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中里重次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中里なかざと 重次しげじ
生誕 1871年10月12日明治4年8月28日
日本の旗 日本山形県
死没 (1946-01-20) 1946年1月20日(74歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1893年 - 1925年
最終階級 海軍中将
除隊後 北樺太石油社長
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右から二人目が連合艦隊司令長官に就任し東京駅を出発する山本五十六を見送る中里(右端は八角三郎

中里 重次(なかざと しげじ、1871年10月12日明治4年8月28日) - 1946年昭和21年)1月20日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍中将

経歴

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山形県出身。中里重威の二男として生れる。山形県中学校攻玉社を経て、1893年12月、海軍兵学校20期)を卒業し、少尉候補生として「葛城」に乗り組み日清戦争に従軍。1895年3月に海軍少尉任官。海軍大学校で乙種学生として学んだ。

その後、「明石」砲術長、海兵教官などを経て、日露戦争では「橋立」砲術長として出征した。「常磐」砲術長、軍令部参謀海軍省軍務局員、イギリス駐在、「阿蘇」副長、軍務局員、軍令部参謀、「春日艦長、「磐手」艦長、軍令部第2班長などを歴任し、1918年(大正7年)12月、海軍少将に進級。さらに、軍需局長を勤め、1922年(大正11年)12月、海軍中将となった。舞鶴要港部司令官などを経て、1925年(大正14年)6月、予備役に編入された。同年8月から始まった北樺太利権交渉の日本代表となり、アドリフ・ヨッフェらを相手に交渉にあたった[1]1926年(大正15年)6月7日、オハ油田開発の国策会社である北樺太石油: Northern Karafuto Oil Consession[2]の設立総会で初代社長となった[3]

栄典

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位階
勲章等

親族

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脚注

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  1. ^ 北樺太利権交渉 第一回総会議大阪毎日新聞 1925.8.17 (大正14)
  2. ^ 村上 隆, "北樺太石油コンセッション 1925‐1944", ISBN 4-832-96471-2
  3. ^ 創立総会で中里重次を社長に選任『東京朝日新聞』大正15年6月8日(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p115 大正ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  4. ^ 『官報』第3582号「叙任及辞令」1895年6月10日。
  5. ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
  6. ^ 『官報』第4603号「叙任及辞令」1898年11月1日。
  7. ^ 『官報』第6147号「叙任及辞令」1903年12月26日。
  8. ^ 『官報』第7640号「叙任及辞令」1908年12月12日。
  9. ^ 『官報』第451号「叙任及辞令」1914年1月31日。
  10. ^ 『官報』第1930号「叙任及辞令」1919年1月11日。
  11. ^ 『官報』第3126号「叙任及辞令」1923年1月4日。
  12. ^ 『官報』第3933号「叙任及辞令」1925年10月2日。
  13. ^ 『官報』第3727号「叙任及辞令」1895年11月29日。
  14. ^ 『官報』第4020号・号外「辞令」1896年11月20日。
  15. ^ 『官報』第5671号「叙任及辞令」1902年6月2日。
  16. ^ 『官報』第7005号・付録「叙任及辞令」1906年11月2日。
  17. ^ 『官報』第700号「叙任及辞令」1914年12月1日。
  18. ^ 『官報』第1189号・付録「叙任及辞令」1916年7月18日。
  19. ^ 『官報』第2660号「叙任及辞令」1921年6月14日。
  20. ^ 『官報』第4038号「叙任及辞令」1926年2月12日。
  21. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。