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鉄道事故

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鉄道事故(てつどうじこ)は列車の運転においておきた事故である。

事故と称するケースは、遅延などの日常頻繁に起こる小規模なアクシデントから、死者がでる大惨事までさまざまだが、日本において特に鉄道事故という場合は、死傷者が出たり、衝突、脱線、火災などの規模の大きな事故を指すことが多い。

雨や雪などで休止や遅延が発生した場合には、鉄道事故ではなく、輸送障害と呼ばれる。事故を惹起する危険が高い事態が発生し、なおかつ実際には事故が発生しなかった事案は、インシデントと呼ばれる。

概要

鉄道は大人数輸送、高速運転、定時運行が特徴であり、そのため一旦事故を起こすと、多くの被害者、社会的影響を与える。また鉄道事故件数は近年減少しているものの、些細なものも含めて日本国内で年間500件以上起きており、そのうち約半数近くが踏切障害事故である。

国土交通省では、鉄道事故を以下の種類に分類している。

列車衝突事故

列車が他の列車・車両・車止めなどの構造物などに衝突、あるいは接触する事故。信号保安設備の改良などにより、未然に防ぐ努力が進められている。

列車脱線事故

軌道を脱線する事故。ただ単に脱線しただけの場合は被害が小さいが、横転または転覆したり、線路外の建築物に衝突したりした場合には被害が大きくなる。線路や車両の状態に特に異常がなくとも力学的要素が絡み合って偶発的に脱線する場合もあり、車両の挙動の解析とそれを踏まえた車両構造の改良や、線路の様々な改良(例:脱線防止ガードの設置など)により未然に防ぐ努力が進められている。

他の列車や構造物との衝突による脱線の場合、列車衝突事故として扱われる。

列車火災事故

列車で火災が発生する事故。特にトンネル内で火災が発生した場合、酸素量の少ない環境での燃焼により一酸化炭素が発生し、多くの乗客・乗務員の生命を危険にさらす。火災は未然に防止することが難しいため、貫通扉の設置による避難経路の確保や、消火器の設置、難燃・不燃材料の使用など、被害を抑える対策が進められている。

踏切障害事故

踏切において、列車が道路を通行中の車両や人と衝突または接触する事故。都市部では立体交差化や地下化により踏切を廃止し、踏切障害事故を未然に防ぐ努力が進められている。都市部以外でも、踏切の第1種化(警報機・遮断機設置)や踏切支障警報装置の設置など、事故発生を少しでも減らすための対策が進められている。

道路障害事故

踏切以外の道路上において、列車が道路を通行中の車両や人と衝突または接触する事故。

人身障害事故

上述の事故以外で、列車の運転により人の死傷を生じた事故のこと。例えばホームから転落した人やホーム上にいる人に列車が接触する場合などが挙げられる。乗降客の多い大都市部では転落事故防止のためホームドアを設置する鉄道事業者が増えている。また車両同士の連結部分に生じる空間から人が転落する事故を防ぐため、転落防止ほろの付いた車両が増えてきている。

人身事故は特に月曜日に起き易いといわれている。

物損事故

上述の事故以外で、列車の運転により500万円以上の物損を生じた事故。

主な鉄道事故(日本国内)

各項目の見出し(事故の名称)を変更する場合は、ほかの記事から[[鉄道事故#○○事故|○○事故]]などの形でリンクされていることがありますので、リンク元の記事のリンクも確認・修正してください。

明治・大正時代

新橋駅構内列車脱線事故

新橋駅構内で横浜からの列車が到着する際、ポイント通過時に機関車貨車1両が脱線し転覆。負傷者なし。以後終日運休となった。原因はポイントの故障とされる。日本最初の鉄道事故。


東海道線西ノ宮列車正面衝突事故

東海道線神戸駅西ノ宮駅間で上り旅客列車と下り回送列車が正面衝突。上下列車は西ノ宮駅で行き違う予定だったが、上り旅客列車の直前に臨時列車が設定され、下り回送列車の運転士が臨時列車の到着後、旅客列車を待たずに発車。上り旅客列車と正面衝突し、乗務員3人が死亡した。駅長同士の電信連絡で列車の運行を管理していたが、事故を機に1区間に1本の列車しか入れないようにする票券閉塞方式の導入が前倒しされた。日本最初の鉄道死亡事故。

大森駅構内列車脱線事故

東海道線大森駅構内で、臨時列車の折り返しのため14両編成の客車を下り線から上り線に転線する作業中、分岐器上で客車1両が脱線転覆。乗客1人死亡、1人負傷。事故原因は不明。日本の鉄道事故において最初の旅客死亡事故。

北陸線東岩瀬駅列車正面衝突事故

北陸本線東岩瀬駅(現在の東富山駅※)で上り列車と行き違いする予定の下り貨物列車がオーバーランを起こして本線に飛び出して停車したため退行中に、上り団体旅客列車が衝突。24人以上が死亡した。上り列車の停止信号の見落とし、またはブレーキ操作の遅れが衝突の原因とされている。この事故を機に安全側線が採用され、日本全国に整備された。
※富山港線の東岩瀬駅は当時未開業で、1924年(大正13年)に越中岩瀬駅として開業した。

東北線列車正面衝突事故

東北本線下田駅~古間木駅(現三沢駅)間で、下り臨時旅客列車と上り貨物列車が正面衝突。20人が死亡した。当時東北本線は単線通票閉塞方式をとっていた。当日夜、古間木駅助役と駅員1人が勤務時間中に外出し飲酒。先に戻ってきた駅員は下り臨時列車の運転の連絡を受け閉塞扱いをしたのち就寝、後に駅に戻った助役も寝てしまった。その後、下り臨時列車の運転を知らされていない別の駅員が、到着した上り貨物列車に渡す通票が見当たらないために助役を起こして指示を仰ぐが、泥酔した助役は閉塞機から通票が取り出せないのは故障だと判断し、針金を差し込む不正操作で通票を取り出して上り貨物列車に渡し発車させてしまった。当時の閉塞機は通票が引っかかって取り出せなくなる故障が時として起こっており、その際は針金などを差し込んで通票を取り出していたが、この事故を機に、不正扱いが出来ないよう閉塞機の改良が進んだ。

山陽線特急列車脱線事故

山陽本線安芸中野駅海田市駅間で、豪雨により築堤が崩壊し線路が浮き上がっていた場所に東京発下関行きの下り特急列車がさしかかり、築堤下に脱線転覆。34人が死亡した。事故列車はヨーロッパアジア連絡国際列車であり、著名人が多数犠牲となった。木造客車の車体強度の弱さが指摘され、この事故を機に、翌年から鋼製客車が製造されるようになった。

昭和元年~9年(1926~1934)

久大線機関車ボイラ破損事故

久大本線鬼瀬駅小野屋駅間で、後進牽引(ボイラ側を客車に向けて牽引)していた機関車のボイラが破裂。煙室扉が開き、熱水が客車内に吹き込み、23人が死亡した。この事故を機に、後進牽引を極力抑えるため、終点駅への転車台設置が進められた。

昭和10年代(1935~1944)

西成線安治川口駅構内列車脱線転覆火災事故

西成線(現桜島線安治川口駅構内で、駅員の誤操作により列車通過中にポイントが転換したため、通勤客で満員のガソリンカー3両編成のうち1両が分岐器の途中転換が原因により、2対のレールにまたがったまま走行し、踏切付近の構築物に衝突して脱線転覆。燃料ガソリンへの引火により火災が発生し、満員のまま横転した車両からは誰も脱出できず181人が焼死した。この事故から、引火しやすいガソリンを鉄道車輌に使用することの危険性が指摘され、より安全なディーゼル動車の開発が進められたが、戦争に向かう時代の中、燃料統制によりガソリンカーの使用は縮小し、ディーゼル動車の開発も中断されることになった。なお、西成線では、事故後ガソリンカーの使用を中止し、急遽電化工事が行われた。

山陽線列車追突事故

山陽本線網干駅構内で、上り急行列車が駅場内信号の赤信号を冒進して駅構内に進入し、停車中の普通列車に追突。65人が死亡した。当時の黄信号は速度制限を意味するものではなかったので、黄信号下における減速が不十分なまま走行したことから次閉塞区間の赤信号で停車できずに事故を招いたとされた。この事故を機に、黄信号下では速度を45km/h以下に落とす規定となった。

昭和20年代(1945~1954)

肥薩線列車退行事故

肥薩線吉松駅真幸駅間の第二山の神トンネル内において、蒸気機関車牽引の上り列車がトンネル内の勾配を登り切れず停止。窒息を逃れようと降りた乗客がトンネル内を歩いていたところ、窒息防止のため後退した列車に轢かれ53人(異説あり)が死亡した。事故列車は大量の復員兵を乗せるために、一般客車の後ろに無蓋貨車を連結していた。貨車には当然車内放送設備が無いため車掌から注意を喚起できず、何が起きたか理解できなかった乗客が線路上を歩いて避難しようとしたが、当時このトンネル内には照明が無かったため列車の後退に気づかず次々に轢かれてしまった。超満員であった列車に粗悪な石炭、戦時のために整備が行き届かず疲弊した機関車という悪条件、乗客への案内の不備など複合要因による事故で、戦争による総合的な運行システムの疲弊・劣化が遠因にあった。

八高線列車正面衝突事故

八高線小宮駅拝島駅間の多摩川鉄橋上において上り列車と下り列車が正面衝突し、客車が川に転落。少なくとも105人の死亡が確認された。終戦直後の混乱期のため列車は超満員で、多数の乗客が川に流されており、実際の死者数は上記の倍とも3倍とも言われている。原因は、小宮~拝島間での列車の運行の連絡不備による人為的なものとされている。また下記のように八高線では、2年後にも184人の死者を出す惨事が発生した。2001年に当時の車輌の車輪が川の中州から発見され、2004年に河原の公園脇に設置された。
参考記事:読売新聞都内支局「さびた車輪 八高線多摩川鉄橋事故」
参考記事:朝日新聞 マイタウン東京「八高線衝突事故の車輪(昭島市)」

八高線列車脱線転覆事故

八高線東飯能駅高麗川駅間で客車列車が下り勾配で過速度により脱線・転覆。木造客車の大破により184人が死亡した。木造客車の脆弱性が問題視されたが、鋼製客車の新規製造のみによる置き換えはコスト的に困難であったため、鋼体化改造が実施されることになった。

近鉄奈良線暴走追突事故

近鉄奈良線奈良上本町駅行き急行電車デボ1形他3両編成)が、生駒トンネルを走行中にブレーキが効かなくなり、トンネル内からの下り坂を加速・暴走して河内花園駅で前方の普通電車に追突。木造車体が木っ端微塵にされ、49人が死亡した。原因は戦中戦後の酷使の結果、老朽状態で放置されていたブレーキホースの破損とされる。事故電車は、空気ブレーキとしては最も原始的な直通ブレーキ装備車であったため、ホースが破損するとまったくブレーキが効かなくなった。

桜木町事故

(京浜線桜木町駅列車火災事故、桜木町国電火災、国鉄戦後五大事故の一つ)

京浜線の電車(5両編成1271B列車)が、桜木町駅構内で、碍子交換工事中に誤って切断され垂れ下がっていた架線に接触し、電流の地絡により炎上。死者106人、重傷者92人を出す大惨事となった。被災したモハ63形電車は、重要な安全部品を省略したり粗悪な代用品を使用した、いわゆる「戦時設計車」であり、その致命的欠陥を露呈した形となった。は中段を固定した3段構造で脱出不能、駅員が非常用コックの位置を知らなかったためも開けることができず、車端の貫通路も内開きの開き戸で、満員の乗客の圧力で開けることができなかったため、乗客は脱出路が全くなく、被害を拡大することとなった。事故後、戦時設計の電車に対し、応急的に車内への防火塗料の塗布、集電装置の絶縁強化、車端部貫通路の整備などの対策が施され、後に徹底的な体質改善工事が実施された。国鉄が、800両にも及ぶ対象車の体質改善工事をわずか2年強で完了したことは、この事故の与えた衝撃の大きさを物語るものといえる。
犯罪的所業によるものではないが、「桜木町事件」と呼ばれることもある。

昭和30年代(1955~1964)

参宮線六軒駅列車衝突事故

参宮線(当該箇所は現・紀勢本線六軒駅での列車衝突事故。名古屋発鳥羽行き下り快速列車が停止現示であった同駅構内の出発信号機を冒進、安全側線に進入して脱線転覆して本線を支障。そこに進入してきた名古屋行き上り快速列車が衝突し、機関車と客車が脱線転覆。42人が死亡。下り快速列車に乗車していた修学旅行中の学生が多数犠牲になった。下り快速列車の機関士の信号誤認が事故原因との判決が下されたが、場内信号の誤操作の可能性を否定できていない。また重連では非常制動が全車両に行き渡らない特性だったため止まりきれず過走して事故に至った。重連運転が常態の上越線では機関車のブレーキ管を非常制動が全車両に行き渡るように改造していたが、これは全国には普及していなかった。しかしそれによる管理側の責任は問われなかった。

山陽本線「さくら」・「あきよし」衝突事故

20系客車による下り「さくら」に、山陽本線上で2時間57分遅れで運転されていた気動車準急「あきよし」が追突。
この事故では双方の列車に乗客がいたが、20系「さくら」、キハ55系「あきよし」ともに僅かな軽傷者を出したのみで済んだ。
しかし、当時20系は予備編成が確保されていない状態での運転であった為、付属編成6両が不足する事態となった。そのため、急遽10系ナハネ10形・オハネ17形や旧型客車スハネ30形を20系と併用して、急場を凌いだ。
2等寝台(現在のB寝台)の基本設備に限れば、10系寝台車の設備は20系客車に比して大きく劣るものではなかった。しかし、20系客車は在来型客車と貫通幌が異なっていた上、集中電源方式による電気暖房の20系と違い、10系客車は暖房用蒸気を確保する都合から常に機関車側に連結している必要があり、下り列車では20系の電源車を挟んで下り下関・博多方に連結せざるをえなかった。このため編成内の通り抜けができず、付属編成の乗客は食堂車が利用できないなど、サービス面で問題となった。国鉄は10系部分の乗客の特急料金を100円払い戻す措置を行った。なお、旧型車両を用いたことから、「うばざくら」とメディアから揶揄された。

三河島事故

(常磐線三河島駅列車多重衝突事故、国鉄戦後五大事故の一つ)

常磐線三河島駅構内で貨物線から下り本線に進入しようとした田端操車場発水戸行の下り貨物列車(蒸気機関車牽引)が、赤信号を冒進して安全側線に進入し脱線。先頭の機関車が下り本線を支障した直後に三河島駅を1分遅れで出発し下り本線を進行してきた上野発取手行きの下り電車と衝突し、上り本線を支障した。さらにその現場に上野行きの上り電車が突入。上り電車の先頭車両は原形を留めず粉砕され、一部の車両が築堤下の小屋に突っ込み、死者160人を出す大惨事になった。
貨物列車と下り電車の衝突後、上り電車の進入までの約6分間に列車防護の措置が行われなかったこと、また桜木町事故の教訓をもとに分かりやすく整備された非常用ドアコックを操作して、多くの乗客が線路上に降りていたところに上り電車が突入したことが特に被害を大きくした。
この事故を機に、自動列車停止装置(ATS)が、計画を前倒しにする形で国鉄全線に設置されるとともに、常磐線に乗り入れる全列車を対象に列車防護無線装置が装備された。また、未だに身元不明の犠牲者が一人おり、駅近くの寺に無縁仏として葬られている。

羽越線正面衝突事故

羽越本線羽後本荘駅羽後岩谷駅間で下り単行機関車(D51形蒸気機関車)と上り貨物列車(DF50形ディーゼル機関車牽引)が正面衝突。ディーゼル機関車は前頭部が完全に粉砕されて炎上し、貨物列車の乗務員2名が殉職した。事故の原因は、遅延に伴う行違いの変更を確認せずに羽後本荘駅が下り列車を発車させた事による。事故現場付近に信号場を設置予定だったが、この事故が原因となり複線化へと計画が変更された。
なお、この事故は参議院運輸委員会で議題に上がり、タブレット閉塞の問題点などについて国鉄側が追及されている。参議院会議録 第041回国会 運輸委員会 第4号 昭和37年12月7日


鶴見事故

(東海道線鶴見列車多重衝突事故、国鉄戦後五大事故の一つ)

東海道本線鶴見駅新子安駅間で、貨物線(現在の横須賀線線路)走行中の下り貨物列車後部のワラ1形2軸貨車競合脱線(主に2軸貨車に多く見られる偶発的な脱線)したところへ隣の東海道本線線路を走っていた横須賀線の電車列車が上下方向から突入、161人が死亡した。
事故後、北海道の根室本線狩勝峠旧線(新得~新内)で脱線原因の調査対策が総合的に行われた。国道38号線沿線に実験跡が残っている。

昭和40年代(1965~1974)

営団地下鉄日比谷線神谷町駅車両火災事故

営団日比谷線神谷町駅付近で、回送中の東武鉄道2000系の主抵抗器が過熱発火して火災を起こした。事故後、全焼した車両は廃車。事故列車は主制御器故障により六本木駅で乗客を降ろし回送中だったため幸い死者は発生しなかったが、可燃性の車両部品の使用が見直され、翌1969年(昭和44年)に運輸省が耐火基準を強化するきっかけになった(いわゆるA-A基準)。この基準は世界的に見ても厳格なもので、以後の鉄道火災事故防止に貢献している。

富士急行列車脱線転覆事故

富士急行大月線月江寺駅富士吉田駅方踏切で、河口湖駅大月駅行き電車(3100形2両編成)がトラックと衝突。空気溜めを破損したためブレーキが故障して暴走し、月江寺駅~暮地駅(現寿駅)間の4駅を通過して、暮地駅~三つ峠駅間(最急40の下り勾配)のカーブに猛スピードで進入して進行方向左側の沢に転落、16名が死亡、70名が負傷した。

近鉄大阪線列車正面衝突事故

(青山トンネル事故)

近鉄大阪線西青山駅東青山駅間で、上本町近鉄名古屋行き特急電車が、自動列車停止装置(ATS)故障のため自動停止してしまった。ブレーキが緩まなかったため、運転士はブレーキコックを操作してエアを全部抜き、ブレーキを緩ませ電車を発車させた。
ところが、一旦抜いたエアの再充填を失念して発車させてしまったため、列車はブレーキが効かない状態で下り坂を暴走、青山峠越えの東青山榊原温泉口間にあった垣内(かいと)信号所の安全側線に突っ込み脱線転覆、先頭の2両が横転した状態で総谷トンネル西側入り口に進入して停止。3両目は入り口付近の壁に激突。さらに対向の賢島発京都・難波行き特急電車と正面衝突し、死者25名、重軽傷者224名を出す大惨事となった。
この事故をきっかけに、近鉄はかねてより予定していた大阪線の完全複線化を前倒しして新たに複線用トンネル(新青山トンネル)を掘り、西青山駅・東青山駅を移転。この工事は1975年に完成し、かつての青山峠越えの旧駅などは廃止された。
実際は垣内信号所で起こった事故であるが一般には「青山トンネル事故」とも呼ばれる。

北陸線北陸トンネル列車火災事故

(急行「きたぐに」火災事故)

北陸トンネル内を走行中の大阪発青森行き客車急行列車「きたぐに」(電気機関車牽引)の食堂車オシ17形)床下から火災が発生し、列車は規定に基づいて直ちに停車。乗務員は火災車両の切り離し作業に取り掛かった。しかし火勢の激しさとトンネル内の暗闇で作業は難航。また熱で架線が溶けて停電したため、全長約13.9kmの長大トンネル内で列車は身動きが取れない状態に陥った。そのため、有毒ガスに巻かれて30人が死亡した。火災の原因はオシ17形の電気暖房装置のショートとされた。
この事故を教訓に、地下鉄や長大トンネルを走る車両の難燃化・不燃化の基準が改訂され、車両の防火対策が進められた。更に実際に車両を燃やして行った実験で「いかなる場合でも直ちに停車する」より「トンネル内火災時には停止せずそのまま走行しトンネルを脱出する」ほうが安全であることが証明されたため、運転マニュアルを改めた。
「きたぐに」事故の前の1969年にも北陸トンネル内を通過中の寝台特急「日本海」で列車火災が発生したが、この列車の乗務員の機転で当時の規則を無視して列車をトンネルから脱出させ、速やかな消火作業を可能とした。このため死傷者を生じさせなかったが、国鉄上層部はこれを「規定違反」として処分し、運転マニュアルの見直しを行わなかった。そのため事故列車は長大トンネルの中間で停止せざるを得ず、大惨事を惹起した。多数の犠牲の結果責任として乗務員3名が起訴され、裁判で長期にわたって争われたが、最善を尽くしたとされて無罪になった。本事故後、先述の「日本海」の乗務員に対する処分も撤回された。
なお、この事故発生以前から夜行急行列車の食堂車はすでに縮小が進められていたが、事故車と同形のオシ17形は本事故後すぐに使用停止されて廃車となり、夜行急行列車から食堂車が消滅した。
しかし、原因となった電気暖房のショートは電気暖房を使用する限りどの車両でも起こりうる事態であり、オシ17形だけが特別な危険性を有しているというわけではなかった。

昭和50年代(1975~1984)

信越本線軽井沢駅-横川駅間回送機関車脱線転落事故

信越本線軽井沢横川間上り線で、単行機関車列車(回送列車)列車番号単5462列車(4両編成、EF63 5,9+EF62 12,35)が下り勾配でブレーキが利かなくなり、スピードが超過したため、脱線転落した事故。乗務員3名が重軽傷を負った。事故機は4両とも廃車となった。
事故がおきたのは、午前6:16ごろ。信越線上り線第一トンネル内で暴走し、出口付近で脱線した後、転覆した。この区間は、最大66.7‰の急勾配のため、下り勾配を走行するEF63は、発電ブレーキという抑速ブレーキを作動させながら、車輪を空転させないように下りてくる。それが、何らかの原因で正常に作動しなかったものと見られ、制限速度を20km/h以上超過した速度に達した後、脱線した。この事故を教訓に、EF63全車両に過速度検知装置(OSR)を取り付けた。

阪急神戸線六甲駅列車衝突事故

阪急神戸本線六甲駅構内で、本線に出てきた上り回送列車(山陽電気鉄道の車両)に、同駅を通過しようとした上り特急電車(阪急電鉄の車両)が衝突。回送列車の運転士が故意に自動列車停止装置(ATS)のスイッチを切り、車掌の合図と信号を無視して発車したのが原因。また事故時には、反対方向へ向かう普通列車が同駅に向かって走行しており、衝突した特急列車の運転士(阪急電鉄の運転士)が異常を知らせるために重傷を負いながらも線路上を大阪方へ向かって走ったことにより、二次的事故を免れたとされる。
乗務していた山陽電鉄の運転士は懲戒解雇され(動力車操縦者免許も剥奪)、同乗していた車掌も直接の責任はないながら、事故を未然に防げなかったという自責の念に駆られ、事故から11日後の5月16日に自社線の電車に飛び込み自殺した。大阪陸運局(現在の近畿運輸局)が特別保安監査を行ったところ、安全教育の不徹底が指摘され、山陽電鉄に対して業務改善命令が出された。

昭和60年代(1985~1988)

西武新宿線田無駅列車追突事故

大雪の西武新宿線田無駅構内に接近した西武新宿行き上り急行電車(8両編成)のブレーキが効かなくなり、ホームに停車中の準急電車(8両編成)に追突、200名余が負傷した。車輪とブレーキシューの間に雪が挟み込まれたのが原因。事故にあった車両(2000系)は廃車となった。その後、事故車両と同系の車両全車には防雪ブレーキが装備された。

山陰線余部鉄橋列車転落事故

お座敷列車「みやび」の回送列車(ディーゼル機関車+客車7両)が山陰本線鎧駅餘部駅間にある余部鉄橋を走行中、日本海からの突風にあおられて機関車と客車の台車の一部を除き鉄橋より転落、真下にあった食品加工場を直撃し、工場の従業員5人と車掌1人が死亡した。列車運行を規制するための風速計の設置が不十分であったことや、地形的な理由などから、列車運行に支障を及ぼす強風を予測しきれずに列車を運行してしまったことが原因と見られている。「みやび」は全車廃車。事故後、国鉄は運行規制基準を見直し、20m/s以上の風が吹くと列車の運行を停止するようになった。なお、余部鉄橋については老朽化や、この事故で厳しくなった運行基準のために列車の運休や遅れが続出していることから架け替えが予定されている。

中央線東中野駅列車追突事故

JR東日本中央緩行線東中野駅に停車中の下り電車(103系10両編成)に後続電車(201系10両編成)が追突し、後続電車の運転士と乗客1名が死亡、116名が重軽傷を負った。当時のATS(ATS-B)では作動しても確認動作さえすれば低速で進行して良いという運転規則があり、列車の遅れを回復しようとした運転士がこれに従い進行したために、見通しが悪く下り坂の現場で事故が起きたと見られる。この事故を契機に首都圏の稠密ダイヤ線区では、速度パターン照合により確認動作後も確実に強制停止させられるATS-Pへの切替が進んだ。

平成元年~9年(1989~1997)

飯田線北殿駅列車正面衝突事故

JR東海飯田線北殿駅において、停車中の天竜峡発長野行き下り列車に上諏訪発天竜峡行き上り列車が正面衝突。原因は上り列車が場内信号機の赤信号を冒進したため。以後JR各社では、ATSに場内信号機や出発信号機などの絶対信号機直下での非常停止機能を追加した(ATS-ST、ATS-Snなど)。

信楽高原鐵道列車正面衝突事故

滋賀県信楽高原鐵道信楽線の小野谷信号場~紫香楽宮跡駅間で、信楽貴生川行きの上り普通列車と、京都発信楽行きのJR直通下り臨時快速列車「世界陶芸祭しがらき号」とが正面衝突。42名が死亡、614名が重軽傷を負った。当時、同線沿線の信楽町(現:甲賀市)では「世界陶芸祭」が開催されており、信楽高原鐵道は来場者輸送におおわらわであった。そして、衝突した臨時快速列車は、乗客で超満員の状態であったため、人的被害が非常に大きくなった。
発端は、信楽駅を貴生川駅行きの普通列車が発車しようとした際、通常青に変わるはずの出発信号機が発車時刻になっても赤のままであったことである。この原因が分からないまま、信楽高原鐵道では誤出発検知装置を頼りにして普通列車を11分遅れで見切り発車させた(これは「無閉塞運転」の一種と言える)。しかし、対向の小野谷信号場の下り出発信号機は青のままで、下り快速列車は青信号に従ってそのまま進行し、正面衝突という大惨事を引き起こすこととなった。
信号の不具合の遠因は、JR西日本と信楽高原鐵道がそれぞれ別個に無認可で行った信号制御の改造と両社の意思疎通の欠如にあったため、遺族が両社を相手取って提訴、1999年(平成11年)の一審で両社の過失認定判決。JR西日本のみ控訴したが2002年(平成14年)の控訴審でも同社の過失が認定された。JR西日本は上告せず高裁判決が確定した。なおこの事故と信号不具合が原因で小野谷信号場は現在に至るまで休止中である。 
参考記事:京都新聞リポート 「赤信号で走った列車~信楽高原鉄道事故の真相」

関東鉄道列車衝突事故

関東鉄道常総線取手駅構内において、入線してきた同駅終着(新守谷発)上りディーゼル列車(4両編成、乗客約900人)が停止せず車止めを飛び出し、そのまま駅ビルの2階の壁を突き破り、先頭車両がファッション店に突入し大破。乗客1人が死亡、250人以上が重軽傷を負った。原因はブレーキ故障で、非常ブレーキも一駅手前の西取手駅で作動させた後に適切な復元がなされず、常用・非常の両系統のブレーキが作動しなかった。

東海道新幹線三島駅乗客転落事故

JR東海の東海道新幹線三島駅で、東京発名古屋行き「こだま475号」(0系16両編成)の6号車ドアに指を挟まれた乗客が列車に引きずられてホーム下に転落、死亡した。列車の車掌とホームの係員が指挟みに気付かず、またドアの隙間がわずかであったために運転席の戸閉ランプが点灯したことで運転士も気が付かず、そのまま列車が発車したことが原因である。
新幹線での旅客の死亡事故はこれが開業以来初めてであった。すなわちこの事故で世界にも誇っていた「開業以来死亡事故0人」記録がここで途切れてしまった(ただし車両が脱線したり衝突したわけではないため、その後は「車内の乗客が死亡した事故は皆無」といった表現で死亡事故ゼロの記録が継続されている)。この事故を教訓に、旅客に対しホームに設置されている列車非常停止ボタンの扱いを公開したり、駅構内の監視カメラを増設するなどの安全対策が強化された。

東海道本線列車追突事故

JR東海の東海道本線沼津片浜駅間で、停車中の下り貨物列車に下り普通列車が追突し、43人が負傷。先行貨物列車が踏切支障報知装置が作動したため停車中であったところ、後続の普通列車は赤信号によりいったん停車したあと規定の1分後に無閉塞運転を開始した。その後先行列車の運転士が踏切支障報知装置を復帰したため後方の信号が進行を示し、後続列車がそれを自列車に対するものと誤認して加速したため停車中の貨物列車に追突した。
JR東日本ではこれを機に列車指令の指示を受けない無閉塞運転の扱いを中止した。その後JR北海道・JR四国でも同様の処置がとられたが、追随しなかったJR九州では2002年2月に同様の事故を起こすことになった。

中央線大月駅列車衝突事故

JR東日本の中央本線大月駅構内で、下り本線を通過中の新宿発松本行き特急「スーパーあずさ13号」(E351系12両編成)の側面に、待避線から下り本線上に進入してきた回送列車(201系6両編成)が衝突し、脱線。
回送列車の運転士が、構内での入換作業のために自動列車停止装置(ATS)を解除した後、入換信号機の停止現示を見落としたため。

平成10年以降(1998~ )

西武鉄道新宿線踏切衝突事故

西武新宿線新狭山駅南大塚駅間の踏切自動車輸送のトレーラー本川越行き準急が衝突。そのドライバーは踏切の先がとても混雑していたのにもかかわらず、無理やり横断し踏切を完全に渡りきれなくなってしまい、立ち往生したのが原因である。17人が軽傷。事故後は、西武新宿線はダイヤの乱れはあったものの、混乱は起こらず、すぐに復旧したが、この後、事故を起こしたトレーラーの運転手は自殺した。

営団地下鉄日比谷線列車脱線衝突事故

営団地下鉄日比谷線の菊名行き電車(営団03系8両編成)の最後尾車両が、中目黒駅手前の急曲線で車両の重量の不均衡など複数の要因で乗り上がり脱線。線路からはみ出した状態で対向の中目黒発東武線直通竹ノ塚行き電車(東武20000系電車8両編成)と側面衝突。死者5人、負傷者64人を出した。この事故を契機に半径200m以下のカーブに脱線防止ガードの設置を義務化した。
前年6月に発足した鉄道事故調査検討会の最初の仕事となり、また航空・鉄道事故調査委員会発足の契機にもなった。

京福電気鉄道越前本線列車衝突事故(松岡町)

京福電気鉄道永平寺線の上り列車(1両編成)がブレーキ故障により分岐駅である東古市駅(現在の永平寺口駅)に停車せず、越前本線に進入、越前本線下り列車と正面衝突、上り列車の運転士1人が死亡、両列車の乗客ら24人が重軽傷を負った。ブレーキ故障は、ブレーキを作動させるロッドが老朽化により破断したのが原因であり、同社の車両検査体制が問われた。また、事故車のブレーキ制御系統が1系統しかなく、その故障によって列車全体のブレーキ機構が作動しなくなったことも事故原因として挙げられており、国土交通省は、ブレーキ系統の多重化等の対策を全国の鉄道事業者に指示した。

新大久保駅ホーム転落死亡事故(新宿区)

JR東日本山手線新大久保駅で線路に落ちた人を助けようとして、助けに行った人を含む3名が電車にひかれ死亡する事故が発生した。この事故を受け、事故の犠牲者を追悼するプレートが新大久保駅のホームと改札の間の階段に設置された。また、ホームにある非常列車停止ボタンの扱いを積極的に車内広告やTVCFで促すようになり、全国で多くの駅のホームの側面に非常用ステップが取り付けられた。

京福電気鉄道越前本線列車衝突事故(勝山市)

京福電気鉄道越前本線保田発坂間で、勝山発福井行きの上り普通列車と福井発勝山行きの下り急行列車が正面衝突して乗員乗客24名が重軽傷を負った。事故原因は、本来、途中駅で対向する急行列車とすれ違う必要があったのを、普通列車の運転士が信号を確認せず早発したという人為ミスであった。国土交通省と中部運輸局福井運輸支局は、半年の間に2度もの正面衝突を引き起こした事態を重く見て、翌日からの全線運行停止・バス代行を命じた。同年7月、「安全確保に関する事業改善命令」が出されたが、同社はその負担に耐えられないとして営業の継続を断念、路線は福井県と沿線市町村が出資する第三セクターえちぜん鉄道に引き継がれた。(2003年7月20日部分開業。10月19日全線開業)

名鉄新羽島駅電車衝突事故

岐阜県羽島市名古屋鉄道羽島線新羽島駅構内で、羽島市役所発新羽島行き普通電車(3100系2両編成)が車止めに衝突、先頭車両の前部2.5メートルが高架橋終端から突き出て停止した。幸いけが人は無かった。原因は、降雪時に耐雪ブレーキを使用せずに運転したため、氷塊詰まりにより制動力が極端に落ちたものと思われる。この事故を受けて名鉄では、耐雪ブレーキの使用基準などを改めた。

鹿児島線列車追突事故

  • 2002年(平成14年)2月22日 21時30分頃
福岡県宗像市JR九州鹿児島本線海老津教育大前駅間で、門司港荒尾行き下り普通列車(811系813系7両編成)がイノシシに衝突し停止中、無閉塞運転で進行してきた後続の門司港発荒木行き下り快速列車(813系5両編成)が追突し、134名が重軽傷を負った。当該車両は全車廃車となった(椅子・つり革などの内装には破損が見られなかったことからその後新造された列車に転用されたようである)。
後続の快速列車の運転士は赤信号を確認して駅間で停車、1分後に規定通りに15km/h以下での無閉塞運転を開始した。その際に先行の普通列車に対して現示された中継信号機の進行現示を自列車に対するものと誤認して加速し、カーブの奥で停車していた先行列車に直前で気付いて非常ブレーキを扱ったが間に合わなかった。
直接の事故原因は運転士のミスであるが、運転士の判断だけで前進が可能な運転規則について、JR東海の類似事故の教訓が生きていない点が指摘された。このため国土交通省鉄道局の指示により、運転士の判断で無閉塞運転を行っている28事業者は同年5月までに「運転指令の指示を受け、運行を開始する」方式に変更した。
また、破損状況の調査結果(全車両の両端部分がまんべんなく破損しており、結果として全車両が廃車となった)から、衝突時の車両の安全性向上に関する取組みの強化が指示された。


長崎本線特急列車脱線転覆事故

長崎県諫早市のJR九州長崎本線肥前長田小江駅間で、長崎発博多行きの上り特急「かもめ46号」(885系6両編成)が線路上の岩石に衝突し脱線、転覆した。この事故で乗員乗客36名が重軽傷。列車の1両目が前後逆向きになって線路脇に横転し大破、2両目が水田に突っ込み大破、3両目が2両目に乗り上げるという大規模なものであったが、車両の落下場所が梅雨期の水田で衝撃を和らげたこともあり、比較的負傷者が少なくて済んだと見られる。岩石は直径80cm、質量約130kgで、線路脇の斜面にあったものが降雨による地盤の緩みで落下したものと思われ、線路周囲の法面の点検の徹底が国土交通省から指示された。なお、事故車両は脱線した3両は廃車、残る3両は廃車した3両を新製して6両編成に戻した上で営業運転に復帰した。

名鉄新岐阜駅電車衝突事故

岐阜県岐阜市名古屋鉄道新岐阜駅(現名鉄岐阜駅)構内で、豊川稲荷発新岐阜行き急行電車(3100系+3500系6編成)が所定位置で停車せずにホーム端の車止めに衝突、脱線し、乗客4名が軽傷を負った。原因は運転士の体調不良による運転操作ミスとされる。運転士が駅進入の際に気を失って運転レバーに倒れ込み、加速の向きに操作したため。運転士は、事故後の精密検査で中程度の睡眠時無呼吸症候群(SAS)の疑いがあると診断された。この事故を受けて名鉄は運転台にマスコン(アクセルとブレーキのレバー)の誤動作防止装置を付けた。

上越新幹線脱線事故

17時56分頃に新潟県中越地震が発生。震源地に近い、上越新幹線浦佐長岡駅間を走行中だった東京発新潟行きとき325号(200系10両編成K25編成)の7・6号車を除く計8両が脱線した。乗客155人に負傷者はいなかった。地震発生当時、同列車は長岡駅への停車のため時速約200kmに減速して走行中であったが、早期地震検地警報システム「ユレダス」による非常ブレーキが作動し、長岡駅の東京寄り約5kmの地点で停車した。当該車両は脱線はしたものの、横転は免れた。だが、2005年3月末で全車廃車となった。この新潟県中越地震は余震が多発したために、脱線車両の撤去作業がままならず、運転再開が大幅に遅れた。
新幹線の早期地震検地警報システム「ユレダス」は地震発生時の第一波(初期微動、P波)を感知して作動するシステムであるため、直下型地震だった今回のケースでは、激しい揺れの到達前に列車を停車させることはできなかった。1964年10月1日の東海道新幹線開業以来、新幹線の営業列車では初の脱線事故となった。

土佐くろしお鉄道宿毛駅列車衝突事故

高知県宿毛市第三セクター土佐くろしお鉄道宿毛線宿毛駅構内で同駅終着(岡山発)の特急「南風17号」(2000系3両編成、乗員2人、乗客11人)が停止せず車止めを飛び出して約100km/hの高速で駅舎に突入、先頭車両がエレベーターを吹っ飛ばし、壁を突き破り、さらに2両目に押し潰されたことによって原形をとどめず大破した。運転士1名が死亡、車掌と乗客9人が重軽傷を負った。
この影響で、宿毛駅~中村駅間が不通となり、東宿毛駅~中村駅間は2005年3月3日から普通列車が同年4月6日まで、特急列車が同年6月12日まで運休した。残る宿毛駅~東宿毛駅間は同年11月1日に運転が再開された。
運転士は前日まで6日間インフルエンザのため欠勤していたが、当日の点呼では異常が見られなかったとのこと。しかし、宿毛駅進入前に、何らかの異常をきたした可能性がある。駅手前のATS地上子の配置が適正なものでなかったため、最高速で進入してきた列車を停止させることができなかった点も指摘されている。
なお、1両目と2両目の車両が事故廃車となった。

福知山線脱線転覆事故

  • 2005年(平成17年)4月25日 9時18分頃
兵庫県尼崎市福知山線(JR宝塚線)・塚口尼崎駅間の曲線で、宝塚同志社前行きの上り快速列車(207系7両編成)のうち、前5両が脱線、うち先頭2両が線路脇のマンションに激突、大破した。この事故では、福知山線のATS-Pの導入の繰上げとJR西日本を含む鉄道会社各社各路線の新型ATS(-P)設置推進、急カーブ区間での新型・旧型ATS(-SW)への曲線過速度防止装置設置を義務付ける契機になった。
この事故で、死者107人、負傷者549人と、JR史上最悪、国鉄時代を含めると鶴見事故(161人)に続いて戦後4番目の死傷者数となった。詳細はJR福知山線脱線事故を参照のこと。
事故車両は全車廃車となった。

羽越本線特急脱線転覆事故

山形県庄内町榎木のJR羽越本線北余目駅砂越駅間の第2最上川橋梁で、秋田新潟行きの上り特急「いなほ14号」(485系6両編成)が、橋梁通過直後に全車両が脱線、うち3両が転覆し、先頭車両が沿線にある小屋に激突し大破した。現場周辺の暴風雪により、被害者の捜索や事故車両の撤去は2006年1月1日まで掛かった。しかし、国土交通省による安全確認などが予定されており未だ全面復旧には至っていない。
周辺の防砂林クロマツが倒れていることや目撃情報などから、原因は局地的に発生したダウンバーストと呼ばれる突風に煽られ転倒したとされる。
この事故により先頭車両に乗っていた5人が死亡、33人が重軽傷を負った。


主な鉄道事故(海外)

1988年の上海列車事故や2000年のオーストリア・ケーブルカー火災では日本人にも死者が出た。

事故調査

日本において鉄道事故が発生した場合には国土交通省内の航空・鉄道事故調査委員会によって原因究明と再発防止のための調査が行われる。また、業務上過失致死罪などの容疑で刑事捜査が行われる場合もある。

しかし、刑事捜査が優先のため、航空・鉄道事故調査委員会による調査は十分に行えず、また、刑事捜査は関係者の処罰が目的のため事故の再発防止には役立たないという指摘もある。

そのため、委員会をアメリカの国家運輸安全委員会(NTSB)の様な国土交通省から独立した強い権限を持つ機関に改めることと、過失による刑事責任を問わないことで関係者の証言を得やすくするべきだという意見も根強い。

関連項目

外部リンク