中里重次
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生誕 |
1871年10月12日(明治4年8月28日) 日本・山形県 |
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死没 | 1946年1月20日(74歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1893年 - 1925年 |
最終階級 | 海軍中将 |
除隊後 | 北樺太石油社長 |
中里 重次(なかざと しげじ、1871年10月12日(明治4年8月28日) - 1946年(昭和21年)1月20日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。
経歴
[編集]山形県出身。中里重威の二男として生れる。山形県中学校、攻玉社を経て、1893年12月、海軍兵学校(20期)を卒業し、少尉候補生として「葛城」に乗り組み日清戦争に従軍。1895年3月に海軍少尉任官。海軍大学校で乙種学生として学んだ。
その後、「明石」砲術長、海兵教官などを経て、日露戦争では「橋立」砲術長として出征した。「常磐」砲術長、軍令部参謀、海軍省軍務局員、イギリス駐在、「阿蘇」副長、軍務局員、軍令部参謀、「春日」艦長、「磐手」艦長、軍令部第2班長などを歴任し、1918年(大正7年)12月、海軍少将に進級。さらに、軍需局長を勤め、1922年(大正11年)12月、海軍中将となった。舞鶴要港部司令官などを経て、1925年(大正14年)6月、予備役に編入された。同年8月から始まった北樺太利権交渉の日本代表となり、アドリフ・ヨッフェらを相手に交渉にあたった[1]。1926年(大正15年)6月7日、オハ油田開発の国策会社である北樺太石油(英: Northern Karafuto Oil Consession)[2]の設立総会で初代社長となった[3]。
栄典
[編集]- 位階
- 1895年(明治28年)6月8日 - 正八位[4]
- 1898年(明治31年)
- 1903年(明治36年)12月25日 - 従六位[7]
- 1908年(明治41年)12月11日 - 正六位[8]
- 1914年(大正3年)1月30日 - 従五位[9]
- 1919年(大正8年)1月10日 - 正五位[10]
- 1922年(大正11年)12月28日 - 従四位[11]
- 1925年(大正14年)7月1日 - 正四位[12]
- 勲章等
- 1895年(明治28年)11月18日 - 勲六等単光旭日章[13]・明治二十七八年従軍記章[14]
- 1902年(明治35年)5月31日 - 勲五等瑞宝章[15]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲四等旭日小綬章・功四級金鵄勲章・明治三十七八年従軍記章[16]
- 1914年(大正3年)11月30日 - 勲三等瑞宝章[17]
- 1915年(大正4年)11月7日 - 旭日中綬章・大正三四年従軍記章[18]
- 1920年(大正9年)11月1日 - 勲二等旭日重光章[19]
- 1926年(大正15年)2月10日 - 金杯一個[20]
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[21]
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ 北樺太利権交渉 第一回総会議大阪毎日新聞 1925.8.17 (大正14)
- ^ 村上 隆, "北樺太石油コンセッション 1925‐1944", ISBN 4-832-96471-2
- ^ 創立総会で中里重次を社長に選任『東京朝日新聞』大正15年6月8日(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p115 大正ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 『官報』第3582号「叙任及辞令」1895年6月10日。
- ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
- ^ 『官報』第4603号「叙任及辞令」1898年11月1日。
- ^ 『官報』第6147号「叙任及辞令」1903年12月26日。
- ^ 『官報』第7640号「叙任及辞令」1908年12月12日。
- ^ 『官報』第451号「叙任及辞令」1914年1月31日。
- ^ 『官報』第1930号「叙任及辞令」1919年1月11日。
- ^ 『官報』第3126号「叙任及辞令」1923年1月4日。
- ^ 『官報』第3933号「叙任及辞令」1925年10月2日。
- ^ 『官報』第3727号「叙任及辞令」1895年11月29日。
- ^ 『官報』第4020号・号外「辞令」1896年11月20日。
- ^ 『官報』第5671号「叙任及辞令」1902年6月2日。
- ^ 『官報』第7005号・付録「叙任及辞令」1906年11月2日。
- ^ 『官報』第700号「叙任及辞令」1914年12月1日。
- ^ 『官報』第1189号・付録「叙任及辞令」1916年7月18日。
- ^ 『官報』第2660号「叙任及辞令」1921年6月14日。
- ^ 『官報』第4038号「叙任及辞令」1926年2月12日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。