坂本九
基本情報 | |
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出生名 |
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別名 |
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生誕 | 1941年12月10日 |
出身地 | 日本 神奈川県川崎市川崎区 |
死没 |
1985年8月12日(43歳没) 日本 群馬県多野郡上野村の御巣鷹の尾根 |
ジャンル |
ライトジャズ ロックンロール ロカビリー ポップス 歌謡曲 |
職業 | 歌手、俳優、タレント、司会者 |
担当楽器 |
ボーカル ギター |
活動期間 | 1958年 - 1985年 |
レーベル |
日本ビクター(1959年) 東芝レコード・エキスプレス(1960年 - 1984年) ファンハウス(1985年) |
共同作業者 |
ザ・ドリフターズ ダニー飯田とパラダイス・キング |
公式サイト |
www |
坂本 九(さかもと きゅう、出生名:さかもと ひさし、本名:大島 九(おおしま ひさし)、1941年(昭和16年)12月10日 - 1985年(昭和60年)8月12日[1])は、日本の歌手・俳優・タレント・司会者。神奈川県川崎市川崎区南町出身。愛称は九ちゃん。
妻は女優の柏木由紀子。柏木との間に娘が2人おり、長女は大島花子、次女は舞坂ゆき子。実祖父は茨城県新治郡田伏村(のち佐賀村→出島村→霞ヶ浦町、現:かすみがうら市)出身の漁師坂本金吉[注 1]。またサックス奏者の阿部薫は甥(姉の息子)。
「上を向いて歩こう」、「見上げてごらん夜の星を」、「明日があるさ」等数多くのヒット曲を出し、全世界におけるレコードの売上は1500万枚以上に達した[2]。また、映画や舞台の俳優、テレビ番組の司会など多岐に渡り活動していた。
人物・来歴
[編集]少年時代
[編集]川崎市の荷役請負業「丸木組」の社長・坂本寛(ゆたか)と妻・いく(旧姓:大島)の第9子(後妻であった実母にとっては3番目)として誕生[1]。9番目に生まれて、そろそろ名前のネタが尽きてきたことから、「九」と命名されたという説がある。また、「九」の読みが「久」に通じるからとも言われている。
第二次世界大戦中に幼少期を送り、戦争中は母の実家のある現在の茨城県笠間市に疎開した。また川崎在住時代、松あきら一家が坂本家の近所に転居・在住していた時期があり、坂本は松とよく遊んでいたという。
戦争中の1943年10月26日(火曜日)に発生した常磐線土浦駅列車衝突事故で川に転落し、多数の犠牲者を出した車両に、疎開のために笠間に向かっていた坂本は母と乗り合わせていた。ただ、事故の直前に他の車両に移っていたために遭難死を逃れる。成長して周囲の人々にこの一件を聞かされて知り、「笠間稲荷神社の神様が自分を救ってくれた」として、終生信仰していたという。後には、この笠間稲荷神社で結婚式を挙げる[1]。そして、日航機事故で命を落とした時にも、笠間稲荷のペンダントが遺体の身元を特定する決め手となった[3][注 2]。
高校生の時に両親が離婚。といっても家は近所で家族の交流は変わらなかった。九など下の兄弟は母親に引き取られ、姓は坂本から大島になる。この前後からエルヴィス・プレスリーに憧れるようになり[1]、右に出る物が他にいなかったと言われるほど、プレスリーの物まねで仲間内の人気者となった。
バンド時代
[編集]高校に上がると、当時不良の音楽で、一部の最も流行に敏感な若者たちに流行り始めていたロックン・ロール(当時は総じてロカビリーと言われていた)にさらに熱を上げ、立川の米軍基地で初めて人前で歌う。その時に歌ったのがエルヴィス・プレスリーの「ハウンド・ドッグ」リトル・リチャードの「Send me Some Lovin'」だった。
1958年5月、日本大学高等学校[注 3]在学中にバンド・ボーイを経て、当時ロカビリーバンドとして活動していた井上ひろしとザ・ドリフターズ(後の桜井輝夫とザ・ドリフターズ、のちのザ・ドリフターズ)に加入[4]し、ボーカル兼ギターを担当。8月26日にはロカビリー歌手として第3回日劇ウエスタンカーニバルに初出演し、新人賞を受賞する[1]。 半年後(11月)芸能界の苦しさも経験し、母親の反対を押し切って入った芸能界が、どうも間違いだったと思い始めていた坂本は、学校を休学して芸能活動をしていたので、「芸能界を一旦休業して学業に専念する」と引退してしまった。しかし渡辺美佐の妹である曲直瀬信子は、坂本家まで通い、坂本と母親とを強く説得。そして初代ドリフターズのリーダー岸部清をも説得し、事実上の引き抜きという形で坂本はドリフターズを脱退。 12月に水原弘の抜けたダニー飯田とパラダイス・キングの一員[1]としてビクターレコードと契約。1959年6月に「題名のない唄だけど」でデビューしたが[1]、ヒットしなかった[5]。
無名時代、平尾昌章、ミッキー・カーチス、山下敬二郎などが出演した、日劇ウエスタンカーニバルに事務所の意向を無視して無理やり出演。バックでギターを弾いていたが、当初は知られることがなかったがのちに上記の新人賞を受賞している。
ダニー飯田とパラダイス・キング加入でヒットしてテレビに出る以前のライブ時代の九は、新品のギターを叩き壊すなどのパフォーマンスもする、パワフルでワイルドなロックン・ロールスタイルだった。また、当時はギターを後年のパンクロックミュージシャン顔負けの低い位置で構えていた。
ソロ転向、世界的スターに
[編集]1960年7月に、東芝音楽工業(後の東芝EMI。東芝レコードレーベル)に移籍。同年8月に、移籍後第1弾シングルとして発売した「悲しき六十才」[1]が10万枚[6]を売り上げ、初ヒットとなった。
1961年10月15日リリースの「上を向いて歩こう」[1]は日本国外でも大ヒットし、作詞の永六輔、作曲の中村八大と合わせて六八九トリオと呼ばれた。中でも1963年には、SUKIYAKIと題してアメリカでもっとも権威のあるヒットチャート誌『ビルボード』の "Billboard Hot 100" で、3週連続1位を獲得、キャッシュボックス(Cash Box)誌でも4週連続1位を獲得。 Billboard Hot 100で1位を獲得した日本出身者は2020年9月現在、坂本だけである。この曲は後に英語歌詞が付いたが、1位を獲得したのは坂本の歌う日本語版であり、その点でもこれまで唯一の例である。
この曲のヒットに伴い、1963年、坂本はスティーブ・アレン・ショーに招かれ渡米する。エド・サリヴァン・ショーにも招かれたが、自身が主役の映画「刀を抜いて」の撮影スケジュールと合わず、エドのほうは出演は叶わなかった。渡米の際、キャピトル社長一家、当時のニューヨーク市長、クインシー・ジョーンズ、ディズニーランド副社長や多くのアーティストや著名人と対面しており、空港には1万人のファンが集まるなど、非常に歓迎された日本人だった。妻の柏木によると、結婚後、柏木と坂本がプライベートでロサンゼルスに行ってアーティストのショーを観客席で見ていたとき、「SUKIYAKIのキュー・サカモトが来ている」と司会者に紹介されたという[7]。1963年海外遠征を行い、この時ドイツにおいてはナチス式敬礼をしながらドイツ語で歌唱する姿が記録に残っている[8]。
また、この「上を向いて歩こう」は1964年に米国内でのレコード累計販売枚数が100万枚を超えたため坂本は日本人初の「ゴールドディスク」を受賞した[1][9]。
「上を向いて歩こう」の世界でのヒットにより世界的に名前が知られたことで、国際的な活動も多かった。1964年の第18回オリンピック東京大会のウェルカムパーティーにゲスト出演し、「サヨナラ東京」と「君が好き」を歌った。
資金難だった東京パラリンピックをチャリティコンサートで寄付金支援した。
1970年の日本万国博覧会で若手芸能人の万国博委員に起用される[1]。さらに、読売テレビ『クイズEXPO'70』の司会にも起用された。
タレントとして、テレビの司会や映画、舞台でも活躍した。役者としては晩年の榎本健一(1970年1月没)には特に気に入られ、自宅に呼ばれて様々な指導を受け「俺を踏み台にして、俺を超える役者になれ」と口癖のように言われたという[10]。
また、「あゆみの箱」運動[1]、手話を広げる運動、障碍者福祉関係の慈善活動に積極的に参加していた。
1971年12月8日(水曜日)に女優の柏木由紀子と結婚[1]。
「上を向いて歩こう」がヒットする最中、夕張市を中心に当時流行していた小児麻痺の為の「チャリティーショー」が1962年から札幌テレビ放送主催の下、札幌市で開かれ、坂本は無報酬で出演した。以来、毎年10年間北海道でチャリティーショーを続け、それをきっかけに1976年札幌テレビ放送制作の福祉番組「ふれあい広場・サンデー九」に取り組む[1]。月に2回北海道の施設を取材し番組は作られた。この番組は急逝まで9年間、日曜朝9時から30分間放送された。番組の中、コンサートでも披露されたが、日本初の手話の歌「そして想い出」を1979年発表。全国ろうあ者大会で披露した。
当時、坂本はヒットについて岡本太郎に声をかけられると、周囲からの重圧についての葛藤を泣きながら語っていたという[11]。
独特の歌唱法
[編集]坂本は、幼少時から兄弟や花街という土地柄や稼業などの影響で、邦楽はもとより、洋楽の影響も多分に受けて育っていた。小学生の頃から「ハリー・ジェイムスのトランペットは色っぽい」「歌舞伎の所作がいいね」などというほど、自然に芸事や洋楽に触れていて当時としてもとてもハイカラな環境で育った。 家族兄弟でいうと、ジャズ、シャンソン、芝居、日舞、三味線、邦楽など、一通りの影響を強く受けた。 また、兄弟の影響でヨーデルにも手を出して、のちにそれを生かしたファルセットボイスを「恋のホームタウン」や「ステキなタイミング」などで生かしている。
三味線片手にさのさも歌えば、小学生の頃からナット・キング・コールも歌い、中学生になると三味線をギターに持ち替えて当時最も新しい音楽のロックンロールに感化されていく。 「う〜えをむ〜いて」を「ウフエヘヲホムフイテ」というように言葉の裏の音「ウフ」「エヘ」「オホ」と、邦楽の素養も、洋楽の要素も持ちながら表現した独特の歌い方は、だれもやっていない当時最も斬新な歌い方であったと九重佑三子がのちに回想している。 また、斬新で新しい歌唱法と同時に、当時はまだまだロックン・ロール(ロカビリー)は音楽的な市民権を得てなかったこともあり、坂本の歌はとても個性的で注目されたが、保守的な大人からはそれほど評価は高くなかった。 デビュー当時は、本人も大好きなアメリカンポップス、ロックをカバーして歌っていたこともあり、カバー歌手はほかにもいたが、体の芯から理解して日本語を英語のようなグルーヴで歌うのも初めての歌手だった。 また、キーが高めで軽いハスキーな声質も個性的であった。
航空機による事故死
[編集]1985年にレコードレーベルをファンハウスに移籍。5月22日に移籍後第1弾シングル「懐しきlove-song/心の瞳」を発売して、再び歌手活動を本格化させようとしていた。8月9日には、中村八大のコンサートにて「もう一度、六・八・九としてやり直したい、歌手としてやり直したい」という意志を伝え、中村と再度の意気投合を誓っていたという。
坂本は8月11日夜に『クイズクロス5』(テレビ新広島)の収録のため広島入りし、翌12日に同番組の収録(同年8月16日放送分)を行った。当初の予定では、『クイズクロス5』[注 4]の収録後に、岡山から車で直接大阪入りする予定だったが[12]、夏休み休暇中のうつみ宮土理の代役として急遽『歌謡スペシャル』(NHK-FM放送)の司会を務めることになったため、一旦帰京した。このため、この『歌謡スペシャル 秋一番!坂本九』[注 5]の収録が、坂本の生前最後の仕事となった[1]。この番組の中で坂本は、「ステキなタイミング」・「上を向いて歩こう(欧陽菲菲とデュエット)」・「For The Good Times」[注 6]・「We are the world」・「心の瞳」・「親父」・「見上げてごらん夜の星を」・「懐しきlove-song」を披露[注 7]したほか、同年6月8日に「古賀政男記念音楽大賞」で入賞[1]したことに触れ、「とても嬉しかった。これからも皆さんと一緒に、いつまでも歌い続けていきたい」と、将来への抱負を語っていた。
その後、大阪府在住で自身の元マネージャーの香川弘行が立候補した、同年9月9日実施予定の羽曳野市議会議員選挙に応援として、翌13日に行われる事務所開きに駆けつける途中[12]、日本航空123便墜落事故に巻き込まれ死去。43歳没。
坂本は本来、国内移動には日本航空 (JAL) ではなく、基本的に全日空 (ANA) を使っており、所属プロダクションや妻の由紀子も「手配は必ず全日空で」と指定していたほどだった[13][注 8]。しかし、当日は全日空便が満席で、飛行機やホテルなどを手配した招待側の側近はチケットを確保できず、仕方なく確保したのが日本航空123便であった[注 9][12]。坂本と親交があったプロボウラーの矢島純一は事故の1週間前に坂本の家でこの件を知らされ、全日空に変えることを勧めたが、坂本は「せっかく送ってもらったから」と言って変えなかったという[16]。 事故の数日前、「日航の切符を事務所に送る」という電話が入っていたが、当時電話を受け取った由紀子は事故が起こるまで特に気に留めていなかった[17]。そのため、家族も事故当日のうちに乗客名簿が発表されるまで日航機に乗っているはずがないと信じていた。
しかし、乗客名簿の中に「オオシマ・ヒサシ」と「コミヤ・カツヒロ」(小宮勝廣、坂本が所属するマナセプロダクションのマネージャー)の名が記載されていたことが日本航空側より発表されたことで、事故に遭遇したことは否定できない事実となった。この事故で運命を共にした小宮は早めに羽田空港へ行き、全日空便への振替を何度も交渉したが、盆という時節柄、それが叶わず、やむを得ずこの事故機に乗ったという。
坂本と小宮は、政治家や著名人が利用することの多いボーイング747SR-100の2階席、右列の前方から4番目(64列)に搭乗していた[18]。坂本は、ハンティングワールドのボストンバッグを機内に持ち込んでおり、墜落現場で発見・回収された[19]。その中に録音機能付きのウォークマン(ソニー製WM-F85)が入っていたため、家族は遺言が残されていないかと気に掛けていたが、テープには当時頻繁に聞いていた楽曲「We are the world」が入っていただけで、遺言らしきものは何も録音されていなかった[20]。
事故翌日の8月13日には、事前収録の坂本本人が出演する、フジテレビ『なるほど!ザ・ワールド』200回記念が放送された。この時点では安否不明の状態であったため敢えて放送され、番組の最後ではブラックバックに「坂本九さんの無事をお祈りします」というコメントが寄せられた。墜落から99時間後の16日深夜、家族らによって遺体が確認された[12][21][注 10](遺体が発見されたのは14日頃)。遺体は損傷が激しかったが、普段から身に着けていた笠間稲荷のペンダントが胸に突き刺さっていたことと、首の太さが確認の決め手となった[22][23]。また、墜落現場では両手で足首を掴み頭を膝の中に入れる「安全姿勢」をとった状態で発見されており、即死状態であったという[22]。遺体は翌8月17日5時前に東京都目黒区柿の木坂の自宅に帰宅した[21]。
1985年8月17日放送のTBS『キッチンパトロール』では、遺体が確認された翌日であったため、番組冒頭に坂本の死去を伝え哀悼の意を示すテロップ、収録日を示すテロップが番組の前半と後半に表示されつつ、元気な姿が放送された。また、同じく遺体が確認されてから最初の放送となった8月21日放送のフジテレビ系「夜のヒットスタジオDELUXE」では、森進一が当初予定していたオリジナル曲「うさぎ」の歌唱を急遽取り止めて坂本へ哀悼の意をこめて坂本の持ち歌である「見上げてごらん夜の星を」を涙ながらに熱唱し、スタジオにいた出演者とスタッフのみならず多くの視聴者の涙を誘った。
密葬は8月18日11時より東京都目黒区柿の木坂の自宅で行われ[24]、本葬は9月9日に港区芝の増上寺で執り行われた。そして、札幌テレビ放送で福祉番組『ふれあい広場・サンデー九』を担当していたこともあり、坂本の遺族と一緒に亡くなった小宮の遺族を札幌市内のSTVホールに招き、障害者とその家族だけを対象にした「偲ぶ会」として一般葬儀も執り行われた。
戒名は「天真院九心玄聲居士(てんしんいんきゅうしんげんせいこじ)」[12]。墓所は東京都港区西麻布二丁目の長谷寺[1]。墓には「見上げてごらん夜の星を」の歌詞の一部が刻まれている。
親交があった石倉三郎夫妻の媒酌人を由紀子と務めることになっていたが、結婚式直前に坂本が亡くなったため実現しなかった。
この事故の影響で元マネージャーの香川は一旦立候補を取り下げようとしたが、周囲の励ましがあり出馬し当選した[12]。
没後
[編集]坂本の不慮の死は、日本音楽界・歌手界、そして芸能界にとって大きな損失と言われたほか、福祉界においても大きな損失と言われた。
坂本は前述の「サンデー九」の一環で北海道夕張郡栗山町と交流があったことから、逝去後栗山町に「坂本九思い出記念館」が設立され、関連の展示がなされている。
坂本が主題歌(作詞:山川啓介、作曲:福田和禾子)を歌唱していたNHK教育テレビジョン『たんけんぼくのまち』については、坂本の没後にチョーさん役で番組に出演していた長島雄一が引き継いで歌唱した。なお、坂本の生前は1番のみだったが、長島が2番と3番の歌詞を書き下ろしている。
坂本を記念して命名された、(6980) Kyusakamoto という小惑星がある(発見は1993年、命名は1998年)。小惑星番号の6980を「六八九トリオ」にかけたものである。
坂本が最後に歌った「心の瞳」は、結果的に遺作となってしまったが、横山潤子などによって編曲され、現在では混声3部合唱として主に中学生に歌われている。また、「明日があるさ」は2000年8月より約1年半間にわたりジョージアのコマーシャルに起用され、CMソングを歌ったウルフルズによる『明日があるさ』はオリコン4位を獲得し、出演する吉本興業所属タレント達によるRe:Japanが結成されるといった現象が起き、坂本の楽曲が再び注目されるようになった。
2007年3月4日より、ゆかりの地茨城県笠間市の中心駅である東日本旅客鉄道(JR東日本)常磐線友部駅で「明日があるさ」・「上を向いて歩こう」・「幸せなら手をたたこう」のアレンジが発車メロディとして使用されている。これは、笠間市(旧:友部町)が、坂本が戦時中の学童疎開で滞在し育った街であるということと、駅舎を橋上駅舎に改築したことの記念という意味を込めたものである。さらに2012年7月24日には、常磐線岩間駅の橋上駅舎完成に合わせ、「幸せなら手をたたこう」・「レットキス」の発車メロディを導入している。2014年4月29日には、水戸線笠間駅でも岩間駅と同じ発車メロディが導入された。
2008年12月20日からは、坂本の出生地である神奈川県川崎市の京浜急行電鉄京急川崎駅にて、「上を向いて歩こう」が接近メロディとして使用されている[1]ほか、2016年12月10日からは、JR東日本川崎駅1・2番線(東海道線ホーム)にて、同曲が発車メロディとして使用されている[25]メロディの制作はいずれの駅もスイッチで、編曲は京急側が塩塚博、JR東日本側は福嶋尚哉[26]が担当した。また、日本のサッカーチームの川崎フロンターレのホームゲーム後に「心の瞳」が流れている。
坂本九を演じた俳優
[編集]- 山口達也 - 『上を向いて歩こう 坂本九物語』(テレビ東京系列、2005年8月21日放送)
- 劇中に使われる主演映画のポスターは、オリジナルの坂本の顔を同じ髪型にした山口に差し替えたものである。なお、本作には坂本の次女である舞坂ゆき子が父の姉(舞坂にとっては父方の伯母)にあたる遠藤八千代役で出演している。
- 錦戸亮 - 『トットてれび』(2016年、NHK)
- 林部智史 - 『トットちゃん!』(2017年、テレビ朝日系列)
ディスコグラフィ
[編集]情報は「公式ホームページ」などを参照した。
ダニー飯田とパラダイスキングで発売された楽曲は、ダニー飯田とパラダイスキングを参照。
シングルレコード
[編集]発売日 | レーベル | 品番 | A面 (表題曲) |
B面 (カップリング曲) |
備考 |
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1961.10.15 | 東芝レコード | JP-5083 | 上を向いて歩こう | あの娘の名前はなんてんかな |
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1961.12.01 | JP-5090 | いつもアイラヴユー | シンデレラ |
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1962.04.01 | JP-5102 | 戦場に陽は落ちて | 花咲く街角 | ||
1962.05.01 | JP-5114 | もう一人のボク | 初めてのラブレター |
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1962.08.01 | JP-5141 | ボクの星 | ヒゲの唄 |
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1962.10.01 | JP-5153 | レッツ・ゴー物語 | カマ・カマ・ベイビー |
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1962.11.01 | JP-5170 | 一人ぼっちの二人 | 君なんか君なんか |
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1963.02.28 | JP-1523 | 九ちゃんのツンツン節 | グッドバイ・ジョー |
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1963.05.01 | JP-5217 | 見上げてごらん夜の星を | 勉強のチャチャチャ |
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1963.07 | JP−5083 | 上を向いて歩こう スキヤキ | あの娘の名前はなんてんかな |
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1963.09.01 | JP−5246 | 帰りたい僕 | 刀を抜いて |
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1963.12.01 | JP-5263 | 明日があるさ | 夢を育てよう | ||
1963.12.01 | TR-1039 | 勝利の旗 | ブブンブンブンジャイアンツ |
| |
1963.12.15 | TR-1051 | 困っちゃうよ | かもめのように |
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1964.05.15 | TR-1079 | 幸せなら手をたたこう | 手のひらの唄 | ||
1964.07.15 | TR-1099 | サヨナラ東京 | 君が好き | ||
1964.10.05 | TP-1005 | 夜明けの唄 | もし好きになったら |
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1964.10.05 | TP-1053 | ともだち | 行ってみよう |
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1965.04.15 | TR-1149 | 九ちゃん音頭 | 九ちゃんのツンツン節 |
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1965.04.15 | TR-1150 | 上を向いて歩こう | あの娘の名前はなんてんかな |
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1965.05.15 | TP-1080 | 涙くんさよなら | 真ん中とはじっこ |
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1965.09.05 | TP-1120 | ミーケとマライケ | ガラスの涙 |
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1965.11.05 | TP-1168 | 幸せのうた | 今日も元気で |
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1965.02.05 | TP-1183 | 僕が君なら | 僕と今夜 |
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1966.12.05 | TP-1183 | あした天気になーれ | おーい雲 |
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1966.03.05 | TP-1230 | 口笛だけが | 涙 |
| |
1966.07.05 | TP-1302 | 結構だね音頭 | 下町の青春 |
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1966.08.05 | TP-1317 | 哀しみのバイパス | あの人と? |
| |
1966.09.15 | TP-1351 | レットキス(ジェンカ) | 皆んなで笑いましょ | ||
1966.11.05 | TP-1355 | まあるくなった | しあわせの色 | ||
1967.01.15 | TP-1395 | 夢はどこにある | 街角の歌 |
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1967.03.01 | TP-1410 | 世界の国からこんにちは | これが音楽 |
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1967.05.15 | TP-1466 | さよなら さよなら | セッセで踊ろう |
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1967.06.15 | TP-1482 | エンピツが一本 | うちの大物 |
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1967.10.05 | TP-1537 | 少女 | 夕陽のなかを |
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1967.12.25 | TP-1574 | ラヴ・ラヴ・ラヴ | 久し振りのあなた |
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1968.03.01 | TP-2001 | 窓を開けはなしてみよう | 今日かぎりの恋 |
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1968.05.01 | TP-2009 | 太陽はさんさん | 恋のラベンダー |
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1968.06.21 | TP-2020 | 若者たち | 想い出の砂浜 |
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1968.09.10 | TP-2053 | コングラチュレーションズ | 恋の終り |
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1969.04.01 | TP-2143 | おねがいです | 大人だからサヨナラ |
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1969.06.01 | TP-2166 | 蝶々 | 自動車コブーブーブー |
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1969.07 | TP-2180 | ともだち | 涙くんさよなら |
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1969.08.10 | TP-2193 | 遠い昔の母の胸に | 見上げてごらん夜の星を |
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1969.10.01 | TS-1073 | 自動車コブーブーブー | レットキス(ジェンカ) |
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1969.10.01 | TP-2233 | 誰かと誰かが | 白いラブレター |
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1970.07.05 | TP-2298 | みんなでつくろう | マイ・マイ・マイ |
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1970.12.21 | TP-2364 | わかるだろう | だれも知らない |
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1971.05.05 | TP-2425 | この世のある限り | マドンナ |
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1971.09.25 | TP-2538 | 銀座の夜 | フライパンの歌 |
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1972.02.05 | TP-2614 | 太陽と土と水を | ねんりん |
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1972.06.05 | TP-2598 | ぼくにまかせておくれ | 雨あがり |
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1972.12.01 | TP-2778 | クラップ・ユア・ハンド | 追憶 |
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1973.05.05 | TP-2810 | 夜も昼も | 季節の谷間で |
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1973.12.01 | TP-2810 | 夕やけの空 | めぐる糸車&仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌 |
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1975.04.20 | TP-20109 | 泣きたくなったら空を見よう | 若者は |
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1975.12.01 | TP-20208 | WHY(若者たち) | ELIMO(襟裳岬) |
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1976.01.20 | TP-20218 | うちのお父さん | 東京 |
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1976.10 | TP-20218 | 何かいいことありそうな | その方がいい |
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1976.10.05 | TP-10085 | レットキス(ジェンカ) | 皆んなで笑いましょ |
| |
1976.10.05 | TP-10118 | 上を向いて歩こう | 幸せなら手をたたこう | ||
1978.10.05 | TP-10466 | 自由への旅立ち | 夜のしずく |
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1979.06.20 | TP-10599 | あの時の約束 | そして想い出 |
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1980.04.05 | TP-10698 | 結婚通知 | 夜明け夕焼け |
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1980.11.21 | ETP-17074 | マイタウン・マイハート | トライ・トライ・トライ |
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1982.02.21 | ETP-17288 | 親父 |
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1983.08.21 | TC-19013 | 夢みる子ねこ | 馬のシッポ ぶたのシッポ |
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1983.11.21 | ETP-17543 | ぶっちぎりNO文句 | おとなの童話〜今だからいうけれど〜 | ||
1985.05.22 | ファンハウス | 07FA-1038 | 懐しきlove-song | 心の瞳 | |
1985.09.28 | 東芝EMI | TP-2193 | 見上げてごらん夜の星を | 明日があるさ |
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シングルCD
[編集]発売年月日 | タイトル | 規格品番 | 収録曲 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1988.11.06 | 幸せなら手をたたこう レット・キス(ジェンカ) |
XT10-2269 | 全2曲
|
8センチCD。ベストカップル・シリーズ。 |
1988.11.06 | 上を向いて歩こう 見上げてごらん夜の星を |
XT10-2268 | 全2曲
|
8センチCD。ベストカップル・シリーズ。 |
1994.09.07 | 上を向いて歩こう あの娘の名前はなんてんかな |
TODT-3309 | 全3曲
|
8センチCD。カップリングはオリジナルと同じ。新たに録音された上を向いて歩こうのカラオケ音源を収録。上を向いて歩こうのカラオケ音源は、上柴はじめによる編曲。[注 12]口笛を吹く部分は、口笛の音が入っている。「VERY BEST OF KYU SAKAMOTO」および「メモリアルボックス」と同時発売された。 |
2000.10.25 | SUKIYAKI 2000 Kyu Sakamoto & Maiko |
TOCT-4240 | 全3曲
|
12センチCD。坂本九と愛娘・大島舞子によるデュエットを模して輪唱している。ミレニアム企画として、上を向いて歩こうをテクノ調にアレンジしたリミックス版。 |
2000.12.20 | 明日があるさ | TOCT-4269 | 全2曲
|
「明日があるさ」がCMで起用されたことで、CMで使用されたウルフルズ版のCD化(2001年2月)に先駆けて急遽発売された。 |
2011.07.13 | 上を向いて歩こう | TOCT-22310 | 全5曲
|
坂本九生誕70年、「上を向いて歩こう」発売50年記念シングル。ジャケット写真は青空とオリジナル盤の坂本をカラー化したもの。
アニメ映画『コクリコ坂から』の挿入歌として起用された時期に発売された。 |
2017.12.06 | 心の瞳 | UPCY-5055 | 全3曲
|
新たにコーラスやストリングスを追加した「コーラス・ヴァージョン」(歌&カラオケ)と、横山潤子編曲・相澤直人指揮・あい混声合唱団の歌唱による「合唱ヴァージョン」で収録。ベスト・アルバム「坂本九 ベスト~心の瞳」と同時発売された。 |
アルバム
[編集]30cm・25cm LPレコード
[編集]発売 年月日 |
アルバムタイトル | 規格品番 | 備考 |
---|---|---|---|
1960 | 九ちゃんとパラキン** | JP0-1080 |
|
1961(1961.9 新譜) | 九ちゃんとパラキン 第2集** | JP0-1117 |
|
不詳(1962.3 臨発) | 九ちゃんとパラキン 第3集** | JP0-1171 |
|
不詳(1962.10.20 臨発) | ボクの星 坂本九ヒットソング | JP0-1233 |
|
30cm・33cm LPレコード
[編集]発売 年月日 |
アルバムタイトル | 規格品番 | 備考 |
---|---|---|---|
1963 | 九ちゃんの歌 | TLP-3001(TR-7006) |
|
1964.08 | 九ちゃんの唄 第2集 ゴールデンレコード受賞記念盤 | TR-7003 |
|
1964.12.25 | ミュージカル 見上げてごらん夜の星を | TP-7050 |
|
1966.10.05 | 坂本九リサイタル | TP-7131 |
|
1967.01.15 | 九ちゃん明治を歌う | TP-7156 |
|
1967.07.05 | 九ちゃんのベスト・ヒット・パレード | TP-71947 |
|
1968 | ピーターと狼 PETER AND THE WOLF | AA-7355 |
|
1968.05.01 | 坂本九オン・ステージ | TP-9002 |
|
1968.07.10 | 九ちゃんと歌おう | TP-7331 |
|
1970.05.05 | 坂本九ひっと・ぱれーど | TR-6127~6128 |
|
1972.07.05 | 坂本九 プレスリーを唄う | TP-8176 |
|
1974.12.01 | 坂本九全曲集 | TP-60009 |
|
1975.12.01 | ターニング・ポイント TURNING POINT | TP-72119 |
|
1985.10.19 | 九・メモリアル | JP-80184 |
|
1979.06.20 | 689 | TP-80078 | |
不詳 | ジャパニーズ・グラフティ20 スター・ヒット・キット | ETP-60185 |
|
アルバムCD
[編集]発売 年月日 |
アルバムタイトル | 規格品番 | 備考 |
---|---|---|---|
1985.12.21 | BEST NOW 坂本九 上を向いて歩こう | CA32-1204 |
|
1989.07.12 | BIG ARTIST best COLLECTION 坂本九 | CT25-9042 |
|
1989.09.07 | 坂本九 メモリアル・ボックス 1941-1985 | TOCT-8551 | |
1989.09.07 | VERY BEST OF KYU SAKAMOTO | TOCT-8560 |
|
1993.01.27 | 九ちゃんとパラキンのヒット・キット・パレード** | TOCT-6905・6906 |
|
1998.03.28 | 坂本九・シングルズ KYU SAKAMOTO Singles | TOCT-10259〜60 | |
1998.09.22 | プロコフィエフ ピーターと狼 | TOCE-3482 |
|
2002.06.19 | 坂本九 ゴールデン☆ベスト | TOCT-10851 |
|
2002.06.19 | 音得シリーズ 坂本九 ベスト30 | TOCT-0251 |
|
2004.07.22 | 坂本九シングル全集 | TO-10376 |
|
2004.08.04 | 坂本九メモリアルベスト | TOCT-25439 |
|
2005.03.30 | 九ちゃんとパラキン 第3集 | TOCT-16001 |
|
2005.10.26 | CD&DVD THE BEST 〜上を向いて歩こう | TOCT-25827 |
|
2007.09.10 | ベスト坂本九99 | TOCT-26329-32 |
|
2008.05.17 | 「映画監督舛田利雄の音楽」日活編 上を向いて歩こう〜舛田利雄 meets 中村八大 | CDSOL-1228 | |
2008.09.26 | 九ちゃんの歌 第2集 | TOCT-26675 |
|
2011.10.12 | 689 コンプリート | TOCT-90034-35 |
|
2011.10.12 | ダニー飯田とパラダイス・キング ゴールデン☆ベスト* | TOCT-11287 |
|
2013.06.15 | 6×8 Song Book Vol.1 ~上を向いて歩こう~ | TOCT-29165 |
|
2017.12.06 | 坂本九 ベスト~心の瞳 | UPCY-7456 |
|
企画盤
[編集]発売 年月日 |
アルバムタイトル | 規格品番 | 備考 |
---|---|---|---|
1997.12.10 | 坂本九/トリビュートアルバム | TOCT-10013 | |
2001.07.04 | 明日があるさ | SRCL-5130 | |
2004.09.08 | 心の瞳 | OMCA-3006 |
ソノシート
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
発表 年月日 |
作品名 | 備考 |
---|---|---|
1963 | とってもいい朝だ |
海外盤
[編集]発売 年月日 |
アルバムタイトル | 備考 |
---|---|---|
1963 | Sukiyaki and Other Japanese Hits | キャピトル・レコードにより発売された、ベストアルバム。 |
出演作
[編集]映画
[編集]- 1959年 - 上役・下役・ご同役(東宝)
- 1960年 - 山のかなたに 第1部リンゴの頬 (東宝)
- 1960年 - 山のかなたに 第2部魚の接吻 (東宝)
- 1961年 - 悲しき60才 (大映東京)
- 1961年 - アワモリ君売出す (東宝)
- 1961年 - 喜劇 駅前団地 (東京映画)
- 1961年 - アワモリ君乾杯! (東宝)
- 1961年 - 喜劇 駅前弁当 (東京映画)
- 1961年 - アワモリ君西へ行く (宝塚映画)
- 1962年 - 上を向いて歩こう (日活)
- 1962年 - 九ちゃん音頭 (松竹大船)
- 1962年 - 若い季節 (東宝)
- 1962年 - ひとりぼっちの二人だが (日活)
- 1962年 - バラキンと九ちゃん 申し訳ない野郎たち (松竹大船)
- 1963年 - 九ちゃんの大当りさかさま仁義 (東映東京)
- 1963年 - クレージー作戦 先手必勝 (東宝)
- 1963年 - 九ちゃん刀を抜いて (東映京都)
- 1963年 - ジェリーの森の石松 (東映京都)
- 1963年 - 見上げてごらん夜の星を (松竹大船)
- 1964年 - 男嫌い(東宝)
- 1964年 - 喜劇 陽気な未亡人 (東京映画)
- 1964年 - 万事お金(東宝)
- 1964年 - 幸せなら手をたたこう (大映東京)
- 1965年 - ガリバーの宇宙旅行 (東映動画)※ 劇場用アニメーション作品の声優(主人公テッド)。また劇中での歌唱。
- 1965年 - 調子のいい奴 いたずらの天才 (マナセ・プロ)
- 1965年 - ハイウェイの王様 (マナセ・プロ)
- 1966年 - 坊っちゃん (松竹大船)[1]
- 1967年 - 九ちゃんのでっかい夢 (松竹大船)
- 1967年 - 君は恋人 (日活)
- 1975年 - 吶喊 (喜八プロ=ATG)
- 1975年 - 新八犬伝 第一部 芳流閣の決斗 (芸苑社)
- 1976年 - 泣きながら笑う日
舞台
[編集]- 努力しないで出世する方法(1964年、新宿コマ劇場) - 主演:フィンチ 役
- 君はいい人、チャーリーブラウン(1977年) - 主演:チャーリー・ブラウン 役
CM
[編集]ほか、多数
テレビ
[編集]- 夢であいましょう(NHK総合)
- 若い季節(NHK総合、1961年 - 1964年)
- 教授と次男坊(日本テレビ、1961年)
- 東芝日曜劇場「すりかえ」(TBS、1961年)
- 男嫌い(1963年)
- ぼうや(日本テレビ、1963年) - 坂口一 役
- 7時にあいまショー(TBS、1963年6月8日放送分がビデオおよびDVD化されている。)
- 明日があるさ(日本テレビ、1964年)
- ブラザー劇場「水戸黄門」(TBS、1964年 - 1965年)
- 九ちゃん! → イチ・ニのキュー!(日本テレビ、1966年 - 1969年まで司会)[1]
- フジ三太郎(TBS、1968年)[1]
- 銀河ドラマ「わが歌声の高ければ」[29](NHK総合、1969年) - 榎本健一 役[1]
- マイホーム'70!(1970年、TBS)
- 天下御免(NHK総合、1971年 - 1972年まで出演) - 杉田玄白 役
- キイハンター(TBS)
- 第183話「九ちゃんのスパイ大作戦」(1971年) - サムライ
- 第262話「また逢う日までキイハンター」(1973年)
- まんまる四角(TBS、1973年)
- 連続人形劇・新八犬伝(NHK総合、1973年 - 1975年、黒衣のナレーターで出演)[1]
- 特捜記者(関西テレビ、1973年)
- 第7話「血が足りない」
- 九ちゃんのハッティタウン物語(東京12チャンネル(現・テレビ東京))
- 日曜家族スタジオ(NHK総合、1976年 - 1977年、司会)
- こども面白館(NHK総合、1977年)
- 火曜劇場「名もなく貧しく美しく」(日本テレビ、1980年)
- 壬生の恋歌(NHK総合、1983年)- 坂本龍馬 役
- ふれあい広場・サンデー九(札幌テレビ、1976年 - 1985年まで司会)[1]
- クイズクロス5(テレビ新広島、司会)[1]
- キッチンパトロール(TBS、1975年 - 1985年まで司会)[1]
- スター千一夜(フジテレビ、1979年 - 1981年まで司会)[1]
- スター誕生!(日本テレビ、1981年 - 1982年まで3代目司会)[1]
- なるほど!ザ・ワールド(フジテレビ)
- 1981年 - 1985年まで、由紀子とともに準レギュラー解答者で出演。1985年8月13日放送の200回記念が最後の出演。
- クイズEXPO'70(読売テレビ、1969年10月 - 1970年3月、司会)
- 買ッテ来ルゾト勇マシク(読売テレビ、1973年、司会)
- ジャンボクイズ100対100(フジテレビ、1974年、司会)
- たんけんぼくのまち(NHK教育、1984年、テーマ曲を担当)
- 水曜ドラマスペシャル「早すぎた結婚 遅すぎた恋」(TBS、1985年)
ラジオ
[編集]- 必勝ホームランワイド 有楽町で逢いましょう(ニッポン放送)水曜日
NHK紅白歌合戦出場歴
[編集]年度/放送回 | 回 | 曲目 | 出演順 | 対戦相手 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1961年(昭和36年)/第12回[1] | 1 | 上を向いて歩こう | 21/25 | 坂本スミ子 | |
1962年(昭和37年)/第13回[1] | 2 | 一人ぼっちの二人 | 12/25 | 吉永小百合 | |
1963年(昭和38年)/第14回[1] | 3 | 見上げてごらん夜の星を | 20/25 | 梓みちよ | |
1964年(昭和39年)/第15回[1] | 4 | サヨナラ東京 | 24/25 | ザ・ピーナッツ | トリ前 |
1965年(昭和40年)/第16回[1] | 5 | ともだち | 04/25 | 雪村いづみ | |
1966年(昭和41年)/第17回[1] | 6 | レッツ・キス | 06/25 | 倍賞千恵子 | |
1967年(昭和42年)/第18回[1] | 7 | エンピツが一本 | 14/23 | 中尾ミエ | |
1968年(昭和43年)/第19回[1] | 8 | 世界の国からこんにちは | 21/23 | 水前寺清子 | |
1969年(昭和44年)/第20回[1] | 9 | 見上げてごらん夜の星を(2回目) | 10/23 | 岸洋子 | |
1970年(昭和45年)/第21回[1] | 10 | マイ・マイ・マイ | 04/24 | 日吉ミミ | |
1971年(昭和46年)/第22回[1] | 11 | この世のある限り | 04/25 | ちあきなおみ |
(注意点)
- 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。
- 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。
- 備考のトリ等の次にある()はトリ等を務めた回数を表す
坂本九の持ち歌が紅白歌合戦で他の歌手によって歌唱された例
[編集]- 坂本の死後も、多くの歌手によって坂本の持ち歌が歌い継がれている。
年度/放送回 | 歌手名 | 曲目 | 備考 |
---|---|---|---|
1992年(平成4年)/第43回 | デューク・エイセス | 見上げてごらん夜の星を | |
1995年(平成7年)/第46回 | 南こうせつ | 上を向いて歩こう | 阪神・淡路大震災の被災者へのメッセージの意味を込めた特別企画として歌唱された。 |
2000年(平成12年)/第51回[1] | 出場歌手全員 | 第一部終了後、坂本九の紅白出演時の映像のもと、出場歌手が斉唱した。 | |
2001年(平成13年)/第52回 | ウルフルズ・Re:Japan | 明日があるさ | 「明日があるさ 新世紀スペシャル」のタイトルで、両者がコラボレーションした。 |
2003年(平成15年)/第54回 | 平井堅 | 見上げてごらん夜の星を | 最新技術を用いた坂本の第14回の紅白での歌唱映像との組み合わせで、平井と坂本の映像の仮想デュエットが披露された。 |
2004年(平成16年)/第55回 | 出場歌手全員 | 上を向いて歩こう | 第一部後半において、出場歌手が斉唱した。 |
2005年(平成17年)/第56回 | 布施明、ゴスペラーズ | 企画枠「タイムスリップ60年 昭和・平成ALWAYS」内で歌唱。 | |
2011年(平成23年)/第62回 | 松田聖子・神田沙也加 | 東日本大震災の復興ソングとして、聖子のカウントダウンライブが行われていた東京体育館から中継で歌唱した。 | |
2012年(平成24年)/第63回 | 徳永英明 | ||
2019年(令和元年)/第70回 | Hey!Say!JUMP |
NHKみんなのうた出演歴
[編集]▲はラジオのみでの再放送。△はNHK衛星第2テレビ(現:BSプレミアム)番組『なつかしのみんなのうた』での再放送。
初放送 | 曲目 | コーラス | 再放送 |
---|---|---|---|
1965年(昭和40年)2月 - 3月 | 空をみあげて(おお!みんなで)[30] | 西六郷少年少女合唱団 | 2016年(平成28年)2月 - 3月▲ 2021年(令和3年)4月 - 5月▲ |
1967年(昭和42年)8月 - 9月 | 四人目の王さま | (なし) | 2006年(平成18年)8月29日△ 2006年(平成18年)12月21日△ 2007年(平成19年)1月2日△ 2021年8月[注 14] |
1967年(昭和42年)10月 - 11月 | えんぴつが一本 | 2021年(令和3年)12月▲ | |
1969年(昭和44年)6月 - 7月 | トットトコ[31] | ひばり児童合唱団 | 2015年(平成27年)4月 - 5月▲ |
1969年(昭和44年)12月 - 1970年(昭和45年)1月 |
あしたに賭ける数え歌 | (なし) | 1970年(昭和45年)8月 - 9月 2006年(平成18年)9月5日△ 2006年(平成18年)12月17日△ 2007年(平成19年)1月3日△ 2008年(平成20年)12月 - 2009年(平成11年)1月▲ 2011年(平成13年)4月3日[注 15] 2014年(平成26年)12月 - 2015年(平成27年)1月 |
1983年(昭和58年)8月 - 9月 | 馬のシッポ ぶたのシッポ | 東京放送児童合唱団 | 2010年(平成22年)8月 - 9月 2015年(平成27年)8月 - 9月▲ |
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 金吉は秋田県山本郡芦崎(現三種町)に止宿したとき、霞ケ浦でワカサギ・シラウオ・エビ等が乱獲のため水揚げが減少しているのに八郎潟では豊富であることから打瀬船(うたせぶね)の漁法を地域に伝授し、また、家族を呼び寄せて佃煮原料に加工して東京に送って利益を得た。子供たちは芦崎の小学校を出たが、坂本家は大正年代に川崎に移り住んだ。1970年、父・寛の母校体育館で九は歌い、その後、豪華な舞台用の幕一式を寄贈している。『秋田県の不思議事典』(2002)pp.164-165
- ^ 事故機は反転して高天原山の斜面に墜落したため、坂本が搭乗していた2階席部分は最も強い圧力がかかった。このため、坂本の遺体は胴体部分しか発見されず、DNA型鑑定が確立されていなかった当時は遺留品などで遺体の識別をするしかなかった。
- ^ 同期に飯田久彦、石橋蓮司がいる。
- ^ 坂本の出演は死亡確認当日である16日の放送が最後であった。なお、同番組の司会は翌1986年1月24日放送分までは代理司会を置いて対処したが、31日放送分より妻の柏木が夫の坂本の遺志を継ぐ形で就任した。
- ^ 死去後の同年9月1日に放送され、冒頭で坂本の死去を伝えるアナウンスが流れた。ゲストは欧陽菲菲、生ピアノ伴奏は羽田健太郎。
- ^ 坂本が尊敬していたペリー・コモのヒット曲。
- ^ オンエアされなかったが、アンコールでは「明日があるさ」を披露している。
- ^ 柏木由紀子は著書の中で「夫は日本航空の体質を常日頃から非難しており、それだからいつも全日空を利用していた」と記述している[14]。また、ドラマ『上を向いて歩こう〜坂本九物語〜』で坂本の父・寛を演じた古谷一行によると、生前の坂本本人から「飛行機で怖い思いをした」という話を聞かされたことがあったという[15]。
- ^ 事故当日のダイヤでは、日本航空123便と同時刻・同区間で全日空35便も飛んでいた。なお、この当時は日本航空や全日空のほか、東亜国内航空(後の日本エアシステム。現在は日本航空に統合)も羽田 - 大阪線を運航していたが、坂本がこの路線以外を含めて同社を利用したことがあったのかまでは不明である。
- ^ 後に、永六輔は滞在していた北海道から坂本の法事に向かおうとしたところ、偶然となりに座った女性に「夫が医師で坂本の検死をした」と打ち明けられ、坂本の法事に出席するまで鳥肌が止まらなかったと語っている[要出典]。
- ^ ジャケット写真は1968年4月1日に発売された、規格品番「TP-1625」のものと同一。
- ^ 曲の流れはオリジナルを忠実に再現しているため、編曲は「中村八大・上柴はじめ」とクレジットされている。
- ^ 同時発売されたシングル「心の瞳」と同じバージョン。
- ^ テレビでは『おしゃべりあひる』・『ドラキュラのうた』・『森の熊さん』とまとめて放送(本曲のみフルコーラス、他3曲はメドレー)。ラジオでは『森のくまさん』と放送(双方ともフルコーラス)。
- ^ 『みんなのうたスペシャル 1960'sセレクション』(Vol1)で放送。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an "坂本九 Official Web Site プロフィール". マナセプロダクション. 2019年6月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年7月20日閲覧。
- ^ 『坂本九 トリビュートアルバム』ライナーノーツより。
- ^ 『上を向いて歩こう』(柏木由紀子著) 168-172頁
- ^ “没後30年の坂本九、輝きを失わない歌の魅力とは”. ORICON NEWS. 2022年12月1日閲覧。
- ^ 『上を向いて歩こう』(坂本九著) 33頁
- ^ 『上を向いて歩こう』(坂本九著) 35頁
- ^ 『文藝春秋 レクイエム昭和 輝ける53人最期の時』文藝春秋、2017年、30頁。ISBN 978-4-16-008651-7。
- ^ 「坂本九 海外遠征でドイツ語 1963年」『懐かし動画と世界の言語』2022-12-29
- ^ 朝日新聞 1964年(昭和39年)5月13日記事
- ^ 泣き笑いの人生に幕 榎本健一さん死ぬ『朝日新聞』1970年(昭和45年)1月7日夕刊 3版 9面
- ^ 『自分の中に毒を持て』(岡本太郎著)
- ^ a b c d e f “【日航機墜落事故から28年】 坂本九さんの死とともに〜元マネージャーの静かな夏〜”. 日本webリポート&ニュース. (2013年8月26日). オリジナルの2014年8月26日時点におけるアーカイブ。 2017年8月21日閲覧。 ※ 現在はインターネットアーカイブ内に残存
- ^ 『上を向いて歩こう』(柏木由紀子著) 13頁
- ^ 『上を向いて歩こう』(柏木由紀子著) 184-185頁
- ^ “坂本九没後20年ドラマスペシャル「上を向いて歩こう 坂本九物語」|制作ニュース”. テレビ東京. 2015年2月23日閲覧。
- ^ 「Sports Graphic Number PLUS 桑田佳祐編集長就任!ボウリング場でカッコつけて」 文藝春秋、p38より。
- ^ 『上を向いて歩こう』(柏木由紀子著) 14-15頁
- ^ フジテレビ『8.12日航機墜落30回目の夏 生存者が明かす"32分間の闘い"〜ボイスレコーダーの"新たな声"』(2014年8月12日放送)より。
- ^ 『上を向いて歩こう』(柏木由紀子著) 157-159頁
- ^ 『上を向いて歩こう』(柏木由紀子著) 158-161頁
- ^ a b 『北日本新聞』1985年8月18日付朝刊18面『九ちゃん無言の帰宅 ひつぎに悲しい泣き声』より。
- ^ a b 『上を向いて歩こう』(柏木由紀子著) 155-157頁
- ^ 『上を向いて歩こう』(柏木由紀子著) 162-172頁
- ^ 『北日本新聞』1985年8月19日付朝刊15面『身元確認大幅ダウン 坂本九さん宅など告別式』より。
- ^ “~駅と地域の活性化を目指して~ 川崎駅 東海道線ホーム発車メロディに「上を向いて歩こう」を導入します” (PDF). 川崎市、JR東日本 横浜支社 (2016年12月6日). 2017年4月11日閲覧。
- ^ 株式会社スイッチ. “株式会社スイッチオフィシャルサイト”. 株式会社スイッチオフィシャルサイト. 2019年9月23日閲覧。
- ^ 東芝レコード月報1968年4月発売号 3ページ
- ^ 『農業協同組合』1963年5月号、13頁。NDLJP:1789400/10
- ^ 銀河ドラマ わが歌声の高ければ - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
- ^ 原曲:ロック・マイ・ソウル(Rock my soul)
- ^ 原曲:Jänta å ja(スウェーデン民謡)
参考文献
[編集]- 柏木由紀子『上を向いて歩こう』扶桑社(フジテレビ出版)、1986年4月。ISBN 978-4-89353-079-0。ISBN 4-89353-079-8。
- 岡本太郎『自分の中に毒を持て あなたは“常識人間”を捨てられるか』青春出版社(青春文庫)、1988年1月。ISBN 978-4-413-01456-4。ISBN 4-413-01456-1。
- 坂本九(著) 著、マナセプロダクション 編『人間の記録 141巻 坂本九 上を向いて歩こう』日本図書センター、2001年9月、33-35頁。ISBN 978-4-8205-5972-6。ISBN 4-8205-5972-9。
関連項目
[編集]- 1959年の音楽#デビュー - (ダニー飯田とパラダイス・キングの1員)同じ年にデビューした歌手
外部リンク
[編集]- 坂本九 OFFICLAL SITE(有限会社 坂本九音楽事務所)
- 坂本九 - NHK人物録
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