呂号第五十六潜水艦 (2代)
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艦歴 | |
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計画 | 昭和17年度計画(マル追計画)[1] |
起工 | 1943年12月2日[1] |
進水 | 1944年7月5日[1] |
就役 | 1944年11月15日[1] |
その後 | 1945年4月9日爆雷により沈没[2] |
亡失認定 | 1945年4月15日[1] |
除籍 | 1945年5月25日[1] |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:960トン 常備:1,109トン 水中:1,447トン |
全長 | 80.50m |
全幅 | 7.05m |
吃水 | 4.07m |
機関 | 艦本式22号10型ディーゼル2基 電動機、2軸 水上:4,200馬力 水中:1,200馬力 |
電池 | 1号15型240コ[3] |
速力 | 水上:19.8kt 水中:8.0kt |
航続距離 | 水上:16ktで5,000海里 水中:5ktで45海里 |
燃料 | 重油 |
乗員 | 61名 |
兵装 | 40口径8cm高角砲1門 25mm機銃連装1基2挺 53cm魚雷発射管 艦首4門 魚雷10本 |
備考 | 安全潜航深度:80m |
呂号第五十六潜水艦(ろごうだいごじゅうろくせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。呂三十五型潜水艦(中型)の18番艦。初代については呂号第五十六潜水艦 (初代)を参照。
艦歴
[編集]1942年(昭和17年)の昭和17年度計画(マル追計画)[1]により、1943年(昭和18年)12月2日、三井玉野造船所で呂号第七十五潜水艦として[要出典]起工。1944年(昭和19年)7月5日、呂号第五十六潜水艦に改名されて[要出典]進水。1944年11月15日に竣工し、二等潜水艦に類別[1]。同日、舞鶴鎮守府籍となり[4]、訓練部隊である第六艦隊第11潜水戦隊に編入された。
1945年(昭和20年)2月10日、第34潜水隊に編入[4][5]。
3月18日、呂56は佐伯を出港し、九州南西沖に進出[5]。22日、哨戒区域に到着したとの報告を最後に消息不明となる[1]。
アメリカ側記録によると、4月9日、沖縄西方沖で、米機動部隊を護衛中の米駆逐艦マンセン(USS Monssen, DD-798)が820mの距離で潜航中の潜水艦をソナー探知し、爆雷攻撃を行った。その後、米駆逐艦マーツ(USS Mertz, DD-691)が合流し、爆雷攻撃を行った。その後、マンセンの最後の爆雷攻撃で潜水艦を撃沈した[5]。これが呂56の最期の瞬間であり、艦長の永松正輝大尉以下乗員79名全員戦死[2]。沈没地点は沖縄西方45浬地点付近、北緯26度09分 東経130度21分 / 北緯26.150度 東経130.350度。
4月15日、沖縄南西諸島海域で亡失と認定され、5月25日に除籍された。
歴代艦長
[編集]艤装員長
[編集]- 不詳
艦長
[編集]- 永松正輝 大尉:1944年11月15日 - 1945年4月9日戦死[2]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 雑誌「丸」編集部『ハンディ判 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。
- 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
外部リンク
[編集]- RO-56 - 呂56の艦歴を紹介。