柘植与一
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柘植 与一 (つげ よいち / ともかず、天文10年(1541年) - 慶長14年7月20日(1609年8月19日))は、戦国時代の武将。通称与八郎、左京亮、大炊助。名字は織田や津田、諱は與一(与一の異体字)とも記される。犬山城城主 [1]。室は坪内宗之こと前野自勝の娘[2]。
略歴
[編集]織田信康の6男として生まれ(父は織田信益(與康)とも)、後に柘植玄蕃の養子となる [3]。はじめ織田信長に仕えるも、本能寺の変後に豊臣氏の家臣となった。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い後に豊臣秀頼の使者として徳川家康の元を訪れ謝罪した[4]。
慶長14年(1609年)7月20日死去。享年69[5]。
参考文献
[編集]- 『新修徳川家康文書の研究-1巻』(徳川黎明會 、1983年)
- 『尾濃葉栗見聞集-岐阜志略』(一信社出版部 、1934年、100p)
人物
[編集]千利休に茶を学んだ。
脚注
[編集]- ^ 徳川黎明會 1934.
- ^ 徳島大学附属図書館『蜂須賀家家臣成立書并系図』
- ^ 一信社出版部 1934, p. 100.
- ^ “柘植与一”. 2022年9月26日閲覧。
- ^ “奈良県立博物館40選”. 奈良県. 2022年9月26日閲覧。