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呂号第五十六潜水艦 (2代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
艦歴
計画 昭和17年度計画(マル追計画[1]
起工 1943年12月2日[1]
進水 1944年7月5日[1]
就役 1944年11月15日[1]
その後 1945年4月9日爆雷により沈没[2]
亡失認定 1945年4月15日[1]
除籍 1945年5月25日[1]
性能諸元
排水量 基準:960トン 常備:1,109トン
水中:1,447トン
全長 80.50m
全幅 7.05m
吃水 4.07m
機関 艦本式22号10型ディーゼル2基
電動機、2軸
水上:4,200馬力
水中:1,200馬力
電池 1号15型240コ[3]
速力 水上:19.8kt
水中:8.0kt
航続距離 水上:16ktで5,000海里 
水中:5ktで45海里
燃料 重油
乗員 61名
兵装 40口径8cm高角砲1門
25mm機銃連装1基2挺
53cm魚雷発射管 艦首4門
魚雷10本
備考 安全潜航深度:80m

呂号第五十六潜水艦(ろごうだいごじゅうろくせんすいかん)は、日本海軍潜水艦呂三十五型潜水艦(中型)の18番艦。初代については呂号第五十六潜水艦 (初代)を参照。

艦歴

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1942年昭和17年)の昭和17年度計画(マル追計画[1]により、1943年(昭和18年)12月2日、三井玉野造船所で呂号第七十五潜水艦として[要出典]起工。1944年(昭和19年)7月5日、呂号第五十六潜水艦に改名されて[要出典]進水。1944年11月15日に竣工し、二等潜水艦に類別[1]。同日、舞鶴鎮守府籍となり[4]、訓練部隊である第六艦隊第11潜水戦隊に編入された。

1945年(昭和20年)2月10日、第34潜水隊に編入[4][5]

3月18日、呂56は佐伯を出港し、九州南西沖に進出[5]。22日、哨戒区域に到着したとの報告を最後に消息不明となる[1]

アメリカ側記録によると、4月9日、沖縄西方沖で、米機動部隊を護衛中の米駆逐艦マンセン英語版(USS Monssen, DD-798)が820mの距離で潜航中の潜水艦をソナー探知し、爆雷攻撃を行った。その後、米駆逐艦マーツ英語版(USS Mertz, DD-691)が合流し、爆雷攻撃を行った。その後、マンセンの最後の爆雷攻撃で潜水艦を撃沈した[5]。これが呂56の最期の瞬間であり、艦長の永松正輝大尉以下乗員79名全員戦死[2]。沈没地点は沖縄西方45浬地点付近、北緯26度09分 東経130度21分 / 北緯26.150度 東経130.350度 / 26.150; 130.350

4月15日、沖縄南西諸島海域で亡失と認定され、5月25日に除籍された。

歴代艦長

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艤装員長

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  • 不詳

艦長

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  • 永松正輝 大尉:1944年11月15日 - 1945年4月9日戦死[2]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 『日本海軍史』第7巻、376頁。
  2. ^ a b c 『艦長たちの軍艦史』454-455頁、『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』157頁。
  3. ^ 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』72頁。
  4. ^ a b 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』96頁。
  5. ^ a b c 『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』157頁。

参考文献

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  • 雑誌「丸」編集部『ハンディ判 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。
  • 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
  • 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年。
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9

外部リンク

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  • RO-56(英語) - 呂56の艦歴を紹介。