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藤原経清

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藤原経清
時代 平安時代中期
生誕 不明
死没 康平5年9月17日1062年10月22日
別名 亘権守、亘理権大夫
官位 陸奥権守五位、散位(官職なし)
氏族 藤原氏奥州藤原氏初代当主の父。
父母 父:藤原頼遠、母:平国妙の姉妹で、藤原頼遠との離婚後は正二位公卿参議大納言である“朝廷の最重要級貴族”・藤原経輔(ふじわらのつねすけ)の妻。
兄弟 経清、連国[1]
安倍頼時の長女・有加一乃末陪
清衡、刈田経元[2]、経光[3]
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藤原 経清(ふじわら の つねきよ)は平安時代中期の、位階が“五位以上”の貴族軍事貴族)である陸奥国亘理郡領主。 先祖は首都京都(平安京)の藤原氏であり、その子孫である従二位公卿)・武蔵守(東京都神奈川県埼玉県)兼下野守(栃木県)兼鎮守府将軍である武門の棟梁藤原秀郷の6代後裔(『尊卑分脈』)。母の再婚相手は正二位公卿参議大納言である“朝廷の最重要級貴族”・藤原経輔(ふじわらのつねすけ)。なお、藤原経清と同じ軍事貴族として、平氏源氏がある。

経歴

藤原経清の母は“陸奥国のナンバースリー”である父・藤原頼遠と離婚して、“50年間関白藤原頼通が君臨する“朝廷の最重要級貴族(公卿)”である正二位藤原経輔(ふじわらのつねすけ)と再婚した。 藤原経清の名前である「経清(つねきよ)」の「経」の漢字は藤原経輔の名前である「経輔(つねすけ)」の「経」の漢字を藤原経輔から賜ったものだとみられる。このように、有力な人物が身分が非常に高い人物から名前の一文字を与えられることを偏諱という。 藤原経清は朝廷の最重要級貴族である藤原経輔を“後ろ盾”とし、藤原経輔や経輔が“朝議の席で臨座する関白・藤原頼通”らの藤原氏(日本)の最上層部から支援されていたとみられる。

藤原経清は「亘理権大夫(わたりのごんのたいふ)」と呼ばれた、位階(身分)が“五位以上”の貴族である。 藤原経清は、朝廷が日本全国の68ヵ国を国力別に大国・上国・中国・小国の4ランクに分類した中で“最上位の国”である大国であり、更に“面積が圧倒的に日本最大の国”でもある陸奥国(宮城県福島県岩手県青森県)において、陸奥国の国府鎮守府である多賀城がある宮城県南部の亘理郡を領有する領主(豪族)でもある。 藤原経清の官位相当での本来の官職(職業)は“大国の国司”である陸奥守鎮守府将軍陸奥按察使山城守京都府)等の“日本全国の国司達の中でトップレベルの国司”に相当するが、なぜか官職をもたない散位であった。 藤原経清は[1]国府の在庁官人として“陸奥国府・多賀城のナンバーツー”,すなわち“東北地方のナンバーツー”であり、同じ藤原氏である陸奥守・藤原登任(当時正五位上)の側近として、藤原登任と共に首都京都平安京)から陸奥国へ下向(赴任)してきたとみられる。

藤原経清の名前が登場する史料は『陸奥話記』だけで、藤原経清のである「藤原」の姓は私称(嘘)ではないかと、歴史学者(大学教授)や保守層の一部の人達から長年疑問視され、差別されてきた。 しかし1992年、藤原氏の氏長者である“50年間関白藤原頼通が永承2年(1047年)に位階貴族である五位以上の藤原一門に奈良興福寺の修造資金の寄付を要請した文書である『造興福寺記』(重要文化財)の中に、藤原経清の名前が書かれていることが判明した。この発見によって、藤原経清が京都の藤原氏と同じ藤原一門であることが証明された。しかし、その後も現在まで、右翼人種差別主義者を中心とする藤原経清と奥州藤原氏への日本史上の差別と認識不足が、改められることなく続いている。東北地方(宮城県福島県山形県岩手県秋田県青森県)における“東北地方南部の宮城県”へ移住した藤原経清は、首都京都平安京)から関東地方へ移住した藤原氏である従二位公卿藤原秀郷(武蔵守東京都神奈川県埼玉県))・[[下野守]](栃木県)・鎮守府将軍武門の棟梁の6代目の子孫であり、“首都・平安京京都)の次ぎに人口が多かった第二の平安京”である世界遺産・[[平泉]]をつくった奥州藤原氏の創始者・藤原清衡の父親でもある。

ただし藤原清衡の母は、“東北地方北部(岩手県秋田県・[[青森県]])”に住む“非征服者である事実上の半奴隷”俘囚であり、その“俘囚の豪族たちの中の最強の豪族”である俘囚長・安倍頼良安倍頼時)(岩手県南部の奥州市衣川村)の長女(史料では有加一乃末陪と記載されている)だった。 “日本列島の全域”には遥か大昔から日本人が住んでいたとみられ、そのあと日本人が3万年前に作った石器が発見され、1万6000年前以降は縄文式土器を作る縄文人が“日本列島の全域”に住んでいた。この縄文時代の日本は“東高西低(とうこうせいてい)”の時代だった。特に(北海道および沖縄等の西南諸島を除く)“大雑把な意味での東日本”すなわち北日本である東北地方と東日本である関東地方の人口は西日本の人口よりはるかに多く、“(東北地方を含む)東日本”は西日本に対して“先進地帯”だった。 “日本列島の全域に先住民である縄文人が住んでいた”ということは考古学で証明されていて、縄文時代の西日本に人が住んでいないはずもなく、日本列島全域に縄文人が住んでいたことは普通に考えてみれば当然のことなのだが、ほとんどの日本人はこのことを知らず、日本人は“縄文人は東北地方関東地方にだけ住んでいた”と非常に大きな錯覚をしている。 日本人にこの非常に大きな錯覚をさせている原因は、教科書等に載っている縄文式土器弥生式土器の“分布地図”に代表される日本の非常に偏った歴史教育である。この縄文式土器と弥生式式の“主な”分布図は、日本列島に「縄文式土器=(東北地方を含む)東日本、弥生式土器=西日本」として書かれていて、「縄文人=東日本、弥生人=西日本」というイメージを植え付けられている。そのため日本人が学生時代に「縄文人は東日本に住んでいて弥生人は西日本に住んでいる」という非常に大きな錯覚をさせられている。このような誤った歴史教育によって縄文人のイメージは大きく捻じ曲げられていて、更に一言で言えば、日本の歴史教育は“縄文時代をほぼ無視している”と言える。 しかし実際には縄文文化は“日本が世界に誇れる非常に優れた文化”であり、1993年青森県県庁所在地である[[青森市]で]野球場を建設していたとき偶然発見された三内丸山遺跡青森県青森市)に至っては、メキシコの古代文明と同様に“世界の四大文明に匹敵する文明である”と主張する学者もいるほどである。このことは、青森県などの東北地方北部の地下部分(地層部分)には三内丸山遺跡のような“世界の四大文明レベルの巨大遺跡”が他の場所にも存在する可能性が十分あるが、それらの遺跡は既に都市の住宅地などの下になっていたりしてまだ発見されていないとみられる。 この“日本の原住民”である縄文人が暮らしていた非常に長く平和な時代が続いた日本に、今から約2400年前の紀元前3世紀以降、朝鮮半島から九州地方北部に弥生人と呼ばれる朝鮮人が侵入してきて、日本に戦争をもたらした。こうして日本では“戦争の時代”が始まった。侵入者である朝鮮人(弥生人)は縄文人が持っていなかった金属製の武器を駆使して“日本人”である縄文人を大量殺戮し、小国家を造っていった。この朝鮮人の小国家のことは中国王朝の記録に書かれていて、最初は「100余国」あった朝鮮人の小国家は戦争による他国の征服によってやがて「30余国」となった。それらの国々の中で九州地方北部のシャーマンである卑弥呼を“旗頭”の女王に擁立した諸国連合国家,邪馬台国が強大化した(最高実力者は卑弥呼の弟)。更に約1700年前の4世紀後半、「朝鮮半島南部の任那出身である御真城入彦(みまきいりひこ)が“奈良盆地豪族連合である地方王国”大和王国(奈良県桜井市)の初代大王天皇)になった。これが応神天皇で、大和王国は“母国”である朝鮮に“逆進出”して朝鮮の王国を征服するまでに強大化した(6世紀前半に朝鮮半島から撤退)。この頃大和王国は大阪平野の海沿いに巨大な古墳をたくさん造った(百舌鳥古墳群大山古墳(旧仁徳天皇陵など))。既にこの頃までに大和王国は、他の地方王国である中国地方西部(山陰地方)の出雲王国(島根県),中国地方東部の[[[吉備]]王国(岡山県),九州地方南部の博多王国(福岡県福岡市)などを“緩やかな上下関係”で連合服属させていた。大和王国はその後も関東地方の“日本最大の川”利根川上流域(嫡川)を本拠地とする毛野王国(群馬県高崎市),東北地方南部(宮城県福島県山形県)の“東北地方最大の平野”仙台平野を本拠地とする仙台王国(宮城県仙台市)などを、同じやり方で服属させた。こうして大和王国が本州でまだ征服していない地方王国は、“東北地方北部(岩手県秋田県青森県)”の北上盆地を本拠地とする日高見王国(日高見国)(岩手県奥州市)だけとなった。 朝廷は“最後の敵”である日高見王国を征服するために、現在の東北地方南部(宮城県福島県山形県)における旧仙台王国の首都だった宮城県仙台市に、陸奥国国府鎮守府である郡山城郡山遺跡)を造り、日高見王国との戦争の最重要拠点とした。鎮守府は“朝廷の最大の軍事組織”で、“日本でただ一人だけの存在”である鎮守府の長官は、令外官鎮守府将軍である。鎮守府は幕府より古い時代の軍事組織で、“常時の地方軍政府”が鎮守府であり、“臨時の地方軍政府”が幕府である。その意味で本来は、源頼朝から始まる幕府による長期的な武家政治は、“違法な越権行為”なのである。こうして宮城県は、日本における“侵略のフロンティア”となった。 当時日本の九州地方には“文化の玄関口”である大宰府はまだ存在しない。九州に大宰府ができたあとの724年、陸奥国の国府兼鎮守府は仙台市に隣接する多賀城市に遷って、多賀城が陸奥国の国府兼鎮守府となった。そして日本はそれ以降、首都・平城京奈良県)を日本の中心としながら“北の多賀城”と“南の大宰府”が、“日本の3大重要拠点”となった。つまり仙台市にあった陸奥国の国府兼鎮守府である郡山城は、“日本の副首都格の重要拠点”だった。 朝廷や「朝廷の遠の朝廷(とおのみかど)」である多賀城の人々は、東北地方北部の住民である日高見王国の国民を、エミシという蔑称で呼んだ。 エミシは「野蛮人」の意味で、非人間的で動物的な「悪者」のイメージをもつ名称である。もちろんこれは、朝廷が征服しようとしている敵国の国民への“単なる悪口”でしかなく、第2次世界大戦の頃、日本を支配していた軍部がイギリス人とアメリカ人を「鬼畜米英」だと盛んに宣伝し、国民に「アメリカ人とイギリス人は鬼のような獣(けだもの)だ」と信じ込ませようとしたのと同じである。 ところが「エミシ」を漢字で書くと「蝦夷」となり、のちの時代に「蝦夷」は「エゾ」と発音するようになって、その「意味」が全く変わってしまったため、非常に複雑で厄介な問題が発生する。 朝廷は日高見王国との戦争を開始したが、日高見王国には名馬がたくさんいて日高見王国は強力な騎馬軍団をもつ強い国だったため、朝廷は日高見王国をなかなか征服することが出来なかった。そればかりか朝廷は逆に、“東北地方最大の川”である北上川流域での戦いで大量の戦死者をだして大敗したことまであった。 しかし、朝廷と日高見王国との戦争中から、朝廷は日高見王国の豪族懐柔して、戦わずして日高見王国の有力者を服属させていた。これは大和王国(朝鮮人)による“日本征服戦争”の序盤である出雲王国を服属させたときから行われてきた“大和王国の常套手段”である。 このような、戦争中から朝廷に降伏した「エミシ」を俘囚と言う。俘囚は非征服者である半奴隷として扱われた。この“俘囚の豪族たちの中で最も有力な豪族”は、東北地方を南北に縦断する“日本最大の山脈”奥羽山脈によって太平洋側の陸奥国(宮城県福島県山形県)と日本海側の出羽国(岩手県秋田県青森県)の2ヵ国に、それぞれに一人ずつ朝廷から俘囚長に任命された。 そうした状況にあった東北地方南部の宮城県北部・伊治郡(これはりぐん)(誤記・上治郡(かみはりぐん))(宮城県栗原市栗駒町)の大領(だだいりょう)(郡長)である俘囚(降伏エミシ),伊治砦麻呂(これはりのあざまろ)は、位階従五位下貴族だったが従五位下である傍流の貴族で、出自(家柄)が俘囚だということで、朝廷系(中央系)の牡鹿群大領(郡長)である道嶋大盾(宮城県石巻市牡鹿町)などから侮辱されていた。780年、伊治砦麻呂はこれまでの自分に対する侮辱に激怒し、居城・伊治城に招いた“東北地方のトップスリー”である陸奥守大伴真綱陸奥按察使鎮守府副将軍・紀広純,道嶋大盾を襲撃し、逃走した大伴真綱を除く道嶋大盾と紀広純を殺害し、3人に付き従ってきた将兵を撃破して多賀城まで南下し、多賀城を攻撃して朝廷軍を敗り、多賀城を略奪したあと多賀城を放火して焼き落とした。ここに“対日高見国戦争の最重要拠点”は壊滅し、復讐を果たした伊治砦麻呂は将兵と共に母国・日高見王国(岩手県)へ戻って行き、以後消息不明となった。 このように日高見王国の豪族は、エミシも俘囚も非常に強かった。 そうした状況の中、794年に新首都・平安京を造営した桓武天皇坂上田村麻呂を初代征夷大将軍に任命し、坂上田村麻呂は801年、強敵・日高見王国と“偽の講和”をして2人の共同統治者,〔[大墓君阿弖流為]](たのものきみ・あてるい)と磐具君母礼(ばんぐのきみ・もれ)を“騎馬兵500人の大軍”と共に造営したばかりの新たな首都平安京までおびき出し、日高見王国の2人の共同統治者を含む日高見王国の有力者たちを殺害して、日高見王国を滅ぼすことに成功した。「君」は天皇の重要臣下であることを意味する称号だが、もちろん阿弖流為と母礼は天皇の臣下ではなく独立した王国の王である。朝廷が阿弖流為に付けた名前である「大墓君阿弖流為」は、この国王が「主戦派である強力な軍事力をもつ王だったが偽の和議によってこの王の軍事力を防ぐことに成功した」ということを意味しているとみられる。同じく朝廷がもう一人の王を「磐具君母礼」と名付けたのは、この王が「坂上田村麻呂が礼節を尽くして贈り物をするなどの懐柔をしたことによって偽の和睦に応じた」ということを意味しているとみられる。その後の間を空けた811年、桓武天皇の息子・嵯峨天皇文屋綿麻呂に日高見王国の残党勢力を一掃させ、日高見王国との戦争は完全に終わった。こうして日高見王国は滅亡し、東北地方北部(岩手県・秋田県・青森県)の住民は朝廷から奴隷扱いされた。そして東北地方北部の住民は戦前の征服されるまえに“動物的な野蛮人”を意味する蔑称である「エミシ」と呼ばれたのと同様に、朝廷に国を征服されて奴隷扱いされるようになってからも「エミシ」と呼ばれ続けた。それは当時の東北地方北部の住民にとって、奴隷にふさわしい呼び名になってしまった。 この「エミシ」という蔑称は漢字で書くと「蝦夷」であり、のちの時代に「蝦夷」は「エゾ」とも発音するようになり、「蝦夷」は“意味”が全く変わって、「蝦夷(エゾ)」は現在も北海道渡島蝦夷ヶ島)に住んでいる少数民族アイヌを意味するようになった。 アイヌは“縄文人の子孫”で、日本人(朝鮮人)とは民族人種も違う。だから“東北地方北部の住民である蝦夷(エミシ)”と“北海道の住民である蝦夷(エゾ=アイヌ)”は、漢字で書くと同じ文字だが“人種が違う”。 しかし日本人はみな「蝦夷」を「エミシ」とは呼ばず「エゾ」と呼んでいて、「エミシ」のことなど知らない。 そして日本人の大半が“東北地方北部(岩手県秋田県青森県)の住民”は「蝦夷」(エゾ)なのだからアイヌと同じようなものだと思って、東北地方北部の住民を延々と差別してきた。 そればかりか日本人の大半が“東北地方南部の住民”を含む“東北地方の住民全員”は「蝦夷」(エゾ)なのだからアイヌと同じようなものだと思って、東北地方の住民を延々と差別してきた。 東北地方南部(宮城県福島県山形県)の住民は朝廷に友好的なかたちで服属した旧仙台王国の子孫であり、特に宮城県の仙台市とその隣の多賀城市には陸奥国の国府兼鎮守府である日本唯一の地方軍政府があり、対日高見王国戦争の最重要拠点として朝廷の東北地方北部征服、すなわち(北海道と沖縄等を除く)日本統一の最大の功労者である。その朝廷の日本統一の最大の功労者が恩賞を与えられて優遇されるどころか、逆に人種が違う蝦夷扱いをされて延々と差別されてきた。これままさに朝廷による東北地方南部の住民への“裏切り・詐欺”に他ならない。朝廷は東北地方南部を利用するときだけ利用して戦わせ、目的を達成したあと逆に差別し続けた。 東北地方の面積は関東地方の面積の約2倍である。関東地方とほぼ同じ面積である東北地方北部に住む住民は非征服者として奴隷扱いされたが、東北地方北部の住民も東北地方南部の住民も、東北地方が朝廷に征服される以前に朝廷に征服された関東地方の住民と、“身体的特徴が同じ”である。すなわちこのことは、“東北地方北部の住民も東北地方南部の住民も全く同じ日本人である”ということを示している。 ところが、東北地方北部の住民が朝廷に征服されたあと“奴隷扱いされて「エミシ」(蝦夷)と呼ばれ”、更に“征服者”である東北地方南部の住民までが“蝦夷の子孫”だと思われているのに対して、関東地方の住民は「エビス」と呼ばれて「エビス」も漢字で書くと「蝦夷」であるのに、関東地方の「蝦夷」は「エミシ」や「アイヌ」や「縄文人」と同じように扱われるどころか、逆に七福神の一つである神,「恵比寿」様として祭られている。

昔から歴史学者が“謎の民族”としきた北海道(渡島蝦夷ヶ島)のアイヌ沖縄県の住民である沖縄県民と身体的特徴が似ていて、アイヌと沖縄県民は“先祖が同じ縄文人”であるばかりではなく“人種的に近い”とみられる。 日本人は“縄文人(アイヌ)と弥生人朝鮮人)の混血”である。しかし、本州島九州島などのアイヌが“朝鮮人との混血”を繰り返されたのに対して、海で隔てられている北海道や沖縄のアイヌは朝鮮人との混血がなかったためアイヌの身体的特徴が残った。 このアイヌとほぼ同族である沖縄県民に関し、2016年に沖縄で警察官(大阪府警)が沖縄県民を「土人」という差別用語で侮辱する人種差別をして大きな問題になるなど、右翼の人種差別主義者などによる人種差別は、朝鮮人韓国人中国人を含むアジア諸国などに住む外国人差別に象徴されるように非常に陰湿で根深い。 しかし、その一方で1990年代以降、日本では沖縄県出身の歌手や女優などの芸能人多数(歌手・安室奈美恵や女優・仲間由紀恵など)が人気者となり、若い世代を中心に沖縄県出身の芸能人が“憧れの存在”となって「沖縄美人」という流行語も発生・定着するなど、沖縄県民の社会的地位が一躍向上した。これは日本人のほとんどが沖縄県民がアイヌと同じであるということを知らないということと大きく関係している。沖縄県民はかつてのアイヌとは異なり、男性は“就職差別”をされ女性は“結婚差別”をされて人生を潰されるという人種差別の被害を受けなかった。なお、アイヌや沖縄県民の身体的特徴はインド・ヨーロッパ語族コーカソイド白色人種)の身体的特徴と似ていて、日本の歴史学会には「アイヌ白人説」も存在する。

長久元年(1040年)より数ヵ年国府の推挙により、修理大夫として在京し、陸奥守・藤原登任の下向に同行したとの説がある。俘囚長で奥六郡の支配者である安倍頼良(のちに改名して安倍頼時)の娘(史料では「有加一乃末陪」と記載されている)を妻に迎え、曰理(わたり、現宮城県亘理郡)の鹿島神社(現亘理町逢隈字鹿島)付近に居を構え、荘園経営を行うと同時に交通の要衝を支配し関所に金銀山米銭寺という寺社を建立し、そこを通過するものから交通税を課し財力を蓄えていたとされる[2]。さらに、平国妙の外戚と言う記述が『奥州御舘系図』にあることで、藤原経清の2~3代前の先祖から東北地方に住んでいたとする考えもある[3]。

朝廷は全国の68ヵ国を国力で4つのランクに分類していて、陸奥国は“最上位の大国”であると共に“面積が他国より圧倒的に広い日本最大の国”でもあり、陸奥国の国司である陸奥守は“陸奥国と出羽国の両国を監督する”陸奥按察使(むつあぜち)をしばしば兼任した。 また、陸奥国の国府である多賀城には“朝廷の最大の軍事組織の長官”である令外の官鎮守府将軍が在駐し、鎮守府がある多賀城(宮城県多賀城市)は“日本唯一の地方軍政府”だった(朝鮮総督府台湾総督府と同じ)。 鎮守府とは“常時の地方軍政府”のことで、鎮守府の長官が鎮守府将軍で、“臨時の地方軍政府”であるにが幕府で、幕府の長官が征夷大将軍である。 多賀城に国府と鎮守府が移転するまえは、宮城県仙台市太白区の郡山城(郡山遺跡)が陸奥国の国府と鎮守府を有する地方軍政府だった。 また、奈良時代に設置された按察使は、日本全国の国司の中で“自分が国司を務める国を除く3ヶ国程度(2ヶ国から4ヶ国)を監督する立場の国司”として選ばれて、按察使は全国に11人ほどいた。 しかし、奈良時代に陸奥国と出羽国を監督する陸奥按察使以外は陸奥按は廃止され、陸奥按察使は“日本唯一の地方軍政府の長官”である陸奥守の“別格のスーパー国司”としての力の大きさを示す官職となっていた。 この陸奥国から独立する形でつくられた出羽国は、朝廷が“国を国力で4ランク”に分類した中で“第2ランクに位置する上国”だったが、陸奥国が“日本トップレベルの非常に強力な国”だったため、出羽国は陸奥国より“格下の国”となっていた。

陸奥国の俘囚長は朝廷から奥六郡の支配を公認されている安倍頼良(のちに改名して安倍頼時)(本拠地は岩手県南部の奥州市衣川村)で、出羽国の俘囚長は仙北三郡(山形県秋田県)の支配を公認されている清原光頼(本拠地は秋田県横手市)だった。そして安倍頼良と清原光頼は、同じの俘囚の大豪族である親戚同士だった。

11世紀前半、安倍頼良の勢力が頼良の勢力圏と朝廷の勢力圏の“事実上の国境の川”である衣川(岩手県の奥州市と世界遺産平泉町の境界線)を越えて宮城県北部まで南下・拡大し、更に安倍頼良に納税の不備が生じた。 これよりまえに、首都京都平安京)から位階五位貴族である藤原経清らと共に陸奥国府多賀城に下向(赴任)してきた正五位上陸奥守藤原登任は、しばしば出羽守(所在地は山形県鶴岡市酒田市)が任命されないことがある“出羽国のナンバーツー”である秋田城(あきたじょうのすけ)として、軍事貴族である平氏一門の平繁成の就任を、朝廷を支配する「50年間関白」の藤原頼通に要請し、朝廷は平繁成を秋田城介に任命した。 なお、藤原頼通の父は、藤原氏によって“約210年間行われた摂関政治”において、藤原頼通と同様に“摂関政治の最盛期”を現出した御堂関白こと藤原道長で、藤原道長の国宝である『御堂関白記』は歴史的記録物として、当時”太陽が沈まない帝国“と称えられた“世界最大の植民地をもつ帝国”スペイン王国の首都マドリッドスペイン王国および“キリスト教西方協会であるカトリック総本山]・バチカンローマ法王のもとへ“日本初の政治外交使節を派遣”した初代仙台藩藩主伊達政宗国宝である「慶長遣欧使節関係資料」と共に、“日本初の世界遺産”である。 永承6年(1051年)、陸奥守・藤原登任は秋田城介・平繁成に陸奥国への出兵を要請し、藤原登任と平繁成は“陸奥出羽連合軍”(北日本連合軍)を結成。こうしてして藤原登任と平繁成の朝廷軍は俘囚長・安倍頼良との戦いを開始した。 しかし朝廷軍は、安部頼良の勢力圏となっていた宮城県北部の鬼切部の戦い(おにきりべのたたかい)(大崎市鳴子町鬼首温泉(おにこうべおんせん)付近)で安倍軍に大敗し、秋田城介・平繁成は捕虜となった。 翌年の永承7年(1052年)、関白・藤原頼通は安部頼良との戦いに敗れた陸奥守・藤原登任と秋田城介・平繁成を解任した。陸奥守を解任された藤原登任は、皇族が国司になる親王任国を除き、陸奥守等と共に“全国の国司の中で格付けナンバーワンレベルの国司”である山城守(京都府)に転任した。関白・藤原頼通は藤原登任の後任として、軍事貴族の源頼義を陸奥守に任命した。その一方で藤原頼通は、姉である“国母”・太皇太后の上東院門(藤原彰子)の病気が治ったとの理由で大赦を発令し、安倍頼良の反乱を許した。これを受けて安倍頼良は朝廷に帰服し、頼良は関白・藤原頼通への忠誠の証として、新任の陸奥守・源頼義の「頼義(よりよし)」という名前と自分の「頼良(よりよし)」という名前の発音が同じであることを恐縮して、自分の名前を「頼時(よりとき)」に改名した。こうして“北日本の独立”という可能性すらあったこの大事件は、最悪の事態に至ることなく収束した。そうした意味で安倍頼良は、まさに“第二の平将門”であった。

安倍頼良の反乱事件は一見落着した。ところが4年後の天喜4年(1056年)、陸奥守の在任中に安倍頼時から多額の金品を得て懐を肥やしていた源頼義は、陸奥守の任期切れ直前に阿久利川事件を起こして安倍頼時の長男・安倍貞任を謀反人に下手あげ、安倍頼時に貞任の処刑を要求した。この要求を拒否した安倍頼時は、源頼義との戦いを開始した(前九年の役)。“陸奥国府・多賀城のナンバーツー”である藤原経清は、源頼義に従って参戦した。ところが、朝廷軍の有力武将である宮城県南部伊具郡の領主である平氏一門の平永衡(妻は安部頼時の娘)が、戦いのさ中に源頼義から謀反の疑いをかけられて殺されるという事件が起きた。その謀反の疑いとは、平永衡が4年前の鬼切り部の戦いに参戦したとき銀色の甲冑を身に付けて戦い義父・安倍頼時が率いる安部軍から自分が矢を射られないようにした、というものだった。藤原経清の妻も平永衡の妻と同様に安倍頼良の娘であり藤原経清と平永衡は“義理の兄弟”だったので、藤原経清はこのままでは自分も源頼義に殺されてしまうかもしれないと思い、敵である安倍頼時のもとへ逃れることを決断した。藤原経清は安倍頼時が多賀城を奇襲するという噂を流して源頼義を急遽多賀城に引き上げさせると、兵800の大軍を率いて安倍頼時のもとへ逃れた。多賀城の常駐兵力は1500人なので、朝廷軍は兵力の半分以上を失って分裂した。 こうして安部軍は強化されて安部・藤原連合軍となり、反朝廷軍は安部・藤原連合軍となった。翌年の天喜5年(1057年)、安倍・藤原軍は黄海の戦いで朝廷軍に圧勝し、以後前九年の役は安倍・藤原軍が優位に立った。

ところが同1057年、安部頼時の親戚である俘囚(朝廷に降伏したエミシ)の豪族・安倍富忠が安部頼時に逆らっため、安部頼良は安部富忠を説き伏せるために自ら出陣したが、待ち伏せしていた伏兵の攻撃に遭い戦死するという大事件が起きた。そのため安部頼時の長男である安倍貞任が安部家の新たな当主となり、“義理の兄弟”である藤原経清の藤原軍と共に、劣勢な朝廷軍との戦いを続けた。 康平2年(1059年)、藤原経清は国府(天皇)が税金を徴収する札である赤符を否定して自らが発行した徴税の札である白符を使い、衣川(岩手県奥州市と平泉町の境界線)以南の岩手県南部(一関市など)から宮城県北部(大崎市など)にかけての住民が、藤原経清の命令に従って税金を納めた。こうしてこの地域は事実上日本から独立したかたちとなり、日本は再び“北日本の独立”という大問題に直面した。

前九年の役は戦争開始以降、安倍頼時と同じ出羽国(山形県・秋田県)における“ただ一人の俘囚長”である仙北三郡(秋田県)の支配者・清原光頼 (本拠地は厨川の柵)が安部頼時に事実上味方して“中立”の立場をとってきた。 しかし、苦境に陥っていた源頼義は清原光頼に多くの財宝を送って、清原光頼を朝廷側に寝返らせることに成功した。こうして今まで朝廷を裏切って親戚である安部頼良と藤原経清に味方してきた清原光頼は、今度は“勝ち戦目前”の安部貞任と藤原経清を裏切って、前九年の役に朝廷軍として参戦することを決定した。清原光頼は弟の清原武則に清原軍を預け、清原軍の司令官となった清原武貞は、“朝廷軍の大半を占める朝廷軍の主力軍”として前九年の役に参戦した。前九年の役は清原氏の大軍が参戦したことによって戦況が一挙に逆転し、戦いは朝廷軍の優位となった。苦戦を強いられた安部・藤原軍は、安部氏の本拠地である居城を奥六郡の衣川(岩手県奥州市旧衣川村)から厨川の柵(厨川城、岩手県盛岡市)に移した。しかし5年(1062年)、安倍・藤原軍は厨川の戦いで朝廷軍に敗れ、安倍貞任は戦死し藤原経清は捕縛された。源頼義は自分の命を脅かした藤原経清を苦しめながら処刑するために、切れ味の悪い鈍刀で藤原経清を斬首した。この源頼義による藤原経清の処刑は鋸引き(のこぎりびき)であるとごく一部の右翼が主張しているが、そのような記録は一切存在しない[4]。なお、源頼義の苦戦の一因として徴税の札(白符)に象徴されるような藤原経清の経済力によるところや計略があったとする説もある[5]

戦後,“50年間関白”藤原頼通は、前九年の役は“源頼義が東北地方に勢力を拡大するための個人的な野望に基づく私戦”だと認定し、源頼義に恩賞を一切与えず、前九年の役で“朝廷軍が逆転勝ちをした最大の功労者”である清原軍の司令官,清原武則を“エミシとして史上初めて”鎮守府将軍に任命した。清原光頼は事実上引退し、清原武則が清原家の新たな当主となった。

前九年の役で藤原経清と安倍貞任(安部氏)が滅亡したとき、藤原経清の妻・有加 一乃末陪が清原武則の長男である清原武貞の戦利品として武貞の妻にされ(のち息子・家衡を出産)、有加の連れ子である藤原経清の息子・6歳の藤原清衡も清原家に入った。この藤原清衡がのちに後三年の役の勝利者として奥州藤原氏の初代当主となり、“首都京都(平安京)の次に人口が多い第2の京都である大都市”平泉や、世界遺産・中尊寺金色堂などの世界的な仏教文化をつくった。

同じく前九年の役で藤原経清と安倍貞任(安倍氏)が滅亡したとき、安部・藤原連合軍が戦いに敗れるまえの段階で源頼義に降伏した安倍貞任の弟である安倍宗任が、処刑されずに西日本への追放処分となり辛うじてエミシである安倍氏の命脈を保った。この安倍宗任の子孫の一人に安倍晋三元首相(2020年,首相在任期間史上最長記録を樹立)がいる。 なお、安倍元首相の祖父は岸信介元首相で、岸元首相の弟は佐藤栄作元首相である。 佐藤元首相の先祖は陸奥守兼鎮守府将軍・藤原秀衡の家臣である佐藤継信・佐藤忠信の“佐藤兄弟”で、佐藤兄弟は源義経(兄は源頼朝)の側近である。 佐藤兄弟と同じ時代にみちのく・東北地方の旅をしたした“日本を代表する俳人”として、同じ佐藤一門の西行法師こと佐藤義清(朝廷(京都御所)の元北面の武士)がいる。 佐藤義清(西行法師)の先祖は従二位・公卿・参議である佐藤公清(藤原公清)である。 佐藤公清より前の時代の貴族である藤原経清と佐藤公清は、共に先祖が従二位・公卿・下野守・武蔵守・鎮守府将軍・武門の棟梁の藤原秀郷である。 藤原秀郷の先祖は藤原氏の宗家(本家)である藤原北家で、北家の当主は“藤原一門のナンバーワン”である氏長者(うじのちょうじゃ)”である。 藤原氏の本家である北家は南家・式家・京家と共に藤原四家と呼ばれていて、藤原四家をつくった4人の兄弟である藤原四子の父は、事実上大宝律令をつくり「日本の歴史」である『日本書紀』等もつくって“現在の日本の基礎”である律令制国家日本を完成させた藤原不比等である。 藤原不比等の父は“初代藤原氏”である藤原鎌足で、藤原鎌足は大化の改新(大化のクーデター・乙巳の変)で中大兄皇子(天智天皇)を助けて蘇我入鹿・蘇我蝦夷親子の蘇我氏を倒した。 そして中大兄皇子の母は、“大化の改新の黒幕”である“朝廷の最高実力者”皇極天皇(斉明天皇)である。

系譜

藤原秀郷-千晴-千清-正頼-頼遠-経清-清衡-基衡-秀衡-泰衡

備考

現在では誤伝であることが確定しているが、藤原経清の息子である藤原清衡が建立した中尊寺金色堂に納められた藤原経清の玄孫(5代目の子孫)にあたる藤原泰衡ミイラの頭部(首)については、藤原経清の首という伝承も伝えられていた。 藤原泰衡は源頼朝の要求に応じて父・藤原秀衡が支援していた源頼朝の弟である源義経や藤原秀衡の息子・藤原忠衡などを攻め滅ぼす内乱を起こしたうえに、源頼朝に騙されて東北地方に攻め込まれ、奥州合戦に敗れて奥州藤原氏平泉を滅ぼした。この藤原泰衡の頭部には額の部分に五寸釘が打ち込まれている。

脚注

  1. ^ 官位は出羽輔介(『尊卑分脈』)。
  2. ^ 官職は左衛門尉白石氏の祖と伝わる(『白石氏系図』)。
  3. ^ 陸奥話記

関連項目

藤原経清関連の史跡
  • 朝廷(大和王国)発祥の地である朝廷の本拠地

奈良盆地(奈良県桜井市)

北上盆地(岩手県)

  • 朝廷から独立していたエミシ(蝦夷)の地方王国の支配層(大豪族)の墓

江釣子古墳群(岩手県北上市)・・・朝廷の刀剣とは形が違う、のちの日本刀のオリジナルである蕨手刀等が発掘された

豊田館跡(豊田城跡)(岩手県奥州市(旧江刺市)

五位塚墳丘群(岩手県奥州市(旧江刺市))

豊田館跡(豊田城跡)・・・岩手県奥州市(旧江刺市)にある藤原経清が造った豊田館とは異なる、藤原経清の息子・藤原経清が造った、奥州藤原氏の平泉政権の政庁となった、同じ名前の居館(居城)のこと(岩手県平泉町)

平泉

  • 奥州藤原氏の政庁跡

 柳之御所遺跡(岩手県平泉)  

  • 奥州藤原氏の政庁

 伽羅之御所跡

  • 奥州藤原氏の寺院

 中尊寺中尊寺金色堂(岩手県平泉町)・・・奥州藤原氏を滅ぼして平泉を征服した源頼朝が真似をして頼朝の本拠地鎌倉に造った二階建ての寺,永福寺のオリジナルである二階大堂跡(大長寿院跡)

  • 奥州藤原氏の寺院

毛越寺跡毛越寺庭園大泉ヶ池(岩手県平泉町)  

  • 奥州藤原氏の寺院

 無量光院跡(岩手県平泉町)  

後白河法王

  • 後白河法王の最有力武将だったが後白河法王と対立した“日本初の武家政権創始者”平清盛(院政を創始した白河上皇の“落とし種”)
  • 奥州藤原氏第4代当主・藤原泰衡に攻め滅ぼされた源義経の居館

義経堂

源頼朝

  • 平清盛に幽閉されていた軍事貴族・源頼朝の監視役でありながら長女・北条政子を頼朝と結婚させ、頼朝の側近として源平合戦平氏を滅ぼし、更に奥州合戦奥州藤原氏を滅ぼし、征夷大将軍・源頼朝の変死直後に執権政治を開始して頼朝の長男である征夷大将軍・義家を自殺させて鎌倉幕府を乗っ取り、更にライバルの幕府幹部たちを討滅して権力を強化したが、側室の息子を後継者にしようとしたため娘・政子と息子・義時に引退させられて失脚した

北条時政

  • 平清盛に幽閉されていた源頼朝の妻となり、父・北条時政および7歳年下の弟・北条義時と共に“北条氏の日本支配”を目指し、夫・源頼朝の変死後に頼朝の長男である征夷大将軍・義家と次男である征夷大将軍・実朝を殺して源氏を滅ぼし、更に弟・義時と共に父・時政を引退させ、尼将軍として承久の乱を起こし治天の君後鳥羽上皇に圧勝、「天皇の時代」である古代を終わらせ中世を切り開いた

北条政子

  • 北条時政の次男(長男は戦死)である北条政子の弟として父・姉と共に権力の掌握に努め、義理の兄である征夷大将軍将軍・源頼朝を変死させたあと頼朝の長男である征夷大将軍・源義家を自殺させ、更に側室の息子を後継者にしようとした父・北条時政を姉・政子と共に引退・失脚させ、執権政治を推進して武家政権を確立し、源頼朝の次男である征夷大将軍・源実朝を暗殺して征夷大将軍である源氏親子を3代続けて殺して滅亡させ、治天の君後鳥羽上皇朝廷が全国の諸大名に義時追討の勅令を発して承久の乱が起こると朝廷軍に圧勝し、上皇3人を島流しにして天皇を退位させ新天皇を擁立、以後,首都・京都平安京)を制圧した鎌倉などの田舎に住む関東地方武士達が、朝廷の貴族の妻や娘などの高貴な身分の女性達に歓迎されながら彼女達を手にいれた

北条義時

藤原経清関連の博物館・歴史資料館・歴史テーマパーク
  • 安倍頼良(安部頼時)と安倍一族の歴史資料館

奥州衣川歴史ふれあい館(岩手県奥州市(旧衣川村))

  • 藤原経清と奥州藤原氏の歴史テーマパークおよびNHK大河ドラマ『炎立つ』のロケ地「えさし藤原の郷(さと)」(岩手県奥州市(旧江刺市)
  • 奥州藤原氏の歴史資料館

平泉文化史館(岩手県平泉町)

  • 奥州藤原氏の歴史資料館

平泉文化遺産センター(岩手県平泉町)

藤原経清を扱った作品
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