呂号第六十三潜水艦
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艦歴 | |
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計画 | 大正12年度艦艇補充計画 |
起工 | 1923年4月2日 |
進水 | 1924年1月24日 |
就役 | 1924年12月20日 |
除籍 | 1945年11月20日 |
その後 | 1946年5月 伊予灘で海没処分 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:988トン 常備:1,060.3トン 水中:1,301トン |
全長 | 76.20m |
全幅 | 7.38m |
吃水 | 3.96m |
機関 | ヴィッカース式ディーゼル2基2軸 水上:2,400馬力 水中:1,600馬力 |
速力 | 水上:15.7kt 水中:8.6kt |
航続距離 | 水上:10ktで5,500海里 水中:4ktで80海里[1] |
燃料 | 重油 |
乗員 | 48名 |
兵装 | 40口径8cm単装砲1門 53cm魚雷発射管 艦首6門 魚雷12本 |
備考 | 安全潜航深度:60m |
呂号第六十三潜水艦(ろごうだいろくじゅうさんせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。呂六十型潜水艦(L4型)の4番艦。当初の艦名は第八十四潜水艦。
艦歴
[編集]- 1923年(大正12年)4月2日 - 三菱神戸造船所で起工。当初の艦名は第八十四潜水艦。
- 1924年(大正13年)1月24日 - 進水
- 11月1日 - 呂号第六十三潜水艦に改名。
- 12月20日 - 竣工。
- 1925年(大正14年)4月30日 - 呂64と共に第24潜水隊を編制[2]。
- 1929年(昭和4年)3月10日 - 予備艦となる[2]。
- 1932年(昭和7年)12月1日 - 予備艦となる[2]。
- 1938年(昭和13年)6月1日 - 艦型名を呂六十型に改正[3]。
- 1939年(昭和14年)11月15日 - 第33潜水隊に編入。潜水学校練習艦となる[2]。
- 1941年(昭和16年)12月8日 - 第7潜水戦隊第33潜水隊所属として、クェゼリンを出航[4]
- 1942年(昭和17年)1月7日 - クェゼリン出航。トラックを経由して、ラバウル攻略戦において、セント・ジョージ岬南方の哨戒任務に従事[4]。
- 1月29日 - トラック着[4]。
- 2月18日 - トラック出航。マーシャル諸島方面で活動[4]。
- 2月23日 - ポナペ着[4]。
- 2月24日 - ポナペ出航。横舵が故障し、ビキニへ航行[4]。
- 3月1日 - ビキニ出航。再び横舵が故障[4]。
- 4月3日 - 舞鶴着[4]。
- 6月5日 - 舞鶴出航。サイパン、トラック方面で活動[4]。
- 7月4日 - 横須賀着[4]。
- 7月14日 - 第5艦隊に編入[4]。
- 7月24日 - 北方に派遣となり横須賀を出港[4]。
- 8月4日 - キスカ島に到着。以後、9月まで同方面で活動[2][4]。
- 10月5日 - 舞鶴着[4]。
- 11月6日 - 舞鶴を出港。8日、呉着。練習艦となる[4]。
- 1945年(昭和20年)4月10日 - 佐世保を出港。奄美大島において特殊潜航艇「蛟竜」の母艦となる[4]。
- 1946年(昭和21年)5月 - 米軍により伊予灘にて海没処分[2]。
歴代艦長
[編集]※『艦長たちの軍艦史』464-465頁による。階級は就任時のもの。
艤装員長
[編集]- 平岡粂一 少佐:1924年10月20日 - 12月20日
艦長
[編集]- 平岡粂一 少佐:1924年12月20日 - 1925年12月1日
- 香宗我部譲 少佐:1925年12月1日 - 1926年8月4日[6]
- 関野明 少佐:1926年8月4日[6] -
- 伊藤尉太郎 少佐:1928年1月15日 - 1929年3月10日
- (兼)溝畠定一 大尉:1929年3月10日[7] - 1929年6月29日[8]
- 中岡信喜 大尉:1929年6月29日 -
- 大竹寿雄 少佐:1929年11月30日 - 1931年12月1日
- 清水太郎 大尉:1931年12月1日 - 1934年3月20日[9]
- 山田隆 少佐:1934年3月20日 - 1935年2月28日
- 大谷清教 少佐:1935年2月28日[10] - 1936年2月15日[11]
- 山田薫 大尉:1936年2月15日 - 1937年3月20日[12]
- 稲葉通宗 少佐:1937年3月20日 - 1937年7月31日[13]
- 横田稔 少佐:1937年7月31日 - 1937年11月15日[14]
- 花房博志 少佐:1937年11月15日 - 1938年3月19日[15]
- 稲葉通宗 少佐:1938年3月19日 - 1938年12月15日[16]
- 矢島安雄 少佐:1938年12月15日 - 1939年9月1日[17]
- 田上明次 少佐:1939年9月1日 - 1939年11月20日[18]
- 大平政二郎 少佐:1939年11月20日 - 1940年3月20日[19]
- 井筒紋四郎 大尉:1940年3月20日 - 1940年10月15日[20]
- 日下敏夫 少佐:1940年10月15日 - 1942年2月10日[21]
- 長井勝彦 少佐:1942年2月10日 -
- 南部伸清 大尉:1942年10月15日 -
- 近藤文武 大尉:1943年3月16日 -
- 鈴木勝人 大尉:1943年12月20日 -
- (兼)大谷清教 大佐:1944年2月23日 -
- 竹間忠三 大尉:1944年4月30日 -
- 是枝貞義 大尉:1944年8月5日 -
- 中島万里 大尉:1944年8月20日 -
- 今西三郎 大尉:1944年11月6日 -
- 武富邦夫 少佐:1945年7月30日 -
脚注
[編集]- ^ 『艦長たちの軍艦史』による。
- ^ a b c d e f 『艦長たちの軍艦史』464-465頁。
- ^ 昭和13年6月1日付、内令第421号。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』149頁。
- ^ 『日本海軍史』第7巻、372頁。
- ^ a b 『官報』第4186号、大正15年8月6日。
- ^ 『官報』第657号、昭和4年3月11日。
- ^ 『官報』第750号、昭和4年7月1日。
- ^ 『官報』第2164号、昭和9年3月22日。
- ^ 『官報』第2446号、昭和10年3月1日。
- ^ 『官報』第2735号、昭和11年2月17日。
- ^ 『官報』第3063号、昭和12年3月22日。
- ^ 「海軍辞令公報 号外 第15号 昭和12年7月31日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072100
- ^ 「海軍辞令公報 号外 第91号 昭和12年11月15日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072500
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)号外 第152号 昭和13年3月19日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073500
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)号外 第273号 昭和13年12月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第375号 昭和14年9月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076300
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第405号 昭和14年11月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076900
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第453号 昭和15年3月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077800
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第543号 昭和15年10月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第809号 昭和17年2月10日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072084200
参考文献
[編集]- 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。
- 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9