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青砥昇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
あおと のぼる

青砥 昇
生誕 1921年6月28日
死没 (1986-05-04) 1986年5月4日(64歳没)
出身校 京都帝国大学工学部
職業 実業家
配偶者 青砥照子[1]
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青砥 昇(あおと のぼる、1921年大正10年)6月28日 - 1986年昭和61年)5月4日)は日本実業家。元山陰放送社長[2]

父は元米子信用金庫会長青砥喜三郎、弟は元米子信用金庫会長青砥順

経歴

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鳥取県米子市出身。旧制鳥取県立米子中学校旧制広島高等学校を経て、1945年(昭和20年)京都帝国大学工学部卒業[2]1948年(昭和23年)米子大栄社長、昭和28年(1953年)ラジオ山陰(現:山陰放送)創設と同時に取締役に就任[2]1955年(昭和30年)常務取締役を経て昭和49年(1974年)山陰放送社長に就任[2]

右から野坂康久坂口平兵衛 (2代)青砥喜三郎高松宮宣仁親王青砥昇織田収、野坂一郎、伊坂定吉、野坂寛治
昭和29年、ラジオ山陰開局)

1980年(昭和55年)~昭和61年(1986年)米子商工会議所副会頭のほか鳥取県経営者協会副会長、米子市監査委員、米子ライオンズクラブ会長、日本民間放送連盟理事、ビーエスエス企画・山陰興発・米子空港ビル各取締役などを歴任した[2]

1981年(昭和56年)藍綬褒章を受章[2]

1986年(昭和61年)5月4日死去。

エピソード

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1949年昭和24年)青砥昇松本僌(後の米子市長)など10名ばかりが集まって「三十路会」が結成された[3]。「三十路会」の集合場所は万能町の三光荘[3]1952年(昭和27年)「三十路会」を拡大して「紀洋会」という親交団体ができた[4]。この名称はその年に生まれた青砥昇の長女と村上一平(博愛病院理事長)の長男の名をとって“紀洋”とした[4]。「紀洋会」が「居酒屋の青春」からの脱却を図って、専門大店青年部と協力して青年会議所に発展的解消を遂げたのは1958年(昭和33年)7月12日であった[4]。初代理事長稲田松太郎、総務委員長村上一平、事務局長山本盛夫であった[4]

住所は米子市西町[1]

家族・親族

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青砥家

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(鳥取県米子市西町[1]

略系図

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青砥喜三郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
青砥昇
 
青砥順
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
青砥隆志
 
青砥悟志
 

参考文献

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  • 『新日本人物大観』(鳥取県版)人事調査通信社 1958年、ア…p.49
  • 『鳥取県人名録』(企画・編集 鳥取県人名録刊行委員会 旬刊政経レポート、1987年、p.725)
  • 『私の交遊抄(上)』(編集・朝日新聞鳥取支局、1989年、pp.416-417)

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 『新日本人物大観』(鳥取県版)1958年 エ・オ…p.90
  2. ^ a b c d e f 『鳥取県人名録』p.725
  3. ^ a b 『私の交遊抄 上』p.416
  4. ^ a b c d 『私の交遊抄 上』p.417

外部リンク

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