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利用者:Quark Logo/sandbox1織田氏(一部)

弾正忠家(勝幡織田氏)

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『信長公記』で法名で西巌とされる。これを諸系図では織田敏定(一部では敏信)と推定するが、近年の研究で織田良信とするのが定説となりつつある。ただし良信の父が誰であるか、織田敏定または敏信とするなど、系図のどこに入るのかは確定されていない。
  2. ^ 信長の養女として嫁いだ。
  3. ^ a b c d e 『系図纂要』のみに書かれている。
  4. ^ 信長の姉とされるが、多くの史料では信秀の娘として数えられていない。これは信定の孫ではなく娘という名目で重長のもとに嫁されたためと思われる。母は林秀貞の大叔母。嫁したのは大永4年(1524年)であるいうので、恐らく最初の子で、長女である。
  5. ^ 『系図纂要』のみに書かれている庶長子。
  6. ^ 『系図纂要』のみに書かれている。亀千代。見性寺2世。
  7. ^ 名は「信貞」とも。また前述のように父は織田敏定ともする。
  8. ^ a b 諱は「秀俊」ともいう。安房守を称す。信康の養子。信時は信廣とは同腹で、信長の弟ではなく庶兄であるという説もある。信秀の五男ないし六男とされるが、庶兄ならば次男であろう。
  9. ^ 生年を永禄元年とする説があり、長女ともいう。
  10. ^ a b 生年に異説があり、四男または五男。おつやの方を後見として遠山景任の後を継ぐ。後に武田信玄のもとで養われる。
  11. ^ 信秀の八男とされるが、四男とされる信包よりも年長である。
  12. ^ 越中守を称す。秀成の兄。二俣城中根忠貞の養子となり、通称で織田中根、中根越中とも。
  13. ^ 良甫とも。采女、左馬助。僧。
  14. ^ 系図上は信秀の長女とされるが、出産の時期や回数から考えて、信長よりも年少であると考えられ、妹にあたるという説が有力。
  15. ^ 諸系図では信秀の二女とされる。信長の姉ともいう。
  16. ^ 系図上は信秀の三女。年齢など一切不明だが、秀龍は道三を指すと考えられているので、この女性も信長より年長かもしれない。
  17. ^ 信秀の四女という。甲斐武田氏最後の当主武田信勝の祖母。
  18. ^ 信長の養女となって武田勝頼に嫁いだ。
  19. ^ 系図上は信秀の六女。
  20. ^ 信長の五女とされるが、実は養女。赤松氏。
  21. ^ 系図上は信秀の七女。
  22. ^ 信長の六女。
  23. ^ 信長の七女。
  24. ^ 信長の八女。
  25. ^ 美濃国嶋村に住して嶋氏(島氏)を名乗る。信正は織田信雄の家臣として名が見える。子の島信重(嶋信重)、島一正(嶋一正)は簗田広正の家臣から、佐久間信盛の与力に転じ、その追放後に信長に仕え、本能寺の変後は秀吉に仕えた。子孫は旗本。
  26. ^ a b 信光の子。信実の養子。
  27. ^ 諸系図にあるが、存在は疑わしいとされる。
  28. ^ 諸系図にはないが、信次の子。津田氏も称す。
  29. ^ 一説には信定ではなく、息子の松平清定の室とも言う。

出典

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参考文献

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  • 堀田正敦「国立国会図書館デジタルコレクション 織田氏」『寛政重脩諸家譜 第3輯』國民圖書、1923年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082714/284 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 『系図纂要』”. 東京大学史料編纂所. 2016年6月9日閲覧。
  • 『織田系図』”. 東京大学史料編纂所. 2016年10月25日閲覧。
  • 西ヶ谷恭弘『考証織田信長事典』東京堂出版、2000年。ISBN 4490105509 
  • 谷口克広; 高木昭作(監修)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年。ISBN 4642027432