利用者:Sinhako/自公連立政権
利用者:Sinhako 2017-08-19 の投稿より転記
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自公連立政権(じこうれんりつせいけん)は、日本の政権の一つ。自由民主党と公明党による連立政権である。
便宜上、1999年(平成11年)10月5日から2009年(平成21年)9月16日までの連立政権を第一次連立政権、2012年(平成24年)12月26日から現在も継続中の連立政権を第二次連立政権とする。
概要
[編集]1999年(平成11年)10月5日、小渕第2次改造内閣の下で自由民主党と公明党が連立し、衆議院及び参議院で過半数の議席を制した状態を指す。当初は自由党(2000年(平成12年)4月1日まで)、保守党(2000年(平成12年)4月1日から2003年(平成15年)11月21日まで。ただし2002年(平成14年)12月25日に保守新党に改称)も参加していた自自公連立、自公保連立だったが、2003年に保守新党が自民党に吸収される形で消滅し、第2次小泉内閣から自公連立になった。
歴史
[編集]前史
[編集]自民党の55年体制時代
[編集]1955年(昭和30年)に始まった55年体制の段階では公明党は中道であり、親自民と非自民の狭間を揺れていた。選挙に勝てば日米安保・自衛隊に賛成、負ければ反対と、特に外交・防衛政策で立場の不鮮明が目立った。また、支持母体である創価学会においても、壮年部が親自民もしくは自公民路線、婦人部と青年部が非自民もしくは社公民路線を支持するなど内部の路線対立も存在していた。
1970年(昭和45年)に、創価学会の一部会員が起こして問題となった言論出版妨害事件における問題を契機に公明党と田中角栄(自民党田中派)と良好な関係を構築、田中派が竹下派へ移行した後も、公明党の矢野・竹入・市川といった党幹部と自民党竹下派の議員との個人的なパイプが構築されていった。
55年体制崩壊
[編集]1992年(平成4年)の竹下派(経世会)分裂に端を発し、翌1993年(平成5年)の第40回衆議院議員総選挙で自民党は過半数割れした。公明党は、自民党を飛び出して新党を結成した小沢一郎等とともに細川連立政権へ参画し、自民党の一党優位体制が崩壊。さらに翌年の1994年(平成6年)に、公明党は新進党へ合流する。一方で下野した自民党は創価学会・公明党への攻撃姿勢を全面に出し、1994年(平成6年)には有志議員における勉強会憲法20条を考える会を結成。その後、自民党は日本社会党と手を結んで政権を奪還したが、1995年(平成7年)7月の第17回参議院議員通常選挙で村山富市政権の与党である自民党・社会党・新党さきがけは大きく議席を減らした。この時、自民党を初めとする与党は新進党を構成する旧公明党の支持母体である創価学会に対する攻撃を展開した[1]。宗教法人法の改正に伴い、創価学会の実質的な最高指導者である名誉会長・池田大作の証人喚問を要求し、週刊誌に掲載された池田のレイプ疑惑を追及、自民党の機関誌「自由新報」に継続的に掲載し、反創価学会キャンペーンと呼ばれるまでに至った。
そんな中で行われた1996年(平成8年)の第41回衆議院議員総選挙で新進党が政権交代に失敗すると、新進党内では権力争いや自民党からの引き抜き工作の影響で崩壊寸前にまで至った。追い打ちをかけるように旧公明党の参院・地方議員を中心とする政党「公明」が新進党へ合流せず、1998年(平成10年)の第18回参議院議員通常選挙に独自で臨む事を決定。これを受けて1997年(平成9年)12月31日、新進党は自由党・改革クラブ・新党平和・新党友愛・黎明クラブ・国民の声の6党に分党することになった。
第一次連立政権の発足
[編集]公明党の連立参画
[編集]自民党は1998年(平成10年)7月の第18回参議院議員通常選挙で前回の改選前の61から45に大幅に議席を減らした。この選挙の敗北の責任を取り橋本内閣が総辞職し、同月30日に小渕内閣が成立した。8月中旬、竹下登元首相は創価学会の秋谷栄之助会長と秘密会談を行い、創価学会の協力を取り付けた[1]。
政権運営に行き詰まった自民党はまず自由党との連立協議に入り、1998年(平成10年)11月、自自連立の基本合意が首相・小渕恵三と自由党代表・小沢一郎の間で取り交わされた。同年11月7日、旧公明党系の「新党平和」・「黎明クラブ」・「公明」が合流し、「公明党」を再結成。この際、代表の神崎武法は「自民党の補完勢力にはならない。自公連携、自公連立は考えていない」との考えを表明していた[1]。
自民党はこうした不安に配慮した。自民党にとっては、自由党との連立のみでは参議院の過半数には足りず、過半数、さらには安定多数を確保するためには、公明党の議席と創価学会の持つ組織票が頼みの綱だったのである。1998年(平成10年)11月、自民・公明両党は、公明党が景気対策として主張していた地域振興券を補正予算案に盛り込むことで合意。1999年(平成11年)3月には問題発言などで公明党が辞任を求めていた法務大臣の中村正三郎を事実上更迭した。他方、公明党は11月15日投開票の沖縄県知事選挙で従来行っていた革新候補(大田昌秀)の支持を取りやめ、表向きには「大田昌秀氏支持を基軸に自主投票」としつつ、実質的に保守(自民)候補の稲嶺恵一を支援し、稲嶺が当選した。
1999年(平成11年)1月14日、自民党と自由党の連立政権が発足。公明党もいまだ名目上は野党ながら、周辺事態法、国旗・国歌法、通信傍受法、住民基本台帳法改正など、政府・与党の重要法案に次々と協力し、与党入りの足場固めをした。
同年10月5日、自民党の小渕内閣との自自連立に正式参加。自自公連立政権が誕生した。これ以降森内閣・小泉内閣・第1次安倍内閣・福田康夫内閣・麻生内閣、そして、自民党が政権を奪還した第2次安倍内閣・第3次安倍内閣においても公明党は自民党との連立政権を維持した。
第一次連立政権発足の政権運営
[編集]自自公から自公保へ
[編集]自自公連立政権が発足した後、自民党は自由党の処理に困っていた。仮に自由党が離れても、公明党の連立政権参加によって衆参で過半数を維持できたことに自信を深め、連立政権の合意に盛り込まれた消費税の福祉目的税化などについて、自民党が協議に応じる気配は一向になかったからである。危機感を強めた小沢は小渕に連立合意の実行に加えて、自民、自由両党の解党による政界再編を迫った。しかし、小渕はこれを受け入れるには至らず、2000年(平成12年)4月1日の党首会談後、自由党は連立を離脱した。連立離脱に反対した自由党所属の議員は、扇千景を党首として保守党を立ち上げ(2002年(平成14年)に保守新党へ変更)、自公保連立政権が成立した。また同年4月1日、小渕が脳梗塞に倒れた。
自公保連立政権となった後に行われた第42回衆議院議員総選挙では、自民党・公明党・保守党それぞれが議席を減らすも連立政権として過半数を維持した。
小泉フィーバーから自公連立へ
[編集]2001年(平成13年)、第1次小泉内閣が誕生すると、小泉純一郎の人気に推されて自民党人気が復活。軒並み選挙では小泉人気に比例し勝利を重ね、自民党と公明党は議席を伸ばした。一方で保守新党は議席を減らし、2003年(平成15年)11月、自民党に吸収される形で解散、自公連立政権となる。2005年(平成17年)、郵政民営化を巡る争いで衆議院が解散、第44回衆議院議員総選挙が行われ、自民党は大勝したが公明党は逆に議席を減らす結果になった。
第45回衆院選大敗と民主党への政権交代
[編集]2006年(平成18年)、第1次安倍内閣が誕生すると自民党は、年金記録問題や閣僚のスキャンダルが相次ぎ、その逆風を公明党もまともに受けた。2007年(平成19年)の第21回参議院議員通常選挙では自民党・公明党が議席を大きく減らし、民主党に参議院での比較第1党を許した。選挙後、首相の安倍晋三と公明党代表の太田昭宏はともに代表辞任を否定した(後に安倍は持病の潰瘍性大腸炎が悪化して辞任)。公明党は、選挙区で落選者を出し2勝3敗と負け越したため、支持母体の創価学会より執行部への責任論が浮上、支援者から責任を取れ、辞任しろという厳しい声まで上がった[2]。
その後も自民党と公明党は連携して政権を運営するが、安倍おろし・福田おろし・麻生おろしなど、自民党内の権力闘争の問題から自民党の支持率が低下すると、公明党は早期解散を希望するようになる。
任期満了に近い状態で2009年(平成21年)8月に行われた第45回衆議院議員総選挙では、自民党・公明党ともに大敗。民主党・社会民主党・国民新党による民社国連立政権の成立を許すことになった。同年9月16日に麻生内閣は総辞職し、自自公、自公保を含め、約10年間にわたる連立に終わりを告げた。総選挙で落選した太田は当初代表続行を宣言したが連立内閣樹立直前の9月8日付けで公明党代表を退き、後任には政調会長の山口那津男が就いた。
第46回衆院選大勝と第二次連立政権の成立
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
2012年(平成24年)12月16日の第46回衆議院議員総選挙において民主党は大敗、自民党が再び第1党となった。同月25日、自由民主党総裁・安倍晋三は公明党代表・山口那津男と連立合意文書を交換。自公連立政権が3年3ヶ月ぶりに復活する事になり、12月26日、第2次安倍内閣が発足した。
与党関係
[編集]自由民主党の立場
[編集]自由民主党(自民党)は政権与党になった際はいずれの場合も最大多数派政党であり、自公連立政権においても主導的立場にある。
自公連立政権ではいずれの内閣においても、内閣総理大臣には自民党総裁が就任し、国務大臣の大半が自民党所属の議員である。
公明党の立場
[編集]公明党は連立政権内で国務大臣ポストを1人分充てられることが慣例となっている。
公明党は「政権のブレーキ役」を自任する一方、特定秘密保護法の成立などを見ても、自民党が主張する政策・法案の成立に大きく協力しており、「自民党の補完勢力」になっているとの指摘がある[3]。
自公連立政権誕生以来、公明党は自民党と対立しても最後は自民党の主張を大筋で受け入れることが多いため、「下駄の雪」と言われることもあるが、これについて公明党代表の山口那津男は、「公明党の役割を下駄に例えれば、鼻緒の役目を負っていると思う。鼻緒が切れれば、下駄は使い物にならない。単なる下駄の雪というのは極めて実態を見ない言い方だ」と反論している[4][5]。
2010年代からは国政・地方選挙の応援運動を活動の主軸とした代表の山口に代わって、副代表の北側一雄が与党協議の前面に出る例が増えている[6]。
連立政権への批判
[編集]選挙
[編集]選挙協力の名目で自民党の候補者の後援会名簿が創価学会側に渡ったことがあり、自民党選挙対策関係者や支持者がショックを受け、嘆いたという報道もあった[1]。2000年の第42回衆議院議員総選挙では、東京17区で自民党公認の平沢勝栄が公明党公認の山口那津男を下した[7]。連立政権の期間中、小選挙区における自公の直接対決はこの一度だけである(2005年(平成17年)に自民党を離党した八代英太と公明党の太田昭宏の直接対決はあった)。平沢に敗れた山口はその後、参議院東京選挙区に鞍替えした。
政策
[編集]公明党は連立樹立前には「福祉の党」、「平和の党」を訴え、自民党の暴走を防ぐブレーキの役割を果たすと主張している[8]。
自公連立政権で成立、改正した主な法律
[編集]以下は自自公、自公保連立政権時代に成立したものも含む。
- 組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律
- 「新・日米防衛協力のための指針」関連法
- 住民基本台帳法(改正)
- 国旗・国歌法
- 通信傍受法
- 後期高齢者医療制度に関する法律(高齢者の医療の確保に関する法律)
- 国会法(改正)
- 国籍法(改正)
- 障害者自立支援法
- 国民投票法
- 教育基本法(改正)
- 防衛省設置法(および改正)
- 国家公務員法(改正)
- 特定秘密保護法
- マイナンバー法(および改正)
- 労働者派遣法(改正)
- 公職選挙法(改正)
- 平和安全法制
- 我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律(平和安全法制整備法)
- 国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律(国際平和支援法)
- 組織犯罪処罰法(改正)
脚注
[編集]- ^ a b c d 山田直樹 『創価学会とは何か』(新潮社 2004年4月15日)ISBN 978-4104673018
- ^ 週刊ポスト2007年8月27日号、週刊新潮2010年8月30日号等
- ^ “公明、補完勢力化進む 持論より自民に配慮 秘密保護法案”. 朝日新聞DIGITAL. (2013年12月5日) 2015年4月29日閲覧。
- ^ “公明・山口代表「軽減税率実行に役割」(党首に聞く)”. 朝日新聞DIGITAL. (2014年11月27日) 2015年4月29日閲覧。
- ^ “「公明は『げたの雪』ではない。『げたの鼻緒』だ」党首インタビュー(4)公明・山口代表(4/4ページ)”. 産経ニュース. (2014年12月6日) 2015年4月29日閲覧。
- ^ 集団的自衛権の一部行使解禁の協議においても、与党協議の場に現れ、「北側3原則」を提示するなどした。
- ^ 1996年にも同様の対決があり、平沢が山口を下していた
- ^ 「自民暴走ならブレーキ役に」 公明・神崎代表朝日新聞2005年9月17日
関連項目
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