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呂号第百十四潜水艦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
艦歴
計画 昭和17年度計画(マル急計画[1]
起工 1942年10月12日[1]
進水 1943年6月19日[1]
就役 1943年11月20日[1]
その後 1944年6月17日爆雷により沈没[1]
亡失認定 1944年7月12日[1]
除籍 1944年8月10日[1]
性能諸元
排水量 基準:525トン 常備:601トン
水中:782トン
全長 60.90m
全幅 6.00m
吃水 3.51m
機関 艦本式24号6型ディーゼル2基2軸
水上:1,000馬力
水中:760馬力
電池 1号15型120個[2]
速力 水上:14.2kt
水中:8.0kt
航続距離 水上:12ktで3,500海里
水中:3ktで60海里
燃料 重油:50トン
乗員 38名
兵装 25mm機銃連装1基2挺
魚雷発射管 艦首4門
53cm魚雷8本
備考 安全潜航深度:75m

呂号第百十四潜水艦(ろごうだいひゃくじゅうよんせんすいかん)は、日本海軍潜水艦呂百型潜水艦(小型)の15番艦。

艦歴

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1942年昭和17年)の昭和17年度計画(マル急計画[1]により、1942年10月12日、川崎重工業泉州造船所[3]で起工。1943年(昭和18年)6月19日進水。1943年11月20日、川崎重工業神戸造船所[3]で竣工し、二等潜水艦に類別[1]呉鎮守府籍となる[4]。25日、訓練部隊である第六艦隊第11潜水戦隊に編入された。

1944年(昭和19年)2月20日、第8潜水戦隊第30潜水隊に編入[4]

3月11日、呂114はを出港し、南西諸島方面で対潜水作戦に従事[5]。その後、呉に戻った。3月25日、第30潜水隊の解隊に伴い、第7潜水戦隊第51潜水隊に編入。

6月1日、呂114は呉を出港し、佐伯に移動。4日、佐伯を出港し、サイパンに移動。11日、サイパンを出港しサイパン周辺海域に進出[5]。同年6月12日、哨戒区域に到達したとの報告を最後に消息不明[1][5]

アメリカ側記録によると、サイパンの戦いを支援中の米駆逐艦メルヴィン(USS Melvin, DD-680)、ワドレー英語版(USS Wadleigh, DD-689)が潜水艦を探知。2隻は爆雷攻撃を行い、潜水艦を撃沈した[1][5]。これが呂114の最期の瞬間であり、艦長の阿多義広大尉以下乗員55名全員戦死[6]。沈没地点はテニアン島西方80浬地点付近、北緯15度02分 東経144度10分 / 北緯15.033度 東経144.167度 / 15.033; 144.167

7月12日、サイパン付近で亡失と認定され、8月10日に除籍された。

歴代艦長

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艤装員長

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  • 不詳

艦長

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  • 河島守 大尉:1943年11月20日 - 1944年4月30日[6]
  • 阿多義広 大尉:1944年4月30日 - 6月17日戦死[6]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 『日本海軍史』第7巻、379頁。
  2. ^ 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』73頁。
  3. ^ a b 『写真日本海軍全艦艇史』資料篇「主要艦艇艦歴表」18頁。
  4. ^ a b 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』98頁。
  5. ^ a b c d 『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』163頁。
  6. ^ a b c 『艦長たちの軍艦史』461頁、『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』163頁。

参考文献

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  • 雑誌「丸」編集部『ハンディ判 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。
  • 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
  • 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年。
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9