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舞鶴鎮守府

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
舞鶴要港部から転送)
旧海軍機関学校大講堂

舞鶴鎮守府(まいづるちんじゅふ)は、京都府舞鶴市に所在した大日本帝国海軍鎮守府。通称は舞鎮(まいちん)。

沿革

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昭和天皇の舞鶴行幸(1933年)

ロシアの戦略上、日本海軍は日本海側へ海軍の軍事拠点を設置する事が悲願となっており、1889年(明治22年)に、湾口が狭く、防御に適しており、また湾内は波静かで多くの艦船が停泊できるなど軍港としては格好の地形であった舞鶴湾に白羽の矢をたて、舞鶴に鎮守府を設置する事になった。

しかしながら、佐世保の整備が優先されていたため、舞鶴の軍港建設費用には日清戦争によって清国から支払われた賠償金が充てられる事になった。初めに設けられた海軍施設は1893年(明治26年)完成の石炭貯蔵庫で、日清戦争による賠償金が充てられるようになると建設は飛躍的に進み、1896年(明治29年)には臨時海軍建築部支部(支部長:中溝徳太郎中佐)が設置された。舞鶴は山地が多いため、敷地開削工事に多額の費用を要したが、1899年(明治32年)末に土地造成工事はほぼ完了した。これに並行して鎮守府諸施設の工事が始まり、1901年(明治34年)10月1日に舞鶴鎮守府が開庁、初代司令長官は当時海軍中将であった東郷平八郎が任命された。

舞鶴海軍兵器廠

なお、1902年(明治35年)から1903年(明治36年)にかけて舞鶴海軍工廠の建物の建設が開始されたが、中核施設のドックが完成するのは日露戦争後である。

1923年(大正12年)よりワシントン軍縮条約により要港部へと格下げになり、長も司令長官(親補職)から司令官に格下げとなった。ただし、1925年(昭和元年)以降に着任した舞鶴要港部司令官は全て中将で着任しており[1][注釈 1]、1936年(昭和11年)6月[1][3][注釈 2]、要港部司令官のうち舞鶴要港部司令官のみが親補職に格上げされた[1][3]。軍縮条約が切れた1939年(昭和14年)に再び鎮守府に格上げされた。

海軍区

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第4海軍区として以下の地域を管轄した。(昭和15年1月時点)

  • 陸上
山形新潟富山石川福井滋賀京都兵庫美方郡及び城崎郡)、鳥取島根
  • 海上
山形、新潟、富山、石川、福井、京都、兵庫(日本海)、鳥取、島根 各府県の海上

年譜

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歴代司令長官

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鎮守府司令長官(第一次)

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  1. 東郷平八郎 中将:1901年10月1日 -
  2. 日高壮之丞 中将:1903年10月19日 - 1908年8月28日
  3. 片岡七郎 中将:1908年8月28日 - 1911年1月18日
  4. 三須宗太郎 中将:1911年1月18日 - 1913年9月25日
  5. 八代六郎 中将:1913年9月25日 - 1914年4月17日
  6. 坂本一 中将:1914年4月17日 - 1915年12月13日
  7. 名和又八郎 中将:1915年12月13日 -
  8. 財部彪 中将:1917年12月1日 -
  9. 野間口兼雄 中将:1918年12月1日 -
  10. 黒井悌次郎 中将:1919年12月1日 -
  11. 佐藤鉄太郎 中将:1920年8月16日 -
  12. 小栗孝三郎 中将:1921年12月1日 - 1923年3月31日

要港部司令官

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  1. 斎藤半六 中将:1923年4月1日 -
  2. 百武三郎 中将:1923年6月1日 -
  3. 中里重次 中将:1924年10月4日 -
  4. 古川鈊三郎 中将:1925年6月1日 -
  5. 大谷幸四郎 中将:1926年12月10日 -
  6. 飯田延太郎 中将:1928年5月16日 -
  7. 鳥巣玉樹 中将:1928年12月10日 -
  8. 清河純一 中将:1929年11月11日 -
  9. 末次信正 中将:1930年12月1日 -
  10. 大湊直太郎 中将:1931年12月1日 -
  11. 今村信次郎 中将:1932年12月1日 -
  12. 百武源吾 中将:1933年9月15日 -
  13. 松下元 中将:1934年11月15日 -
  14. 塩沢幸一 中将:1935年12月2日 -
  15. 中村亀三郎 中将:1936年12月1日 -
  16. 出光万兵衛 中将:1937年12月1日 -
  17. 片桐英吉 中将:1938年11月15日 -
  18. 原五郎 中将:1939年11月15日 - 12月1日

鎮守府司令長官(第二次)

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  1. 原五郎 中将:1939年12月1日 -
  2. 小林宗之助 中将:1940年4月15日 -
  3. 新見政一 中将:1942年7月14日 -
  4. 大川内傳七 中将:1943年12月1日 -
  5. 牧田覚三郎 中将:1944年4月1日 -
  6. 田結穣 中将:1945年3月1日 -
  7. (代)鳥越新一 少将:1945年11月15日 - 11月30日

最終所属部隊

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  • 第51戦隊(舞鶴):西岡茂泰少将
    • 旗艦:特設運送船「こがね丸」  
    • 標的艦:潜水艦×2隻 (「呂68」・「呂500」)
    • 附属艦艇
      • 鵜来型海防艦×5隻 (「保高」・「伊王」・「高根」・「伊唐」・「生野」)
      • 丙型海防艦×10隻 (「71号」・「75号」・「77号」・「79号」・「85号」・「87号」・「95号」・「221号」・「225号」・「227号」)  
      • 丁型海防艦×7隻 (「126号」・「156号」・「196号」・「198号」・「200号」・「202号」・「204号」)
  • 舞鶴海軍施設部:木村喬技術少将
    • 舞鶴設営隊:木村喬技術少将
    • 第3310設営隊(福知山):柳沢一誠技術大尉
    • 第3311設営隊(新川):郷古雄三技術大尉

現在も残る施設

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赤レンガ博物館

脚注

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注釈

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  1. ^ 雨倉孝之『海軍アドミラル軍政物語』(1997年、光人社)、「要港部司令官の行く末」(pp.95-96)では、「昭和元年以降の舞鶴要港部司令官への着任者は、全て中将で着任している」旨の言及しかない[1]。大正12年4月の舞鶴警備府司令官への格下げから、昭和14年4月の舞鶴鎮守府司令長官への再格上げまで、全ての舞鶴警備府司令官が中将で着任している[2]
  2. ^ 「要港部令」第8条が「要港部に司令官を置く 舞鶴要港部司令官は親補とす」(原文は漢字カタカナ)と改正されたのが昭和11年6月26日付[3]。「海軍給与令」が改正され、艦隊司令長官の俸給と舞鶴要港部司令官の俸給が同額とされたのが、同年7月21日付[3]

出典

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  1. ^ a b c d e 雨倉 1997, p. 95-96, 要港部司令官の行く末
  2. ^ 秦 2005, pp. 451–452, 第2部 陸海軍主要職務の歴任者一覧-IV 海軍-4.鎮守府など-A 鎮守府-舞鶴鎮守府司令長官
  3. ^ a b c d e 海軍給与令中ヲ改正ス・(舞鶴要港部司令官親補ニ付増額)」 アジア歴史資料センター Ref.A14100502300 

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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