出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
北郷 数久(ほんごう かずひさ)は、戦国時代の日向の武将。都城領主。薩摩、大隅 及び日向守護の有力支族である北郷氏7代当主。北郷敏久の嫡男。
島津氏と伊東氏の抗争により日向飫肥で討死した伊東祐国の子尹祐は、父の恨みを晴らし領土を拡大するため島津氏を攻めたてた。この状況をみた豊後の大友氏は島津氏と伊東氏の和睦を仲介し、明応4年(1495年)、島津忠昌は伊東氏へ三俣院1000町を割譲し両者の和睦が成立した。三俣院はかつては北郷領でありその回復が北郷氏の宿願となった。
この時代、島津宗家の弱体化が続き、覇権を求めて島津氏一族や国人領主は宗家を無視して互いに抗争し、家臣の中にも離反するものが現れた。数久も志布志の新納忠武とともに梅北城の島津忠明を攻め、梅北は忠武の領地となった。このときの戦闘により多くの神社仏閣が灰燼に帰した。また、伊東氏と対抗するため、飫肥領主である豊州家と連携を強めた。その後、数久は都城を嫡男の忠相に委ね、自身は安永城に引退した。北郷氏は忠相の代に都城盆地を統一し最大の版図を誇ることになる。
- 『都城市史』
- 『高城町史』
- 瀬戸山計佐儀『都城島津家歴代史 全』三州文化社、1992年
- 『都城盆地 史跡ガイドブック ①旧都城市編』南九州文化研究会、2014年
|
---|
宗家 |
忠久????-1227 | 忠時1227-1265 | 久経1265-1284 | 忠宗1284-1318 | 貞久1318-1363 | 総州家と奥州家に分裂
|
---|
総州家 |
師久1363-1376 | 伊久1376-1404 | 守久1404-???? | 久世????-1417 | 久林1417-1430 | 断絶
|
---|
奥州家 |
氏久1363-1387 | 元久1387-1411 | 久豊1411-1425 | 忠国1425-1470 | 立久1470-1474 | 忠昌1474-1508 | 忠治1508-1515 | 忠隆1515-1519 | 勝久1519-1526 | 貴久1526-1566 | 義久1566-1587 | 義弘1587-1602 | 家久1602-1638 | 光久1638-1687 | 綱貴1687-1704 | 吉貴1704-1721 | 継豊1721-1746 | 宗信1746-1749 | 重年1749-1755 | 重豪1755-1787 | 斉宣1787-1809 | 斉興1809-1851 | 斉彬1851-1858 | 忠義1858-1897 | 忠重1897-1968 | 忠秀1968-1996 | 修久1996-現在
|
---|
|
越前家 | |
---|
播磨家 | |
---|
伊作家 |
久長1281-1317 | 宗久1317-1354 | 親忠1354-1371 | 久義1371-1422 | 勝久1422-1433 | 教久1433-1442 | 犬安丸1442-1458 | 久逸1458-???? | 善久????-1494 | 忠良1494-1526 | 相州家相続
|
---|
薩州家 |
用久????-1459 | 国久1459-1498 | 成久1498-???? | 忠興????-1525 | 実久1525-1553 | 義虎1553-1585 | 忠辰1585-1595 | 断絶
|
---|
相州家→ 垂水家 | |
---|
豊州家 | |
---|
玉里家 |
久光1871-1887 | 忠済1888-1915 | 忠承1915-1990 | 忠広1990-現在
|
---|
加治木家 | |
---|
佐土原家 |
忠興1610-1637 | 久雄1637-1663 | 忠高1663-1676 | 久寿1676-1690 | 惟久1690-1723 | 忠雅1723-1753 | 久柄1753-1785 | 忠持1785-1816 | 忠徹1816-1839 | 忠寛1839-1896 | 忠亮1896-1909 | 忠麿1909-1926 | 久範1926-1944 | 忠韶1944-1973 | 忠範1973-現在
|
---|
重富家 | |
---|
和泉家→ 今和泉家 | |
---|
宮之城家 | |
---|
永吉家 | |
---|
日置家 | |
---|
北郷氏→ 都城家 | |
---|
佐多氏→ 知覧家 | |
---|