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南部直房

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
南部直房
南部直房像
時代 江戸時代前期
生誕 寛永5年(1628年
死没 寛文8年8月24日1668年9月30日
改名 中里直好→南部直房
別名 通称:数馬
官位 従五位下左衛門佐
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱
陸奥八戸藩
氏族 南部氏
父母 南部利直仙寿院
兄弟 家直政直重直利康重信利長直房、七姫、北直愛室、東胤政
正室:なし
側室霊松院
直政直常市橋政勝正室
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南部 直房(なんぶ なおふさ)は、江戸時代前期の大名陸奥国八戸藩の初代藩主。官位従五位下左衛門佐。盛岡藩主・南部利直とその側室・仙寿院の子[1]。八戸立藩以前は、母方の姓の中里直好(中里数馬)を名乗った[1]

生涯

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寛永5年(1628年)、陸奥盛岡藩の初代藩主・南部利直の7男として誕生。

寛文4年(1664年)、兄で盛岡藩2代藩主・南部重直が跡継ぎを決めないまま死去すると、盛岡南部家では御家断絶および領地没収の可能性が濃くなった。生前の重直は幕府による裁定を願い出ており、幕命により重直の異母弟、七戸重信(七戸隼人正)と中里直好(中里数馬)は江戸に上り、裁定を受けた。盛岡藩10万石を分け、8万石を七戸重信が相続し盛岡藩を存続させ、2万石を直好に与えて八戸藩を立藩することとなった[1]。立藩を機に直好は、南部直房と改名した[1]

寛文8年(1668年)、死去。享年41。

死因は病死であるとされているが、「逆恨みをした盛岡藩の陰謀による暗殺」とする説もあり、当時既に幕府からも調査が入っている。この幕府の調査以降、盛岡藩はわざわざ「八戸藩は分家ではない。独立した対等の立場」と表明している。

跡を長男・直政が継いだ。直政もまたその死因に盛岡藩による暗殺の噂がある。

系譜

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父母

側室

子女

脚注

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  1. ^ a b c d e 佐々木 勝宏. “八戸のお殿様と夫人のゆかりの地”. 岩手県立博物館だより No.130. 2022年5月15日閲覧。

参考文献

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