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増位山太志郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
増位山昇吾から転送)
増位山 太志郎
基礎情報
四股名 瑞竜 → 増位山 昇吾 → 増位山 太志郎
本名 澤田 昇
生年月日 (1948-09-16) 1948年9月16日(76歳)(戸籍上は同年11月16日生まれ)[注 1]
出身 兵庫県姫路市
身長 182cm
体重 116kg
BMI 35.02
所属部屋 三保ヶ関部屋
得意技 右四つ、上手出し投げ内掛け
成績
現在の番付 引退
最高位大関
生涯戦歴 597勝538敗18休(86場所)
幕内戦歴 422勝435敗18休(59場所)
優勝 十両優勝1回
技能賞5回
データ
初土俵 1967年1月場所
入幕 1970年3月場所
引退 1981年3月場所
引退後 年寄・小野川(のち三保ヶ関に名跡変更)
他の活動 歌手(ムード歌謡演歌
趣味 カラオケ・ゴルフ
備考
金星4個(北の富士1個、輪島3個)
2013年11月24日現在

増位山 太志郎(ますいやま だいしろう[1]、歌手活動時は「たいしろう」[2]1948年9月16日[3] - )は、東京都墨田区(大相撲の登録上は兵庫県姫路市)出身の元大相撲力士。本名は澤田 昇(さわだ のぼる)、最高位は東大関。現役時代の体格は身長182cm、体重116kg。血液型はO型。得意手は右四つ、上手出し投げ内掛け

引退後は10代三保ヶ関として三保ヶ関部屋師匠を務めた。現在は歌手ムード歌謡演歌)として活動しており、ゴールデンミュージックプロモーションに所属している。経営する「ちゃんこ増位山」はミシュラン東京2017にて掲載された事がある。

趣味はカラオケゴルフ

来歴・人物

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7代目増位山。大関・増位山大志郎の長男として東京の三保ヶ関部屋で生まれる。生まれも育ちも東京都ではあるが、日本相撲協会発表の出身地は実父と同じ兵庫県姫路市となっており、番付の出身地欄も「兵庫」と記されていた。「増位山」は、先代の出身地である姫路市にある山の名である。

大相撲・現役時代

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小学生の頃から相撲が好きで、入門前から三保ヶ関部屋の大部屋に入り浸る内に力士生活への憧れが芽生えた[4]。中学2年の時に実父に相撲界への入門を志願したが断わられた。しかしどうしても入門したい理由から、「ここで許されないなら他の部屋に入る!」と切り出した為、父親も折れて入門を許し[注 2]1967年(昭和42年)1月場所、瑞竜の四股名初土俵北の湖と同期だった。ちなみに日大一中・一高では水泳部(競泳)に所属し、インターハイ出場の経験もあった[注 3]

三段目にいた1968年(昭和43年)5月場所から父の四股名である増位山を継ぎ、1969年(昭和44年)7月場所新十両と2年余りで関取の座を掴む。1970年(昭和45年)3月場所に入幕したが負傷で何度か往復した。その後上位に進んでは大負けして落ちる繰り返しだったが徐々に三役に定着し5度目の三役昇進となった1979年(昭和54年)9月場所(小結)から相撲ぶりが目立って良くなり、翌11月場所関脇で11勝4敗と三役で初の二桁勝利を達成し、2場所連続で三賞(技能賞)を獲得。

1980年(昭和55年)1月場所は「年齢からみて最初で最後のチャンスかもしれない」[5]と大関昇進に挑む場所となり、初日に対戦成績で18連敗中だった苦手の横綱輪島外掛けで破り[6]勢いに乗った。この場所を12勝3敗で終え、高砂審判部長(元横綱朝潮)は「今場所の十二勝の成績や大関が現在一人である点を考慮する」[7]と述べ、場所後の理事会で増位山の大関昇進が決まった。この前場所から大関は貴ノ花1人しか居ない番付上の状況が増位山には有利に働き、この3場所合計31勝で直近の大関昇進の事例と比較すると勝率で劣ることや、副業(歌手)によるイメージダウンも「反対意見として押し切るには至らないとみられる。」[8]とされた。春日野理事長(元横綱・栃錦)は「増位山は多彩な技の持ち主だから、いかに自分を有利な体勢に持ち込むかが今後の課題だろう。横綱になって強くなった三重ノ海といういいお手本もいることだし、優勝をねらえる大関になってほしい。」[9]とエールを送った。年6場所制が定着した1958年(昭和33年)1月場所以降初土俵の力士では、旭國の28歳11ヶ月を上回る31歳2ヶ月の当時最年長(現在では琴光喜の31歳3ヵ月に次ぐ2番目)、新入幕から所要52場所での昇進は当時の最長記録で史上初の親子大関が実現した。昇進に際し増位山は「今後は栄誉ある大関の地位を汚さぬよう努力していきたい。(中略)ここ三場所は自分の相撲が取れたので、それを忘れず、さらに上(横綱)をめざす気持ちでがんばる。番付ではおやじに追いついたが、本当はまだまだと思っている。」[10]と述べた。

しかし新大関の1980年3月場所は、右ヒジ関節挫傷による怪我で途中休場。場所後に昇進披露宴が行われ、相撲関係者のみならず俳優・歌手など 1500人余りが出席する豪華さと昇進場所での不振ぶりから「一億円の角番披露」と揶揄されるなど話題となった。いきなり大関角番となった翌5月場所は、8勝7敗と勝ち越して角番脱出。その後も2場所連続の9勝6敗と1桁勝ち星がやっとで、1980年11月場所は3勝12敗と大きく負け越した。2度目の角番となった1981年(昭和56年)1月場所は、10勝5敗と増位山自身大関として唯一の二桁勝利を挙げたが、これが大関としての最高成績だった。

1981年3月場所、2連勝の後2連敗したところで左ヒジ痛の悪化を理由に、同3月場所5日目限りで現役引退を表明した(取組相手の予定だった隆の里不戦勝となる[注 4])。

増位山の大関在位は僅か7場所で、「短命大関」としては年6場所制以降、大受(在位5場所・関脇陥落)に次ぐ当時2位の最短記録(現在は御嶽海(在位4場所・関脇陥落)・大受に次ぎ、栃ノ心朝乃山に並び、史上3位タイ)となった。なお、大関の地位で引退した力士では、現在でも増位山が歴代1位である。現役引退後は18代小野川を襲名するとともに、三保ヶ関部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたった。

取り口はふわっとした立合いで相手の突進をそらし、右で廻しをつかむと投げや内掛け・外掛け内無双と多彩な技を繰り出した。中でも相手を引きずるように打つ上手投げ・上手出し投げは増位山独特のものだった[注 5]

23〜50歳くらいまでは1日に150本くらい吸うヘビースモーカーだったのが病気をしてから一切吸えなくなった。

大相撲・親方時代

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1984年(昭和59年)11月に実父である9代三保ヶ関が停年(定年)退職になると、10代三保ヶ関を襲名して部屋を継承した。親方としては、名門・日本大学相撲部で活躍した学生相撲出身者を数多く入門させ、小結濱ノ嶋幕内肥後ノ海十両増健などをはじめ、エストニア出身の把瑠都ロシア出身の阿覧らをスカウトして関取に育てた。一方で先代三保ヶ関と同じく運営方針として所属力士の個人後援会を認めなかったことで吝嗇の傾向を指摘されることもあった。

なお、三保ヶ関部屋からは、2003年(平成15年)12月に11代木瀬が7人の内弟子を連れて分家独立、2006年(平成18年)8月に17代尾上が6人の内弟子(幕内・把瑠都、十両・里山など)を連れて分家独立している。また、父に似たのか多彩な趣味の持主で、絵画は二科展入選の常連である。

11代木瀬とは少なくとも独立の過程で険悪な仲になったようであり、部屋開きの際に10代三保ヶ関は招待状を渡されなかったことで憤慨したと伝わる。そうした経緯もあって大相撲野球賭博問題に揺れていた時期には11代木瀬と10代清見潟が暴力団と交際していることを暴露し[11]、結果としてこの2人は維持員席問題により協会から処分を受けた。

日本相撲協会では、後述のように美声で通る声であるために審判委員を長期間務め、物言いがついた場合場内説明を任されるケースが審判部副部長就任前から多かった。2002年2月に監事(2008年に副理事に改称)に就任し、2012年1月まで5期10年務めた。在任中は審判部副部長を長く務めた。停年退職が近くなったため2012年2月に退任し、最後は役員待遇委員として監察委員会副委員長を務めた。

2013年11月場所限りで65歳の停年退職を迎えたものの、後継者がいないことから同年9月場所限りで三保ヶ関部屋の消滅が決定。三保ヶ関部屋消滅時に所属していた部屋関係者のうち床山だけは北の湖部屋へ、自身を含む親方2人と力士6人、世話人行司各1人、呼出2人は春日野部屋へ、それぞれ10月3日付で移籍した[12]。停年に際して1980年1月場所の初日に輪島を破った一番を思い出の相撲として挙げ「これまで十八連敗中でしたから、輪島関に勝って親子二代で大関昇進も決まりうれしかったです」と語っていた。[13]

ムード歌謡・演歌歌手として

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師匠でもある実父からは「相撲ばかりやっていては幅が出てこないし、色々な芸を経験して一芸に幅や奥行きが生まれる。何でもいいから大相撲以外で懸命にやってみろ」とアドバイスされた事を受け、現役力士時代の頃からムード歌謡・演歌歌手としても活動、レコードを多数リリースしている。1972年(昭和47年)に「いろは恋唄」で歌手デビュー。その2年後の1974年(昭和49年)に発売した海老名香葉子初代林家三平の妻)作詞の3枚目のシングル「そんな夕子にほれました」が120万枚を超える売上を記録し[14]初ヒットとなる[14]1977年(昭和52年)8月に発売した「そんな女のひとりごと」は実に130万枚を超える売上を記録して[14]1978年(昭和53年)に行なわれた「第11回日本有線大賞」では同曲で有線音楽賞とベストヒット賞を獲得した。

リリースしたアルバムの中には、師匠・実父と共に吹き込んだ相撲甚句のレコードもあった。力士が出場する歌番組では審査員も務めたこともある。テイチクレコードに所属してオリジナル曲をはじめ、当時流行のデュエット曲をテイチク所属の女性歌手と組んで多く発表した。現役引退・部屋継承後も歌手活動をしばらく継続し、一時期徳間ジャパンコミュニケーションズに移籍していたが、2009年(平成21年)に再びテイチクに移籍。

本人は現役時代当時、印税のために歌手活動を行っていたわけではないとし、周囲が「増位山は相撲を取らないで歌ばかり歌っている」と勘違いすることに対しては釈然としなかったという[15]。もっとも増位山の大関昇進を諮る理事会で師匠の三保ヶ関は「今後はキャバレーなどで一切歌わせない、レコーディングやテレビ出演は協会の許可を得てからにする」と公約し[10]、協会内に根強かった歌手活動への批判をかわしている。

1985年(昭和60年)から日本相撲協会が親方、力士のレコード発売やCM出演等の副業を原則的に禁止したため歌手活動は行っていなかったが、協会は旧譜の再発売については認めていた。その後、CM出演の再解禁などの副業規制の緩和後に、懐メロ番組に出演したことがある。2007年(平成19年)10月、ともに横綱審議委員会の委員を務める内館牧子作詞、船村徹作曲の「水玉のスカーフ」で歌手として再デビューした。ちなみにカップリング曲は、かつて力士時代にヒット曲を出した経験がある横綱・北の富士とのデュエット「女房に捧ぐ」である。しかし、時津風部屋力士暴行死事件を受け公開レコーディングは中止となった。[16]

さらに2008年(平成20年)2月にはNHK福祉大相撲に出演予定であったが、直前に元時津風親方と現役力士3人が逮捕されたことを受け出演を辞退した。2008年6月、NHK・BS2で放送された『シリーズ 昭和の歌人たち「中山大三郎〜“人生いろいろ”から“珍島物語”〜」』に特別ゲストとして登場、生バンドをバックにかつてのヒット曲「男の背中」をテレビで久々に熱唱した。

2003年(平成15年)頃より通信カラオケシステムDAMの機種改良に伴い、同機種で配信する「そんな夕子にほれました」を初めとする代表曲で背景映像に増位山本人が出演する映像が多く採用されている。「そんな夕子にほれました」では、背景画面に駅での出会いと別れをイメージしたドラマ風なアレンジの中を増位山本人が登場する。

2009年10月27日及び2012年10月11日、『NHK歌謡コンサート』(NHK総合)に出演。2012年6月21日には『木曜8時のコンサート〜名曲!にっぽんの歌〜』(テレビ東京)に出演。

上述の通り2013年11月場所で日本相撲協会を定年退職。同年12月4日、現役時代のしこ名である「増位山太志郎」の名義で、新曲「夕子のお店」の発表会を開催。「これからは歌一本。大相撲では大関止まりでしたが、今後は歌手で横綱を目指します」と改めて歌手として再出発の決意をコメントする[17]。この曲および次作の「冬子のブルース」で、翌2014年12月30日放映の「第56回日本レコード大賞」において企画賞を受賞した。

甘く囁くような歌声が持ち味。ラジオ番組『コサキンDEワァオ!』(TBSラジオ)では「小スケベ声」と呼ばれ、よくネタにされた。

鳩レースも趣味としており、同じくレース鳩の飼育で知られる演歌歌手の同業・新沼謙治と意気投合している(ただし新沼は現在鳩を飼っていない)。2021年8月の報道によるとサックスを趣味としており、1日に4時間から5時間演奏している[18]

主な成績

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  • 通算成績:597勝538敗18休 勝率.526
  • 幕内成績:422勝435敗18休 勝率.492
  • 大関成績:44勝44敗7休 勝率.500
  • 現役在位:86場所
  • 幕内在位:59場所
  • 大関在位:7場所
  • 三役在位:10場所 (関脇4場所、小結6場所)
  • 三賞:5回
    • 技能賞:5回(1972年11月場所、1974年5月場所、1979年9月場所・11月場所、1980年1月場所)
  • 金星:4個(北の富士1個、輪島3個)
  • 各段優勝:十両優勝:1回(1972年1月場所)

場所別成績

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増位山大志郎
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1967年
(昭和42年)
(前相撲) 西序ノ口8枚目
6–1 
東序二段81枚目
4–3 
西序二段41枚目
6–1 
東三段目92枚目
6–1 
東三段目49枚目
4–3 
1968年
(昭和43年)
西三段目38枚目
5–2 
西三段目14枚目
4–3 
東三段目4枚目
5–2 
東幕下46枚目
5–2 
西幕下31枚目
3–4 
西幕下36枚目
5–2 
1969年
(昭和44年)
東幕下20枚目
6–1 
東幕下5枚目
4–3 
西幕下2枚目
6–1 
東十両12枚目
7–8 
西十両13枚目
9–6 
東十両10枚目
9–6 
1970年
(昭和45年)
東十両5枚目
11–4 
西前頭11枚目
7–8 
東十両筆頭
9–6 
西前頭12枚目
7–8 
東十両2枚目
8–7 
西十両2枚目
7–8 
1971年
(昭和46年)
西十両2枚目
9–6 
西前頭11枚目
9–6 
西前頭7枚目
9–6 
東前頭2枚目
3–11–1[注 6] 
東前頭11枚目
1–4–10[注 7] 
東十両7枚目
7–8 
1972年
(昭和47年)
西十両8枚目
優勝
12–3
西前頭13枚目
6–9 
東十両4枚目
9–6 
東十両2枚目
9–6 
東前頭13枚目
10–5 
西前頭4枚目
9–6
1973年
(昭和48年)
西小結
5–10 
西前頭3枚目
5–10 
東前頭10枚目
8–7 
西前頭7枚目
10–5 
東前頭筆頭
6–9 
東前頭5枚目
8–7 
1974年
(昭和49年)
東前頭2枚目
5–10
西前頭7枚目
8–7 
東前頭4枚目
12–3
東小結
8–7 
東小結
5–10 
西前頭4枚目
6–9 
1975年
(昭和50年)
東前頭6枚目
9–6 
東前頭2枚目
8–7
東前頭筆頭
6–9
西前頭4枚目
9–6 
東前頭筆頭
6–9 
東前頭4枚目
6–9 
1976年
(昭和51年)
東前頭7枚目
8–7 
東前頭5枚目
8–7 
東前頭筆頭
5–10 
西前頭5枚目
5–10 
東前頭10枚目
9–6 
東前頭4枚目
6–9 
1977年
(昭和52年)
西前頭7枚目
10–5 
東小結
5–10 
東前頭5枚目
8–7 
東前頭2枚目
8–7 
東前頭筆頭
5–10 
西前頭3枚目
4–11 
1978年
(昭和53年)
西前頭9枚目
8–7 
東前頭6枚目
9–6 
東前頭2枚目
8–7 
東小結
8–7 
東関脇
8–7 
東関脇
6–9 
1979年
(昭和54年)
東前頭筆頭
6–9 
西前頭3枚目
8–7 
東前頭筆頭
6–9 
東前頭3枚目
8–7 
東小結
8–7
西関脇
11–4
1980年
(昭和55年)
東関脇
12–3
東大関
3–5–7[注 8] 
西大関
8–7[注 9] 
西大関
9–6 
西大関
9–6 
西大関
3–12 
1981年
(昭和56年)
西大関
10–5[注 9] 
西大関
引退
2–3–0
x x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

幕内対戦成績

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力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数
青葉城 3 7 青葉山 6 5 朝潮(朝汐) 7 5 浅瀬川 0 2
朝登 2 0 旭國 8 19 天ノ山 3 1 嵐山 1 0
荒勢 7 14 照の山(岩波) 1 0 大潮 5 5 巨砲 5 2(1)
大錦 5 3 大ノ海 1 0 大鷲 7 3 魁輝 10 5
魁傑 11 16 和晃 1 0 北瀬海 5 9 北の富士 2 2
清國 0 3 麒麟児 9 8 蔵間 7 6 黒瀬川 8 1
黒姫山 20 14 高鉄山 2 0 琴風 3 7 琴ヶ嶽 1 2
琴櫻 0 5 琴乃富士 2 2 琴若 0 1 金剛 6 6
蔵玉錦 4 1 佐田の海 1 0 白田山 1 1 大旺 2 1
大峩 1 5 大麒麟 5(1) 5 大豪 2 0 大受 6 11
大雪 1 4(1) 大登(大飛) 1 1 大文字 1 0 大雄 4 2
隆の里 8 6(1) 貴ノ花 12(1) 22 高見山 11 6 谷嵐 2 0
玉輝山 4 3 玉の海 0 1 玉ノ富士 12 11 千代櫻 4 0
千代の富士 4 8 照櫻 2 1 出羽の花 6 4 天龍 5 1
時葉山 3 2 栃赤城 5 4 栃東 6 5 栃勇 1 0
栃王山 1 2 栃光 12 9 栃富士 1 0 羽黒岩 9 7
長谷川 10 6 福の花 7 5 富士櫻 13 13 藤ノ川 1 0
二子岳 6 4 双津竜 7 2 鳳凰 4 1 前の山 2 3
舛田山 5 3 丸山 1 0 三重ノ海 10 19 三杉磯 2 0
陸奥嵐 6 3 豊山 9 10  吉の谷 3 0 義ノ花 1 1
琉王 3 4 龍虎 0 3 若獅子 3 6 若嶋津(若島津) 1 0
若浪 2 2 若ノ海 10 2 若乃花(若三杉) 3 26 若二瀬 4 1
輪島 8 30 鷲羽山 8 9
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。

ディスコグラフィー

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ボールド文字は、通信カラオケシステムDAMの背景映像に本人出演映像が採用されているものを示す。

シングル

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  • レコード
    • 「いろは恋唄」(1972年)
    • 「両国エレジー」(1974年7月)
    • そんな夕子にほれました/恋がたみ」(1974年8月10日、マキシムレコード:発売元はローヤル・レコード、MR-2012)- 作詞:海老名香葉子
    • 「出直さないかもう一度」(1975年)
    • 「雪子/女ひとりに」(1975年)
    • 「誰か夕子を知らないか/いいわけ」(1976年)
    • 「夜霧が泣いている/恋ごよみ」(1976年)
    • そんな女のひとりごと/お前がかわいい」(1977年8月25日、ユニオンレコード、UC-46)
    • 「お店ばなし/ゆきずり」(1978年4月25日、ユニオンレコード、UC-56)
    • そんなナイト・パブ/だから女は泣くのです」(1978年10月25日、ユニオンレコード、UC-76)
    • 「いたわりあい/東京ぐらし」(1979年10月25日、ユニオンレコード、UC-92)
    • 男の背中/愛のさすらい」
    • 「男の真夜中/愛ある別れ」
    • 「釜山港へ帰れ/木浦の涙」
    • 「今度逢えたら/別れたんだね」
    • 「新宿慕情/待たせてごめんよ」(1980年3月8日、ユニオンレコード、UC-102)
    • 「別れたそうね」(1980年8月25日、ユニオンレコード、UC-107)
    • 「大田ブルース/終列車の女」
    • 「とにかく、あした/明日からふたり」
    • 「大大阪音頭/ちょいと大阪」
    • 「女の横顔」(1984年6月)
    • 「昭和流行歌/お馴染さん」(1989年9月25日)-「昭和流行歌」は昭和時代にヒットした歌謡曲のタイトルを組み合わせて、歌詞として構成した楽曲(Mi-Keの「白い2白いサンゴ礁」と似たコンセプト)。
  • レコード/デュエット
    • 「だから今夜は…/あなた任せの私なの」(1979年3月、ユニオンレコード、UC-86)- デュエット:沢田嘉津枝[注 10]
    • 大阪恋めぐり/信じあえたら」- デュエット:日野美歌
    • 「マイク片手にカラオケ人生/私はあなたの涙です」(1983年1月21日、テイチクレコード、UE-536)- デュエット:川中美幸
    • 「夜の恋の物語/こころ酒」- デュエット:長沢薫
    • 「いつか逢う日を夢みて/ゆうがお慕情」- デュエット:秋ゆうこ
    • 「秘そやかに華やかに/だから今夜は」(2012年7月)- デュエット:松居直美
    • 「男と女のオルゴール/想い出さがし」(2013年7月)- デュエット:松居直美
    • 「屋形船」(2014年7月)- デュエット:菊地まどか
  • CDシングル
    • 「男の背中/そんなナイト・パブ」(2006年4月26日) TECA-1077 テイチクエンタテインメント
    • 「水玉のスカーフ/女房に捧ぐ」(2007年10月3日) 作詞:内館牧子 作曲:船村徹 CRCN-1319 日本クラウン
    • 「秘そやかに華やかに/だから今夜は…」増位山太志郎&松居直美(2012年7月25日) TECA-12363 テイチクエンタテインメント
    • 「夢の花 咲かそう/男の舞台」(2013年2月13日) TECA-12410 テイチクエンタテインメント (中村美律子と競作、同時発売)
    • 「男と女のオルゴール(増位山太志郎&松居直美)/想い出さがし(増位山太志郎)」(2013年7月17日) TECA-12459 テイチクエンタテインメント
    • 「夕子のお店/女のきもち」(2013年11月30日) TECA-12485 テイチクエンタテインメント (DVD付 2013年12月11日 TECA-15493) 
    • 「冬子のブルース/この指と〜まれ!」(2014年9月17日) TECA-12545 テイチクエンタテインメント
    • 「男のコップ酒/故郷ごころ」(2016年1月20日) TECA-13649 テイチクエンタテインメント

アルバム

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  • LPレコード
    • 「そんな女のひとりごと」
    • 「オリジナル演歌のすべて そんな夕子にほれました〜そんな女のひとりごと」
    • 「今度逢えたら」
    • 「お店ばなし」
    • 「新宿慕情」
    • 「だから今夜は」
    • 「魅惑の演歌」(2枚組)
    • 「演歌ベスト30」(2枚組)
    • 「ヒット歌謡・艶歌14」(2枚組、1976年)
    • 「増位山 オリジナルベスト・ヒット14」
  • CD、カセット
    • 「増位山太志郎全曲集'92〜男の背中」(1992年1月)
    • 「男の哀愁/増位山ヒット曲集」(1992年5月)
    • 「増位山大志郎 デュエット全曲集」(1994年10月)
    • 「増位山大志郎全曲集」(1997年5月)
    • 「増位山太志郎全曲集〜そんな女のひとりごと〜」(2000年9月)
    • 「増位山太志郎 定番ベスト」(2004年8月)
    • 「男の浪漫〜ベストアルバム〜」(2013年5月)※元大関・琴風(現・尾車親方)の「まわり道」をカバー

テレビドラマ

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  • 大江戸捜査網 第528話「易者は殺しの暗号」(1982年) - 伊之吉役でゲスト出演

CM

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脚注

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注釈

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  1. ^ 明確に同年11月生まれであることを示す報道(日本相撲協会公式サイトも11月16日生まれとしている)三保ケ関部屋が秋場所限りで消滅 横綱北の湖、大関北天佑ら輩出 Sponichi Annex 2013年9月13日 20:20 参照
  2. ^ 『相撲』2013年11月号78頁には具体的に「ウチでやらせてもらえないんだったら、オレは春日野部屋へ行く!」と強い決意を表わしていた様子が記述されていた。実父は当初「数年で芽が出なければちゃんこ屋でもやらせればいい。」という感覚で息子の希望を認めかけたが、実母が「ちゃんこ屋でも…ぐらいの感覚でさせるならば止めて下さい!」と意見したことで、父も本気で関取に育て上げる決意をしたという。
  3. ^ なお、現役中のライバルだった元大関・貴ノ花も中学時代まで水泳をしており、オリンピック日本代表候補の一人でもあった。
  4. ^ なお、5日目の対戦力士・隆の里は、右膝の切開手術のために当初不戦敗・休場する筈だった。だが増位山がのち引退の報告を聞いたため、急遽隆の里は春場所の会場に駆け付け、不戦勝の勝ち名乗りを貰ったという
  5. ^ 『相撲』2013年11月号79頁には「右上手からの技であるからこそ相手の後ろ廻しの結び目の先の細く折られた先端部分を効率的に掴むことができ、威力が高まるのだ。廻しの構造上、左ではそのような掴み方は出来ない。」とその「独特の上手出し投げ」の詳細が説明されていた。
  6. ^ 右胸部挫傷により10日目から途中休場、12日目から再出場
  7. ^ 右足首関節骨折、右下腿部下端骨折により初日から休場、6日目から出場、10日目から途中休場
  8. ^ 右肘関節挫傷により8日目から途中休場
  9. ^ a b 角番(全2回)
  10. ^ 増位山の実妹にあたる。

出典

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  1. ^ 蘇る名大関 増位山太志郎 - goo大相撲
  2. ^ 初共演 NHK歌謡コンサートブログ 2012年10月10日付参照
  3. ^ 増位山が歌手復帰!「不倫にピッタリ」は11月16日生まれとしている。
  4. ^ 増位山太志郎さんが振り返る、2017年の大相撲その4 おすもうさん 2018年1月13日 (2023年3月9日閲覧)
  5. ^ 朝日新聞1980年1月4日付朝刊スポーツ面
  6. ^ 朝日新聞1980年1月7日付朝刊スポーツ面
  7. ^ 朝日新聞1980年1月21日付朝刊スポーツ面
  8. ^ 朝日新聞1980年1月23日付朝刊スポーツ面
  9. ^ 朝日新聞1980年1月23日付夕刊社会面
  10. ^ a b 朝日新聞1980年1月24日付朝刊スポーツ面
  11. ^ スポーツ報知 2010年5月26日
  12. ^ 三保ケ関から阿覧ら6人が春日野部屋へ nikkansports.com 2013年10月3日
  13. ^ 『大相撲ジャーナル』2014年2月号102頁
  14. ^ a b c “美声”の元大関 増位山太志郎さんが感謝する2人の恩師、日刊ゲンダイDIGITAL、2016年8月1日。
  15. ^ <2>「増位山は相撲を取らないで歌ばかり歌っている」と周囲から勘違いされた 日刊ゲンダイDIGITAL 2021/08/17 06:00 (2021年8月18日閲覧)
  16. ^ 22年ぶりも…増位山、時津風暴行事件余波、ZAKZAK、2007年9月28日。
  17. ^ 増位山「歌手で横綱目指す」新曲「夕子のお店」発表スポニチアネックス 2013年12月5日
  18. ^ <1>コロナ禍で運動もしないから1日4、5時間サックスを吹いてます(1/3ページ) 日刊ゲンダイDIGITAL2021/08/03 06:00 (2021年9月1日閲覧)

参考文献

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  • 『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(著者:塩澤実信、発行元:北辰堂出版、2015年)p111-112

関連項目

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外部リンク

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