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野田浩輔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
野田 浩輔
埼玉西武ライオンズ 二軍バッテリーコーチ #82
現役時代(2009年 西武第二球場
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 熊本県八代市
生年月日 (1977-12-04) 1977年12月4日(47歳)
身長
体重
180 cm
92 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手一塁手
プロ入り 2000年 ドラフト6位
初出場 2002年4月1日
最終出場 2010年7月13日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 埼玉西武ライオンズ (2017 - )
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 2000年

野田 浩輔(のだ こうすけ、1977年12月4日 - )は、熊本県八代市出身の元プロ野球選手捕手内野手、右投右打)。現在は埼玉西武ライオンズの二軍バッテリーコーチを務めている。

経歴

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プロ入り前

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ドラフト前から社会人屈指の大型即戦力捕手として注目をあび、新日鉄君津時代に渡辺俊介とバッテリーを組み、シドニー五輪に出場して話題となった。シドニー五輪ではプロ枠で出場した当時中日に在籍していた鈴木郁洋に正捕手を奪われたが、同じ五輪代表に選ばれた阿部慎之助中央大学)とともにチームを引っ張る存在として欠かせなかった。また、同年の都市対抗野球ではベスト4となり社会人野球ベストナイン捕手となった[1]

ドラフトでは下位指名での争奪戦が予測されたが、入団前から野田と西武ライオンズとの相思相愛ということで他球団に指名されず、2000年のドラフト西武ライオンズから6位指名を受け、入団。

西武時代

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2001年は正捕手伊東勤の存在もあり、1軍出場はなかった。

2002年に初昇格すると、プロ初安打・初打点を記録し、控え捕手ながら33試合に出場。

2003年は伊東と細川亨の活躍もあって36試合に留まるが、プロ初本塁打を記録した。選手兼コーチだった伊東は、細川と野田の正捕手候補に2人に対して「(細川と野田の)2人は(同時に)使わない。2人(を同時に)使うと2人とも『死ぬ』」と発言し、正捕手1人方式として育成することを明言した。将来は背番号46の野田、47の細川(背番号は2002年当時)のどちらかが、伊東の背番号27を継承させる意思があったが、正捕手と背番号「27」は細川に受け継がれた[2]

2004年に伊東が監督に就任すると、初の開幕先発出場を果たす。37試合の出場に留まるものの、プレーオフでは第2ステージ第3戦で決勝本塁打を放つなど、リーグ優勝と日本一に貢献した。

2005年はわずか26試合の出場に留まり、打率.229に終わった。

2006年も7試合の出場に終わった。

2007年は開幕1軍入りを果たし、8月22日の対福岡ソフトバンクホークス戦では初めて指名打者として先発起用された。出塁率は.379を記録。

2008年は開幕1軍に入れず、細川の活躍や上本達之銀仁朗の抜擢もあって、1軍出場は9試合のみに終わった(いずれも細川の負傷、上本の不振と、代わりの控え捕手としての出場)。打撃も打率.111と、プロ生活で自己最低の成績となったが、日本シリーズ出場選手枠の40名に選ばれ、全7試合でベンチ入りした。日本シリーズでは2試合に出場し、第5戦は9回表の守備のみで、第7戦は5回裏の守備から5番・捕手で出場。守備では5回を完璧に抑え、打撃面でも平尾博嗣の決勝適時打をアシストする四球を選ぶなど、活躍した。アジアシリーズ(対SKワイバーンズ戦)でも代打出場したほか、決勝戦(対統一セブンイレブン・ライオンズ戦)では9回から捕手として出場した。

2009年は正捕手の細川が怪我で長期離脱したこともあり、出場機会は前年より増え22試合に出場。しかし打席数は10と、大半が銀仁朗・上本の守備固めとしての出場だった。細川の復帰後は出場もなく、打撃面でもプロ初の無安打に終わり、厳しいシーズンとなった。

2010年はプロ入り後最少のわずか5試合の出場に留まった。

2011年は9月に入っても1軍出場がなく、右肩の故障も完治しないことから9月12日に現役引退を表明した[3]。10月9日に球団から戦力外通告が行われ、14日に正式に任意引退公示された[4]

引退後

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2012年からは埼玉西武ライオンズのフロント入りし、編成部アマチュア担当(九州・沖縄担当スカウト)となった[5]。主な担当選手は福倉健太郎山田遥楓呉念庭[6]など。

その後、2017年から2020年まで二軍バッテリーコーチを務め、2021年からは一軍バッテリーコーチを務めている[7]

選手としての特徴

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巧みなリードに定評がある捕手[8]。プロでは正捕手定着とはいかなかったものの、主に二番手捕手としてチームを支えた[3]。打撃では短期決戦で勝負強さを発揮することが多かった[3]

打席に入る前にバットをバトンのように回転させるルーティンが特徴だった[9]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
2002 西武 33 48 47 4 9 1 0 0 10 2 0 1 0 0 0 0 1 13 1 .191 .208 .213 .421
2003 36 75 63 8 14 5 0 1 22 7 0 0 3 1 6 0 2 16 0 .222 .306 .349 .655
2004 37 103 92 9 22 4 0 3 35 8 1 0 5 1 4 0 1 17 2 .239 .276 .380 .656
2005 26 52 48 3 11 2 0 1 16 6 0 0 0 1 3 0 0 8 3 .229 .269 .333 .603
2006 7 16 15 2 4 0 1 0 6 2 0 0 1 0 0 0 0 3 1 .267 .267 .400 .667
2007 19 29 25 0 7 0 0 0 7 3 1 0 0 0 4 0 0 5 1 .280 .379 .280 .659
2008 9 9 9 1 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 4 0 .111 .111 .111 .222
2009 22 11 10 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 5 0 .000 .091 .000 .091
2010 5 8 8 0 2 2 0 0 4 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .250 .250 .500 .750
通算:9年 194 351 317 27 70 14 1 5 101 28 2 1 9 3 18 0 4 74 8 .221 .269 .319 .588

年度別守備成績

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捕手






















2002 西武 30 77 5 0 0 2 1.000 6 4 2 .333
2003 36 159 8 1 1 1 .994 12 9 3 .250
2004 37 198 8 1 1 1 .995 18 15 3 .167
2005 26 101 7 1 0 1 .991 5 4 1 .200
2006 7 28 4 0 0 1 1.000 2 2 0 .000
2007 18 38 2 0 0 1 1.000 6 5 1 .167
2008 8 20 0 0 0 0 1.000 4 4 0 .000
2009 22 36 4 0 0 0 1.000 3 2 1 .333
2010 5 10 0 1 0 0 .909 0 0 0 ----
通算 184 662 48 3 3 7 .996 56 45 11 .196

記録

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初記録

背番号

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  • 46(2001年 - 2003年)
  • 22(2004年 - 2011年)
  • 82(2017年 - )

脚注

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  1. ^ 2001プロ野球プレイヤーズ名鑑 スポーツニッポン新聞社
  2. ^ 2003年「し烈正捕手争い「27」継ぐのは?」 [nikkansports.com] この時、細川と野田がインタビューに応じている。
  3. ^ a b c 西武・野田今季限り現役引退 右肩痛回復せず決断”. スポーツニッポン (2011年9月13日). 2011年9月13日閲覧。
  4. ^ 【コミッショナー公示】10月14日”. SANSPO.COM (2011年10月14日). 2011年10月14日閲覧。
  5. ^ 西武配置転換 小野前投手コーチが編成部プロ担当に Sponichi Annex 2011年11月19日
  6. ^ 西武新人オモシロ入寮、ドラ7呉は五郎丸そっくり”. 日刊スポーツ (2016年1月6日). 2021年5月19日閲覧。
  7. ^ 西武が来季のコーチングスタッフ発表 大石氏ら3人が新任、1・2軍の配置転換も”. Full-Count (2020年11月11日). 2021年5月19日閲覧。
  8. ^ 西武の正捕手争いを制するのは…!?=高木大成の南郷キャンプコラム”. スポーツナビ (2023年6月21日). 2023年6月23日閲覧。
  9. ^ 津坂プロペラ打法で3の3/北北海道大会 - 高校野球ニュース”. nikkansports.com. 2023年6月23日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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