「坂口平兵衛 (2代)」の版間の差分
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[[Image:Sakaguchi Store.jpg|thumb|250px|坂口商店(『[[帝國實業名鑑]]』より)]] |
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:“坂口氏”は[[江戸時代|藩政時代]]“沢屋”と称し綿、[[木綿]][[仲買]]業を営み、[[嘉永]]年間の米子綿仲買15人の中に沢屋平兵衛があり[[幕末]]の[[元治]]元年([[1864年]])の米子地方[[木綿]][[問屋]]31人の中には沢屋平兵衛、沢屋仁右衛門、沢屋清太郎の3人が名を連ねている<ref name="米子商業史410-411頁">『米子商業史』410-411頁</ref>。 |
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:…(中略)…坂口家は、[[江戸時代]]後期に、“沢屋”の[[屋号]]で綿・[[木綿]]の[[仲買]]商を始めた。以後[[醤油]]の[[醸造]]、[[薬用人参]]の[[販売]]などを行うが、「[[坂口財閥]]」と呼ばれるように家業を発展させたのは、[[坂口平兵衛 (初代)|平兵衛]](初代)である。平兵衛は[[1885年|明治十八]]、[[1886年|九年]]から[[地価]]の暴落に着目して、土地の[[買収]]に乗り出し、次いで[[養蚕]][[製糸業]]、そして[[1894年|明治二十七年]]には[[米子銀行]]を設立。次が[[鉄鋼業]]。官営の旧[[広島藩]]製鉄所の払い下げを受け、[[広島県]]の中国山脈部に散在する十五の[[工場]]で砂鉄を原料に錬鉄、玉鋼の生産を始めた。さらに[[米子製鋼所|米子に製鋼所]]をつくり、錬鉄からルツボ法を用いて工具鋼、刃物鋼を生産。「鳩印」の商標で[[市場]]に出し、これが民間におけるルツボ鋼の嚆矢(こうし)と高い評価を受けた。 |
:…(中略)…坂口家は、[[江戸時代]]後期に、“沢屋”の[[屋号]]で綿・[[木綿]]の[[仲買]]商を始めた<ref name="Goubatu_p424"/>。以後[[醤油]]の[[醸造]]、[[薬用人参]]の[[販売]]などを行うが、「[[坂口財閥]]」と呼ばれるように家業を発展させたのは、[[坂口平兵衛 (初代)|平兵衛]](初代)である<ref name="Goubatu_p424"/>。平兵衛は[[1885年|明治十八]]、[[1886年|九年]]から[[地価]]の暴落に着目して、土地の[[買収]]に乗り出し、次いで[[養蚕]][[製糸業]]、そして[[1894年|明治二十七年]]には[[米子銀行]]を設立<ref name="Goubatu_p424"/>。次が[[鉄鋼業]]<ref name="Goubatu_p424"/>。官営の旧[[広島藩]]製鉄所の払い下げを受け、[[広島県]]の中国山脈部に散在する十五の[[工場]]で砂鉄を原料に錬鉄、玉鋼の生産を始めた<ref name="Goubatu_p424"/>。さらに[[米子製鋼所|米子に製鋼所]]をつくり、錬鉄からルツボ法を用いて工具鋼、刃物鋼を生産<ref name="Goubatu_p424"/>。「鳩印」の商標で[[市場]]に出し、これが民間におけるルツボ鋼の嚆矢(こうし)と高い評価を受けた<ref name="Goubatu_p425">[[佐藤朝泰]]著『豪閥 <small>地方[[豪族]]のネットワーク</small>』425頁</ref>。 |
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:従来からの家業の方も、[[酒]]、[[醤油]]の[[醸造]]、[[砂糖]]、綿製品、[[石油]]の取引を営む[[坂口商店]]を[[合名会社]]に組織し、扱い商品を拡大していった<ref name="Goubatu_p425"/>。さらに[[水力発電]]の必要に着目し[[山陰電気]]を創設<ref name="Goubatu_p425"/>。[[日野川]]水系に発電所の建設を始めた<ref name="Goubatu_p425"/>。[[1909年|明治四十二年]]平兵衛は[[渋沢栄一]]を団長とする渡米実業団に製糸業者の代表として参加し、三ヶ月にわたり、[[アメリカ]]を視察した<ref name="Goubatu_p425"/>…。 |
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2011年8月15日 (月) 21:45時点における版
2代坂口 平兵衛 にだい さかぐち へいべえ | |
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生年月日 | 1906年2月15日 |
出生地 | 鳥取県米子市尾高町 |
没年月日 | 1986年2月17日(80歳没) |
出身校 | 明治大学 |
前職 | 会社重役 |
称号 |
従四位 勲三等旭日中綬章 藍綬褒章 日本棋院普及功労賞 日本棋院名誉7段 関西棋院名誉7段 |
配偶者 | 妻・坂口真佐子 |
親族 | 実父・坂口平兵衛 (初代)(貴族院議員) |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1942年 - 1945年 |
2代坂口 平兵衛(にだい さかぐち へいべえ、明治39年(1906年)2月15日 - 昭和61年(1986年)2月17日)は日本の実業家、政治家。坂口合名会社・代表社員会長。米子商工会議所名誉会頭。衆議院議員。幼名清太郎。
略年譜
- 3月 - 鳥取県立米子中学校(現・鳥取県立米子東高等学校)卒業[1]。
- 1月 - 皆生温泉土地取締役[1]。
- 2月 - 坂口合名会社代表社員社長[1]。
- 4月 - 日本製絲常任監査役[2]。
- 7月 - 米子交通取締役[2]。
- 10月 - 日本畜産協会評議員[2]。
- 12月 - 坂口合名本社ビル竣工[2]。
- 1月 - 米子銀行取締役[2]。
- 3月 - 米子商工会議所顧問[2]。
- 7月 - 初代坂口平兵衛死去[2]。
- 8月 - 山陰水産取締役[2]。
- 9月 - 日本製紙取締役社長[2]。
- 12月 - 城山[3]を米子市へ寄贈[2]。
- 6月 - 広島電気取締役[4]。
- 4月 - 鳥取県柔道連盟会長[5]。
- 12月 - 山陰石油取締役社長[5]。
- 8月 - 鳥取県商工会議所連合会会長(2ヶ年毎に鳥取商工会議所会頭と交替)[5]。
- 3月 - 鳥取県信用保証協会会長(鳥取県商工会議所連合会長と兼任)[6]。
- 2月 - 中国地方生産性本部理事、鳥取県支部長[6]。
- 3月 - ウラン鉱業取締役社長[6]。
- 4月 - 米子電話会会長[6]。
- 1月 - 生産性本部中国地方経済開発視察団団長として欧米各国を視察[6]。
- 3月 - 大山ゴルフ取締役社長[7]。
- 3月 - 米子国際ホテル取締役会長[8]。
- 5月 - 日本放送録音取締役会長[8]。
- 6月 - 米子空港ビル取締役社長[8]。
- 3月 - 米子ゴルフクラブ取締役会長[9]。
- - 日本棋院普及功労賞受賞[9]。
- 10月 - 昭和天皇国体に来県特別奉送[9] 昭和天皇より「昭和22年には暖かく迎えてくれてありがとう。どうですか、その後の健康は」、「二人そろってきてくれてありがとう。どうか大事にするように」とお言葉を賜る(東光園に於いて)。
- 1月29日 - 鳥取大学医学部に入院[10]。
- 2月17日 - 永眠、享年80[10]。戒名は天徳院栄誉賢岳意誠居士[10]。特旨により従四位を賜る。日本棋院名誉7段を追贈される[10]。関西棋院名誉7段を追贈される[10]。
人物像
帰郷・相続
- 平兵衛によれば、「その頃の私は一種のやんちゃもんでして、柔道家の山根、佐伯、永見というような荒らくれ者とばかりつきあっていました。急に私が帰らなくてはならなくなった。先代の合名社長豊蔵が五十九歳で昭和五年に死亡し、私は豊蔵の養子になっていた。二十五歳だったが相続することになった。相続は(プラスの)財産を受けるのが当たり前ですが、私は十に余る会社の社長を引き受けた。それは借金を引き受けるということで、苦労を相続したのです。
- 昭和六年は日本史上かつてない不景気な時代で、生糸、製鋼所、電気会社も苦労しました。時には十日もまともに食事をしない日がありました。その当時、国家が手厚い保護の手を伸べてくれ、電気も製鋼所も生糸事業も、元金に損害を与えずに合併することが出来たのです。合併とは経営を譲ったということです。一人の被害者も出さずに、利益を供与して解散することが出来た。これは珍しいことです。不景気でいかん時だったしねえ。そんな時に世界大戦が起き、政府が手厚い保護をして合併させて、銀行も事業も無傷で済んだ。その当時の政府も偉かったですね。」という[11]。
その他
家族・親族
- 実父・平兵衛 (初代)(実業家)
- 「米子の事業といえば、坂口家の事業と直結する程に先代平兵衛翁は事業家であった。銀行・電気・漁業・製氷…一つとしてその主動力でないものはない。特に家業の製糸業は日本で有数であり、醤油醸造も地方王者の一人である。従って先代平兵衛翁の事業熱と精進のキビシさ、われら若輩は後塵を拝するだになかなか遠い。風容は、現平兵衛氏を二三まわり大きくすると、そのまゝ故翁の像が出来上る堂々さであった。
- 貴族院議員として伝わることを聞かぬが、織田永太郎[13]翁が秘書として上京し、万事を取り運ばれた。明治の末、渋沢栄一男を団長として渡米実業団が組織された時、団員の一人として渡米。その時大阪商工会議所副会頭法橋善作氏が推薦これ努めたと宣伝したが、何ぞ知らん関西製糸代表として当然選ばるべき翁であったのだ。友人小原養君が商業興信所に勤めていて、関西における生糸業者の権威はと聞いたら「君方若い人はその町も大方知るまいが、伯耆の国米子という小さい町に、坂口平兵衛いう人がそれだ」と答えたと、燈台下暗しだぞと便りしたによって、明歴々たるものである。(中略)商機をつかみ果断決行。トテモドエライ事を父祖から聞かされていたから、笑顔でわれら子供にわかるように話して頂いても、万事近よれなかった。今日でも、石橋和訓氏描く肖像の前では、冗談も云えない。」という。
- 昭和15年(1940年)の日本海新聞に“古老に聴く弓浜半島”と題して明治初年頃の綿作について「当時弓浜は見渡す限りの綿畑で、秋の収穫期には島根県からことに石州から常男や傭女が働きに来ていた。一日の給金は綿百匁(明治三十年頃では八銭か十二銭)で大体半期奉公で十六円から十八円貰って帰ったものである。綿の販路は大部分が米子から津山を経て出ていった。北国船がニシンカス、魚肥を持って来て、冬の間境港に碇泊して綿を買集め航路がつくと北国へ向ったものだ。一代で米子の大富豪となった初代の坂口平兵衛さんも若い時は籠を背に負い“綿はないかいなー”と一軒一軒朝早くから弓浜の農家を草鞋ばきで歩いたものだ」との話が出ている。
- 養父・豊蔵(実業家)
- 弟・純三
- 妻・真佐子(島根県簸川郡大社町(現出雲市)、大村貞蔵の六女、大村義雄の妹)
- 真佐子は江戸小紋の研究で一家をなし、昭和47年(1972年)に東京作家クラブから第9回文化人間賞を贈られている[15]。平成19年(2007年)12月から平成20年(2008年)1月にかけて、広島と東京で、米子市が収蔵する「素鳳コレクション」の特別展、「春よこい 雛人形物語展 坂口真佐子コレクション」が開催された[16]。春よこい 雛人形物語展 開催中(過去のニュース)によれば、「この人形コレクションは、米子市の坂口家六代目夫人であった坂口真佐子さんが半生をかけて集められた2000点におよぶコレクションである。その中から、貴重な逸品ぞろいの雛人形、御所人形、お雛道具など約160点余りを公開した。」
- 長男・平吉郎[12]・平兵衛 (3代)(実業家)
- 同妻(実業家米原穣(元日本海テレビジョン放送社長)の二女、実業家・政治家米原章三(元鳥取県議会議長・鳥取商工会議所会頭)の孫)
- 同妻(桜井三郎右衛門の娘)
- 三女・都子[12](坂口都子クッキングスクール主宰)
- 四女・陽子[12](奥出雲の山林大地主田部長右衛門 (23代)(元島根県知事)の長男で実業家田部長右衛門 (24代)(元山陰中央テレビジョン放送会長)の妻、田部代表取締役社長)
- 五女[12](坂口紀之の妻)
- 六女[12](白井為興の妻)
- 孫
系譜
- “坂口氏”は藩政時代“沢屋”と称し綿、木綿仲買業を営み、嘉永年間の米子綿仲買15人の中に沢屋平兵衛があり幕末の元治元年(1864年)の米子地方木綿問屋31人の中には沢屋平兵衛、沢屋仁右衛門、沢屋清太郎の3人が名を連ねている[18]。
- 坂口財閥」といえば、戦前は全国的にもよく知られた存在だった[19]。山陰において財閥とよばれたのは、この鳥取・米子の坂口家だけであろう[19]。坂口家は単に資産家、豪族というだけでなく、さまざまな事業を興し、積極的に手をひろげていった[19]。後に大企業に成長する源流も幾つか手掛けている[19]。この坂口家の積極的な経済活動が、地元経済をリードしたから、米子が“山陰の大阪”と呼ばれるようになったともいえる[19]。
- …(中略)…坂口家は、江戸時代後期に、“沢屋”の屋号で綿・木綿の仲買商を始めた[19]。以後醤油の醸造、薬用人参の販売などを行うが、「坂口財閥」と呼ばれるように家業を発展させたのは、平兵衛(初代)である[19]。平兵衛は明治十八、九年から地価の暴落に着目して、土地の買収に乗り出し、次いで養蚕製糸業、そして明治二十七年には米子銀行を設立[19]。次が鉄鋼業[19]。官営の旧広島藩製鉄所の払い下げを受け、広島県の中国山脈部に散在する十五の工場で砂鉄を原料に錬鉄、玉鋼の生産を始めた[19]。さらに米子に製鋼所をつくり、錬鉄からルツボ法を用いて工具鋼、刃物鋼を生産[19]。「鳩印」の商標で市場に出し、これが民間におけるルツボ鋼の嚆矢(こうし)と高い評価を受けた[20]。
- 従来からの家業の方も、酒、醤油の醸造、砂糖、綿製品、石油の取引を営む坂口商店を合名会社に組織し、扱い商品を拡大していった[20]。さらに水力発電の必要に着目し山陰電気を創設[20]。日野川水系に発電所の建設を始めた[20]。明治四十二年平兵衛は渋沢栄一を団長とする渡米実業団に製糸業者の代表として参加し、三ヶ月にわたり、アメリカを視察した[20]…。
『豪閥 <small>地方[[豪族]]のネットワーク</small>』、『出雲国 山城屋横山家家系補遺考証』より作成 ┏坂口吉平 (三代) ┃ (井上) ┏坂口平兵衛━┻坂口清太郎 坂口武市 ┃ ┃ ┃ ┏ふみ子 ┣坂口允彦 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃坂口幸雄 ┃ ┃┃ ┃ ┣女 ┏坂口豊蔵 ┣坂口純三 ┃ ┃ ┃ ┣坂口朝彦 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃長田博孝 (沢屋) ┃(初代) ┃(二代) ┃┃ 坂口平吉郎━━╋坂口平兵衛━━╋坂口平兵衛━━━╋女 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣都子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣陽子 ┗坂口惣五郎 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃田部長右衛門 (24代) ┃ ┃ ┃ ┣女 ┃ ┃┃ ┗寿 ┃坂口紀之 ┃ ┃ 坂口二郎 ┗女 (揖野) ┃ 白井為興
『豪閥 <small>地方[[豪族]]のネットワーク</small>』、『出雲国 山城屋横山家家系補遺考証』より作成 加藤辨三郎━━━━━━━━加藤幹夫 ┃ 揖野要太郎━━━━━坂口二郎 ┃ ┣━━━━━━━━━━━礼子 ┏寿 ┃ 嘉納信治 ┃ ┃ ┃ ┏女 (初代) ┃ ┃ 坂口平兵衛━━━━━━━┫ 北村又左衛門━━━━━━╋北村又左衛門 ┃ ┃ ┃ ┗女 ┃ (三代)┃ ┃ (二代) ┏坂口平兵衛 ┗━坂口平兵衛━━━━━┫ ┗陽子 (24代)┃ ┏田部長右衛門智久 ┃ ┃千宗守 (14代) ┃ ┃ ┣和加子 (21代) (22代) (23代) ┃ 田部長右衛門長秋━━田部長右衛門茂秋━┳田部長右衛門朋之━╋女 (宇山虎三郎) (宇山種之助) ┃ ┃ ┃ ┣女 ┗永津 ┃ ┃ ┗女 宇山真 ┃ ┃ ┏米原正博 ┏米原穣━━━━┫ 米原章三━━━━┫ ┗女 ┗世志子 ┃ ┃ ┃ 三好英之━━━━三好基之 ┃ ┃ 坂口平兵衛━━━坂口允彦 (2代)
『豪閥 <small>地方[[豪族]]のネットワーク</small>』、『出雲国 山城屋横山家家系補遺考証』より作成 ┏宇山昌太郎━━━┳宇山真 ┃ ┃ ┃ ┗宇山厚 ┃ ┃ ┃ ┃ 宇山数馬永胤━┳宇山清左衛門長保━╋━━与志 ┃ ┃ ┃ ┗宇山虎三郎 ┃ ┣━━━━┳庄司廉━━━庄司保親━━庄司尚史 (田部長右衛門長秋) ┃ ┃ ┃ ┃ 庄司昇造 ┗庄司繁二郎━━━葉子 ┃ ┃ ┃ ┣━━相沢宏光 ┃ ┃ ┃ 相沢英之 ┃ ┗宇山種之助━━━田部長右衛門朋之━田部長右衛門智久 (田部長右衛門茂秋) ┃ 坂口平兵衛━━━━━━陽子 (2代)
参考文献
- 安田光昭 『「あの人この人」私の交友録』 1980年 161-164、277-279頁
- 『米子経済九十年の歩み』(1981年、編集兼発行者 米子商工会議所)
- 『坂口平兵衛意誠 追懐録』(1989年、坂口平兵衛追懐録編集委員会)
- 『政治家人名事典』(1990年、編集・発行 - 日外アソシエーツ株式会社)231頁
- 佐藤朝泰 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 立風書房 2001年 424-433頁
関連項目
関連人物
脚注
- ^ a b c d e f g h i j 『坂口平兵衛意誠 追懐録』(1989年、坂口平兵衛追懐録編集委員会)231頁
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『坂口平兵衛意誠 追懐録』(1989年、坂口平兵衛追懐録編集委員会)232頁
- ^ 湊山公園に含まれる城趾の石垣のある本丸、内膳丸の2つの山
- ^ a b c d e f g 『坂口平兵衛意誠 追懐録』(1989年、坂口平兵衛追懐録編集委員会)233頁
- ^ a b c d e f g h i j k l 『坂口平兵衛意誠 追懐録』(1989年、坂口平兵衛追懐録編集委員会)234頁
- ^ a b c d e f g h i 『坂口平兵衛意誠 追懐録』(1989年、坂口平兵衛追懐録編集委員会)235頁
- ^ a b c d e 『坂口平兵衛意誠 追懐録』(1989年、坂口平兵衛追懐録編集委員会)236頁
- ^ a b c d e f g 『坂口平兵衛意誠 追懐録』(1989年、坂口平兵衛追懐録編集委員会)237頁
- ^ a b c d e f g 『坂口平兵衛意誠 追懐録』(1989年、坂口平兵衛追懐録編集委員会)238頁
- ^ a b c d e 『坂口平兵衛意誠 追懐録』(1989年、坂口平兵衛追懐録編集委員会)239頁
- ^ 『坂口平兵衛意誠 追懐録』6頁
- ^ a b c d e f g h i j k 『第十六版 人事興信録 上』昭和26年(1951年)、さ四五
- ^ 織田永太郎は元山陰放送相談役織田収の実父である
- ^ 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 432頁
- ^ 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 426頁
- ^ 素鳳コレクション県外展「春よこい 雛人形物語展」…「米子市ホームページ」、素鳳ふるさと館
- ^ 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 427頁
- ^ 『米子商業史』410-411頁
- ^ a b c d e f g h i j k 佐藤朝泰著『豪閥 地方豪族のネットワーク』424頁
- ^ a b c d e 佐藤朝泰著『豪閥 地方豪族のネットワーク』425頁