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2022年1月1日 (土) 20:51時点における版
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名前 | ||||||
愛称 | ヨシト[1]、百獣の王[2] | |||||
カタカナ | オオクボ ヨシト | |||||
ラテン文字 | ŌKUBO Yoshito | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1982年6月9日(42歳) | |||||
出身地 | 福岡県京都郡苅田町 | |||||
身長 | 170cm | |||||
体重 | 73kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW/MF | |||||
利き足 | 右足[1] | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
2001-2006 | セレッソ大阪 | 116 | (57) | |||
2005-2006 | → マヨルカ (loan) | 39 | (5) | |||
2007-2009 | ヴィッセル神戸 | 62 | (25) | |||
2009 | ヴォルフスブルク | 9 | (0) | |||
2009-2012 | ヴィッセル神戸 | 92 | (25) | |||
2013-2016 | 川崎フロンターレ | 130 | (82) | |||
2017 | FC東京 | 28 | (8) | |||
2018 | 川崎フロンターレ | 12 | (2) | |||
2018-2019 | ジュビロ磐田 | 37 | (4) | |||
2020 | 東京ヴェルディ | 19 | (0) | |||
2021 | セレッソ大阪 | 29 | (6) | |||
通算 | 573 | (214) | ||||
代表歴2 | ||||||
2000-2001 | 日本 U-19/20 | |||||
2002-2004 | 日本 U-21/22/23 | |||||
2003-2014[3] | 日本 | 60 | (6) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。2021年12月4日現在。 2. 2014年6月24日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
大久保 嘉人(おおくぼ よしと、1982年6月9日 - )は、福岡県京都郡苅田町出身[4][5]の日本の元プロサッカー選手。元日本代表。ポジションはフォワード[6][1]。
史上初の3年連続Jリーグ得点王(2013年 - 2015年)であり、J1通算最多得点記録保持者。
来歴
プロ入り前
幼少時は父親が購入したペレやディエゴ・マラドーナのビデオを繰り返し見たり、父親と一緒に釣りに行ったり野球に親しんでいた[7]。小学校3年時に苅田サッカースポーツ少年団に入団し[4]、本格的にサッカーを始める。当初はストッパーの位置でプレーしていたが、小学校6年時よりFWの位置でプレーするようになった[8]。1994年にはU-12福岡県選抜チームに選出された一方で陸上競技にも取り組み、全国小学生陸上競技交流大会[注 1]に出場した他、鹿島アントラーズと横浜マリノスとの試合の前座で、北九州市選抜チームの一員として福岡県の別のチームと対戦した際に5得点を挙げ、鹿島サポーターから「大久保」コールを受けるという経験もした[7]。
三浦淳宏や永井篤志を擁して1992年度の全国高校サッカー選手権を制した長崎県立国見高校に憧れ[5]、小学校卒業後に長崎県へ渡り国見町立国見中学校に入学[8]。国見高校のサッカー部総監督であった小嶺忠敏が中高一貫でサッカーの指導をするために作った「小嶺アカデミースクール」に入る[7]。国見中学校では2、3年とも全国大会ベスト8に入り、U-15長崎県選抜チームに選出された。
1998年、国見高校に進学。2年生でレギュラーを獲得し、3年時の2000年、松橋章太らとともにインターハイ、国体[注 2]、選手権を優勝し、高校三冠を達成した[4][5]。ドリブル、パス、シュートを高いレベルで兼備し[10] インターハイでは10得点、高校選手権では8得点を挙げてそれぞれ大会得点王を獲得した[11][4][5]。天皇杯全日本サッカー選手権大会には、長崎県代表として2年時 (1999年度) ・3年時 (2000年度) の2度出場した他、U-19日本代表に選出されてAFCユース選手権2000にも出場した[11]。
セレッソ大阪
複数のJクラブによる争奪戦が展開されたが[8]小嶺からはセレッソ大阪かアビスパ福岡を勧められ[12]、2001年に目標の森島寛晃が在籍する[13] C大阪に加入[14]。同年3月17日にJ1・1st第2節浦和レッドダイヤモンズ戦に途中出場しJリーグデビューを果たす[15][16]。ナビスコカップ1回戦ジュビロ磐田戦の先制点がプロ初得点[17]。1st第5節磐田戦でリーグ戦初得点を挙げたが、前半32分に田中誠との口論の末に両者にレッドカードが提示され退場処分を受けた[16][4]。田中とはその後Jリーグアウォーズの場で和解している。その後、左三角靱帯損傷によって同年開催のワールドユース出場を逃し[8][18]、リハビリ中の筋力トレーニングでキレを失ったこともあって[8][19]リーグ戦も大半が途中出場で通年2得点に留まった。同年末、C大阪は総合成績で16位となりJ2へ降格したが、高校時の恩師小嶺や先輩に相談を仰いだ上でC大阪残留を選択した[8]。
2002年は、J2第3節湘南ベルマーレ戦の2得点で自信を取り戻すと[19]、好調を維持して29試合[注 3] に出場し、アルビレックス新潟のマルクスに次ぐ得点ランキング2位の18得点を記録して[20] 1年でのJ1復帰の原動力となった[4]。また、アテネオリンピックに向けた日本代表に選出。
2003年のJ1では通年で合計24試合に出場し、日本人最多得点となる16得点を挙げた他[21]、史上最多得票でオールスターに選出され[4]、同年末にはAFC選出のアジア年間最優秀ユース選手賞を受賞した[22]。U-22代表として活躍する傍ら、同代表の石川直宏及び松井大輔と共に[23]ジーコ率いるフル代表にも招集され、5月31日に行われた韓国との国際親善試合に65分から鈴木隆行との交代で出場[24]。国際Aマッチデビューを飾り[4]、同年の国際Aマッチ出場は14試合を数えた。
2004年のJ1は22試合出場15得点。2nd第5節では苦手としていたジェフユナイテッド市原戦でプロ入り後初のハットトリックを記録した[25][26]。また、同年3月まで開催されていたアテネオリンピックアジア地区予選では2戦連続得点でチームの窮地を救い[27][28]、7月にU-23日本代表としてアテネオリンピック本大会に出場した[6][29]。同大会では1勝2敗でグループステージ敗退となったが、個人としては3試合に先発出場し[30][31][32]、パラグアイ戦では81分[30]に、ガーナ戦では37分に決勝点となるゴール[32]をそれぞれ挙げた。
RCDマヨルカ
オリンピックで活躍がきっかけとなり、2004年11月にリーガ・エスパニョーラ所属のRCDマヨルカへ期限付き移籍が決定[33]。監督のエクトル・クペルからの評価は好意的で[34]、選手登録が解禁された直後の2005年1月10日[35]、第18節デポルティーボ・ラ・コルーニャ戦で初出場。ルイス・ガルシアの得点をアシストし、自身も1得点を挙げる[36][37][4][38]好デビューを飾ったが、そのデビュー戦で負傷した影響で戦線離脱すると[39]、復帰後も出場機会は限られた。しかし残留争いが佳境となった終盤戦には控えとなったガルシアに代わって先発出場し[40]、第36節アスレティック・ビルバオ戦及び第37節デポルティーボ・ラ・コルーニャ戦でそれぞれ1得点ずつ挙げた他、2アシストとPK獲得の活躍で[41][42] マヨルカの奇跡的とも言える1部残留に貢献した[40][4]。シーズン終了後、UEFA選出スペインリーグ・若手ベストイレブンを受賞[43]。
マヨルカからの評価は高く[40]、C大阪との移籍期間延長交渉を経て[4] 2005-06シーズンもクラブに残留[44]。しかし同シーズンは途中出場が大半で、シーズン途中に監督に就任したグレゴリオ・マンサーノ体制下でのさらなる出場機会減に危機感を抱き移籍を決意[45]。移籍期間満了後に移籍が決定した。スペインでの通算成績は39試合5得点6アシスト。後に、不遇を託ったことでより良いプレースタイルを考えることができたと述懐している[19]。
オリンピック以後も継続的にフル代表に招集されていたが、得点を挙げられないまま2005年10月のヨーロッパ遠征を最後に招集されなくなり、2006年のワールドカップ出場を逃した。結局、ジーコ体制下では無得点に終わった。
セレッソ大阪復帰
2006年6月、セレッソ大阪へ復帰[46]。低迷するチームを救うべく[46]登録直後から出場を続けたものの6戦無得点[47]。復帰後7戦目の京都パープルサンガ戦で2得点を挙げ、その後はチームと共に復調を見せたが[48]、最終順位は17位となり、J2へ降格した(個人記録は21試合出場6得点)。
ヴィッセル神戸
2007年1月、急遽ヴィッセル神戸からのオファーが報じられ、移籍金3億円[注 4] で同クラブへ完全移籍[注 5][50]。同年は三浦淳宏の負傷もあり[1]、監督の松田浩に自ら進言して左ウイングバックでプレー。このコンバートによって「チームのことを考えてプレーできるようになった」と述懐している[51][52]。主将にも就任し、精神面・技術面でチームを牽引[53]。リーグ戦では14得点をあげた。
2007年8月にはカメルーンとの国際親善試合で約1年10カ月ぶりに日本代表に復帰[54]。10月に行われたエジプトとの親善試合で1試合2得点を挙げ[55]、国際Aマッチ出場21試合目、初選出から4年越しでの初ゴールを記録した。以後、2010年のワールドカップを目指す日本代表の主力に定着。2008年開催のオリンピックには選出されなかった(後述)。
2008年は、開幕前のワールドカップ予選・タイ戦で貴重な勝ち越しゴールをあげる活躍もあったが、同時に右ひざ半月板損傷を負った。3月のワールドカップ予選選出も危ぶまれたものの、2節川崎戦で戦列復帰し、1ゴール2アシストの活躍を見せ、代表追加招集が発表された。6月のオマーン戦で、相手GKアリ・アル・ハブシと接触した際、アル・ハブシを蹴り一発退場を受け、残りの予選3試合は出場停止処分となった。また、反町康治率いる北京オリンピックにOA枠での選出の噂もあったが、破談している(後述)。チームにおいては、より多くのボールを受けるべく、シーズン当初のFWから再び左MFへポジションを変更し牽引。2年連続の二けた得点を達成した。
VfLヴォルフスブルク
ブンデスリーガ・VfLヴォルフスブルク監督のフェリックス・マガトの強い希望により[56]、2009年1月に同クラブへ完全移籍[53]。移籍金交渉は難航したが[53]、移籍を望んだ本人の意向に添う形で、神戸側が最終的に譲歩し、推定2億5000万円で合意[57]。
オーバーヘッドシュートを放った事が理由でマガトの怒りを買ってベンチ入りメンバーから外されるという経験もしたが[58]、ドイツのサッカーに慣れるに従い、相手選手に体をぶつけられても倒れることなくドリブルで進めるまでになった[58]。この経験について大久保自身は取材に対し、「試合に出れなくて、まぁ、いいや、って思ったら、もう終わりよ。(中略)サッカー選手をやっている以上は、出たい、出たい、って感じで練習もするやん[56]」というコメントを残している。2008-09年度シーズンにおいて、長谷部誠と共にクラブ史上初となるドイツ国内主要サッカー大会[注 6] 初優勝達成を経験したが、大久保自身は、ポジションの重なるグラフィッチやエディン・ジェコが好調で[59][注 7]彼ら大柄な選手に合わせたサッカーが展開されていたこともあって[51]、出場機会は乏しかった[59]。自身を評価するマガトの退任と[56]ワールドカップ出場を見据え[59]、1シーズンでの移籍を決断。
ヴィッセル神戸復帰
2009年6月、ヴィッセル神戸へ復帰[61]。シーズン終盤は2008年からオフなしで試合をこなしていた影響でスタメンを外れる試合もあったが、シーズン途中加入でチームトップタイの8得点を挙げた。
2010年は、開幕前の東アジアサッカー選手権の韓国戦で左膝内側側副靭帯損傷の負傷で全治6週間と診断されるが、リーグ開幕戦は膝に包帯を巻いて出場。4月には鼻骨骨折に見舞われるなど、ワールドカップメンバー入りに暗雲が垂れ込めていたが、2010年5月10日、ワールドカップ南アフリカ大会に臨む代表メンバーに選出された。強化試合として行われた韓国戦[62]、イングランド戦[63]、コートジボワール戦[64] に出場し、本大会ではグループリーグ三試合と決勝トーナメント一回戦に左サイドハーフとして先発出場し[65]、攻守に奔走する献身的プレー[66] で日本の2大会ぶりとなる決勝トーナメント進出に貢献した。
帰国後も最前線で起用され、ゴールをあげていたものの、14節湘南戦で自身の著書で「もう試合終盤かと思ったらまだ前半2分だった」と語るほどの極度の疲労に襲われる。その後、燃え尽き症候群を発症。ワールドカップ期間中に痛めた左膝の手術も行い長期離脱。その後も筋肉系の故障を多発。チームの守備的な戦いも影響し、リーグ戦は通年で17試合4得点に終わった。
2011年は細かい怪我はあったものの大きな離脱はなくリーグ戦30試合出場9得点を挙げた。J1第20節浦和戦でJリーグ通算100得点を記録(J2含む)。移籍の噂もあったもののクラブとの契約を延長した。
2012年は自身の希望もあり、背番号をC大阪在籍時以来の「10」に変更[67][68]。近年見せていた中盤でのプレーでなく[67]得点への注力を希望し[68]、開幕戦のガンバ大阪戦ではFWで起用され2得点を挙げるなど[69] 序盤は好調ぶりを見せていた[70]。しかし、新加入選手が多くチーム戦術や共通意識が定まらずに、中盤に下がらざるを得ない状態となってゴールから遠ざかり、第7節柏レイソル戦で負傷。2週間ほどで復帰したが、以降はコンディションが上がらず、リーグ戦26試合4得点と低調に終わり、クラブも降格した。契約期間を1年残しており神戸に残留するつもりでいたが、最初の契約交渉時に態度を保留したところ[71] クラブからの慰留は無く[72] 移籍を勧められ[注 8]、本年限りでの退団を余儀なくされた[73][74]。
川崎フロンターレ
2013年、熱心なオファーのあった[73]川崎フロンターレへ2年契約で[75] 完全移籍[74]。川崎では自身の役割が得点に特化されたことにより、無駄なファールやスタミナの消耗も減って本領を発揮[52][76]。シュート精度も向上して[77] 多彩な得点パターンで相手DFを脅かし[52]、第16節浦和戦でJ1通算100得点を達成[78]。その後も磐田戦、大分トリニータ戦など終了直前に決勝点を挙げる試合も多く[79][80]、チームを牽引。自己最多の26得点を記録し得点王に輝いた。
日本代表には2012年2月のアイスランド戦以来招集されていなかったが、2013年以来の好調が持続していたこと[81] やFW柿谷曜一朗やMF香川真司の不調もあって[82]、2014年5月12日にワールドカップブラジル大会の日本代表にサプライズ選出された[83][84]。翌6月の親善試合ザンビア戦では、2008年以来となる国際Aマッチでの得点を記録した[85]。多様な能力を兼備するオールラウンダーであり[86] ポジションはどこでもできるとの自身の言葉通り[83]、FW[87]、トップ下[87]、両サイドハーフ[88]で構想され、チームを活性化させたものの[89][86]、本大会では途中出場の第1戦コートジボワール戦、右サイドハーフで先発し決定機を外した[88]。第2戦ギリシャ戦及び第3戦コロンビア戦のいずれも得点できず、グループリーグで敗退した。
Jリーグでは昨季の得点王として強いプレッシャーを感じながらも[90] 得点量産を続け、同年9月のJ1第25節大宮アルディージャ戦でC大阪在籍時以来となる10年ぶり[注 9]2度目のハットトリックを達成[93]。第25節でのハットトリックはJリーグ創設以来最遅。通年では18得点を挙げ2年連続の得点王を獲得。単独での[注 10] 2年連続得点王はJリーグ開幕以来初となった[90]。なお、同年8月30日のJ1第22節名古屋グランパス戦でカルビーの広告看板を蹴って損壊させたことで2試合の出場停止処分を受けている[94][95]。
FC東京からのオファー等があったものの[19][96]も契約を更新し川崎に残留。2015年、1st第7節ヴァンフォーレ甲府戦でJ1通算139得点目を挙げて三浦知良の持つ記録に並び、同第9節FC東京戦で140得点目を挙げて単独4位となった。ゴールパフォーマンスではカズダンスを披露した[97][98]。同年9月、2nd第11節名古屋戦にて自身3度目となるハットトリック[99] 及びJリーグ史上4人目となる通算150得点を記録[100][101]。通年では23得点を挙げ、Jリーグ史上初の3年連続[注 10]得点王を獲得し[102][103][104]日本屈指のストライカーとして名を馳せた[105]。
2016年もゴールへの嗅覚は冴え[106]、1st第3節名古屋戦でJ1歴代最多タイの通算158得点を挙げ[107]、同6節サガン鳥栖戦でJ1新記録159得点目を記録[108][109][106]。通年ではリーグ戦33試合に出場。4年連続の得点王こそ逃したが、日本人選手最多タイとなる15得点を記録した[110]。周囲からは攻撃的サッカーの中で活躍を続けていたように見られていたが[104][111]、大久保自身は同年のチームはミスを怖がり縦パスを狙えなくなってしまったと感じており[104][111]、変化を求めていた。同年末の契約満了に伴い、川崎からの慰留も含めて複数クラブによる争奪戦が展開された[112][113]。なお、同年開催のオリンピックには選出されなかった(後述)。
FC東京
FC東京からの2年ぶりの再オファーに熱意を感じ[19][96]、2017年に同クラブへ完全移籍[114][115]。3月18日、第4節の川崎フロンターレ戦では古巣からゴールを奪って移籍後初得点を決めた。シーズン半ばに監督・篠田善之が解任されると、新監督の安間貴義の元ではシャドーとしてプレーする機会が増えた。この起用について安間は「ラストパスを出せるのが嘉人しかいない」[116] と語っている。最終的にJ1リーグ戦28試合出場、8得点を記録した[117]。
川崎フロンターレ復帰
2018年、川崎から復帰オファーを受け、1年で同クラブに完全移籍で復帰した[117]。名古屋戦と鹿島戦では得点を挙げるも復帰後はレギュラーでは無く途中出場が多かった。
ジュビロ磐田
ロシアW杯によるリーグ戦中断期間中の6月、得点力不足解消のため大久保に白羽の矢を立てたジュビロ磐田監督の名波浩から獲得のラブコールを受ける[118]。5月5日のFC東京戦以降は登録メンバーから外れることが多くなり、『引退』を考え出していた大久保自身も「もう一度輝きたい」という思いから磐田への移籍を決断[119]。2018年6月26日、両クラブを通じて完全移籍が発表され[120]、背番号は「22」に決定。同年8月19日、J1第23節・対柏レイソル戦で移籍後初得点を挙げた。この得点により、佐藤寿人に次いで史上2人目となるJリーグ通算200得点を達成した[121]。さらにその試合で通算100枚目のイエローカードを貰っており、試合後に監督の名波から「大久保が200ゴール、そして100枚目のイエローカードと非常にメモリアルなゲームになったと思っています」とネタにされている[122]。J1第34節・古巣の川崎と対戦では、後半33分に松本昌也のクロスをヘッドで叩き込み、先制点を挙げた。しかし磐田が後半38分、後半90+4分に失点し1-2で敗れたため、最終順位が16位となり、J1参入プレーオフに回った[123]。
2019年シーズンは、J1通算200得点を目標[124] に開幕戦から第7節までスタメン出場するも得点は決められず、徐々に出場機会が減少。第16節には名波浩が監督を辞任し、その後も鈴木秀人→フェルナンド・フベロと相次いで監督が交代する事態となったが、出場機会は増えなかった。11月30日に行われた第33節の名古屋戦では、負ければ降格が決まる中でシーズン初ゴールとなる決勝ゴールを決めた。しかし、残留を争っていた湘南が勝利したため、チームは降格となった[125]。プロキャリアでワーストとなる1得点でシーズンを終えた。12月12日、契約満了により同シーズン限りでチームを退団する事が発表された[126]。
東京ヴェルディ
2020年、J2の東京ヴェルディへ完全移籍[127]。出場は19試合となり、PKを外すなどチームに得点で貢献することができないまま一年でチームを去ることになった。なおシーズン無得点は自身初となる。
15年ぶりのC大阪復帰
2021年1月9日、15年ぶりとなるセレッソ大阪への復帰が発表された[128]。開幕戦でチームのシーズン第1号弾を決めた。15年ぶりの得点は、J1の同一チームで最長ブランク弾である[129]。3月6日、第2節[注 11] のFC東京戦では1ゴール1アシストで3試合連続ゴールを決める活躍をした[130]38歳8カ月25日での3戦連発は、2004年の三浦知良を超えJ1史上日本人最年長記録[131]。開幕から5試合で5得点とストライカーとして復活を印象づける活躍をみせたが、その後はチーム全体の戦術への迷いからボールが回らなくなった事や、チームでの新型コロナウイルスによる影響や第12節に負傷したことなどで、試合から離れた時期もあり得点から遠ざかった。誕生日に迎えた天皇杯2回戦ガイナーレ鳥取戦では、ヨドコウ桜スタジアムでのチーム第1号弾を決めた[132]。また、ACLでも得点を記録した。11月19日、クラブからは契約延長の提示を受けていたが、2021年シーズン限りでの現役引退を発表した[133][134]。小菊監督が就任して以降も、ルヴァンカップ決勝、天皇杯準決勝で先発出場、Jリーグ最終戦となった第38節清水エスパルス戦(IAIスタジアム日本平)では、清武弘嗣のコーナーキックを折り返し、相手のオウンゴールを誘うなど、離脱していた期間以外は主力として出場した。
プレースタイル
日本最強とも評されたストライカー[135]。フォワードとしてマルチな能力を有する他[136]、ボランチやサイドハーフとしても高い能力を持つオールラウンドプレイヤーである[137]。戦術練習でトップ下、右MF、左MF、ボランチを試され、2012年〜16年まで川崎で指揮をとった風間八宏からは「どこをやっても一番うまい」と評されている[138]。川崎移籍後にシュート精度を向上させ、2013年から3年連続で得点王を獲得している[139]。
プロ1年目のセレッソ大阪加入時は森島寛晃のプレーを目標にしており、「あの運動量と、スペースを見つけて飛び出して決定的な形を作るという能力は、誰にも真似できません。僕も森島さんのようなプレーができるようになりたいと思っています。」と公言していた。また、クラブから「能力、度胸ともに新人離れしたものを持つ」と評された[140]。
ペナルティーキックを得意とする[141]。大久保曰くPKは「めちゃくちゃ緊張」するので「嫌い」とのことだが、得点で勝利に貢献したいという気持ちからキッカーを務めている[142]。J1通算100得点目も中村憲剛が獲得したPKを決めている[143]。PK時のリラックス法は「外すことを考えること」[144]。
久保竜彦からは「一緒にやったFWで一番スゴいと思ったのが嘉人でした。猫っていうか、チーターっていうか、体の使い方がうまい」と評されている[145]。
人物・エピソード
- 姉2人の3人姉弟[10]。
- 短気で[1]試合中に悔しいとカッとなる[8]と申告し、強気な言動でも知られ[19]、闘争心の現れによる無用な警告・退場も多かった[52]。2015年10月に松下裕樹がJリーグ史上初となる通算100枚目のイエローカードを提示されたが、同時点で大久保のイエローカード数は99を数えていた[146]。2018年8月に行われた柏戦で大久保も通算100枚目のイエローカードを貰っている[122] 。2020年6月時点のイエローカード数は通算103枚でJ1歴代1位である[147]。また、レッドカードは同時点で12枚貰っており、こちらは歴代2位である[147]。一方、ピッチ外ではシャイな性格の持ち主[52]。神戸在籍時に親交のあった安達貞至からは、世間の印象とは逆で周りの人間を本当に大事し、自分からは前に出ないもの静かな男、記者が大久保の発言を大げさに報じても苦笑いで済ませ、若手にいじられてもニコニコしていると評されている[148]。
- 2004年12月に国見高校の同級生と結婚[149]。妻の父は大久保の中学生時のサッカーの恩師[150][151]。2008年1月5日に御崎公園球技場(ホームズスタジアム神戸 現ノエビアスタジアム神戸)内の施設にて結婚式を挙げ[152]、その際スタジアム内にて夫人側のチームとセレモニーマッチを行った[153]。2005年に長男が、2010年に次男が[154]、2012年に三男が誕生した[155]。2015年夏には妻が流産。奇胎後hcg存続症と診断された。同年10月に抗がん剤治療中の妻を勇気づけるため、3人の息子と共に、国見高校在学時以来14年ぶりに頭を丸刈りにした[156][157]。2017年3月には第4子となる四男が誕生。
- 川崎移籍後、神戸との練習試合会場に神戸サポーターが「嘉人今までありがとう。またいつか神戸で!」というこれまでの貢献を労う横断幕を掲げている[158]。
- 国見[159]、神戸、川崎、FC東京、日本代表で着用した背番号13には思い入れがあり[160]、2014年11月に妻の出身地である[161]長崎県島原市に開校した学習塾併設のサッカースクール「Btrece(ベトレーセ)」もスペイン語を元に「輝ける13番」を意味する造語である[150]。2015年1月には島原市ふるさと納税大使に任命された[161]。2018年に川崎に復帰した際、13番を背負っていたMF三好康児が札幌へ期限付き移籍したため空番号になっていたが、「レンタル(移籍で空番号になっているだけ)だから」とし、「1+3」で4番を選んでいる。磐田で選択した22番は「子供に決めてもらいました」と説明している[162]。15年ぶりに復帰したC大阪では「20」を選択。代理人を務めるFW西澤明訓が現役時代に背負った番号でもある。
- 2015年からMr.Childrenやナオト・インティライミらが立ち上げた芸能事務所であるエンジンとマネージメント契約を結ぶ[163]。
- オリンピックへのこだわりは強く、2004年アテネ大会敗退の悔しさから「もう1度出て日本を勝たせたい」とオーバーエイジでの出場に意欲的だったが[164]、実際に打診のあった2008年北京大会では所属クラブの神戸が拒否[165]。2016年リオデジャネイロ大会に際しても、Jリーグ4期連続得点王獲得よりもオリンピック出場を望むほどだったが[166] 川崎が招集を拒否したため[167]、リスト最上位にありながらも[168] 選出を見送られた[169][170]。大会後、改めて「大きな重圧の中でプレーする喜びを味わいたかった」とオリンピックへの思いを吐露している[171]。
所属クラブ
- 1989年 - 1994年 苅田スポーツ少年団 (苅田町立南原小学校)[10]
- 1995年 - 1997年 国見町立国見中学校
- 1998年 - 2000年 長崎県立国見高等学校
- 2001年 - 2006年 セレッソ大阪
- 2005年 - 2006年7月 RCDマヨルカ (期限付き移籍)
- 2007年 - 2008年 ヴィッセル神戸
- 2009年 - 同年6月 VfLヴォルフスブルク
- 2009年6月 - 2012年 ヴィッセル神戸
- 2013年 - 2016年 川崎フロンターレ
- 2017年 FC東京
- 2018年 - 同年6月 川崎フロンターレ
- 2018年6月 - 2019年 ジュビロ磐田
- 2020年 東京ヴェルディ
- 2021年 セレッソ大阪
個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1999 | 国見 | 13 | - | - | - | 1 | 0 | 1 | 0 | ||
2000 | 10 | - | - | - | 2 | 1 | 2 | 1 | |||
2001 | C大阪 | 15 | J1 | 20 | 2 | 1 | 1 | 3 | 0 | 24 | 3 |
2002 | J2 | 29 | 18 | - | 2 | 1 | 31 | 19 | |||
2003 | 10 | J1 | 24 | 16 | 3 | 0 | 5 | 4 | 32 | 20 | |
2004 | 22 | 15 | 2 | 0 | 1 | 0 | 25 | 15 | |||
スペイン | リーグ戦 | 国王杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2004-05 | RCDマヨルカ | 17 | プリメーラ | 13 | 3 | - | - | 13 | 3 | ||
2005-06 | 26 | 2 | 1 | 1 | - | 27 | 3 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2006 | C大阪 | 36 | J1 | 21 | 6 | - | 0 | 0 | 21 | 6 | |
2007 | 神戸 | 13 | 31 | 14 | 5 | 0 | 2 | 1 | 38 | 15 | |
2008 | 31 | 11 | 0 | 0 | 1 | 1 | 32 | 12 | |||
ドイツ | リーグ戦 | リーグ杯 | DFBポカール | 期間通算 | |||||||
2008-09 | ヴォルフスブルク | 8 | ブンデス1部 | 9 | 0 | - | 2 | 0 | 11 | 0 | |
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2009 | 神戸 | 50 | J1 | 19 | 8 | - | 1 | 1 | 20 | 9 | |
2010 | 13 | 17 | 4 | 0 | 0 | 1 | 1 | 18 | 5 | ||
2011 | 30 | 9 | 1 | 0 | 1 | 0 | 32 | 9 | |||
2012 | 10 | 26 | 4 | 3 | 2 | 1 | 0 | 30 | 6 | ||
2013 | 川崎 | 13 | 33 | 26 | 8 | 4 | 4 | 3 | 45 | 33 | |
2014 | 32 | 18 | 4 | 2 | 1 | 0 | 37 | 20 | |||
2015 | 32 | 23 | 4 | 2 | 3 | 2 | 39 | 27 | |||
2016 | 33 | 15 | 0 | 0 | 6 | 5 | 39 | 20 | |||
2017 | FC東京 | 28 | 8 | 2 | 1 | 0 | 0 | 30 | 9 | ||
2018 | 川崎 | 4 | 12 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 12 | 2 | |
磐田 | 22 | 17 | 3 | - | 1 | 0 | 18 | 3 | |||
2019 | 20 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 22 | 1 | |||
2020 | 東京V | 13 | J2 | 19 | 0 | - | - | 19 | 0 | ||
2021 | C大阪 | 20 | J1 | ||||||||
通算 | 日本 | J1 | 448 | 185 | 33 | 13 | 33 | 18 | 514 | 216 | |
日本 | J2 | 48 | 18 | - | 2 | 1 | 50 | 19 | |||
日本 | 他 | - | - | 3 | 1 | 3 | 1 | ||||
スペイン | プリメーラ | 39 | 5 | 1 | 1 | - | 40 | 6 | |||
ドイツ | ブンデス1部 | 9 | 0 | - | 2 | 0 | 11 | 0 | |||
総通算 | 544 | 208 | 34 | 14 | 40 | 20 | 618 | 242 |
- 2016年
- Jリーグチャンピオンシップ 1試合0得点
- 2018年
- XEROX SUPER CUP 1試合1得点
- 2018年
- J1参入プレーオフ 1試合0得点
国際大会個人成績 | ||||
---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
UEFA | UEFA EL | |||
2008-09 | ヴォルフスブルク | 8 | 2 | 0 |
AFC | ACL | |||
2014 | 川崎 | 13 | 8 | 1 |
2018 | 4 | 4 | 0 | |
通算 | UEFA | 2 | 0 | |
AFC | 12 | 1 | ||
総通算 | 14 | 1 |
- 2000年度は強化指定選手としての試合出場はなし
- 出場歴
- 2001年浦和レッドダイヤモンズ (駒場スタジアム)[1] 3月17日:Jリーグ初出場 - J1 1st第2節 vs
- 2001年ジュビロ磐田 (ジュビロ磐田スタジアム)[1] 4月14日:Jリーグ初得点 - J1 1st第5節 vs
- 2005年デポルティーボ・ラ・コルーニャ (イベロスター・エスタディ)[38] 1月10日:リーガ・エスパニョーラ初出場・初得点 - 第18節 vs
- 2007年大分トリニータ (ホームズスタジアム神戸) 6月16日:J1・100試合出場 - J1第15節 vs
- 2009年1.FCケルン (ラインエネルギーシュタディオン) 1月31日:ブンデスリーガ初出場 - 第18節 vs
- 2011年セレッソ大阪 (ホームズスタジアム神戸)[172] 7月16日:J1・200試合出場 - J1第 5節 vs
- 2014年10月18日:J1・300試合出場 - J1第28節 vsガンバ大阪 (万博記念競技場)[173]
- 2018年02月25日:J1・400試合出場 - J1第1節 vsジュビロ磐田 (エコパスタジアム)[174]
タイトル
チーム
- 国見高校
- ヴォルフスブルク
個人
- 全国高校選手権優秀選手賞 (2000年)
- Jリーグ優秀新人賞 (2001年)
- Jリーグ優秀選手賞 (2003年、2004年、2007年、2008年、2013年、2014年、2015年、2016年[175])
- アジア年間最優秀ユース選手賞 (2003年)
- 日本年間最優秀選手賞 (2015年)
- Jリーグベストイレブン (2013年、2014年、2015年)
- Jリーグ月間MVP (2013年11月・12月)
- 報知プロスポーツ大賞 Jリーグ部門 (2003年、2014年、2015年)
得点王
- 全国高校総体 (2000年)
- 全国高校選手権 (2000年)
- Jリーグ (2013年、2014年、2015年)
代表歴
- 2003年国際Aマッチ初出場 - 親善試合 vs韓国代表 (国立霞ヶ丘競技場陸上競技場) 5月31日:
- 2007年10月17日:国際Aマッチ初得点 - アジア/アフリカ チャレンジカップ vsエジプト代表 (長居陸上競技場)
出場大会など
- U-19日本代表
- U-20日本代表
- 2001年 ジャパンユースカップ
- U-21日本代表
- 2002年 アジア競技大会
- U-22日本代表
- 2002年 アテネオリンピックアジア2次予選
- U-23日本代表
- 日本代表
- 2003年 FIFAコンフェデレーションズカップ、東アジア選手権
- 2004年 FIFAワールドカップアジア2次予選
- 2007年 アジア/アフリカ チャレンジカップ
- 2008年 FIFAワールドカップアジア3次予選、同・最終予選
- 2009年 AFCアジアカップ最終予選、FIFAワールドカップアジア最終予選
- 2010年 東アジア選手権、FIFAワールドカップ
- 2014年 FIFAワールドカップ
試合数
- 国際Aマッチ 60試合 6得点 (2003年 - 2014年)[3]
日本代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
2003 | 14 | 0 |
2004 | 3 | 0 |
2005 | 2 | 0 |
2006 | 0 | 0 |
2007 | 2 | 2 |
2008 | 12 | 3 |
2009 | 9 | 0 |
2010 | 11 | 0 |
2011 | 0 | 0 |
2012 | 1 | 0 |
2013 | 0 | 0 |
2014 | 6 | 1 |
通算 | 60 | 6 |
ゴール
# | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
---|---|---|---|---|---|
1. | 2007年10月17日 | 日本、大阪市 | エジプト | ○ 4-1 | アフロアジア選手権 |
2. | |||||
3. | 2008年 | 2月 6日日本、さいたま市 | タイ | ○ 4-1 | 2010 FIFAワールドカップ・アジア予選 |
4. | 2008年 | 6月 2日日本、横浜市 | オマーン | ○ 3-0 | |
5. | 2008年11月13日 | 日本、神戸市 | シリア | ○ 3-1 | キリンチャレンジカップ2008 |
6. | 2014年 | 6月 6日アメリカ、タンパ | ザンビア | ○ 4-3 | 国際親善試合 |
出版
書籍
- 『大久保嘉人のサッカー攻撃テクニックバイブル DVD突破技&決め技スペシャル (監修)』カンゼン、2009年。ISBN 978-4862550538。
- 『情熱を貫く 亡き父との、不屈のサッカー人生』朝日新聞出版、2014年。ISBN 978-4021902406。
関連書籍
- 小宮良之『大久保嘉人の挑戦 - Desafio』角川書店、2005年。ISBN 978-4048839365。
脚注
- 注釈
- ^ 本文中では「陸上の全国大会」(p. 47) とのみ記されており、大会の正式名称は登場しない[7]。
- ^ この時の少年男子長崎県選抜チームの選手は全員が国見高校サッカー部から選出されていた[9][5]。
- ^ この年度のJ2は全44節。
- ^ 当時のJリーグは、基本年俸に移籍係数を乗じて移籍金を算出する制度が存在していたため、移籍金が高騰しやすかった。
- ^ 大久保は移籍理由について、J1で引き続きプレーする事で日本代表へ復帰するためだとのコメントしている[49]。
- ^ ブンデスリーガ1部、ドイツカップなどを通して。
- ^ グラフィッチは28得点、ジェコは26得点を挙げ、2008-09年度ブンデスリーガの得点ランキング1位2位を独占[60]。
- ^ 後に本人曰く、事実上の戦力外であったことが判明し、この時JのクラブからのオファーがなければKリーグのクラブなどの移籍も考えていたという。
- ^ 10年ぶりのハットトリックはJリーグ史上最長。柳沢敦が2006年に記録した8年ぶりのハットトリックを大幅に更新した[91][92]。
- ^ a b 前田遼一が2009年と2010年、ジョシュア・ケネディが2010年と2011年の2年連続得点王を達成。
- ^ ACLの関係で第11節の川崎戦が前倒しで開催され、実際にはリーグ3戦目。
- 出典
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- ^ 自伝,80-82頁
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- ^ 大久保OA枠外 庄子強化本部長明言「嘉人はありません」 スポーツニッポン (2016年6月18日)
- ^ 【七色コラム】サッカー・大久保嘉人 結果が全ての世界 重圧の中戦う幸せ - スポーツ報知 2016-08-10
- ^ 大久保選手「J1通算200試合出場達成」記念グッズ発売! ヴィッセル神戸 (2011年7月22日)
- ^ 2014Jリーグディビジョン1 第28節 大久保嘉人 選手(川崎F)J1通算200試合出場達成 Jリーグ (2014年10月18日)
- ^ 2018明治安田生命J1リーグ 第1節 大久保 嘉人 選手(川崎F)J1通算400試合出場達成 Jリーグ (2018年2月25日)
- ^ 2016Jリーグ優秀選手賞 受賞選手が決定【Jリーグアウォーズ】 Jリーグ (2016年11月18日)
関連項目
- 福岡県出身の人物一覧
- 特別指定選手としてJリーグクラブに登録された選手一覧
- アビスパ福岡の選手一覧#特別指定選手
- セレッソ大阪の選手一覧
- ヴィッセル神戸の選手一覧
- 川崎フロンターレの選手一覧
- FC東京の選手一覧
- ジュビロ磐田の選手一覧
- 東京ヴェルディ1969の選手一覧
- ドイツ・ブンデスリーガに所属する日本人サッカー選手一覧
- サッカー日本代表出場選手
- 2004年アテネオリンピックの日本選手団
- 2010 FIFAワールドカップ日本代表
- 2014 FIFAワールドカップ日本代表
外部リンク
- 大久保嘉人 - Ameba Blog (2015年 - 2016年)
- 大久保嘉人 - LINE BLOG (2015年 - )
- 大久保嘉人 (@YOSHITO13) - Instagram
- 大久保嘉人 (@Okubonbon13) - X(旧Twitter)
- 大久保嘉人 - Olympedia
- 大久保嘉人 - Sports-Reference.com (Olympics) のアーカイブ
- 大久保嘉人 - National-Football-Teams.com
- 大久保嘉人 - Soccerway.com
- 大久保嘉人 - FootballDatabase.eu
- 大久保嘉人 - WorldFootball.net
- 大久保嘉人 - Transfermarkt.comによる選手データ
- 大久保嘉人 - FIFA主催大会成績
- 大久保嘉人 - J.League Data Siteによる選手データ
- 大久保嘉人 - playmakerstats.com
- プロフィール (2008年) - 日本サッカー協会
- プロフィール - 日本サッカー協会
- プロフィール - Jリーグ
- ジュビロ磐田プロフィール
- 川崎フロンターレによる公式プロフィール
- 大久保嘉人 (伝記) - RCDマヨルカ公式ブログ
- 日本のサッカー選手
- サッカー日本代表選手
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- 2010 FIFAワールドカップ出場選手
- 2014 FIFAワールドカップ出場選手
- オリンピックサッカー日本代表選手
- 2004年アテネオリンピックサッカー出場選手
- FIFAコンフェデレーションズカップ日本代表選手
- FIFAコンフェデレーションズカップ2003出場選手
- アジア競技大会サッカー日本代表選手
- 日本のアジア競技大会銀メダリスト
- 特別指定選手としてアビスパ福岡に登録された選手
- セレッソ大阪の選手
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- FC東京の選手
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- 東京ヴェルディ1969の選手
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