太田資晴
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄8年12月23日(1696年1月27日) |
死没 | 元文5年3月24日(1740年4月20日) |
改名 | 熊次郎(幼名)、資晴 |
別名 | 資重、資在 |
戒名 | 瑞光院殿道精日現大居士 |
墓所 | 静岡県三島市の妙法華寺 |
官位 | 従五位下、備中守 |
幕府 | 江戸幕府 寺社奉行、若年寄、大坂城代 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗 |
藩 | 駿河田中藩主→陸奥棚倉藩主→上野館林藩主 |
氏族 | 太田氏 |
父母 | 父:太田資直、母:板倉重常の娘 |
兄弟 | 資晴、松平乗賢正室ら |
妻 | 戸田氏定の娘 |
子 | 資俊、資胤、晴郷、戸田氏住、佐野茂幸、千本嘉隆、太田資賢正室、角倉玄篤室、堀田正邦正室、太田資知正室、井上正辰正室、芳春院 |
太田 資晴(おおた すけはる)は、江戸時代中期の大名。駿河国田中藩2代藩主、陸奥国棚倉藩主、上野国館林藩主。江戸幕府の寺社奉行、若年寄、大坂城代。官位は従五位下・備中守。掛川藩太田家4代。
生涯
[編集]田中藩初代藩主・太田資直の五男として誕生した。4人の兄が早世したため世子となり、宝永2年(1705年)に父の死により家督を相続した。同年、陸奥棚倉に移封された。享保8年(1723年)に奏者番、享保10年(1725年)寺社奉行、享保13年(1728年)に若年寄と累進し、上野館林に転封。享保19年(1734年)には大坂城代に任じられ、摂津国周辺で5万石を与えられた。
元文5年(1740年)に45歳で死去。跡を長男の資俊が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 戸田氏定の娘
子女
- 太田資愛(長男)生母は正室
- 太田資胤(次男)
- 太田晴郷(五男)
- 戸田氏住(七男)
- 佐野茂幸
- 千本嘉隆(九男)
- 太田資賢正室のち加藤泰都継室
- 角倉玄篤室
- 堀田正邦正室
- 太田資知正室
- 井上正辰正室
- 芳春院 ー 太田資俊の養女、松平乗穏正室