呂号第五十八潜水艦
表示
(呂58から転送)
艦歴 | |
---|---|
計画 | 大正7年度計画[1] |
起工 | 1921年2月15日[1] |
進水 | 1922年3月2日[1] |
就役 | 1922年11月25日[1] |
除籍 | 1945年9月15日[1] |
その後 | 1945年5月1日予備艦[1] 1945年10月米軍により海没処分 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:889トン 常備:920.1トン 水中:1,102.7トン |
全長 | 72.72m |
全幅 | 7.16m |
吃水 | 3.96m |
機関 | ヴィッカース式ディーゼル2基2軸 水上:2,400馬力 水中:1,600馬力 |
速力 | 水上:17.1kt 水中:9.1kt |
航続距離 | 水上:10ktで5,500海里[2] |
燃料 | 重油:98トン |
乗員 | 46名 |
兵装 | 短8cm高角砲1門 53cm魚雷発射管 艦首4門 魚雷8本 |
備考 | 安全潜航深度:60m |
呂号第五十八潜水艦(ろごうだいごじゅうはちせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。呂五十七型潜水艦(L3型)の2番艦。竣工時の艦名は第四十七潜水艦。
艦歴
[編集]1921年(大正10年)2月5日、三菱神戸造船所で起工。1922年(大正11年)3月2日進水。同年11月25日竣工。竣工時の艦名は第四十七潜水艦[3]、二等潜水艦に類別[1]。 1924年(大正13年)11月1日、呂号第五十八潜水艦に改称。1938年(昭和13年)6月1日、艦型名を呂五十七型に改正[4]。
太平洋戦争では艦齢延長工事を実施し、呉防備隊に配属[5]。日本近海の作戦に従事[1]。終戦時、横須賀で訓練艦。1945年(昭和20年)9月15日除籍。同年10月、清水付近で米軍により海没処分。
歴代艦長
[編集]※艦長等は『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
艤装員長
[編集]- (心得)宮崎平 大尉:1922年4月15日[6] -
艦長
[編集]- (心得)宮崎平 大尉:1922年11月25日[7] - 1922年12月1日[8]
- 宮崎平 少佐:1922年12月1日[8] - 1923年12月1日[9]
- 若林清作 少佐:1923年12月1日 - 1925年12月1日
- 佐藤勉 少佐:1925年12月1日 - 1926年3月1日
- 阿部信夫 少佐:1926年3月1日[10] - 1929年11月1日[11]
- 藤谷安宅 大尉:1929年11月1日[11] - 1932年12月1日[12]
- 永井長太夫(宏明) 少佐:1932年12月1日[12] - 1933年9月1日[13]
- (兼)藤井明義 大尉:1933年9月1日 - 1933年12月1日
- 小林一 少佐:1933年12月1日 - 1934年7月5日
- (兼)原田覚 中佐:1934年7月5日 - 1934年7月16日
- 西野耕三 少佐:1934年7月16日[14] - 1935年7月3日[15]
- 七字恒雄 少佐:1935年7月3日[15] - 1935年11月15日[16]
- (兼)小泉騏一 少佐:1935年11月15日[16] - 1936年2月15日[17]
- (兼)稲田洋 大尉:1936年2月15日[17] - 1936年12月1日[18]
- 入江達 少佐:1937年7月31日[19] - 1938年3月19日[20]
- 井上規矩 少佐:1938年3月19日[20] - 1938年12月15日[21]
- 川崎陸郎 少佐:1938年12月15日[21] - 1939年3月20日[22]
- 稲田洋 少佐:1939年3月20日[22] - 1939年9月1日[23]
- 川崎陸郎 少佐:1939年9月1日[23] - 1940年3月20日[24]
- 吉留善之助 少佐:1940年3月20日[24] - 1940年7月26日[25]
- 日下敏夫 少佐:1940年7月26日[25] - 1940年10月15日[26]
- 吉松田守 少佐:1940年10月15日[26] - 1941年4月28日[27]
- 中島栄 少佐:1941年4月28日[27] - 1941年10月31日[28]
- 田畑直 少佐:1941年10月31日[28] - 1942年1月31日[29]
- 力久松次 少佐:1942年1月31日[29] -
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h 『日本海軍史』第7巻、370頁。
- ^ 『写真 日本の軍艦 第12巻』による。水中航続力は不明。
- ^ 大正13年11月1日付 海軍大臣官房 官房第3305号。
- ^ 昭和13年6月1日付、内令第421号。
- ^ 『日本海軍の潜水艦』146頁。
- ^ 『官報』第2909号、大正11年4月17日。
- ^ 『官報』第3098号、大正11年11月28日。
- ^ a b 『官報』第3102号、大正11年12月2日。
- ^ 『官報』第3385号、大正12年12月4日。
- ^ 『官報』第4053号、大正15年3月2日。
- ^ a b 『官報』第854号、昭和4年11月2日。
- ^ a b 『官報』第1778号、昭和7年12月2日。
- ^ 『官報』第2003号、昭和8年9月2日。
- ^ 『官報』第2262号、昭和9年7月17日。
- ^ a b 『官報』第2550号、昭和10年7月4日。
- ^ a b 『官報』第2663号、昭和10年11月16日。
- ^ a b 『官報』第2735号、昭和11年2月17日。
- ^ 『官報』第2976号、昭和11年12月2日。
- ^ 「海軍辞令公報 号外 第15号 昭和12年7月31日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072100
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)号外 第152号 昭和13年3月19日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073500
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)号外 第273号 昭和13年12月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第316号 昭和14年3月21日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075500
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第375号 昭和14年9月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076300
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第453号 昭和15年3月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077800
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第508号 昭和15年7月26日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072078400
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第543号 昭和15年10月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第630号 昭和16年4月30日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072080900
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第737号 昭和16年10月31日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082900
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第804号 昭和17年1月31日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072084100
参考文献
[編集]- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0462-8
- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。