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「ミホシンザン」の版間の差分

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| 死 = {{死亡年月日と没馬齢|p=0|1982|4|16|2014|12|4}}<ref>{{Cite web |title=ミホシンザン死ぬ 天皇賞・春など制す |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLSSXK40377_U4A201C1000000/ |website=日本経済新聞 |date=2014-12-04 |access-date=2022-12-03 |language=ja}}</ref>
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'''ミホシンザン'''([[1982年]][[4月16日]] - [[2014年]][[12月4日]])は、[[日本]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]。
'''ミホシンザン'''(欧字名:{{Lang|en|Miho Shinzan}}、[[1982年]][[4月16日]] - [[2014年]][[12月4日]])は、[[日本]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]<ref name="JBIS">{{Cite web |title=ミホシンザン |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000147048/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-08-21}}</ref>


1985年の[[皐月賞]]と[[菊花賞]]に優勝し、[[中央競馬クラシック三冠|中央競馬クラシック]][[二冠馬|二冠]]を達成。ほか1987年の[[天皇賞(春)]]など勝利している。1985年[[JRA賞最優秀3歳牡馬|優駿賞最優秀4歳牡馬]]、1985-1987度同[[JRA賞最優秀父内国産馬|最優秀父内国産馬]]。五冠馬[[シンザン]]の種牡馬生活晩年の産であり、その最高傑作と評され<ref name="miho">『優駿』2006年7月号 p.55</ref>。16戦すべてにおいて[[柴田政人]]が騎乗した
1985年の[[皐月賞]](GI)と[[菊花賞]](GI)に優勝し、[[中央競馬クラシック三冠|中央競馬クラシック]][[二冠馬|二冠]]を達成。ほか1987年の[[天皇賞(春)]](GI)など勝利している。1985年[[JRA賞最優秀3歳牡馬|優駿賞最優秀4歳牡馬]]、1985から1986の優駿賞[[JRA賞最優秀父内国産馬|最優秀父内国産馬]]、1987年のJRA賞最優秀父内国である。


== 概要 ==
以下、[[馬齢]]は2000年以前に使用された旧表記([[数え年]])で統一する。
1982年4月16日、[[北海道]][[浦河町]]の日進牧場で生産された牡馬である。父は、史上2頭目となる[[中央競馬クラシック三冠|クラシック三冠]]を果たしたうえに、[[天皇賞(秋)]]と[[有馬記念]]も制し「五冠馬」と称された[[シンザン]]である。シンザンの有馬記念優勝を見て以来、シンザンのファンであり、シンザンのために馬主となった堤勘時が所有していた。素質を感じた堤から、冠名と父名を組み合わせた競走馬名が与えられた。初めて競馬場で見たレースが、シンザンの[[東京優駿]]であり、シンザンに憧れを抱いていた[[柴田政人]]が主戦騎手を務めた。


[[美浦トレーニングセンター]]の[[田中朋次郎]]調教師の管理のもと、1985年、4歳1月のデビューから連勝を続け、無敗の4連勝、5馬身差でクラシック三冠競走の一冠目である[[皐月賞]](GI)を戴冠した。このまま無敗のクラシック三冠、父仔三冠、[[ミスターシービー]]、[[シンボリルドルフ]]に次ぐ三年連続三冠が期待されたが、直後に骨折して二冠目の東京優駿(日本ダービー)を断念。三冠を逃したが、秋に復帰して三冠目の[[菊花賞]](GI)を戴冠し、[[二冠馬|クラシック二冠]]を果たした。その後は、二度目の骨折や、善戦を続けたりして1年間勝利から遠ざかったが、1987年、6歳初めから、[[アメリカジョッキークラブカップ]](GII)、[[日経賞]](GII)で復活の重賞連勝。続く[[天皇賞(春)]](GI)を戴冠して3連勝を果たした。この直後に[[屈腱炎]]、三度目の故障離脱となり、競走馬を引退した。シンザン産駒の中で最も多く大タイトルを獲得し、シンザンの「最高傑作」と称された。
== 経歴 ==
=== デビュー前 ===
[[1982年]]、[[北海道]][[浦河町]]の日進牧場で生まれる。幼駒時代は全体に丸みを帯びた、あまり見栄えのしない馬体で、評価は高くなかった<ref name="miho" />。しかし馬主の堤勘時は本馬を一目見て気に入り、調教師の[[田中朋次郎]]を説得して管理を取り付け、自身の所有馬とした<ref name="miho" />。堤は本馬の父・シンザンの現役時代からのファンであり、かつて6頭の産駒を所有していたが、いずれも活躍はしなかった。しかし、これまでの所有馬とは違うと感じていた堤は、シンザン産駒の所有はこれが最後と思い定め、長年温存していた「ミホシンザン」と命名した<ref name="miho" />。


種牡馬としては、1993年[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]と1995年[[朝日チャレンジカップ]]を優勝した[[マイシンザン]]、2001年[[愛知杯]]を優勝したグランドシンザンなどの父として知られる。記録更新を果たした父と同様に長寿であり、2014年まで生き、32歳で死没した。
3歳([[1984年]])[[9月]]、[[茨城県]][[美浦トレーニングセンター]]の田中朋次郎[[厩舎]]に入る。入厩後に[[骨膜炎]](ソエ)を発症して調整が遅れ、さらに症状が治まった後の調教で手間取り、デビューは翌年1月にずれ込んだ<ref name="miho" />。


=== 戦績 ===
== デビューまで ==
==== 4歳時(1985年) ====
初戦は[[中山競馬場|中山開催]]の新馬戦で、鞍上には堤と親交の深い柴田政人を迎えた。デビュー戦は2着に9馬身差を付けて勝利した。次走の[[日本の競馬の競走体系#競走条件区分|条件戦]]では一転、後方待機から最終コーナーで一気に位置を上げ、直線で先行馬を一気に差し切り2連勝を挙げた。重賞初出走となった[[スプリングステークス]]では、前年に柴田が騎乗して[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]]を制した[[スクラムダイナ]]とかち合ったが、同馬を管理する[[矢野進]]の配慮により、柴田は引き続きミホシンザンに騎乗した<ref name="miho2">『優駿』2006年7月号 p.56</ref>。レースでは最終コーナー入り口で先頭のサザンフィーバーが故障を発生、人馬共に転倒するアクシデントがあった。しかしミホシンザンはこの影響を被ることなく、スクラムダイナに2馬身弱の差を付けて勝利した。


=== 誕生までの経緯 ===
迎える皐月賞で不動の本命と目されたが、当日までに右前脚に再度骨膜炎の症状が表れ、状態は芳しくなかった<ref name="miho2" />。競走4日前の調教においては、柴田は状態を考慮して直線コース以外は流す程度の動きに留めた。しかしこの日は霧が深かかったため記者席からは直線しか見えず、翌日の新聞には「豪快な動き」と書き立てられた<ref>『日本名馬物語』p.100</ref>。当日は圧倒的な1番人気に支持されるも、パドックでは転倒を防ぐために意図的に大きく周回させるなど、陣営は状態の悪さを隠すことに苦心していた<ref>『忘れられない名馬100』p.204</ref>。しかしレースでは第3コーナー手前で先頭に並び掛けると、そのままゴールまで押し切り、2着スクラムダイナに5馬身差を付け優勝、父シンザンとの父子制覇を達成した。


==== 日進牧場 ====
しかし右脚を庇いながら走った結果<ref name="miho2" />、競走翌日に左前脚の骨折が判明、続く[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]の断念を余儀なくされた。前々年は[[トウショウボーイ]]の仔[[ミスターシービー]]が、前年には『皇帝』[[シンボリルドルフ]]が三冠を達成していたため、「3年連続で三冠馬の誕生か」と期待されたが夢に終わった。なお、当年のダービーはミホシンザンが苦手とする重馬場で行われ、また勝った[[シリウスシンボリ]]が重馬場得意の馬であったため、「出ていても勝てなかった」とする見方が根強くある<ref name="miho2" />。
日進牧場は、[[北海道]][[浦河町]]にある1962年開設の牧場である<ref name="優駿-1985-8-70" />。初めは育成事業に取り組んだが、1967年に用地を確保し、生産事業も開始した<ref name="優駿-1985-8-70">『優駿』1985年8月号 70頁</ref>。代表は谷川利男であり、牧場長は利男の子である谷川利昭が務めていた。近所には、本家である[[谷川牧場]]があり、利明は谷川弘一郎のいとこだった<ref name="優駿-1985-8-70" />。


1972年、牧場は外国から[[繁殖牝馬]]を導入する。ヨーロッパに赴いて検分せず、書類だけで牝馬を選び、ラブナ、タイタイ、フィリバスターの3頭を輸入していた<ref name="優駿-1985-8-70" />。このうちラブナは早世していたが、フィリバスターの初仔の牡馬[[ホクトボーイ]](父:[[テスコボーイ]])は、1977年には、[[クラウンピラード]]、[[カシュウチカラ]]、[[グリーングラス]]、[[トウショウボーイ]]などを沈めて天皇賞(秋)優勝、八大競走制覇を成し遂げていた<ref name="優駿-1985-8-70" />。
骨折は極めて軽度のものであり、休養中も軽い調教は続けられた<ref name="miho2" />。9月に美浦に帰厩、29日の[[セントライト記念]]で復帰した。当日は[[単枠指定制度|単枠指定]]を受けたが、苦手の[[馬場状態#不良馬場|不良馬場]]に手間取って5着に敗れ、初の敗北を喫した。次走は菊花賞に備えて関西に移動、[[トライアル競走]]の[[京都新聞杯]]に出走すると、2着に2馬身差を付けて勝利した。


残る1頭、タイタイは不受胎、死産を重ねながらも4頭の仔を遺した<ref name="優駿-1985-6-139" />。そのうちの1頭が、牝馬ナポリジョオー(父:[[ムーティエ]])だった<ref name="優駿-1985-6-139">『優駿』1985年6月号 139頁</ref>。ナポリジョオーは、中央競馬で競走馬としてデビュー。[[タニノムーティエ]]、[[ニホンピロムーテー]]、[[カミノテシオ]]などを出したムーティエを受け継いで気性が激しかったが<ref name="優駿-1993-10-66">『優駿』1993年10月号 66頁</ref>、優れた運動能力の持ち主だった<ref name="優駿-2006-7-55">『優駿』2006年7月号 55頁</ref>。しかし球節をきたしたため、大成せず、9戦2勝だった<ref name="優駿-2006-7-55" />。
迎えたクラシック最終戦の菊花賞では、日本ダービー優勝馬シリウスシンボリが[[ヨーロッパ]]遠征のため不在で、圧倒的な1番人気に支持された。当日は昼まで降雨があったが、発走時刻までに強風と日射しで馬場の水分が飛び、馬場状態は稍重まで回復していた。レースでは中団に控えると、周回2周目の最終コーナーからスパートを掛け、直線半ばで先頭に立ってそのままゴール、クラシック二冠と、皐月賞に続くシンザンとの父子制覇を達成した。前走の京都新聞杯も含め、父の地元であった[[京都競馬場]]での勝利に、ミホシンザンは関東所属馬でありながら大きな拍手で迎えられた<ref name="miho3">『優駿』2006年7月号 p.58</ref>。競走後の記念撮影にはシンザンを管理した[[武田文吾]]も収まっている<ref name="miho3" />。


管理した[[庄野穂積]]調教師の助言や、良血であることから早々と引退し、繁殖牝馬として日進牧場に戻る<ref name="優駿-2006-7-55" /><ref>{{Cite web |url=http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/mihoshinzan/story-2.html |title=第2話 シンザンよ、再び |access-date=2022-11-17 |publisher=Yahoo!JAPAN スポーツ |archive-url=https://web.archive.org/web/20051113100242/http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/mihoshinzan/story-2.html |archive-date=2005-11-13}}</ref>。初年度となる1980年は、アイルランド生産でフランスで活躍した[[ハードツービート]]と交配した。そして1981年、初仔となる[[鹿毛]]の牝馬が産まれたが、胸前が薄く、腹回りが充実しておらず、貧相な馬だった<ref name="優駿-2006-7-55" /><ref name="優駿-1992-9-63">『優駿』1992年9月号 63頁</ref>。それを受けて同年、2回目は、腹袋が充実した内臓の強い仔を目指した<ref name="優駿-1993-10-66" />。谷川は交配相手に、腹袋の充実した「重心の低い<ref name="優駿-1985-5-134" />」(谷川利昭)種牡馬、日本で生産された種牡馬「[[内国産馬|内国産種牡馬]]」である[[シンザン]]を選択する<ref name="優駿-1993-10-66" /><ref name="優駿-1992-9-63" />。
年末の[[有馬記念]]では、1歳上のシンボリルドルフと対戦。両馬とも単枠指定となった。最終コーナーで一旦は並び掛けたが直線で突き放され、同馬から4馬身差の2着に敗れた。


==== シンザン ====
翌年1月、クラシック二冠が評価され、当年の最優秀4歳牡馬と最優秀父内国産馬に選出された。
{{Main|シンザン}}
シンザンは、北海道[[浦河町]]の松橋吉松牧場で生産された牡馬である。父は、イギリス生産の[[ヒンドスタン]]だった<ref>『優駿』1992年7月号 61頁</ref>。[[橋元家|橋元幸吉]]が所有し、[[京都競馬場]]の[[武田文吾]]厩舎から競走馬としてデビューし、無敗の6連勝で[[皐月賞]]を戴冠<ref>『優駿』1992年7月号 64頁</ref>。その後、いくらかの2着を挟みながらも[[東京優駿]](日本ダービー)、[[菊花賞]]を制し、1941年[[セントライト]]以来、第二次世界大戦終結後初めて[[中央競馬クラシック三冠]]を成し遂げていた<ref>『優駿』1992年8月号 61頁</ref>。以降、年をまたぎながら連勝を重ね、7連勝で[[天皇賞(秋)]]を戴冠<ref>『優駿』1992年8月号 62頁</ref>。オープン競走2着を挟んで暮れの[[有馬記念]]も優勝し、奪取したタイトルの数から「五冠馬」と呼ばれた<ref>『優駿』1992年8月号 64頁</ref>。19戦15勝2着4回で引退し、生涯連対を達成していた<ref>『優駿』1996年9月号 48頁</ref>。
[[ファイル:Shinzan statue.jpg|サムネイル|262x262ピクセル|[[シンザン]]像]]
当時の馬産地では、外国から輸入された種牡馬が活躍しており「内国産種牡馬」は軽視されていた<ref name="優駿-2004-10-63">『優駿』2004年10月号 63頁</ref>。そんな中、シンザンは種牡馬、内国産種牡馬に転じる<ref name="優駿-2004-10-63" />。谷川牧場で繋養されたシンザンは、内国産軽視から[[シンジケート#種牡馬|シンジケート]]が実現せず、種牡馬としての人気も乏しかった<ref name="優駿-1992-6-63">『優駿』1992年6月号 63頁</ref>。それでも谷川功一郎が、種付け料なしでも構わないと妥協するなど普及に尽力し、何とか牝馬の数を確保していた<ref>『名馬を読む1』105頁</ref><ref name="優駿-1982-1-36">『優駿』1982年1月号 36頁</ref>。集まった牝馬は、決して良血ではなかったが、それらの産駒が、続々活躍し始める<ref name="優駿-1992-6-63" /><ref name="優駿-1982-1-36" />。その影響で馬産地では、シンザンや内国産種牡馬の冷遇を見直す気運が高まり、シンザンのもとに集まる繁殖牝馬も増加するようになった<ref>{{Cite web |url=http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/mihoshinzan/story-1.html |title=第1話 最強馬の血 |access-date=2022-11-17 |publisher=Yahoo!JAPAN スポーツ |archive-url=https://web.archive.org/web/20051106151143/http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/mihoshinzan/story-1.html |archive-date=2005-11-6}}</ref>。以来、軌道に乗ったシンザンは、数多くの重賞優勝産駒を輩出する<ref name="優駿-1996-9-50">『優駿』1996年9月号 50頁</ref>。果てには、内国産種牡馬の筆頭に上り詰め、それまで全て輸入種牡馬で占められていた種牡馬リーディング上位にただ1頭食い込んだ<ref name="優駿-1989-11-24">『優駿』1989年11月号 24頁</ref><ref name="優駿-1996-9-50" />。この後に、内国産種牡馬[[アローエクスプレス]]、[[トウショウボーイ]]などが台頭することになるが、その土壌を醸成した先駆けは、シンザンだった<ref>『優駿』1992年6月号 61頁</ref>。


このように種牡馬としても大きな成功を収めたシンザンだったが、[[クラシック (競馬)|クラシック]]や[[八大競走]]など大タイトルを制する産駒だけには、恵まれていなかった<ref name="優駿-1996-9-50" />。1974年[[優駿牝馬]](オークス)は、産駒のスピードシンザンが[[トウコウエルザ]](父:[[パーソロン]])に及ばず2着、1978年菊花賞は、[[キャプテンナムラ]]が[[インターグシケン]](父:[[テスコボーイ]])に及ばず2着にはなっていたが、優勝はしていなかった<ref name="優駿-1989-11-24" />。
==== 5-6歳時(1986-1987年) ====
休養後、翌[[1986年]][[3月]]に[[日経賞]]で復帰した。当日は重馬場にも関わらず圧倒的な1番人気に支持されたが、6着に敗れた。競走後には4歳時の患部と同じ左前脚の骨折が判明し、休養に入った。秋になって復帰したが、初戦の[[毎日王冠]]3着に始まり、[[天皇賞(秋)]]は[[サクラユタカオー]]の日本レコード優勝の前に3着、[[ジャパンカップ]]は日本馬最先着ながら3着、1番人気に推された有馬記念でも3着と、秋のGI戦線で全て3着に終わった。当年は未勝利であったが、他の父内国産馬も総じて不振であったため、翌1月には2年連続の最優秀父内国産馬に選出された。柴田によれば、当年のミホシンザンは怪我を恐れて本気で走ることをしなかったという<ref name="miho3" />。


そのような産駒が現れないままに、シンザンは、年を重ね21歳となる<ref name="優駿-1992-6-64">『優駿』1992年6月号 64頁</ref>。そんな頃に、ナポリジョオーと結びつき、ナポリジョオーは、腹に仔(後のミホシンザン)を孕んでいた<ref name="優駿-1998-9-89">『優駿』1998年9月号 89頁</ref>。受胎中の1981年11月の菊花賞にて、谷川牧場で生産されたシンザン産駒の[[ミナガワマンナ]]が優勝を果たしている<ref>『優駿』1989年11月号 26頁</ref>。よってシンザン産駒クラシック初優勝が果たされ<ref>『優駿』1982年1月号 66頁</ref>、これが、シンザン産駒最後の大物だと叫ばれるようになっていた<ref name="優駿-1992-6-64" />。その翌年である1982年4月16日、日進牧場にて、ナポリジョオーの2番仔である鹿毛の牡馬(後のミホシンザン)が誕生する。シンザンは右肩下がりで交配数を減らし、1987年に種牡馬を引退することになるため、この2番仔は、シンザン晩期の産駒だった<ref name="優駿-1993-10-65">『優駿』1993年10月号 65頁</ref>。
翌[[1987年]]も現役を続行、[[1月25日]]に[[アメリカジョッキークラブカップ]]に出走した。レースは柴田が[[脚質#逃げ|逃げ戦法]]を採ると、そのまま流れをスローペースに落としてゴールまで押し切り、約1年2ヶ月振りの勝利を挙げた。次走、天皇賞(春)への前哨戦として出走した日経賞には菊花賞以来という好調で臨み<ref name="miho3" />、前年度代表馬[[ダイナガリバー]]以下を5馬身突き放して優勝、天皇賞の本命馬と目された。


=== 幼駒時代 ===
[[4月29日]]の天皇賞では、圧倒的な1番人気に支持された。しかし日経賞以降ミホシンザンの状態は急速に下降しており、皐月賞以来の最悪に近い状態にあった<ref>『優駿』2006年7月号 pp.58-60</ref>。レースでは先団の中で終始内埒沿いの最短距離を通り、直線で先頭に立った。直後に[[ニシノライデン]]がミホシンザンを抜き去る勢いで追い込みを見せたが、同馬はゴール前で外側に大きく斜行、最後はミホシンザンとニシノライデンが内外の埒沿いで並んで入線した。写真判定の結果、ミホシンザンがハナ差凌ぎ切って優勝、三度目のGI制覇となった。一方、ニシノライデンは直線の斜行で3位入線[[アサヒエンペラー]]の進路を妨害したとして失格処分となり、公式記録では繰り上がり2着となったアサヒエンペラーと1馬身1/4差となっている。
誕生直後の2番仔は腹部の充実した「卵型<ref name="優駿-1998-9-89" />」(谷川利昭)の体型で、繋ぎが柔らかく、外観こそ良くなかったが<ref name="優駿-1993-10-66" /><ref name="優駿-1998-9-89" />、谷川の狙い通りだった<ref name="最強ヒス-3">{{Cite web |url=http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/mihoshinzan/story-3.html |title=第3話 シンザンにかける夢 |access-date=2022-11-17 |publisher=Yahoo!JAPAN スポーツ |archive-url=https://web.archive.org/web/20051228031531/http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/mihoshinzan/story-3.html |archive-date=2005-12-28}}</ref>。そして生まれて1か月後、牧場を訪れた馬主・堤勘時が2番仔に興味を示した<ref name="優駿-1998-9-89" />。


堤は、1926年に茨城県[[稲敷郡]][[茎崎町]]で生まれた。同県[[取手市]]で不動産会社・山一産業を経営しており、[[美浦トレーニングセンター]]が近くにあったことから、冠名「ミホ」を用いていた<ref name="名馬を読む2-44">『名馬を読む2』44頁</ref>。戦時中は騎兵隊員として召集された過去があった。中国出征のために[[輸送艦]]「羅針丸」に乗り、日本海を航行していたが、[[魚雷]]を受けて海に投げ出されている<ref name="優駿-1998-9-89" />。その際、多くの兵士が海に沈む中、堤は同じく投げ出されて藻掻いていた[[軍馬]]1頭に偶然しがみついて、死線をくぐり抜けていた<ref name="優駿-1998-9-89" />。その後は、しばらく[[馬券]]を嗜んでいたが、1965年有馬記念にて、シンザンが大外、外ラチ沿いから追い込み引退レースを制したことに感動を覚えて、馬主になろうと決意する<ref name="優駿-1993-10-66" />。具体的に「シンザンの仔でクラシックを勝ちたい」という夢を持つようになった<ref name="優駿-2006-7-55" />。堤は馬主となり次第、シンザン産駒を購入し始めた。所有したシンザン産駒は5頭{{Efn|すなわちミホシンザンは6頭目。5頭目と伝わる資料も存在する<ref>『優駿』1985年12月号 5頁</ref>。}}を数えたが、いずれも出世しなかった<ref name="名馬を読む2-44" />。
競走後のミホシンザンは駈歩もできない程に疲労困憊しており<ref>『優駿』2006年7月号 p.60</ref>、6月にはファン投票1位で選出された[[宝塚記念]]を回避した。秋の復帰を目指して[[函館競馬場]]で調整が続けられたが、復調は見られず、そのまま引退した。


シンザンが年を重ね、残り時間がない中、堤は夢を叶えるために、産駒探しに貪欲となる。そのため、産駒誕生を知るとすぐに牧場に向かっていた。そして1982年、他の牧場の紹介で日進牧場を訪れ、2番仔と対面する。堤は、2番仔を一目見て、どういうわけか直感で走る、これまでの産駒と何かが違うと確信していた<ref name="最強ヒス-3" />。対面には、調教師の山岡浩久を同伴させていたが、山岡は充実した腹部を「タヌキみたい」と嫌って2番仔を見向きもしなかった<ref name="優駿-1998-9-89" />。しかし堤は諦めず、代わりに調教師の[[田中朋次郎]]を同伴させて、再び牧場を訪れていた<ref name="優駿-1998-9-89" />。関西所属の調教師も目をつけていた事実もあり、堤はその場で購入を決意<ref name="最強ヒス-3" />。牧場は1200万円を提示したが、値切って1000万円で購入した<ref name="優駿-1993-10-66" />。次第に堤は、時期的にも2番仔を自身が所有する最後のシンザン産駒だと考えるようになっていた<ref name="優駿-1993-10-66" />。そこで2番仔に「とっておきのシンザン産駒」のために温めておいた馬名案を与える。2番仔は、冠名「ミホ」に父名「シンザン」を組み合わせた「'''ミホシンザン'''」となった<ref name="最強ヒス-3" />。
同年[[12月13日]]、大雪により2レースで中止した中山競馬場で引退式が行われ、天皇賞優勝時のゼッケン「6」を着けてラストランを披露した。この引退式は史上初めて天候が雪の中で行われたものであった<ref>『優駿』1988年2月号。なお悪天候下での引退式は1985年の[[ミスターシービー]]などでも例があったが、これらの天気は雨であった。</ref>。


2歳となったミホシンザンは、北海道新冠町の[[日高軽種馬農業協同組合|日高軽種馬育成公社]]で育成されると、馬体は様変わりし逞しくなった<ref name="優駿-1993-10-66" />。この間に堤は、田中厩舎の厩務員である高橋治男を呼び出し、ミホシンザンの写真を見せて「ダービーを取れる馬だから、きみ、やってくれや<ref name="優駿-1998-9-89" />」と述べていた。3歳9月、ミホシンザンは美浦トレーニングセンターの田中厩舎{{Efn|田中は、[[日本調教師会]]会長だった。ミホシンザンの現役期間と被る1984年から1988年までの、4年間務めていた<ref>『優駿』1988年10月号 34頁</ref>。}}に入厩する。しかし直後に右前脚のソエがあり、デビューの予定が狂うこととなる<ref name="優駿-2006-7-55" />。切り替えて年末でのデビューを予定したが、直前でミホシンザンが過度に興奮してしまったために回避<ref name="優駿-1985-12-118">『優駿』1985年12月号 118頁</ref>。3歳のうちにデビューすることができなかった<ref name="優駿-1985-12-118" />。
翌年1月には、当年の年度代表馬となった[[サクラスターオー]]を差し置き、3年連続で最優秀父内国産馬に選出された。


デビューを前に、堤はミホシンザンの騎手に[[柴田政人]]を起用している<ref name="優駿-1993-10-66" />。堤は、柴田の所属する[[高松三太]]厩舎にも馬を預けており、柴田を重用していた<ref name="優駿-1998-9-89" />。1973年から1974年にかけてのクラシックは、ミホランザン(父:[[ミンシオ]])に堤、高松、柴田の布陣で挑んでおり、[[朝日杯3歳ステークス]]を優勝したほか、皐月賞では[[キタノカチドキ]]、[[コーネルランサー]]に及ばず3着となっていた<ref name="名馬を読む2-44" />。さらに堤が「羅針丸」で方々に散った戦友と再び会うために命名したヒンドスタン産駒「ミホラシンマル」という堤の大きな過去を背負った馬に起用されたのも、柴田だった<ref name="優駿-1998-9-89" />。柴田は、[[馬事公苑]]での長期騎手養成課程での研修中に初めて競馬場を訪れた際、初めて見たレースが1964年、シンザンの勝利した東京優駿だった<ref name="優駿-2006-7-55" />。このレースに感動を覚えた柴田は「シンザンのような馬に乗りたい」という夢を抱くようになり、騎手で立身する一つの動機となっていた。そんな頃、柴田とシンザン産駒ミホシンザンが結びついていた<ref name="優駿-2006-7-55" />。
=== 種牡馬時代 ===
[[種牡馬]]入りしてからは、初年度から[[優駿牝馬]]に出走したオンワードモニカ、2年目には[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]などに勝利した[[マイシンザン]]を送り出すも、全体的には低調だった。父ほど極端ではなかったが、産駒は総じて良馬場の芝を最も得意とし、[[ダート]]や重馬場は苦手とした<ref>飯田正美『種牡馬血統DATA BOOK』(西東社、1998年)</ref>。マイシンザンは、[[1995年]]秋の天皇賞で有力馬の1頭に数えられ、ミホシンザン、祖父シンザンに続く「父子3代天皇賞制覇」という偉業に挑戦する機会を得たが、競走前日に[[屈腱炎]]が判明して出走を取り消し、記録は成らなかった。[[2001年]]には当時[[中央競馬]]に唯一所属していたグランドシンザンが7歳にして[[愛知杯]] (GIII) を制し、同年のグランドシンザンによるオパールステークスが中央競馬で最後の勝利となった。グランドシンザンは後に[[ホッカイドウ競馬]]に移籍し、[[2005年]][[4月1日]]に登録を抹消された。


== 競走馬時代 ==
[[2002年]]に種牡馬生活からも引退し、その後は[[日高町 (北海道)|日高町]]の[[谷川牧場]]清畠事業所で余生を過ごした。2014年に32歳に到達、[[ユキノローズ]](1982年生、1986年[[中山牝馬ステークス]]優勝など)が2014年3月15日に死亡した為<ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/horserace/news/20140317-OHT1T00151.htm ユキノローズ死す 32歳、重賞勝ち馬最高齢] スポーツ報知 2014年3月17日閲覧</ref>、その後は重賞競走の優勝馬として最長寿となっていた<ref>[https://megalodon.jp/2014-0318-1843-18/www.yomiuri.co.jp/sports/news/20140318-OYT1T00692.htm?from=ylist 重賞勝ち馬で最高齢のユキノローズ死ぬ…32歳] 読売新聞 2014年3月18日閲覧(web魚拓保存)</ref><ref>重賞優勝馬以外ではサラブレッド最長寿日本記録保持馬シャルロット(1979年生、競走馬名アローハマキヨ)、[[ナイスネイチャ]]の母[[ウラカワミユキ]](1981年生)がいる</ref>。


=== 4歳(1985年) ===
最後の現役馬となった[[名古屋競馬場|名古屋競馬]]のキャニオンマープルも、[[2006年]][[10月1日]]に登録抹消となり、この日をもって全産駒が現役を引退した。


==== クラシックまでの道程 ====
2014年12月4日、余生を過ごしていた谷川牧場で心臓麻痺により死亡した<ref>[http://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2014/12/04/kiji/K20141204009400190.html ミホシンザン死ぬ 3冠馬シンザン産駒、32歳で] スポニチアネックス 2014年12月4日閲覧</ref>。
1月6日、[[中山競馬場]]の[[新馬戦]](芝1600メートル)でデビュー、1番人気に推された。好スタートから2番手を確保する<ref name="優駿-2006-7-55" />。しかしミホシンザンはそこに留まらず、2コーナーに差し掛かるあたりで自ら進み、ハナを奪取していた<ref name="優駿-2006-7-55" />。以後馬なりで独走、後続に9馬身差をつけて決勝線を通過、初勝利を挙げた<ref name="優駿-1993-10-66" />。続いて2月23日、同じく中山の水仙賞(500万円以下、芝2000メートル)に再び1番人気で参戦。スタート直後に躓き、新馬戦と異なる中団待機策となった<ref name="優駿-1993-10-66" />。それでも、馬群の外を通って進出し最終コーナーを3番手で通過<ref name="優駿-2006-7-55" />。直線で末脚を繰り出し、全て差し切りを果たす。後続に2馬身半差をつけて優勝、2連勝とした<ref name="優駿-2006-7-55" />。

これによりクラシック戦線に乗り、ミホシンザンは、皐月賞の[[トライアル競走]]である[[スプリングステークス]]を予定する。ただしクラシックや天皇賞優勝騎手の柴田には、同じくクラシックに臨むお手馬が他に3頭おり、取捨選択する必要に迫られていた<ref name="最強ヒス-5">{{Cite web |url=http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/mihoshinzan/story-5.html |title=第5話 新星登場! |access-date=2022-11-17 |publisher=Yahoo!JAPAN スポーツ |archive-url=https://web.archive.org/web/20051228025514/http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/mihoshinzan/story-5.html |archive-date=2005-12-28}}</ref>。まずそのうちの1頭であるドウカンテスコは、同じ田中厩舎だった。テスコボーイ産駒、デビューから4戦2勝2着2回、[[弥生賞]]こそ9着だったが柴田は継続を希望する<ref name="優駿-1985-5-134">『優駿』1985年5月号 134頁</ref>。そのため田中は、ミホシンザンと柴田のために融通を利かせ、ドウカンテスコをスプリングステークス前日のすみれ賞に回す措置を講じ、重複を一つ解消した<ref name="優駿-1985-5-134" />。

ただし残り2頭、[[スクラムダイナ]]と[[サザンフィーバー]]は、ミホシンザンと同じく、スプリングステークスを予定しており、ミホシンザンと完全にかち合ってしまう。スクラムダイナは、デビュー3連勝で3歳暮れの朝日杯3歳ステークスを優勝、[[JRA賞最優秀2歳牡馬|優駿賞最優秀3歳牡馬]]であり、3戦無敗の[[ディクタス]]産駒だった。サザンフィーバーは、4戦2勝2着3回、新馬戦はスダホークなどを9馬身千切って優勝、[[共同通信杯4歳ステークス]]では大物と目されながら故障により春全休の[[サクラユタカオー]]に及ばずの3着であり、何より未出走の[[ベストブラッド]]産駒、初年度産駒1頭のうちの1頭として注目を集めていた<ref name="名馬を読む2-46">『名馬を読む2』46頁</ref>。柴田は、特に負け知らずのスクラムダイナとミホシンザンの取捨選択を悩みに悩み<ref name="最強ヒス-5" />、最終的にスクラムダイナの調教師[[矢野進]]による[[岡部幸雄]]起用宣言という後押しや、シンザンや堤との縁から、ミホシンザンを選択する<ref name="名馬を読む2-46" />。サザンフィーバーには[[増沢末夫]]があてがわれた<ref name="優駿-1985-5-134" />。

依然としてソエは解消されていなかったが、3月24日のスプリングステークス(GII)で重賞初出走となる。スクラムダイナ、サザンフィーバーのほか、関西の3歳王者決定戦である[[阪神3歳ステークス]]優勝の[[ダイゴトツゲキ]]、3戦無敗の[[マルゼンスキー]]産駒ブラックスキー、条件戦を勝ち上がった[[クシロキング]]などが顔を揃えた中、ミホシンザンは1番人気となる<ref name="優駿-1985-5-134" />。4枠4番からスタートし、サザンフィーバーが逃げる中、中団を追走した<ref name="優駿-1985-5-134" />。

稍重馬場に苦戦しながらも、第3コーナーから最終コーナーにかけて外から進出。直線では先頭のサザンフィーバーを大外から追いかけたが、サザンフィーバーの末脚鋭く、突き放されて及ばなかった<ref name="優駿-1985-5-134" />。しかしサザンフィーバーが残り300メートルほどで、芝に脚をとられて転倒し競走中止する<ref name="優駿-1985-5-134" />。そのため代わって先頭となる<ref name="最強ヒス-5" />。転倒した直後を走った馬などが、回避行動を強制されたのに対し、ミホシンザンは他に邪魔されずに末脚を発揮し、決勝線に到達した<ref name="優駿-1985-5-134" /><ref name="優駿-1998-9-89" />。2着スクラムダイナに1馬身4分の3馬身差をつけて重賞初勝利を果たす<ref name="優駿-1985-5-135">『優駿』1985年5月号 135頁</ref>。皐月賞の優先出走権を獲得する<ref name="優駿-1985-5-135" />。

一方、勝利目前で転倒したサザンフィーバーは、左第3[[中手骨]][[骨折]]並びに第1指関節開放[[脱臼]]しており<ref name="優駿-1985-5-135" />、まもなく[[予後不良 (競馬)|安楽死処分]]となっている。柴田は、下したもののスクラムダイナについて「スクラムダイナも久しぶりにしては、強いレースをしていると思う。この2頭の比較(ミホシンザンとスクラムダイナ)にしても、まだ甲乙つけにくい段階のような気がする。<ref name="優駿-1985-5-134" />」としていた。

==== 皐月賞 ====

続いて4月14日、クラシック初戦の皐月賞(GI)に臨む。持病の右前脚のソエ、左前脚の深管骨瘤が解消されておらず、直前の調教を軽めにこなすなど、万全とは言えない状態での参戦となった<ref name="優駿-1985-6-136">『優駿』1985年6月号 136頁</ref>{{Efn|しかし調教が軽かったことは、公にされなかった。なぜなら、この調教が霧が立ち込めていたためだった。調教スタンドから見守る報道陣は、ミホシンザンの動きを初めから見ることができなかった<ref>『優駿』1998年9月号 90頁</ref>。}}。柴田は続投。ドウカンテスコは、柴田とすみれ賞を制して臨んでいたが、[[大塚栄三郎]]に乗り替わっていた<ref name="優駿-1985-5-134" />。22頭が出走する中、2.9倍の1番人気に推される<ref name="優駿-1985-6-136" />。皐月賞は、前々年は[[ミスターシービー]]が優勝、前年は[[シンボリルドルフ]]がいずれも抜けた1番人気に応えて優勝、その後、ミスターシービーはシンザン以来のクラシック三冠を成し遂げ、シンボリルドルフは、史上初めてとなる無敗のクラシック三冠を成し遂げていた<ref name="最強ヒス-4" />。すなわちこの年は、3年連続三冠が期待されており、ミホシンザンはその筆頭候補となっていた<ref name="優駿-1985-6-136" />。

しかしこの年は、2番人気以降が、弥生賞2着サクラサニーオー4倍、同優勝スダホーク6倍、スクラムダイナ6倍、ブラックスキー9倍と続く「五強<ref name="優駿-1985-6-136" />」(粕谷彰夫)状態であり、ミホシンザンの人気は過去2年に比べて抜けたものではなかった<ref name="優駿-1985-6-136" />。混戦は、皐月賞史上2番目の馬券売り上げをもたらしていた<ref name="優駿-1985-6-136" />。ミホシンザンの状態は直前でも悪かったが、陣営はそれを隠してなるべく良く見せようとする<ref name="忘れられない-204" />。具体的には、パドックでは転倒を防ぐために意図的に大きく周回させるなど工夫がなされた<ref name="忘れられない-204">『忘れられない名馬100』204頁</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=6vemE6ShUaU&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1985年 皐月賞({{GI}})<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}5枠13番からスタート。ドウカンテスコがハナを奪取し逃げて、スローペースを刻む中、好位を追走した<ref name="優駿-1998-9-88">『優駿』1998年9月号 88頁</ref>。向こう正面では、ペースに乗じて馬なりで位置を上げて、前との距離を縮めた<ref name="最強ヒス-6">{{Cite web |url=http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/mihoshinzan/story-6.html |title=第6話 圧勝 |access-date=2022-11-17 |publisher=Yahoo!JAPAN スポーツ |archive-url=https://web.archive.org/web/20051109100956/http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/mihoshinzan/story-6.html |archive-date=2005-11-9}}</ref>。第3コーナー手前で2番手を捉え、コーナー過ぎで逃げるドウカンテスコに代わって先頭となった<ref name="優駿-1985-6-136" />。追われる立場として直線を迎えるが、ミホシンザンの末脚は鋭く、他を突き放していた<ref name="優駿-1998-9-88" />。以後独走、大外から追い込むスクラムダイナやサクラサニーオーを寄せ付けなかった<ref name="最強ヒス-6" />。後続に5馬身差をつけて決勝線を先頭で通過する<ref name="優駿-1985-6-138">『優駿』1985年6月号 138頁</ref>。

皐月賞優勝、史上12頭目となる無敗での優勝を果たした<ref name="優駿-1985-6-136" />。またトウショウボーイ、ミスターシービー父仔以来史上2組目の父仔皐月賞優勝だった<ref name="優駿-1985-6-136" />。柴田は1978年[[ファンタスト]]以来の皐月賞優勝、田中は厩舎開業30年目で初めてクラシック優勝を果たした。5馬身は皐月賞史上4番目に大きな着差であり、シンボリルドルフのレースレコードには稍重が阻んで及ばなかったものの、皐月賞史上2番目に早さで走破していた<ref name="優駿-1985-6-136" />。一冠目を制したことにより、ミスターシービー、シンボリルドルフに続く3年連続三冠を目指す資格のある唯一の馬となる。皐月賞のパフォーマンスから、父仔三冠達成は現実味があるとされ、大きな期待を集めた<ref name="最強ヒス-6" />。

==== 故障 ====
しかし皐月賞から3日後の4月17日、脚部の違和感が確認される<ref name="優駿-1985-6-147">『優駿』1985年6月号 147頁</ref>。皐月賞はなんとか走り切ったが、脚元は既に限界だった<ref>『優駿』1985年6月号 137頁</ref>。即日、トレーニングセンター内の診療所に移り、外観を診られたが、それだけでは原因を突き止めることができなかった<ref name="優駿-1985-6-147" />。ところが翌18日朝、レントゲンを用いた精密検査をしたところ、左前脚の膝にわずかな亀裂が見つかり、左第三手根骨の骨折、全治3か月が判明する<ref name="優駿-1985-6-147" />。痛めていた右前肢をかばって走り、左前肢をきたす結果となった<ref name="優駿-1998-9-91">『優駿』1998年9月号 91頁</ref>。したがって二冠目の東京優駿出走が不可能となり、ミスターシービー、シンボリルドルフに続く3年連続三冠達成の夢は立ち消えとなる<ref>{{Cite web |url=http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/mihoshinzan/story-7.html |title=第7話 一夜の夢 |access-date=2022-11-17 |publisher=Yahoo!JAPAN スポーツ |archive-url=https://web.archive.org/web/20051110142459/http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/mihoshinzan/story-7.html |archive-date=2005-11-10}}</ref>。ミホシンザン不在の東京優駿は5月26日、苦手の曇天の重馬場で行われ、未対戦の[[シリウスシンボリ]]が優勝していた{{Efn|ミホシンザンを失った柴田は、初コンビで[[青葉賞]]3着に導いたメジロジェスターに騎乗し、13番人気11着。ここでの柴田のダービー優勝は叶わなかった。なお柴田がダービー優勝するのは、8年後、[[ウイニングチケット|ウイニングチケット#東京優駿(4歳5月30日)]]に導かれる。}}。

一方のミホシンザンは、同じ日に厩舎を退いて新冠町の育成公社に移り、放牧休養となる<ref name="優駿-1998-9-91" />。骨折は軽度だったため、休養中も高橋に曳かれて歩く運動(曳き運動)と調教を毎日積んでいた<ref>『優駿』2006年7月号 56頁</ref>。高橋は、異例の放牧帯同を志願して新冠に向かい、毎日つきっきりで世話をしていた<ref name="優駿-1998-9-91" />。移動直後は、原因不明の微熱があり、調教を休んでいたが、陣営と関係の深い新冠町の淵瀬ファームの淵瀬健一の、オトコヤマ{{Efn|淵瀬によれば、北海道日高地方の深山に生える小さな草木。地域特有の呼び方<ref name="優駿-1998-10-88">『優駿』1998年10月号 88頁</ref>。}}という薬草を用いた治療などにより、まもなく治癒している<ref name="優駿-1998-10-88" />。放牧地は、石ころが散乱していたが、砂が敷かれるなど、ミホシンザンが走りやすいように工夫された<ref name="優駿-1998-10-88" />。完治したミホシンザンは、7月中旬には函館競馬場に入厩し、8月にはキャンターを開始<ref name="優駿-1993-10-67">『優駿』1993年10月号 67頁</ref>。秋の目標を、三冠目の菊花賞に定めることができた<ref name="優駿-1993-10-67" />。

9月8日に田中厩舎に帰厩し、9月29日、[[セントライト記念]](GIII)で始動する<ref name="優駿-1993-10-67" />。函館記念で年上[[ウインザーノット (競走馬)|ウインザーノット]]に肉薄したタイガーボーイ、ダービー8着[[グリーングラス]]産駒のグリーンカップ、病死した[[中島啓之]]から[[小島太]]に乗り替わったトウショウサミット、横滑りで小島から[[東信二]]に乗り替わったサクラサニーオーら相手に、唯一の[[単枠指定制度|単枠指定]]となり、1.3倍の1番人気だった<ref name="優駿-1985-11-142">『優駿』1985年11月号 142頁</ref><ref name="優駿-1998-10-89">『優駿』1998年10月号 89頁</ref>。ただし調教を加減して太目だった<ref name="優駿-1998-10-89" />。さらに雨が降っており、爪の形状的に不得手だった不良馬場を走ることとなった<ref name="優駿-1998-10-89" />。

スタートの後、好位3番手を追走し追い上げた。しかし馬場に脚をとられ、末脚が利かなかった<ref name="優駿-1985-12-138">『優駿』1985年12月号 138頁</ref>。敢えて内を突いた[[加賀武見]]とタイガーボーイにかわされ、さらにグリーンカップ、サクラサニーオー他にも及ばなかった<ref name="優駿-1985-11-142" />。4頭に先着を許す5着、デビュー以来の連勝が止まる初の敗北だった<ref name="優駿-1985-11-142" /><ref>『優駿』1985年11月号 143頁</ref>。当初は、セントライト記念からの直行を考えていたが、敗北したことにより急遽、もう1戦挟むことにする。よって早めに関西遠征を行い、栗東滞在をして菊花賞を目指した<ref name="優駿-1998-10-90">『優駿』1998年10月号 90頁</ref>。10月中旬に、田中厩舎の4頭を連れて栗東に移動した<ref name="優駿-1998-10-90" />。

10月20日、トライアル競走である[[京都新聞杯]](GII)に臨む。ダービー2着のスダホーク、[[神戸新聞杯]]優勝の[[スピードヒーロー]]、同3着のフリートホープ、骨折明けのサクラユタカオーが相手だったが、信頼揺るがず再び単枠指定、1.5倍の1番人気だった<ref name="優駿-1985-12-139">『優駿』1985年12月号 139頁</ref>。ミホシンザンは、スタートから後方を追走、第3コーナーから最後方まで位置を下げていた。しかし直線で馬群の間を割り、末脚を伸ばして盛り返した<ref name="優駿-1985-12-138" />。前を行くスピードヒーロー、フリートホープをかわして抜け出し、先頭で決勝線を通過する<ref name="優駿-1985-12-138" />。後方に2馬身差をつけて重賞3勝目、優先出走権を獲得する<ref name="優駿-1985-12-139" />。当日は、病院で臥しているシンザンの調教師、[[武田文吾]]が競馬場に出向いており、優勝直後の記念撮影に加わっている<ref name="優駿-1998-10-91">『優駿』1998年10月号 91頁</ref>。反対に田中は「俺は菊花賞で撮ってもらうからいいさ」と入らなかった<ref name="優駿-1998-10-91" />。

==== 菊花賞 ====

そして11月10日、菊花賞(GI)に臨む。シリウスシンボリがヨーロッパ遠征に出かけて不在の中、ミホシンザンはただ1頭の単枠指定、1.8倍の1番人気となる<ref name="優駿-1986-1-126">『優駿』1986年1月号 126頁</ref><ref name="優駿-1985-12-3">『優駿』1985年12月号 3頁</ref>。単勝支持率は42.9パーセントで1頭抜けていた<ref name="優駿-1986-1-124">『優駿』1986年1月号 124頁</ref>。当日は初め雨が降り、ミホシンザン苦手の稍重馬場だったが、発走が近づくにつれて晴れて、限りなく良馬場に近い状態となった<ref name="優駿-1986-1-124" />。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=o1mECLq5ovU&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1985年 菊花賞({{GI}})<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}6枠12番からスタートしたミホシンザンは、約6番手の好位、中団を確保する<ref name="優駿-1986-1-124" />。スダホークやサクラサニーオー、サクラユタカオーなど対抗馬からのマークを受けながら、淀みのない平均ペースを追走していた<ref>{{Cite web |url=http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/mihoshinzan/story-8.html |title=第8話 幻の3冠馬 |access-date=2022-11-17 |publisher=Yahoo!JAPAN スポーツ |archive-url=https://web.archive.org/web/20051109003207/http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/mihoshinzan/story-8.html |archive-date=2005-11-9}}</ref><ref name="優駿-2006-7-58" />。2周目の第3コーナーは、馬場コンディションが悪く、ミホシンザンは滑って仕方がなく、走る気を失ってしまっていた<ref name="優駿-1998-10-91" />。そこで柴田は手綱を絞るという行動に出て、ハミ受けが良化、再起を果たした<ref name="優駿-1986-1-125">『優駿』1986年1月号 125頁</ref>。さらにその柴田のアクションが、図らずも周りのライバルたちを促した<ref name="優駿-2006-7-58" />。

ライバルたちは、マークを棄てて、スパートを開始する。しかしミホシンザンは、そこでは動かなかった<ref name="優駿-2006-7-58" />。坂を下りきり、最終コーナーに達してからスパート、外から進出する<ref name="優駿-2006-7-58" />。直線では馬場の中央から末脚を繰り出した<ref name="優駿-1985-12-3" />。末脚は鋭く、サクラユタカオーやスダホークらのマークを振り切り、置き去りにして独走となった<ref name="優駿-1998-10-91" />。

後方に1馬身4分の1差をつけて決勝線を通過した<ref name="優駿-1986-1-126" />。菊花賞優勝{{Efn|堤は、副賞として純金製の三つ重ね金盃を取得している。その金盃は東京都豊島区の本社事務所に保管されていたが、翌1986年6月に、侵入されて盗難されている<ref name="朝日-盗難">『朝日新聞』1986年6月24日 朝刊 23面</ref>。同時に水仙賞勝利時の副賞十八金製飾り皿なども盗難されており、併せて時価631万円相当の被害だった<ref name="朝日-盗難" />。}}。皐月賞に続きクラシック二冠を果たす。1949年[[トサミドリ]]、1954年[[ダイナナホウシュウ]]、1974年[[キタノカチドキ]]に続く史上4頭目となる皐月賞と菊花賞のクラシック二冠制覇だった<ref name="優駿-2006-7-59">『優駿』2006年7月号 59頁</ref>。またミナガワマンナに続いて父仔優勝を成し遂げていた<ref name="優駿-1986-1-125" />。

続いて12月22日、有馬記念(GI)に臨み、古馬との初対戦となる。1歳年上のクラシック三冠馬、「シンザンを超えた<ref name="最強ヒス-4">{{Cite web |url=http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/mihoshinzan/story-4.html |title=第4話 混沌のクラシック戦線 |access-date=2022-11-17 |publisher=Yahoo!JAPAN スポーツ |archive-url=https://web.archive.org/web/20051109142323/http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/mihoshinzan/story-4.html |archive-date=2005-11-9}}</ref>、肩を並べた<ref>『優駿』2015年9月号 79頁</ref>」と称されたシンボリルドルフとの対決となった<ref name="優駿-2004-1-69">『優駿』2004年1月号 69頁</ref>。他に[[ニシノライデン]]、[[ギャロップダイナ]]、[[ヤマノシラギク]]などが揃う10頭立てだったが、関心の多くは三冠改め六冠馬と二冠馬の優劣だった<ref name="優駿-1986-2-120">『優駿』1986年2月号 120頁</ref>。2頭は「二強」、頭文字から「'''SM対決'''<ref>『優駿』1986年2月号 4頁</ref>」と持ち上げられ、共に単枠指定となる<ref name="優駿-1986-2-122">『優駿』1986年2月号 122頁</ref><ref name="優駿-1986-2-120" />。人気も2頭に集中したが、シンボリルドルフが1.2倍の1番人気で特に抜けており<ref name="優駿-2004-1-69" />、対するミホシンザンは、5.9倍の2番人気だった<ref name="優駿-1986-2-120" />。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=Fx_o0n8C8wE&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1985年 有馬記念({{GI}})<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}ミホシンザンはハイペースの8番手、シンボリルドルフは3番手に位置していた。ミホシンザンは、2周目の向こう正面にて進出を開始し、第3コーナーから進出していたシンボリルドルフとの距離を縮め、最終コーナーをシンボリルドルフの背後で通過し、逆転を目論んだ<ref name="優駿-1986-2-120" />。しかし直線で末脚を繰り出したシンボリルドルフには敵わず、突き放された<ref>『優駿』1986年2月号 2頁</ref>。独走を許して2着となる<ref name="優駿-1986-2-121">『優駿』1986年2月号 121頁</ref>。

1967年1着[[カブトシロー]]、2着[[リュウファーロス]]や1974年1着[[タニノチカラ]]、2着[[ハイセイコー]]に次いで、有馬記念史上3番目の着差となる4馬身差での敗北となった<ref name="優駿-1986-2-122" /><ref name="優駿-1986-2-120" />。シンボリルドルフとミホシンザンの連勝複式は、1977年テンポイントとトウショウボーイの240円を上回る160円、有馬記念史上最少配当だった<ref name="優駿-1986-2-121" />。

この年の[[優駿賞]]では、投票総数138票のうち136票を集めて[[JRA賞最優秀3歳牡馬|最優秀4歳牡馬]]、131票を集めて[[JRA賞最優秀父内国産馬|最優秀父内国産馬]]を受賞した<ref>『優駿』1986年2月号 45頁</ref>。またフリーハンデでは「64」が与えられる<ref name="優駿-1986-2-5253">『優駿』1986年2月号 52-53頁</ref>。3年連続の二冠以上となったが、三冠馬ミスターシービー「65」、シンボリルドルフ「67」に、いくらか劣る取り扱いだった<ref name="優駿-1986-2-5253" />。以下東京優駿優勝馬のシリウスシンボリが「63」、スクラムダイナやスダホーク「59」と続いていた<ref name="優駿-1986-2-5253" />。

=== 5歳(1986年) ===

==== 二度目の故障、四連続重賞3着 ====
年をまたいで古馬となった1986年、春は天皇賞を目標とした<ref name="最強ヒス-10">{{Cite web |url=http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/mihoshinzan/story-10.html |title=第10話 屈辱の日々 |access-date=2022-11-18 |publisher=Yahoo!JAPAN スポーツ |archive-url=https://web.archive.org/web/20051023093518/http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/mihoshinzan/story-10.html |archive-date=2005-10-23}}</ref>。シンボリルドルフがアメリカ遠征に出かけて不在の中、戦線の中心的な存在に成り上がった<ref name="優駿-1986-5-146" />。休養の後、3月30日の日経賞(GII)で始動した。日経賞始動は、前年暮れの有馬記念で七冠に到達したシンボリルドルフと同じだった<ref name="優駿-1986-5-146">『優駿』1986年5月号 146頁</ref>。単枠指定<ref name="優駿-1986-5-147">『優駿』1986年5月号 147頁</ref>、抜けた1番人気の支持だったが、馬場状態は重だった<ref name="優駿-1986-5-146" />。ミホシンザンは中団を追走となる<ref name="優駿-1986-5-146" />。しかし重馬場に脚をとられ、促されても全く進まなかった<ref name="優駿-1986-5-146" />。抜け出すことがないまま決勝線に到達、優勝のチェスナットバレーに7馬身以上後れを取る6着だった<ref name="優駿-1986-5-147" />。

この後は天皇賞(春)で再起を果たすつもりだったが、日経賞4日後の4月3日、脚部の違和感をきっかけにレントゲン検査をしたところ、古傷の左第三手根骨の骨折再発が判明する<ref name="優駿-1986-3-155">『優駿』1986年3月号 155頁</ref>。日経賞レース中に発症したもので、状態は前年より悪く、全治は倍の6か月だった<ref name="優駿-1986-3-155" />。よって目標の天皇賞(春)参戦は叶わなかった。それでも骨折の具合は軽く、現役続行、秋に復帰を果たした<ref name="最強ヒス-10" />。

10月5日、天皇賞(秋)の前哨戦である毎日王冠(GII)で復帰する。1番人気に推されたが、終いで伸びあぐねてぬけだすことができなかった<ref name="優駿-1986-12-130">『優駿』1986年12月号 130頁</ref>。同期のサクラユタカオーのレコードタイムの走りに屈し、1歳年下4歳馬のニッポーテイオーの逃げを捉えられず3着となる<ref name="優駿-1986-12-130" />。続く10月26日の天皇賞(秋)(GI)は、叩き2戦目の上がり目が期待された。サクラユタカオーとの一騎打ちと目されたが、こちらが高く評価されて1番人気に支持された<ref>『優駿』1986年12月号 85頁</ref>。ミホシンザンは中団8番手、好位6番手のサクラユタカオーを見据える位置だった<ref name="優駿-1986-12-124">『優駿』1986年12月号 124頁</ref>。直線では進出するサクラユタカオーの後を追う形となったが、反対に突き放される。伸びあぐねて、独走を許した<ref name="優駿-1986-12-124" />。再びレコードで駆けたサクラユタカオーに4馬身以上敵わず、逃げ粘るウインザーノットにも1馬身半以上及ばない3着だった<ref>『優駿』1986年12月号 126頁</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=jJ9DSgyeVQ8&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1986年 天皇賞(秋)({{GI}})<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]|video2=[https://www.youtube.com/watch?v=jeDdD-1iWjk&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1986年 ジャパンカップ({{GI}})<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}

それから11月23日、ジャパンカップ(GI)に臨む。7頭の外国調教馬を迎えた14頭立てとなる中、ミホシンザンは4番人気<ref name="優駿-1987-1-132">『優駿』1987年1月号 132頁</ref>。サクラユタカオー、ニュージーランドのアワウェイバリースター、フランスの[[トリプティク]]に次ぐ支持だった<ref name="優駿-1987-1-132" />。好位で直線に向き、先に抜け出したイギリスの[[ジュピターアイランド]]とアレミロードの内側から追い上げた<ref>『優駿』1987年1月号 133頁</ref>。しかしその2頭が競り合う日本レコードの走りには敵わず、それらに1馬身4分の1後れを取る3着<ref>『優駿』1987年1月号 134頁</ref>。ただし[[ラグビーボール (競走馬)|ラグビーボール]]、サクラユタカオーには先着し、日本調教馬最先着は果たした<ref name="優駿-1987-1-132" />。

続いて12月21日の有馬記念(GI)に参戦する。この年は、三冠馬シンボリルドルフが国内で走ることなく引退し、入れ替わるように[[メジロラモーヌ]]が史上初となる[[中央競馬クラシック三冠|牝馬三冠]]を果たすという出来事があった<ref name="優駿-1987-2-128">『優駿』1987年2月号 128頁</ref>。三冠達成直後のメジロラモーヌ、そして天皇賞(秋)優勝直後のサクラユタカオーはこの有馬記念を引退レースと決めていた<ref name="優駿-1987-2-128" />。それでもファン投票では、ミホシンザンは、その2頭を退けて1位となる<ref name="優駿-1987-2-128" />。

勝利から遠ざかっていたが見限られたわけではなく、ファンからは当然千羽鶴や電報が届いたほか、苦手の道悪馬場にならないように当日の好天を願う[[てるてる坊主]]も届けられたという<ref name="優駿-1987-2-128" />。また12月3日には、シンザンの調教師である武田が死去していた<ref>『優駿』1987年1月号 42頁</ref>。通夜に参加した田中は霊前にミホシンザンの飛躍を決意していた<ref name="優駿-1987-2-129">『優駿』1987年2月号 129頁</ref>。このためミホシンザンは、周囲の期待と武田の弔い合戦に応えなければならなかった<ref name="優駿-1987-2-129" />。当日は、1番人気に支持される。ただし当日は雨が降り、苦手の稍重馬場だった<ref name="優駿-1987-2-129" />。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=TiR4aDunNxA&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1986年 有馬記念({{GI}})<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}1枠1番からスタートして中団に位置。第3コーナーから外に持ち出して追い上げたが、道悪で思うように進まなかった<ref name="優駿-1987-2-129" />。最終コーナーにかけて、ミホシンザンを含めた各々が、逃げる[[レジェンドテイオー]]の背後まで極まる。直線に向いてから各々仕掛けて末脚比べとなった。ミホシンザンは抜け出しかけたが、内から抜け出した東京優駿優勝の4歳馬ダイナガリバーの末脚に敵わず、突き放された<ref name="優駿-1987-2-129" />。終いには大外から追い込んだギャロップダイナにもかわされ、優勝したダイナガリバーに約1馬身、ギャロップダイナに半馬身敵わず3着だった<ref>『優駿』1987年2月号 130頁</ref>。

4連続3着、5戦未勝利に終わったこの年だったが、優駿賞ではGI競走3着やジャパンカップでの日本調教馬最先着が高く評価され、139票中52票を集めて最優秀父内国産馬を受賞している<ref>『優駿』1987年2月号 56頁</ref>。神戸新聞杯と京都新聞杯優勝の4歳アローエクスプレス産駒のタケノコマヨシ、[[札幌記念]]と[[ウインターステークス]]優勝の5歳ハイセイコー産駒[[ライフタテヤマ]]を42票、35票などに抑えたうえでの選出だった<ref name="優駿-1987-2-54">『優駿』1987年2月号 54頁</ref>。また、最優秀古馬(牡馬)選考でも139票中4票を獲得し、サクラユタカオー、クシロキングに次いで、ギャロップダイナと並ぶ第3位だった<ref name="優駿-1987-2-54" />。

=== 6歳(1987年) ===

==== 重賞連勝 ====
6歳となっても現役を続行、この年一杯での引退は決定していた。しかし1年以上勝利から見放される状況に、競馬サークル内では、旬を過ぎた「過去の馬」と考える向きが強くなっていた<ref name="優駿-1987-3-150">『優駿』1987年3月号 150頁</ref>。その状況を覆したい堤は、年明けに田中ら陣営を集めて食事会を催し、ミホシンザン復活の方策を練り、「まずは『勝ち運』をつけてあげよう<ref name="優駿-2006-7-58" />」という結論に至る<ref name="最強ヒス-11">{{Cite web |url=http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/mihoshinzan/story-11.html |title=第11話 復活目指して |access-date=2022-11-18 |publisher=Yahoo!JAPAN スポーツ |archive-url=https://web.archive.org/web/20051130060432/http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/mihoshinzan/story-11.html |archive-date=2005-11-30}}</ref>。そのために1月25日、[[アメリカジョッキークラブカップ]](GII)に参戦した<ref name="最強ヒス-11" />。

クシロキング、[[スズパレード]]が相手の6頭立ての中、1番人気の支持だった。少頭数に加えて先行馬がおらず、緩いペースとなると目されていた<ref name="優駿-1987-3-150" />。そんな中、ミホシンザンは逃げに出る<ref name="最強ヒス-11" />。柴田は当初クシロキングがハナを切ると考えていたが、クシロキングほか皆が主張しなかったため「しかたなく<ref name="優駿-1987-3-150" />」(柴田)講じた策だった。スローペースを刻み、第3コーナーからピッチを上げ、逃げたまま直線に向いてスパート<ref name="優駿-2006-7-58">『優駿』2006年7月号 58頁</ref>。後方待機のクシロキング、スズパレードに詰め寄られたが、並ばれることなく逃げ切った<ref name="優駿-1987-3-150" />。スズパレードやクシロキングに1馬身差をつけて先頭で決勝戦を通過する<ref>『優駿』1987年3月号 151頁</ref>。

菊花賞以来1年2か月ぶりの勝利を果たす<ref name="優駿-1987-3-150" />。この直後には、ファンの拍手が発生していた。水戸正晴によれば「GIレースでもないのに、これだけスタンドを揺るがしたことが、かつてあっただろうか。そう思うほどの激しさ<ref name="優駿-1987-3-150" />」の拍手を受けていたという。直後の記念撮影では、田中は「天皇賞を勝つまで、ワシは一緒に撮らんよ<ref name="優駿-1987-3-150" />」と再び加わらなかった<ref name="優駿-1987-3-150" />。。

この復活により、陣営は前年出走できなかった春の天皇賞参戦が具現化する。その前哨戦に臨むにあたり、田中は、前年と同様に日経賞を提案したが、堤は骨折した日経賞を嫌い、[[阪神大賞典]]を希望していた<ref name="優駿-2006-7-58" />。しかし田中は、阪神大賞典の時期の阪神の馬場状態が悪いことを把握していた。そこで、堤に確勝を約束して説得し、日経賞参戦が決定した<ref name="優駿-2006-7-58" />。

4月5日、日経賞(GII)に臨む。7頭立てとなる中、ダイナガリバーとの有馬記念以来の再戦が注目を集めていた<ref name="優駿-1987-6-100">『優駿』1987年6月号 100頁</ref>。人気は、2頭に集中したが、有馬記念で敗れたミホシンザンが僅差で1番人気だった<ref name="優駿-1987-6-146">『優駿』1987年6月号 146頁</ref>。1枠1番からスタートしたミホシンザンは、前回のように逃げなかった。先導役をレジェンドテイオーに譲り、ダイナガリバーも行かせた4番手、ややスローペースの中団を追走していた<ref name="優駿-1987-6-146" />。2周目の第3コーナーから馬群が一団となり、ミホシンザンも外に持ち出して追い上げを開始する<ref name="最強ヒス-11" />。最終コーナーで先行勢に取りつき、直線で先頭を奪取する<ref name="最強ヒス-11" />。まもなく末脚を発揮して、ダイナガリバーらを千切っていた<ref name="優駿-1987-6-100" />。以後、後続の追い上げ寄せ付けず独走<ref name="最強ヒス-11" />。ジュサブロー、ダイナガリバーらに5馬身差をつけて、先頭で決勝線を通過、重賞連勝を果たした<ref>『優駿』1987年6月号 147頁</ref>。田中は、アメリカジョッキークラブカップでは、勝利を挙げたものの、内容的に満足していなかった<ref name="優駿-1987-6-146" />。しかし日経賞は「満点」を与えていた<ref name="優駿-1987-6-146" />。

==== 天皇賞(春) ====
栗東での滞在を経て[[4月29日]]、天皇賞(春)(GI)に臨む。ダイナガリバーとの再々戦、菊花賞優勝の[[メジロデュレン]]、[[京都記念]]優勝の[[シンチェスト]]、日経賞2着のジュサブローなどとの対決が期待されたが、骨折や体調不良などでおしなべて回避していた<ref>『優駿』1987年6月号 24頁</ref>。よって10頭での競走となる<ref name="最強ヒス-12">{{Cite web |url=http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/mihoshinzan/story-12.html |title=第12話 終わりの予感 |access-date=2022-11-18 |publisher=Yahoo!JAPAN スポーツ |archive-date=2005-12-28 |archive-url=https://web.archive.org/web/20051228025653/http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/mihoshinzan/story-12.html}}</ref>。ミホシンザンは、唯一の単枠指定に祭り上げられた<ref>『優駿』1987年6月号 142頁</ref>。[[サンケイ大阪杯]]優勝から臨むニシノライデン、阪神大賞典優勝から臨むスダホーク、前年の皐月賞並びに東京優駿3着の[[アサヒエンペラー]]、前年の天皇賞(春)優勝のクシロキングが立ちはだかったが、ミホシンザンは単勝オッズ1.3倍、抜けた1番人気だった<ref name="最強ヒス-12" />。ただし調整過程でコズミをきたしたり<ref name="優駿-2006-7-59" />、腰に疲れがあったりして、万全とは言えない状態での参戦だった<ref name="優駿-2006-7-60" />。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=AWn2LVO5_nQ&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1987年 天皇賞(春)({{GI}})<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}6枠6番からスタート、シンブラウンが逃げてスローペースで先導する中、中団を位置した<ref name="優駿-1993-10-69" /><ref name="優駿-1987-6-21">『優駿』1987年6月号 21頁</ref>。道中は、中団外にいたアサヒエンペラーにしつこく絡まれながらの追走だった<ref name="最強ヒス-12" />。アサヒエンペラーがすぐ外で陣取っていたために、こちらの進路が塞がれ、不利を多分に被る場面もあった<ref name="優駿-1987-6-141" />。アサヒエンペラーとの並走は、2周目の第3コーナーまで続いていたが、柴田は観念して、マークを剥がす作戦に出る<ref name="優駿-1987-6-141" />。加減してアサヒエンペラーを先に行かせて、後を追う形となり、第3コーナーの坂の下りでステッキが入りながら追い上げた<ref name="優駿-1987-6-141" />。前方では、抜け出したニシノライデンにアサヒエンペラー、マルブツファーストが取り付き、ミホシンザンはその背後の好位まで接近して、後れを取り戻す。この4頭が、馬場の外側に密集して最終コーナーを通過していた<ref name="最強ヒス-12" />。

直線に入ると、ミホシンザンは他3頭とはぐれて、内に切れ込み始めた<ref name="優駿-1993-10-69" />。内ラチ沿いに達しながら末脚を発揮して、先頭を窺うが、差し切って突き放すだけの威力はなかった<ref>『優駿』1987年6月号 140頁</ref>。外のニシノライデンに抵抗されて、内外並んで、離れての叩き合いに発展する<ref name="最強ヒス-12" />。その叩き合いは、優劣がつかないまま続き、果ては、横一線同時の決勝線通過と相成った<ref name="優駿-1987-6-21" />。

2頭の勝敗は[[写真判定]]に委ねられたのに加え、ランプが点灯して[[審議 (競馬)|審議]]となった<ref name="優駿-1987-6-21" />。まず着順が明かされ、ミホシンザンがニシノライデンにハナ差先着が判明する<ref name="優駿-1987-6-22">『優駿』1987年6月号 22頁</ref>。そして審議は、直線でのニシノライデンの走法が対象であり、ミホシンザンに関係するものではなかった{{Efn|2位入線ニシノライデンは、直線で外側に斜行し、アサヒエンペラーの進路を塞いでいた。審議の結果、進路妨害が認定されて失格に処された。よって3位入線アサヒエンペラーが繰り上がり、2着となっている<ref name="優駿-1987-6-22" />。}}。すなわち、ミホシンザンの優勝が確定する<ref name="優駿-1987-6-22" />。GI3勝目を挙げる<ref name="優駿-1987-6-130">『優駿』1987年6月号 130頁</ref>。春を休養し、秋を惜敗した1年を挟んでの天皇賞戴冠だった<ref>『優駿』1987年6月号 23頁</ref>。1948年春[[シーマー]]と1955年春[[タカオー]]父仔、同じくシーマーと1955年秋[[ダイナナホウシユウ]]父仔、そして1970年秋[[メジロアサマ]]と1982年秋[[メジロティターン]]父仔に続いて'''史上4組目となる天皇賞父仔制覇'''を成し遂げている<ref name="優駿-1987-6-141">『優駿』1987年6月号 141頁</ref>。この段階でのJRA-GI3勝は、7勝のシンボリルドルフに次ぎ、メジロラモーヌと[[ニホンピロウイナー]]に並ぶ史上2位タイだった<ref name="優駿-1987-6-130" />。柴田は、1980年秋[[プリテイキャスト]]、1983年秋[[キョウエイプロミス]]に続いて天皇賞3勝目だった<ref name="優駿-1993-10-69" />。

==== 引退 ====
天皇賞(春)を制した後のミホシンザンは、駈歩もできない程に疲労困憊しており<ref name="優駿-2006-7-60">『優駿』2006年7月号 60頁</ref>、6月の[[宝塚記念]]ではファン投票1位になったものの出走できなかった。切り替えて秋の復帰を目指し、函館競馬場で調整されたが、回復しなかった<ref name="優駿-2006-7-60" />。果ては、調整中に右前脚に屈腱炎を発症<ref name="優駿-1987-12-34">『優駿』1987年12月号 34頁</ref>。10月21日、堤から競走馬引退が発表された<ref name="優駿-1987-12-34" />。GI3勝の活躍は、20頭いるシンザンの重賞優勝産駒の中で最高の成績であり、シンザンの送り出した「最高傑作」となった<ref name="優駿-1993-10-65" />。

引退式は、12月6日に行われる予定だったが、雪のために1週間延期となり、12月13日の中山競馬場で行われた<ref name="優駿-1988-1-36">『優駿』1988年1月号 36頁</ref>。延期しても雪は降り、競馬開催は、第2競走で打ち切り、その後に引退式が行われている<ref name="優駿-1988-1-36" />。これまで雨中の引退式としては、ミスターシービーの引退式があったが、史上初めて雪が降る中行われた引退式だった<ref name="優駿-1988-1-37">『優駿』1988年1月号 37頁</ref>。天皇賞(春)を制した時のゼッケン「6」を着用して、ダートコースを走行して最後の決勝線通過を果たしている<ref name="優駿-1988-1-37" /><ref name="優駿-1993-10-69" />。

この年のJRA賞では、全143票中72票を集めて最優秀父内国産馬を受賞<ref name="優駿-1988-2-38">『優駿』1988年2月号 38頁</ref>、3年連続受賞を果たしている<ref>『優駿』1988年2月号 37頁</ref>。また17票を集め、最優秀5歳以上牡馬の次点となった<ref name="優駿-1988-2-38" />。競走馬を引退し、厩舎を退いたミホシンザンは、12月17日に北海道浦河町の谷川牧場に到着している<ref name="優駿-1988-2-88">『優駿』1988年2月号 88頁</ref>。牧場では、28歳になる父シンザンが待ち構えており、父仔の初対面が実現している<ref name="優駿-1988-2-88" />。

== 種牡馬時代 ==
1988年から、父シンザンが繋養されている谷川牧場で種牡馬となる。シンザンは前年の1987年に種牡馬を引退しており、種牡馬としては入れ違いでの供用だった<ref>{{Cite web |title=ミホシンザン死す 父の長寿におよばず32歳 |url=http://race.sanspo.com/keiba/news/20141204/etc14120414250003-n2.html |website=予想王TV@SANSPO.COM |date=2014-12-04 |access-date=2022-09-05 |language=ja-JP}}</ref>。供用にあたっては、一口1000万円全55株の総額5憶5000万円のシンジケートが結成されていた<ref name="優駿-1993-10-69">『優駿』1993年10月号 69頁</ref>。初年度の1988年から8年目の1994年まで、余勢株もあって55頭以上の繁殖牝馬を集め続けた<ref name="優駿-1993-10-69" />。供用6年目の1993年からは谷川牧場を退き、[[イーストスタッド]]に移動している<ref name="優駿-1993-10-69" />。イーストスタッドの場長によれば、種付け時の腰の使い方が上手であり、どんな牝馬にも一発で[[射精]]することができる才能の持ち主だったという<ref name="優駿-1993-10-69" />。10年目の1997年以降は凋落し、数頭の繁殖牝馬を集めることができなかった<ref name="JBIS-種牡馬成績" />。谷川牧場主、浦河町の谷川弘一郎は「50年、100年と続くシンザンのサイアーラインを残すことが私の夢だ」と述べていたが、ヒンドスタン、シンザン、ミホシンザンというラインでは時代に適わなかった<ref name="優駿-2006-7-60">『優駿』2006年7月号 60頁</ref>。好景気にまかせて輸入種牡馬が多数輸入されており、[[サンデーサイレンス]]、[[ブライアンズタイム]]、[[トニービン]]などには敵わず<ref name="ふるさと-追悼">{{Cite web |title=追悼~ミホシンザン {{!}} 馬産地ニュース {{!}} 競走馬のふるさと案内所 |url=https://uma-furusato.com/news/79255.html |website=uma-furusato.com |access-date=2022-09-05}}</ref>、サイアーラインは尻すぼみ、父シンザン越えは叶わなかった<ref name="優駿-2006-7-60" /><ref name="ふるさと-追悼" />。2002年に種牡馬を引退する<ref name="優駿-2006-7-61" />。

産駒は、1991年から2005年まで日本競馬で走っている<ref name="JBIS-種牡馬成績" />。341頭が7500回走り、185頭で617勝を挙げ、中央地方の重賞を5勝した<ref name="JBIS-種牡馬成績" />。2年目産駒の[[マイシンザン]](母父:パーソロン)は、1993年の[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]](東京優駿トライアル)(GII)にてガレオン、[[サクラチトセオー]]、[[トーヨーリファール]]、ツジユートピアンなどを下して優勝<ref name="JBIS-マイシンザン" />。続く東京優駿では、[[ウイニングチケット]]、[[ビワハヤヒデ]]、[[ナリタタイシン]]、ガレオンに次ぐ5着。それから翌々年の1995年、[[朝日チャレンジカップ]](GIII)も優勝した<ref name="JBIS-マイシンザン" />。また6年目産駒のグランドシンザン(母父:[[ラシアンルーブル]])は、2001年の[[愛知杯]](GIII)を制した<ref name="JBIS-グランドシンザン" />。中央競馬では、重賞優勝はこの3つに留まった<ref name="JBIS-種牡馬成績" />。

種牡馬引退後のミホシンザンは、日高町の谷川牧場清畠事業所で功労馬として繋養された<ref name="優駿-2006-7-61" />。30歳に到達する長寿となったが、父シンザンの持つ35歳3か月(1996年没)という最長寿記録更新が期待されたが、叶わなかった<ref name="優駿-2015-1-154">『優駿』2015年1月号 154頁</ref>。シンザンより3年早い32歳だった2014年12月4日、谷川牧場で[[心臓麻痺]]により死亡する、シンザンにはまたしても敵わなかった<ref name="優駿-2015-1-154" /><ref>{{Cite web |title=シンザン最高傑作のミホシンザン死亡/デイリースポーツ online |url=https://www.daily.co.jp/horse/2014/12/05/0007556944.shtml |website=デイリースポーツ online |access-date=2022-09-05 |language=ja}}</ref>。


== 競走成績 ==
== 競走成績 ==
以下の内容は、[[netkeiba.com]]<ref>{{Cite web |title=ミホシンザンの競走成績 {{!}} 競走馬データ |url=https://db.netkeiba.com/horse/1982103164/ |website=netkeiba.com |access-date=2022-08-17 |language=ja}}</ref>並びにJBISサーチ<ref>{{Cite web |title=競走成績:全競走成績|ミホシンザン|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000147048/record/?sort=ymd&page=1&order=A |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-08-17}}</ref>、『[[優駿]]』<ref name="優駿-2006-7-61" />の情報に基づく。
{| style="font-size: 90%; text-align: center; border-collapse: collapse;white-space:nowrap"
{| style="border-collapse:collapse; font-size:75%; text-align:center; white-space:nowrap"
! colspan="3" |競走日
!競馬場
!競走名
!格
!距離<br/>(馬場)
!頭<br/>数
!枠<br/>番
!馬<br/>番
!オッズ<br/>(人気)
!着順
!タイム
!着差
!騎手
!斤量<br/>[kg]
!1着馬<br/>(2着馬)
!馬体重<br/>[kg]
|-
|-
|[[1985年|1985]].
|colspan="3"|年月日
|{{0}}1.
|[[競馬場]]
|{{0}}[[1月6日|6]]
|レース名
|[[競馬の競走格付け|格]]
|オッズ(人気)
|style="white-space: nowrap;"|着順
|[[競走馬の適性|距離]]([[馬場状態|馬場]])
|タイム
|着差
|[[騎手]]
|[[負担重量|斤量]]<br/>[kg]
|勝ち馬/(2着馬)
|馬体重<br/>[kg]
|-
|1985.
|1.
|6
|[[中山競馬場|中山]]
|[[中山競馬場|中山]]
|[[新馬|4歳新馬]]
|[[新馬|4歳新馬]]
|
|
|芝1600m(良)
|16
|7
|14
|2.9(1人)
|2.9(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|芝1600m(良)
|1:36.1
|1:36.1
| -1.5
||9身
|[[柴田政人]]
|[[柴田政人]]
|55
|55
||(マキノハタ)
|(マキノハタ)
|484
|484
|-
|-
|
|
|2.
|{{0}}2.
|[[2月23日|23]]
|23
|中山
|中山
||水仙賞
|水仙賞
|4下
|{{small|400万下}}
|芝2000m(稍)
|11
|7
|9
|2.0(1人)
|2.0(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|芝2000m(稍)
|2:02.6
|2:02.6
| -0.4
||2身1/2
|柴田政人
|柴田政人
|55
|55
||(モンテジャパン)
|(モンテジャパン)
|480
|480
|-
|-
|
|
|3.
|{{0}}3.
|[[3月24日|24]]
|24
|中山
|中山
||[[スプリングステークス|スプリングS]]
|[[スプリングステークス|スプリングS]]
|{{JRAGII}}
|{{JRAGII}}
|芝1800m(稍)
|11
|4
|4
|2.1(1人)
|2.1(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|芝1800m(稍)
|1:49.5
|1:49.5
||1身3/4
| -0.3
|柴田政人
|柴田政人
|56
|56
||([[スクラムダイナ]])
|([[スクラムダイナ]])
|476
|476
|-
|-
|
|
|4.
|{{0}}4.
|[[4月14日|14]]
|14
|中山
|中山
||[[皐月賞]]
|[[皐月賞]]
|{{JRAGI}}
|{{JRAGI}}
|芝2000m(稍)
|22
|5
|13
|3.9(1人)
|3.9(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|芝2000m(稍)
|2:02:1
|2:02:1
| -0.8
||5身
|柴田政人
|柴田政人
|57
|57
||(スクラムダイナ)
|(スクラムダイナ)
|472
|472
|-
|-
|
|
|9.
|{{0}}9.
|[[9月29日|29]]
|29
|中山
|中山
||[[セントライト記念]]
|{{Small|[[セントライト記念]]}}
|{{JRAGIII}}
|{{JRAGIII}}
|芝2200m(不)
|10
|3
|3
|1.8(1人)
|1.8(1人)
|5着
|5着
|芝2200m(不)
|2:21.0
|2:21.0
||1.5
|{{0|-}}1.5
|柴田政人
|柴田政人
|56
|56
||タイガーボーイ
|タイガーボーイ
|494
|494
|-
|-
|
|
|10.
|10.
|[[10月20日|20]]
|20
|[[京都競馬場|京都]]
|[[京都競馬場|京都]]
||[[京都新聞杯]]
|[[京都新聞杯]]
|{{JRAGII}}
|{{JRAGII}}
|芝2200m(良)
|13
|4
|5
|1.9(1人)
|1.9(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|芝2200m(良)
|2:14.5
|2:14.5
| -0.3
||2身
|柴田政人
|柴田政人
|54
|54
||([[スピードヒーロー]])<br />(フリートホープ)
|([[スピードヒーロー]])<br />(フリートホープ)
|488
|488
|-
|-
|
|
|11.
|11.
|[[11月10日|10]]
|10
|京都
|京都
||[[菊花賞]]
|[[菊花賞]]
|{{JRAGI}}
|{{JRAGI}}
|芝3000m(稍)
|18
|6
|12
|2.3(1人)
|2.3(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|芝3000m(稍)
|3:08.1
|3:08.1
| -0.2
||1身1/4
|柴田政人
|柴田政人
|57
|57
||([[スダホーク]])
|([[スダホーク]])
|488
|488
|-
|-
|
|
|12.
|12.
|[[12月22日|22]]
|22
|中山
|中山
||[[有馬記念]]
|[[有馬記念]]
|{{JRAGI}}
|{{JRAGI}}
|芝2500m(良)
|10
|2
|2
|5.9(2人)
|5.9(2人)
|{{color|darkblue|2着}}
|{{color|darkblue|2着}}
|芝2500m(良)
|2:33.8
|2:33.8
||0.7
|{{0|-}}0.7
|柴田政人
|柴田政人
|55
|55
||[[シンボリルドルフ]]
|[[シンボリルドルフ]]
|490
|490
|-
|-
|1986.
|[[1986年|1986]].
|3.
|{{0}}3.
|[[3月30日|30]]
|30
|中山
|中山
||[[日経賞]]
|[[日経賞]]
|{{JRAGII}}
|{{JRAGII}}
|芝2500m(重)
|12
|4
|4
|1.4(1人)
|1.4(1人)
|6着
|6着
|芝2500m(重)
|2:36.5
|2:36.5
||1.3
|{{0|-}}1.3
|柴田政人
|柴田政人
|58
|58
||チェスナットバレー
|チェスナットバレー
|494
|494
|-
|-
|
|
|10.
|10.
|{{0}}[[10月5日|5]]
|5
|[[東京競馬場|東京]]
|[[東京競馬場|東京]]
||[[毎日王冠]]
|[[毎日王冠]]
|{{JRAGII}}
|{{JRAGII}}
|芝1800m(良)
|8
|1
|1
|2.6(1人)
|2.6(1人)
|{{color|darkgreen|3着}}
|{{color|darkgreen|3着}}
|芝1800m(良)
|1:46.6
|1:46.6
||0.6
|{{0|-}}0.6
|柴田政人
|柴田政人
|59
|59
||[[サクラユタカオー]]
|[[サクラユタカオー]]
|494
|494
|-
|-
|
|
|10.
|10.
|[[10月26日|26]]
|26
|東京
|東京
||[[天皇賞(秋)]]
|[[天皇賞(秋)]]
|{{JRAGI}}
|{{JRAGI}}
|芝2000m(良)
|16
|6
|11
|2.1(1人)
|2.1(1人)
|{{color|darkgreen|3着}}
|{{color|darkgreen|3着}}
|芝2000m(良)
|1:59.0
|1:59.0
||0.7
|{{0|-}}0.7
|柴田政人
|柴田政人
|58
|58
||サクラユタカオー
|サクラユタカオー
|494
|494
|-
|-
|
|
|11.
|11.
|[[11月23日|23]]
|23
|東京
|東京
||[[ジャパンカップ]]
|{{Small|[[ジャパンカップ]]}}
|{{JRAGI}}
|{{JRAGI}}
|芝2400m(良)
|14
|4
|6
|7.5(4人)
|7.5(4人)
|{{color|darkgreen|3着}}
|{{color|darkgreen|3着}}
|芝2400m(良)
|2:25.2
|2:25.2
||0.2
|{{0|-}}0.2
|柴田政人
|柴田政人
|57
|57
||[[ジュピターアイランド]]
|[[ジュピターアイランド]]
|498
|498
|-
|-
|
|
|12.
|12.
|[[12月21日|21]]
|21
|中山
|中山
||有馬記念
|有馬記念
|{{JRAGI}}
|{{JRAGI}}
|芝2500m(稍)
|12
|1
|1
|2.3(1人)
|2.3(1人)
|{{color|darkgreen|3着}}
|{{color|darkgreen|3着}}
|芝2500m(稍)
|2:34.2
|2:34.2
||0.2
|{{0|-}}0.2
|柴田政人
|柴田政人
|57
|57
||[[ダイナガリバー]]
|[[ダイナガリバー]]
|498
|498
|-
|-
|1987.
|[[1987年|1987]].
|1.
|{{0}}1.
|[[1月25日|25]]
|25
|中山
|中山
||[[アメリカジョッキークラブカップ|AJCC]]
|[[アメリカジョッキークラブカップ|アメリカJCC]]
|{{JRAGII}}
|{{JRAGII}}
|芝2200m(良)
|6
|2
|2
|1.5(1人)
|1.5(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|芝2200m(良)
|2:15.4
|2:15.4
| -0.2
||1身
|柴田政人
|柴田政人
|59
|59
||([[スズパレード]])
|([[スズパレード]])
|498
|498
|-
|-
|
|
|4.
|{{0}}4.
|{{0}}[[4月5日|5]]
|5
|中山
|中山
||日経賞
|日経賞
|{{JRAGII}}
|{{JRAGII}}
|芝2500m(良)
|7
|1
|1
|2.2(1人)
|2.2(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|芝2500m(良)
|2:33.8
|2:33.8
| -0.8
||5身
|柴田政人
|柴田政人
|59
|59
||(ジュサブロー)
|(ジュサブロー)
|494
|494
|-
|-
|
|
|4.
|{{0}}4.
|[[4月29日|29]]
|29
|京都
|京都
||[[天皇賞(春)]]
|[[天皇賞(春)]]
|{{JRAGI}}
|{{JRAGI}}
|芝3200m(良)
|10
|6
|6
|1.3(1人)
|1.3(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|芝3200m(良)
|3:20.4
|3:20.4
| -0.2
||1身1/4
|柴田政人
|柴田政人
|58
|58
||([[アサヒエンペラー]])
|([[アサヒエンペラー]])
|496
|496
|}
|}


== 主な産駒 ==
== 種牡馬成績 ==

* [[マイシンザン]]([[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]、[[朝日チャレンジカップ]])
=== 年度別成績 ===
* グランドシンザン(愛知杯、オパールステークス、[[カブトヤマ記念]]2着)
以下の内容は、JBISサーチの情報に基づく<ref name="JBIS-種牡馬成績">{{Cite web |title=種牡馬情報:世代・年次別(サラ系総合)|ミホシンザン|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000147048/sire/generation/thorough_s/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-08-17}}</ref>。
* ネオチャイムズ([[小倉障害ステークス]])
{| class="wikitable"
* オンワードモニカ([[フローラステークス|サンスポ賞4歳牝馬特別]]3着)
!種付年度
* ゴールドジャパン([[マーチステークス]]3着)
!種付頭数
!生産頭数
!血統登録頭数
!出走頭数
!勝馬頭数
!重賞勝馬頭数
![[アーニングインデックス|AEI]]
![[コンパラブルインデックス|CPI]]
|-
!1988
|57
|43
|42
|34
|19
|0
|1.59
|
|-
!1989
|58
|44
|43
|38
|21
|1
|1.50
|
|-
!1990
|59
|53
|51
|44
|20
|0
|0.71
|
|-
!1991
|56
|45
|43
|37
|22
|0
|1.29
|
|-
!1992
|56
|49
|49
|44
|25
|0
|0.63
|
|-
!1993
|56
|49
|49
|41
|18
|1
|0.82
|
|-
!1994
|66
|50
|49
|41
|25
|1
|0.48
|
|-
!1995
|51
|35
|35
|30
|15
|0
|0.25
|
|-
!1996
|42
|32
|34
|28
|17
|1
|0.31
|
|-
!1997
|3
|3
|3
|3
|2
|-
|0.30
|
|-
!1998
|2
|2
|1
|1
|1
|0
|0.30
|
|-
!2000
|1
|0
|0
|0
|-
|-
|-
|
|-
!2002
|1
|1
|0
|0
|-
|-
|-
|
|-
! colspan="3" |合計
|399
|341
|185
|4
|0.83
|1.20
|}

=== 重賞優勝産駒 ===

* 1990年産
** [[マイシンザン]](牡、母父:[[パーソロン]](1993年[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]、1995年[[朝日チャレンジカップ]])<ref name="JBIS-マイシンザン">{{Cite web |title=マイシンザン|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000231585/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-08-17}}</ref>
* 1994年産
** グランドシンザン(牡→[[騸馬|騸]]、母父:[[ラシアンルーブル]](2001年[[愛知杯]])<ref name="JBIS-グランドシンザン">{{Cite web |title=グランドシンザン|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000278791/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-08-17}}</ref>
* 1995年産
** ヤマケンホース(牡、母父:ダイナゴー(2000年*稲穂賞)<ref>{{Cite web |title=ヤマケンホース|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000292227/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-08-17}}</ref>
* 1996年産
** ウイッチ(牝、母父:[[ホクトボーイ]](1999年*サラブレッド4歳牝馬賞)<ref>{{Cite web |title=ウイッチ|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000309282/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-08-17}}</ref>
* 1997年産
** オークファイヤー(牡、母父:[[ジャッジアンジェルーチ]](2001年*[[OROカップ]])<ref>{{Cite web |title=オークファイヤー|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000316743/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-08-17}}</ref>


== 血統表 ==
== 血統表 ==
379行目: 686行目:
|fffm = [[プラッキーリエージュ|Plucky Liege]]
|fffm = [[プラッキーリエージュ|Plucky Liege]]
|ffmf = [[ソラリオ|Solario]]
|ffmf = [[ソラリオ|Solario]]
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|ffmm = Udaipur
|fmff = *[[セフト]]
|fmff = *[[セフト]]
|fmfm = 飛竜
|fmfm = 飛竜
401行目: 708行目:
|ref4 = [http://www.jbis.or.jp/horse/0000147048/pedigree/ JBISサーチ ミホシンザン 5代血統表]2017年9月4日閲覧。
|ref4 = [http://www.jbis.or.jp/horse/0000147048/pedigree/ JBISサーチ ミホシンザン 5代血統表]2017年9月4日閲覧。
|}}
|}}
父シンザンについては同馬の項を参照のこと。「シンザンの最高傑作」と呼ばれたが、柴田や担当厩務員の高橋治男によれば、体型や気性などは[[ブルードメアサイアー|母の父]]ムーティエの影響を感じさせる馬であったという<ref name="miho" /><ref>『忘れられない名馬100』p.205</ref>。4代母Singing Sisterの姉コンキユバインは、本馬の父シンザンと同期の二冠牝馬[[カネケヤキ]]の母である。

== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{脚注ヘルプ}}

=== 注釈 ===

<references group="注釈" />
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

* 江面弘也「シンザン 鉈の切れ味で、『五冠馬』と称された歴史的名馬」『名馬を読む1』三賢社、2017年6月30日、ISBN 4908655073
* 江面弘也「ミホシンザン 浦河が育んだシンザンの血」『名馬を読む2』三賢社、2019年8月30日、ISBN 4908655146
* 『忘れられない名馬100 - 関係者の証言で綴る、強烈な印象を残してターフを去った100頭の名馬』(学研、1997年)ISBN 4056013926
* 『忘れられない名馬100 - 関係者の証言で綴る、強烈な印象を残してターフを去った100頭の名馬』(学研、1997年)ISBN 4056013926
** 高橋治男「偉大なるシンザンの後継馬 - ミホシンザン」
** 高橋治男「偉大なるシンザンの後継馬 - ミホシンザン」
* サラブレ編集部『日本名馬物語 - 蘇る80年代の熱き伝説』(講談社、2007年)ISBN 4062810964
* 『優駿』2006年7月号)日本中央競馬会、2006年)
* 『[[優駿]]』([[日本中央競馬会]])
** [[井口民樹]]「"最強"の継承者 - ミホシンザン」
**1982年1月号
* サラブレ編集部・編『日本名馬物語 - 蘇る80年代の熱き伝説』(講談社、2007年)ISBN 4062810964
***[[石川喬司]]「【父を超える夢 PART2】浦河・谷川牧場 王者は健在だった」
***萩谷宗秀([[スポーツ報知|報知新聞]])「【今月の記録室】第42回菊花賞 父に大きな贈り物、ミナガワマンナ」
**1985年5月号
***森山毅([[フジテレビ]])「【今月の記録室】第34回フジテレビ賞スプリングステークス〈皐月賞トライアル〉(GII)ミホシンザン」
**1985年6月号
***粕谷彰夫([[スポーツニッポン]])「【今月の記録室】第45回皐月賞(GI)ミホシンザン」
***「【馬事往来】ミホシンザン骨折 復帰は秋から」
**1985年8月号
***[[志摩直人]]「【GIレース勝ち馬の故郷紀行】皐月賞馬の故郷 日進牧場 試行錯誤のロマン派」
**1985年11月号
***宮原逸雄([[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]])「【今月の記録室】第39回ラジオ日本賞 セントライト記念(GII)タイガーボーイ」
**1985年12月号
***「【第46回菊花賞】抜群の瞬発力で皐月賞に続いて二冠制覇 ミホシンザン」
***今井昭雄「【人馬ドラマ 厩舎ぶらり歩き(19)】田中朋次郎調教師 ミホシンザンの場合は、ひょうたんから駒みたいなものだ」
***[[小崎愃]]([[京都放送|KBS京都]])「【今月の記録室】第33回京都新聞杯〈菊花賞トライアル〉(GII)ミホシンザン」
** 1986年1月号
*** 松下武夫([[共同通信社|共同通信]])「【今月の記録室】第46回菊花賞(GI)ミホシンザン」
** 1986年2月号
*** 「【1985年度年度代表馬・各最優秀馬選出】'85年度代表馬にシンボリルドルフ」
*** 「1985年度フリーハンデ決定」
*** 「【第30回有馬記念】完璧に勝って世界へ向かう、シンボリルドルフ」
*** 山岡孝安([[日刊スポーツ]])「【今月の記録室】第30回有馬記念〈グランプリ〉(GI)シンボリルドルフ」
**1986年3月号
***「【馬事往来】ミホシンザン全治6か月」
**1986年5月号
***小峰隆([[日本経済新聞]])「【今月の記録室】第34回日経賞(GII)チェスナットバレー」
**1986年12月号
***「【第94回天皇賞(秋)】ニューヒーローは驚異のスピード王、サクラユタカオー」
***武藤久([[毎日新聞]])「【今月の記録室】第37回毎日王冠(GII)サクラユタカオー」
***山岡孝安(日刊スポーツ)「【今月の記録室】第94回天皇賞(秋)(GI)サクラユタカオー」
**1987年1月号
***「武田文吾調教師死去」
***嵯峨厚生([[夕刊フジ]])「【今月の記録室】第6回ジャパンカップ(GI)(国際招待)ジュピターアイランド」
**1987年2月号
***「【1986年度年度代表馬・各最優秀馬選出】'86年度代表馬ダイナガリバー」
***鶴谷義雄([[デイリースポーツ]])「【今月の記録室】第31回有馬記念〈グランプリ〉(GI)ダイナガリバー」
**1987年3月号
***水戸正晴([[サンケイスポーツ]])「【今月の記録室】第28回アメリカジョッキークラブカップ(GII)ミホシンザン」
**1987年6月号
***「【第95回天皇賞(春)】不屈の闘志で古馬の王者に、ミホシンザン」
***「【第35回日経賞】独走5馬身、これが実力、ミホシンザン」
***瀬上保男([[読売新聞]])「【今月の記録室】天皇賞はミホシンザン、GI3勝目。2着ニシノライデンは失格」
***寺田文雄(デイリースポーツ)「【今月の記録室】第95回天皇賞(春)(GI)ミホシンザン」
***小峰隆(日本経済新聞)「【今月の記録室】第35回日経賞(GII)ミホシンザン」
**1987年12月号
***「【ターフを去る、ミホシンザン】12月6日、中山競馬場でファンに最後の雄姿。」
**1988年1月号
***「【ミホシンザン引退式】さよならミホシンザン。この雪はぼくらの"なごり雪"だ。」
**1988年2月号
***「【JRA賞年度代表馬・各部門最優秀馬決定】'87年度代表馬にサクラスターオー」
***坂口誠司「【今月のトピックス】北国に帰ったミホシンザン、猛吹雪の中、父シンザンと初対面」
**1988年10月号
***福田喜久男「【渋谷竜が撮る日本のホースマン(60)】調教師会会長とミホシンザン 田中朋次郎調教師」
**1989年11月号
***横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝(45)】シンザンの伝承者 ミナガワマンナ」
**1992年6月号
***横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝(73)】シンザン 曼陀羅(上)」
**1992年7月号
***横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝(74)】シンザン 曼陀羅(2)」
**1992年8月号
***横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝(75)】シンザン 曼陀羅(3)」
**1992年9月号
***横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝(76)】シンザン 曼陀羅(4)」
** 1993年10月号
***横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝(89)】父に超える夢 ミホシンザン」
** 1996年9月号
*** 「【追悼!シンザン】シンザンを超えろ 豊かなスピードとスタミナを産駒に伝えた」
** 1998年9月号
***[[井口民樹]]「【サラブレッド・ヒーロー列伝〈レース編〉(45)】ミホシンザン、一冠と二冠の間(上)挫折のあとの栄光まで」
**1998年10月号
***井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝〈レース編〉(46)】ミホシンザン、一冠と二冠の間(下)挫折のあとの栄光まで」
**2004年1月号
***井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 20世紀を駆けた名馬たち(32)】シンボリルドルフ 比類なき孤高の皇帝」
**2004年10月号
***阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 20世紀を駆けた名馬たち(41)】シンザン 23年ぶりの三冠馬」
** 2006年7月号
***井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝(62)】ミホシンザン "最強"の継承者」
**2015年1月号
***「【ニュース&トピックス】"シンザンの最高傑作"GI3勝馬のミホシンザンが死亡――柴田政人騎手をパートナーに皐月賞、菊花賞、天皇賞(春)などを制す」
**2015年9月号
***[[平松さとし]]「【未来に語り継ぎたい名馬物語(7)】絶対王者として君臨した皇帝 シンボリルドルフと日本競馬」
*『[[朝日新聞]]』
**1986年6月24日朝刊
***「取手 菊花賞の金盃など 630万円分盗まれる」
**1998年6月6日夕刊
***[[有吉正徳]]「『残り物』だったセイウンスカイ 競馬 ダービー」
*『[[競馬最強の法則]]』([[KKベストセラーズ]])
**1998年2月号
***瀬戸慎一郎「[https://web.archive.org/web/20051027140421/http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/mihoshinzan/index.html 【最強ヒストリー】ミホシンザン “最後の傑作”の苦難の道]」


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* {{競走馬成績|netkeiba=1982103164|yahoo=1982103164|jbis=0000147048}}
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2022年12月3日 (土) 06:03時点における版

ミホシンザン
功労馬として過ごすミホシンザン
(2006年9月20日撮影)
品種 サラブレッド[1]
性別 [1][2]
毛色 鹿毛[1][2]
生誕 1982年4月16日[1][2]
死没 2014年12月4日(32歳没)[3]
シンザン[1][2]
ナポリジョオー[1][2]
母の父 ムーティエ[1][2]
生国 日本の旗 日本北海道浦河町[1][2]
生産者 日進牧場[1][2]
馬主 堤勘時[1][2]
調教師 田中朋次郎美浦[1][2]
調教助手 青柳義博[4]
厩務員 高橋治男[5]
競走成績
タイトル 優駿賞最優秀4歳牡馬(1985年)[2]
優駿賞最優秀父内国産馬(1985 - 86年)[2]
JRA賞最優秀父内国産馬(1987年)[2]
生涯成績 16戦9勝[1][2]
獲得賞金 4億8467万9200円[2]
勝ち鞍
GI 皐月賞 1985年
GI 菊花賞 1985年
GI 天皇賞(春) 1987年
GII スプリングステークス 1985年
GII 京都新聞杯 1985年
GII アメリカジョッキークラブカップ 1987年
GII 日経賞 1987年
テンプレートを表示

ミホシンザン(欧字名:Miho Shinzan1982年4月16日 - 2014年12月4日)は、日本競走馬種牡馬[1]

1985年の皐月賞(GI)と菊花賞(GI)に優勝し、中央競馬クラシック二冠を達成。ほか1987年の天皇賞(春)(GI)などを勝利している。1985年の優駿賞最優秀4歳牡馬、1985から1986年の優駿賞最優秀父内国産馬、1987年のJRA賞最優秀父内国産馬である。

概要

1982年4月16日、北海道浦河町の日進牧場で生産された牡馬である。父は、史上2頭目となるクラシック三冠を果たしたうえに、天皇賞(秋)有馬記念も制し「五冠馬」と称されたシンザンである。シンザンの有馬記念優勝を見て以来、シンザンのファンであり、シンザンのために馬主となった堤勘時が所有していた。素質を感じた堤から、冠名と父名を組み合わせた競走馬名が与えられた。初めて競馬場で見たレースが、シンザンの東京優駿であり、シンザンに憧れを抱いていた柴田政人が主戦騎手を務めた。

美浦トレーニングセンター田中朋次郎調教師の管理のもと、1985年、4歳1月のデビューから連勝を続け、無敗の4連勝、5馬身差でクラシック三冠競走の一冠目である皐月賞(GI)を戴冠した。このまま無敗のクラシック三冠、父仔三冠、ミスターシービーシンボリルドルフに次ぐ三年連続三冠が期待されたが、直後に骨折して二冠目の東京優駿(日本ダービー)を断念。三冠を逃したが、秋に復帰して三冠目の菊花賞(GI)を戴冠し、クラシック二冠を果たした。その後は、二度目の骨折や、善戦を続けたりして1年間勝利から遠ざかったが、1987年、6歳初めから、アメリカジョッキークラブカップ(GII)、日経賞(GII)で復活の重賞連勝。続く天皇賞(春)(GI)を戴冠して3連勝を果たした。この直後に屈腱炎、三度目の故障離脱となり、競走馬を引退した。シンザン産駒の中で最も多く大タイトルを獲得し、シンザンの「最高傑作」と称された。

種牡馬としては、1993年NHK杯と1995年朝日チャレンジカップを優勝したマイシンザン、2001年愛知杯を優勝したグランドシンザンなどの父として知られる。記録更新を果たした父と同様に長寿であり、2014年まで生き、32歳で死没した。

デビューまで

誕生までの経緯

日進牧場

日進牧場は、北海道浦河町にある1962年開設の牧場である[6]。初めは育成事業に取り組んだが、1967年に用地を確保し、生産事業も開始した[6]。代表は谷川利男であり、牧場長は利男の子である谷川利昭が務めていた。近所には、本家である谷川牧場があり、利明は谷川弘一郎のいとこだった[6]

1972年、牧場は外国から繁殖牝馬を導入する。ヨーロッパに赴いて検分せず、書類だけで牝馬を選び、ラブナ、タイタイ、フィリバスターの3頭を輸入していた[6]。このうちラブナは早世していたが、フィリバスターの初仔の牡馬ホクトボーイ(父:テスコボーイ)は、1977年には、クラウンピラードカシュウチカラグリーングラストウショウボーイなどを沈めて天皇賞(秋)優勝、八大競走制覇を成し遂げていた[6]

残る1頭、タイタイは不受胎、死産を重ねながらも4頭の仔を遺した[7]。そのうちの1頭が、牝馬ナポリジョオー(父:ムーティエ)だった[7]。ナポリジョオーは、中央競馬で競走馬としてデビュー。タニノムーティエニホンピロムーテーカミノテシオなどを出したムーティエを受け継いで気性が激しかったが[8]、優れた運動能力の持ち主だった[9]。しかし球節をきたしたため、大成せず、9戦2勝だった[9]

管理した庄野穂積調教師の助言や、良血であることから早々と引退し、繁殖牝馬として日進牧場に戻る[9][10]。初年度となる1980年は、アイルランド生産でフランスで活躍したハードツービートと交配した。そして1981年、初仔となる鹿毛の牝馬が産まれたが、胸前が薄く、腹回りが充実しておらず、貧相な馬だった[9][11]。それを受けて同年、2回目は、腹袋が充実した内臓の強い仔を目指した[8]。谷川は交配相手に、腹袋の充実した「重心の低い[12]」(谷川利昭)種牡馬、日本で生産された種牡馬「内国産種牡馬」であるシンザンを選択する[8][11]

シンザン

シンザンは、北海道浦河町の松橋吉松牧場で生産された牡馬である。父は、イギリス生産のヒンドスタンだった[13]橋元幸吉が所有し、京都競馬場武田文吾厩舎から競走馬としてデビューし、無敗の6連勝で皐月賞を戴冠[14]。その後、いくらかの2着を挟みながらも東京優駿(日本ダービー)、菊花賞を制し、1941年セントライト以来、第二次世界大戦終結後初めて中央競馬クラシック三冠を成し遂げていた[15]。以降、年をまたぎながら連勝を重ね、7連勝で天皇賞(秋)を戴冠[16]。オープン競走2着を挟んで暮れの有馬記念も優勝し、奪取したタイトルの数から「五冠馬」と呼ばれた[17]。19戦15勝2着4回で引退し、生涯連対を達成していた[18]

シンザン

当時の馬産地では、外国から輸入された種牡馬が活躍しており「内国産種牡馬」は軽視されていた[19]。そんな中、シンザンは種牡馬、内国産種牡馬に転じる[19]。谷川牧場で繋養されたシンザンは、内国産軽視からシンジケートが実現せず、種牡馬としての人気も乏しかった[20]。それでも谷川功一郎が、種付け料なしでも構わないと妥協するなど普及に尽力し、何とか牝馬の数を確保していた[21][22]。集まった牝馬は、決して良血ではなかったが、それらの産駒が、続々活躍し始める[20][22]。その影響で馬産地では、シンザンや内国産種牡馬の冷遇を見直す気運が高まり、シンザンのもとに集まる繁殖牝馬も増加するようになった[23]。以来、軌道に乗ったシンザンは、数多くの重賞優勝産駒を輩出する[24]。果てには、内国産種牡馬の筆頭に上り詰め、それまで全て輸入種牡馬で占められていた種牡馬リーディング上位にただ1頭食い込んだ[25][24]。この後に、内国産種牡馬アローエクスプレストウショウボーイなどが台頭することになるが、その土壌を醸成した先駆けは、シンザンだった[26]

このように種牡馬としても大きな成功を収めたシンザンだったが、クラシック八大競走など大タイトルを制する産駒だけには、恵まれていなかった[24]。1974年優駿牝馬(オークス)は、産駒のスピードシンザンがトウコウエルザ(父:パーソロン)に及ばず2着、1978年菊花賞は、キャプテンナムラインターグシケン(父:テスコボーイ)に及ばず2着にはなっていたが、優勝はしていなかった[25]

そのような産駒が現れないままに、シンザンは、年を重ね21歳となる[27]。そんな頃に、ナポリジョオーと結びつき、ナポリジョオーは、腹に仔(後のミホシンザン)を孕んでいた[5]。受胎中の1981年11月の菊花賞にて、谷川牧場で生産されたシンザン産駒のミナガワマンナが優勝を果たしている[28]。よってシンザン産駒クラシック初優勝が果たされ[29]、これが、シンザン産駒最後の大物だと叫ばれるようになっていた[27]。その翌年である1982年4月16日、日進牧場にて、ナポリジョオーの2番仔である鹿毛の牡馬(後のミホシンザン)が誕生する。シンザンは右肩下がりで交配数を減らし、1987年に種牡馬を引退することになるため、この2番仔は、シンザン晩期の産駒だった[30]

幼駒時代

誕生直後の2番仔は腹部の充実した「卵型[5]」(谷川利昭)の体型で、繋ぎが柔らかく、外観こそ良くなかったが[8][5]、谷川の狙い通りだった[31]。そして生まれて1か月後、牧場を訪れた馬主・堤勘時が2番仔に興味を示した[5]

堤は、1926年に茨城県稲敷郡茎崎町で生まれた。同県取手市で不動産会社・山一産業を経営しており、美浦トレーニングセンターが近くにあったことから、冠名「ミホ」を用いていた[32]。戦時中は騎兵隊員として召集された過去があった。中国出征のために輸送艦「羅針丸」に乗り、日本海を航行していたが、魚雷を受けて海に投げ出されている[5]。その際、多くの兵士が海に沈む中、堤は同じく投げ出されて藻掻いていた軍馬1頭に偶然しがみついて、死線をくぐり抜けていた[5]。その後は、しばらく馬券を嗜んでいたが、1965年有馬記念にて、シンザンが大外、外ラチ沿いから追い込み引退レースを制したことに感動を覚えて、馬主になろうと決意する[8]。具体的に「シンザンの仔でクラシックを勝ちたい」という夢を持つようになった[9]。堤は馬主となり次第、シンザン産駒を購入し始めた。所有したシンザン産駒は5頭[注釈 1]を数えたが、いずれも出世しなかった[32]

シンザンが年を重ね、残り時間がない中、堤は夢を叶えるために、産駒探しに貪欲となる。そのため、産駒誕生を知るとすぐに牧場に向かっていた。そして1982年、他の牧場の紹介で日進牧場を訪れ、2番仔と対面する。堤は、2番仔を一目見て、どういうわけか直感で走る、これまでの産駒と何かが違うと確信していた[31]。対面には、調教師の山岡浩久を同伴させていたが、山岡は充実した腹部を「タヌキみたい」と嫌って2番仔を見向きもしなかった[5]。しかし堤は諦めず、代わりに調教師の田中朋次郎を同伴させて、再び牧場を訪れていた[5]。関西所属の調教師も目をつけていた事実もあり、堤はその場で購入を決意[31]。牧場は1200万円を提示したが、値切って1000万円で購入した[8]。次第に堤は、時期的にも2番仔を自身が所有する最後のシンザン産駒だと考えるようになっていた[8]。そこで2番仔に「とっておきのシンザン産駒」のために温めておいた馬名案を与える。2番仔は、冠名「ミホ」に父名「シンザン」を組み合わせた「ミホシンザン」となった[31]

2歳となったミホシンザンは、北海道新冠町の日高軽種馬育成公社で育成されると、馬体は様変わりし逞しくなった[8]。この間に堤は、田中厩舎の厩務員である高橋治男を呼び出し、ミホシンザンの写真を見せて「ダービーを取れる馬だから、きみ、やってくれや[5]」と述べていた。3歳9月、ミホシンザンは美浦トレーニングセンターの田中厩舎[注釈 2]に入厩する。しかし直後に右前脚のソエがあり、デビューの予定が狂うこととなる[9]。切り替えて年末でのデビューを予定したが、直前でミホシンザンが過度に興奮してしまったために回避[35]。3歳のうちにデビューすることができなかった[35]

デビューを前に、堤はミホシンザンの騎手に柴田政人を起用している[8]。堤は、柴田の所属する高松三太厩舎にも馬を預けており、柴田を重用していた[5]。1973年から1974年にかけてのクラシックは、ミホランザン(父:ミンシオ)に堤、高松、柴田の布陣で挑んでおり、朝日杯3歳ステークスを優勝したほか、皐月賞ではキタノカチドキコーネルランサーに及ばず3着となっていた[32]。さらに堤が「羅針丸」で方々に散った戦友と再び会うために命名したヒンドスタン産駒「ミホラシンマル」という堤の大きな過去を背負った馬に起用されたのも、柴田だった[5]。柴田は、馬事公苑での長期騎手養成課程での研修中に初めて競馬場を訪れた際、初めて見たレースが1964年、シンザンの勝利した東京優駿だった[9]。このレースに感動を覚えた柴田は「シンザンのような馬に乗りたい」という夢を抱くようになり、騎手で立身する一つの動機となっていた。そんな頃、柴田とシンザン産駒ミホシンザンが結びついていた[9]

競走馬時代

4歳(1985年)

クラシックまでの道程

1月6日、中山競馬場新馬戦(芝1600メートル)でデビュー、1番人気に推された。好スタートから2番手を確保する[9]。しかしミホシンザンはそこに留まらず、2コーナーに差し掛かるあたりで自ら進み、ハナを奪取していた[9]。以後馬なりで独走、後続に9馬身差をつけて決勝線を通過、初勝利を挙げた[8]。続いて2月23日、同じく中山の水仙賞(500万円以下、芝2000メートル)に再び1番人気で参戦。スタート直後に躓き、新馬戦と異なる中団待機策となった[8]。それでも、馬群の外を通って進出し最終コーナーを3番手で通過[9]。直線で末脚を繰り出し、全て差し切りを果たす。後続に2馬身半差をつけて優勝、2連勝とした[9]

これによりクラシック戦線に乗り、ミホシンザンは、皐月賞のトライアル競走であるスプリングステークスを予定する。ただしクラシックや天皇賞優勝騎手の柴田には、同じくクラシックに臨むお手馬が他に3頭おり、取捨選択する必要に迫られていた[36]。まずそのうちの1頭であるドウカンテスコは、同じ田中厩舎だった。テスコボーイ産駒、デビューから4戦2勝2着2回、弥生賞こそ9着だったが柴田は継続を希望する[12]。そのため田中は、ミホシンザンと柴田のために融通を利かせ、ドウカンテスコをスプリングステークス前日のすみれ賞に回す措置を講じ、重複を一つ解消した[12]

ただし残り2頭、スクラムダイナサザンフィーバーは、ミホシンザンと同じく、スプリングステークスを予定しており、ミホシンザンと完全にかち合ってしまう。スクラムダイナは、デビュー3連勝で3歳暮れの朝日杯3歳ステークスを優勝、優駿賞最優秀3歳牡馬であり、3戦無敗のディクタス産駒だった。サザンフィーバーは、4戦2勝2着3回、新馬戦はスダホークなどを9馬身千切って優勝、共同通信杯4歳ステークスでは大物と目されながら故障により春全休のサクラユタカオーに及ばずの3着であり、何より未出走のベストブラッド産駒、初年度産駒1頭のうちの1頭として注目を集めていた[37]。柴田は、特に負け知らずのスクラムダイナとミホシンザンの取捨選択を悩みに悩み[36]、最終的にスクラムダイナの調教師矢野進による岡部幸雄起用宣言という後押しや、シンザンや堤との縁から、ミホシンザンを選択する[37]。サザンフィーバーには増沢末夫があてがわれた[12]

依然としてソエは解消されていなかったが、3月24日のスプリングステークス(GII)で重賞初出走となる。スクラムダイナ、サザンフィーバーのほか、関西の3歳王者決定戦である阪神3歳ステークス優勝のダイゴトツゲキ、3戦無敗のマルゼンスキー産駒ブラックスキー、条件戦を勝ち上がったクシロキングなどが顔を揃えた中、ミホシンザンは1番人気となる[12]。4枠4番からスタートし、サザンフィーバーが逃げる中、中団を追走した[12]

稍重馬場に苦戦しながらも、第3コーナーから最終コーナーにかけて外から進出。直線では先頭のサザンフィーバーを大外から追いかけたが、サザンフィーバーの末脚鋭く、突き放されて及ばなかった[12]。しかしサザンフィーバーが残り300メートルほどで、芝に脚をとられて転倒し競走中止する[12]。そのため代わって先頭となる[36]。転倒した直後を走った馬などが、回避行動を強制されたのに対し、ミホシンザンは他に邪魔されずに末脚を発揮し、決勝線に到達した[12][5]。2着スクラムダイナに1馬身4分の3馬身差をつけて重賞初勝利を果たす[38]。皐月賞の優先出走権を獲得する[38]

一方、勝利目前で転倒したサザンフィーバーは、左第3中手骨骨折並びに第1指関節開放脱臼しており[38]、まもなく安楽死処分となっている。柴田は、下したもののスクラムダイナについて「スクラムダイナも久しぶりにしては、強いレースをしていると思う。この2頭の比較(ミホシンザンとスクラムダイナ)にしても、まだ甲乙つけにくい段階のような気がする。[12]」としていた。

皐月賞

続いて4月14日、クラシック初戦の皐月賞(GI)に臨む。持病の右前脚のソエ、左前脚の深管骨瘤が解消されておらず、直前の調教を軽めにこなすなど、万全とは言えない状態での参戦となった[39][注釈 3]。柴田は続投。ドウカンテスコは、柴田とすみれ賞を制して臨んでいたが、大塚栄三郎に乗り替わっていた[12]。22頭が出走する中、2.9倍の1番人気に推される[39]。皐月賞は、前々年はミスターシービーが優勝、前年はシンボリルドルフがいずれも抜けた1番人気に応えて優勝、その後、ミスターシービーはシンザン以来のクラシック三冠を成し遂げ、シンボリルドルフは、史上初めてとなる無敗のクラシック三冠を成し遂げていた[41]。すなわちこの年は、3年連続三冠が期待されており、ミホシンザンはその筆頭候補となっていた[39]

しかしこの年は、2番人気以降が、弥生賞2着サクラサニーオー4倍、同優勝スダホーク6倍、スクラムダイナ6倍、ブラックスキー9倍と続く「五強[39]」(粕谷彰夫)状態であり、ミホシンザンの人気は過去2年に比べて抜けたものではなかった[39]。混戦は、皐月賞史上2番目の馬券売り上げをもたらしていた[39]。ミホシンザンの状態は直前でも悪かったが、陣営はそれを隠してなるべく良く見せようとする[42]。具体的には、パドックでは転倒を防ぐために意図的に大きく周回させるなど工夫がなされた[42]

映像外部リンク
1985年 皐月賞(GI
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

5枠13番からスタート。ドウカンテスコがハナを奪取し逃げて、スローペースを刻む中、好位を追走した[43]。向こう正面では、ペースに乗じて馬なりで位置を上げて、前との距離を縮めた[44]。第3コーナー手前で2番手を捉え、コーナー過ぎで逃げるドウカンテスコに代わって先頭となった[39]。追われる立場として直線を迎えるが、ミホシンザンの末脚は鋭く、他を突き放していた[43]。以後独走、大外から追い込むスクラムダイナやサクラサニーオーを寄せ付けなかった[44]。後続に5馬身差をつけて決勝線を先頭で通過する[45]

皐月賞優勝、史上12頭目となる無敗での優勝を果たした[39]。またトウショウボーイ、ミスターシービー父仔以来史上2組目の父仔皐月賞優勝だった[39]。柴田は1978年ファンタスト以来の皐月賞優勝、田中は厩舎開業30年目で初めてクラシック優勝を果たした。5馬身は皐月賞史上4番目に大きな着差であり、シンボリルドルフのレースレコードには稍重が阻んで及ばなかったものの、皐月賞史上2番目に早さで走破していた[39]。一冠目を制したことにより、ミスターシービー、シンボリルドルフに続く3年連続三冠を目指す資格のある唯一の馬となる。皐月賞のパフォーマンスから、父仔三冠達成は現実味があるとされ、大きな期待を集めた[44]

故障

しかし皐月賞から3日後の4月17日、脚部の違和感が確認される[46]。皐月賞はなんとか走り切ったが、脚元は既に限界だった[47]。即日、トレーニングセンター内の診療所に移り、外観を診られたが、それだけでは原因を突き止めることができなかった[46]。ところが翌18日朝、レントゲンを用いた精密検査をしたところ、左前脚の膝にわずかな亀裂が見つかり、左第三手根骨の骨折、全治3か月が判明する[46]。痛めていた右前肢をかばって走り、左前肢をきたす結果となった[48]。したがって二冠目の東京優駿出走が不可能となり、ミスターシービー、シンボリルドルフに続く3年連続三冠達成の夢は立ち消えとなる[49]。ミホシンザン不在の東京優駿は5月26日、苦手の曇天の重馬場で行われ、未対戦のシリウスシンボリが優勝していた[注釈 4]

一方のミホシンザンは、同じ日に厩舎を退いて新冠町の育成公社に移り、放牧休養となる[48]。骨折は軽度だったため、休養中も高橋に曳かれて歩く運動(曳き運動)と調教を毎日積んでいた[50]。高橋は、異例の放牧帯同を志願して新冠に向かい、毎日つきっきりで世話をしていた[48]。移動直後は、原因不明の微熱があり、調教を休んでいたが、陣営と関係の深い新冠町の淵瀬ファームの淵瀬健一の、オトコヤマ[注釈 5]という薬草を用いた治療などにより、まもなく治癒している[51]。放牧地は、石ころが散乱していたが、砂が敷かれるなど、ミホシンザンが走りやすいように工夫された[51]。完治したミホシンザンは、7月中旬には函館競馬場に入厩し、8月にはキャンターを開始[52]。秋の目標を、三冠目の菊花賞に定めることができた[52]

9月8日に田中厩舎に帰厩し、9月29日、セントライト記念(GIII)で始動する[52]。函館記念で年上ウインザーノットに肉薄したタイガーボーイ、ダービー8着グリーングラス産駒のグリーンカップ、病死した中島啓之から小島太に乗り替わったトウショウサミット、横滑りで小島から東信二に乗り替わったサクラサニーオーら相手に、唯一の単枠指定となり、1.3倍の1番人気だった[53][54]。ただし調教を加減して太目だった[54]。さらに雨が降っており、爪の形状的に不得手だった不良馬場を走ることとなった[54]

スタートの後、好位3番手を追走し追い上げた。しかし馬場に脚をとられ、末脚が利かなかった[55]。敢えて内を突いた加賀武見とタイガーボーイにかわされ、さらにグリーンカップ、サクラサニーオー他にも及ばなかった[53]。4頭に先着を許す5着、デビュー以来の連勝が止まる初の敗北だった[53][56]。当初は、セントライト記念からの直行を考えていたが、敗北したことにより急遽、もう1戦挟むことにする。よって早めに関西遠征を行い、栗東滞在をして菊花賞を目指した[57]。10月中旬に、田中厩舎の4頭を連れて栗東に移動した[57]

10月20日、トライアル競走である京都新聞杯(GII)に臨む。ダービー2着のスダホーク、神戸新聞杯優勝のスピードヒーロー、同3着のフリートホープ、骨折明けのサクラユタカオーが相手だったが、信頼揺るがず再び単枠指定、1.5倍の1番人気だった[58]。ミホシンザンは、スタートから後方を追走、第3コーナーから最後方まで位置を下げていた。しかし直線で馬群の間を割り、末脚を伸ばして盛り返した[55]。前を行くスピードヒーロー、フリートホープをかわして抜け出し、先頭で決勝線を通過する[55]。後方に2馬身差をつけて重賞3勝目、優先出走権を獲得する[58]。当日は、病院で臥しているシンザンの調教師、武田文吾が競馬場に出向いており、優勝直後の記念撮影に加わっている[59]。反対に田中は「俺は菊花賞で撮ってもらうからいいさ」と入らなかった[59]

菊花賞

そして11月10日、菊花賞(GI)に臨む。シリウスシンボリがヨーロッパ遠征に出かけて不在の中、ミホシンザンはただ1頭の単枠指定、1.8倍の1番人気となる[60][61]。単勝支持率は42.9パーセントで1頭抜けていた[62]。当日は初め雨が降り、ミホシンザン苦手の稍重馬場だったが、発走が近づくにつれて晴れて、限りなく良馬場に近い状態となった[62]

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1985年 菊花賞(GI
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

6枠12番からスタートしたミホシンザンは、約6番手の好位、中団を確保する[62]。スダホークやサクラサニーオー、サクラユタカオーなど対抗馬からのマークを受けながら、淀みのない平均ペースを追走していた[63][64]。2周目の第3コーナーは、馬場コンディションが悪く、ミホシンザンは滑って仕方がなく、走る気を失ってしまっていた[59]。そこで柴田は手綱を絞るという行動に出て、ハミ受けが良化、再起を果たした[65]。さらにその柴田のアクションが、図らずも周りのライバルたちを促した[64]

ライバルたちは、マークを棄てて、スパートを開始する。しかしミホシンザンは、そこでは動かなかった[64]。坂を下りきり、最終コーナーに達してからスパート、外から進出する[64]。直線では馬場の中央から末脚を繰り出した[61]。末脚は鋭く、サクラユタカオーやスダホークらのマークを振り切り、置き去りにして独走となった[59]

後方に1馬身4分の1差をつけて決勝線を通過した[60]。菊花賞優勝[注釈 6]。皐月賞に続きクラシック二冠を果たす。1949年トサミドリ、1954年ダイナナホウシュウ、1974年キタノカチドキに続く史上4頭目となる皐月賞と菊花賞のクラシック二冠制覇だった[67]。またミナガワマンナに続いて父仔優勝を成し遂げていた[65]

続いて12月22日、有馬記念(GI)に臨み、古馬との初対戦となる。1歳年上のクラシック三冠馬、「シンザンを超えた[41]、肩を並べた[68]」と称されたシンボリルドルフとの対決となった[69]。他にニシノライデンギャロップダイナヤマノシラギクなどが揃う10頭立てだったが、関心の多くは三冠改め六冠馬と二冠馬の優劣だった[70]。2頭は「二強」、頭文字から「SM対決[71]」と持ち上げられ、共に単枠指定となる[72][70]。人気も2頭に集中したが、シンボリルドルフが1.2倍の1番人気で特に抜けており[69]、対するミホシンザンは、5.9倍の2番人気だった[70]

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1985年 有馬記念(GI
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

ミホシンザンはハイペースの8番手、シンボリルドルフは3番手に位置していた。ミホシンザンは、2周目の向こう正面にて進出を開始し、第3コーナーから進出していたシンボリルドルフとの距離を縮め、最終コーナーをシンボリルドルフの背後で通過し、逆転を目論んだ[70]。しかし直線で末脚を繰り出したシンボリルドルフには敵わず、突き放された[73]。独走を許して2着となる[74]

1967年1着カブトシロー、2着リュウファーロスや1974年1着タニノチカラ、2着ハイセイコーに次いで、有馬記念史上3番目の着差となる4馬身差での敗北となった[72][70]。シンボリルドルフとミホシンザンの連勝複式は、1977年テンポイントとトウショウボーイの240円を上回る160円、有馬記念史上最少配当だった[74]

この年の優駿賞では、投票総数138票のうち136票を集めて最優秀4歳牡馬、131票を集めて最優秀父内国産馬を受賞した[75]。またフリーハンデでは「64」が与えられる[76]。3年連続の二冠以上となったが、三冠馬ミスターシービー「65」、シンボリルドルフ「67」に、いくらか劣る取り扱いだった[76]。以下東京優駿優勝馬のシリウスシンボリが「63」、スクラムダイナやスダホーク「59」と続いていた[76]

5歳(1986年)

二度目の故障、四連続重賞3着

年をまたいで古馬となった1986年、春は天皇賞を目標とした[77]。シンボリルドルフがアメリカ遠征に出かけて不在の中、戦線の中心的な存在に成り上がった[78]。休養の後、3月30日の日経賞(GII)で始動した。日経賞始動は、前年暮れの有馬記念で七冠に到達したシンボリルドルフと同じだった[78]。単枠指定[79]、抜けた1番人気の支持だったが、馬場状態は重だった[78]。ミホシンザンは中団を追走となる[78]。しかし重馬場に脚をとられ、促されても全く進まなかった[78]。抜け出すことがないまま決勝線に到達、優勝のチェスナットバレーに7馬身以上後れを取る6着だった[79]

この後は天皇賞(春)で再起を果たすつもりだったが、日経賞4日後の4月3日、脚部の違和感をきっかけにレントゲン検査をしたところ、古傷の左第三手根骨の骨折再発が判明する[80]。日経賞レース中に発症したもので、状態は前年より悪く、全治は倍の6か月だった[80]。よって目標の天皇賞(春)参戦は叶わなかった。それでも骨折の具合は軽く、現役続行、秋に復帰を果たした[77]

10月5日、天皇賞(秋)の前哨戦である毎日王冠(GII)で復帰する。1番人気に推されたが、終いで伸びあぐねてぬけだすことができなかった[81]。同期のサクラユタカオーのレコードタイムの走りに屈し、1歳年下4歳馬のニッポーテイオーの逃げを捉えられず3着となる[81]。続く10月26日の天皇賞(秋)(GI)は、叩き2戦目の上がり目が期待された。サクラユタカオーとの一騎打ちと目されたが、こちらが高く評価されて1番人気に支持された[82]。ミホシンザンは中団8番手、好位6番手のサクラユタカオーを見据える位置だった[83]。直線では進出するサクラユタカオーの後を追う形となったが、反対に突き放される。伸びあぐねて、独走を許した[83]。再びレコードで駆けたサクラユタカオーに4馬身以上敵わず、逃げ粘るウインザーノットにも1馬身半以上及ばない3着だった[84]

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1986年 天皇賞(秋)(GI
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画
1986年 ジャパンカップ(GI
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それから11月23日、ジャパンカップ(GI)に臨む。7頭の外国調教馬を迎えた14頭立てとなる中、ミホシンザンは4番人気[85]。サクラユタカオー、ニュージーランドのアワウェイバリースター、フランスのトリプティクに次ぐ支持だった[85]。好位で直線に向き、先に抜け出したイギリスのジュピターアイランドとアレミロードの内側から追い上げた[86]。しかしその2頭が競り合う日本レコードの走りには敵わず、それらに1馬身4分の1後れを取る3着[87]。ただしラグビーボール、サクラユタカオーには先着し、日本調教馬最先着は果たした[85]

続いて12月21日の有馬記念(GI)に参戦する。この年は、三冠馬シンボリルドルフが国内で走ることなく引退し、入れ替わるようにメジロラモーヌが史上初となる牝馬三冠を果たすという出来事があった[88]。三冠達成直後のメジロラモーヌ、そして天皇賞(秋)優勝直後のサクラユタカオーはこの有馬記念を引退レースと決めていた[88]。それでもファン投票では、ミホシンザンは、その2頭を退けて1位となる[88]

勝利から遠ざかっていたが見限られたわけではなく、ファンからは当然千羽鶴や電報が届いたほか、苦手の道悪馬場にならないように当日の好天を願うてるてる坊主も届けられたという[88]。また12月3日には、シンザンの調教師である武田が死去していた[89]。通夜に参加した田中は霊前にミホシンザンの飛躍を決意していた[90]。このためミホシンザンは、周囲の期待と武田の弔い合戦に応えなければならなかった[90]。当日は、1番人気に支持される。ただし当日は雨が降り、苦手の稍重馬場だった[90]

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1986年 有馬記念(GI
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

1枠1番からスタートして中団に位置。第3コーナーから外に持ち出して追い上げたが、道悪で思うように進まなかった[90]。最終コーナーにかけて、ミホシンザンを含めた各々が、逃げるレジェンドテイオーの背後まで極まる。直線に向いてから各々仕掛けて末脚比べとなった。ミホシンザンは抜け出しかけたが、内から抜け出した東京優駿優勝の4歳馬ダイナガリバーの末脚に敵わず、突き放された[90]。終いには大外から追い込んだギャロップダイナにもかわされ、優勝したダイナガリバーに約1馬身、ギャロップダイナに半馬身敵わず3着だった[91]

4連続3着、5戦未勝利に終わったこの年だったが、優駿賞ではGI競走3着やジャパンカップでの日本調教馬最先着が高く評価され、139票中52票を集めて最優秀父内国産馬を受賞している[92]。神戸新聞杯と京都新聞杯優勝の4歳アローエクスプレス産駒のタケノコマヨシ、札幌記念ウインターステークス優勝の5歳ハイセイコー産駒ライフタテヤマを42票、35票などに抑えたうえでの選出だった[93]。また、最優秀古馬(牡馬)選考でも139票中4票を獲得し、サクラユタカオー、クシロキングに次いで、ギャロップダイナと並ぶ第3位だった[93]

6歳(1987年)

重賞連勝

6歳となっても現役を続行、この年一杯での引退は決定していた。しかし1年以上勝利から見放される状況に、競馬サークル内では、旬を過ぎた「過去の馬」と考える向きが強くなっていた[94]。その状況を覆したい堤は、年明けに田中ら陣営を集めて食事会を催し、ミホシンザン復活の方策を練り、「まずは『勝ち運』をつけてあげよう[64]」という結論に至る[95]。そのために1月25日、アメリカジョッキークラブカップ(GII)に参戦した[95]

クシロキング、スズパレードが相手の6頭立ての中、1番人気の支持だった。少頭数に加えて先行馬がおらず、緩いペースとなると目されていた[94]。そんな中、ミホシンザンは逃げに出る[95]。柴田は当初クシロキングがハナを切ると考えていたが、クシロキングほか皆が主張しなかったため「しかたなく[94]」(柴田)講じた策だった。スローペースを刻み、第3コーナーからピッチを上げ、逃げたまま直線に向いてスパート[64]。後方待機のクシロキング、スズパレードに詰め寄られたが、並ばれることなく逃げ切った[94]。スズパレードやクシロキングに1馬身差をつけて先頭で決勝戦を通過する[96]

菊花賞以来1年2か月ぶりの勝利を果たす[94]。この直後には、ファンの拍手が発生していた。水戸正晴によれば「GIレースでもないのに、これだけスタンドを揺るがしたことが、かつてあっただろうか。そう思うほどの激しさ[94]」の拍手を受けていたという。直後の記念撮影では、田中は「天皇賞を勝つまで、ワシは一緒に撮らんよ[94]」と再び加わらなかった[94]。。

この復活により、陣営は前年出走できなかった春の天皇賞参戦が具現化する。その前哨戦に臨むにあたり、田中は、前年と同様に日経賞を提案したが、堤は骨折した日経賞を嫌い、阪神大賞典を希望していた[64]。しかし田中は、阪神大賞典の時期の阪神の馬場状態が悪いことを把握していた。そこで、堤に確勝を約束して説得し、日経賞参戦が決定した[64]

4月5日、日経賞(GII)に臨む。7頭立てとなる中、ダイナガリバーとの有馬記念以来の再戦が注目を集めていた[97]。人気は、2頭に集中したが、有馬記念で敗れたミホシンザンが僅差で1番人気だった[98]。1枠1番からスタートしたミホシンザンは、前回のように逃げなかった。先導役をレジェンドテイオーに譲り、ダイナガリバーも行かせた4番手、ややスローペースの中団を追走していた[98]。2周目の第3コーナーから馬群が一団となり、ミホシンザンも外に持ち出して追い上げを開始する[95]。最終コーナーで先行勢に取りつき、直線で先頭を奪取する[95]。まもなく末脚を発揮して、ダイナガリバーらを千切っていた[97]。以後、後続の追い上げ寄せ付けず独走[95]。ジュサブロー、ダイナガリバーらに5馬身差をつけて、先頭で決勝線を通過、重賞連勝を果たした[99]。田中は、アメリカジョッキークラブカップでは、勝利を挙げたものの、内容的に満足していなかった[98]。しかし日経賞は「満点」を与えていた[98]

天皇賞(春)

栗東での滞在を経て4月29日、天皇賞(春)(GI)に臨む。ダイナガリバーとの再々戦、菊花賞優勝のメジロデュレン京都記念優勝のシンチェスト、日経賞2着のジュサブローなどとの対決が期待されたが、骨折や体調不良などでおしなべて回避していた[100]。よって10頭での競走となる[101]。ミホシンザンは、唯一の単枠指定に祭り上げられた[102]サンケイ大阪杯優勝から臨むニシノライデン、阪神大賞典優勝から臨むスダホーク、前年の皐月賞並びに東京優駿3着のアサヒエンペラー、前年の天皇賞(春)優勝のクシロキングが立ちはだかったが、ミホシンザンは単勝オッズ1.3倍、抜けた1番人気だった[101]。ただし調整過程でコズミをきたしたり[67]、腰に疲れがあったりして、万全とは言えない状態での参戦だった[103]

映像外部リンク
1987年 天皇賞(春)(GI
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

6枠6番からスタート、シンブラウンが逃げてスローペースで先導する中、中団を位置した[104][105]。道中は、中団外にいたアサヒエンペラーにしつこく絡まれながらの追走だった[101]。アサヒエンペラーがすぐ外で陣取っていたために、こちらの進路が塞がれ、不利を多分に被る場面もあった[106]。アサヒエンペラーとの並走は、2周目の第3コーナーまで続いていたが、柴田は観念して、マークを剥がす作戦に出る[106]。加減してアサヒエンペラーを先に行かせて、後を追う形となり、第3コーナーの坂の下りでステッキが入りながら追い上げた[106]。前方では、抜け出したニシノライデンにアサヒエンペラー、マルブツファーストが取り付き、ミホシンザンはその背後の好位まで接近して、後れを取り戻す。この4頭が、馬場の外側に密集して最終コーナーを通過していた[101]

直線に入ると、ミホシンザンは他3頭とはぐれて、内に切れ込み始めた[104]。内ラチ沿いに達しながら末脚を発揮して、先頭を窺うが、差し切って突き放すだけの威力はなかった[107]。外のニシノライデンに抵抗されて、内外並んで、離れての叩き合いに発展する[101]。その叩き合いは、優劣がつかないまま続き、果ては、横一線同時の決勝線通過と相成った[105]

2頭の勝敗は写真判定に委ねられたのに加え、ランプが点灯して審議となった[105]。まず着順が明かされ、ミホシンザンがニシノライデンにハナ差先着が判明する[108]。そして審議は、直線でのニシノライデンの走法が対象であり、ミホシンザンに関係するものではなかった[注釈 7]。すなわち、ミホシンザンの優勝が確定する[108]。GI3勝目を挙げる[109]。春を休養し、秋を惜敗した1年を挟んでの天皇賞戴冠だった[110]。1948年春シーマーと1955年春タカオー父仔、同じくシーマーと1955年秋ダイナナホウシユウ父仔、そして1970年秋メジロアサマと1982年秋メジロティターン父仔に続いて史上4組目となる天皇賞父仔制覇を成し遂げている[106]。この段階でのJRA-GI3勝は、7勝のシンボリルドルフに次ぎ、メジロラモーヌとニホンピロウイナーに並ぶ史上2位タイだった[109]。柴田は、1980年秋プリテイキャスト、1983年秋キョウエイプロミスに続いて天皇賞3勝目だった[104]

引退

天皇賞(春)を制した後のミホシンザンは、駈歩もできない程に疲労困憊しており[103]、6月の宝塚記念ではファン投票1位になったものの出走できなかった。切り替えて秋の復帰を目指し、函館競馬場で調整されたが、回復しなかった[103]。果ては、調整中に右前脚に屈腱炎を発症[111]。10月21日、堤から競走馬引退が発表された[111]。GI3勝の活躍は、20頭いるシンザンの重賞優勝産駒の中で最高の成績であり、シンザンの送り出した「最高傑作」となった[30]

引退式は、12月6日に行われる予定だったが、雪のために1週間延期となり、12月13日の中山競馬場で行われた[112]。延期しても雪は降り、競馬開催は、第2競走で打ち切り、その後に引退式が行われている[112]。これまで雨中の引退式としては、ミスターシービーの引退式があったが、史上初めて雪が降る中行われた引退式だった[113]。天皇賞(春)を制した時のゼッケン「6」を着用して、ダートコースを走行して最後の決勝線通過を果たしている[113][104]

この年のJRA賞では、全143票中72票を集めて最優秀父内国産馬を受賞[114]、3年連続受賞を果たしている[115]。また17票を集め、最優秀5歳以上牡馬の次点となった[114]。競走馬を引退し、厩舎を退いたミホシンザンは、12月17日に北海道浦河町の谷川牧場に到着している[116]。牧場では、28歳になる父シンザンが待ち構えており、父仔の初対面が実現している[116]

種牡馬時代

1988年から、父シンザンが繋養されている谷川牧場で種牡馬となる。シンザンは前年の1987年に種牡馬を引退しており、種牡馬としては入れ違いでの供用だった[117]。供用にあたっては、一口1000万円全55株の総額5憶5000万円のシンジケートが結成されていた[104]。初年度の1988年から8年目の1994年まで、余勢株もあって55頭以上の繁殖牝馬を集め続けた[104]。供用6年目の1993年からは谷川牧場を退き、イーストスタッドに移動している[104]。イーストスタッドの場長によれば、種付け時の腰の使い方が上手であり、どんな牝馬にも一発で射精することができる才能の持ち主だったという[104]。10年目の1997年以降は凋落し、数頭の繁殖牝馬を集めることができなかった[118]。谷川牧場主、浦河町の谷川弘一郎は「50年、100年と続くシンザンのサイアーラインを残すことが私の夢だ」と述べていたが、ヒンドスタン、シンザン、ミホシンザンというラインでは時代に適わなかった[103]。好景気にまかせて輸入種牡馬が多数輸入されており、サンデーサイレンスブライアンズタイムトニービンなどには敵わず[119]、サイアーラインは尻すぼみ、父シンザン越えは叶わなかった[103][119]。2002年に種牡馬を引退する[2]

産駒は、1991年から2005年まで日本競馬で走っている[118]。341頭が7500回走り、185頭で617勝を挙げ、中央地方の重賞を5勝した[118]。2年目産駒のマイシンザン(母父:パーソロン)は、1993年のNHK杯(東京優駿トライアル)(GII)にてガレオン、サクラチトセオートーヨーリファール、ツジユートピアンなどを下して優勝[120]。続く東京優駿では、ウイニングチケットビワハヤヒデナリタタイシン、ガレオンに次ぐ5着。それから翌々年の1995年、朝日チャレンジカップ(GIII)も優勝した[120]。また6年目産駒のグランドシンザン(母父:ラシアンルーブル)は、2001年の愛知杯(GIII)を制した[121]。中央競馬では、重賞優勝はこの3つに留まった[118]

種牡馬引退後のミホシンザンは、日高町の谷川牧場清畠事業所で功労馬として繋養された[2]。30歳に到達する長寿となったが、父シンザンの持つ35歳3か月(1996年没)という最長寿記録更新が期待されたが、叶わなかった[122]。シンザンより3年早い32歳だった2014年12月4日、谷川牧場で心臓麻痺により死亡する、シンザンにはまたしても敵わなかった[122][123]

競走成績

以下の内容は、netkeiba.com[124]並びにJBISサーチ[125]、『優駿[2]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離
(馬場)



オッズ
(人気)
着順 タイム 着差 騎手 斤量
[kg]
1着馬
(2着馬)
馬体重
[kg]
1985. 01. 06 中山 4歳新馬 芝1600m(良) 16 7 14 2.9(1人) 1着 1:36.1 -1.5 柴田政人 55 (マキノハタ) 484
02. 23 中山 水仙賞 4下 芝2000m(稍) 11 7 9 2.0(1人) 1着 2:02.6 -0.4 柴田政人 55 (モンテジャパン) 480
03. 24 中山 スプリングS GII 芝1800m(稍) 11 4 4 2.1(1人) 1着 1:49.5 -0.3 柴田政人 56 スクラムダイナ 476
04. 14 中山 皐月賞 GI 芝2000m(稍) 22 5 13 3.9(1人) 1着 2:02:1 -0.8 柴田政人 57 (スクラムダイナ) 472
09. 29 中山 セントライト記念 GIII 芝2200m(不) 10 3 3 1.8(1人) 5着 2:21.0 -1.5 柴田政人 56 タイガーボーイ 494
10. 20 京都 京都新聞杯 GII 芝2200m(良) 13 4 5 1.9(1人) 1着 2:14.5 -0.3 柴田政人 54 スピードヒーロー
(フリートホープ)
488
11. 10 京都 菊花賞 GI 芝3000m(稍) 18 6 12 2.3(1人) 1着 3:08.1 -0.2 柴田政人 57 スダホーク 488
12. 22 中山 有馬記念 GI 芝2500m(良) 10 2 2 5.9(2人) 2着 2:33.8 -0.7 柴田政人 55 シンボリルドルフ 490
1986. 03. 30 中山 日経賞 GII 芝2500m(重) 12 4 4 1.4(1人) 6着 2:36.5 -1.3 柴田政人 58 チェスナットバレー 494
10. 05 東京 毎日王冠 GII 芝1800m(良) 8 1 1 2.6(1人) 3着 1:46.6 -0.6 柴田政人 59 サクラユタカオー 494
10. 26 東京 天皇賞(秋) GI 芝2000m(良) 16 6 11 2.1(1人) 3着 1:59.0 -0.7 柴田政人 58 サクラユタカオー 494
11. 23 東京 ジャパンカップ GI 芝2400m(良) 14 4 6 7.5(4人) 3着 2:25.2 -0.2 柴田政人 57 ジュピターアイランド 498
12. 21 中山 有馬記念 GI 芝2500m(稍) 12 1 1 2.3(1人) 3着 2:34.2 -0.2 柴田政人 57 ダイナガリバー 498
1987. 01. 25 中山 アメリカJCC GII 芝2200m(良) 6 2 2 1.5(1人) 1着 2:15.4 -0.2 柴田政人 59 スズパレード 498
04. 05 中山 日経賞 GII 芝2500m(良) 7 1 1 2.2(1人) 1着 2:33.8 -0.8 柴田政人 59 (ジュサブロー) 494
04. 29 京都 天皇賞(春) GI 芝3200m(良) 10 6 6 1.3(1人) 1着 3:20.4 -0.2 柴田政人 58 アサヒエンペラー 496

種牡馬成績

年度別成績

以下の内容は、JBISサーチの情報に基づく[118]

種付年度 種付頭数 生産頭数 血統登録頭数 出走頭数 勝馬頭数 重賞勝馬頭数 AEI CPI
1988 57 43 42 34 19 0 1.59
1989 58 44 43 38 21 1 1.50
1990 59 53 51 44 20 0 0.71
1991 56 45 43 37 22 0 1.29
1992 56 49 49 44 25 0 0.63
1993 56 49 49 41 18 1 0.82
1994 66 50 49 41 25 1 0.48
1995 51 35 35 30 15 0 0.25
1996 42 32 34 28 17 1 0.31
1997 3 3 3 3 2 0.30
1998 2 2 1 1 1 0 0.30
2000 1 0 0 0
2002 1 1 0 0
合計 399 341 185 4 0.83 1.20

重賞優勝産駒

血統表

ミホシンザン血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 ボワルセル系
[§ 2]

シンザン
1961 鹿毛
父の父
*ヒンドスタン
Hindostan
1946 黒鹿毛
Bois Roussel Vatout
Plucky Liege
Sonibai Solario
Udaipur
父の母
ハヤノボリ
1949 栗毛
ハヤタケ *セフト
飛竜
第五バツカナムビユーチー *トウルヌソル
バツカナムビユーチー

ナポリジョオー
1975 栗毛
*ムーティエ
Moutiers
1958 栗毛
Sicambre Prince Bio
Sif
Ballynash Nasrullah
Ballywellbroke
母の母
*タイタイ
Tai-Tai
1969 栃栗毛
Will Somers Tudor Minstrel
*クヰーンスジェスト
Anneiv *ヴィエナ
Singing Sister
母系(F-No.) 9号族(FN:9-c) [§ 3]
5代内の近親交配 Gainsborough 5×5(父内)、Nearco 5×5(母内) [§ 4]
出典
  1. ^ JBISサーチ ミホシンザン 5代血統表2017年9月4日閲覧。
  2. ^ netkeiba.com ミホシンザン 5代血統表2017年9月4日閲覧。
  3. ^ JBISサーチ ミホシンザン 5代血統表2017年9月4日閲覧。
  4. ^ JBISサーチ ミホシンザン 5代血統表2017年9月4日閲覧。

脚注

注釈

  1. ^ すなわちミホシンザンは6頭目。5頭目と伝わる資料も存在する[33]
  2. ^ 田中は、日本調教師会会長だった。ミホシンザンの現役期間と被る1984年から1988年までの、4年間務めていた[34]
  3. ^ しかし調教が軽かったことは、公にされなかった。なぜなら、この調教が霧が立ち込めていたためだった。調教スタンドから見守る報道陣は、ミホシンザンの動きを初めから見ることができなかった[40]
  4. ^ ミホシンザンを失った柴田は、初コンビで青葉賞3着に導いたメジロジェスターに騎乗し、13番人気11着。ここでの柴田のダービー優勝は叶わなかった。なお柴田がダービー優勝するのは、8年後、ウイニングチケット#東京優駿(4歳5月30日)に導かれる。
  5. ^ 淵瀬によれば、北海道日高地方の深山に生える小さな草木。地域特有の呼び方[51]
  6. ^ 堤は、副賞として純金製の三つ重ね金盃を取得している。その金盃は東京都豊島区の本社事務所に保管されていたが、翌1986年6月に、侵入されて盗難されている[66]。同時に水仙賞勝利時の副賞十八金製飾り皿なども盗難されており、併せて時価631万円相当の被害だった[66]
  7. ^ 2位入線ニシノライデンは、直線で外側に斜行し、アサヒエンペラーの進路を塞いでいた。審議の結果、進路妨害が認定されて失格に処された。よって3位入線アサヒエンペラーが繰り上がり、2着となっている[108]

出典

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参考文献

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  • 江面弘也「ミホシンザン 浦河が育んだシンザンの血」『名馬を読む2』三賢社、2019年8月30日、ISBN 4908655146
  • 『忘れられない名馬100 - 関係者の証言で綴る、強烈な印象を残してターフを去った100頭の名馬』(学研、1997年)ISBN 4056013926
    • 高橋治男「偉大なるシンザンの後継馬 - ミホシンザン」
  • サラブレ編集部『日本名馬物語 - 蘇る80年代の熱き伝説』(講談社、2007年)ISBN 4062810964
  • 優駿』(日本中央競馬会
    • 1982年1月号
      • 石川喬司「【父を超える夢 PART2】浦河・谷川牧場 王者は健在だった」
      • 萩谷宗秀(報知新聞)「【今月の記録室】第42回菊花賞 父に大きな贈り物、ミナガワマンナ」
    • 1985年5月号
      • 森山毅(フジテレビ)「【今月の記録室】第34回フジテレビ賞スプリングステークス〈皐月賞トライアル〉(GII)ミホシンザン」
    • 1985年6月号
      • 粕谷彰夫(スポーツニッポン)「【今月の記録室】第45回皐月賞(GI)ミホシンザン」
      • 「【馬事往来】ミホシンザン骨折 復帰は秋から」
    • 1985年8月号
      • 志摩直人「【GIレース勝ち馬の故郷紀行】皐月賞馬の故郷 日進牧場 試行錯誤のロマン派」
    • 1985年11月号
      • 宮原逸雄(ラジオ日本)「【今月の記録室】第39回ラジオ日本賞 セントライト記念(GII)タイガーボーイ」
    • 1985年12月号
      • 「【第46回菊花賞】抜群の瞬発力で皐月賞に続いて二冠制覇 ミホシンザン」
      • 今井昭雄「【人馬ドラマ 厩舎ぶらり歩き(19)】田中朋次郎調教師 ミホシンザンの場合は、ひょうたんから駒みたいなものだ」
      • 小崎愃KBS京都)「【今月の記録室】第33回京都新聞杯〈菊花賞トライアル〉(GII)ミホシンザン」
    • 1986年1月号
      • 松下武夫(共同通信)「【今月の記録室】第46回菊花賞(GI)ミホシンザン」
    • 1986年2月号
      • 「【1985年度年度代表馬・各最優秀馬選出】'85年度代表馬にシンボリルドルフ」
      • 「1985年度フリーハンデ決定」
      • 「【第30回有馬記念】完璧に勝って世界へ向かう、シンボリルドルフ」
      • 山岡孝安(日刊スポーツ)「【今月の記録室】第30回有馬記念〈グランプリ〉(GI)シンボリルドルフ」
    • 1986年3月号
      • 「【馬事往来】ミホシンザン全治6か月」
    • 1986年5月号
      • 小峰隆(日本経済新聞)「【今月の記録室】第34回日経賞(GII)チェスナットバレー」
    • 1986年12月号
      • 「【第94回天皇賞(秋)】ニューヒーローは驚異のスピード王、サクラユタカオー」
      • 武藤久(毎日新聞)「【今月の記録室】第37回毎日王冠(GII)サクラユタカオー」
      • 山岡孝安(日刊スポーツ)「【今月の記録室】第94回天皇賞(秋)(GI)サクラユタカオー」
    • 1987年1月号
      • 「武田文吾調教師死去」
      • 嵯峨厚生(夕刊フジ)「【今月の記録室】第6回ジャパンカップ(GI)(国際招待)ジュピターアイランド」
    • 1987年2月号
      • 「【1986年度年度代表馬・各最優秀馬選出】'86年度代表馬ダイナガリバー」
      • 鶴谷義雄(デイリースポーツ)「【今月の記録室】第31回有馬記念〈グランプリ〉(GI)ダイナガリバー」
    • 1987年3月号
      • 水戸正晴(サンケイスポーツ)「【今月の記録室】第28回アメリカジョッキークラブカップ(GII)ミホシンザン」
    • 1987年6月号
      • 「【第95回天皇賞(春)】不屈の闘志で古馬の王者に、ミホシンザン」
      • 「【第35回日経賞】独走5馬身、これが実力、ミホシンザン」
      • 瀬上保男(読売新聞)「【今月の記録室】天皇賞はミホシンザン、GI3勝目。2着ニシノライデンは失格」
      • 寺田文雄(デイリースポーツ)「【今月の記録室】第95回天皇賞(春)(GI)ミホシンザン」
      • 小峰隆(日本経済新聞)「【今月の記録室】第35回日経賞(GII)ミホシンザン」
    • 1987年12月号
      • 「【ターフを去る、ミホシンザン】12月6日、中山競馬場でファンに最後の雄姿。」
    • 1988年1月号
      • 「【ミホシンザン引退式】さよならミホシンザン。この雪はぼくらの"なごり雪"だ。」
    • 1988年2月号
      • 「【JRA賞年度代表馬・各部門最優秀馬決定】'87年度代表馬にサクラスターオー」
      • 坂口誠司「【今月のトピックス】北国に帰ったミホシンザン、猛吹雪の中、父シンザンと初対面」
    • 1988年10月号
      • 福田喜久男「【渋谷竜が撮る日本のホースマン(60)】調教師会会長とミホシンザン 田中朋次郎調教師」
    • 1989年11月号
      • 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝(45)】シンザンの伝承者 ミナガワマンナ」
    • 1992年6月号
      • 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝(73)】シンザン 曼陀羅(上)」
    • 1992年7月号
      • 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝(74)】シンザン 曼陀羅(2)」
    • 1992年8月号
      • 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝(75)】シンザン 曼陀羅(3)」
    • 1992年9月号
      • 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝(76)】シンザン 曼陀羅(4)」
    • 1993年10月号
      • 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝(89)】父に超える夢 ミホシンザン」
    • 1996年9月号
      • 「【追悼!シンザン】シンザンを超えろ 豊かなスピードとスタミナを産駒に伝えた」
    • 1998年9月号
      • 井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝〈レース編〉(45)】ミホシンザン、一冠と二冠の間(上)挫折のあとの栄光まで」
    • 1998年10月号
      • 井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝〈レース編〉(46)】ミホシンザン、一冠と二冠の間(下)挫折のあとの栄光まで」
    • 2004年1月号
      • 井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 20世紀を駆けた名馬たち(32)】シンボリルドルフ 比類なき孤高の皇帝」
    • 2004年10月号
      • 阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 20世紀を駆けた名馬たち(41)】シンザン 23年ぶりの三冠馬」
    • 2006年7月号
      • 井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝(62)】ミホシンザン "最強"の継承者」
    • 2015年1月号
      • 「【ニュース&トピックス】"シンザンの最高傑作"GI3勝馬のミホシンザンが死亡――柴田政人騎手をパートナーに皐月賞、菊花賞、天皇賞(春)などを制す」
    • 2015年9月号
      • 平松さとし「【未来に語り継ぎたい名馬物語(7)】絶対王者として君臨した皇帝 シンボリルドルフと日本競馬」
  • 朝日新聞
    • 1986年6月24日朝刊
      • 「取手 菊花賞の金盃など 630万円分盗まれる」
    • 1998年6月6日夕刊
      • 有吉正徳「『残り物』だったセイウンスカイ 競馬 ダービー」
  • 競馬最強の法則』(KKベストセラーズ

外部リンク