
生産者 | 飯原牧場 |
馬主 | 上田清次郎 |
調教師 | 上田武司(京都) |
競走成績 | |
生涯成績 | 29戦23勝 |
獲得賞金 | 1120万6690円 |
ダイナナホウシユウ(1951年5月11日 - 1974年1月)とは、日本の競走馬である。1954年に皐月賞、菊花賞を制覇し二冠馬となった。古馬になってからも天皇賞・秋を制覇した。デビューから皐月賞まで名牝クリフジ、二冠馬トサミドリ、日本中央競馬会歴代最多勝馬タカオーと並ぶ11連勝を達成した。これは現在でも破られていない中央競馬レコードである。
驚異的なスピードでレースの主導権を掌握し、「褐色の弾丸列車」との異名で呼ばれた。現代の競馬においては考えられないほどの軽量馬で馬体重は400キログラムに満たなかった。スピードとスタミナを兼ね備えており、皐月賞、菊花賞では2着に合計14馬身の大差をつけ制覇。競走生活において60キログラム以上の斤量を10回背負わされたが、それをものともせず8勝2着1回3着1回という戦績を収めている。5歳時には屈腱炎を発症したが、それをおして出走した秋の天皇賞で勝利するなど、一流の戦績を記録した競走馬であった。
3、4歳時の戦歴
小柄で馬格が雄大ではなかったため、それほど将来を嘱望されていたわけではなかった。京都競馬場の上田武司厩舎に入厩してから3歳時まではタマサンという競走名で登録され、3歳の8月に小倉競馬場でデビューしてクビ差の辛勝だったが、その後は3歳時に8連勝を記録した。
4歳になると、馬名をダイナナホウシユウに改名した。馬主の上田清次郎は、「ホウシユウ」や「ブゼン」の冠名を持ち馬に付けていたが、「ホウシユウ」はとくに活躍が期待される馬にのみ与えられており、まさに馬主の期待の表れとも言える改名であった。
騎手も厩舎の主戦騎手である上田三千夫に乗り替わり、4歳戦を2連勝して10連勝という戦績を収めて皐月賞に出走した。迎え撃つ関東馬は、朝日杯3歳ステークス(現在の朝日杯フューチュリティステークス)の優勝馬で、同じ飯原牧場に生まれ父親もともにシーマーを持つタカオーであった。タカオーも3歳10月以来負けなしの11連勝を記録しており、まさに雌雄を決する注目の一戦となった。
不良馬場で行われた第14回皐月賞は、スタートから快調に逃げたダイナナホウシユウが、まったく後続に影を踏ませず8馬身の着差をつけて優勝。タカオーは不良馬場のせいか本来の能力を発揮できずに4着に終わった。
その後両馬は、NHK杯(現廃止・芝2000メートル)でふたたび対峙することになった。レースではスタートで後手を踏み、タカオーの3着に敗れ、連勝は11で止まった。
日本ダービーでは、ブリンクビルから不利を受けてスタートで完全に立ち遅れ、すぐに先団に取り付いて第4コーナーでようやく先頭に立ったものの、道中の無理が祟って直線で一杯となり、ゴールデンウエーブの4着に敗れた。三冠達成の道は閉ざされてしまったが、秋の菊花賞を目指し休養に入った。
休養後、京都新聞杯、オープンをともに2着のあと、神戸新聞杯では64キログラムの斤量を背負いながらも1着となり、本番の菊花賞に臨んだ。牝馬クラシック二冠ヤマイチや日本ダービー馬ゴールデンウエーブ、タカオーが顔を揃えた菊花賞で、ダイナナホウシユウはスタートから快調に逃げて2着に6馬身差をつけて優勝した。紅一点のヤマイチは健闘したものの3着、タカオーはこれまでの連戦が祟ったためか4着に終わった。年末のオープンで66キログラムを背負いながら勝利し、1954年度の啓衆社賞最良4歳牡馬に選出された。
5歳時の戦歴
5歳になってからは、オープンを2連勝したが、3戦目のオープンで3着に終わるとレース後に屈腱炎を発症していることが判明。春の天皇賞は断念し、秋の天皇賞を目指して休養に入った。
秋に復帰したダイナナホウシユウは、脚部不安を抱えながらも復帰戦で66キログラムを背負って勝利し、続く京都記念でもレコードタイムで優勝、中山のオープンを3頭立てながらもレコードで勝利と、3連勝して秋の天皇賞に出走した。いつものように軽快に逃げたダイナナホウシユウは、追い込み馬のフアイナルスコアにハナ差まで詰め寄られたがかろうじて1着となった。1955年度の啓衆社賞最良5歳以上牡馬に選出されたが、ふたたび脚部不安を発症して休養生活へ入る。
6歳時の戦歴と引退後
6歳になり、すでに天皇賞を制覇して大きな目標もなくなり、脚元の不安もあって引退も考えられたが、この年開催されることが決定した、初のオールスターレースである中山グランプリ(現・有馬記念)の開催を受けて現役を続行することとなった。屈腱炎は快方に向かわなかったが、陣営の必死の立て直しにより、復帰戦となった11月のオープンを勝利し、続く阪神大賞典でも勝利を得て、中山グランプリに出走した。
初めての中山グランプリでは、有馬頼寧日本中央競馬会理事長の肝入りもあって、豪華なメンバーが揃った。メイヂヒカリ(天皇賞〈春〉、菊花賞)、ミツドフアーム(外国産馬。天皇賞〈秋〉)、この年のクラシック三冠の勝利馬3頭、ヘキラク、ハクチカラ、キタノオーという顔ぶれであったが、ダイナナホウシユウは2番人気となった。レースではいつものように逃げたものの、脚の状態はすでに限界を越えており、結局レース中に故障を発生して、メイヂヒカリの11着と惨敗した。
この一戦を最後に引退したダイナナホウシユウは種牡馬となった。当時の日本史上最強馬として大いに期待され、当初は数多くの牝馬に種付けを行ったが、産駒はまったくと言っていいほど走らなかった。もともと馬格もなく、また輸入種牡馬全盛期でもあって、人気は凋落の一途を辿っていった。活躍した産駒としては、わずかに1966年に大井競馬場の金盃を制したスカーレット(ヒカルイマイの叔父)が記録にとどまるのみである。やがて種牡馬を廃用となり乗馬となったが、乗馬としての素質は優れており、数々の大会で活躍した。
1974年1月、24歳で死亡した。
そのほか
1984年に選定された顕彰馬の選考では、ダイナナホウシユウも選考対象となったが、結局選ばれることはなかった。選考委員のひとりが小柄な馬格を指摘し、サラブレッドとしての品格に欠けるとして強硬に反対したためといわれている[要出典]。
おもな勝ち鞍
- 天皇賞(秋)
- 菊花賞
- 皐月賞
- 神戸新聞杯
- 京都記念
- 阪神大賞典
血統表
ダイナナホウシユウの血統The Tetrarch系 / 4代までアウトブリード | (血統表の出典) | |||
父 シーマー 1944 鹿毛 |
父の父 *セフトTheft 1932 鹿毛 |
Tetratema | The Tetrarch | |
Scotch Gift | ||||
Voleuse | Volta | |||
Sun Worship | ||||
父の母 秀調1936 黒鹿毛 |
大鵬 | *シアンモア | ||
*フリッパンシー | ||||
英楽 | *チャペルブラムプトン | |||
慶歌 | ||||
母 白玲 1935 栗毛 |
*レヴューオーダー Review Order 1923 栗毛 |
Grand Parade | Orby | |
Grand Geraldine | ||||
Accurate | Pericles | |||
Accuracy | ||||
母の母 第三シルバーバットン1916 栗毛 |
*ブレアーモアー Blairmore |
Blairfinde | ||
Woollahra | ||||
*シルバーバットン Silver Button |
Bachelor's Button | |||
Queen of the Florin F-No.4-g |