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青山忠朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
青山忠朝
時代 江戸時代中期
生誕 宝永5年7月16日1708年8月31日
死没 宝暦10年7月15日1760年8月25日
改名 七三郎(幼名)、忠朝
別名 刑部(通称)、幸堅、忠知
戒名 隆興院殿真空紹観大居士
墓所 兵庫県丹波篠山市東岡屋の幡竜庵
東京都品川区北品川東海寺
官位 従五位下伯耆守因幡守従四位下
幕府 江戸幕府 奏者番寺社奉行大坂城代
主君 徳川吉宗家重家治
丹波亀山藩主、丹波篠山藩
氏族 青山氏
父母 青山幸督、角田氏
青山俊春
兄弟 幸秀忠朝幸能
榊原政邦
忠高
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青山 忠朝(あおやま ただとも)は、江戸時代中期の大名大坂城代丹波国亀山藩3代藩主、丹波篠山藩初代藩主。官位従四位下因幡守。青山家宗家15代。

生涯

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宝永5年(1708年)、摂津国尼崎藩3代藩主・青山幸督の次男として誕生した。

享保15年(1730年)、本家である丹波亀山藩の2代藩主・青山俊春が嗣子なく没したため、養子に入る。同年、従五位下・伯耆守に叙任された。延享元年(1744年)に奏者番となり、延享3年(1746年)、因幡守に叙せられる。

寛延元年(1748年)8月3日、松平信岑と入れ替わる形で丹波篠山藩に転封、同日寺社奉行に任ぜられた。

宝暦8年(1758年)に従四位下に昇叙。同年11月28日、大坂城代となる。

宝暦10年(1760年)、死去。享年53。跡を養子の忠高[注釈 1]が継いだ。

系譜

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注釈

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  1. ^ 兄・青山幸秀の子。