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松平信興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平信興
伝松平信興坐像(群馬県立歴史博物館蔵)
時代 江戸時代前期
生誕 寛永7年8月11日1630年9月17日
死没 元禄4年閏8月12日1691年10月3日
改名 釆女(幼名)→治綱(初名)→基綱→信衡→興衡→信興
戒名 天桂院殿香山無隠大居士
墓所 埼玉県新座市野火止の平林寺
官位 従四位下、侍従美濃守、因幡
幕府 江戸幕府御側若年寄奏者番大坂城代京都所司代
常陸国土浦藩主→摂津河内国
氏族 大河内松平家
父母 父:松平信綱、母:井上正就の長女
兄弟 輝綱吉綱信定信興堅綱
正室:青山幸利の娘
養子:斐章輝貞
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松平 信興(まつだいら のぶおき)は、江戸時代前期の大名若年寄大坂城代京都所司代高崎藩系大河内松平家初代。松平信綱の五男[1]

生涯

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寛永18年8月に徳川家綱の側近として中奥小姓小姓組番頭、寛文7年正月には御側などを務めたほか、延宝7年に若年寄、天和2年に奏者番、貞享4年に大坂城代、元禄3年に京都所司代などの要職も歴任した。雑兵の戦場での体験談をまとめた『雑兵物語』の編纂に関与したという説がある[1]。しかし実際の作者は不詳である。元禄4年(1691年)死去。

信興には実子がなく、家督は養子(実兄松平輝綱の六男)の輝貞が継ぎ、最終的には上野国高崎藩主として幕末を迎える。

経歴

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  • 寛文2年(1662年)4月18日、兄輝綱より、父信綱の遺領武蔵国埼玉郡のうち新田5千石を分与される。
  • 延宝7年(1679年)7月10日、若年寄に任ぜられる。1万2千石を領し、大名に列する。
  • 天和2年(1682年)2月19日、2万2千石をもって土浦藩主となる。
  • 貞享4年(1687年)10月13日、1万石を加増され大坂城代となり、摂津国河内国内へ移封。
  • 元禄2年(1689年) 養子の斐章を廃嫡する。
  • 元禄3年(1690年)12月26日、従四位下・侍従となり、京都所司代に転ずる。
  • 元禄4年(1691年)死去。

脚注

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  1. ^ a b 埼玉県立歴史と民俗の博物館博物館だより19号”. 埼玉県立歴史と民俗の博物館. 2019年11月19日閲覧。

関連項目

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  • 山本勘助:家中には淀藩永井氏から転身した武田家臣「山本菅助」の子孫がおり、軍学者として兵法指南や城郭改修などを行っている。