島津忠済
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島津 忠済(しまづ ただなり、安政2年3月9日(1855年4月25日) - 大正4年(1915年)8月19日)は、明治時代の華族。玉里島津家第2代当主。位階・勲等・爵位は従一位勲一等公爵。幼名は真之助。諱は久済、のち忠済。
略歴
[編集]薩摩藩鹿児島生まれ[1]。島津久光の七男。島津忠義の異母弟。母は側室の山崎武良子。
1888年(明治21年)1月25日、父の死去に伴い玉里島津家の家督を相続し、公爵を襲爵した。帝国議会開設に伴い1890年(明治23年)2月、貴族院公爵議員に就任[2]。
宮内省宗秩寮審議官、麝香間祗候などを務めた。 アサガオの研究家としても知られた[3]。
栄典
[編集]- 1884年(明治17年)10月10日 - 従五位[4]
- 1888年(明治21年)
- 1889年(明治22年)6月26日 - 従四位[8]
- 1891年(明治24年)
- 1893年(明治26年)
- 1895年(明治28年)6月29日 - 従三位[14]
- 1897年(明治30年)6月1日 - 木杯一組[15]
- 1899年(明治32年)
- 1903年(明治36年)6月30日 - 従二位[18]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲四等旭日小綬章[19]
- 1909年(明治42年)4月13日 - 木杯一組[20]
- 1910年(明治43年)3月16日 - 金杯一組[21]
- 1911年(明治44年)
- 1912年(大正元年)
- 1913年(大正2年)9月20日 - 銀杯一個[26]
- 1914年(大正3年)6月18日 - 勲三等瑞宝章[27]
- 1915年(大正4年)8月19日 - 従一位勲一等瑞宝章[28]
家族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 『私の履歴書 第14集』99頁。
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』
- ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、570頁。ISBN 978-4-06-288001-5。
- ^ 『官報』第388号「叙任及辞令」1884年10月11日。
- ^ 『官報』第1370号「叙任及辞令」1888年1月26日。
- ^ 『官報』第1485号「彙報 - 褒賞」1888年6月13日。
- ^ 『官報』第1613号「彙報 - 褒賞」1888年11月13日。
- ^ 『官報』第1799号「叙任及辞令」1889年6月29日。
- ^ 『官報』第2391号「叙任及辞令」1891年6月20日。
- ^ 『官報』第2641号「彙報 - 褒賞」1892年4月21日。
- ^ 『官報』第2923号「彙報 - 褒賞」1893年3月31日。
- ^ 『官報』第3114号「彙報 - 褒賞」1893年11月14日。
- ^ 『官報』第3117号「彙報 - 褒賞」1893年11月17日。
- ^ 『官報』第3600号「叙任及辞令」1895年7月1日。
- ^ 『官報』第4804号「彙報 - 褒賞」1899年7月7日。
- ^ 『官報』第4813号「彙報 - 褒賞」1899年7月18日。
- ^ 『官報』第4799号「叙任及辞令」1899年7月1日。
- ^ 『官報』第5998号「叙任及辞令」1903年7月1日。
- ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第8300号「彙報 - 褒賞」1911年2月24日。
- ^ 『官報』第8195号「彙報 - 褒賞」1910年10月13日。
- ^ 『官報』第8415号「叙任及辞令」1911年7月11日。
- ^ 『官報』第103号「彙報 - 褒賞」1912年12月3日。
- ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
- ^ 『官報』第276号「彙報 - 褒賞」1913年7月1日。
- ^ 『官報』第518号「彙報 - 褒賞」1914年4月23日。
- ^ 『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。
- ^ 『官報』第917号「叙任及辞令」1915年8月21日。
参考文献
[編集]- 『私の履歴書 第14集』(大山康晴 塚田公太 小島政二郎 徳川夢声 島津忠承 富安風生 高川格)日本経済新聞社。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
日本の爵位 | ||
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先代 島津久光 |
公爵 (玉里)島津家第2代 1888年 - 1915年 |
次代 島津忠承 |