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藤原登任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 登任
時代 平安時代中期
生誕 永延元年(987年
死没 不明
官位 従四位下大和守
主君 三条天皇後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇
氏族 藤原南家真作流
父母 父:藤原師長、母:播磨守光孝の娘
周防守憲忠または平兼忠の娘
四条宮官女二条殿
長宗、長明、任尊、実覚
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藤原 登任(ふじわら の なりとう)は、平安時代中期の貴族藤原南家巨勢麻呂流、常陸守藤原師長の子。官位従四位下大和守

経歴

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左兵衛尉を経て、長和2年(1013年三条天皇六位蔵人に補せられる。長和5年(1016年)三条天皇の譲位に伴って蔵人から院判官代に遷り、まもなく巡爵により従五位下に叙せられた。また、藤原教通室となっていた藤原公任の娘が出産にあたって、しばしば登任の三条の邸宅に移っており(『栄花物語』)[1]、登任は公任に対して家人として仕えていたとも考えられる。

後一条朝前期に能登守に任ぜられ、万寿元年(1024年)治国の功労により従五位上に叙せられる。その後も、出雲守大和守受領を歴任する一方、主殿頭も務めた。

後冷泉朝永承5年(1050年)に陸奥守として東北地方に下向。翌永承6年(1051年)に安倍氏衣川の柵を越え勢力圏を拡大しようとしたため、登任は秋田城介平繁茂(繁成/重衛)らと安倍氏を討伐しようするも、逆に鬼切部で大敗を喫し更迭された。この事件が「前九年の役」の発端となる。当時の状況は後任の源頼義による上奏文に「東夷蜂起シ郡県ヲ領シ以ッテ夷地トナシ、人民ヲ駆使シ蛮虜トナシ六カ郡中、国務ニ従ガワズ、皇威ヲ忘ルルガ如シ」とある。

康平2年(1059年)3月29日に出家した。

官歴

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系譜

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尊卑分脈』による。

  • 父:藤原師長
  • 母:播磨守光孝(姓不明)の娘
  • 妻:周防守憲忠の娘(又は平兼忠の娘)
    • 男子:藤原長宗(1016-1085)
    • 男子:藤原長明(1018?-1099)
  • 妻:四条宮官女二条殿
    • 男子:任尊
  • 生母不明の子女
    • 男子:実覚

脚注

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  1. ^ 『栄花物語』巻第12 たまのむらぎく、巻第21 後くゐの大将
  2. ^ 『御堂関白記』
  3. ^ a b c d e 『小右記』
  4. ^ a b 『尊卑分脈』
  5. ^ 『類聚符宣抄』8
  6. ^ 『尊卑分脈』

参考文献

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  • 『新編 日本古典文学全集 32 栄花物語 2』小学館、1995年
  • 宮崎康充編『国司補任 第四』続群書類従完成会、1990年
  • 市川久編『蔵人補任』続群書類従完成会、1989年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年

関連項目

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