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南部守行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
南部守行
時代 南北朝時代 - 室町時代中期
生誕 正平14年/延文4年(1359年
死没 永享9年4月9日1437年5月13日
改名 守行、禅高(号)
別名 左馬権守、大膳大夫
氏族 三戸南部氏
父母 南部政行
兄弟 守行葛西詮清
義政政盛助政久慈威信(大浦則信)
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南部 守行(なんぶ もりゆき)は、南北朝時代から室町時代中期にかけての武将三戸南部氏13代当主。初め左馬権守、後に大膳大夫を称したとある。

略歴

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12代当主・南部政行の子とされる。

関東管領に従い、陸奧北部を鎮し、秋田合戦及び気仙や遠野方面にも出陣したと伝えられる。老後、剃髪入道して禅高法師と号したという。

南北朝時代の争乱の後、北朝と合一するにおよんで、奥州では三戸南部氏が抬頭し、足利氏と協調して、陸奥北部の優勢な大名となった。このように奥州の南部一族の内部ではその一党家臣は、何れも三戸南部氏に統率され、その指示に従っていた。

応永の頃の四方の情勢は、南方志和郡には、高水寺城に足利氏一族の斯波氏が来往し、公方一族をもって志和御所と称し、その隣接地には、従来のごとく稗貫氏和賀氏が存在している。閉伊郡には宮古の閉伊氏、遠野の阿曽沼氏がいるが、殆ど南部氏の被官的存在であった。さらに南方には強力な葛西氏がいた。岩手郡には厨川工藤氏滴石戸沢氏も被官的地頭に過ぎなくなっていた。また、津軽・出羽方面にも勢力を張っていたが、津軽安藤氏一族と敵対中であったが、南は岩手郡から、北は外ヶ浜まで、南部氏の勢力圏であり、この情勢は守行の代からと知られる。 永享9年(1437年)、大槌氏が阿曽沼氏を攻めた際、守行は阿曽沼氏を支援して大槌城を攻撃したが、敵の流れ矢に当たって戦死したと言う。享年79。

参考文献

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  • 『岩手県史 第三巻 中世篇 下』岩手県、1961年10月20日。