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弓ヶ浜 (静岡県)
[編集]下書き:弓ヶ浜 (静岡県)
弓ヶ浜[注 1](ゆみがはま)は、日本の静岡県賀茂郡南伊豆町にある砂浜海岸[注 2][4]。行政区画上は南伊豆町大字湊に位置し[1][2]、相模灘に面している[10]。また、この海岸の位置する南伊豆町の湊地区および手石地区の通称としても「弓ヶ浜」という呼称が用いられる[11]。その名の通り弓なりの形状になった砂浜で[12][4]、海岸の全長は約1.2 km[4]、砂浜の幅は約40 mである[13]。
弓ヶ浜は青野川の河口から東側に広がる浜で[12][9]、盥岬(たらいみさき、座標)[注 3]と弥陀岬[注 4](みだみさき、座標)に囲まれた入江の奥にある[17]。南伊豆の海岸線は険しい崖が多く、弓ヶ浜はその中でも珍しい砂浜である[3]。また伊豆半島では下田市の白浜海岸に並ぶ大規模な砂浜でもある[17]。
「弓ヶ浜」の命名者は、2017年時点で南伊豆町観光協会長を務めていた南伊豆町湊の民宿「紺屋荘」の2代目主人・木下直美の祖父である木下幸雄と伝えられている[18]。砂浜沿いにはクロマツの林があり[19]、白い砂浜と青いマツ林による白砂青松の光景が形成されている[12]。遠浅で波が穏やかであることから、子供連れの海水浴に適した海水浴場とされており、若者からの人気も高い[20]。例年7月から8月下旬にかけて弓ヶ浜海水浴場が開設される(後述)。白砂青松の海岸と温泉で、南伊豆町の観光の中核を担っているが、周辺には源泉がないため、3 km離れた下賀茂温泉からパイプで引湯している[21]。2002年時点で、弓ヶ浜海岸は下賀茂温泉と並ぶ南伊豆町の「二大観光拠点」とみなされている[22]。南伊豆町では有数の観光地であることから、海水浴シーズンは周辺道路が混雑する[23]。
一帯は国の名勝である伊豆西南海岸の「石廊崎海岸」に含まれており[24][25]、また富士箱根伊豆国立公園第1種特別地域として保護されている[26]。日本の渚百選[27]、快水浴場百選[27][28]、静岡県の水辺100選[注 5]に選出されており[29]、伊豆を代表する海水浴場として紹介されている[30]。また日本の白砂青松100選にも選定されている[31]。下田市の白浜海岸[32][33][31]、河津町の今井浜[34][31]とともに伊豆三大海水浴場[35][36]、伊豆三大美浜[31]の1つとして数えられる場合もある。静岡県による水質調査の結果、水質区分は2023年度(令和5年度)・2024年度(令和6年度)ともに最高の「AA」と判定されている[37]。またAAランクのうち「極めて水質の良好な水浴場」として発表されたこともある[38]。
地理
[編集]弓ヶ浜の位置する南伊豆町湊地区は、青野川の河口にある集落で[39]、下田市から南西約10 kmに位置し、太平洋に面している[40]。弓ヶ浜は伊豆半島の南端である石廊崎と下田市のほぼ中間に位置する砂浜で[12]、相模灘に面した海岸である[41]。弓ヶ浜海水浴場を運営している南伊豆町湊区は、弓ヶ浜は伊豆半島で最も南にある海水浴場であると述べている[42]。
青野川は安山岩が主体の山地[43]、および凝灰質砂岩の山地を流れる川で[11]、青野川河口部の沖積層は貝殻片を含む海成砂で形成されている[43]。弓ヶ浜の砂には、海底火山からの噴出物に多く含まれる白味を帯びた軽石や、透明な石英、貝殻などの破片が多数含まれている[44]。佐藤昭二ら (1967) によれば、波打ち際から海岸部道路までは約41 mで、砂浜の頂部は海岸部道路付近にあり、その海抜は約6 mである[45]。海浜砂粒径は篩分けの良い中砂で、砂は白味を帯びている[注 6][45]。青野川下流部の平野部の地形を見ると、弓ヶ浜の海岸沿いには砂丘があり、その背後には数列の湿地と高まりが繰り返され、最も山際には平坦な海成面がある[47]。
弓ヶ浜は堅硬な岩石の岬に挟まれた砂浜で、防砂林と砂丘から構成されている[40]。佐藤昭二ら (1967) は、湾口の両側には岩肌が露出していると報告している[48]。浜の西側(防波堤の根元付近)は岩場となっており[49]、また浜の東方には「高見山」という岬が突き出ている[50]。後者の「高見山」を越えた先には「逢ヶ浜」(おうのはま)という岩石海岸(後述)、そして盥岬がある[50]。なお、弓ヶ浜の南にある岬は弁財天岬(座標)と呼ばれる[51]。
外洋である相模灘に面するため、うねりが来ることもあるが、半島の東側に開けていることや、湾の奥にあることから風は弱く、遠浅である[10]。南伊豆町湊区は、浜の左右(東西)にある岬が外洋からの波の侵入を抑えているため、波が穏やかで遠浅になっていると述べている[42]。
弓ヶ浜の海岸線は「手石港」(ていしこう)という地方港湾の海岸保全区域(総延長3580 m)に指定されている[注 7][52]。また浜の西端は青野川の河口左岸に隣接しており[53]、青野川河口部周辺は対岸部(手石地区)[注 8]を含めて同港の臨港地区になっている[52]。手石港はかつて鯉名(小稲)湊とも呼ばれた湊で(後述)[55]、古くから風待避難港として発展した[52]。戦後、手石港は沿岸漁業などに出漁する地元漁船の基地として整備されており[注 9]、また周辺海域には岩礁やダイビングスポットがあるため[52]、釣り船やダイビング船が係留されている[57]。手石港からは銭洲海域への釣り船[58]、神子元島海域への釣り船[59]・ダイビングボートなどが出航している[60]。一方で佐藤昭二ら (1967) は、手石港内には河口から流出する土砂が堆積しているため、小型船の入港も困難であると報告している[48]。なお、弓ヶ浜と青野川の河口は石積みの堤防で隔てられている[61]。この堤防は防波堤(導流堤)で[49]、捨石で構成されており、1トンの割石で被覆されている[45]。この導流堤は1943年(昭和18年)ごろから建設が開始されたが、この導流堤の建設が進むにつれて青野川から弓ヶ浜へ流出する砂が減少し、砂浜の減少の要因になっていることが指摘されている(後述)[45]。
弓ヶ浜海岸から下田市田牛の田牛海岸までの海岸線には全長3.7 kmの「タライ岬遊歩道」がある[62]。弓ヶ浜のマツ林の中にある「休暇村南伊豆」がタライ岬遊歩道の起終点である[14]。この遊歩道は1975年に建設されたもので、徒歩で全区間を走破した場合の所要時間は約2時間50分であり、沿線には田牛や弓ヶ浜など海岸風景の美しい場所があるため、年間3000人以上が利用している[63]。
生物
[編集]マツ林
[編集]弓ヶ浜の砂浜沿いにはクロマツが自生しており[19]、面積2.9 haにおよぶマツ林が形成されている[12]。マツ林の長さは約1.5 km、幅は0.02 - 0.03 kmである[12]。このマツ林は明治以前からあったもので、樹齢200年に達するマツの木もあり[12]、静岡県が海岸防災林として管理している[注 10][19]。
クロマツは静岡県の海岸で重要な植物であるが、天然のクロマツ林は伊豆南部にわずかに存在するのみで、遠州灘海岸から三保の松原、田子の浦海岸、千本松原などにかけて見られるクロマツ林のほとんどは砂防用などのために植林されたものである[65]。
湊区共有地管理会は、海岸周辺に約15000 m2のマツ林を所有・自主管理している[23]。弓ヶ浜海岸のマツ林は地元の共有地管理会が主体となり、定期的に林内の清掃・除間伐が行われているため、海水浴客が気軽に散策できるようになっていると評されている[64]。またこのマツ林が周囲の雑音を遮ることから[13]、海水浴シーズンを除けば波音のみが聞こえる静寂な環境となっているため[6]、NHKテレビで『日本一の癒しのビーチ・ベストオブビーチ』として紹介されたことがある[13]。一方、2016年時点では地元住民から以前に比べてマツの木が減少していることが指摘されている[31]。
また湊区共有地管理会によれば、弓ヶ浜のマツ林では1995年(平成7年)から遡って約10年前から松くい虫の被害が出るようになり、特に4、5年前から被害が大きくなったため、薬剤や伐採などによる防除に加え、松くい虫被害の原因となるマツノザイセンチュウに抵抗力のある品種を補植するなどの取り組みを行っている[23]。またマツ枯れは松くい虫だけでなく、車の排ガスによる影響も考えられているが、町の農林課長・高野克巳は「観光は南伊豆の重要な産業なので観光客のマイカー規制までは考えていない」と話している[23]。
その他の生物
[編集]弓ヶ浜海岸にはクロマツだけでなく、イブキやシマハイネズも生えている[66]。また弓ヶ浜には、主に発達した根茎を持つ多年生草本を優占種とする複数の砂丘植生が確認されている[67]。その内訳はハマグルマ―コウボウムギ群集、ハマグルマ―オニシバ群集、オオマツヨイ―チガヤ群落、チガヤ―ハマゴウ群集、コウボウシバ群落の3群集2群落で、それぞれの植生の構成種はいずれも10種以下であり、1種のみの純群落となる場合もある[67]。
弓ヶ浜(青野川河口)からほど近い青野川の左岸部にはマングローブ植生地(座標)がある[68]。この地点は青野川が支流の前田川と合流する地点の左岸部であり[69]、ここには1959年(昭和34年)、静岡県有用植物園長の竹下康雄がマングローブ植物の一種であるメヒルギの種苗を種子島から移植した[70]。その当初はほとんどが冬の寒さで枯死したが、後に研究者らが移植を繰り返したことで活着する個体が増加し、自然繁殖によって小さな群落を形成[71]、マングローブ生息地の北限として知られるようになった[70]。2017年(平成29年)から遡って約20年前、この群落は青野川の護岸工事[注 11]に伴って消滅の危機に直面したが、保護を求める声が地元から上がり[71]。、県はマングローブの成木数本を移植し[73]、数百坪ほどの群生地を保全した[71]。
海水浴シーズンに当たる6月から8月にかけて、弓ヶ浜にはアカウミガメが産卵のために上陸する[39]。河津町にあったカメの水族館「伊豆アンディランド」(現:iZoo)[注 12]職員は、ウミガメは満潮時に波打ち際から陸地までかなり距離のある海岸でなければ産卵せず、そのような状況でも陸地まで約30 m程度しかない弓ヶ浜など伊豆地方での産卵は珍しいと述べている[76]。一方で1997年(平成9年)時点では、弓ヶ浜では毎年数頭のアカウミガメの上陸・産卵が確認されていると報じられており[77]、同年4月には南伊豆町が県内で初となる「町ウミガメ保護条例」を施行した[78]。この条例は、ウミガメの捕獲や卵の採取を禁止する罰金(最高30万円)付きの条例であり、同条例の施行に伴い、町から「ウミガメ保護監視員」に任命された地元住民が[79]、産卵シーズンに毎朝海岸を巡回し、発見した卵を回収して近くの移設場[注 13]で保護するという活動を行っている[80]。また弓ヶ浜は県内有数のアカウミガメの産卵地として有名だったとする報道[39]、伊豆半島では南部・西部の海岸が主な産卵場所になっているという報道もあり[81]、条例制定前は毎年2-18頭のウミガメの上陸・産卵があったが、1996年(平成8年)には産卵が確認できず、絶滅のおそれがあるとして翌1997年の条例施行につながったとも報じられている[82]。
弓ヶ浜はキス釣りのスポットにもなっている[51]。休暇村南伊豆の公式ホームページでは、弓ヶ浜ではキスやカレイ、メゴチ、ベラ、メジナ、メバル、イワシなどが釣れると紹介されており、休暇村では釣り竿のレンタルも行われているが、海水浴シーズンの7月中旬から8月下旬には弓ヶ浜では釣りが禁止される[83]。
弓ヶ浜にはサクラガイなどの薄い貝殻がよく打ち上がる[10]。
歴史
[編集]弓ヶ浜は青野川から流出した砂が海流で流され、南西から北東へ伸びる帯状に滞留したことで形成された砂嘴である[44]。21世紀初頭時点から遡って約7000年から6000年前の縄文海進時には、現代の南伊豆町湊地区の低地は内湾になっていたと考えられている[84]。その後、青野川の上流部である山地から土砂が運ばれて河口に出、強い潮流によって泥を洗い流される一方、砂だけが湾内を反時計回りに流れる潮流の力で海岸に打ち上げられて砂嘴を形成し[85]、後に上流から流れ出た土砂が現在の湊地区に相当する場所へ堆積したことで陸地が形成され、やがて現在のような海岸線が形成されたと考えられている[39]。
現在の「日野交差点」(座標)から弓ヶ浜までの範囲にはかつて「手石大湊」があったとされる[86]。石村智(東京文化財研究所無形文化遺産部室長)は、弓ヶ浜はかつての砂州であり、現在の市街地は海であったと推測している[86]。石村は弓ヶ浜から北西(青野川右岸部)に「十二艘」という地名(おおよその座標)が残されている点や、青野川をさらに内陸に遡ると弥生時代から古代にかけての大集落遺跡である日詰遺跡(おおよその座標)がある点、そして伊豆半島が隆起によって形成された土地である(すなわち、かつては現代よりさらに標高が低かったと考えられる)点から、かつて弓ヶ浜は背後のラグーンを外海から隔てており、弓ヶ浜の背後にあったラグーンは船を安全に停泊させられる天然の良港になっていたのだろうと推測し[87]、古代末期までは潟湖地形と港としての機能を維持していたと考察している[88]。弓ヶ浜のある集落は湊(みなと)という地名であるが[注 14][92]、『南豆風土誌』によれば、この地名はかつて一帯が港を形成していたことによるものであり[93]、その歴史の名残となっている[94]。
平安時代ごろ、現在の南伊豆町湊や手石、下賀茂、青市などの一帯は海が入り込み、「鯉名泊」(こいなのとまり)[注 15]と称されていた[95]。「鯉名泊」は当時、伊豆一の港と称された海上交通の要衝で[95]、風待避難港として栄えた[39][97][98]。源平合戦で平氏に与した伊東祐親が1180年(寿永4年)の富士川の戦い前に平家軍に合流しようとしたところ、源氏軍に囚われた地はこの「鯉名泊」であると考えられている[54]。鯉名湊(現在の手石港)は江戸時代から大正ごろまで、青野川流域の物資の集散地、および薪炭・竹などの積出港として栄えており[55]、伊豆地方の移出入荷物のほとんどが集積する地として繁栄した時期もあった[99]。
また手石や小稲、下田市田牛を含む一帯は伊勢神宮外宮の神領「蒲谷御厨」であり、この地から産出されていた砂鉄から製作する鉄製品の鍬が毎年都に貢納されるなど、都と深いつながりがあったことから、12世紀はじめには平城京の大安寺支院として「石門寺」が青市の山間に建立されたと伝えられている[54]。「石門寺」は後に浄土系から曹洞宗へ改宗して湊へ移転し[注 16]、「修福寺」(座標)へ改称したとされる[54]。
観光地として
[編集]弓ヶ浜海水浴場
[編集]弓ヶ浜の海岸は第二次世界大戦終戦以前から、伊豆第一の海水浴場と称されていた[100]。南伊豆町は南伊豆町は2016年(平成28年)に海水浴場の安全・環境衛生・秩序などの維持を目的とした「南伊豆町海水浴場条例」を制定したが、同条例では弓ヶ浜海水浴場と子浦海水浴場(南伊豆町子浦、座標)の2箇所が海水浴場として規定されている[101]。
南伊豆町は高度経済成長期を迎えるまで「陸の孤島」としての性格を強く有していたが[注 17][103]、1965年(昭和40年)ごろ以降からは夏の海水浴シーズンを中心に観光地として賑わい始めるようになった[104]。その要因には1961年(昭和36年)12月に伊豆急行線が開業し、首都圏と南伊豆との時間・距離が大幅に短縮されたことや、伊豆半島東海岸の道路が石廊崎までアスファルト舗装されたことなどによって交通利便性が向上したことや、マスコミの宣伝などによって観光客が増加したことなどが挙げられる[105]。弓ヶ浜はそれ以前から、長い砂浜と遠浅の海岸を持つ海水浴場として賑わっていたとされるが[105]、このころから白砂青松の海岸として、静かな入江の子浦海水浴場とともに南伊豆町の代表的な海水浴場として知られるようになった[104]。湊地区では1964年(昭和39年)以降に民宿が発達し始め、1976年(昭和51年)時点では弓ヶ浜民宿組合に加盟する民宿だけで59軒あり、さらに臨時に民宿になる家(約60軒)を加えると、総世帯数370戸の約3分の1が民宿を経営しているとされていた[105]。1970年代には、弓ヶ浜では多くの旅館・民宿・ホテルが開業し、温泉需要が急上昇したことにより、最盛期には温泉宿泊施設が120軒以上に上った[21]。1985年時点で弓ヶ浜には75軒の民宿があり、その収容数は2261人とされていた[106]。一方で昭和50年代は海の家が乱立し、混乱していた時期もあったという[107]。1993年4月13日には弓ヶ浜海水浴場監視所が落成した[29]。しかし2020年時点では人口減少や少子高齢化の影響により、弓ヶ浜周辺にある民宿などの温泉宿泊施設数は約50軒にまで減少している[108]。
海開きの時期は、1970年(昭和45年)は7月1日[109]、1989年(平成元年)は7月9日[35]、1991年(平成3年)は7月7日[36]、1992年(平成4年)は7月5日だった[110]。2019年(令和元年)の海水浴場開設期間は7月7日から9月1日まで[111]、2023年(令和5年)は7月22日から8月20日まで[112]、2024年(令和6年)は7月20日から8月25日までであった[113]。海水浴シーズンは地域内外から多くの海水浴客が訪れ、賑いを見せるが、海水浴シーズン以外はイベントなどはほとんど開かれず、閑散としている[6]。
1シーズンを通じて訪れた遊泳客数は、1987年(昭和62年)シーズンは25万5000人、冷夏と長雨によって伸び悩んだ1988年(昭和63年)シーズンも17万6000人余を記録し[114]、1990年は20万人以上を記録した[115]。1997年には年間13万人[116]、1998年には年間9万人の遊泳客が来訪したが[117]、1999年夏には8月上旬から盆までの天候不順や、レジャーの多様化による海水浴離れの影響から、弓ヶ浜海水浴場の入り込み数(161000人)が前年比16.7%減少するなど、賀茂地区の多くで海水浴客が前年より著しく減少していたことが報じられていた[118]。1991年(平成3年)8月時点では、弓ヶ浜には1日で海水浴客約1万人が訪れていたが[119][120][121]、2024年時点では1日の最多入込客数は3000人となっている[122]。南伊豆町の観光客数自体、2014年時点では1987年時点と比べて約7割減少した約75万人にとどまっていると報じられている[123]。一方で2014年(平成26年)には日本で初となるドイツ製の海上アスレチック遊具を設置した結果、前年比7%増の約62000人が来訪したと報じられた[123]。
2019年(令和元年)時点で、弓ヶ浜海水浴場と子浦海水浴場の両海水浴場には例年6、7万人が訪れているとされている[124]。2024年7月・8月の南伊豆町内の海水浴場(弓ヶ浜・子浦)における入り込み客数は、弓ヶ浜(7月20日から8月25日開設)は40220人(前年比7%減)、子浦(7月23日から8月16日開設)が3610人(70.3%増)[注 18]となっており、前年に比べて計1525人減少したが、これらの要因としては南海トラフ地震臨時情報の発表、台風7号、猛暑の影響が指摘されている[122]。同年時点では、弓ヶ浜は若者やファミリー層から、子浦はSUPなどマリンアクティビティを楽しむ人からそれぞれ人気を集めていたという[122]。
弓ヶ浜花火大会
[編集]弓ヶ浜では毎年8月8日20時(午後8時)から「弓ヶ浜花火大会」が開催されており[注 19]、弓ヶ浜海水浴場の混雑はこの花火大会のころから旧盆の14日・15日ごろがピークとなる[126]。弓ヶ浜花火大会は町内唯一の花火大会[127]、および夏の弓ヶ浜海水浴場では最大のイベントとされている[128]。例年約1万人の観客を集めており[129]、2024年で47回目の開催となる[注 20][132]。
その他のレジャー・イベント
[編集]弓ヶ浜は海水浴のほか、温泉・釣り・ミカン狩り・テニス・潮干狩りなどのレジャーが楽しめる場所として紹介されている[105]。
弓ヶ浜では近隣の多々戸浜、入田浜、吉佐美大浜[注 21]と同じく、一年中サーフィンが行われている[133]。なお海水浴シーズン中は、青野川河口と浜を隔てる堤防から約200 m幅が「マリンスポーツエリア」に指定され、同エリアでは一般の海水浴は禁止される一方、サーフィン、SUP、シーカヤックなどのマリンクラフトはライフセーバー監視時間中(8時から17時まで)はマリンスポーツエリア以外では発着できなくなる[134]。この取り組みは2014年に初めて試験的に行われ、船外機を使用しないシーカヤック、カヌー、サーフィンを海水浴シーズン中にも受け入れている[135]。また海水浴のオフシーズンには、日本ジェットスキー協会の主催するジェットスキーの全国大会「JISBAジェットスキー大会」が2004年までに計10回開催されている[注 22]。同協会の理事・黒田成彬によれば、弓ヶ浜は湾になっていることから波が安定しており、眺望も良いため、ライダーたちに好評であるという[137]。
8月の最終週には、弓ヶ浜でビーチバレー大会が開催されている[13]。『静岡新聞』によれば、1991年から「ビーチバレーボールフェスタ」という大会がビーチバレーボールフェスタ実行委員会主催で開催されているが、南伊豆町では2016年までに同大会が18回開催されている[138]。同大会は、宿泊客の確保や観光振興を目的とした大会で[139]、参加条件は町内の民宿施設に宿泊することである[140]。首都圏や静岡県内から多数の参加者がエントリーしており、優勝チームには町内の民宿の招待券などが贈られる[141]。
1894年(明治27年)に発行された『静岡県水産誌』では、弓ヶ浜(手石港)は南伊豆で地引網漁が行える数少ない漁港として紹介されている[142]。1996年時点[143]、および2000年代時点でも、弓ヶ浜では観光地引き網が行われている[144][145]。
石廊崎先端から南伊豆町の東側各海岸線(本瀬、大瀬、弓ヶ浜、逢ヶ浜など)からは初日の出の「御来光」を眺めることができる[146][147]。
弓ヶ浜にある若宮神社(座標)の秋祭りでは「弓ヶ浜の祭太鼓」が打たれており、2000年には世界的に活躍する和太鼓グループ「鼓童」が国立劇場で開催された「日本の太鼓」の公演でこの「弓ヶ浜の祭太鼓」を上演した[148][149]。
なお、弓ヶ浜海岸は海岸全体がキャンプ禁止区域に指定されている[150]。
警備体制
[編集]静岡県警察は海水浴シーズンになると、伊豆地方の各海水浴場に臨時の警備派出所を開設し[注 23]、犯罪・事故防止のため、各管轄の警察署員と応援の機動隊員が24時間体制で警備を行っている[151]。開設期間は、1996年(平成8年)は7月20日から8月25日までで[154]、2020年(令和2年)は7月23日から8月23日までだった[153]。南伊豆町などを管轄している下田警察署は1994年時点で管内に13の海水浴場を擁していたが、特に弓ヶ浜や白浜、今井浜(河津町)[注 24]の3海水浴場は毎年多数の行楽客が訪れ、事案が多発していたため[注 25]、水難事故防止、雑踏警備、違法駐車対策、非行防止などを目的に、同年8月22日まで静岡県警機動隊、自動車警ら隊、交通機動隊などの応援を得て警備に当たっていた[注 26][158]。2023年時点でも、下田署は白浜大浜と弓ヶ浜の2海水浴場に臨時警備派出所を開設している[157]。
弓ヶ浜には1993年4月から遡って約20年前に海水浴場の監視所が建設されたが、この監視所が老朽化したことを受け、南伊豆町は平成4年度観光施設整備事業の一環で5200万円を投じて建て替えを行い、1993年4月に木造2階建て(延床面積約98平方メートル)の新しい監視所を完成させた[159]。この建物は白壁出窓を大きく取ったペンション風の建物で、地元湊区が管理を行っている[159]。海水浴シーズン中は1階が臨時派出所として利用され、また2階にある休憩室、会議室はイベントなどの拠点としても活用されている[159]。
津波避難タワー
[編集]湊地区では1985年(昭和60年)から津波対策事業として、防波堤の嵩上げ、陸閘・水門の整備が行われ、1992年(平成4年)に完了したが[99]、2012年8月に内閣府が発表した南海トラフ巨大地震の詳細報告では、弓ヶ浜から青野川河口付近にかけては最大で13 - 14 mの津波が、地震発生から15分で襲来するという予想が示された[160]。湊区は低地に約400世帯(2005年時点)が暮らしており、地震発生時に住民が高台の避難場所まで避難する際に時間がかかると指摘されている[161]。同年夏にはその風評被害の影響から、南伊豆町の海水浴場は客入りが低迷していたが、一方で同じ町内のヒリゾ浜には都市部から行楽客が多数訪れていることが指摘されていた[162]。同年は最終的に、弓ヶ浜の入り込み客数は前年比13.76%減の49428人だった一方、子浦海水浴場は50.41%増の4768人、ヒリゾ浜は22.56%増の26289人、妻良海上アスレチックは91.53%増の8619人という結果が出ており、弓ヶ浜の海水浴客が減少する一方でシュノーケリングなどの磯遊び・舟渡の海岸が人気を集めている傾向や、弓ヶ浜に滞在して中木(ヒリゾ浜)で遊ぶケースも増加した可能性が指摘されていた[163]。
また、この内閣府の予想を受けて湊区民は南伊豆町に津波避難タワーの建設を要望し、湊共有地管理会は建設用地(781.44 m2)を町に無償提供、町は大規模地震対策等総合支援事業によって津波避難タワーを建設することとなった[160]。2014年3月7日、賀茂地区で初の津波避難タワーとなる「湊地区津波避難タワー」(座標)が竣工した[164]。避難場所となるステージは地上から高さ12 m、海抜15 mに位置し、1,000人を収容できる計算となっている[164]。ステージ上には備蓄品を保管する倉庫(面積31.65 m2)が設置されている[160]。この避難タワーが完成するまでは弓ヶ浜の青野川河口側に高台がなかったため、湊区浜西の住民約200人は津波発生時に逢ヶ浜方面へ約15分かけて避難する必要があったが、タワーの完成により避難の所要時間は約3分と大幅に短縮された[160]。
またこの津波避難タワーとは別に、地元の住民が津波発生時に自宅近くの山へ避難できるように階段を整備するという試みも行われているが、防災設備整備のために町から出る補助金では整備に必要な費用が不足することに加え、その不足分を補填するための資金源として期待していた海水浴場の駐車場収入がコロナ禍で激減したため、整備が思うように進んでいないことが2022年(令和4年)8月に報じられている[165]。
教育・合宿拠点としての利用
[編集]弓ヶ浜は遠浅で波が静かなことから、1991年(平成3年)から遡って約20年前から関東地方を中心とした学校に臨海学校の拠点として利用されるようになった[166]。弓ヶ浜で長年にわたって臨海学校を開催している学校の1つとして、埼玉県の県立浦和高校がある[167]。同校は1958年(昭和33年)から1年生を対象とした臨海学校を行っており[注 27][169][167]、2024年(令和6年)時点で67回目である[167]。当初は千葉県の勝山海岸で臨海学校を行っていたが[170]、東京湾の水質悪化を受けて1968年(昭和43年)以降は弓ヶ浜で行うようになった[171]。それ以降、同校は東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生した2011年(平成23年)まで水害や震災の直後を除いて毎年弓ヶ浜で臨海学校を開催していたが、2012年(平成24年)から2014年(平成26年)は南海トラフ巨大地震への懸念から、新潟県で臨海学校を開催していた[172]。また同様に弓ヶ浜で臨海学校を開催していた埼玉県立ふじみ野高校[注 28]も、2013年(平成25年)からは新潟県で臨海学校を開催するようになったが[172]、浦和高校は2015年(平成27年)から、ふじみ野高校も2017年(平成29年)からはそれぞれ再び弓ヶ浜で臨海学校を開催するようになっている[172]。浦和高校校長の杉山剛士は、弓ヶ浜の魅力として長い砂浜や遠浅の海、風光明媚な土地柄、水泳指導に来るOBや地域の歓迎などの存在を挙げた上で、臨海学校を再び弓ヶ浜で開くようになった理由としては津波避難タワーの建設や、予想された津波の高さの変化を挙げている[172]。また地元のホテル「河内屋」は50年以上にわたって浦和高校の臨海学校に協力しているが[167]、同ホテルの会長はかつて臨海学校で弓ヶ浜を訪れた高校の卒業生が、大人になってから家族を連れて再び弓ヶ浜を訪れていると証言している[171][172]。
また昭和40年代前半からは温暖な気候、東京から近距離にあること、体力づくりに適した砂浜があること[173][174]、海からの風が吹く中で練習できること[175]、そして練習場が水田の中で事故が少なく、住民に迷惑がかからないことから、大学のアーチェリー部が弓ヶ浜の民宿を春季合宿の拠点として利用するようになった[173][174]。1989年(平成元年)および1990年(平成2年)時点では、関東地方を中心に三十数大学ないし四十数大学がアーチェリー部の春季合宿を弓ヶ浜で行っており、南伊豆町の春の風物詩となっていた[173][174]。しかし2002年(平成14年)から2003年(平成15年)にかけては減少傾向にあり、2002年は10校、2003年は7校のみにとどまっていた[176][177]。
また冬場でも温暖な気候が足腰のトレーニングにあたって最適とされ、2023年(令和5年)から遡って約40年前から毎年、年末の弓ヶ浜では静岡県東部の複数の高校陸上部が合同合宿を行っており[178]、この合宿の参加者からは箱根駅伝出場者など有名選手を多数輩出している[179]。南伊豆町議会議員の谷正は「五輪に出た〔陸上競技の〕有名選手から、弓ヶ浜の砂浜が練習に適しているという話を聞いた」として、スポーツ合宿誘致に取り組む旨を表明している[180]。
課題点
[編集]青野川河口部と弓ヶ浜を隔てる導流堤の建設が進むにつれて、弓ヶ浜の砂浜は欠壊し始め、特に1960年代に入ってから導流堤に近い部分ほど著しく欠壊するようになった[45]。その一方で導流堤の対岸部(右岸部)にある物揚場付近に砂州が形成されるようになった[45]。その原因は、導流堤の建設によって洪水期に河口から排出されていた砂が海岸に供給されなくなり、その大部分が沖側に沈殿し、それが波によって導流堤の対岸(河口右岸部)の浅瀬付近まで押しやられ、そこに浅瀬が形成されるようになったためであると考えられている[45]。また2014年時点で南伊豆町から委嘱されて「ウミガメ監視員」を務めている男性(同年11月時点で73歳)は、1960年代以降に弓ヶ浜周辺の開発が急速に進行し、道路整備によって海岸近くの叢が消滅した影響で、風で吹き飛ばされた砂が叢で留められなくなったため、砂浜の面積が自身の子供のころの半分にまで減少したと語っている[39]。1997年(平成9年)10月22日に静岡県熱海市で開催された「伊豆地域のみなとを考える市町村長懇談会」では、南伊豆町の担当者が弓ヶ浜の侵食対策を要望している[181]。
2012年(平成24年)12月には港湾空港技術研究所沿岸環境研究領域沿岸土砂管理研究チームが、弓ヶ浜の砂浜は30年前に比べて20 m減少・後退したと報告しており、その対策方法としては石籠などの設置、養浜などを提案している[182]。南伊豆町議会議員の宮田和彦は、弓ヶ浜の砂浜減少対策を公約の1つとして掲げている[183]。2011年9月の町議会では、宮田の答弁に対し町長の鈴木史鶴哉が、静岡県による2006年(平成18年)の調査では陸上部の砂浜は5年周期で10 m程度増減しており、復元すると考えられていると答弁している[184]。一方で弓ヶ浜のある南伊豆町湊地区より南方にある南伊豆町下流地区の漁民からは、弓ヶ浜から流出した砂がアワビ・サザエ・イセエビなどの漁場となっている磯に流入し、穴を埋めている可能性が指摘されている[185]。
手石港を管理している静岡県下田土木事務所は、手石港に出入港する漁船などにとって安全な水深を確保する目的で、港内の航路・泊地で浚渫事業を行っているが[186]、2013年度(平成25年度)以降は浚渫した土砂の一部を養浜目的で弓ヶ浜に投入して有効活用している[187]。同事務所は、2024年度(令和6年度)からの5年間で少なくとも58169 m3の浚渫を行う必要があるが、うち4000 m3程度(800 m3/年程度)が養浜事業整備材料として活用される見込みであると報告している[188]。
近隣
[編集]浜の近くにある「休暇村南伊豆」(座標)「弓ヶ浜ロイヤルホテル」(座標)「いなとり荘・季一遊」(座標)の3つの建物は、いずれも4-5階建ての鉄筋コンクリート造で、2005年時点で南伊豆町と災害時の使用協定を結んでおり、災害時には津波避難ビルとして無料で利用できる[161]。休暇村南伊豆(旧:南伊豆国民休暇村)は[189]、弓ヶ浜海岸のマツ林の中に位置する宿泊施設で、1969年(昭和44年)10月1日に開設され[190]、1992年時点では町内唯一の公営宿泊施設だった[191]。休暇村南伊豆は海水浴シーズンを中心に観光客でにぎわっており、開業40周年を迎えた2008年(平成20年)までに約270万人の利用客があった[189]。
また南伊豆町はイセエビが名産品であるが、休暇村南伊豆のすぐ近くにある「青木さざえ店」(座標)では「伊勢海老天丼」や、小さなイセエビ2匹をトッピングした「伊勢えびラーメン」が人気メニューになっている[192]。
第二次世界大戦終戦前は弓ヶ浜近くに、横須賀鎮守府に属する湊海軍病院が設置されており、下賀茂温泉から引湯した温泉を利用していた[193]。同病院は終戦後の1945年(昭和20年)に厚生省へ移管されて国立湊病院となり、1947年(昭和22年)には結核対策の一環として国立療養所湊病院となったが、1967年(昭和42年)には再び国立病院へ転換され、1995年(平成7年)時点では南伊豆町湊674(座標)に所在していた[194]。その後、2012年(平成24年)5月には下田市へ移転する形で「下田メディカルセンター」となった。
逢ヶ浜
[編集]弓ヶ浜の東方には逢ヶ浜[注 29](おうのはま[199]、座標[50])という岩場の広がる海岸がある[94]。逢ヶ浜は弓ヶ浜と盥岬の中間に位置しており[50][200]、弓ヶ浜の東方に突き出た「高見山」という岬の向かいにある[50]。逢ヶ浜は弓ヶ浜の最寄りバス停である「休暇村」バス停(後述)から徒歩約10分の場所に位置しており、弓ヶ浜の南東端から磯を歩くことで到達できる[199]。弓ヶ浜から逢ヶ浜への徒歩での所要時間は約3分である[201]。
逢ヶ浜の一帯は丸石が多く、雀岩[注 30](座標)、姑岩(座標)、エビ穴[注 31](座標)といった奇岩が点在している[204]。逢ヶ浜は海底火山からの噴出物によって形成された岩礁海岸で[205]、2013年時点から遡って1000万年 - 200万年前の白浜層群に属しており、火山活動で隆起した海岸と考えられている[204]。逢ヶ浜の地層は海底溶岩流や水底土石流による凝灰角礫岩で形成されており[206]、その地層をマグマが貫いたことで放射状節理が形成されている[94]。これらの地層を貫く岩脈は須崎安山岩類とされる[206]。この放射状の柱状節理は盥岬遊歩道の登り口付近に位置しており、数百万年前の海底火山活動で誕生したものと考えられている[204]。マグマは冷えて固まると少し縮み、冷やされた側から節理(隙間から生じた割れ目)が伸びていくという性質があるが、逢ヶ浜の節理は四方から冷やされたため、遅れて冷えた中心部分へと割れ目が伸びていき、放射状の節理が形成されたとされている[207]。
1839年(天保10年)には当時の湊村に設置されていた神社が移設再建される形で、海の神を祀る「龍権神社」が逢ヶ浜に建立され、海上・海中の安全、大漁満作、町内安全を司るとして地元の漁業者らから信仰されている[208]。また歌川広重の作品『不二三十六景』の1作である「伊豆の海浜」は、この逢ヶ浜から眺めた富士山の風景を参考に描かれたものと考えられている[209]。
逢ヶ浜はマメタワラ、アラメ、カジメなどの海草・海藻の生息地として、環境省により生物多様性の観点から重要度の高い湿地(重要湿地)の「伊豆半島南東部沿岸」に選定されている[210]。逢ヶ浜にはハマダイコンが群生しており[199]、3月から4月ごろにハマダイコンの花が[注 32]、11月ごろにツワブキとイソギクの花がそれぞれ見頃を迎える[14]。ハマダイコンは伊豆南部の海岸各所で群生が見られるが[注 33]、逢ヶ浜はその代表的な名所の一つである[195]。逢ヶ浜のハマダイコンは一時激減したが、開花後に採取した種子を蒔いたことで復活したという[200]。
弓ヶ浜とは異なり、逢ヶ浜は夏の海水浴シーズン中も海水浴客は少ないが、シュノーケリング[201]、地層や磯の生き物の観察に適している[199]。特に大潮の干潮時にはトンボロ現象により、沖合約100 mにある雀岩まで潮が引いて海底が露出するため、足を濡らさずに歩いて渡ることができる[202]。南伊豆町で自然体験プログラムを開いている団体「エコサーファー」代表の堀直也によれば、逢ヶ浜には約33000種の生物が生息しているという[212]。また海女が漁をする姿も見られる[199]。南伊豆休暇村が近くにあるため、観光客が散歩などで訪れることも多い[213]。
交通アクセス
[編集]東海バス「下田駅」バス停(伊豆急下田駅前)から「休暇村経由石廊崎オーシャンパーク行き」に乗車し、「休暇村」バス停で下車。「下田駅」から「休暇村」までの所要時間は約25分[214]。下賀茂温泉からの所要時間は自家用車で約5分[215]。
1990年(平成2年)時点では、7月下旬から旧盆にかけて東京方面から南伊豆地区を訪れる多数の海水浴客により、同地区を走る国道135号や国道136号で交通渋滞が慢性化しており、特に伊豆急下田駅前から弓ヶ浜までの道路(国道136号など)は伊東市から下田市白浜までの国道135号とともに、車両が十数 kmにわたって数珠繋ぎになるような大渋滞も起こるような交通の難所として知られていた[216]
かつては伊豆急マリンが下田 - 弓ヶ浜間の航路を運航していた。この航路は夏場になると弓ヶ浜の交通混雑が激しくなることを受け、伊豆急マリンが観光客誘致を狙って開設したもので、就航当初は1986年(昭和61年)7月から8月の海水浴シーズンに下田 - 弓ヶ浜間を5往復/日、その他の海水浴シーズンには3 - 5往復/日、閑散期には下田 - 弓ヶ浜 - 石廊崎間に不定期で運航する予定と報じられた[217]。
また1982年(昭和57年)からは、太陽レクリエーションセンターが東京・新宿を23時に出発して白浜・外浦・吉佐美・大浜などの海水浴場を経由し、翌朝7時に弓ヶ浜へ到着する夜行バス「伊豆レインボー号・夜行バス」を運行しており、国鉄・指定などを利用するより割安になることに加え、早朝から海水浴場に到着して海水浴ができることなどから、1985年(昭和60年)には5000人が利用しており、大学生やOL、自動車運転免許を取得できない女子中高生から人気を集めていたと報じられている[218]。
その他
[編集]大映が制作した映画『金色夜叉』(1954年)の劇中では、熱海の海岸として弓ヶ浜が用いられている[219]。
2007年には、伊豆半島南部の被災地に陸路で救援部隊が入れない場合を想定し、海上自衛隊の輸送艦「くにさき」を弓ヶ浜海岸の3 km沖合に停泊させ、2隻のエア・クッション型揚陸艇で災害支援に当たる車両(大型トラック、水トレーラー、炊飯トレーラーなど)や陸上自衛隊員を上陸させるという訓練が行われた[220]。同年当時の南伊豆町長・鈴木史鶴哉は、弓ヶ浜は海上からの災害支援人員の輸送に適していると評している[220]。
南伊豆町は1995年(平成7年)、弓ヶ浜や奥石廊崎など町内の代表的な風景写真の入った名刺の台紙5種類を作成し、町の全職員がこれを利用することで積極的に町をPRしようと試みていた[221]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 弓ケ浜とも表記されるが[2][4]、国土地理院の表記は弓ヶ浜である[8]。
- ^ 砂と小石交じりの浜とする文献もある[9]。
- ^ 「タライ岬」とも表記される[14]。
- ^ 弓ヶ浜と小稲港の間に突き出ている手石の岬を弥陀岬[15]、もしくは弥陀山と呼ぶ[16]。この岬の先端の崖下には弥陀窟と呼ばれる洞窟(座標)があり、1934年12月28日に国の天然記念物に指定されている[16]。→「手石の阿弥陀三尊」も参照
- ^ 弓ヶ浜の他、町内では石廊崎海岸、大瀬海岸(蓑掛岩)、波勝崎海岸が選出されている[29]。
- ^ 佐藤昭二ら (1967) は、手石湾内の砂粒の平均粒径は0.3 mm程度、淘汰係数は1.4で、均一な細砂であると報告している[46]。
- ^ 青野川が前田川と合流点する地点から河口まで[43]。
- ^ 弓ヶ浜から見て青野川の対岸にある手石は、青野川が土砂を堆積させたことで形成された沖積地であり、2013年時点では田畑と民家が混在する田園地帯になっている[54]。
- ^ 手石港など南伊豆町内の漁港では、イサキやタカベなどの魚が水揚げされる[56]。
- ^ 魚つき保安林ではなく、潮害防備保安林である[64]。
- ^ 青野川は川幅が狭く、流路も蛇行していたため、かつては下流域を中心に水害が続発していたため、治水対策として1968年から段階的に河川改修が行われ、集中豪雨時の洪水や、地震発生時に川を遡上する津波への対策などが図られた。一方で改修によって川辺の風情が失われたため、2010年(平成22年)から遡って約25年前には川沿いにカワヅザクラやソメイヨシノなど約1000本の桜が植栽され、この桜並木は町を代表する観光資源の1つになった[72]。
- ^ 同館は1986年(昭和61年)4月に開園したが、2012年(平成24年)春には動物輸入卸売業のレップジャパンに買収され、同年8月20日に閉園[74]、同年12月15日に爬虫類・両生類などを展示する体感型動物園「iZoo」として再開園した[75]。
- ^ 孵化小屋[39]。
- ^ 南伊豆町湊は青野川下流左岸にある地名で[89]、江戸時代から明治22年まで伊豆国賀茂郡湊村だったが[90]、明治22年に竹麻村の一部となり、1955年(昭和30年)には現在の南伊豆町の大字となった[91]。
- ^ 「鯉名奥の湊」[95]「鯉名の大港」[96][97][98]とも呼ばれる。
- ^ 湊へ移転する前に手石へ移転したとする説もある[54]。
- ^ 1962年(昭和37年)時点では、弓ヶ浜の知名度はあまり高くなかったとされる[102]。
- ^ 1日の最多入込客数は8月11日・12日の280人で、2023年は天候不良の影響から零年以上に観光客が少なかった[122]。
- ^ 2014年(第37回)は台風11号の影響で同月12日に延期された[125]。
- ^ 2020年は新型コロナウイルスの影響で中止され[129]、翌2021年(第44回)が2年ぶりの開催となった[130][131]。
- ^ 多々戸浜(たたどはま)、入田浜(いりたはま)、吉佐美大浜(きさみおおはま)はいずれも下田市の海水浴場である[37]。
- ^ 同大会は日本各地で年間6戦開催されており、2005年時点で23年目[136]。
- ^ 1993年時点では下田署以外では、松崎警察署が賀茂郡賀茂村宇久須(現:西伊豆町宇久須)の深田海岸で同様の警備を行っていた[151]。なお、西伊豆町や松崎町は後に下田署の管轄区域となっており[152]、2019年時点では例年、宇久須クリスタルビーチや雲見海岸(松崎町)臨時派出所が設置されていたが、新型コロナウイルス禍の中にあった2020年は開設が見送られた[153]。
- ^ 今井浜は2008年まで臨時派出所が開設されていたが[155]、2009年以降は開設されていない[156][157]。
- ^ 海水浴期間中は事件・事故が通常の2、3倍多発するという[117]。
- ^ 同署だけの警備体制となった23日以降も、弓ヶ浜と白浜では海水浴場開設期間を通して24時間パトロールを実施していた[158]。
- ^ 2020年は新型コロナウイルスの感染拡大の影響で開催できなかったため、当時の1年生は2年生になった翌2021年の夏に1年生と日程をずらして臨海学校に参加した[168]。
- ^ ふじみ野高校は前身の大井高校時代から20回近くにわたって弓ヶ浜で臨海学校を開いていた[172]。
- ^ 逢ケ浜[195]、逢ノ浜[196]、逢の浜[197]とも表記され、また「逢ノ浜(おおのはま)」と読む場合もある[198]。
- ^ 「雀岩」(すずめいわ)の名前の由来は、潮が満ちてくると雀の鳴き声のような音を立てることである[14]。雀島[200]、スズメ岩[202]とも呼ばれる。
- ^ 海老穴と表記される場合もある[200]。海から三角形の岩が突き出ており、その形が海老の頭に似ていることが由来である[203]。
- ^ 例えば2013年には2月下旬からハマダイコンが開花し始め、3月下旬に見頃を迎え、5月のゴールデンウィークごろまで花々が見られた[196]。
- ^ 南伊豆町下賀茂の青野川沿いの堤防にもハマダイコンの群生が見られる[211]。
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関連項目
[編集]ぼおるど襲撃事件
[編集]下書き:ぼおるど襲撃事件
下書き:ぼおるど襲撃事件
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[2]
[3]
[4]
[5]
[6]
- 「小倉クラブ襲撃事件」『YOMIURI ONLINE』読売新聞西部本社、2003年8月20日。オリジナルの2004年2月22日時点におけるアーカイブ。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 「クラブに爆発物?投入 店員9人重軽傷 侵入の男自殺 小倉北区」『西日本新聞』西日本新聞社、2003年8月19日、朝刊。オリジナルの2003年10月9日時点におけるアーカイブ。
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大方町7人殺傷事件
[編集]下書き:大方町7人殺傷事件
下書き:大方町7人殺傷事件
大方町7人殺傷事件 | |
---|---|
場所 | 日本: 高知県幡多郡大方町浮鞭[1](現:幡多郡黒潮町浮鞭) |
日付 |
1969年(昭和44年)1月4日[1] 0時20分ごろ[1] (UTC+9) |
死亡者 | 5人 |
負傷者 | 2人 |
刑事訴訟 | 無期懲役(確定)[2] |
管轄 |
大方町7人殺傷事件(おおがたちょうしちにんさっしょうじけん)は、1969年(昭和44年)1月4日に日本の高知県幡多郡大方町浮鞭(現:幡多郡黒潮町浮鞭)で発生した大量殺人事件である[5]。工員の男O(事件当時26歳)が小学校教諭の女性(当時33歳)ら5人を鉄棒で撲殺し、2人を負傷させた[6]。
Oは事件前に精神分裂病で入院歴があり、犯行時のOに責任能力を問えたか否かは意見が分かれたが、高知地方検察庁は犯行時のOは正常な精神状態にあったと判断し、殺人・同未遂容疑で起訴した[4][6]。Oは精神鑑定中に逃走事件を起こした[6]。被告人は1970年(昭和45年)4月24日、高知地方裁判所で死刑判決を言い渡された[7]。控訴審の高松高等裁判所でもOの控訴を棄却する判決が言い渡されたが、Oが最高裁判所へ上告したところ、最高裁第二小法廷(本林譲裁判長)は1978年(昭和53年)3月24日、Oは犯行時に心神耗弱状態だった可能性があると指摘し、原判決を破棄して高松高裁へ審理を差し戻す判決を言い渡した[8]。最高裁が死刑事件で、被告人の犯行時の責任能力をめぐって原判決を事実誤認を理由に破棄し、審理を差し戻した事例は初である[9]。差し戻し審では、高松高裁が1983年(昭和58年)にOは犯行時に心神耗弱状態だったと認定し、死刑判決を破棄してOを無期懲役とする判決を言い渡し[10]、1984年(昭和59年)に最高裁第三小法廷(伊藤正己裁判長)がO側の上告を棄却する決定を出したため、Oの無期懲役が確定した[2]。事件発生から判決確定まで、15年を要する長期裁判となった[11]。
『高知新聞』では大方町七人殺傷事件[6]と呼称される。また高知の七人殺傷事件[8]とも呼称される。『高知新聞』は1969年の「県民が選んだ10大ニュース」で、この7人殺傷事件を「ライフル銃撃事件」[注 1]に次ぐ2位に選出した[16]。また同年にはこの事件以外にも、高知県下で「一連の精神異常者とみられるものの犯行」が相次ぎ、特異なものとして注目された[17]。
事件
[編集]犯人の男Oは友人男性の妹であり、かつ男性Xの四女である女性Yに好意を抱いたが[18]、彼女との関係が不順に終わったことから事件を起こした。Oは中村高等学校に在学していた1958年(昭和33年)ごろ、学友の妹であるY(当時中学生)と知り合った[19]。Oは高校卒業後に呉海上自衛隊に入隊し、自衛隊を退職してからは大阪や広島の職場を転々としていたが、1967年7月から約半年間は精神病で呉国立病院に入院していた[20]。1962年(昭和37年)10月24日から1967年(昭和42年)10月23日までの間、海上自衛隊員として勤務していたが、Yに好意を抱き[18]、1967年3月にはYの誕生祝にアルバムを贈った[19]。また同年4月ごろにはYに結婚申し込みを匂わせた手紙を出したが、判然と拒絶されたのみか、文通も断る旨の返事をされた[19]。 1967年6月ごろ、彼女に結婚を申し込んだ[18]。しかしYや彼女の家族は革新主義者であったため、Oとは主義相容れざるものとして断られた[18]。また1968年(昭和43年)1月にもYの家を訪れたが、Xらと思想的に対立して不快な思いをしたことなどから、彼ら一家を深く恨み、遂にはX・Yら家族全員を皆殺しにしようと決意した[21]。同年12月ごろ[1]、Oは当時勤務していた広島県呉市の工場から[22]、長さ約80.4 cm、幅約3.6 cm、厚さ約1.3 cmの棒洋鉄片(以下「鉄棒」)を持ち出し、茶色のテープ[注 2]を巻き付けて木刀に偽装した[1]。前者の鉄棒はOが勤務していた工場に、約2か月余り以前から放置されていたスクラップ片で、後者のテープも向上で使用されていたものだった[22]。Oは同年12月31日、この鉄棒を持って高知県中村市(現:四万十市)の実家(両親宅)に戻り、殺害の機会を窺った[1]。
1969年(昭和44年)1月3日22時ごろ、Oはタクシーで高知県交バス中村営業所[注 3]前から幡多郡大方町浮鞭のX宅近くまでタクシーで向かい[22]、22時過ぎごろになってX宅を訪れたが、XおよびYの実姉である女性A1(当時33歳)から冷たくあしらわれ、帰宅を促された末にタクシーを呼ばれ、乗車させられた[1]。A1はXの長女であり、大方町立湊川小学校の教諭で、事件当時は実家に帰省していた[20]。このタクシーの運転手は、Oの小中学校の2年後輩である男性Bだった[26]。このため犯行の機会を逸し、いったんは中村市に向かったOだったが、憤懣やる方なく、23時50分ごろには一家を殺害しようとB(当時24歳)に対し、X宅に引き返すことを強要し、到着するとBを下車させてX宅の玄関4畳の間まで連行した[1]。1月4日0時20分ごろ、Oは殺意を持ってBの頭部を殴打した[1]。そして奥6畳の間で就寝していたA1の長女A2(当時7歳)[注 4]、次女A3(当時5歳)、三女A4(当時1歳)の3人を、玄関4畳の間で駆けつけてきた近所の男性C1(当時52歳)を、玄関でA1と悲鳴を聞いて駆けつけたC1の長男C2(当時20歳)を、それぞれ鉄棒で同様に殴打した[1]。
事件後、被害者7人はいずれも中村市内の病院に搬送されたが[27]、A1とC2は即死しており、A2も同日7時30分ごろに搬送先の中村市民病院で死亡した[1]。また負傷した4人は手術を受けたが、A3は同日21時5分に[28]、C1も8日13時48分ごろに死亡した[1]。各被害者の死因は、A1が頭蓋骨骨折による脳出血、C2が頭蓋骨骨折・脳挫滅による脳機能障害、A2は血管破裂を伴う頭蓋骨骨折など、A3は頭蓋骨骨折・脳挫滅、C1は頭蓋骨骨折・脳出血・脳挫滅である[1]。A4とBの2人は一命を取り留めたが[29]、A4は全治期間不明の側頭部打撲傷・脳挫傷を、Bも全治約2か月の後頭部挫傷・脳震盪・頭蓋内血腫疑の傷害をそれぞれ負い[1]、高松高裁 (1975) ではそれぞれ聴力や視力の一方を失ったり、言語障害などの後遺症に苦しんだりしていると認定されている[29]。
なお当主のXは犯行当初、現場の茶の間に居合わせており、またYも犯行の前半までは姉妹の1人とともに家の2階におり、階下から人の声がするのを聞いていたが[26]、彼らに怪我はなかった。Oは犯行後、X宅北側の道端に駐輪されていた他人の自転車に乗って逃走したが、隣人ら数名にX宅から立ち去る姿を目撃されており、またこの自転車は事件から約4時間後にOの立ち寄った義兄宅付近に遺留されていた[22]。
捜査
[編集]事件発生を受け、高知県警察の所轄署である中村警察署は殺人事件と断定して全署員を非常招集し、捜査を開始したが、Oは同日4時48分ごろ、義兄の家に立ち回ったところを殺人および同未遂の容疑で緊急逮捕された[27]。
Oは逮捕後、6日までは「浮鞭というところは知らない」などと供述し、犯行を強く否定していたが、7日になって犯行現場に行ったこと、および7人を殺傷した事実を認めた[30]。また6日から7日にかけて、Oが犯行時に着用し、犯行後に脱ぎ捨てた黒いコートや、海岸に埋められていた凶器の鉄棒もそれぞれ発見された[3]。中村署は同月20日、Oを殺人・同未遂の罪で高知地方検察庁へ送検した[31]。Oは事件前に精神分裂病による入院歴があったことに加え、事件後には取り調べで意味不明な供述をしていたため、捜査機関の中では精神異常を疑う意見が上がっていたが、高知地検は同月24日、Oを殺人・同未遂容疑で高知地方裁判所へ起訴した[4]。高知地検はそれまでの取り調べを通じ、Oが事前に凶器を準備したり、犯行後に着ていたコートや凶器を隠したりしたことや、呉市の勤務先では異常な言動が見られなかったことから、Oは犯行時、正常な精神状態にあったと判断して起訴に踏み切ったのである[4]。『高知新聞』はそれまでO本人や親族の人権保護への考慮を理由に、Oを匿名で報道していたが、「法の〝執行者〟である検察庁が、精神鑑定を待たずに、公開の場において裁断される公判の請求」をしたことを理由に、翌25日付の朝刊から実名報道に切り替えた[4]。その後、同紙は1983年の第二次控訴審判決でOが犯行時心神耗弱状態にあったことが認定されたことを受け、再び匿名報道に切り替えている[10]。
刑事裁判
[編集]差戻前
[編集]刑事裁判の第一審は高知地方裁判所刑事第1部に係属した[26]。被告人Oの第一審初公判は1969年2月13日、高知地裁(白石裁判長)で開かれ、罪状認否でOはタクシー運転手に対する殺人未遂の事実を認めたが、ほか6人の被害者に対する殺傷行為については「思い出せない」と供述した[32]。その後、弁護人の岡村連がOの精神鑑定を申請した[33]。
高知地裁は関西医科大学にOの精神鑑定を依頼し[33]、Oは同年4月7日[33]、同医大から大阪府守口市の精神科病院「京阪病院」へ移送されて診察を受けていたが、同年4月10日夜に窓の鉄格子を外して逃走[33]、新大阪駅発博多駅行き特急「月光2号」に無賃乗車した[34]。翌11日3時30分過ぎ、Oは同列車の3号寝台車に隠れているところを車掌に発見され、運転台の下の隙間に潜り込むなどしたが、車掌が安芸中野駅のホームへ投げ文をして広島鉄道公安室へ連絡した[34]。Oは4時35分、広島駅で広島鉄道公安官に逮捕された[35]。Oは逮捕された当時、ジャンパーの下に長さ約50cm、厚さ約1cmの鉄板や、白石が出した精神鑑定決定書を持っており、逮捕後に広島拘置所へ収監された[34]。この事件の影響に加え、Oは医師の質問に答えなかったため、Oの精神鑑定は責任能力に問題があるか否かを判断する資料は得られないまま同年末に終了し、Oは高知刑務所へ移監された[36]。
1970年(昭和45年)3月24日の公判で第一審の審理は結審し、同日の論告求刑で、検察官はOに死刑を求刑した[36]。検察官は論告で、事前に凶器を準備するなど犯行には計画性が認められ、犯行後には凶器の鉄棒を砂浜に埋めて隠したり、自転車を盗んで逃走したりと合理的な行動を取っていることや、公判では自身に有利なことは積極的に供述する一方、不利なことに関しては黙秘権を行使したり、精神異常を装ったりしており、その言動は作為的なものであると指摘、結果の重大性や反省の場が認められない点から極刑以外はあり得ないと主張した[36]。一方で弁護人の岡村は、精神鑑定の結果は心神喪失とはなっていないが、自身のこれまでの経験からOは心神喪失もしくは心神耗弱状態にあったと考えられるため、無罪とするか量刑を減軽すべきであると主張した[36]。最終意見陳述で、Oは「デッチあげのデッチあげによるデッチあげの裁判だ。事件当時、わたしは中村市の飲み屋にいた。また、問題の女性については知らない。それに決まった女性もあり、一人の女性でたくさんです」と陳述した[36]。
高知地裁(白石裁判長)は1970年4月24日、検察官の求刑通りOを死刑とする判決を言い渡した[37]。Oは白石が判決理由を述べている間、胸をそらして「上申書はどうなっている」と問い返すなどしていた[38]。Oは高松高等裁判所へ控訴したが、1975年(昭和50年)4月30日に高松高裁(小川豪裁判長)で控訴を棄却する判決を言い渡された[39]。
破棄差戻
[編集]しかし被告人Oが最高裁判所へ上告したところ、最高裁第二小法廷(本林譲裁判長)は1978年(昭和53年)3月24日、Oは犯行時に心神耗弱状態だった疑いがあるとして原判決を破棄し、審理を高松高裁へ差し戻す判決を言い渡した[40]。
差戻後
[編集]差戻後の控訴審で、高松高裁(金山丈一裁判長)は1983年(昭和58年)11月2日、高知地裁が言い渡していたOを死刑とする原判決を破棄し、Oは犯行時心神耗弱状態だったと認定した上で、Oを無期懲役とする判決を言い渡した[10]。同判決に対し、Oは心神喪失などを主張して上告したが[2]、1984年(昭和59年)7月3日付で[41]最高裁第三小法廷(伊藤正己裁判長)から上告棄却の決定を出されたため、無期懲役が確定することとなった[2]。第三小法廷は同決定で、被告人の精神状態が刑法第39条にいう「心神喪失又は心神耗弱」に該当するかは法律判断であるため、もっぱら裁判所の判断に委ねられているとした上で、原判決の判断(精神鑑定書のうち、Oは犯行時に心神喪失状態だったとする記載の部分を採用せず、鑑定書全体の記載内容やそれ以外の精神鑑定の結果、記録を総合的に鑑み、Oが犯行時心神耗弱状態だったと認定した判断)は正当であると結論付けた[41]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 犯人3人は同年3月に高知県香美郡土佐山田町(現:香美市)で土佐村役場職員(当時36歳)を射殺する事件を起こしたほか、警察官を殺害して拳銃を奪う計画なども立てていた[6]。3被告人は強盗殺人罪などに問われ、高知地裁(白石裁判長)は1970年3月30日、主犯の男N(当時22歳)を死刑、共犯の1人である男(当時24歳)を無期懲役、もう1人の共犯である少年(当時18歳)に懲役15年をとする判決を言い渡した[12]。高知地裁で言い渡された死刑判決は、1956年以来、戦後3回目とされていた[12]。しかし3被告人が控訴したところ、高松高裁(木原繁季裁判長)は1973年3月29日に原判決を破棄し、Nを無期懲役、第一審で無期懲役とされた男を懲役15年、同じく懲役15年とされた少年を懲役12年とする判決を言い渡した[13]。このためNは無期懲役が確定したが[14]、同刑の仮釈放中だった1998年2月に豊中市2人殺害事件を起こし、2006年に最高裁で死刑が確定した[15]。
- ^ 高知地裁 (1970) では紙テープ[1]、高松高裁 (1975) ではビニールテープとされている[22]。
- ^ 高知県交通株式会社中村営業所は1968年時点で、高知県中村市中村字築地737の1番地に所在していた[23]。同営業所は1978年時点で、中村市大橋通5丁目7に所在していたが[24]、1979年時点では同市右山383に移転していた[25]。
- ^ A2は事件当時、町立南郷小学校の2年生だった[20]。
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- ^ 『高知新聞』1969年1月5日朝刊11頁「大方町の殺傷事件 重体の幼女死ぬ 取り調べ進まず」「また起きた凶悪事件 防げぬか、精神異常者の犯行 三氏に聞く問題点と対策」「和気正人(高知市精華園院長) 周囲の理解必要 既往症の追跡は不可能」「清遠明男(県警本部防犯少年課長) 手の出せない警察」「青山信彦(県厚生労働部長)相談員の設置 センターも計画」(高知新聞社)
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- ^ 『高知新聞』1969年1月8日夕刊5頁「【中村】大方町の殺傷事件 犯行の一部を自供」(高知新聞社)
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- ^ 『高知新聞』1975年5月1日朝刊17頁「【高松】大方町の片思い7人殺傷事件 二審も死刑判決 高松高裁 精神異常認めず」(高知新聞社)
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参考文献
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- 野村二郎『最高裁全裁判官―人と判決―』三省堂、1986年9月1日、199-201頁。doi:10.11501/12019476。NDLJP:12019476/109。