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トヨタ・セリカLBターボ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
トヨタ・セリカLBターボ
カテゴリー グループ5 スポーツカー
コンストラクター トヨタ
主要諸元
エンジン トヨタ 18R-G 2,090 cc (127.5 cu in) I4 ターボチャージャー フロントエンジン, 縦置き
トランスミッション 5速 MT
重量 860 kg (1,896.0 lb)
燃料 シェル
タイヤ ダンロップ
主要成績
チーム
ドライバー
初戦 1977 DRM ホッケンハイム
優勝
1
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トヨタ・セリカLBターボは、ドイツ・トヨタがドイツレーシングカー選手権(DRM)のディビジョン1に参加するため、初代トヨタ・セリカの2000GT、リフトバック(LB)をベースにしてシュニッツァーによって開発されたグループ5カーである。

1977年1978年にドイツのDRMシリーズに参加した。信頼性の問題に悩ませられたが、2度の完走とノンチャンピオンシップレースで優勝した。その後、マシンが日本に送られ、シルエットカーレースに参戦した。

ドイツのレースに参戦したシーズンを通じて、トップディビジョンを走る唯一の日本車であった。

開発

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セリカLBターボは、当時国際的にモータースポーツを席巻し、ドイツレーシングカー選手権(DRM)シリーズのグループ5カテゴリであるディビジョン1も支配していたポルシェ・935に対抗するべく開発された。

多くのグループ5車両と同じく、車体に大規模な改造を受けており、大部分が軽量なグラスファイバーで作りなおされた。ただし、ボンネット、ルーフ、ドアとレールパネルはベースモデルのものを使用している。ドアパネル前後のワイドフェンダーと、ヘッドライトと長方形のグリルを包み、ボンネットを越えて傾斜しているフロントノーズが特徴である。

エンジンは市販車に搭載される18R-G型エンジンをベースに2,090ccまでボアアップし、特別設計の16バルブヘッドとクーゲルフィッシャー製の燃料噴射装置が組み合わせられ、KKK英語版製のターボチャージャーで過給し、最高出力560ps(418kw)を発生した[1][2]

ボディカラーは1977年シーズンが青、1978年シーズンは赤と白のツートンに変更された。同時に空力を改善するためボディワークにも修正が加えられ、エンジンもツインターボ化された。両シーズンとも、光学メーカーのローデンストックによるスポンサーシップがあった。

1977年

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1977年7月、ホッケンハイムリンクにてF1ドイツグランプリのサポートイベントとして開催された、DRMシリーズの第8戦でデビューを飾った。ドライビングはハラルド・アートルが担当したが、予選はポールポジションの935から25秒遅れの13位、決勝では4ラップでリタイアした。次ラウンド8月のゾルダーでは、ポールの935より5秒遅れの予選7位につけたが、決勝は3ラップでリタイアした。10月の最終戦ニュルブルクリンクにおいて初完走を果たし、プライベーターのポルシェ3台に続く4位でフィニッシュした[3]

その後、ゾルダーで行われたノンタイトルレースのADACトロフィーへ出場し、初優勝を果たした。

1978年

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前年ポルシェで活躍したディフェンディングチャンピオン、ロルフ・シュトメレンをドライバーに迎えた。第1戦のゾルダーでは、2周目にエンジン故障でリタイア。第2戦ニュルブルクリンクは欠場し、同じくニュルブルクリンクで開催されたアイフェル・レンネンがサポートする第3戦では、わずか4周でリタイアした。

アヴスで行われた次戦を欠場し、ニュルブルクリンク1000kmに出場した。シュトメレンはアートルと組んで参戦し予選6位につけたが、決勝はウォーターポンプとエンジンの故障でリタイアした。次戦のマインツフィンテンでは、7台の935に続く8位でフィニッシュした(935以外では最高位)。

2戦を欠場した後のホッケンハイムでは、7周目でクラッシュしリタイア。次戦のゾルダーでは1ラップも走り切ることなくリタイアした。ゾルダーに向かう途中の事故がもとで、社長であったヨーゼフ・シュニッツァーが亡くなり、この時点で2戦が残っていたが、セリカはレースに戻ることはなかった[4]

その後、シュニッツァーはBMWでの活動に専念し、成功を収めた。

日本

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1979年、セリカはトムスによって日本国内に輸入され、同社の創設者、舘信秀のドライビングで富士スーパーシルエットシリーズに参戦した。赤と白のツートンカラーは1978年と同じままで、スポンサーのみチェックマン、タミヤ髙島屋[5]に変更された。9月に開催された富士インター200マイルレースでは、優勝を果たしている。翌年、トムスは童夢と共同で、RA40系セリカをベースにした新しいシルエットマシンの開発に注力していく[6]

1981年には、トラストから星野薫のドライブで富士スーパーシルエットシリーズに参戦した。9月に行われた富士インター200マイルレースにて3位に入賞している。1982年には「トラストツインターボセリカ」としてエントリーした。

1983年、トラストは新たに購入したポルシェ・956全日本耐久選手権へ参戦するためセリカLBターボが使用されなくなり、同年のRRC筑波チャンピオンズレース最終戦が最後のレースとなった。

その後、本車の消息は長らく不明となっていたが、2000年代になってトラストカラーの個体が国内の廃車置き場に放置されている姿が確認されている[7]。のちにレーシングパレスがその個体を入手し、レストアされて1977年当時のカラーリングが復元された[8]

脚注

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  1. ^ :::: GREAT RACING CARS :::: Toyota Celica LB Turbo Gr5 Page 1 of 2”. Racing65.com. 2010年9月19日閲覧。
  2. ^ :::: GREAT RACING CARS :::: Toyota Celica LB Turbo Gr5 Page 2 of 2”. Racing65.com. 2010年9月19日閲覧。
  3. ^ DRM 1977 Result”. wspr-racing.com. 2010年9月27日閲覧。
  4. ^ DRM 1978 Result”. wspr-racing.com. 2010年9月27日閲覧。
  5. ^ 当時、高島屋の関連企業として「トヨタカローラ高島屋」が存在した。
  6. ^ DOME CELICA TURBO 1980”. 株式会社 童夢. 2021年9月9日閲覧。
  7. ^ Zillin, Adam (2009年8月9日). “Abandoned In Japan: The Schnitzer Group 5 Celica”. 7Tune.com. 2010年9月19日閲覧。
  8. ^ 『CAR GUY magazine 4』シグマプランニング、07/01、109頁。