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一戸氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
一戸氏
家紋
割菱わりびし
本姓 清和源氏 南部氏庶流
家祖 一戸行朝南部光行長男
種別 武家
出身地 甲斐国
主な根拠地 甲斐国南部郷
陸奥国閉伊郡
支流、分家 野田氏(九戸郡)
津軽石氏閉伊郡
千徳氏(閉伊郡)
凡例 / Category:日本の氏族

一戸氏(いちのへし)は、日本の氏族。

出自

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一戸氏は南部支族であり、南部氏初代・南部光行長男行朝庶子だったため家督を継げず、一戸郷を領知し野田(二戸郡一戸町)に居、その子・義実建長年間(12491256年)に一戸城(現在の岩手県二戸郡一戸町)を築いて本拠として糠部郡南門を総攬した家として知られる。

歴史

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一戸南部氏の本拠は馬淵川中部の一戸郡で累代一戸城にて治し、南北朝期以降、多くの分流を生じて岩手郡や閉伊川筋の地頭になっているものや津軽郡方面にも分流が出て、累代の世系や事跡や本末はきわめて錯綜しており、それを分別する資料が少ない。

一戸氏の分流のうち、岩手郡の北部に入って地頭となったものに、荒木田氏平舘氏寄木氏堀切氏閉伊川筋には千徳氏(仙徳、泉徳)八木沢氏津軽石氏江繋氏根井沢氏江繋氏九戸郡東部には野田氏閉伊口(蛇口)氏種市氏鹿角郡には長牛氏谷内氏津軽郡には中村氏浅瀬石(浅石)氏十二屋氏などの各氏を輩出した。その内、荒木田氏、長牛氏、中村氏は明治2年(1869年)に何れも本姓の一戸氏に復した。

一戸氏の嫡流甲斐の南部領を所管していたが、南北朝期に衰退してしまった。また、室町中期に至って、閉伊郡の野田、千徳に一族が分布していたが、此の時の一戸本城の事跡が不明になっている。一戸氏嫡流は代々一戸本城にあって遠江守を襲号するのが例であったが、一戸氏の嫡流ではない一戸五郎光恒の後胤と称する岩手郡一戸党のものが、元亀天正中の一戸城に入城し継いでいた。[1]

第24代南部家当主である三戸南部氏の南部晴政ならび南部一族の有力勢力・九戸氏の連衡と、石川(南部)信直を盟主とする南長義北信愛の連合の間での南部一族内の対立において、天正9年(1581年)9月、城主一戸政連[2]と政連の子一戸出羽 は、実弟の平館政包によって討死した。これは九戸政実の煽動によるものとされている。

後に第26代南部家当主となった南部信直一戸城を攻め落として、北信愛の二男・北秀愛を城主として配し、天正19年(1591年)の九戸政実の乱では籠城して九戸氏側の夜襲に耐えた。乱の翌年、文禄元年(1592年豊臣秀吉の命により一戸城は廃城となった。

一戸氏分家筋である一戸実富は、九戸政実の乱に際して九戸氏側に属し、秀吉の奥州再仕置軍から首謀者の一人として栗原郡三迫(現在の宮城県栗原市)で誅されて滅亡した。

系譜

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庶家

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