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|死 ={{死亡年月日と没馬齢|p=0|1987|4|11|2016|3|17}}<ref>{{Cite web|和書|title=メジロライアンが死ぬ 91年宝塚記念制す|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLSSXK40321_X10C16A3000000/|website=日本経済新聞|date=2016-03-17|accessdate=2021-11-12}}</ref>
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'''メジロライアン'''([[1987年]][[4月11日]] - [[2016年]][[3月17日]])は、[[日本]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]。
'''メジロライアン'''(欧字名:{{Lang|en|Mejiro Ryan}}、[[1987年]][[4月11日]] - [[2016年]][[3月17日]])は、[[日本]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]<ref name="jbis">{{Cite web|和書|title=メジロライアン|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000201489/|website=JBISサーチ|accessdate=2021-11-04}}</ref>


1990年の[[中央競馬クラシック三冠]]競走で惜敗を続けたのち1991年の[[宝塚記念]]に優勝。大物感を漂わせ馬体や反面の惜敗の多い成績から女性ファン中心として人気を博したのちに[[中央競馬]]の関東ト[[騎手]]となる[[横山典弘]]に大きな影響与えた馬としても知ら。1993年より種牡馬となり、[[競馬の競走格付け|GI競走]]5勝を挙げた[[メジロドーベル]]、[[天皇賞|天皇賞(春)]]優勝馬[[メジロブライト]]らを輩出。内国産種牡馬不遇され1990年代半ば以降に有力馬として活躍した。2007年に授精率低下のため種牡馬引退
1990年の[[中央競馬クラシック三冠]]競走で1964年の[[ウメノチカラ]]以来とな3戦3敗3着以内記録1991年は、[[平成三強]]に代わる「'''新三強'''」を[[メジロマクイーン]]、[[ホワイトストーン]]とともに形成して春古馬路線を争い、[[宝塚記念]]({{GI}})優勝した。神様に愛された馬と呼ばた<ref>{{Cite book|和書 |title=週刊100名馬 13 |publisher=産業経済新聞社}}</ref>。1993年より[[種牡馬]]となり、[[競馬の競走格付け|GI競走]]5勝を挙げた[[メジロドーベル]]、[[天皇賞(春)]]優勝馬[[メジロブライト]]らの父なった。


その他の勝ち鞍に、1990年の[[弥生賞]]({{GII}})、[[京都新聞杯]]({{GII}})。1992年の[[日経賞]]({{GII}})。
[[競走馬の血統|半姉]]に[[重賞]]競走2勝のメジロフルマー(父ロンバード)と[[京都大障害|京都大障害(春)]]優勝馬メジロアニタ(父メジロエスパーダ)がいる。

馬名は馬主[[メジロ牧場]]の[[冠名]]「メジロ」に、[[メジャーリーグベースボール]]の通算最多奪三振[[投手]][[ノーラン・ライアン]]の「ライアン」を加えたものである<ref>江面(1998)p.48</ref>。

※[[馬齢]]は日本で2000年以前に使用された旧表記([[数え年]])で統一して記述する。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== デビューまで ===
=== デビューまで ===
1987年、[[北海道]][[伊達市 (北海道)|伊達市]]の[[メジロ牧場]]で生まれる。父は1980年代前半に[[八大競走]]で2勝を挙げた[[アンバーシャダイ]]。[[ファミリーライン|母系]]近親に1982年秋の天皇賞優勝馬[[メジロティターン]]などがいる血統に加え、馬格は脚長で幅のある立派なものであり、牧場史上屈指の豊作年であった1987年生産馬の中でも特に高い評価を受けていた{{Refnest|group="注"|最も高い評価を受けていたのは叔父に当たるメジロルイスであり、本馬は次点<ref>木村(1994)p.119</ref>ないし3番目<ref>後藤(1997)p.182</ref>の評価を受けていた。}}。しかし、管理調教師となる[[奥平真治]]は、自らの管理馬で非常に見栄えが良かった[[メジロアルダン]]([[高松宮記念 (競馬)|高松宮杯]]優勝、日本ダービー2着)と比較すると、首や脚が太く垢抜けない馬であると感じ、「並の馬で、そこそこの期待」と評価するに留まった<ref>江面(1998)pp.49-50</ref>。ただし、「もちろん、[[日本の競馬の競走体系#競走条件区分|オープン]]にはいってほしい馬だったが」とも述べている<ref>江面(1998)p.52</ref>。


=== 戦績 ===
==== 誕生までの経緯 ====
メジロチエイサーは、1977年に[[北海道]][[伊達市 (北海道)|伊達市]]の[[メジロ牧場]]で生産された牝馬である<ref name="JBIS-メジロチェイサー">{{Cite web|和書|title=メジロチエイサー|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000097964/|website=JBISサーチ|accessdate=2021-11-04}}</ref>。父は、1967年の[[目黒記念(秋)]]を優勝したメジロサンマンであった<ref>{{Cite web|和書|title=メジロサンマン|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000011156/|website=JBISサーチ|accessdate=2021-11-04}}</ref>。メジロチエイサーは、栗東トレーニングセンター所属の[[伊藤修司]]厩舎の下、1982年までに26戦3勝<ref name="JBIS-メジロチェイサー" />。引退後は、メジロ牧場で繁殖牝馬となり、1983年には初仔を生産した<ref name="JBIS-メジロチェイサー-牝系">{{Cite web|和書|title=繁殖牝馬情報:牝系情報|メジロチエイサー|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000097964/broodmare/info/|website=JBISサーチ|accessdate=2021-11-04}}</ref>。1984年に生産した2番仔の牝馬(父:ロンバード)は、後に[[メジロフルマー]]と命名され、1988年の[[日経賞]]({{GII}})、[[目黒記念]]({{GII}})など6勝<ref>{{Cite web|和書|title=メジロフルマー|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000169298/|website=JBISサーチ|accessdate=2021-11-04}}</ref>。1986年に生産した4番仔の牝馬(父:メジロエスパーダ)は、後にメジロアニタと命名され、1990年の[[京都大障害|京都大障害(春)]]など4勝を挙げた<ref>{{Cite web|和書|title=メジロアニタ|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000190663/|website=JBISサーチ|accessdate=2021-11-04}}</ref>。
==== デビュー - クラシック候補へ ====

競走年齢の3歳に達した1989年7月、[[函館競馬場|函館開催]]でデビュー。当初は[[柏崎正次]]が騎乗したが、道中で真っ直ぐ走らせることに苦労し<ref>井口(2001)pp.51-52</ref>、2戦を2、6着となった。その後[[骨膜炎]]を発症して休養に出されると、2カ月の間に馬体が著しく良化<ref name="ryan8">江面(1998)p.50</ref>。復帰戦から、奥平の甥である当時4年目の若手騎手・[[横山典弘]]が騎乗した。緒戦は斜行癖を出して3着となったが、迎えた4戦目で初めて後方待機策を取ると、直線だけのひと捲りで先行馬を差し切り、初勝利を挙げた<ref name="ryan">江面(2001)p.52</ref>。その後[[日本の競馬の競走体系#競走条件区分|条件戦]]5着([[安田富男]]騎乗)を経て、鞍上が横山に戻った年末のひいらぎ賞で2勝目を挙げ、6戦2勝で3歳シーズンを終えた。
1986年には、初めて[[アンバーシャダイ]]との仔を受胎<ref name="JBIS-メジロチェイサー-牝系" />。牧場は、湿度の高い所に立地することから、交配する種牡馬には骨質の良い馬、重心の低い馬を求めており<ref name="優駿-1990-5-130131" />、牧場長の武田茂男はアンバーシャダイについて「骨質が頑丈にできている点が魅力的<ref name="優駿-1990-5-130131" />」と話している。1987年4月11日、メジロ牧場にて5番仔(後のメジロライアン)が誕生する<ref name="jbis" />。

==== 幼駒時代 ====
5番仔は、[[八大競走]]勝ち馬の父に、近親に[[天皇賞(秋)]]優勝馬[[メジロティターン]]などがいたことから期待され、かつ脚長で幅のある立派な馬体をしており、牧場史上屈指の豊作年であった1987年生産馬の中でも特に高い評価を受けていた{{Refnest|group="注釈"|最も高い評価を受けていたのは叔父に当たるメジロルイスであり、本馬は次点<ref>木村(1994)p.119</ref>ないし3番目<ref>後藤(1997)p.182</ref>の評価を受けていた。}}。管理調教師となった[[奥平真治]]は、自らの管理馬で非常に見栄えが良かった[[メジロアルダン]]([[高松宮記念 (競馬)|高松宮杯]]優勝、[[東京優駿]]2着)と比較すると、首や脚が太く垢抜けない馬であると感じ、「並の馬で、そこそこの期待<ref>江面(1998)pp.49-50</ref>」と評価するに留まっていた。ただし、「もちろん、[[日本の競馬の競走体系#競走条件区分|オープン]]にはいってほしい馬だったが<ref>江面(1998)p.52</ref>」とも述懐している。

5番仔はメジロ牧場が所有し、[[冠名]]の「メジロ」に、[[メジャーリーグベースボール]]の通算最多奪三振[[投手]]の[[ノーラン・ライアン]]から「ライアン」を組み合わせた「'''メジロライアン'''」と命名された<ref>江面(1998)p.48</ref>。

=== 競走馬時代 ===
==== 3-4歳(1989-90年) ====
1989年7月9日、[[函館競馬場]]の[[新馬戦]](芝1200メートル)に[[柏崎正次]]が騎乗してデビュー。道中で真っ直ぐ走らせることに苦労して<ref>井口(2001)pp.51-52</ref>、勝ち切れず2着。2戦目の新馬戦は、6着に敗れた。その後は、[[骨膜炎]]を発症したために休養し、2か月間出走しない間に馬体が著しく良化していった<ref name="ryan8">江面(1998)p.50</ref>。10月29日、[[京都競馬場]]の未勝利戦で復帰。鞍上には奥平の甥にあたり、当時デビュー4年目の[[見習騎手]]だった[[横山典弘]]に乗り替わって出走し、斜行して3着、以降横山が主戦騎手となっている<ref name="優駿-2021-6-9297">『優駿』2021年6月号 92-97頁</ref>。続いて11月18日、[[東京競馬場]]の未勝利戦(芝1600メートル)では初めて後方待機策をとると、直線だけを使って先行馬をすべて差し切り、4戦目で初勝利を挙げた<ref name="ryan">江面(2001)p.52</ref>。それから12月3日の葉牡丹賞(400万円以下)は[[安田富男]]が騎乗して5着だったが、12月23日、昇級2戦目のひいらぎ賞(400万円以下)にて横山が騎乗し、再び後方待機から直線で差し切り2勝目<ref name="優駿-2021-6-9297" />。4歳となった1990年を、1月20日の[[ジュニアカップ]](OP)では、デビュー以来3連勝中で[[中央競馬クラシック三冠|クラシック]]候補の一角と目されていたプリミエールを差し切って3勝目<ref name="優駿-2021-6-9297" />。この勝利を機に、陣営はクラシックへの手応えを得るようになったという<ref name="ryan" />。

続いて3月4日、[[皐月賞]]の[[トライアル競走]]である[[弥生賞]]({{GII}})に出走、前日まで雨が降り続いたため不良馬場での開催となった<ref name="優駿-1990-5-130131" />。相手には[[朝日杯3歳ステークス]]を勝利し前年の[[JRA賞最優秀2歳牡馬|JRA賞最優秀3歳牡馬]]を受賞した[[アイネスフウジン]]のこの年2戦目であり、単勝オッズ1.9倍の1番人気、[[単枠指定制度]]の対象となった。対してメジロライアンは、5.7倍の2番人気に推された<ref name="優駿-1990-5-130131" />。スタートからアイネスフウジンが先行して逃げる中、メジロライアンは後方に位置<ref name="優駿-1990-5-130131">『優駿』1990年5月号 130-131頁</ref>。直線では、アイネスフウジンが馬場の悪い内側を嫌って外にも出す一方で、内を突いて追い上げ、馬群から抜け出すと、アイネスフウジンを残り200メートル地点で内からかわして先頭となった<ref name="優駿-1990-5-130131" /><ref name="ryan2">井口(2001)p.53</ref>。それから、外からツルマルミマタオーの追撃を半馬身かわして入線、[[重賞]]初勝利<ref name="優駿-1990-5-130131" />。皐月賞の[[優先出走権]]を獲得した<ref name="優駿-1990-5-130131" />。横山は、入線する直前にガッツポーズ。「ゴールの瞬間、この先が全部見えた気がしましたね。皐月賞も、ダービーも<ref name="ryan2" />」と発言。後に横山は、この時クラシックを意識したかとの問いに対し、「全部勝てると思ったよ(笑)<ref>『名馬列伝メジロライアン』p.84</ref>」と改めて回顧している。

===== クラシック三冠の惜敗 =====

4月15日、皐月賞({{GI}})に出走。アイネスフウジンが4.1倍の1番人気に支持され、メジロライアンはそれに次ぐ5.0倍の2番人気、5.6倍の3番人気には5連勝中の[[ハクタイセイ]]が続いた。スタートから後方内側に待機<ref name="優駿-1990-6-134137">『優駿』1990年6月号 134-137頁</ref>。一方、戦前に逃げ宣言していたアイネスフウジンは、不利を受けて逃げることができず2番手に位置した<ref>『優駿』1990年5月号 4-9頁</ref>。直線では要所で進路を失う不利を受け<ref>井口(2001)p.54</ref>、大外に持ち出してから末脚を繰り出した<ref>『優駿』1990年6月号 10-11頁</ref>。追い込んだものの、先行するアイネスフウジン、好位のハクタイセイには敵わず、それらに1馬身4分の3遅れた3着<ref name="優駿-1990-6-134137" />。この敗戦について、勝利したハクタイセイ陣営の[[布施正]]調教師は、次戦の[[東京優駿]]について「(前略)ライバル? 今度はアイネスフウジンも怖いけど、それ以上にメジロライアンが強敵になるんじゃないですか<ref name="優駿-1990-6-134137" />。」と展望している。

続く5月27日の東京優駿(日本ダービー)({{GI}})では、当日は東京優駿史上最多入場者数の19万6517人が集まり、東京優駿1競走の史上最多売上となる397億3151万3500円が投じられる中、単勝オッズ3.5倍の1番人気<ref name="優駿-1990-7-49">『優駿』1990年7月号 4-9頁</ref>。皐月賞で先着されたハクタイセイが3.9倍の2番人気、アイネスフウジンが5.3倍の3番人気と続いた。スタートからハクタイセイが先手を取るも、アイネスフウジンが逃げ、メジロライアンは中団に位置<ref name="優駿-1990-7-140143">『優駿』1990年7月号 140-143頁</ref>。アイネスフウジンがミドルペースで逃げる中、メジロライアンは第3コーナーから外に持ち出して追い上げを開始した<ref name="優駿-1990-7-140143" />。直線では単騎で逃げるアイネスフウジンに、末脚でもって迫ったが、1馬身4分の1及ばず2着<ref name="優駿-1990-7-49" /><ref name="優駿-1990-7-140143" />。オーナーブリーダーのメジロ系列としては4度目の東京優駿2着となり<ref name="優駿-1990-7-140143" />、横山は「北野のおばあちゃん<ref group="注釈">北野豊吉の妻で、当時メジロの総帥であった[[北野ミヤ]]を指す。</ref>に申し訳なかった<ref name="ryan2" />」と語っている。(競走についての詳細は、[[第57回東京優駿]]を参照。)

その後は夏休みとなり、8月の[[函館記念]]から始動を予定して[[函館競馬場]]に入厩したが、調整中に脚を捻って出走を回避<ref>『優駿』1990年10月号 21頁</ref><ref>『名馬列伝メジロライアン』p.85</ref>。10月14日、菊花賞のトライアル競走である[[京都新聞杯]]({{GII}})で始動、単勝オッズ2.7倍の1番人気に推された。スタートから中団に位置し、大外から末脚を発揮して「余力すら感じさせる手応え<ref name="優駿-1990-12-144145">『優駿』1990年12月号 144-145頁</ref>」(永井春二)で差し切って優勝、重賞2勝目を挙げた<ref name="優駿-1990-12-144145" />。2分12秒3で走破し、重馬場ながらコースレコードを更新した<ref name="優駿-1990-12-144145" />。

続いて11月4日の菊花賞({{GI}})に出走。皐月賞、東京優駿で先着されたハクタイセイ、アイネスフウジンはともに故障により戦線離脱しており、メジロライアンが菊花賞の最有力馬と捉えられて<ref name="ryan3">井口(2001)p.54</ref>、当日は単枠指定制度が適用<ref name="優駿-1991-1-146149">『優駿』1991年1月号 146-149頁</ref>。加えて、単勝オッズ2.2倍の1番人気に支持された。スタートから後方に位置、1周目の直線で中団の後方に位置を上げた<ref name="優駿-1991-1-146149" />。2周目は中団の外に持ち出して、追い上げを開始<ref name="優駿-1991-1-146149" /><ref name="優駿-1990-12-1217">『優駿』1990年12月号 12-17頁</ref>。直線では先に抜け出していた4番人気の[[メジロマックイーン]]を目指して、外から追い込んだが、差し切るには至らず<ref name="優駿-1990-12-1217" />。メジロマックイーンに突き放され、2馬身半以上離された3着<ref name="優駿-1991-1-146149" />。奥平によれば、競走前の調教でメジロライアンが、当時格下だったメジロマックイーンに先着することができなかったことから「菊花賞で負けるとすれば(メジロ)マックイーンだろう<ref>江面(1998)p.54</ref>」と予感していたという。


クラシック三冠競走では、すべて3着以内となり、かつ無冠<ref name="優駿-1990-12-1819">『優駿』1990年12月号 18-19頁</ref>。これは、1964年の皐月賞3着、東京優駿2着、菊花賞2着となった[[ウメノチカラ]]([[シンザン]]が三冠を達成)以来の出来事であった<ref name="優駿-1990-12-1819" />。
明け4歳シーズンとなった1990年はオープン戦の[[ジュニアカップ]]から始動すると、デビュー以来3連勝中・[[中央競馬クラシック三冠|クラシック]]候補の一角と目されていたプリミエールを破って勝利し、陣営はクラシックへの手応えを得る<ref name="ryan" />。続いて出走した[[皐月賞]]への前哨戦・[[弥生賞]]では、[[馬場状態#不良馬場|不良馬場]]で行われた中で後方に控えると、直線では密集した馬群をこじ開けるようにしながら一気に抜け出して優勝し、重賞初制覇を果たした<ref name="ryan2">井口(2001)p.53</ref>。圧倒的な1番人気に推されていた前年の[[JRA賞最優秀2歳牡馬|最優秀3歳牡馬]]・[[アイネスフウジン]]を4着に退けての勝利に、横山は「ゴールの瞬間、この先が全部見えた気がしましたね。皐月賞も、ダービーも」というコメントを残した<ref name="ryan2" />。のちに横山は当時を振り返り、クラシックを意識したかとの問いに「全部勝てると思ったよ(笑)」と語っている<ref>『名馬列伝メジロライアン』p.84</ref>。


==== GIで勝ち切れず ====
===== 有馬記念 =====
ファン投票で4位となる11万6982票を集め<ref>『優駿』1991年1月号 54頁</ref>、12月23日の[[有馬記念]]({{GI}})に出走。メジロ牧場の「ライアンに勝たせたい」という意向を汲んだ[[池江泰郎]]調教師がファン投票16位のメジロマックイーンを回避させていた<ref name="ryan3" />。当日は、菊花賞でメジロマックイーンに次ぐ2着となったホワイトストーンが単勝オッズ3.3倍の1番人気、天皇賞(秋)2着で屈腱炎明け3戦目で同じ奥平厩舎の[[メジロアルダン]]が4.2倍の2番人気、メジロライアンは4.7倍の3番人気となった<ref name="優駿-1991-2-613">『優駿』1991年2月号 6-13頁</ref><ref name="netkeiba-有馬記念">{{Cite web|和書|title=有馬記念|1990年12月23日 |url=https://db.netkeiba.com/race/199006050809/|website=netkeiba.com|accessdate=2021-11-10}}</ref>。また、引退レースを宣言した[[オグリキャップ]]が5.5倍の4番人気に推され、以上の4頭までがオッズ一桁台であった<ref name="netkeiba-有馬記念" />。
迎えた皐月賞では、混戦模様を呈す中でアイネスフウジンに次ぐ2番人気に支持された。しかしレースでは後方に控えると、最後の直線要所で進路を失う形となり<ref>井口(2001)p.54</ref>、残り200mでようやく先頭を窺い追い込むも、[[ハクタイセイ]]の3着に敗れた。明確な不利を受けての敗戦に、続く日本ダービーでは、売上げ・入場者数が史上最高を記録した中で1番人気に支持される。しかし今度はアイネスフウジンが後続を終始引き離し、レースレコードでの逃げ切り勝利を見せ、後方から追い込んだメジロライアンは2着に終わった。馬主のメジロ牧場にとっては、初代オーナーの[[北野豊吉]]所有馬であった[[メジロオー]]から数えて、これでダービー通算4度目の2着となり、横山は「[[北野ミヤ|北野のおばあちゃん]]<ref group="注">北野豊吉の妻で、当時メジロの総帥であった北野ミヤのこと。</ref>に申し訳なかった」と語った<ref name="ryan2" />。(競走詳細については[[第57回東京優駿]]を参照のこと)


スタートから逃げる[[オサイチジョージ]]がスローペースを形成し、メジロライアンは中団に位置<ref name="優駿-1991-2-613" />。最終コーナーでは、オグリキャップがオサイチジョージをかわして先に抜け出していた<ref name="優駿-1991-2-138141">『優駿』1991年2月号 138-141頁</ref>。直線では、オグリキャップをめぐって内からホワイトストーン、外からメジロライアンが迫ったが、いずれも4分の3馬身敵わず<ref name="優駿-1991-2-138141" />。2頭の2位争いの末、メジロライアンがホワイトストーンを制したところで入線し2着となった<ref name="優駿-1991-2-138141" />。横山は「きっちり差せると思ったけど、オグリの底力の方が上だった<ref>『名馬列伝メジロライアン』p.86</ref>」と述懐している(競走に関する詳細については、[[第35回有馬記念]]を参照。この競走における大川慶次郎との関わりについては、[[メジロライアン#メジロライアンと大川慶次郎]]を参照)。
その後はクラシック三冠最終戦の菊花賞に備えて休養に入った。当初は8月の[[函館記念]]から始動の予定であったが、レースに向けての調整中に脚を捻って出走を回避する<ref>『名馬列伝メジロライアン』p.85</ref>。態勢を立て直したのち、10月の[[京都新聞杯]]で改めて復帰。この競走では逃げた[[オースミロッチ]]を直線だけで半馬身差し切り、重賞2勝目を挙げた。重馬場ながら優勝タイム2分12秒3はコースレコードであった。


==== 5-6歳(1991-92年) ====
春のクラシックを制したハクタイセイとアイネスフウジンはいずれも故障で戦線を離脱しており、メジロライアンは名実ともに菊花賞に向けての最有力馬となった<ref name="ryan3">井口(2001)p.54</ref>。11月4日に迎えた菊花賞では、[[単勝]][[オッズ]]2.2倍の1番人気に支持された。しかし先行した新興勢力の[[メジロマックイーン]]、[[ホワイトストーン]]を捉えきれず3着に終わり、結局クラシックでは無冠に終わった。なお、競走前の調教でライアンは当時格下だったマックイーンに先着することができず、奥平は「菊花賞で負けるとすればマックイーンだろう」と予感していたという<ref>江面(1998)p.54</ref>。
5歳となった1991年は、3月10日の[[中山記念]]({{GII}})から始動。単勝オッズ1.4倍の1番人気で出走し、スローペースで逃げた[[ユキノサンライズ]]を捉えきれず2着<ref>『優駿』1991年5月号 146-147頁</ref>。この間に熱発となったが<ref name="優駿-1991-8-134137">『優駿』1991年8月号 134-137頁</ref>、4月28日の[[天皇賞(春)]]({{GI}})に出走。メジロライアンに加え、メジロマックイーンとホワイトストーンも単枠指定制度の対象となり、史上2例目の単枠3頭は<ref name="優駿-1991-7-142145">『優駿』1991年7月号 142-145頁</ref>、前年まで[[イナリワン]]、オグリキャップ、[[スーパークリーク]]が形成した[[平成三強]]になぞらえて「'''新三強'''」とも呼ばれた<ref name="優駿-2021-6-9297" /><ref name="優駿-1991-6-5661">『優駿』1991年6月号 56-61頁</ref>。人気も3頭に集中し、メジロマックイーン、メジロライアン、ホワイトストーンの順となり、この3頭のみがオッズ一桁台であった<ref>{{Cite web|和書|title=天皇賞(春)|1991年4月28日 |url=https://db.netkeiba.com/race/199108040410/|website=netkeiba.com|accessdate=2021-11-10}}</ref>。最内枠から発走し後方に位置<ref name="優駿-1991-7-142145" />。[[メジロパーマー]]が逃げてスローペースを作り、メジロマックイーンが5、6番手、メジロライアンは後方から数えて3、4番手であった<ref name="優駿-1991-6-5661" />。2周目の第3コーナーからは、メジロマックイーンが好位からスムーズに進路を確保する一方、メジロライアンは馬群から抜け出せずに追い遅れた<ref name="優駿-1991-7-142145" />。直線では既にメジロマックイーンが抜け出していて敵わず、2位争いとなったが、7番人気ミスターアダムスと12番人気[[オースミシャダイ]]に先着されて4着となった<ref name="優駿-1991-7-142145" />。


続いて6月9日、阪神競馬場が改修工事のため京都競馬場で代替された[[宝塚記念]]({{GI}})に出走。「新三強」が再び揃ったが、メジロマックイーンだけが単枠指定制度の対象となった<ref name="優駿-1991-8-134137" />。人気は、メジロマックイーンが単勝オッズ1倍台。メジロライアンとホワイトストーンはオッズ4倍台であった<ref>{{Cite web|和書|title=宝塚記念|1991年6月9日 |url=https://db.netkeiba.com/race/199108050810/|website=netkeiba.com|accessdate=2021-11-12}}</ref>。スタートから中団で1周目のゴール板を通過<ref name="優駿-1991-8-134137" />。第1コーナーから2コーナーにかけて、他の馬と接触し行きたがる仕草を見せたが、横山はそれを妨げず位置を上げさせ<ref name="優駿-1991-8-134137" />、向こう正面は3番手で追走した<ref name="優駿-1991-7-4247">『優駿』1991年7月号 42-47頁</ref>。第3コーナー坂の下りで逃げるイイデサターンや、2番手のホワイトストーンに並びかけてかわし、最終コーナーを単独先頭で通過<ref name="優駿-1991-8-134137" /><ref name="優駿-1991-7-4247" />。直線では、馬場の悪い内側を避けて外を回り、後続を突き放しにかかった。大外から追い込むメジロマックイーンに1馬身半差をつけて先頭で入線、{{GI}}6度目の出走で初勝利となった<ref name="優駿-1991-7-4247" />。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=oY9BufaB_w8&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1991年 宝塚記念<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}
年末には[[グランプリ (中央競馬)|グランプリ]]・[[有馬記念]]にファン投票第4位選出で出走。メジロマックイーンは「ライアンに勝たせたい」というメジロの意向を汲んだ管理調教師の[[池江泰郎]]が回避させていた<ref name="ryan3" />。当日は菊花賞2着のホワイトストーン、厩舎の先輩馬メジロアルダンに続く3番人気に支持される。レースは4-5番手を進み直線で抜け出しを図ったが、数戦のスランプから本競走を最後に引退が決まっていた「怪物」[[オグリキャップ]]の復活劇の前にまたも2着に敗れ、4歳シーズンを終えた。横山は「きっちり差せると思ったけど、オグリの底力の方が上だった」と述べている<ref>『名馬列伝メジロライアン』p.86</ref>。
また、2着はメジロマックイーンとなり、1971年の優勝馬[[メジロムサシ]]、2着[[メジロアサマ]]以来20年ぶりとなるメジロ系列による1着2着独占となった<ref name="優駿-1991-8-134137" />。横山は、ウイニングランを終えて退場する際に、ヘルメットをとってスタンドに一礼<ref name="優駿-1991-7-4247" />。横山にとっては、父の[[横山富雄]]が前出のメジロムサシに騎乗して勝利を挙げており、父子二代宝塚記念優勝を成し遂げている<ref name="優駿-2021-6-9297" />。


その後は、夏休みを函館競馬場で過ごしたが、調教中に軽い脚部不安<ref name="優駿-1991-11-11">『優駿』1991年11月号 11頁</ref>、右前脚の[[屈腱炎]]を発症<ref name="優駿-1992-5-154155">『優駿』1992年5月号 154-155頁</ref>。暮れのファン投票で4位となる11万4216票を集めて<ref>『優駿』1992年1月号 36頁</ref>、有馬記念で復帰するも12着、1992年1月の[[アメリカジョッキークラブカップ]]({{GII}})でも6着となり、連敗とした。3月22日の[[日経賞]]({{GII}})は、重馬場で出走。中団から、位置を上げながら追走し、最終コーナーを先頭で通過<ref name="優駿-1992-5-154155" />。直線では進路を、一般に馬場状態が悪いとされる内側に選択し、突き放した<ref name="優駿-1992-5-154155" />。後方に2馬身半差をつけて入線、重賞4勝目、10カ月ぶりの勝利を挙げた<ref name="優駿-1992-5-154155" />。横山は「第9レースに乗った時に馬場状態は内も外も同じくらい悪く、むしろ内の方が馬場が締まっていたから、思い切ってインを走ってやろうと考えていたんです。それに、(メジロ)ライアンは道悪がうまいので、他馬が気にするぶん有利と判断したんですよ<ref name="優駿-1992-5-154155" />。」と回顧している。
==== GI制覇 - 故障引退 ====
翌1991年は得意の中距離戦である[[中山記念]]から始動するも、スローペースで逃げた[[牝馬]]の[[ユキノサンライズ]]を捉えきれず2着。熱発を経て臨んだ[[天皇賞|天皇賞(春)]]では、父子3代天皇賞制覇を成し遂げたメジロマックイーンを後方から追い上げた4着に終わり、競走後には横山典弘の騎乗問題に発展した。しかし周囲の説得もあって続投が決まり、春のグランプリ・宝塚記念に出走する。当日はマックイーンが圧倒的な1番人気、本馬は離れた2番人気であった。レースではこれまでの後方待機策ではなく、第3コーナーから一気にペースを上げて直線入り口で先頭に立つと、そのままゴールまで押し切り、追い込んできたマックイーンに1馬身半差を付けて優勝、念願のGI制覇を果たした<ref group="注">翌1992年の宝塚記念は同期の[[メジロパーマー]]、続く[[1993年]]にはメジロマックイーンも制してメジロ牧場の3年連続優勝となり「メジロ記念」とも言われた。</ref>。


しかし、夏に休養に入った先で[[屈腱炎]]を発症し、秋目標とした天皇賞回避を余儀なくされる。年末の有馬記念で復帰するも12着と大敗し、翌1992年1月の[[アメリカジョッキークラブカップ]](横山の騎乗停止で[[的場均]]騎乗)でも6着に敗れた。続く[[日経賞]]で2着に2馬身半差を付けて復活勝利を挙げるも、直屈腱炎再発し、再休養に入るその後は前年回避の天皇賞(秋)を目指して復帰が図られたが、患部が回復することなく、このまま競走馬引退となった。10月25日、東京競馬場で引退式が行われ、宝塚記念のゼッケン「1」を付けてラトラが披露されたのち、メジロライアンは種牡馬入りのため北海道へ戻った。
の後屈腱炎再発し、再休養。天皇賞(秋)を目指すも復帰することなく、競走馬引退<ref name="優駿-1992-12-102">『優駿』1992年12月号 102頁</ref>。10月25日、東京競馬場で引退式が行われ、宝塚記念優勝時のゼッケン「1」を着用し、ド前を走行し<ref name="優駿-1992-12-102" />


=== 種牡馬 - 功労馬時代 ===
=== 種牡馬時代 ===
メジロライアンの種牡馬入りに際しては、メジロ牧場は[[種牡馬#シンジケート|シンジケート]]の組織を計画したが、勝ちきれなかった競走馬時代の印象に加え、「内国産の二代目は種牡馬として成功しない」という通説や、[[バブル崩壊]]の影響などから会員集めには困難が伴った<ref name="ryan4">吉沢(1997)p.15</ref>。一株480万円を50口、総額2億4000万円という安価に設定されたにもかかわらず、種牡馬としての繋養を引き受けた[[アロースタッド]]がある[[北海道]][[静内町]]の生産者からはほとんど相手にされず、募集地域を拡大してようやく満口となった。その内訳もほとんどは小牧場で占められており、一流牝馬との交配は見込めないものであった<ref name="ryan4" />。
==== 種牡馬時代 ====
メジロライアンの種牡馬入りに際して、メジロ牧場は[[種牡馬#シンジケート|シンジケート]]の組織を計画したが、勝ちきれなかった競走馬時代の印象に加え、「内国産の二代目は種牡馬として成功しない」という通説、[[バブル崩壊]]の影響などから会員集めには困難が伴った<ref name="ryan4">吉沢(1997)p.15</ref>。一株480万円を50口、総額2億4000万円という安価に設定されたにも関わらず、種牡馬としての繋養を引き受けた[[アロースタッド]]がある[[北海道]][[静内町]]の生産者からはほとんど相手にされず、募集地域を拡大してようやく満口となった。その内訳もほとんどは小牧場で占められ、一流牝馬との交配は見込めないものであった<ref name="ryan4" />。
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| 1=Mejiro Dober 19991121R1.jpg
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しかし、1996年に初年度産駒がデビューすると、12月に[[メジロドーベル]]が3歳女王戦・[[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神3歳牝馬ステークス]]に優勝して早々に産駒GI勝利を挙げ、ほか[[メジロブライト]]が[[ホープフルステークス (中央競馬)|ラジオたんぱ杯3歳ステークス]]に勝利、[[エアガッツ]]も3勝を挙げるといった活躍を見せ、内国産馬として七冠馬[[シンボリルドルフ]]以来6年ぶりに新種牡馬ランキングの首位を獲得。3歳総合ランキングでも[[ブライアンズタイム]]に次ぐ2位を記録した。同年春時点の種付け料は初年度の150万円から60万円まで下落していたが、翌1997年春に行われた種付け株の[[セリ市 (競馬)|競り市]]では、交配権が当年の内国産種牡馬最高額の613万円で取引された<ref>井口(2001)p.55</ref>。輸入種牡馬の産駒や[[外国産馬]]が大勢を占めていた中で、内国産二代目であるメジロライアンの活躍は大きな注目を集め、戦後内国産種牡馬の道筋を開いたとされている五冠馬[[シンザン]]の種牡馬時代を手掛けた[[谷川弘一郎]]は、「日本の牧場で草を食んだ馬が日本の競馬を支えるのが理想。その意味ではメジロライアンの子がマル外(外国産馬)を敵に回して勝つことを期待しています。きっとシンザンも草葉の陰で喜んでいると思います」と語った<ref>横尾(1997)p.35</ref>。
しかし、1996年に初年度産駒がデビューすると、12月に[[メジロドーベル]]が[[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神3歳牝馬ステークス]]に優勝して産駒初{{GI}}勝利ほか[[メジロブライト]]が[[ホープフルステークス (中央競馬)|ラジオたんぱ杯3歳ステークス]]に勝利、エアガッツも3勝を挙げるといった活躍を見せ、内国産馬として七冠馬[[シンボリルドルフ]]以来6年ぶりに新種牡馬ランキングの首位を獲得。3歳総合ランキングでも[[ブライアンズタイム]]に次ぐ2位を記録した。同年春時点の種付け料は初年度の150万円から60万円まで下落していたが、翌1997年春に行われた種付け株の[[セリ市 (競馬)|競り市]]では、交配権が当年の内国産種牡馬最高額の613万円で取引された<ref>井口(2001)p.55</ref>。輸入種牡馬の産駒や[[外国産馬]]が大勢を占めていた中で、内国産二代目であるメジロライアンの活躍は大きな注目を集め、戦後内国産種牡馬の道筋を開いたとされている五冠馬[[シンザン]]の種牡馬時代を手掛けた谷川弘一郎は、「日本の牧場で草を食んだ馬が日本の競馬を支えるのが理想。その意味ではメジロライアンの子がマル外(外国産馬)を敵に回して勝つことを期待しています。きっとシンザンも草葉の陰で喜んでいると思います<ref>横尾(1997)p.35</ref>」と語っている


メジロドーベルとメジロブライトは翌年以降も活躍を続け、最終的にドーベルは牝馬として当時最多のGI競走5勝を挙げ、ブライトは1998年にライアンが勝てなかった天皇賞(春)を制した。産駒からのGI優勝馬はこの2頭のみとなったが、重賞勝利馬は以降もコンスタントに輩出し、メジロライアンは内国産の有力種牡馬としての地位を確立した。メジロ牧場専務の岩崎伸道は、「どんな繁殖牝馬が相手でも、ライアンに似た子が生まれてくるんですね。アンバーシャダイは骨質が非常に丈夫でライアンもその長所を受け継いでタフに走りましたが、産駒は外見だけではなくそうした内面の長所もよく受け継いでいます」と、その特徴を語っている<ref name="ryan4" />
メジロドーベルとメジロブライトは翌年以降も活躍を続け、最終的にメジロドーベルは牝馬として当時最多のGI競走5勝、メジロブライトは1998年にメジロライアンが勝てなかった天皇賞(春)を制した。産駒からのGI優勝馬はこの2頭のみとなったが、重賞勝利馬は以降もコンスタントに輩出し、メジロライアンは内国産の有力種牡馬としての地位を確立。メジロ牧場専務の岩崎伸道は、「どんな繁殖牝馬が相手でも、ライアンに似た子が生まれてくるんですね。アンバーシャダイは骨質が非常に丈夫でライアンもその長所を受け継いでタフに走りましたが、産駒は外見だけではなくそうした内面の長所もよく受け継いでいます<ref name="ryan4" />」と、その特徴を語っている。


2006年に交配相手の受胎率が5割を切るという授精能力の低下が見られ、同年9月にシンジケートが解散。メジロ牧場の個人所有で翌2007年も種牡馬生活を続行したものの、11頭に種付けをしてすべて不受胎であったこれが決定打となり、この年で種牡馬引退となっ。なお、メジロライ後継種牡馬となっいたが、2004年10歳で死亡。唯一の重賞勝利駒が[[せん]]([[去勢]]れた馬)である[[マキハタサイボーグ]]で、[[サイアーライン]]の継続はできなかった
2006年に交配相手の受胎率が5割を切るという授精能力の低下が見られ、同年9月にシンジケートが解散<ref>{{Cite web|和書|title=メジロライアン、シンジケート解散(23日) 新|url=https://p.keibabook.co.jp/news/detail/40348|website=競馬ブック|accessdate=2021-11-10}}</ref>。メジロ牧場の個人所有で翌2007年も種牡馬生活を続行したものの、11頭に種付けをしてすべて不受胎。この年限りで種牡馬引退<ref>{{Cite web|和書|title=メジロライアン引退し故郷戻る | 馬地ニュース |url=https://uma-furusato.com/news/50555.html|website=競走のふると案内所|accessdate=2021-11-10}}</ref>


種牡馬引退後はしばらくの間は故郷・メジロ牧場で功労馬として余生を送っていた。牧場での繋養のみならず、2007年、2008年、2010年にはそれぞれ[[函館競馬場]]で催されたイベントに参加し、競走用の馬装に、宝塚記念優勝時のゼッケン「1」を着けた姿が一般ファンに披露された。いずれの年もメジロの[[勝負服 (競馬)|勝負服]]を着用した横山典弘が騎乗し、本馬場に出てキャンターを披露した<ref>『優駿』2007年9月号、p.90「メジロライアンが函館競馬場に登場! - 本馬場でファンにキャンターを披露」</ref>。
=== 引退後 ===
種牡馬引退後はしばらくの間は故郷・メジロ牧場で功労馬として余生を送っていた。牧場での繋養のみならず、2007年、2008年、2010年にはそれぞれ[[函館競馬場]]で催されたイベントに参加し、競走用の馬装に、宝塚記念優勝時のゼッケン「1」を着けた姿が一般ファンに披露された。いずれの年もメジロの[[勝負服 (競馬)|勝負服]]を着用した横山典弘が騎乗し、本馬場に出てキャンターを披露。20歳を超える年齢ながら横山が「飛ばし過ぎちゃったね」と苦笑いするほど軽快な走りを見せた<ref>『優駿』2007年9月号、p.90「メジロライアンが函館競馬場に登場! - 本馬場でファンにキャンターを披露」</ref>。


2011年にメジロ牧場が閉鎖されると、同牧場の設備を引き継いだ[[レイクヴィラファーム]]で余生を送ていた。2016年3月17日老衰で死亡した<ref>[http://www.meiba.jp/news/view/2316 メジロライアンの死亡について] - 引退名馬、2016年3月17日閲覧。[https://web.archive.org/web/20160317041057/http://www.meiba.jp/news/view/2316 ウェブアーカイブ]</ref>。遺骨は、横山典弘騎手の資金提供でレイクヴィラファーム内に建立された墓へ6月21日に納骨された<ref>http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160621-00000503-sanspo-horse 6月21日閲覧</ref>。
2011年にメジロ牧場が閉鎖されると、所有は同牧場の設備を引き継いだ[[レイクヴィラファーム]]に代わった<ref name="引退名馬-死亡" />。2016年3月17日、[[老衰]]により29歳で死亡<ref name="引退名馬-死亡">[http://www.meiba.jp/news/view/2316 メジロライアンの死亡について] - 引退名馬、2016年3月17日閲覧。[https://web.archive.org/web/20160317041057/http://www.meiba.jp/news/view/2316 ウェブアーカイブ]</ref><ref>{{Cite web|和書|title=メジロライアンが老衰のため死亡 29歳 {{!}} 競馬ニュース|url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=108274|website=netkeiba.com|accessdate=2021-11-12|language=ja}}</ref>。遺骨は、横山典弘騎手の資金提供でレイクヴィラファーム内に建立された墓へ6月21日に納骨された<ref>https://web.archive.org/web/20160701095435/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160621-00000503-sanspo-horse 6月21日閲覧</ref>。


== 競走成績 ==
== 競走成績 ==
以下の内容は、[[netkeiba.com]]<ref>{{Cite web|和書|title=メジロライアンの競走成績 {{!}} 競走馬データ|url=https://db.netkeiba.com/horse/1987105368/|website=netkeiba.com|accessdate=2021-11-04|language=ja}}</ref>およびJBISサーチ<ref>{{Cite web|和書|title=競走成績:全競走成績|メジロライアン|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000201489/record/|website=JBISサーチ|accessdate=2021-11-04}}</ref>の情報に基づく。
{| style="font-size: 90%; border-collapse: collapse; text-align: center;white-space:nowrap"
{| style="border-collapse: collapse; font-size: 90%; text-align: center; white-space: nowrap;"
! colspan="3" |競走日
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|-
|-
|[[1989年|1989]].
| style="text-align: center;" colspan="3"|年月日
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|-
|
|
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| 函館
|函館
| 3歳新馬
|3歳新馬
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|
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| [[マキハタビッグ]]
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|
|
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|10.
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|[[10月29日|29]]
| [[京都競馬場| 京都]]
|[[京都競馬場|京都]]
| 3歳未勝利
|3歳未勝利
|
|
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|-
|-
|
|
| 11.
|11.
| [[11月18日|18]]
|[[11月18日|18]]
| [[東京競馬場| 東京]]
|[[東京競馬場|東京]]
| 3歳未勝利
|3歳未勝利
|
|
|芝1600m(稍)
| 8
| 2
|8
| 2
|2
|2
| 2.6 (2人)
|{{0}}2.6 (2人)
| {{color|red|1着}}
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
| 横山典弘
|{{0}}1:37.5
| 53
| 芝1600m(稍)
| 1:37.5
| (36.5)
| -0.2
| -0.2
|{{0}}横山典弘
| (ダイワヒューストン)
|53
|(ダイワヒューストン)
|510
|-
|-
|
|
| 12.
|12.
| [[12月3日|3]]
|{{0}}[[12月3日|3]]
| [[中山競馬場|中山]]
|[[中山競馬場|中山]]
| 葉牡丹賞
|葉牡丹賞
|{{small|400万下}}
|
|芝2000m(良)
| 11
| 3
|11
| 3
|3
|3
| 4.8 (1人)
|{{0}}4.8 (1人)
| 5着
|{{0}}5着
| [[安田富男]]
|{{0}}2:03.2
| 54
|{{0|-}}1.1
| 芝2000m(良)
|{{0}}[[安田富男]]
| 2:03.2
|54
| (37.6)
|プリミエール
| 1.1
|500
| プリミエール
|-
|-
|
|
| 12.
|12.
| [[12月23日|23]]
|[[12月23日|23]]
| 中山
|中山
| ひいらぎ賞
|ひいらぎ賞
|{{small|400万下}}
|
|芝1600m(良)
| 15
| 2
|15
| 2
|2
|2
| 12.7 (7人)
|12.7 (7人)
| {{color|red|1着}}
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
| 横山典弘
|{{0}}1:35.4
| 54
| 芝1600m(良)
| 1:35.4
| (36.4)
| -0.3
| -0.3
|{{0}}横山典弘
| (トモエジョイナー)
|54
|(トモエジョイナー)
|504
|-
|-
| [[1990年|1990]]
|[[1990年|1990]].
| 1.
|{{0}}1.
| [[1月20日|20]]
|[[1月20日|20]]
| 中山
|中山
| [[中央競馬のオープン特別競走#ジュニアカップ|ジュニアC]]
|[[中央競馬のオープン特別競走#ジュニアカップ|ジュニアカップ]]
| OP
|{{OP}}
|芝2000m(稍)
| 9
| 6
|9
| 6
|6
|6
| 5.7 (2人)
|{{0}}5.7 (2人)
| {{color|red|1着}}
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
| 横山典弘
|{{0}}2:04.6
| 55
|{{0|-}}0.0
| 芝2000m(稍)
|{{0}}横山典弘
| 2:04.6
|55
| (36.4)
|(プリミエール)
| 0.0
|518
| (プリミエール)
|-
|-
|
|
| 3.
|{{0}}3.
| [[3月4日|4]]
|{{0}}[[3月4日|4]]
| 中山
|中山
| [[弥生賞]]
|[[弥生賞ディープインパクト記念|弥生賞]]
| {{color|blue|GII}}
|{{JRAGII}}
|芝2000m(不)
| 14
| 8
|14
| 14
|8
|14
| 5.7 (2人)
|{{0}}5.7 (2人)
| {{color|red|1着}}
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
| 横山典弘
|{{0}}2:05.4
| 55
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| (38.2)
| -0.3
| -0.3
|{{0}}横山典弘
| ([[ツルマルミマタオー]])
|55
|(ツルマルミマタオー)
|512
|-
|-
|
|
| 4.
|{{0}}4.
| [[4月15日|15]]
|[[4月15日|15]]
| 中山
|中山
| [[皐月賞]]
|[[皐月賞]]
| {{color|red|GI}}
|{{JRAGI}}
|芝2000m(良)
| 18
| 7
|18
| 13
|7
|13
| 5.0 (2人)
|{{0}}5.0 (2人)
| 3着
|{{0}}{{color|darkgreen|3着}}
|横山典弘
|{{0}}2:02.5
| 57
|{{0|-}}0.3
| 芝2000m(良)
|{{0}}横山典弘
| 2:02.5
|57
| (36.9)
|[[ハクタイセイ]]
| 0.3
|512
| [[ハクタイセイ]]
|-
|-
|
|
| 5.
|{{0}}5.
| [[5月27日|27]]
|[[5月27日|27]]
| 東京
|東京
| [[東京優駿]]
|[[東京優駿]]
| {{color|red|GI}}
|{{JRAGI}}
|芝2400m(良)
| 22
| 3
|22
| 6
|3
|6
| 3.5 (1人)
|{{0}}3.5 (1人)
| 2着
|{{0}}{{color|darkblue|2着}}
| 横山典弘
|{{0}}2:25.5
| 57
|{{0|-}}0.2
| 芝2400m(良)
|{{0}}横山典弘
| 2:25.5
|57
| (35.9)
|[[アイネスフウジン]]
| 0.2
|506
| [[アイネスフウジン]]
|-
|-
|
|
| 10.
|10.
| [[10月14日|14]]
|[[10月14日|14]]
| 京都
|京都
| [[京都新聞杯]]
|[[京都新聞杯]]
| {{color|blue|GII}}
|{{JRAGII}}
|芝2200m(重)
| 15
| 6
|15
| 11
|6
|11
| 2.7 (1人)
|{{0}}2.7 (1人)
| {{color|red|1着}}
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
| 横山典弘
|{{color|darkred|R2.12.3}}
| 57
| 芝2200m(重)
| {{color|red|R2.12.3}}
| (35.0)
| -0.1
| -0.1
|{{0}}横山典弘
| (グローバルエース)
|57
|(グローバルエース)
|516
|-
|-
|
|
| 11.
|11.
| [[11月4日|4]]
|{{0}}[[11月4日|4]]
| 京都
|京都
| [[菊花賞]]
|[[菊花賞]]
| {{color|red|GI}}
|{{JRAGI}}
|芝3000m(重)
| 17
| 8
|17
| 18
|8
|18
| 2.2 (1人)
|{{0}}2.2 (1人)
| 3着
|{{0}}{{color|darkgreen|3着}}
| 横山典弘
|{{0}}3:06.6
| 57
|{{0|-}}0.4
| 芝3000m(重)
|{{0}}横山典弘
| 3:06.6
|57
| (35.5)
|[[メジロマックイーン]]
| 0.4
|516
| [[メジロマックイーン]]
|-
|-
|
|
| 12.
|12.
| [[12月23日|23]]
|[[12月23日|23]]
| 中山
|中山
| [[有馬記念]]
|[[有馬記念]]
| {{color|red|GI}}
|{{JRAGI}}
|芝2500m(良)
| 16
| 3
|16
| 5
|3
|5
| 4.7 (3人)
|{{0}}4.7 (3人)
| 2着
|{{0}}{{color|darkblue|2着}}
| 横山典弘
|{{0}}2:34.3
| 55
|{{0|-}}0.1
| 芝2500m(良)
|{{0}}横山典弘
| 2:34.3
|55
| (35.0)
|[[オグリキャップ]]
| 0.1
|518
| [[オグリキャップ]]
|-
|-
| [[1991年|1991]]
|[[1991年|1991]].
| 3.
|{{0}}3.
| [[3月10日|10]]
|[[3月10日|10]]
| 中山
|中山
| [[中山記念]]
|[[中山記念]]
| {{color|blue|GII}}
|{{JRAGII}}
|芝1800m(良)
| 11
| 7
|11
| 9
|7
|9
| 1.4 (1人)
|{{0}}1.4 (1人)
| 2着
|{{0}}{{color|darkblue|2着}}
| 横山典弘
|{{0}}1:47.9
| 57
|{{0|-}}0.7
| 芝1800m(良)
|{{0}}横山典弘
| 1:47.9
|57
| (35.5)
|[[ユキノサンライズ]]
| 0.7
|522
| [[ユキノサンライズ]]
|-
|-
|
|
| 4.
|{{0}}4.
| [[4月28日|28]]
|[[4月28日|28]]
| 京都
|京都
| [[天皇賞#天皇賞(春)|天皇賞(春)]]
|[[天皇賞(春)]]
| {{color|red|GI}}
|{{JRAGI}}
|芝3200m(良)
| 18
| 1
|18
| 1
|1
|1
| 4.3 (2人)
|{{0}}4.3 (2人)
| 4着
|{{0}}4着
| 横山典弘
|{{0}}3:19.3
| 58
|{{0|-}}0.5
| 芝3200m(良)
|{{0}}横山典弘
| 3:19.3
|58
| (36.0)
|メジロマックイーン
| 0.5
|516
| メジロマックイーン
|-
|-
|
|
| 6.
|{{0}}6.
| [[6月9日|9]]
|{{0}}[[6月9日|9]]
| 京都
|京都
| [[宝塚記念]]
|[[宝塚記念]]
| {{color|red|GI}}
|{{JRAGI}}
|芝2200m(良)
| 10
| 1
|10
| 1
|1
|1
| 4.2 (2人)
|{{0}}4.2 (2人)
| {{color|red|1着}}
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
| 横山典弘
|{{0}}2:13.6
| 56
| 芝2200m(良)
| 2:13.6
| (36.0)
| -0.2
| -0.2
|{{0}}横山典弘
| (メジロマックイーン)
|56
|(メジロマックイーン)
|512
|-
|-
|
|
| 12.
|12.
| [[12月22日|22]]
|[[12月22日|22]]
| 中山
|中山
| 有馬記念
|有馬記念
| {{color|red|GI}}
|{{JRAGI}}
|芝2500m(良)
| 15
| 8
|15
| 15
|8
|15
| 9.7 (5人)
|{{0}}9.7 (5人)
| 12着
|12着
| 横山典弘
|{{0}}2:32.0
| 57
|{{0|-}}1.4
| 芝2500m(良)
|{{0}}横山典弘
| 2:32.0
|57
| (36.7)
|[[ダイユウサク]]
| 1.4
|518
| [[ダイユウサク]]
|-
|-
| [[1992年|1992]]
|[[1992年|1992]].
| 1.
|{{0}}1.
| [[1月26日|26]]
|[[1月26日|26]]
| 中山
|中山
| [[アメリカジョッキークラブカップ|AJC杯]]
|[[アメリカジョッキークラブカップ|アメリカJCC]]
| {{color|blue|GII}}
|{{JRAGII}}
|芝2200m(良)
| 11
| 6
|11
| 7
|6
|7
| 2.7 (1人)
|{{0}}2.7 (1人)
| 6着
|{{0}}6着
| [[的場均]]
|{{0}}2:13.6
| 59
|{{0|-}}0.8
| 芝2200m(良)
|{{0}}[[的場均]]
| 2:13.6
|59
| (35.6)
|[[トウショウファルコ]]
| 0.8
|522
| [[トウショウファルコ]]
|-
|-
|
|
| 3.
|{{0}}3.
| [[3月22日|22]]
|[[3月22日|22]]
| 中山
|中山
| [[日経賞]]
|[[日経賞]]
| {{color|blue|GII}}
|{{JRAGII}}
|芝2500m(重)
| 11
| 7
|11
| 9
|7
|9
| 2.7 (1人)
|{{0}}2.7 (1人)
| {{color|red|1着}}
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
| 横山典弘
|{{0}}2:38.3
| 59
| 芝2500m(重)
| 2:38.3
| (37.5)
| -0.4
| -0.4
|{{0}}横山典弘
| ([[カリブソング]])
|59
|([[カリブソング]])
|524
|}
|}
*タイム欄の{{color|red|R}}はレコード勝ちを示す。
*タイム欄の{{color|darkred|R}}はレコード勝ちを示す。


== 特徴・エピソード ==
== 特徴・エピソード ==
468行目: 495行目:


=== メジロライアンと横山典弘 ===
=== メジロライアンと横山典弘 ===
[[主戦騎手]]を務めた[[横山典弘]]は、当時デビュー4年目の若手騎手であり、その心技の成長にメジロライアンが大きく関わった。当時の横山はその騎乗技術を高く評価されていた一方、素行が悪く、問題児としても知られていた<ref>市丸(1994)p.132</ref>。そうした中で素質馬のメジロライアンを任され、自ら「ライアンが一番強い」と発言を続けながら、時に騎乗ミスもあり敗戦を重ねたことが、自身を見つめ直すきっかけとなった。後にメジロライアンの引退式で挨拶に立った横山は「ライアンの仔に乗ってGIを勝ちたい」と語りながら、衆目の中で涙を流した。横山はこの理由について、「ひどく寂しかった」と述べている<ref name="ryan10">『名馬列伝メジロライアン』p.89</ref>。ライターの[[須田鷹雄]]はこの出来事を評して、横山の涙の性質には「自分を育ててくれた馬に対する涙」と「馬に十分なことをしてやれなかったという悔いを含んだ涙」の二つがあるとし、特に後者に注目して「つまり、活躍していた頃のライアンですら、さらなる可能性を残していたということだ。しかもそれは、『横山典が泣くほどのこと』なのだ。ひょっとするとメジロライアンは、史上有数の未完の大器なのかもしれない」と述べている<ref name="ryan9">『名馬列伝メジロライアン』p.109</ref>。横山は『名馬列伝メジロライアン』の発刊に際して行われたインタビューにおいて、ライアンが一番強いという思いは変わらないかとの質問に「ええ、全然変わりません」と述べた<ref name="ryan10" />。
[[主戦騎手]]を務めた[[横山典弘]]は、当時デビュー4年目の若手騎手であり、その心技の成長にメジロライアンが大きく関わった。当時の横山はその騎乗技術を高く評価されていた一方、素行が悪く、問題児としても知られていた<ref>市丸(1994)p.132</ref>。そうした中で素質馬のメジロライアンを任され、自ら「ライアンが一番強い」と発言を続けながら、時に騎乗ミスもあり敗戦を重ねたことが、自身を見つめ直すきっかけとなった。後にメジロライアンの引退式で挨拶に立った横山は「ライアンの仔に乗ってGIを勝ちたい」と語りながら、衆目の中で涙を流した。横山はこの理由について、「ひどく寂しかった<ref name="ryan10">『名馬列伝メジロライアン』p.89</ref>」と述べている。ライターの[[須田鷹雄]]はこの出来事を評して、横山の涙の性質には「自分を育ててくれた馬に対する涙」と「馬に十分なことをしてやれなかったという悔いを含んだ涙」の二つがあるとし、特に後者に注目して「つまり、活躍していた頃のライアンですら、さらなる可能性を残していたということだ。しかもそれは、『横山典が泣くほどのこと』なのだ。ひょっとするとメジロライアンは、史上有数の未完の大器なのかもしれない<ref name="ryan9">『名馬列伝メジロライアン』p.109</ref>」と述べている。横山は『名馬列伝メジロライアン』の発刊に際して行われたインタビューにおいて、ライアンが一番強いという思いは変わらないかとの質問に「ええ、全然変わりません」と述べた<ref name="ryan10" />。


横山はメジロライアンの引退後もその能力について「俺がもっとうまく乗って上げられればライアンはもっと勝っていた。ライアンの実力はあんなもんではない」と長年語っていたが、後に「前はそんな風に思っていたけど、今、冷静に考えるとアイネスフウジンも強い馬です。それなりのラップで逃げて最後までばてなかったのだから、凄い馬だったんです」と語っている<ref>平松(2015)p.7</ref>。2001年に受けたインタビューにおいては、メジロライアンが自身に与えた影響について、次のように述べている。
横山はメジロライアンの引退後もその能力について「俺がもっとうまく乗って上げられればライアンはもっと勝っていた。ライアンの実力はあんなもんではない」と長年語っていたが、後に「前はそんな風に思っていたけど、今、冷静に考えるとアイネスフウジンも強い馬です。それなりのラップで逃げて最後までばてなかったのだから、凄い馬だったんです」と語っている<ref>平松(2015)p.7</ref>。2001年に受けたインタビューにおいては、メジロライアンが自身に与えた影響について、次のように述べている。
474行目: 501行目:


=== メジロライアンと大川慶次郎 ===
=== メジロライアンと大川慶次郎 ===
4歳時に有馬記念で2着となった際、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]『[[スーパー競馬]]』で解説を務めていた[[大川慶次郎]]が、レース最後の直線で「ライアン!」と叫ぶ声がマイクに拾われ、全国に放送された。解説者の声が実況に混じるという事は非常に珍しく<ref group="注">ただし、大川は[[1983年]]の[[第3回ジャパンカップ]]で[[キョウエイプロミス]]、[[1984年]]の菊花賞で[[ゴールドウェイ]]の名を叫び、それぞれマイクに拾われている。</ref>、またこの後、優勝したオグリキャップのファンであった[[明石家さんま]]が、「ビデオ録画していたら、変なおっさんが『ライアン』と叫んでた」と自らの番組で話の種にた<ref name="ryan6">『名馬列伝メジロライアン』p.97</ref>ほか、この有馬記念翌日の[[1990年]][[12月24日|12月24日(クリスマス・イブ)]]の『[[笑っていいとも!特大号|笑っていいとも!イブ特大号]]』ではさんま自ら大川のものまねで『[[クリスマス・イブ (山下達郎の曲)|クリスマス・イブ]]』([[山下達郎]])を歌った<ref group="注">さんまは歌の途中で何度も「ライアン!」と叫び大川のものまねであることをアピールしたが、客席の反応は極めて悪かったため、途中から[[横山やすし]]のものまねに切り替えている。</ref>ことから競馬ファン以外にも知られるところとなり、この競走が語られる際に必ず付いて回るエピソードとなった。大川自身はライアンがオグリキャップに勝てるとは思っていなかったといい、その上で実況の[[大川和彦]]がオグリキャップの名前しか呼んでいなかったため、「放送している以上、2着も言わなきゃいけないでしょ。残るライアン、きっとライアンって」というつもりで叫んだとい<ref name="ryan6" />。また大川はこの出来事について、著書の中で「"ライアン"という名前は、4文字で最後が"ン"なので力が入りやすく、叫びやすい語感であったことも、あれだけ話題になったひとつの要因だったかもしれません」と述べている<ref>大川(1999)p.123</ref>{{#tag:ref|大川はこの件で競馬ファンからオグリキャップが嫌いだったのかと思われることもあったというが、本人はこれを否定し<ref>大川(1997)p.147</ref><ref>大川(1998)p.310</ref>、同馬を「顕彰馬の中でもトップクラスの馬」<ref>大川(1997)p.146</ref>、「戦後、5本の指に入るほど、魅力的な馬」<ref>『名馬列伝オグリキャップ』p.113</ref>と評している。|group="注"}}。
4歳時に有馬記念で2着となった際、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]『[[スーパー競馬]]』で解説を務めていた[[大川慶次郎]]が、レース最後の直線で「ライアン!」と叫ぶ声がマイクに拾われ、全国に放送された。また、優勝したオグリキャップのファンであった[[明石家さんま]]が、「ビデオ録画していたら、変なおっさんが『ライアン』と叫んでた」と自らの番組で話の種にするほどであった<ref name="ryan6">『名馬列伝メジロライアン』p.97</ref>。大川自身はライアンがオグリキャップに勝てるとは思っていなかったと述懐しており、その上で実況の[[大川和彦]]がオグリキャップしか呼んでいなかったため、「放送している以上、2着も言わなきゃいけないでしょ。残るライアン、きっとライアンって」というつもりで叫んだとして<ref name="ryan6" />。また大川はこの出来事について、著書の中で「"ライアン"という名前は、4文字で最後が"ン"なので力が入りやすく、叫びやすい語感であったことも、あれだけ話題になったひとつの要因だったかもしれません<ref>大川(1999)p.123</ref>」とした{{#tag:ref|大川はこの件で競馬ファンからオグリキャップが嫌いだったのかと思われることもあったというが、本人はこれを否定し<ref>大川(1997)p.147</ref><ref>大川(1998)p.310</ref>、同馬を「顕彰馬の中でもトップクラスの馬」<ref>大川(1997)p.146</ref>、「戦後、5本の指に入るほど、魅力的な馬」<ref>『名馬列伝オグリキャップ』p.113</ref>と評している。|group="注"}}。


このエピソードを除いても、ライアンは大川の気に入っていた馬であった。大川は馬格が貧弱ながら第一線で活躍していたアンバーシャダイを気に掛けており、その父に瓜二つで、なおかつ父が持っていなかった立派な体格を備えていたメジロライアンを「アンバーシャダイの理想型」と見ていた<ref>『名馬列伝メジロライアン』p.93</ref>。さらに1989年に腎臓摘出手術を受けた後に落ち込みが続き、「もう競馬を見られるかどうか分からない」と考えていた頃、ライアンが勝った弥生賞を見たことで「もういっぺん競馬をやりたいなって気になった」といい、「落ち込んだときにね、僕を奮い立たせてくれたのがライアンなんです。やっぱり、何て言うかな、僕にはライアンが切り離せないんだなあ」と述べている<ref>『名馬列伝メジロライアン』pp.95-96</ref>。
このエピソードを除いても、ライアンは大川の気に入っていた馬であった。大川は馬格が貧弱ながら第一線で活躍していたアンバーシャダイを気に掛けており、その父に瓜二つで、なおかつ父が持っていなかった立派な体格を備えていたメジロライアンを「アンバーシャダイの理想型<ref>『名馬列伝メジロライアン』p.93</ref>」と見ていた。さらに1989年に腎臓摘出手術を受けた後に落ち込みが続き、「もう競馬を見られるかどうか分からない」と考えていた頃、ライアンが勝った弥生賞を見たことで「もういっぺん競馬をやりたいなって気になった」といい、「落ち込んだときにね、僕を奮い立たせてくれたのがライアンなんです。やっぱり、何て言うかな、僕にはライアンが切り離せないんだなあ<ref>『名馬列伝メジロライアン』pp.95-96</ref>」と述べている


=== その他 ===
=== その他 ===
* 3歳時に骨膜炎で休養に出された際、たてがみの根元に[[夏癬]]を発症し、痒みを取ろうと牧柵に首を擦りつけてたてがみが抜け落ちていたことから、担当厩務員の小島浩三によってたてがみが短く刈り揃えられ、以後これが常態化して「ライアン・カット」と呼ばれた<ref name="ryan8" />。この髪型は競走馬引退後も続けられていた(本項写真を参照のこと)
* 3歳時に骨膜炎で休養に出された際、たてがみの根元に[[夏癬]]を発症し、痒みを取ろうと牧柵に首を擦りつけてたてがみが抜け落ちていたことから、担当厩務員の小島浩三によってたてがみが短く刈り揃えられ、以後これが常態化して「ライアン・カット」と呼ばれた<ref name="ryan8" />。
*軽い脚部不安をきたした5歳の夏休みは、メジロ牧場で放牧されていた<ref name="優駿-1991-11-11" />。放牧中は、食欲が盛んで、青草を食べすぎるため、放牧は昼までに制限されていた<ref name="優駿-1991-11-11" />。
* 皐月賞でハクタイセイ、菊花賞でメジロマックイーンとホワイトストーン、有馬記念でオグリキャップ、中山記念でユキノサンライズと、いずれも[[芦毛|芦毛馬]]に敗れており、「芦毛に弱い」という印象を持たれていた<ref group="注">競馬漫画家の[[よしだみほ]]が自らの作中で題材として取り上げており、作家の典厩五郎もこの事に触れている。</ref>。
* 同じくメジロ牧場で生まれた同期の[[メジロパーマー]]とは、アロースタッド時代は馬房が隣同士で、種牡馬引退後のメジロ牧場でも馬房が隣同士と縁が深い。なお、クラシック戦線で活躍した本馬と古馬になって本格化したパーマーは活躍時期が違うため、2頭の現役時代の対戦は1991年の天皇賞(春)のみである。


== 主な産駒 ==
==評価==
===日本国内での評価===

{| class=wikitable
|-
| colspan="11"| 全日本フリーハンデ
|-
| rowspan="2" | 年度
| colspan="3" | 部門
| rowspan="2" | 順位
| rowspan="2" | Rate
| rowspan="2" | kg
| rowspan="2" | 備考
| rowspan="2" | 出典
|-
| 齢
| 場
| 距
|-
|1989
|3歳
|芝
|
|63位
|
|51.5
|{{refnest|group="注釈"|63位タイ(芝9頭、ダート7頭)。この年の2歳部門の首位は、芝は[[ヤマニングローバル]]59.0kg、ダートは[[テッセンスーパー]]59.0kgだった。[[朝日杯3歳ステークス]]優勝の[[アイネスフウジン]]は58.5kgで3位、[[阪神3歳ステークス]]優勝の[[コガネタイフウ]]は57.5kgで4位。皐月賞を勝つ[[ハクタイセイ]]は54kgで20位タイ、[[ホワイトストーン]]はメジロライアンとおなじ51.5kgで63位タイ。<ref name="全日本FH1989-2YO"/>}}
| <ref name="全日本FH1989-2YO">『【競馬】全日本フリーハンデ 1989-1994』pp.49-68</ref>
|-
|1990
|4歳
|芝
|2400m
|{{Color|darkgreen|3位}}
|109
|62.0
|{{refnest|group="注釈"|この年に日本で走った4歳馬の首位は外国馬[[ベルメッツ]]の130ポイント(73kg)。2位は日本馬アイネスフウジン112ポイント(63.5kg)で、メジロライアン・ハクタイセイ・ホワイトストーンの3頭が109ポイント(62.0kg)で3位タイに並んだ。メジロマックイーンは108ポイント(61.5kg)で単独6位。<ref name="全日本FH1990-3YO-表"/>}}
|<ref name="全日本FH1990-3YO-表">『【競馬】全日本フリーハンデ 1989-1994』pp.202-211</ref>
|-
|1991
|古馬
|芝
|2400m
|10位
|113
|63.5
|{{refnest|group="注釈"|この年に日本で走った4歳以上馬の首位は外国馬[[ゴールデンフェザント]]の126ポイント(71kg)。日本馬ではメジロマックイーン117ポイント(65.5kg)の6位タイが最高。これに次いで[[ダイユウサク]]と[[ダイイチルビー]]が111ポイント(62.5kg)で11位タイ。<ref name="全日本FH1991-4YO-表"/>}}
|<ref name="全日本FH1991-4YO-表">『【競馬】全日本フリーハンデ 1989-1994』pp.404-425</ref>
|-
|1992
|古馬
|芝
|2400m
|12位
|110
|61.5
|{{refnest|group="注釈"|この年に日本で走った4歳以上馬の首位は[[トウカイテイオー]]で127ポイント(70kg)。次いでディアドクターで126ポイント(71kg)。ハンデキャップはディアドクターのほうが1kg上だが、レーティングに換算する際の日本馬への調整3ポイント(当時)により順位が逆転している <ref name="全日本FH1992-4UP-概説">『【競馬】全日本フリーハンデ 1989-1994』pp.546-547</ref>。このほかメジロマックイーンが3200m部門で122ポイント(67.5kg)で5位タイ(3200m部門に限定すると1位)、メジロパーマーが116ポイント(64.5kg)で8位、カミノクレッセが111ポイント(62.0kg)で11位で、12位の110ポイントにはメジロライアンとレッツゴーターキン。<ref name="全日本FH1992-4UP-表"/>}}
| <ref name="全日本FH1992-4UP-表">『【競馬】全日本フリーハンデ 1989-1994』pp.548-565</ref>
|-
|}

{| class="wikitable"
|-
| colspan="8" | 中央競馬フリーハンデ
|-
| 年度
| 部門
| 順位
| kg
| 備考
| 出典
|-
|1989
|3歳(東)
|7位タイ
|52
|{{Efn|アサヒパシィオン、チョウカイエース、ハシノケンシロウ、マイネルグランツ、マイネルハイル、ヤマタケサリーが並ぶ。1位は「55」のアイネスフウジン。「54」のプリミエール、「53」のカムイフジ、クロスキャスト、サクラサエズリ、ドライビングモールに続く評価であった。}}
| <ref>『優駿』1990年2月号 70頁</ref>
|-
|1990
|4歳
|{{Color|darkgreen|3位タイ}}
|60
|{{Efn|[[ハクタイセイ]]、[[ホワイトストーン]]が並ぶ。1位「63」のアイネスフウジン、「61」のメジロマックイーンに続く評価。以下、「58」の[[アグネスフローラ]]、「57」のアズマイーストと続く。}}
|<ref>『優駿』1991年2月号 71-72頁</ref>
|-
|1991
|5歳以上
|{{Color|darkblue|2位タイ}}
|61
|{{Efn|[[ダイユウサク]]と並ぶ。1位「63」のメジロマックイーンに続く評価。以下「60」の[[プレクラスニー]]、「59」の[[ダイタクヘリオス]]と続いた。}}
|<ref>『優駿』1992年2月号 13頁</ref>
|-
|1992
|5歳以上
|6位タイ
|59
|{{Efn|[[カミノクレッセ]]と並ぶ。1位「65」のトウカイテイオー、「63」のメジロマックイーン、「62」のメジロパーマー、「60」のダイタクヘリオスとレッツゴーターキンに続く評価であった。以下「58」はオースミロッチとナイスネイチャが続く。}}
| <ref>『優駿』1993年2月号</ref>
|}

== 種牡馬成績 ==
以下の内容は、JBISサーチの情報に基づく<ref>{{Cite web|和書|title=種牡馬情報:世代・年次別(サラ系総合)|メジロライアン|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000201489/sire/generation/thorough_s/|website=JBISサーチ|accessdate=2022-01-12}}</ref>。
{| class="wikitable"
!種付年度
!種付頭数
!生産頭数
!血統登録頭数
!出走頭数
!勝馬頭数
!重賞勝馬頭数
![[アーニングインデックス|AEI]]
![[コンパラブルインデックス|CPI]]
|-
!1993
|63
|51
|50
|44
|27
|4
|3.97
|
|-
!1994
|55
|37
|36
|31
|23
|0
|1.63
|
|-
!1995
|57
|46
|46
|42
|19
|1
|0.90
|
|-
!1996
|67
|48
|48
|43
|23
|2
|1.43
|
|-
!1997
|92
|79
|78
|70
|48
|0
|1.15
|
|-
!1998
|117
|86
|87
|77
|52
|0
|1.22
|
|-
!1999
|105
|95
|95
|88
|55
|1
|1.02
|
|-
!2000
|127
|99
|95
|83
|52
|1
|0.63
|
|-
!2001
|93
|72
|70
|66
|34
|1
|0.92
|
|-
!2002
|74
|51
|48
|42
|22
|0
|0.73
|
|-
!2003
|81
|60
|57
|51
|30
|0
|1.06
|
|-
!2004
|88
|63
|58
|51
|27
|2
|0.71
|
|-
!2005
|78
|55
|51
|48
|22
|0
|0.34
|
|-
!2006
|48
|22
|23
|19
|11
|-
|0.49
|
|-
!2007
|11
|0
|0
|0
|-
|-
|-
|
|-
! colspan="3" |合計
|842
|755
|445
|12
|1.12
|1.12
|}

* 出走頭数、勝馬頭数、重賞勝馬頭数、[[アーニングインデックス]]、[[コンパラブルインデックス]]は、[[平地競走]]に限る。

=== 主な産駒 ===
'''太字強調'''は、{{GI}}級競走優勝馬である。
*1994年産
*1994年産
**[[メジロブライト]]('''[[天皇賞#天皇賞(春)|天皇賞・春]]'''、[[ステイヤーズステークス]]、[[アメリカジョッキークラブカップ]]、[[阪神大賞典]]、[[日経新春杯]])
**[[メジロブライト]]('''[[天皇賞(春)|天皇賞・春]]'''、[[ステイヤーズステークス]]、[[アメリカジョッキークラブカップ]]、[[阪神大賞典]]、[[日経新春杯]]、[[共同通信杯4歳ステークス]]、[[ラジオたんぱ杯3歳ステークス]])<ref>{{Cite web|和書|title=メジロブライト|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000286650/|website=JBISサーチ|accessdate=2021-11-12}}</ref>
** [[メジロドーベル]]('''[[優駿牝馬]]'''、'''[[秋華賞]]'''、'''[[エリザベス女王杯]]'''2勝、'''[[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神3歳牝馬ステークス]]'''、[[オールカマー]]、[[府中牝馬ステークス]])
** [[メジロドーベル]]('''[[優駿牝馬]]'''、'''[[秋華賞]]'''、'''[[エリザベス女王杯]]'''2勝、'''[[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神3歳牝馬ステークス]]'''、[[オールカマー]]、[[府中牝馬ステークス]])<ref>{{Cite web|和書|title=メジロドーベル|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000286632/|website=JBISサーチ|accessdate=2021-11-12}}</ref>
**エアガッツ([[ラジオNIKKEI賞|ラジオたんぱ賞]])
**[[エアガッツ]]([[ラジオNIKKEI賞|ラジオたんぱ賞]])<ref>{{Cite web|和書|title=エアガッツ|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000287202/|website=JBISサーチ|accessdate=2021-11-12}}</ref>
*1996年産
*1996年産
**メジロロンザン([[東京ハイジャンプ]]、[[東京オータムジャンプ]])
**[[メジロロンザン]]([[東京ハイジャンプ]]、[[東京オータムジャンプ]])<ref>{{Cite web|和書|title=メジロロンザン|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000308840/|website=JBISサーチ|accessdate=2021-11-12}}</ref>
*1997年産
*1997年産
**トーホウドリーム([[大阪杯]])
**[[トーホウドリーム]]([[大阪杯|産経大阪杯]])<ref>{{Cite web|和書|title=トーホウドリーム|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000319991/|website=JBISサーチ|accessdate=2021-11-12}}</ref>
**[[ウインブレイズ]]([[カブトヤマ記念]]、[[福島記念]]、[[鳴尾記念]])
**[[ウインブレイズ]]([[カブトヤマ記念]]、[[福島記念]]、[[鳴尾記念]])<ref>{{Cite web|和書|title=ウインブレイズ|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000318033/|website=JBISサーチ|accessdate=2021-11-12}}</ref>
*2000年産
*2000年産
**タマモリッチ([[サラブレッドチャレンジカップ]])
**タマモリッチ([[サラブレッドチャレンジカップ]])<ref>{{Cite web|和書|title=タマモリッチ|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000702130/|website=JBISサーチ|accessdate=2021-11-12}}</ref>
*2001年産
*2001年産
**[[メジロベイシンガー]]([[新潟ジャンプステークス]])
**[[メジロベイシンガー]]([[新潟ジャンプステークス]])<ref>{{Cite web|和書|title=メジロベイシンガー|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000729899/|website=JBISサーチ|accessdate=2021-11-12}}</ref>
*2002年産
*2002年産
**スキップジャック([[京王杯2歳ステークス]])
**スキップジャック([[京王杯2歳ステークス]])<ref>{{Cite web|和書|title=スキップジャック|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000733290/|website=JBISサーチ|accessdate=2021-11-12}}</ref>
*2005年産
*2005年産
**[[レッツゴーキリシマ]]([[関屋記念]])
**[[レッツゴーキリシマ]]([[関屋記念]])<ref>{{Cite web|和書|title=レッツゴーキリシマ|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000884491/|website=JBISサーチ|accessdate=2021-11-12}}</ref>


== 血統表 ==
== 血統表 ==
{{競走馬血統表
{{競走馬血統表
|name = メジロライアン
|name = メジロライアン
|ref1= <ref name="jbispe">{{Cite web|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000201489/pedigree/ |title=血統情報:5代血統表|メジロライアン|work=JBISサーチ(JBIS-Search)|publisher=JBIS 日本軽種馬協会|accessdate=2021-05-17}}</ref>
|ref1= <ref name="jbispe">{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000201489/pedigree/ |title=血統情報:5代血統表|メジロライアン|website=JBISサーチ|publisher=日本軽種馬協会|accessdate=2021-05-17}}</ref>
|mlin = [[ノーザンテースト系]]
|mlin = [[ノーザンテースト系]]
|ref2 = <ref name="netkeiba_ped">{{Cite web|url=https://db.netkeiba.com/horse/ped/1987105368/|title=メジロライアンの血統表|work=[[netkeiba.com]]|publisher=株式会社ネットドリーマーズ|accessdate=2021-05-17}}</ref>
|ref2 = <ref name="netkeiba_ped">{{Cite web|和書|url=https://db.netkeiba.com/horse/ped/1987105368/|title=メジロライアンの血統表|website=[[netkeiba.com]]|publisher=株式会社ネットドリーマーズ|accessdate=2021-05-17}}</ref>
|flin =シェリル系
|flin =シェリル系
|FN = [[8号族|8-c]]
|FN = [[8号族|8-c]]
|ref3 = <ref name="jbispe"/>
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|inbr = Lady Angela 5×4(父内)、[[ブルリー|Bull Lea]] 5×5(父内)、[[ネアルコ|Nearco]] 5×5、[[ハイペリオン (競走馬)|Hyperion]] 5×5×5
|inbr = [[ネアルコ|Nearco]] 5×5、[[ハイペリオン (競走馬)|Hyperion]] 5×5・5、Lady Angela 5・4(父内)、[[ブルリー|Bull Lea]] 5・5(父内)
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|f = [[アンバーシャダイ]]<br />1977 鹿毛
|f = [[アンバーシャダイ]]<br />1977 鹿毛
|m = メジロチエイサー<br />1977 鹿毛
|m = メジロチエイサー<br />1977 鹿毛
|ff = *[[ノーザンテースト]]<br />Northern Taste <br />1971 栗毛
|ff = *[[ノーザンテースト]]<br />Northern Taste <br />1971 栗毛
|fm = *クリアアンバー<br />Clear Amber<br />1967 黒鹿毛
|fm = *[[クリアアンバー]]<br />Clear Amber<br />1967 黒鹿毛
|mf = メジロサンマン<br />1963 鹿毛
|mf = メジロサンマン<br />1963 鹿毛
|mm = *[[シェリル (競走馬)|シェリル]]<br />Cheryl<br />1971 鹿毛
|mm = *[[シェリル (競走馬)|シェリル]]<br />Cheryl<br />1971 鹿毛
530行目: 832行目:
|fffm = [[ナタルマ|Natalma]]
|fffm = [[ナタルマ|Natalma]]
|ffmf = [[ヴィクトリアパーク (競走馬)|Victoria Park]]
|ffmf = [[ヴィクトリアパーク (競走馬)|Victoria Park]]
|ffmm = Lady Angela
|ffmm = [[レディアンジェラ|Lady Angela]]
|fmff = Ambiorix
|fmff = Ambiorix
|fmfm = Bull Poise
|fmfm = Bull Poise
544行目: 846行目:
|mmmm = Barley Corn
|mmmm = Barley Corn
|}}
|}}
*本馬の半姉メジロフルマーは[[日経賞]]・[[目黒記念]]など6勝、半姉メジロアニタは[[京都大障害]]など障害競走3勝<ref name="yamano1996">[[山野浩一]]・[[吉沢譲治]]:編著、『サラブレッド血統事典』(全面改訂)、[[二見書房]]、1996年(初版)、ISBN 4-576-95202-1。pp.584-585「メジロライアン」</ref>。
近親には祖母シェリルの産駒に、天皇賞を勝ち、種牡馬としてもメジロマックイーンを輩出した[[メジロティターン]]がいる。
*祖母[[シェリル (競走馬)|シェリル]]はフランスで[[オペラ賞]]に勝ち、日本での産駒に[[天皇賞・秋]]など7勝の[[メジロティターン]](メジロマックイーンの父)<ref name="yamano1996"/>。そのほか近親に[[ササフラ]]([[フランスダービー]])<ref>[[白井透]]:編集発行、『競馬四季報』第22巻第3号(通巻87号)(1993秋号)、[[サラブレッド血統センター]]、1993年。p.1704</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
<references group="注" />

=== 出典 ===
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
{{Reflist|2}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*[[山野浩一]]『【競馬】全日本フリーハンデ 1989-1994』、[[リトル・モア]]、1997年(初版)。ISBN 4-947648-48-1。
*[[市丸博司]]『サラブレッド怪物伝説―スーパーホース激走カタログ101』(広済堂出版、1994年)ISBN 4331652025
*[[市丸博司]]『サラブレッド怪物伝説―スーパーホース激走カタログ101』(広済堂出版、1994年)ISBN 4331652025
*大川慶次郎『大川慶次郎殿堂馬を語る』(ゼスト、1997年)ISBN 4916090527。
*大川慶次郎『大川慶次郎殿堂馬を語る』(ゼスト、1997年)ISBN 4916090527。
565行目: 870行目:
*『名馬物語(VOLUME 1)』([[アスキー (企業)|アスキー]]、1998年)ISBN 4757202148
*『名馬物語(VOLUME 1)』([[アスキー (企業)|アスキー]]、1998年)ISBN 4757202148
**江面弘也「メジロライアン」
**江面弘也「メジロライアン」
*『[[優駿]]』1997年3月号([[日本中央競馬会]]、1997年
*『[[優駿]]』([[日本中央競馬会]])
**1990年2月号
**[[吉沢譲治]]「メジロライアン物語」
***「【1989年度フリーハンデ決定】3歳 ヤマニングローバル、アイネスフウジンが55キロ。コガネタイフウ54キロ。」
**横尾一彦「シンザンの父系」
**1990年5月号
*『優駿』2001年5月号(日本中央競馬会、2001年)
***「【第50回皐月賞詳報】その血ふたたび、白いハイセイコー ハクタイセイ」
**[[井口民樹]]「サラブレッドヒーロー列伝 - メジロライアン ダービーの夢はこどもたちに」
***古宮正弘([[スポーツ報知|報知新聞]])「【今月の記録室】第27回報知杯弥生賞({{GII}}) メジロライアン」
*『優駿』2015年9月号(日本中央競馬会)
**1990年6月号
**[[平松聡|平松さとし]]「デビュー30周年記念大特集 横山典弘 名馬との軌跡 - 苦楽を共にしたベストパートナー・メジロライアン この馬と出会い、階段を上った」
***[[吉沢譲治]]「【第57回日本ダービー・スペシャル】アンバーシャダイ・メジロライアン ノーザンテーストの正式後継馬」
***石井誠(報知新聞)「【今月の記録室】第50回皐月賞({{GI}})ハクタイセイ」
**1990年7月号
***「【第57回日本ダービー詳報】逃げゆく先が栄光の座、19万ファンも祝福コール、アイネスフウジン」
***桜井裕夫([[スポーツニッポン]])「【今月の記録室】第57回日本ダービー({{GI}})アイネスフウジン」
**1990年10月号
***[[柏木集保]]「【'90秋 4歳馬戦線の動向】二冠馬ともにリタイア。ダービーでレコードタイムの出た年は!?」
**1990年12月号
***「【第51回菊花賞詳報】脈々とステイヤーの血、父の名はメジロティターン、メジロマックイーン」
***高橋源一郎「【第51回菊花賞観戦記】芦毛は続くよ、どこまでも」
***永井晴二(スポーツニッポン)「【今月の記録室】第38回京都新聞杯<菊花賞トライアル>({{GII}}) メジロライアン」
**1991年1月号
***「【練熟か、若さか '90FINAL RUN】第35回有馬記念ファン投票結果」
**1991年2月号
***「【1990年度フリーハンデ決定】4歳馬 メジロマックイーン61キロ。ハクタイセイ、ホワイトストーン、メジロライアンは並べて60キロ。」
***「【第35回有馬記念詳報】平成2年、熱狂のフィナーレ、ヒーローは死なず、オグリキャップ」
***榎本正男([[道新スポーツ]])「【今月の記録室】第35回有馬記念<グランプリ>({{GI}}) オグリキャップ」
**1991年5月号
***吉川彰彦「【今月の記録室】第65回中山記念({{GII}}) ユキノサンライズ」
**1991年6月号
***「【第103回天皇賞(春)速報】人は3連覇、馬は父子3代制覇、メジロマックイーン」
**1991年7月号
***「【第32回宝塚記念速報】人馬渾身。これは6度目の正直です。メジロライアン」
***船曳彦亟(スポーツニッポン)「【今月の記録室】第103回天皇賞(春)({{GI}}) メジロマックイーン」
**1991年8月号
***寺田文雄([[デイリースポーツ]])「【今月の記録室】第32回宝塚記念({{GI}})メジロライアン」
**1991年11月号
***「【'91秋{{GI}}戦線開幕】第104回天皇賞(秋)」
**1992年1月号
***「【第36回有馬記念&'91ジョッキーズグランプリ】第36回有馬記念ファン投票結果」
**1992年5月号
***小峰隆([[日本経済新聞]])「【今月の記録室】第40回日経賞({{GII}})」
**1992年12月号
***「【今月のトピックス】メジロライアン引退式 東京で最後の雄姿 そして新たな旅立ち」
**1993年2月号
***「【1992年度フリーハンデ決定】5歳以上 メジロマックイーンは、1991年と同じ63キロ。」
**1997年3月号
***吉沢譲治「メジロライアン物語」
***横尾一彦「シンザンの父系」
**2001年5月号
***[[井口民樹]]「【サラブレッドヒーロー列伝】メジロライアン ダービーの夢はこどもたちに」
**2015年9月号
***[[平松聡|平松さとし]]「【デビュー30周年記念大特集 横山典弘 名馬との軌跡】苦楽を共にしたベストパートナー・メジロライアン」
**2021年6月号
***[[斎藤修 (ジャーナリスト)|斎藤修]]「【未来に語り継ぎたい名馬物語 63】メジロライアンの歩んだ道」


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* {{競走馬成績|netkeiba=1987105368|yahoo=1987105368|jbis=0000201489|racingpost=468119}}
* {{競走馬成績|netkeiba=1987105368|yahoo=1987105368|jbis=0000201489|racingpost=468119/mejiro-ryan}}
* {{競走馬のふるさと案内所|0000201489|メジロライアン}}
* {{競走馬のふるさと案内所|0000201489|メジロライアン}}
* {{Meiba.jp|1987105368|メジロライアン}}
* {{Meiba.jp|1987105368|メジロライアン}}


{{宝塚記念勝ち馬}}
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[[Category:1987年生 (競走馬)|日めしろらいあん]]
[[Category:1987年生 (競走馬)|日めしろらいあん]]

2024年12月6日 (金) 14:22時点における最新版

メジロライアン
函館競馬場にて(2007年8月5日)。鞍上は現役時代の主戦騎手を務めた横山典弘。
欧字表記 Mejiro Ryan[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 鹿毛[1]
生誕 1987年4月11日[1]
死没 2016年3月17日(29歳没)[2]
アンバーシャダイ[1]
メジロチエイサー[1]
母の父 メジロサンマン[1]
生国 日本の旗 日本北海道伊達市
生産者 メジロ牧場[1]
馬主 (有)メジロ牧場[1]
調教師 奥平真治美浦[1]
調教助手 萱野浩二
厩務員 小島浩三[3]
競走成績
生涯成績 19戦7勝[1]
獲得賞金 4億9204万400円[4]
勝ち鞍
GI 宝塚記念 1991年
GII 弥生賞 1990年
GII 京都新聞杯 1990年
GII 日経賞 1992年
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メジロライアン(欧字名:Mejiro Ryan1987年4月11日 - 2016年3月17日)は、日本競走馬種牡馬[1]

1990年の中央競馬クラシック三冠競走では、1964年のウメノチカラ以来となる3戦3敗、3着以内を記録。1991年には、平成三強に代わる「新三強」をメジロマックイーンホワイトストーンとともに形成して春古馬路線を争い、宝塚記念GI)を優勝した。神様に愛された馬と呼ばれた[5]。1993年より種牡馬となり、GI競走5勝を挙げたメジロドーベル天皇賞(春)優勝馬メジロブライトらの父となった。

その他の勝ち鞍に、1990年の弥生賞GII)、京都新聞杯GII)。1992年の日経賞GII)。

生涯

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デビューまで

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誕生までの経緯

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メジロチエイサーは、1977年に北海道伊達市メジロ牧場で生産された牝馬である[6]。父は、1967年の目黒記念(秋)を優勝したメジロサンマンであった[7]。メジロチエイサーは、栗東トレーニングセンター所属の伊藤修司厩舎の下、1982年までに26戦3勝[6]。引退後は、メジロ牧場で繁殖牝馬となり、1983年には初仔を生産した[8]。1984年に生産した2番仔の牝馬(父:ロンバード)は、後にメジロフルマーと命名され、1988年の日経賞GII)、目黒記念GII)など6勝[9]。1986年に生産した4番仔の牝馬(父:メジロエスパーダ)は、後にメジロアニタと命名され、1990年の京都大障害(春)など4勝を挙げた[10]

1986年には、初めてアンバーシャダイとの仔を受胎[8]。牧場は、湿度の高い所に立地することから、交配する種牡馬には骨質の良い馬、重心の低い馬を求めており[11]、牧場長の武田茂男はアンバーシャダイについて「骨質が頑丈にできている点が魅力的[11]」と話している。1987年4月11日、メジロ牧場にて5番仔(後のメジロライアン)が誕生する[1]

幼駒時代

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5番仔は、八大競走勝ち馬の父に、近親に天皇賞(秋)優勝馬メジロティターンなどがいたことから期待され、かつ脚長で幅のある立派な馬体をしており、牧場史上屈指の豊作年であった1987年生産馬の中でも特に高い評価を受けていた[注釈 1]。管理調教師となった奥平真治は、自らの管理馬で非常に見栄えが良かったメジロアルダン高松宮杯優勝、東京優駿2着)と比較すると、首や脚が太く垢抜けない馬であると感じ、「並の馬で、そこそこの期待[14]」と評価するに留まっていた。ただし、「もちろん、オープンにはいってほしい馬だったが[15]」とも述懐している。

5番仔はメジロ牧場が所有し、冠名の「メジロ」に、メジャーリーグベースボールの通算最多奪三振投手ノーラン・ライアンから「ライアン」を組み合わせた「メジロライアン」と命名された[16]

競走馬時代

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3-4歳(1989-90年)

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1989年7月9日、函館競馬場新馬戦(芝1200メートル)に柏崎正次が騎乗してデビュー。道中で真っ直ぐ走らせることに苦労して[17]、勝ち切れず2着。2戦目の新馬戦は、6着に敗れた。その後は、骨膜炎を発症したために休養し、2か月間出走しない間に馬体が著しく良化していった[18]。10月29日、京都競馬場の未勝利戦で復帰。鞍上には奥平の甥にあたり、当時デビュー4年目の見習騎手だった横山典弘に乗り替わって出走し、斜行して3着、以降横山が主戦騎手となっている[4]。続いて11月18日、東京競馬場の未勝利戦(芝1600メートル)では初めて後方待機策をとると、直線だけを使って先行馬をすべて差し切り、4戦目で初勝利を挙げた[19]。それから12月3日の葉牡丹賞(400万円以下)は安田富男が騎乗して5着だったが、12月23日、昇級2戦目のひいらぎ賞(400万円以下)にて横山が騎乗し、再び後方待機から直線で差し切り2勝目[4]。4歳となった1990年を、1月20日のジュニアカップ(OP)では、デビュー以来3連勝中でクラシック候補の一角と目されていたプリミエールを差し切って3勝目[4]。この勝利を機に、陣営はクラシックへの手応えを得るようになったという[19]

続いて3月4日、皐月賞トライアル競走である弥生賞GII)に出走、前日まで雨が降り続いたため不良馬場での開催となった[11]。相手には朝日杯3歳ステークスを勝利し前年のJRA賞最優秀3歳牡馬を受賞したアイネスフウジンのこの年2戦目であり、単勝オッズ1.9倍の1番人気、単枠指定制度の対象となった。対してメジロライアンは、5.7倍の2番人気に推された[11]。スタートからアイネスフウジンが先行して逃げる中、メジロライアンは後方に位置[11]。直線では、アイネスフウジンが馬場の悪い内側を嫌って外にも出す一方で、内を突いて追い上げ、馬群から抜け出すと、アイネスフウジンを残り200メートル地点で内からかわして先頭となった[11][20]。それから、外からツルマルミマタオーの追撃を半馬身かわして入線、重賞初勝利[11]。皐月賞の優先出走権を獲得した[11]。横山は、入線する直前にガッツポーズ。「ゴールの瞬間、この先が全部見えた気がしましたね。皐月賞も、ダービーも[20]」と発言。後に横山は、この時クラシックを意識したかとの問いに対し、「全部勝てると思ったよ(笑)[21]」と改めて回顧している。

クラシック三冠の惜敗
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4月15日、皐月賞(GI)に出走。アイネスフウジンが4.1倍の1番人気に支持され、メジロライアンはそれに次ぐ5.0倍の2番人気、5.6倍の3番人気には5連勝中のハクタイセイが続いた。スタートから後方内側に待機[22]。一方、戦前に逃げ宣言していたアイネスフウジンは、不利を受けて逃げることができず2番手に位置した[23]。直線では要所で進路を失う不利を受け[24]、大外に持ち出してから末脚を繰り出した[25]。追い込んだものの、先行するアイネスフウジン、好位のハクタイセイには敵わず、それらに1馬身4分の3遅れた3着[22]。この敗戦について、勝利したハクタイセイ陣営の布施正調教師は、次戦の東京優駿について「(前略)ライバル? 今度はアイネスフウジンも怖いけど、それ以上にメジロライアンが強敵になるんじゃないですか[22]。」と展望している。

続く5月27日の東京優駿(日本ダービー)(GI)では、当日は東京優駿史上最多入場者数の19万6517人が集まり、東京優駿1競走の史上最多売上となる397億3151万3500円が投じられる中、単勝オッズ3.5倍の1番人気[26]。皐月賞で先着されたハクタイセイが3.9倍の2番人気、アイネスフウジンが5.3倍の3番人気と続いた。スタートからハクタイセイが先手を取るも、アイネスフウジンが逃げ、メジロライアンは中団に位置[27]。アイネスフウジンがミドルペースで逃げる中、メジロライアンは第3コーナーから外に持ち出して追い上げを開始した[27]。直線では単騎で逃げるアイネスフウジンに、末脚でもって迫ったが、1馬身4分の1及ばず2着[26][27]。オーナーブリーダーのメジロ系列としては4度目の東京優駿2着となり[27]、横山は「北野のおばあちゃん[注釈 2]に申し訳なかった[20]」と語っている。(競走についての詳細は、第57回東京優駿を参照。)

その後は夏休みとなり、8月の函館記念から始動を予定して函館競馬場に入厩したが、調整中に脚を捻って出走を回避[28][29]。10月14日、菊花賞のトライアル競走である京都新聞杯GII)で始動、単勝オッズ2.7倍の1番人気に推された。スタートから中団に位置し、大外から末脚を発揮して「余力すら感じさせる手応え[30]」(永井春二)で差し切って優勝、重賞2勝目を挙げた[30]。2分12秒3で走破し、重馬場ながらコースレコードを更新した[30]

続いて11月4日の菊花賞(GI)に出走。皐月賞、東京優駿で先着されたハクタイセイ、アイネスフウジンはともに故障により戦線離脱しており、メジロライアンが菊花賞の最有力馬と捉えられて[31]、当日は単枠指定制度が適用[32]。加えて、単勝オッズ2.2倍の1番人気に支持された。スタートから後方に位置、1周目の直線で中団の後方に位置を上げた[32]。2周目は中団の外に持ち出して、追い上げを開始[32][33]。直線では先に抜け出していた4番人気のメジロマックイーンを目指して、外から追い込んだが、差し切るには至らず[33]。メジロマックイーンに突き放され、2馬身半以上離された3着[32]。奥平によれば、競走前の調教でメジロライアンが、当時格下だったメジロマックイーンに先着することができなかったことから「菊花賞で負けるとすれば(メジロ)マックイーンだろう[34]」と予感していたという。

クラシック三冠競走では、すべて3着以内となり、かつ無冠[35]。これは、1964年の皐月賞3着、東京優駿2着、菊花賞2着となったウメノチカラシンザンが三冠を達成)以来の出来事であった[35]

有馬記念
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ファン投票で4位となる11万6982票を集め[36]、12月23日の有馬記念GI)に出走。メジロ牧場の「ライアンに勝たせたい」という意向を汲んだ池江泰郎調教師がファン投票16位のメジロマックイーンを回避させていた[31]。当日は、菊花賞でメジロマックイーンに次ぐ2着となったホワイトストーンが単勝オッズ3.3倍の1番人気、天皇賞(秋)2着で屈腱炎明け3戦目で同じ奥平厩舎のメジロアルダンが4.2倍の2番人気、メジロライアンは4.7倍の3番人気となった[37][38]。また、引退レースを宣言したオグリキャップが5.5倍の4番人気に推され、以上の4頭までがオッズ一桁台であった[38]

スタートから逃げるオサイチジョージがスローペースを形成し、メジロライアンは中団に位置[37]。最終コーナーでは、オグリキャップがオサイチジョージをかわして先に抜け出していた[39]。直線では、オグリキャップをめぐって内からホワイトストーン、外からメジロライアンが迫ったが、いずれも4分の3馬身敵わず[39]。2頭の2位争いの末、メジロライアンがホワイトストーンを制したところで入線し2着となった[39]。横山は「きっちり差せると思ったけど、オグリの底力の方が上だった[40]」と述懐している(競走に関する詳細については、第35回有馬記念を参照。この競走における大川慶次郎との関わりについては、メジロライアン#メジロライアンと大川慶次郎を参照)。

5-6歳(1991-92年)

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5歳となった1991年は、3月10日の中山記念GII)から始動。単勝オッズ1.4倍の1番人気で出走し、スローペースで逃げたユキノサンライズを捉えきれず2着[41]。この間に熱発となったが[42]、4月28日の天皇賞(春)GI)に出走。メジロライアンに加え、メジロマックイーンとホワイトストーンも単枠指定制度の対象となり、史上2例目の単枠3頭は[43]、前年までイナリワン、オグリキャップ、スーパークリークが形成した平成三強になぞらえて「新三強」とも呼ばれた[4][44]。人気も3頭に集中し、メジロマックイーン、メジロライアン、ホワイトストーンの順となり、この3頭のみがオッズ一桁台であった[45]。最内枠から発走し後方に位置[43]メジロパーマーが逃げてスローペースを作り、メジロマックイーンが5、6番手、メジロライアンは後方から数えて3、4番手であった[44]。2周目の第3コーナーからは、メジロマックイーンが好位からスムーズに進路を確保する一方、メジロライアンは馬群から抜け出せずに追い遅れた[43]。直線では既にメジロマックイーンが抜け出していて敵わず、2位争いとなったが、7番人気ミスターアダムスと12番人気オースミシャダイに先着されて4着となった[43]

続いて6月9日、阪神競馬場が改修工事のため京都競馬場で代替された宝塚記念GI)に出走。「新三強」が再び揃ったが、メジロマックイーンだけが単枠指定制度の対象となった[42]。人気は、メジロマックイーンが単勝オッズ1倍台。メジロライアンとホワイトストーンはオッズ4倍台であった[46]。スタートから中団で1周目のゴール板を通過[42]。第1コーナーから2コーナーにかけて、他の馬と接触し行きたがる仕草を見せたが、横山はそれを妨げず位置を上げさせ[42]、向こう正面は3番手で追走した[47]。第3コーナー坂の下りで逃げるイイデサターンや、2番手のホワイトストーンに並びかけてかわし、最終コーナーを単独先頭で通過[42][47]。直線では、馬場の悪い内側を避けて外を回り、後続を突き放しにかかった。大外から追い込むメジロマックイーンに1馬身半差をつけて先頭で入線、GI6度目の出走で初勝利となった[47]

映像外部リンク
1991年 宝塚記念
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

また、2着はメジロマックイーンとなり、1971年の優勝馬メジロムサシ、2着メジロアサマ以来20年ぶりとなるメジロ系列による1着2着独占となった[42]。横山は、ウイニングランを終えて退場する際に、ヘルメットをとってスタンドに一礼[47]。横山にとっては、父の横山富雄が前出のメジロムサシに騎乗して勝利を挙げており、父子二代宝塚記念優勝を成し遂げている[4]

その後は、夏休みを函館競馬場で過ごしたが、調教中に軽い脚部不安[48]、右前脚の屈腱炎を発症[49]。暮れのファン投票で4位となる11万4216票を集めて[50]、有馬記念で復帰するも12着、1992年1月のアメリカジョッキークラブカップGII)でも6着となり、連敗とした。3月22日の日経賞GII)は、重馬場で出走。中団から、位置を上げながら追走し、最終コーナーを先頭で通過[49]。直線では進路を、一般に馬場状態が悪いとされる内側に選択し、突き放した[49]。後方に2馬身半差をつけて入線、重賞4勝目、10カ月ぶりの勝利を挙げた[49]。横山は「第9レースに乗った時に馬場状態は内も外も同じくらい悪く、むしろ内の方が馬場が締まっていたから、思い切ってインを走ってやろうと考えていたんです。それに、(メジロ)ライアンは道悪がうまいので、他馬が気にするぶん有利と判断したんですよ[49]。」と回顧している。

その後は屈腱炎が再発し、再び休養。天皇賞(秋)を目指すも復帰することなく、競走馬を引退した[51]。10月25日、東京競馬場で引退式が行われ、宝塚記念優勝時のゼッケン「1」を着用し、スタンド前を走行した[51]

種牡馬時代

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メジロライアンの種牡馬入りに際しては、メジロ牧場はシンジケートの組織を計画したが、勝ちきれなかった競走馬時代の印象に加え、「内国産の二代目は種牡馬として成功しない」という通説や、バブル崩壊の影響などから会員集めには困難が伴った[52]。一株480万円を50口、総額2億4000万円という安価に設定されたにもかかわらず、種牡馬としての繋養を引き受けたアロースタッドがある北海道静内町の生産者からはほとんど相手にされず、募集地域を拡大してようやく満口となった。その内訳もほとんどは小牧場で占められており、一流牝馬との交配は見込めないものであった[52]

しかし、1996年に初年度産駒がデビューすると、12月にメジロドーベル阪神3歳牝馬ステークスに優勝して産駒初GI勝利。ほかメジロブライトラジオたんぱ杯3歳ステークスに勝利、エアガッツも3勝を挙げるといった活躍を見せ、内国産馬として七冠馬シンボリルドルフ以来6年ぶりに新種牡馬ランキングの首位を獲得。3歳総合ランキングでもブライアンズタイムに次ぐ2位を記録した。同年春時点の種付け料は初年度の150万円から60万円まで下落していたが、翌1997年春に行われた種付け株の競り市では、交配権が当年の内国産種牡馬最高額の613万円で取引された[53]。輸入種牡馬の産駒や外国産馬が大勢を占めていた中で、内国産二代目であるメジロライアンの活躍は大きな注目を集め、戦後内国産種牡馬の道筋を開いたとされている五冠馬シンザンの種牡馬時代を手掛けた谷川弘一郎は、「日本の牧場で草を食んだ馬が日本の競馬を支えるのが理想。その意味ではメジロライアンの子がマル外(外国産馬)を敵に回して勝つことを期待しています。きっとシンザンも草葉の陰で喜んでいると思います[54]」と語っている。

メジロドーベルとメジロブライトは翌年以降も活躍を続け、最終的にメジロドーベルは牝馬として当時最多のGI競走5勝、メジロブライトは1998年にメジロライアンが勝てなかった天皇賞(春)を制した。産駒からのGI優勝馬はこの2頭のみとなったが、重賞勝利馬は以降もコンスタントに輩出し、メジロライアンは内国産の有力種牡馬としての地位を確立。メジロ牧場専務の岩崎伸道は、「どんな繁殖牝馬が相手でも、ライアンに似た子が生まれてくるんですね。アンバーシャダイは骨質が非常に丈夫でライアンもその長所を受け継いでタフに走りましたが、産駒は外見だけではなくそうした内面の長所もよく受け継いでいます[52]」と、その特徴を語っている。

2006年に交配相手の受胎率が5割を切るという授精能力の低下が見られ、同年9月にシンジケートが解散[55]。メジロ牧場の個人所有で翌2007年も種牡馬生活を続行したものの、11頭に種付けをしてすべて不受胎。この年限りで種牡馬を引退した[56]

種牡馬引退後はしばらくの間は故郷・メジロ牧場で功労馬として余生を送っていた。牧場での繋養のみならず、2007年、2008年、2010年にはそれぞれ函館競馬場で催されたイベントに参加し、競走用の馬装に、宝塚記念優勝時のゼッケン「1」を着けた姿が一般ファンに披露された。いずれの年もメジロの勝負服を着用した横山典弘が騎乗し、本馬場に出てキャンターを披露した[57]

2011年にメジロ牧場が閉鎖されると、所有は同牧場の設備を引き継いだレイクヴィラファームに代わった[58]。2016年3月17日、老衰により29歳で死亡[58][59]。遺骨は、横山典弘騎手の資金提供でレイクヴィラファーム内に建立された墓へ6月21日に納骨された[60]

競走成績

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以下の内容は、netkeiba.com[61]およびJBISサーチ[62]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離

(馬場)

オッズ

(人気)

着順 タイム 着差 騎手 斤量

[kg]

1着馬

(2着馬)

馬体重

[kg]

1989. 07. 09 函館 3歳新馬 芝1200m(良) 6 3 3 02.8 (2人) 02着 01:12.4 -0.1 0柏崎正次 53 サンエムグランディ 504
07. 22 函館 3歳新馬 芝1200m(良) 8 6 6 01.4 (1人) 06着 01:12.5 -0.7 0柏崎正次 53 マキハタビッグ 496
10. 29 京都 3歳未勝利 芝1400m(良) 11 3 3 08.3 (4人) 03着 01:24.9 -0.7 0横山典弘 52 ノースヒルオー 502
11. 18 東京 3歳未勝利 芝1600m(稍) 8 2 2 02.6 (2人) 01着 01:37.5 -0.2 0横山典弘 53 (ダイワヒューストン) 510
12. 03 中山 葉牡丹賞 400万下 芝2000m(良) 11 3 3 04.8 (1人) 05着 02:03.2 -1.1 0安田富男 54 プリミエール 500
12. 23 中山 ひいらぎ賞 400万下 芝1600m(良) 15 2 2 12.7 (7人) 01着 01:35.4 -0.3 0横山典弘 54 (トモエジョイナー) 504
1990. 01. 20 中山 ジュニアカップ OP 芝2000m(稍) 9 6 6 05.7 (2人) 01着 02:04.6 -0.0 0横山典弘 55 (プリミエール) 518
03. 04 中山 弥生賞 GII 芝2000m(不) 14 8 14 05.7 (2人) 01着 02:05.4 -0.3 0横山典弘 55 (ツルマルミマタオー) 512
04. 15 中山 皐月賞 GI 芝2000m(良) 18 7 13 05.0 (2人) 03着 02:02.5 -0.3 0横山典弘 57 ハクタイセイ 512
05. 27 東京 東京優駿 GI 芝2400m(良) 22 3 6 03.5 (1人) 02着 02:25.5 -0.2 0横山典弘 57 アイネスフウジン 506
10. 14 京都 京都新聞杯 GII 芝2200m(重) 15 6 11 02.7 (1人) 01着 R2.12.3 -0.1 0横山典弘 57 (グローバルエース) 516
11. 04 京都 菊花賞 GI 芝3000m(重) 17 8 18 02.2 (1人) 03着 03:06.6 -0.4 0横山典弘 57 メジロマックイーン 516
12. 23 中山 有馬記念 GI 芝2500m(良) 16 3 5 04.7 (3人) 02着 02:34.3 -0.1 0横山典弘 55 オグリキャップ 518
1991. 03. 10 中山 中山記念 GII 芝1800m(良) 11 7 9 01.4 (1人) 02着 01:47.9 -0.7 0横山典弘 57 ユキノサンライズ 522
04. 28 京都 天皇賞(春) GI 芝3200m(良) 18 1 1 04.3 (2人) 04着 03:19.3 -0.5 0横山典弘 58 メジロマックイーン 516
06. 09 京都 宝塚記念 GI 芝2200m(良) 10 1 1 04.2 (2人) 01着 02:13.6 -0.2 0横山典弘 56 (メジロマックイーン) 512
12. 22 中山 有馬記念 GI 芝2500m(良) 15 8 15 09.7 (5人) 12着 02:32.0 -1.4 0横山典弘 57 ダイユウサク 518
1992. 01. 26 中山 アメリカJCC GII 芝2200m(良) 11 6 7 02.7 (1人) 06着 02:13.6 -0.8 0的場均 59 トウショウファルコ 522
03. 22 中山 日経賞 GII 芝2500m(重) 11 7 9 02.7 (1人) 01着 02:38.3 -0.4 0横山典弘 59 カリブソング 524
  • タイム欄のRはレコード勝ちを示す。

特徴・エピソード

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人気

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実力は認められながらも惜敗続きであったことから判官贔屓的な人気を博し、人気面ではGI4勝を挙げたメジロマックイーンを凌ぐともされた。特に女性人気が高く、その母性本能をくすぐったためであるとも言われる[63]。作家の典厩五郎は「めっきり弱くなった関東馬の期待の星だったからではないか」としている[63]。また、ノンフィクション作家の後藤正治は「詰めに甘さを残す馬ではあったが、雄大な馬格に、なお底の見えない魅力を秘めていた。出走すればいつも人気になったのはそのせいであったろう」と述べている[64]。なお、JRAが制作したポスター「ヒーロー列伝」のキャッチコピーは、「本当の強さは、誰も知らない」というものであった。2000年に日本中央競馬会が実施した「20世紀の名馬大投票」では、ファン投票により第51位に選出されている。

メジロライアンと横山典弘

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主戦騎手を務めた横山典弘は、当時デビュー4年目の若手騎手であり、その心技の成長にメジロライアンが大きく関わった。当時の横山はその騎乗技術を高く評価されていた一方、素行が悪く、問題児としても知られていた[65]。そうした中で素質馬のメジロライアンを任され、自ら「ライアンが一番強い」と発言を続けながら、時に騎乗ミスもあり敗戦を重ねたことが、自身を見つめ直すきっかけとなった。後にメジロライアンの引退式で挨拶に立った横山は「ライアンの仔に乗ってGIを勝ちたい」と語りながら、衆目の中で涙を流した。横山はこの理由について、「ひどく寂しかった[66]」と述べている。ライターの須田鷹雄はこの出来事を評して、横山の涙の性質には「自分を育ててくれた馬に対する涙」と「馬に十分なことをしてやれなかったという悔いを含んだ涙」の二つがあるとし、特に後者に注目して「つまり、活躍していた頃のライアンですら、さらなる可能性を残していたということだ。しかもそれは、『横山典が泣くほどのこと』なのだ。ひょっとするとメジロライアンは、史上有数の未完の大器なのかもしれない[67]」と述べている。横山は『名馬列伝メジロライアン』の発刊に際して行われたインタビューにおいて、ライアンが一番強いという思いは変わらないかとの質問に「ええ、全然変わりません」と述べた[66]

横山はメジロライアンの引退後もその能力について「俺がもっとうまく乗って上げられればライアンはもっと勝っていた。ライアンの実力はあんなもんではない」と長年語っていたが、後に「前はそんな風に思っていたけど、今、冷静に考えるとアイネスフウジンも強い馬です。それなりのラップで逃げて最後までばてなかったのだから、凄い馬だったんです」と語っている[68]。2001年に受けたインタビューにおいては、メジロライアンが自身に与えた影響について、次のように述べている。

「今日の僕があるのはライアンがいたからです。僕のことを成長させてくれた、いいパートナーでした。クラシックを勝てなかったのは、僕が未熟だったからライアンが勝たせなかった。レースはそんなに甘いもんじゃないよ、と厳しさを教えてくれました。もし僕が簡単に三冠を取ったりしていたら、もう成長の止まったどうしようもない騎手で終わっていたでしょう。伯父さん(奥平師)や小島浩三さんや、北野のおばあちゃんや、多くの人に支えられて勝てた。一人で頑張っても、だめだということがよくわかった。それをわからせてくれたのもライアンなんです」[69]

メジロライアンと大川慶次郎

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4歳時に有馬記念で2着となった際、フジテレビスーパー競馬』で解説を務めていた大川慶次郎が、レース最後の直線で「ライアン!」と叫ぶ声がマイクに拾われ、全国に放送された。また、優勝したオグリキャップのファンであった明石家さんまが、「ビデオ録画していたら、変なおっさんが『ライアン』と叫んでた」と自らの番組で話の種にするほどであった[70]。大川自身はライアンがオグリキャップに勝てるとは思っていなかったと述懐しており、その上で実況の大川和彦がオグリキャップしか呼んでいなかったため、「放送している以上、2着も言わなきゃいけないでしょ。残るライアン、きっとライアンって」というつもりで叫んだとしている[70]。また大川はこの出来事について、著書の中で「"ライアン"という名前は、4文字で最後が"ン"なので力が入りやすく、叫びやすい語感であったことも、あれだけ話題になったひとつの要因だったかもしれません[71]」とした[注釈 3]

このエピソードを除いても、ライアンは大川の気に入っていた馬であった。大川は馬格が貧弱ながら第一線で活躍していたアンバーシャダイを気に掛けており、その父に瓜二つで、なおかつ父が持っていなかった立派な体格を備えていたメジロライアンを「アンバーシャダイの理想型[76]」と見ていた。さらに1989年に腎臓摘出手術を受けた後に落ち込みが続き、「もう競馬を見られるかどうか分からない」と考えていた頃、ライアンが勝った弥生賞を見たことで「もういっぺん競馬をやりたいなって気になった」といい、「落ち込んだときにね、僕を奮い立たせてくれたのがライアンなんです。やっぱり、何て言うかな、僕にはライアンが切り離せないんだなあ[77]」と述べている。

その他

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  • 3歳時に骨膜炎で休養に出された際、たてがみの根元に夏癬を発症し、痒みを取ろうと牧柵に首を擦りつけてたてがみが抜け落ちていたことから、担当厩務員の小島浩三によってたてがみが短く刈り揃えられ、以後これが常態化して「ライアン・カット」と呼ばれた[18]
  • 軽い脚部不安をきたした5歳の夏休みは、メジロ牧場で放牧されていた[48]。放牧中は、食欲が盛んで、青草を食べすぎるため、放牧は昼までに制限されていた[48]

評価

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日本国内での評価

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全日本フリーハンデ
年度 部門 順位 Rate kg 備考 出典
1989 3歳 63位 51.5 [注釈 4] [78]
1990 4歳 2400m 3位 109 62.0 [注釈 5] [79]
1991 古馬 2400m 10位 113 63.5 [注釈 6] [80]
1992 古馬 2400m 12位 110 61.5 [注釈 7] [82]
中央競馬フリーハンデ
年度 部門 順位 kg 備考 出典
1989 3歳(東) 7位タイ 52 [注釈 8] [83]
1990 4歳 3位タイ 60 [注釈 9] [84]
1991 5歳以上 2位タイ 61 [注釈 10] [85]
1992 5歳以上 6位タイ 59 [注釈 11] [86]

種牡馬成績

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以下の内容は、JBISサーチの情報に基づく[87]

種付年度 種付頭数 生産頭数 血統登録頭数 出走頭数 勝馬頭数 重賞勝馬頭数 AEI CPI
1993 63 51 50 44 27 4 3.97
1994 55 37 36 31 23 0 1.63
1995 57 46 46 42 19 1 0.90
1996 67 48 48 43 23 2 1.43
1997 92 79 78 70 48 0 1.15
1998 117 86 87 77 52 0 1.22
1999 105 95 95 88 55 1 1.02
2000 127 99 95 83 52 1 0.63
2001 93 72 70 66 34 1 0.92
2002 74 51 48 42 22 0 0.73
2003 81 60 57 51 30 0 1.06
2004 88 63 58 51 27 2 0.71
2005 78 55 51 48 22 0 0.34
2006 48 22 23 19 11 0.49
2007 11 0 0 0
合計 842 755 445 12 1.12 1.12

主な産駒

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太字強調は、GI級競走優勝馬である。

血統表

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メジロライアン血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 ノーザンテースト系
[§ 2]

アンバーシャダイ
1977 鹿毛
父の父
*ノーザンテースト
Northern Taste
1971 栗毛
Northern Dancer Nearctic
Natalma
Lady Victoria Victoria Park
Lady Angela
父の母
*クリアアンバー
Clear Amber
1967 黒鹿毛
Ambiopoise Ambiorix
Bull Poise
One Clear Call Gallant Man
Europa

メジロチエイサー
1977 鹿毛
メジロサンマン
1963 鹿毛
Charlottesville Prince Chevalier
Noorani
*パラディシア Aureole
Chenille
母の母
*シェリル
Cheryl
1971 鹿毛
*スノッブ Mourne
Senones
Chanel Pan
Barley Corn
母系(F-No.) シェリル系(FN:8-c) [§ 3]
5代内の近親交配 Nearco 5×5、Hyperion 5×5・5、Lady Angela 5・4(父内)、Bull Lea 5・5(父内) [§ 4]
出典
  1. ^ [98]
  2. ^ [99]
  3. ^ [98]
  4. ^ [98]

脚注

[編集]

注釈

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  1. ^ 最も高い評価を受けていたのは叔父に当たるメジロルイスであり、本馬は次点[12]ないし3番目[13]の評価を受けていた。
  2. ^ 北野豊吉の妻で、当時メジロの総帥であった北野ミヤを指す。
  3. ^ 大川はこの件で競馬ファンからオグリキャップが嫌いだったのかと思われることもあったというが、本人はこれを否定し[72][73]、同馬を「顕彰馬の中でもトップクラスの馬」[74]、「戦後、5本の指に入るほど、魅力的な馬」[75]と評している。
  4. ^ 63位タイ(芝9頭、ダート7頭)。この年の2歳部門の首位は、芝はヤマニングローバル59.0kg、ダートはテッセンスーパー59.0kgだった。朝日杯3歳ステークス優勝のアイネスフウジンは58.5kgで3位、阪神3歳ステークス優勝のコガネタイフウは57.5kgで4位。皐月賞を勝つハクタイセイは54kgで20位タイ、ホワイトストーンはメジロライアンとおなじ51.5kgで63位タイ。[78]
  5. ^ この年に日本で走った4歳馬の首位は外国馬ベルメッツの130ポイント(73kg)。2位は日本馬アイネスフウジン112ポイント(63.5kg)で、メジロライアン・ハクタイセイ・ホワイトストーンの3頭が109ポイント(62.0kg)で3位タイに並んだ。メジロマックイーンは108ポイント(61.5kg)で単独6位。[79]
  6. ^ この年に日本で走った4歳以上馬の首位は外国馬ゴールデンフェザントの126ポイント(71kg)。日本馬ではメジロマックイーン117ポイント(65.5kg)の6位タイが最高。これに次いでダイユウサクダイイチルビーが111ポイント(62.5kg)で11位タイ。[80]
  7. ^ この年に日本で走った4歳以上馬の首位はトウカイテイオーで127ポイント(70kg)。次いでディアドクターで126ポイント(71kg)。ハンデキャップはディアドクターのほうが1kg上だが、レーティングに換算する際の日本馬への調整3ポイント(当時)により順位が逆転している [81]。このほかメジロマックイーンが3200m部門で122ポイント(67.5kg)で5位タイ(3200m部門に限定すると1位)、メジロパーマーが116ポイント(64.5kg)で8位、カミノクレッセが111ポイント(62.0kg)で11位で、12位の110ポイントにはメジロライアンとレッツゴーターキン。[82]
  8. ^ アサヒパシィオン、チョウカイエース、ハシノケンシロウ、マイネルグランツ、マイネルハイル、ヤマタケサリーが並ぶ。1位は「55」のアイネスフウジン。「54」のプリミエール、「53」のカムイフジ、クロスキャスト、サクラサエズリ、ドライビングモールに続く評価であった。
  9. ^ ハクタイセイホワイトストーンが並ぶ。1位「63」のアイネスフウジン、「61」のメジロマックイーンに続く評価。以下、「58」のアグネスフローラ、「57」のアズマイーストと続く。
  10. ^ ダイユウサクと並ぶ。1位「63」のメジロマックイーンに続く評価。以下「60」のプレクラスニー、「59」のダイタクヘリオスと続いた。
  11. ^ カミノクレッセと並ぶ。1位「65」のトウカイテイオー、「63」のメジロマックイーン、「62」のメジロパーマー、「60」のダイタクヘリオスとレッツゴーターキンに続く評価であった。以下「58」はオースミロッチとナイスネイチャが続く。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n メジロライアン”. JBISサーチ. 2021年11月4日閲覧。
  2. ^ メジロライアンが死ぬ 91年宝塚記念制す”. 日本経済新聞 (2016年3月17日). 2021年11月12日閲覧。
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参考文献

[編集]
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  • 市丸博司『サラブレッド怪物伝説―スーパーホース激走カタログ101』(広済堂出版、1994年)ISBN 4331652025
  • 大川慶次郎『大川慶次郎殿堂馬を語る』(ゼスト、1997年)ISBN 4916090527
  • 大川慶次郎『大川慶次郎回想録 まっすぐ競馬道 杉綾の人生』(日本短波放送、1998年)ISBN 4931367291
  • 大川慶次郎『大川慶次郎が選ぶ「個性派」名馬18頭』(ザ・マサダ、1999年)ISBN 4915977994
  • 木村幸治『馬の王、騎手の詩』(宝島社、1994年)ISBN 4796608729
  • 光栄出版部(編)『名馬列伝メジロライアン』(光栄、1995年)ISBN 4877191879
  • 光栄出版部(編)『名馬列伝オグリキャップ』(光栄、1996年)ISBN 4877192042
  • 『競馬種牡馬読本2』(宝島社、1997年)ISBN 4796693408
    • 後藤正治「内国産種牡馬の切り札メジロライアンが運を掴むまで」
  • 『名馬物語(VOLUME 1)』(アスキー、1998年)ISBN 4757202148
    • 江面弘也「メジロライアン」
  • 優駿』(日本中央競馬会
    • 1990年2月号
      • 「【1989年度フリーハンデ決定】3歳 ヤマニングローバル、アイネスフウジンが55キロ。コガネタイフウ54キロ。」
    • 1990年5月号
      • 「【第50回皐月賞詳報】その血ふたたび、白いハイセイコー ハクタイセイ」
      • 古宮正弘(報知新聞)「【今月の記録室】第27回報知杯弥生賞(GII) メジロライアン」
    • 1990年6月号
      • 吉沢譲治「【第57回日本ダービー・スペシャル】アンバーシャダイ・メジロライアン ノーザンテーストの正式後継馬」
      • 石井誠(報知新聞)「【今月の記録室】第50回皐月賞(GI)ハクタイセイ」
    • 1990年7月号
      • 「【第57回日本ダービー詳報】逃げゆく先が栄光の座、19万ファンも祝福コール、アイネスフウジン」
      • 桜井裕夫(スポーツニッポン)「【今月の記録室】第57回日本ダービー(GI)アイネスフウジン」
    • 1990年10月号
      • 柏木集保「【'90秋 4歳馬戦線の動向】二冠馬ともにリタイア。ダービーでレコードタイムの出た年は!?」
    • 1990年12月号
      • 「【第51回菊花賞詳報】脈々とステイヤーの血、父の名はメジロティターン、メジロマックイーン」
      • 高橋源一郎「【第51回菊花賞観戦記】芦毛は続くよ、どこまでも」
      • 永井晴二(スポーツニッポン)「【今月の記録室】第38回京都新聞杯<菊花賞トライアル>(GII) メジロライアン」
    • 1991年1月号
      • 「【練熟か、若さか '90FINAL RUN】第35回有馬記念ファン投票結果」
    • 1991年2月号
      • 「【1990年度フリーハンデ決定】4歳馬 メジロマックイーン61キロ。ハクタイセイ、ホワイトストーン、メジロライアンは並べて60キロ。」
      • 「【第35回有馬記念詳報】平成2年、熱狂のフィナーレ、ヒーローは死なず、オグリキャップ」
      • 榎本正男(道新スポーツ)「【今月の記録室】第35回有馬記念<グランプリ>(GI) オグリキャップ」
    • 1991年5月号
      • 吉川彰彦「【今月の記録室】第65回中山記念(GII) ユキノサンライズ」
    • 1991年6月号
      • 「【第103回天皇賞(春)速報】人は3連覇、馬は父子3代制覇、メジロマックイーン」
    • 1991年7月号
      • 「【第32回宝塚記念速報】人馬渾身。これは6度目の正直です。メジロライアン」
      • 船曳彦亟(スポーツニッポン)「【今月の記録室】第103回天皇賞(春)(GI) メジロマックイーン」
    • 1991年8月号
      • 寺田文雄(デイリースポーツ)「【今月の記録室】第32回宝塚記念(GI)メジロライアン」
    • 1991年11月号
      • 「【'91秋GI戦線開幕】第104回天皇賞(秋)」
    • 1992年1月号
      • 「【第36回有馬記念&'91ジョッキーズグランプリ】第36回有馬記念ファン投票結果」
    • 1992年5月号
    • 1992年12月号
      • 「【今月のトピックス】メジロライアン引退式 東京で最後の雄姿 そして新たな旅立ち」
    • 1993年2月号
      • 「【1992年度フリーハンデ決定】5歳以上 メジロマックイーンは、1991年と同じ63キロ。」
    • 1997年3月号
      • 吉沢譲治「メジロライアン物語」
      • 横尾一彦「シンザンの父系」
    • 2001年5月号
      • 井口民樹「【サラブレッドヒーロー列伝】メジロライアン ダービーの夢はこどもたちに」
    • 2015年9月号
      • 平松さとし「【デビュー30周年記念大特集 横山典弘 名馬との軌跡】苦楽を共にしたベストパートナー・メジロライアン」
    • 2021年6月号
      • 斎藤修「【未来に語り継ぎたい名馬物語 63】メジロライアンの歩んだ道」

外部リンク

[編集]