第3回全日本フォークジャンボリー
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第3回全日本フォークジャンボリーとは1971年8月7日から9日にかけて岐阜県恵那郡坂下町(現在の中津川市)にある椛の湖(はなのこ)の湖畔で開催された第3回の全日本フォークジャンボリー(中津川フォークジャンボリー)である。観客約25,000人[出典 1]、20,000人超[9]、18,000ー20,000人[10]。
概説
[編集]メインステージとサブステージがあり、サブステージはさらにフォークとロックの二つに分かれ[出典 2]、さらに黒テントや[10]、野外映画館などもあり、面倒な構成となっていた[出典 3]。当時の状況からPAは極めて出力の低いもので、メインステージは収容何とか1,0000人くらい[10]。第1サブステージ、第2サブステージが各100人程度だった[10]。「フォークジャンボリー」と謳いながら、当時は一般的にロックのカテゴリーに入れられることの多かったはっぴいえんど、はちみつぱい、乱魔堂、カルメン・マキ、ブルース・クリエーション、ミッキー・カーチスら[出典 4]や、一般的にジャズのカテゴリーに入れられることの多い日野皓正や安田南も出演し[出典 5]、ロックのサブステージに高田渡やなぎら健壱が出演するなど非常に曖昧で[出典 6]、メインとサブステージの分け方にも出演者の間で不満が募り[出典 7]、出演順を巡ってトラブルが繰り返された[出典 8]。ロックフェスに充分なノウハウがある時代ではなく[3]、第3回を数えて膨張した観客を仕切れるスタッフなどいる筈もなく[3]、もうコントロールも出来ない状況で[2]、会場はカオスと化した[3]。メインステージに立ったはしだのりひことクライマックスは「花嫁」が大ヒットしたばかりで、商業主義を批判する観客の格好の餌食となり[2]、ビンは飛んでくるわ、ヤジられるわでとても演奏できる状況ではなく[2]。途中で演奏を止めた[2]。次にステージに立ったかまやつひろしは「怖かった。あんなに緊張したことはなかった」と述べている[2]。北山修(きたやま おさむ)は「拓郎と岡林の両陣営に観客がわかれて、会場は殺気だった雰囲気となり、『帰れ』『帰れ』の怒号が飛び交う…。僕は観客としての参加でしたが、恐怖を感じましたね」などと述べている[14]。
吉田拓郎の「人間なんて」
[編集]この年初参加した吉田拓郎は「URCの連中より、自分の方が売れている。なぜ俺がサブステージなんだ」と関西系のURCのシンガーとぶつかり、東京対大阪の様相を呈した[出典 9]。このコンサートの模様は2つのレコード会社によってレコーディングされ、会場内にテレビカメラが持ち込まれていたが、これに一部の客が"主催者側の姿勢に疑問あり"と騒ぎ始めた[出典 10]。2日目の夕方、数百人にも満たないサブステージで[10]、広島フォーク村時代の仲間と組んだミニバンド(バンド名)をバックに演奏をはじめた吉田拓郎は[出典 11]、商業主義の乱入に反発し盛んに観客を煽った[出典 12]。歌い始めた吉田のPAにトラブルが発生したが、小室等と六文銭をステージに呼び[17]、マイク無しで演奏を続行[出典 13]。何かに憑かれたように「人間なんて」を延々と歌う吉田のもとに客が次第に集まり始め、200人ほどの収納スペースに1,000人ほどが押し寄せ[17]、その観客を巻き込んでの歌声が広がっていき、その数はどんどん膨らんでいった[出典 14]。メインステージとサブステージを行ったり来たりしていた牧村憲一は「半日くらい『人間なんて』をやっていたのかな」という感覚だったという[10]。「人間なんて」の単純な歌詞の繰り返しには呪詛的な要素もあるため[19]、酒の酔いも手伝い、一種のトランス状態が現出[出典 15]。PAもなく吉田の声も出なくなってきたころ、観客は聴こえづらいとばかり前に行きたがり、前方にいた人が押されいつ事故が起こってもおかしくない状況に至り[出典 16]、収拾はもうつかない状況[出典 17]。小室が止めに入り「もうここはおしまいにしよう」「メインに行こう」などと言ったら[出典 18]、拓郎も「ここはサブではなくて、こっちがメインステージだ!」とアジった。それを受けて小室が「サブステージに行こう」と呼応すると、劣悪な環境でイライラが募っている観客の一部が「オー!」と隊列を組んでメインステージに向かった[出典 19]。これがコンサートの流会の直接のきっかけとする伝聞が、吉田拓郎が名声を得るに連れ、広がっていったが[10]、このサブステージでの出来事は夕方のことで、コンサートが流会するのは夜だった[出典 20]。なぎら健壱は「拓郎は受けてなく、殺してやると言っていた奴の方が多かった」などと話している[28]。他に音楽舎からの依頼でサブステージの制作を10万円で請け負っていた後藤由多加が[出典 21]、客に酒を飲ませ回って煽動していたという話もある[29]。後藤はまだ拓郎をマネジメントする前で、メインステージは音楽舎を中心とした関西系アーティストで、サブステージは東京のアーティストを連れて来てくれという依頼だったと記憶していると話している[13]。またギャラ10万円ではとても運営できないため、中津川で手羽先屋を営んでいる知り合いに頼み、会場で手羽先を5本300円で売って、不足分を補ったという[13]。
コンサートの流会
[編集]幸いその時点で大きな騒ぎにはならなかったものの、運営側も観客も野外コンサートへの不慣れからくる不満が募った[出典 22]。会場の椛の湖は人口湖で貯水池[10]。雨が降って水かさが増すと濁っていた[10]。また開墾直後でもあり、露出した地肌の上に観衆が座り込んでいた[9]。トイレも少なく、食事も不足している中、前日の雨で赤土が汚くベタベタし[10]、場の雰囲気は荒れていた[出典 23]。20時過ぎに岡林信康と三上寛が出演することで観客に大受けして、一旦は騒ぎも落ち着いていたが[10]、その後、日野皓正、安田南+鈴木勲トリオというジャズの流れの中で、「どうしてフォークジャンボリーなのに、フォークじゃない連中が出てるんだ」という不満の声が勃発[出典 24]。午後10時ころ[17]ステージに上がった安田南のイントロが始まるや否や、観客が「やめろ」「帰れ」といった激しい野次を浴びせた[2]。安田は歌を聴きにきている人たちのために、辛抱強くライブを続けようとしたのだが、そこへコカ・コーラのガラス空き瓶が投げ込まれた[2]。時代から関係者は火炎瓶が投げ込まれたのかと思ったという[2]。1曲目が終わってざわついている会場に向かって、安田が「文句あるんなら上がってらっしゃいよ」と言ったのをきっかけに[出典 25]、安田が「テメーッ!」と叫びながら客席に瓶を投げ返したという説もあるが[2]、安田の演奏は中止され、ステージにベ平連系の若者を中心とした観客数十人が上がり込んで、安田からマイクを奪い取りステージを占拠した[出典 26]。若者は自分たちの主張を演説し始める事態となり[2]、コンサートを続けようとする実行委員会側との討論会となり、ステージは暴徒化した観客に占拠された[出典 27]。スピーカーからほとばしる叫びは、湖面から山肌をも震わせる程であったといわれる[出典 28]、舞台を目がけて花火が打ち込まれ会場は騒然[出典 29]、そのままコンサートも自然流会してしまった[出典 30]。この年は3日間の開催予定だったが、2日目で中止になった[9]。コンサート流会の最大の原因はフォークコンサートにジャズが出て来たことで[10]、不毛な論議は明け方まで続いたという[10]。当時のフォークコンサートでは、途中でこうした討論会に突入することが少なからずあった[10]。ファンも含めたシーンが成熟した21世紀の今日では、出演順やステージ分けに少しの不満を感じたとしても、それを公演途中に観衆に問う、という絵は想像しにくいが[9]、当時の音楽シーンには今の時代には無い若さ、青さがあったという言い方もできる[9]。
安田の後にステージに立つ予定だったのははっぴいえんどで[31]、その後、山下洋輔トリオやザ・ディランII、遠藤賢司もプログラムには掲載されていなかったが、隠し玉でスタンバイしていたという話もある[10]。
はしだのりひこによると暴動を扇動したのはジャンボリーの数日前、広島の被爆者慰霊碑に当時の首相・佐藤栄作が献花に訪れた際、火炎瓶を投げつけて機動隊から逃れ中津川まで流れてきた人たちだという[32]。
このコンサートの主催者を代表していた笠木透は、「元々はこの第3回公演を最後に終了する予定にしていた」が、上記の押し問答により、途中打ち切りというあっけない結末になったとされている[30]。牧村憲一は、笠木から「もう自分たちが制御できないくらい大きなコンサートになってしまった」と聞いたという[2]。1,000円という入場料でまかなうことも限界で、第3回でも売り上げは2,000万円くらいで、これだけの出演者を揃えてコンサートを運営するのは経済的にもきつかったと思う、などと論じている[2]。
当日のメインステージ進行補佐だった上條俊一郎は「商業主義と言われてしまったけれど、第3回目にしてやっと少し利益が残ったと聞いています。でも、その利益は、亡くなった高校生にお見舞金として渡ったんです。あの占拠事件がなくても、第4回目以降があったかどうかは定かではないと思いますね」と述べている[10]。会場に隣接する椛の湖で高校生がドラム缶で作った船から転落し、湖で溺死するという事件が起きていた[2]。
後の音楽史への影響
[編集]暴徒化した観客が岡林信康を目がけて殺到したが[15]、岡林は会場に残るつもりでいた。しかしスタッフが説得し岡林を帰したため[15]、拓郎との主役交代をより印象付ける結果となった[出典 31]。以降、拓郎は"フォークの旗手"として新しい時代を切り拓いていく[出典 32]。
ミッキー吉野は「フォークとロックの大まかな分岐点ともなった、重要なイベントだった」[3]、難波弘之は「拓郎さんがフォークジャンボリーで英雄視されたことを境にフォークが隆盛し、ロックが沈静化していったともいえると思う」などと論じている[3]。牧村憲一も「ここから日本のポップス、ロックの新たな1ページが始まったとも言える」と述べている[17]。また写真家・井出情児も「日本の音楽シーンがフォークからロックに変わった瞬間だった」と述べている[2]。
映像
[編集]コンサートの模様は、直前に行われた「箱根アフロディーテ」からの流れでテレビマンユニオンが45分のフィルムに収め保管しているといわれるが[出典 33]、佐野史郎が依頼をしてテレビマンユニオンで探したが、見つからなかったという[10]。
エピソード
[編集]- サブステージでの高田渡の「自転車にのって」歌唱の際、サイドギター担当の加川良に向かって、客席にいた吉田拓郎がウイスキーをラッパ飲みしながら「加川良、しっかりギター弾けよ、お前」などとしつこく野次るので、高田がステージの上から「よしだたくろう、少しうるせーぞ!」「よしだたくろう、いつか殺してやる」と言い返す[出典 34]。拓郎の出番はこのすぐ後で、ふらつく足でステージに立ち、前述のパフォーマンスを行う[12]。
- 当時なぎら健壱は、列車で新宿から中津川に向かったが、列車の移動だけで9時間もかかった。そこから会場までは、さらにバスで30分。国鉄(現JR)は、観客の多さに臨時列車まで出して対応した[37]。
- 三上寛は当時無名で、1971年のお正月明けくらいに、『週刊明星』の方が1枚のレコード(『三上寛の世界』)を持って「とにかくすごいのがいるんだけど、唄う場所がない」と音楽舎を訪ねてきて、そのアルバムを聴いてびっくりした[10]。前年の1970年フォークジャンボリーに加川良が飛び入りしたり、遠藤賢司も出て大受けした経験から、三上寛についての情報は伏せておこうとなり、実際にメインステージでの1曲目「夢は夜ひらく」がすごくウケたので、これはいけるとなったという[10]
- 浅川マキのプロデューサーだった寺本幸司は、浅川を連れて中津川を訪れ[19]、サブステージの拓郎のパフォーマンスを観戦[19]。「人間なんて」を1時間以上歌い続ける圧倒的な存在感に「この男は時代を塗り替える表現者だ」と感じた[19]。浅川も同様で拓郎の話ばかりし[19]、「拓郎とジョイントコンサートをやりたい」と言うため、寺本はまだ早稲田大学の学生だった後藤由多加を介して[19]、これを実現させ、浅川は"フォークの寵児"とのジョイントで知名度を各段に上げた[19]。
出演表
[編集]『「風に吹かれた神々」鈴木勝生著、1987年、シンコー・ミュージック』内の「フォークリポート1971年秋の号」より
※ この出演表には、2日目の安田南の欄に、「ステージ占拠事件が起きる」とある。
日付 | 時間 | メインステージ | ロック・サブ | フォーク・サブ |
---|---|---|---|---|
8月7日 | 14 | 乱魔堂
野沢享司 |
アマチュア | |
15 | (リハーサル)
長野隆 斉藤哲夫 ガロ 六文銭 はちみつぱいなど |
なぎらけんいち
岡林信康・黒田征太郎 |
||
16 | トン・フー子 | 加川良
岩井宏 |
||
17 | DEW
|
金延幸子
友部正人 アマチュア |
||
18 | クライマックス
五輪真弓 |
(友川かずき)
遠藤賢司 |
||
19 | ガロ
武蔵野タンポポ団 |
はっぴいえんど | ||
20 | ミッキー・カーチス
加川良 |
|||
21 | 長谷川きよし
浅川マキ |
|||
22 | ブルース・クリエイション
カルメン・マキ |
DEW |
||
23 | かまやつひろし
シティ・ライツ 三上寛 |
ブルース・クリエイション |
||
24 | 小林啓子
御陣乗太鼓 デキシーキングス |
|||
25 | 吉田拓郎
六文銭 岡林信康 |
カルメン・マキ
|
||
8月8日 | 12 | 山本コウタロー
長野隆 のこいのこ | ||
13 | 斉藤哲夫
あがた森魚 小野和子 | |||
14 | ディランⅡ
村上律 ぼく |
野沢享司
山本コウタロー 長野隆 山平和彦 | ||
15 | 中川イサト | アマチュア
シュリークス 万華鏡 | ||
16 | ホームタナーズ
はしだのりひこと 中村洋子 友部正人 |
品川寿男
シバ |
都会の村人
シティ・ライツ 本田路津子 麻田浩 | |
17 | 本田路津子
麻田浩
|
高田渡
|
五輪真弓
岩井宏 岩井宏・高田渡・加川良 | |
18 | 斉藤哲夫
シティ・ライツ シュリークス トン・フー子 |
岩井宏
友部正人 武蔵野タンポポ団 |
六文銭・吉田拓郎
| |
19 | 加川良
中川五郎 都会の村人 クライマックス |
|||
20 | 岡林信康
三上寛 |
万華鏡
なぎらけんいち |
||
21 | 日野皓正クインテット | あがた森魚 | ||
22 | 安田南 | 斉藤哲夫 | ||
23 | はちみつぱい | |||
24 | ミッキー・カーチス
乱魔堂 |
出演者
[編集]- あがた森魚
- 浅川マキ
- 五輪真弓
- 岩井宏
- 遠藤賢司
- 小野和子
- 岡林信康
- 加川良
- 金延幸子
- かまやつひろし
- カルメン・マキ
- ガロ
- はしだのりひことクライマックス
- 斉藤哲夫
- ザ・サード
- ザ・ディランII
- シティ・ライツ
- シバ
- シュリークス
- 高田渡
- Dew
- 友川かずき
- 友部正人
- 都会の村人
- トン・フー子(五つの赤い風船の東祥高と藤原秀子)- リーダーの西岡たかしは、加藤和彦らとアメリカに行っており、この二人での参加となった[38]。
- 中川イサト
- 中川五郎
- なぎら健壱
- のこいのこ
- 野沢享司
- 長谷川きよし
- はちみつぱい(鈴木慶一、鈴木博文、本多信介、渡辺勝)
- はっぴいえんど
- 日野皓正クインテット
- ブルース・クリエーション
- ぼく
- 本田路津子
- 三上寛
- ミッキー・カーチス
- 武蔵野タンポポ団
- 安田南
- 山平和彦
- 山本コウタロー
- 吉田拓郎
- 乱魔堂
- 六文銭
- その他
参加ミュージシャン
[編集]- 石川鷹彦 - 五輪真弓と共演
- 今田勝クインテット - 長谷川きよしと共演
- 小原礼 - ガロと共演
- 高中正義 - 岡林信康と共演
- 高橋幸宏 - ガロと共演
- 戸叶京助 - 岡林信康と共演
- 柳田ヒロ - 岡林信康と共演
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
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出典(リンク)
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