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== 経歴 ==
== 経歴 ==
母を所有していたミッシェルハム氏は繁殖として供用する目的でコーン氏に預託していたが、ミッシェルハム急死によりそのまま所有するボアルセル牧場に置いた{{sfn|原田俊治|1970|p=188}}。
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その後に牧場の全てをコーンは売却し、購入したボルテラ氏は牧場名にあやかり、牧場で初めて生まれた馬に、ボワルセルと名付けた{{sfn|原田俊治|1970|p=190}}。

=== 競走馬時代 ===
=== 競走馬時代 ===
ボワルセルの競走馬としてのデビューは遅く、[[1938年]]4月に[[フランス]]の[[パリロンシャン競馬場|ロンシャン競馬場]]で行われたジュイーニュ賞 (Prix Juigné) で初出走を迎えた。同レースを優勝したボワルセルはイギリス人のピーター・ビーティの眼に止り、同馬の馬主であったボルテラと交渉を行ったビーティによって8000[[ポンド (通貨)|ポンド]]で購入された
競走馬デビューは遅く、[[1938年]]4月に[[フランス]]の[[パリロンシャン競馬場|ロンシャン競馬場]]で行われたジュイーニュ賞 (Prix Juigné) (2100メートル)で初出走を迎えて、ここ豪脚で差し切り優勝した{{sfn|原田俊治|1970|p=182}}
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ビーティによって購入されたボワルセルはダービーの6週間前に[[イギリス]]へ渡りダーリン厩舎へ入厩{{sfn|原田俊治|1970|p=182}}。
ビーティによって購入されたボワルセルは[[イギリス]]へ渡り、6月1日の[[ダービーステークス]]に出走することになった。ボワルセルに対するブックメーカーによる評価はオッズ20:1と低く、レースではスタートで出遅れ、タッテナムコーナーではバスク、ハルションギフトと先頭争いをする[[スコティッシュユニオン]]から12馬身離された。この時点では騎乗した騎手(E・エリオット)ですら勝負を諦めていたが、直線に入るとエリオットが「奇蹟」と呼んだ鋭い伸びを見せ、スコティッシュユニオンに4馬身の[[着差 (競馬)|着差]]をつけて優勝した。ボワルセルは[[プラッキーリエージュ]]が23歳の時に残した産駒であり、[[20世紀]]中で最も高齢の母から生まれたエプソムダービー馬となった。
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6月1日の[[ダービーステークス]]に出走することになった{{sfn|原田俊治|1970|p=180}}。
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ブックメーカーによるボワルセルは20:1 (日本円で単勝2100円相当)で、バスクの9:4(日本円で単勝320円相当)、スコティッシュユニオンの8:1(日本円で単勝900円相当)より低い評価だった{{sfn|原田俊治|1970|p=180}}。
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タッテナムコーナーで先頭争いはハルションギフトと2番手に追い上げた[[スコティッシュユニオン]]にバスクが加わった先頭集団からボワルセルは12馬身離された{{sfn|原田俊治|1970|p=181}}。
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そこを先頭争いから脱落した2頭を追い抜いたボワルセルが大外から急襲し、スコティッシュユニオンに4馬身の[[着差 (競馬)|着差]]をつけて優勝した{{sfn|原田俊治|1970|p=181}}。


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「タッテナムコーナーで勝負をほとんど諦めていたが、1鞭入れたら奇蹟が起きた。
ボワルセルは何かに憑かれて変わったかのようにスピードを上げてバスクを抜き、スコティッシュユニオンを抜いた時にゴールまで1ハロンも無かったと思う。
追い抜いた後に後ろを見ると抜かれた2頭が止まっているように見えた。
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ボワルセルは[[プラッキーリエージュ]]が23歳の時に残した産駒であり、[[20世紀]]中で最も高齢の母から生まれたエプソムダービー馬となった{{sfn|原田俊治|1970|p=189}}。

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しかし同レースの直前に持病となっていた前脚の腱の炎症が悪化し、引退を余儀なくされた{{sfn|原田俊治|1970|p=184}}。


=== 種牡馬時代 ===
=== 種牡馬時代 ===
競走馬引退後はイギリスのラトランド牧場で[[種牡馬]]となった{{sfn|原田俊治|1970|p=184}}。
競走馬引退後はイギリスのラトランド牧場で[[種牡馬]]となった。初年度産駒から[[セントレジャーステークス]]優勝馬のテヘランを出すなど種牡馬成績は当初から良好だった。イギリスおよびアイルランドの種牡馬ランキングで[[1947年]]と[[1949年]]にそれぞれ2位に入っている<ref name="Leicester">{{cite book|last=Leicester|first=Sir Charles|title=Bloodstock Breeding|year=1974|publisher=J.A. Allen & Co.|location=London|isbn=978-0-85131-129-6|pages=313–321}}</ref>。種牡馬ランキングは集計方法によって異なり、1949年はボワルセルが2位ではなく[[リーディングサイアー]]だったとする資料も存在する<ref>{{Cite web|url=http://www.tbheritage.com/HistoricSires/LeadingSires/GBLeadSires.html |title=Leading Sires of Great Britain and Ireland |website=Thoroughbred Heritage |accessdate=2018-08-04}}</ref>。

種付料は300ギニー<ref>最高は[[バーラム]]と[[ソラリオ]]の500ギニー。次いでネアルコやハイペリオンの400ギニー。</ref>{{sfn|原田俊治|1970|p=184}}。
3戦2勝の戦績にしては高い理由は、イギリスで壊滅したセントサイモン系の復興や、[[カヴァリエーレ・ダルピーノ]]らイギリス国外で活躍中の同父系やを期待と、当時のイギリス馬産家が好んだセントサイモンの[[奇跡の血量]]を有しているからとされる{{sfn|原田俊治|1970|p=184}}。

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<br>
種牡馬ランキングは集計方法によって異なり、1949年はボワルセルが2位ではなく[[リーディングサイアー]]だったとする資料も存在する<ref>{{Cite web|url=http://www.tbheritage.com/HistoricSires/LeadingSires/GBLeadSires.html |title=Leading Sires of Great Britain and Ireland |website=Thoroughbred Heritage |accessdate=2018-08-04}}</ref>。

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産駒のうちテヘランはイギリスのリーディングサイアーとなり、ミゴリも成功を収めた。その後子孫から[[タルヤー]]やクーガー、[[ギャラントマン]]など世界的に活躍馬が出たことからボワルセルは「[[セントサイモン系]]中興の祖」と呼ばれた、20世紀末に大半の勢力を失っ。[[日本]]では[[持込馬]]の[[ヒカルメイジ]]が[[東京優駿]]を優勝し種牡馬としても成功したほか、種牡馬として輸入された[[ヒンドスタン]]が[[三冠_(競馬)#3歳|クラシック三冠馬]]のシンザンを送り出し大成功を収めるなど、直系の種牡馬が活躍した。
後継種牡馬のうちテヘランはイギリスのリーディングサイアーとなり、ミゴリも成功を収めた。
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== 競走成績 ==
== 競走成績 ==
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== 血統表 ==
== 血統表 ==
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<br>
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2023年3月14日 (火) 13:24時点における版

ボワルセル
ファイル:ボワルセル 2023年3月14日.png
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1935年
死没 1955年10月21日
Vatout
Plucky Liege
母の父 Spearmint
生国 フランス
生産者 レオン・ヴォルテラ
馬主 ボルテラ
→ピーター・ビーティ
調教師 フレッド・ダーリン
競走成績
生涯成績 3戦2勝
獲得賞金 9,229ポンド
105,600フラン
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ボワルセル (Bois Roussel) は、1930年代後半に活躍したフランス競走馬種牡馬。名繁殖牝馬プラッキーリエージュが最後に残した産駒であり、1938年エプソムダービーに優勝した。種牡馬としても成功を収めた。

経歴

母を所有していたミッシェルハム氏は繁殖として供用する目的でコーン氏に預託していたが、ミッシェルハム急死によりそのまま所有するボアルセル牧場に置いた[1]
その後に牧場の全てをコーンは売却し、購入したボルテラ氏は牧場名にあやかり、牧場で初めて生まれた馬に、ボワルセルと名付けた[2]

競走馬時代

競走馬デビューは遅く、1938年4月にフランスロンシャン競馬場で行われたジュイーニュ賞 (Prix Juigné) (2100メートル)で初出走を迎えて、ここを豪脚で差し切り優勝した[3]
この勝利はイギリス人のピーター・ビーティ[4]の眼に止り、同馬の馬主であったボルテラと交渉が行われ、最初は4000ポンドが提示されるも拒否され、1000ポンドずつ増額されて8000ポンドで購入された[5][3]

ビーティによって購入されたボワルセルはダービーの6週間前にイギリスへ渡りダーリン厩舎へ入厩[3]
6月1日のダービーステークスに出走することになった[6]
ブックメーカーによるボワルセルは20:1 (日本円で単勝2100円相当)で、バスクの9:4(日本円で単勝320円相当)、スコティッシュユニオンの8:1(日本円で単勝900円相当)より低い評価だった[6]
予定時刻よりかなり遅れてスタートしたレースは、ボワルセルが出遅れてしまい、対照的な好スタートを決めたハルションギフトが、1マイル標識点で3馬身差の先頭を走る遥か後方を走っていた[7]
タッテナムコーナーで先頭争いはハルションギフトと2番手に追い上げたスコティッシュユニオンにバスクが加わった先頭集団からボワルセルは12馬身離された[7]
ゴールまで残り上り坂3ハロンで、先頭集団3頭からハルションギフトが後退し、バスクの脚色が衰える[7]
そこを先頭争いから脱落した2頭を追い抜いたボワルセルが大外から急襲し、スコティッシュユニオンに4馬身の着差をつけて優勝した[7]

騎乗したE・エリオット騎手は記者へレース中の事を語っている[3]
「タッテナムコーナーで勝負をほとんど諦めていたが、1鞭入れたら奇蹟が起きた。 ボワルセルは何かに憑かれて変わったかのようにスピードを上げてバスクを抜き、スコティッシュユニオンを抜いた時にゴールまで1ハロンも無かったと思う。 追い抜いた後に後ろを見ると抜かれた2頭が止まっているように見えた。 もし、後1ハロン走っていたら半ハロンの差をつけていただろう[3]。」

ファイル:タッテナムコーナーを走るボワルセル 2023年3月14日.png
タッテナムコーナーを走るボワルセル

ボワルセルはプラッキーリエージュが23歳の時に残した産駒であり、20世紀中で最も高齢の母から生まれたエプソムダービー馬となった[8]

ダービー優勝後、陣営はボワルセルを当時世界有数の国際レースであったフランスのパリ大賞典(3000メートル)に遠征させた[9]
6月26日、18頭立てで行われたこのレースにはイタリアダービー馬ネアルコやフランスダービー馬シラが出走[9]。 3番人気に支持されたがネアルコに3馬身離されて3着に敗れた[9]
敗因は前脚のに軽度の炎症を発症していたからとされる[9]。 レース後イギリスに帰国したボワルセルは年内の出走を見合わせ、翌1939年ゴールドカップに備えて調教が積まれた[9]
しかし同レースの直前に持病となっていた前脚の腱の炎症が悪化し、引退を余儀なくされた[10]

種牡馬時代

競走馬引退後はイギリスのラトランド牧場で種牡馬となった[10]

種付料は300ギニー[11][10]。 3戦2勝の戦績にしては高い理由は、イギリスで壊滅したセントサイモン系の復興や、カヴァリエーレ・ダルピーノらイギリス国外で活躍中の同父系やを期待と、当時のイギリス馬産家が好んだセントサイモンの奇跡の血量を有しているからとされる[10]

初年度産駒からセントレジャーステークス優勝馬のテヘランを出すなど種牡馬成績は当初から良好だった[12]

1946年、ビーティはボワルセルをアリ・カーンに数万ドルで売却。
その後、アリ・カーン[13]は1株2000ポンドで40株8万ポンドのシンジゲートを結成している[14]

イギリスおよびアイルランドの種牡馬ランキングで1944年に7位を記録[12]1947年1949年にそれぞれ2位に入っている[15]
種牡馬ランキングは集計方法によって異なり、1949年はボワルセルが2位ではなくリーディングサイアーだったとする資料も存在する[16]

1950年には20位に転落後は復活する事も無く終わった[12]

産駒は長距離で活躍する傾向が有る[17][14]
ニックスはテヘランヒンドスタンの活躍から ゲインズバラの血が有る馬が成功したと言われる[14]

後継種牡馬のうちテヘランはイギリスのリーディングサイアーとなり、ミゴリも成功を収めた。
その後もテヘラン系からタルヤークーガー、ミゴリ系からギャラントマンなど世界的に活躍馬が出たことからボワルセルは「セントサイモン系中興の祖」と呼ばれた。 しかし、20世紀末に勢力の大半を失い、21世紀に入るとデーモンウォーロックが残るくらいとなっている。
日本では持込馬ヒカルメイジ東京優駿を優勝し種牡馬としても成功したほか、種牡馬として輸入されたヒンドスタンクラシック三冠馬のシンザンを送り出し大成功を収めるなど、直系の種牡馬が活躍した[14]

ボワルセルはブルードメアサイアーとしても優秀で、1959年1960年にイギリスおよびアイルランドのリーディングブルードメアサイアーとなった[15]

1954年アイルランドのサリーマウント牧場(アガ・カーン所有)に移動。
1955年、ボワルセルは重度の蹄葉炎にかかり、同年10月21日に同牧場で安楽死処分された。

競走成績

年月日 レース名 着順 騎手 距離 着差 1着馬/(2着馬)
1938年 4月 ロンシャン ジュイーニュ賞 1着 2100m
6月 1日 エプソム ダービー 1着 E.エリオット 12F 4馬身差 (Scottish Union)
6月 26日 ロンシャン パリ大賞典 3着 3000m 3馬身差 Nearco

主な産駒

ブルードメアサイアーとしての主な産駒

血統表

父ヴァトーはフランス2000ギニー勝馬。6年供用されて勝馬を出すもボワルセル以外の父系は途絶えている。[2]
プラッキーリージは本馬の他にサーギャラハッドブルドッグアドミラルドレイクと3頭のリーディンクサイアーを生んでいる[1]

ボワルセル血統セントサイモン系 / St.Simon4×3=18.75% Gallinule4×5=9.38%(父内)) (血統表の出典)

Vatout
1926 鹿毛
父の父
Prince Chimay
1915 栗毛
Chaucer St.Simon
Canterbury Pilgrim
Gallorette Gallinule
Orlet
父の母
Vashti
1921 鹿毛
Sans Souci Le Roi Soleil
Sanctimony
Vaya Beppo
Waterhen

Plucky Liege
1912 鹿毛
Spearmint
1903 鹿毛
Carbine Musket
Mersey
Maid of the Mint Minting
Warble
母の母
Concertina
1896 鹿毛
St.Simon Galopin
St.Angela
Comic Song Patrarch
Frivolity F-No.16-a


脚注

  1. ^ a b 原田俊治 1970, p. 188.
  2. ^ a b 原田俊治 1970, p. 190.
  3. ^ a b c d e 原田俊治 1970, p. 182.
  4. ^ ダーリン調教師と競走馬購入の為に来ていた。
  5. ^ 同年のパリ大賞典後にテシオがネアルコを6万ポンドで売却した時より安く思えるが高額取引に見えたようで、フランス人はボルテラを「商売上手」と賞賛し、イギリス人はビーティを「人が良すぎる」と評した。
  6. ^ a b 原田俊治 1970, p. 180.
  7. ^ a b c d 原田俊治 1970, p. 181.
  8. ^ 原田俊治 1970, p. 189.
  9. ^ a b c d e 原田俊治 1970, p. 183.
  10. ^ a b c d 原田俊治 1970, p. 184.
  11. ^ 最高はバーラムソラリオの500ギニー。次いでネアルコやハイペリオンの400ギニー。
  12. ^ a b c 原田俊治 1970, p. 185.
  13. ^ アーガー・ハーン3世の息子かは情報が少なく不明。
  14. ^ a b c d 原田俊治 1970, p. 186.
  15. ^ a b Leicester, Sir Charles (1974). Bloodstock Breeding. London: J.A. Allen & Co.. pp. 313–321. ISBN 978-0-85131-129-6 
  16. ^ Leading Sires of Great Britain and Ireland”. Thoroughbred Heritage. 2018年8月4日閲覧。
  17. ^ 1960年までの12ハロン以上のスタミナインデックスは次の順になる。ボワルセル(53・5%)。ハイペリオン(36・5%)。ネアルコ(33・5%)。

参考文献

  • 原田俊治『世界の名馬』 サラブレッド血統センター、1970年

関連項目

外部リンク