青砥喜三郎
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あおと きさぶろう 青砥 喜三郎 | |
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生誕 | 1894年5月5日 |
死没 | 1986年8月13日(92歳没) |
出身校 |
倉吉農学校 (現在の倉吉農業高校) |
職業 | 実業家 |
配偶者 | 青砥でん |
子供 |
青砥昇(実業家) 青砥順(実業家) |
青砥 喜三郎(あおと きさぶろう、明治27年(1894年)5月5日 - 昭和61年(1986年)8月13日)は、日本の実業家。元米子商工会議所顧問名誉副会頭[1]。元米子信用金庫会長[1]。
来歴・人物
[編集]吉太郎の長男[2]。鳥取県立農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)卒業[2]。
昭和11年(1936年)米子信用組合主事、専務理事を経て第四代組合長に就任[1]。昭和26年(1951年)から28年間にわたって改組後の米子信用金庫理事長を務め、山陰第一位、中国地方第三位の信用金庫の実績を築いた[1]。
この間、鳥取県信用金庫協会会長、中国地区信用協会会長、全国信用金庫協会理事、米子商工会議所副会頭、米子ロータリークラブ会長、美保大空友の会会長、陸上自衛隊米子駐屯部隊協力会長などを務め、業界や地方経済社会の発展に尽くした[1]。
昭和34年(1959年)黄綬褒章、昭和41年(1966年)勲四等瑞宝章を受章[1]。
昭和61年(1986年)8月13日死去。
エピソード
[編集]- 青砥について『坂口平兵衛意誠 追懐録』19頁には、
- 「会計を受け持った青砥(旧西村姓)喜三郎は、晋一郎の学友として、県立倉吉農学校に笈を負い、大場美津雄先生の偉大な薫陶に心服した人であるが、生涯を通して豊蔵、平兵衛に所信を率直に吐露しながらも、常に坂口家と共に生きた人である。」とある。
家族・親族
[編集]青砥家
[編集]略系図
[編集]青砥喜三郎 | |||||||||||||||||||||||||||
青砥昇 | 青砥順 | ||||||||||||||||||||||||||
青砥隆志 | 青砥悟志 | ||||||||||||||||||||||||||
参考文献
[編集]- 『新日本人物大観』(鳥取県版)1958年 ア…49頁
- 『鳥取県人名録』(企画・編集 鳥取県人名録刊行委員会 旬刊政経レポート、1987年 726頁)