呂号第三十潜水艦
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(呂30から転送)
艦歴 | |
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計画 | 大正7年度計画[1] |
起工 | 1921年6月27日[1] |
進水 | 1923年1月18日[1] |
就役 | 1924年4月29日[1] |
除籍 | 1942年4月1日[1] |
その後 | 戦後に解体[2] |
性能諸元 | |
排水量 | 常備:852.3トン 水中:886.4トン |
全長 | 74.22m |
全幅 | 6.12m |
吃水 | 3.73m |
機関 | ズルツァー式[3]ディーゼル2基 電動機、2軸 水上:1,200馬力 水中:1,200馬力 |
速力 | 水上:13kt 水中:8.5kt |
航続距離 | 水上:10ktで9,000海里[4] 水中:4ktで85海里 |
燃料 | 重油 |
乗員 | 44名 |
兵装 | 12cm単装砲1門 53cm魚雷発射管 艦首4門 魚雷8本 |
備考 | 安全潜航深度:45.7m |
呂号第三十潜水艦(ろごうだいさんじゅうせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。呂二十九型潜水艦(特中型、海中5型)の2番艦。竣工時の艦名は第六十九潜水艦。
艦歴
[編集]1921年(大正10年)6月27日、川崎造船所で起工。1923年(大正12年)1月18日進水。1924年(大正13年)4月29日竣工。竣工時の艦名は第六十九潜水艦、二等潜水艦に類別[1]。1924年(大正13年)11月1日、呂号第三十潜水艦に改称。1938年(昭和13年)6月1日、艦型名を呂三十型に改正[5]。1942年(昭和17年)4月1日に除籍。戦後に解体された。
速力が13ノットに留まり、鎮守府の警備艦に配属された[6]。
歴代艦長
[編集]※艦長等は『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
艤装員長
[編集]- (心得)吉富説三 大尉:1923年2月1日 - 1924年4月29日
艦長
[編集]- (心得)吉富説三 大尉:1924年4月29日 - 12月1日
- 吉富説三 少佐:1924年12月1日 - 1925年12月1日
- 矢野美年 大尉:1925年12月1日[7] - 1929年3月6日[8]
- 嘉村嘉六 少佐:1929年3月6日[9] - 1929年11月1日[10]
- 溝畠定一 大尉:1929年11月1日[10] - 1931年4月1日[11]
- (兼)田村礼三 大尉:1931年4月1日[11] - 12月1日[12]
- 山田隆 大尉:1931年12月1日 - 1934年3月20日
- (兼)江見哲四郎 大尉:1934年3月20日 - 11月1日
- (兼)中川肇 大尉:1934年11月1日[13] - 1934年12月15日[14]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 『日本海軍史』第7巻、369頁。
- ^ 『写真日本海軍全艦艇史』資料編「主要艦艇艦歴表」17頁。
- ^ SULZER社。英語読みではスルザー。
- ^ 実際の航続距離は10ktで9,000海里だが、公式発表では10ktで6,000海里と前型と同一ということになっている。
- ^ 昭和13年6月1日付、内令第421号。
- ^ 『日本海軍の潜水艦』33頁。
- ^ 『官報』第3982号、大正14年12月2日。
- ^ 『官報』第654号、昭和4年3月7日。
- ^ 『官報』第654号(昭和4年3月7日)では「第三十四」と記載されたが、『官報』第655号(昭和4年3月8日)で「第三十」と訂正された。
- ^ a b 『官報』第854号、昭和4年11月2日。
- ^ a b 『官報』第1275号、昭和6年4月2日。
- ^ 『官報』第1478号、昭和6年12月2日。
- ^ 『官報』第2353号、昭和9年11月2日。
- ^ 『官報』第2389号、昭和9年12月17日。
参考文献
[編集]- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0462-8
- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。