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山田秋親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山田 秋親
びわこ成蹊スポーツ大学硬式野球部 監督
ロッテ時代
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 京都府京都市北区
生年月日 (1978-09-19) 1978年9月19日(46歳)
身長
体重
184 cm
85 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 2000年 ドラフト2位(逆指名)
初出場 NPB / 2001年3月28日
最終出場 NPB / 2010年8月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 2000年

山田 秋親(やまだ あきちか、1978年9月19日 - )は、京都府京都市出身の元プロ野球選手投手)、大学野球監督。右投右打。2010年から2012年までの登録名秋親

経歴

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プロ入り前

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北嵯峨高校時代は3年夏に府大会62奪三振の活躍で第78回全国高等学校野球選手権大会に出場。

高校卒業後は立命館大学に進学。2年秋に初登板を先発完投勝利で飾る。3年春に関学大戦でノーヒットノーランを達成し[1]大学選手権では初戦完投勝利で153kmをマーク[2]関西学生リーグで通算17勝6敗、防御率0.91、最優秀選手、最優秀投手各1回。最速153kmの直球を誇るアマチュア野球界ナンバーワンの投手として2000年シドニーオリンピックにも出場。複数球団の争奪戦を経て、2000年度ドラフト会議で2巡目の逆指名により福岡ダイエーホークスに入団。

ダイエー・ソフトバンク時代

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1年目の2001年は、新人ながら開幕ローテーションに加わり3月28日近鉄2回戦で初登板で初先発。7回途中を8安打で自責点4ながらも、初勝利を挙げる[3]。しかしその後は、不振の投球が目立ち開幕から1ヶ月経たず二軍落ち。7月に一軍復帰し完封勝利を記録したが好調が持続できず8月後半に二軍落ちし1軍復帰することはなくシーズンを終えた。

2年目の2002年も開幕からローテーションに入り5月8日までに開幕4連勝するが被本塁打が多くその後5連敗し、7月5日に5勝目を挙げるがオールスター前の登板を最後に二軍落ちし、その後1軍復帰できずシーズンを終えた[4]

2003年はエースの若田部健一がFA移籍するなど先発投手の再編もあり山田にも期待が持たれたが、若手の斉藤和巳杉内俊哉寺原隼人や新人の和田毅新垣渚の台頭で先発投手陣は激戦になり、山田は先発投手枠から外れ辛うじてリリーフのみでの登板で2勝挙げるのがやっとだった。

2004年は抑え投手である三瀬幸司へと繋ぐセットアッパーとして活躍。リリーフに活路を見出したが、2006年に右肘、2007年に左膝を手術するなど、故障により1軍登板が減少。登板数が1試合に終わった2008年オフにホークスから戦力外通告を受けた。現役続行を希望して同年11月に右肩関節唇の手術を受けた。

独立リーグ時代

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2009年3月から四国・九州アイランドリーグ福岡レッドワーブラーズの練習に参加。同年9月1日に選手として正式に入団。入団後は5試合に登板し、0勝1敗で防御率3.48の成績を挙げた。シーズン後はアイランドリーグ選抜選手の一員としてフェニックスリーグにも参加。NPB復帰を目指して、同年11月に12球団合同トライアウトに参加。同月20日に千葉ロッテマリーンズへの入団が発表された。登録名は「秋親」。元NPB選手が日本の独立リーグを経てNPBへの復帰を果たした初のケースとなった。

ロッテ時代

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2010年5月13日の交流戦横浜戦において負傷降板した先発・唐川侑己の後を受け、三番手として四回から登板。ダイエー時代の2004年9月8日のロッテ戦以来、2073日ぶりの勝利投手となった[5]。前半戦は防御率1点台だった時期もあり、敗戦処理やロングリリーフとして活躍した。しかし、2011年から2年続けて1軍登板がなく、2012年10月7日に戦力外通告を受けた[6]

クラブチーム時代

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ロッテ退団後は、社会人野球クラブチームであるミキハウスREDSに入団。

2013年第84回都市対抗野球大会では近畿地区予選突破はならなかったものの、好投を評価され日本生命補強選手に選ばれた[7]。7月15日、三菱重工横浜との1回戦、8回表3-3の同点の場面で救援登板し都市対抗野球初出場となったが、決勝点となる犠牲フライを許した。また自チームで出場した第38回全日本クラブ野球選手権では4試合中3試合に登板し、うち1試合は完封勝利。本大会の敢闘賞を受賞している[8]

2017年1月からびわこ成蹊スポーツ大学硬式野球部の投手コーチに就任した[9]。同大学の入試部入試課に勤務しつつ、2020年の取材時にはヘッドコーチ[10]2021年からは監督に昇格した[11]

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
2001 ダイエー
ソフトバンク
10 9 1 1 0 2 2 0 -- .500 218 48.1 43 5 32 0 3 25 4 0 29 29 5.40 1.55
2002 18 15 1 0 0 5 6 0 -- .455 403 91.0 92 17 39 2 5 82 3 1 55 53 5.24 1.44
2003 24 0 0 0 0 2 1 0 -- .667 121 26.0 25 3 17 2 5 20 1 0 12 12 4.15 1.62
2004 35 1 0 0 0 6 2 1 -- .750 244 57.2 53 7 24 1 1 53 0 0 25 25 3.90 1.34
2005 4 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 28 5.1 5 0 5 0 1 5 2 0 4 1 1.69 1.88
2007 6 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 25 6.0 5 2 3 0 0 4 0 0 3 3 4.50 1.33
2008 1 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 5 0.2 1 0 2 0 0 0 0 0 1 1 13.50 4.50
2010 ロッテ 28 0 0 0 0 1 0 0 2 1.000 146 31.1 31 3 20 0 6 29 5 0 17 17 4.88 1.63
通算:8年 126 25 2 1 0 16 11 1 2 .593 1190 266.1 255 37 142 5 21 218 15 1 146 141 4.76 1.49
  • ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更

独立リーグでの投手成績

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以下の数値は四国アイランドリーグplusウェブサイト掲載の各シーズン選手成績による[12]








































2009 福岡 3.48 5 0 1 0 0 0 0 10.1 42 7 1 8 2 1 4 4
通算:1年 3.48 5 0 1 0 0 0 0 10.1 42 7 1 8 2 1 4 4

記録

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NPB

背番号

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  • 17 (2001年 - 2007年)
  • 34 (2008年 - 2009年)
  • 48 (2010年 - 2012年)

登録名

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  • 山田 秋親 (やまだ あきちか、2001年 - 2009年)
  • 秋親 (あきちか、2010年 - 2012年)

脚注

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  1. ^ 2001プロ野球プレイヤーズ名鑑 スポーツニッポン新聞
  2. ^ 週刊ベースボール増刊 大学野球99<秋季リーグ戦展望号 ベースボールマガジン社
  3. ^ 「2002 ベースボール・レコード・ブック」 ベースボールマガジン社 41、309頁
  4. ^ 週刊ベースボール 2002年12/16号 86頁「保存版 記録の手帳 公式戦出場全選手個人成績 2002年プロ野球ペナントレース総括 2位 福岡ダイエーホークス」より。
  5. ^ 秋親 2073日ぶり白星に感慨深げ
  6. ^ 戦力外通告のお知らせ - 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト 2012年10月7日
  7. ^ 第84回都市対抗野球大会補強選手一覧 - 日本野球連盟
  8. ^ 全日本クラブ選手権:和歌山箕島球友会が7年ぶり2回目V毎日新聞2013年9月9日 2015年3月16日閲覧
  9. ^ 元ソフトバンク・山田秋親氏、びわこ成蹊スポーツ大投手コーチに就任 スポーツ報知 2017年1月10日
  10. ^ 喜瀬雅則 (2020年4月16日). “ダイエー逆指名ルーキー山田秋親、キャンプから狂った歯車 経験生かした「ユニホーム着っぱなし」人生”. 西日本スポーツ: p. 5. https://nishispo.nishinippon.co.jp/article/784723 2020年9月1日閲覧。 
  11. ^ びわこ成蹊スポーツ大、元ソフトバンク山田秋親ヘッドコーチが新監督に昇格 スポーツ報知 2021年2月6日
  12. ^ 記録2009年 - 四国アイランドリーグplus

関連項目

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外部リンク

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