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山田敬蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山田 敬蔵 Portal:陸上競技
1952年当時の山田敬蔵
選手情報
フルネーム やまだ けいぞう
ラテン文字 YAMADA Keizo
国籍 日本の旗 日本
種目 長距離走
生年月日 1927年11月30日
出身地 秋田県北秋田郡大館町(現在の大館市
没年月日 (2020-04-02) 2020年4月2日(92歳没)
死没地 神奈川県川崎市[1]
身長 157cm
体重 43kg
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山田 敬蔵(やまだ けいぞう、1927年(昭和2年)11月30日 - 2020年(令和2年)4月2日[2])は、日本のマラソン選手。ヘルシンキオリンピック男子マラソン日本代表。現役時代の所属は同和鉱業花岡鉱業所。

経歴・人物

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秋田県北秋田郡大館町(現在の大館市)出身。15歳の時に満蒙開拓青少年義勇軍に志願して中国大陸満洲国へ渡った経歴を持つ[3]。満洲時代に2,000mや10,000mを走って自信をつけたことを語っている[3]

第二次世界大戦終了後に満洲から引き揚げ、秋田へ帰郷してから本格的に陸上競技に取り組むようになる[3]1949年第4回国民体育大会東京都)に秋田県代表として一般男子マラソンに出場し、この時に初めて42.195 kmのフルマラソンを走った[3]

1952年、戦後の日本が初参加となったヘルシンキオリンピックに、マラソン日本代表として出場し、25位。

1953年4月20日ボストンマラソンにおいて優勝。記録は2時間18分51秒。当時世界最高記録とされた(のちに距離不足が判明している)[4]1954年大映映画『心臓破りの丘』(監督:木村恵吾、脚本:須崎勝弥、主演は根上淳で役名は「上田栄三」)は、山田をモデルとしたフィクション作品である[5]

ボストンマラソンには1953年、1957年、1975年、1976年、1995年からは毎年出場しており、1998年から2001年は70歳以上の部を4連覇している。2003年にはボストンマラソン優勝50年を記念して招待選手として出場している。また、優勝年の1953年にちなみ、ゼッケン番号1953は永久欠番となっており、出場時には山田のみがこの番号を付けることが許されている。2007年大会も4時間24分07秒のタイムで完走している。

1961年秋田国体炬火リレーの最終走者である。2007年秋田わか杉国体でも炬火リレーの走者(最終走者の直前の走者)となった。晩年まで各地のマラソン大会に招待選手として参加しており、その健脚を披露していた。

2009年7月、81歳でフルマラソンから引退を表明した。

故郷である秋田県大館市の名誉市民であり、大館市では、山田の功績を讃えて毎年4月29日に山田記念ロードレース大会を実施している[6]

2020年4月2日に死去[2]。92歳没。

脚註

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  1. ^ “山田敬蔵さん死去 ボストン・マラソン覇者、大館出身”. 秋田魁新報. (2020年4月23日). https://www.sakigake.jp/news/article/20200423AK0023/ 2020年4月23日閲覧。 
  2. ^ a b “山田敬蔵さんが92歳で死去…53年の米ボストン・マラソンで優勝”. スポーツ報知. 報知新聞社. (2020年4月23日). https://hochi.news/articles/20200423-OHT1T50190.html 2020年4月23日閲覧。 
  3. ^ a b c d 「小さな日本人‐マラソン・山田敬蔵」『努力の花は咲く』林好一著 文芸社 77頁~79頁
  4. ^ ボストン・マラソンで山田敬蔵優勝 昭和毎日
  5. ^ 心臓破りの丘 - MOVIE WALKER PRESS
  6. ^ 第62回山田記念ロードレース大会 (PDF) 秋田県大館市ホームページ

外部リンク

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