牧野貞長
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保18年11月21日(1733年12月26日) |
死没 | 寛政8年9月30日(1796年10月30日) |
改名 | 道五郎(幼名)→貞長→沢翁 |
墓所 | 笠間市笠間の盛岸院 |
官位 | 従四位下・侍従、備中守、備後守 |
幕府 | 江戸幕府奏者番、寺社奉行、大坂城代、京都所司代、老中 |
主君 | 徳川家重→家治→家斉 |
藩 | 常陸笠間藩主 |
氏族 | 牧野氏 |
父母 | 父:牧野貞通、母:不詳 |
兄弟 | 忠敬、貞隆、貞長、忠利、忠寛、貞恒、松平忠義、通英、通亮、戸田光廩、松平忠勧、菊子、千姫、本多忠敞正室、松浦到正室、清操院、八千子、牧野忠寛養女、有馬広之室ら |
妻 | 松平乗祐の娘 |
子 | 貞喜、直三郎、幾五郎、西尾忠善、近藤用倫、国清院、本多忠粛正室、端冠院 |
牧野 貞長(まきの さだなが)は、江戸時代中期の大名。奏者番、寺社奉行、大坂城代、京都所司代、老中。常陸笠間藩主。成貞系牧野家5代。官位は従四位下・侍従、備中守、備後守。
略歴
[編集]牧野家4代の牧野貞通の五男として江戸藩邸に生まれる[1]。幼名は道五郎といい、のちに沢翁(たくおう)と称す[1]。
五男であったが、長兄の忠敬が越後国長岡藩主となり、次兄の貞隆が早死したので、寛延2年(1749年)に継嗣となり家督相続した。宝暦9年(1759年)に奏者番となり、安永6年(1777年)に大阪城代、天明元年(1781年)に京都所司代と累進した[1]。天明4年(1784年)から寛政2年(1790年)にかけての7年間、老中として江戸幕府の枢機に参画した。政治的知見は父・貞道に譲らず卓抜で、物事の決断を明確に処理し、稀に見る為政者であると尊敬され、老中在任中は極めて適切な政策を次々と立案・進言したので、将軍徳川家治・家斉からの信頼も深かったといわれる[1]。また、慈愛心が深い人物で、閣老であったときに多くの孝子・義僕を表彰した[1]。
寛政8年(1796年)9月、64歳で病没した。江戸深川の要津寺に埋葬されたが、現在は改葬して笠間市笠間の盛岸院にある[1]。
年表
[編集]- 1733年(享保18年)11月21日、生誕
- 1769年(明和6年) 8月26日、寺社奉行
- 1777年(安永6年) 9月15日、大坂城代
- 1781年(天明元年)閏5月11日、京都所司代
- 1784年(天明4年) 5月15日、老中
- 1790年(寛政2年) 2月2日、老中を致仕
- 1796年(寛政8年) 9月30日、死去(享年64)。長男・貞喜が跡を継いだ。
系譜
[編集]父母
- 牧野貞通(父)
- 佐藤氏 - 側室(母)
正室
- 松平乗祐の次女
側室
- 間宮氏
子女
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 田中嘉彦 著、茨城新聞社編 編『茨城県大百科事典』茨城新聞社、1981年、959頁。「牧野貞長」