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「アフガニスタン」の版間の差分

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'''アフガニスタン・イスラム共和国'''(アフガニスタン・イスラムきょうわこく、[[ダリー語]]: {{nastaliq|جمهوری اسلامی افغانستان}}、{{Lang-ps|Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Afghānestān}}、英:Afghanistan)、通称'''アフガニスタン'''は、[[中央アジア]]と[[南アジア]]の交差点に位置する山岳地帯の[[内藤国夫|内陸国]]である。東と南に[[パキスタン]]、西に[[イラン]]、北に[[トルクメニスタン]]、[[ウズベキスタン]]、[[タジキスタン]]、北東に[[中華人民共和国|中国]]と国境を接している。面積は65万2,000平方キロメートルで、北部と南西部に平野部がある山岳国である。首都であり最大の都市である[[カーブル|カブール]]。人口は約3,900万人で、そのほとんどが[[パシュトゥーン人|パシュトゥン人]]、[[タジク人]]、[[ハザーラ人|ハザラ人]]、[[ウズベク人]]などの民族である。
'''アフガニスタン・イスラム共和国'''(アフガニスタン・イスラムきょうわこく、[[ダリー語]]: {{nastaliq|جمهوری اسلامی افغانستان}}、{{Lang-ps|Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Afghānestān}}、英:Afghanistan)、通称'''アフガニスタン'''は、[[中央アジア]]と[[南アジア]]の交差点に位置する山岳地帯の[[内藤国夫|内陸国]]である。東と南に[[パキスタン]]、西に[[イラン]]、北に[[トルクメニスタン]]、[[ウズベキスタン]]、[[タジキスタン]]、北東に[[中華人民共和国|中国]]と国境を接している。面積は65万2,000平方キロメートルで、北部と南西部に平野部がある山岳国である。首都であり最大の都市である[[カーブル|カブール]]。人口は約3,900万人で、そのほとんどが[[パシュトゥーン人|パシュトゥン人]]、[[タジク人]]、[[ハザーラ人|ハザラ人]]、[[ウズベク人]]などの民族である。

アフガニスタンでは、反政府勢力[[タリバン]]とアフガニスタン政府による[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|内戦]]が続いているが、米軍の撤退発表をきっかけに、タリバンの勢力が急速に拡大した。2021年8月15日、攻勢のタリバンが、アフガンの国土のほぼ全土を掌握し、政府側は、タリバン側の政権移行と降伏の要求を認める声明を出しているため、20年ぶりにタリバン政権が復活する見通しだ<ref>{{Cite web|title= タリバーンへの「権力移行」 アフガン政府が認める声明|url=https://www.asahi.com/sp/articles/ASP8H65CCP8HUHBI01H.html?iref=sptop_7_02 |website=朝日新聞|accessdate=2021-8-15|date=2021-8-15}}</ref>。


== 概要 ==
== 概要 ==
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現在の国旗は2002年1月に制定されたもの。中央の紋章に書かれている文字は[[コーラン]]の冒頭の聖句([[シャハーダ]])である「[[アッラーフ]]のほかに神はなし、ムハンマドはアッラーフの使徒なり」と書かれている。
現在の国旗は2002年1月に制定されたもの。中央の紋章に書かれている文字は[[コーラン]]の冒頭の聖句([[シャハーダ]])である「[[アッラーフ]]のほかに神はなし、ムハンマドはアッラーフの使徒なり」と書かれている。


== 歴史 ==
{{Main|アフガニスタンの歴史}}
== 歴史 ==
== 歴史 ==
{{Main|アフガニスタンの歴史}}
{{Main|アフガニスタンの歴史}}
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2017年5月、カブールのドイツ大使館の近くで大規模テロが発生し、300人以上が死傷した<ref name=":0">{{Cite web|title=外交青書 2018 | 1 中東地域情勢 | 外務省|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2018/html/chapter2_06_01.html#s26108|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。8月、アメリカ合衆国の[[ドナルド・トランプ]]大統領は「対アフガニスタン・南アジア戦略」を発表し<ref name=":0" />、状況の悪化を防ぐために増派(約4000人)を決定した<ref>{{Cite news|title=トランプ米大統領、アフガン新戦略発表 増派に道開く|url=https://jp.reuters.com/article/usa-trump-afghanistan-idJPKCN1B206V|work=Reuters|date=2017-08-22|accessdate=2019-11-24|language=ja}}</ref>。10月、アフガニスタン政府の支配地域は407郡中231郡(57%)にすぎないことが判明した。政府とターリバーンは122郡(30%)の支配を争っており、ターリバーンが54郡(13%)を支配していることが分かった。ターリバーンの支配地域は2015年11月から2017年8月の間に倍増しており、紛争地域も1.4倍増加した。[[ウルーズガーン州|ウルズガーン州]](7郡中5郡)や[[クンドゥーズ州]](7郡中5郡)、[[ヘルマンド州]](14郡中9郡)の大半はターリバーンに支配されていた<ref>{{Cite web|url=https://www.sigar.mil/pdf/quarterlyreports/2017-10-30qr.pdf|title=October 30, 2017 Quarterly Report to Congress|accessdate=2019-10-09|publisher=SIGAR(アフガニスタン復興特別査察官)|date=2017-10-30|pages=106-107}}</ref>。11月、北大西洋条約機構(NATO)は確固たる支援任務(約1万3000人)に対して3000人の増派を決定した<ref>{{Cite web|title=防衛省・自衛隊|平成30年版防衛白書|2 多国間の安全保障の枠組みの強化|url=http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/2018/html/n12802000.html|website=www.clearing.mod.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。
2017年5月、カブールのドイツ大使館の近くで大規模テロが発生し、300人以上が死傷した<ref name=":0">{{Cite web|title=外交青書 2018 | 1 中東地域情勢 | 外務省|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2018/html/chapter2_06_01.html#s26108|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。8月、アメリカ合衆国の[[ドナルド・トランプ]]大統領は「対アフガニスタン・南アジア戦略」を発表し<ref name=":0" />、状況の悪化を防ぐために増派(約4000人)を決定した<ref>{{Cite news|title=トランプ米大統領、アフガン新戦略発表 増派に道開く|url=https://jp.reuters.com/article/usa-trump-afghanistan-idJPKCN1B206V|work=Reuters|date=2017-08-22|accessdate=2019-11-24|language=ja}}</ref>。10月、アフガニスタン政府の支配地域は407郡中231郡(57%)にすぎないことが判明した。政府とターリバーンは122郡(30%)の支配を争っており、ターリバーンが54郡(13%)を支配していることが分かった。ターリバーンの支配地域は2015年11月から2017年8月の間に倍増しており、紛争地域も1.4倍増加した。[[ウルーズガーン州|ウルズガーン州]](7郡中5郡)や[[クンドゥーズ州]](7郡中5郡)、[[ヘルマンド州]](14郡中9郡)の大半はターリバーンに支配されていた<ref>{{Cite web|url=https://www.sigar.mil/pdf/quarterlyreports/2017-10-30qr.pdf|title=October 30, 2017 Quarterly Report to Congress|accessdate=2019-10-09|publisher=SIGAR(アフガニスタン復興特別査察官)|date=2017-10-30|pages=106-107}}</ref>。11月、北大西洋条約機構(NATO)は確固たる支援任務(約1万3000人)に対して3000人の増派を決定した<ref>{{Cite web|title=防衛省・自衛隊|平成30年版防衛白書|2 多国間の安全保障の枠組みの強化|url=http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/2018/html/n12802000.html|website=www.clearing.mod.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。


2018年6月、タリバーンとの間で史上初めての3日間の一時停戦が実現した<ref>{{Cite web|title=外交青書 2019 | 2 中東地域情勢 | 外務省|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2019/html/chapter2_06_02.html#s26210|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。8月、ターリバーンの猛攻により[[ガズニー州]]の州都が[[:en:Ghazni offensive|陥落寸前]]になった。10月、[[2018年アフガニスタン下院議員選挙|第三回の下院議員選挙]]が実施された。
2018年6月、タリバーンとの間で史上初めての3日間の一時停戦が実現した<ref>{{Cite web|title=外交青書 2019 | 2 中東地域情勢 | 外務省|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2019/html/chapter2_06_02.html#s26210|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。8月、ターリバーンの猛攻により[[ガズニー州]]の州都が[[:en:Ghazni offensive|陥落寸前]]になった。10月、[[2018年アフガニスタン下院議員選挙|第三回の下院議員選挙]]が実施された。


2019年1月の時点で、ターリバーンがアフガニスタンの郡の12%を掌握・勢力圏内に入れている<ref>{{Cite web|url=https://www.sigar.mil/pdf/quarterlyreports/2019-01-30qr.pdf|title=January 30, 2019 Quarterly Report to Congress|accessdate=2019-12-14|publisher=SIGAR(アフガニスタン復興特別査察官)}}</ref>。タリバンの勢力が拡大しつつあるという意見もある<ref>{{Cite web|title=アフガニスタン:タリバンの復活と現状 {{!}}|url=http://globalnewsview.org/archives/10141|website=GNV|accessdate=2019-12-04|language=ja}}</ref>。8月、アメリカ合衆国とターリバーンとの間で8回目の和平協議が行われた([[アフガニスタン和平プロセス]])。9月、[[2019年アフガニスタン大統領選挙|第四回の大統領選挙]]が実施された。12月、[[中村哲 (医師)]]が殺害された。
2019年1月の時点で、ターリバーンがアフガニスタンの郡の12%を掌握・勢力圏内に入れている<ref>{{Cite web|url=https://www.sigar.mil/pdf/quarterlyreports/2019-01-30qr.pdf|title=January 30, 2019 Quarterly Report to Congress|accessdate=2019-12-14|publisher=SIGAR(アフガニスタン復興特別査察官)}}</ref>。タリバンの勢力が拡大しつつあるという意見もある<ref>{{Cite web|title=アフガニスタン:タリバンの復活と現状 {{!}}|url=http://globalnewsview.org/archives/10141|website=GNV|accessdate=2019-12-04|language=ja}}</ref>。8月、アメリカ合衆国とターリバーンとの間で8回目の和平協議が行われた([[アフガニスタン和平プロセス]])。9月、[[2019年アフガニスタン大統領選挙|第四回の大統領選挙]]が実施された。12月、[[中村哲 (医師)]]が殺害された。
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2020年5月17日、昨年の大統領選挙で次点だった[[アブドラ・アブドラ]]と[[アシュラフ・ガニー]]大統領で政治権力を分け合うことで合意文書に署名した<ref>京都新聞2020年5月18日朝刊p5</ref>。
2020年5月17日、昨年の大統領選挙で次点だった[[アブドラ・アブドラ]]と[[アシュラフ・ガニー]]大統領で政治権力を分け合うことで合意文書に署名した<ref>京都新聞2020年5月18日朝刊p5</ref>。


=== タリバンの勢力拡大 ===
アメリカ合衆国がアフガニスタンからの撤退を進める中、ターリバーンは主要都市を次々に制圧。2021年8月15日にはカブールに迫り、全土を支配下に置いたと宣言した<ref>{{Cite news|url=https://nordot.app/799566209875214336?c=39546741839462401|title=「全土を支配下に置いた」とタリバン|work=47NEWS|agency=[[共同通信社]]|date=2021-08-15|accessdate=2021-08-15}}</ref>。政権側も{{ill2|アブドゥル・サタール・ミルザクワル|en|Abdul Sattar Mirzakwal}}内務相代行が平和裏に権力の移行を進めると表明した<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASP8H65CCP8HUHBI01H.html|title=タリバーンへの「権力移行」 アフガン政府が認める声明|work=朝日新聞デジタル|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2021-08-15|accessdate=2021-08-15}}</ref>。
{{最新の出来事|date=2021年8月|section=1}}
[[アメリカ合衆国]]の[[ジョー・バイデン]]は、[[2021年]][[9月11日]]までに駐留[[アメリカ軍|米軍]]を完全撤退させると発表した。[[ドナルド・トランプ]]は[[2020年]]、[[タリバン]]と2021年[[5月]]までの米軍撤退で合意していたが、この期限を超過することになる。 [[2001年]]以降
米軍が軍事介入してから20年経過するが、アメリカにとって史上最長の戦いとなっている<ref>{{Cite web|title=アフガン駐留米軍、9月11日までに完全撤退へ|url= https://www.bbc.com/japanese/56741631 |website=BBC NEWS Japan|accessdate=2021-8-15|date=2021-4-14}}</ref>。一方、タリバン側は、「アメリカ軍が完全撤退に向けて行動をとったことは理解できるが、和平合意に違反した撤退だ」とし、米軍撤退が9月に延期されたことに対し強く反発した。「今後、アメリカ軍などへの対抗措置も辞さない」とし、米軍や[[NATO]]に対し攻撃を行うことも示唆した<ref>{{Cite web|title=アフガニスタンの米軍撤退 「和平合意に違反」タリバンが非難|url=https://search.yahoo.co.jp/amp/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20210501/amp/k10013007601000.html%3Fusqp%3Dmq331AQIKAGwASCAAgM%253D|website=NHK NEWS Web|accessdate=2021-8-15|date=2021-5-1}}</ref>。

これ以降、アフガニスタンの各州都が次々とタリバンによって陥落し、急速にタリバンの勢力が拡大している<ref>{{Cite web|title=なぜタリバンはこれほど急進撃しているのか アフガニスタン |url=https://search.yahoo.co.jp/amp/s/www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-58219196.amp%3Fusqp%3Dmq331AQIKAGwASCAAgM%253D|website=BBC NEWS Japan|accessdate=2021-8-15|date=2021-8-15}}</ref>。そして、8月15日、タリバンは、首都[[カブール]]を除くほぼ全土を支配下に置き、タリバンの報道担当者は、「(戦闘員には)市内の入り口で待機せよと命じた。我々は政府に対して平和的な権力の移譲を求めている」と述べ、平和的降伏を要求し、政権移行に向けて政府側と交渉しているとした。また、カブールに駐在するアメリカの外交官は大使館を脱出し、空港に向かって退避を始めた<ref>{{Cite web|title=タリバン、アフガン首都カブール以外の主要都市を制圧 権力移譲要求 |url=https://mainichi.jp/articles/20210815/k00/00m/030/230000c|website=毎日新聞|accessdate=2021-8-15|date=2021-8-15}}</ref>。アフガニスタン政府のアブドゥル内務相代行は、タリバンへの政権移行を認める声明を発表した。タリバンによる国家運営が始まる見通しだ<ref>{{Cite web|title= タリバーンへの「権力移行」 アフガン政府が認める声明|url=https://www.asahi.com/sp/articles/ASP8H65CCP8HUHBI01H.html?iref=sptop_7_02 |website=朝日新聞|accessdate=2021-8-15|date=2021-8-15}}</ref>。
[[日本]]政府は、アフガニスタン情勢の緊迫化を受け、カブールにある[[在アフガニスタン日本国大使館|日本大使館]]の職員を退避させる方針を固めた<ref>{{Cite web|title=アフガンの日本大使館職員退避へ|url=https://nordot.app/799610659863035904 |website=共同通信|accessdate=2021-8-15|date=2021-8-15}}</ref>。

=== ペルシア・ギリシア・インド文化の時代 ===
==== ペルシアとアレクサンドロス大王の支配 ====
[[ファイル:Afghanistan region during 500 BC.jpg|thumb|200px|right|[[紀元前5世紀]]ごろ、{{仮リンク|アラコシア|en|Arachosia}}には古代民族{{仮リンク|Pactyans|en|Pakthas}}が住んでいた]]
[[紀元前6世紀]]、[[アケメネス朝]][[ペルシャ帝国]]に編入され、[[アレイヴァ]]([[ヘラート]])、{{仮リンク|アラコシア|en|Arachosia}}([[カンダハール]]、[[ラシュカルガー]]、[[クエッタ]])、[[バクトリア]]([[バルフ]])、{{仮リンク|サッタギディア|en|Sattagydia}}([[ガズニー]])、[[ガンダーラ]]([[カーブル]]、[[ジャラーラーバード]]、[[ペシャーワル]])の地方名で呼ばれた。カンダハルの旧市{{仮リンク|アレクサンドリア・アラコシア|en|Alexandria Arachosia|label=シャル・イ・コナ}}の発掘によって、紀元前6世紀にはこの町がすでにアフガニスタン南方の首邑になっていたことが明らかになった。

[[紀元前5世紀]]ごろ、{{仮リンク|アラコシア|en|Arachosia}}には古代民族{{仮リンク|Pactyans|en|Pakthas}}が住んでいたことが[[サンスクリット]]や[[古代ギリシャ語]]文献から知られている。

[[紀元前4世紀]]、[[アレクサンドロス3世]](大王)はこの地を征服し、[[アイ・ハヌム|アレクサンドリアオクシアナ]](Alexandria on the Oxus)と呼ばれる都市を建設した<ref group="注釈">アレクサンドリア・アレイア(ヘラート)、アレクサンドリア・アラコシア(カンダハル)、アレクサンドリア・カズニー(カズニー)、アレクサンドリア・カビサ(カビサ・ベクラム)、アレクサンドリア・オクシアナ(アイ・ハヌム)、アレクサンドリア・バクトラ(バルフ)など、アレクサンドロスが自分の名を付けた町は多い</ref><ref>ここまで前田(2002) 19-20ページ</ref>。

==== 南方のマウリア朝と北方のグレコ・バクトリア王国 ====
[[File:AsokaKandahar.jpg|thumb|180px|[[カンダハール]]で発見された[[ギリシャ語]]と[[アラム語]]で書かれた[[アショーカ王碑文]]([[紀元前3世紀]])]]
[[紀元前3世紀]]中ごろ、アフガニスタン北部からタジキスタン南部にかけては[[ギリシャ人]]の建てた[[グレコ・バクトリア王国]]が支配した。

[[紀元前130年]]ごろ、インド・グリーク朝の[[メナンドロス1世]]が死んで、分裂すると、[[サカ族]]が[[ガンダーラ]]地方で[[インド・スキタイ王国]]を興した。

[[紀元前2世紀]]後半、[[匈奴]]に追われた遊牧民の[[月氏]]が侵入し、グレコ・バクトリア王国は滅びた。

[[1世紀]]以降、先の大月氏の立てた[[クシャーナ朝]]がこの地に栄える。このころギリシア文化は影響力を失い、代わって南方の[[マウリヤ朝]]から流入したインド文化や仏教の影響が強く見られるようになる。4世紀ごろまで[[ソグド人|バクト商人]]が[[シルクロード|シルクロード交易]]を掌握する。

[[3世紀]]末、クシャーナ朝に代わり[[サーサーン朝]]の支配がこの地に及ぶ。

[[5世紀]]前半、[[エフタル]]が起りアフガニスタン・パキスタンの地を支配する。

[[6世紀]]後半、アルタイ方面から南下してきた[[突厥]]による支配を受ける。

=== イスラーム化の進展 ===
[[File:Herat Masjidi Jami courtyard.jpg|thumb|[[ゴール朝]]の時代に建てられた{{仮リンク|ヘラートの金曜モスク|en|Friday Mosque of Herat}}]]
[[8世紀]]初頭、[[イスラム帝国]]・[[アッバース朝]]のイスラム教徒軍が[[ハザール]]・[[ソグディアナ]]に侵攻し([[アラブ・ハザール戦争]]、{{仮リンク|ムスリムのトランスオクシアナ征服|en|Muslim conquest of Transoxiana|label=トランスオクシアナ征服}})、その支配下へ入る。[[751年]]の[[タラス河畔の戦い]]によりイスラム商人がシルクロード交易を掌握する。ゾロアスター教や仏教、ヒンズー教の影響は、イスラム教が伝わったあとも10世紀ごろまで残存した。

[[9世紀]]中ごろ、再び土着イラン人による[[ターヒル朝]]・[[サッファール朝]]・[[サーマーン朝]]が興り統治する。

[[995年]]、{{仮リンク|マームーン朝|en|Ma'munids}}のイスラム教徒軍が侵攻、[[アムダリヤ川]]右岸の古都{{仮リンク|キャト (ホラズム)|ca|Kath|de|Kath (Stadt)|fa|کاث|label=キャト}}<!--{{仮リンク|キャト|de|Kath (Stadt)|fa|کاث}}と[[コリンティア県]]の{{仮リンク|キャト|en|Kiato}}が同名の地名なので注意 -->に栄えていた土着の[[ゾロアスター教]]国家、{{仮リンク|アフリーグ朝|en|Afrighids}}は滅亡した。

[[1017年]]、[[ガズナ朝]]がマームーン朝を滅ぼした。[[10世紀]]以降、このころから[[パシュトゥーン人]]の存在が確認され始める。

[[1117年]]、シャンサブ家が[[ゴール朝]]を興し、[[シハーブッディーン・ムハンマド]]に仕える[[クトゥブッディーン・アイバク]]は北インド征服事業を成功させ[[奴隷王朝]]を開いた。[[1215年]]に[[ホラズム・シャー朝]]の[[アラーウッディーン・ムハンマド]]によってゴール朝は滅亡した。

=== モンゴル帝国 ===

[[モンゴルのホラズム・シャー朝征服]]のあと、アフガニスタンは[[モンゴル帝国]]および[[チャガタイ・ハン国]]、[[クルト朝|タジク人のクルト朝]]の支配を受ける。

=== ティムール朝 ===
[[1370年]]ごろ、テュルク系の[[ティムール朝]]による支配を受ける。[[1470年]]、ティムール朝が分裂し[[ヘラート]]政権に移行。[[1507年]]、[[ウズベク人|ウズベク族]]の[[シャイバーニー朝|シャイバーン朝]]の[[ムハンマド・シャイバーニー・ハーン]]の攻撃によってティムール朝は滅亡する。

=== サファヴィー朝、ムガル朝、オスマン帝国の抗争 ===
[[File:The Surrender of Kandahar.jpg|thumb|180px|[[カンダハール]]を奪還する[[ムガル帝国]]([[1638年]])]]

[[1510年]]、[[サファヴィー朝]]イランによって征服される。[[1526年]]、[[第一次パーニーパットの戦い]]。[[カーブル]]を拠点とするティムール朝の王子[[バーブル]]が[[インド]]に[[ムガル帝国|ムガル朝]]を建設。

[[1540年]]、北インドの[[スール朝]]がカンダハール、カーブルを占拠。[[1545年]]、ムガル帝国がカンダハール、カーブルを占拠。[[1556年]]、[[第二次パーニーパットの戦い]]で[[スール朝]]の[[ヘームー]]を破る。

[[1623年]]、サファヴィー朝がカンダハールを奪還。[[1638年]]、ムガル帝国がカンダハールを占拠。[[1649年]]、サファヴィー朝がカンダハールを奪還。

=== アフガンの王家による統治のはじまり ===
==== ホータキー朝 ====
[[1709年]]、パシュトゥーン人[[ギルザーイー部族]]の{{仮リンク|ミールワイス・ホータク|en|Mirwais Hotak|label=ミール・ワイス・ホータキー}}が反乱を起こし、カンダハールに[[ホータキー朝]]を樹立。

[[1719年]]、ホータキー族の{{仮リンク|ミール・マフムード|en|Mahmud Hotaki|label=ミール・マフムード}}がサファヴィー朝の[[ケルマーン]]に侵攻。

[[1722年]]、ミール・マフムードがサファヴィー朝の首都・[[イスファハーン]]を占拠({{仮リンク|グルナーバードの戦い|en|Battle of Gulnabad}})。マフムードがサファヴィー朝を支配下に治める。

1725年、シャー位が、マフムードから、アシュラフに代わる。

[[1729年]]、[[アシュラフ・ギルザイ|アシュラフ]]がアフシャール朝の[[ナーディル・シャー]]に敗れ、ペルシアがアフガン支配下から脱した({{仮リンク|ダムガンの戦い (1729年)|en|Battle of Damghan (1729)|label=ダムガンの戦い}})。

[[1736年]]、[[アフシャール朝]]が成立。サファヴィー朝が消滅。

==== ドゥッラーニー朝 ====
===== サドーザイ朝 =====
[[ファイル:Afghanistan unter Ahmad Schah Durrani.PNG|thumb|アフマド・シャー時代の[[ドゥッラーニー朝]]の版図]]

[[1747年]]10月、パシュトゥーン人[[ドゥッラーニー部族]]連合のザドーザイ族長[[アフマド・シャー・ドゥッラーニー]]による[[ドゥッラーニー朝]]が成立。

[[1757年]]、{{仮リンク|マラーターのインド北西部侵攻|en|Maratha conquest of North-west India}}で[[パンジャーブ]]が占領される。
===== バーラクザイ朝 =====
[[1826年]]、ドゥッラーニー系部族の間で王家が交代し、[[バーラクザイ朝]]が成立。[[1834年]]に国名を'''[[アフガニスタン首長国]]'''([[:en:Emirate of Afghanistan|en]])とする。

[[1838年]] - [[1842年]]、[[第一次アフガン戦争]]でイギリスに勝利。

==== イギリス保護国期 ====
[[ファイル:Mohammad Yaqub Khan with British officers in May of 1879.jpg|thumb|280px|right|左からJenkyns、[[:en:Pierre Louis Napoleon Cavagnari|Cavagnari]]、{{仮リンク|ヤアクーブ・ハーン|en|Mohammad Yaqub Khan}}、Daoud Shah、Habibullah Moustafi({{仮リンク|ガンダマク条約|en|Treaty of Gandamak}}、[[1879年]])]]

[[第二次アフガン戦争]]([[1878年]] - [[1880年]])の{{仮リンク|カンダハールの戦い|en|Battle of Kandahar}}でアフガニスタン首長国はイギリスに敗れ、{{仮リンク|ガンダマク条約|en|Treaty of Gandamak}}でその[[保護国]]となり、イギリスとロシアはアフガニスタンを新たな緩衝国家として中央アジアで対峙した。

[[1885年]]、イギリスと[[ロシア帝国]]との間で{{仮リンク|パンジェ紛争|en|Panjdeh Incident}}が起きる。イギリスは朝鮮半島沖の[[巨文島]]で[[ポート・ハミルトン事件|巨文島事件]]を起こし、ロシアを牽制した。

[[1893年]]、パキスタンとの国境線[[デュアランド・ライン]]にアフガニスタン首長国とイギリスが合意。[[1895年]]、{{仮リンク|チトラル遠征|en|Chitral Expedition}}。

==== アフガンの王家による再独立 ====
<!--[[ファイル:King Amanullah Khan.jpg|thumb|150px|left|[[アマーヌッラー・ハーン]]]]-->
[[1919年]]に[[第三次アフガン戦争]]に勝利した[[アマーヌッラー・ハーン]]はイギリスからの独立を達成し、独立した君主として即位した。[[1926年]]、国名を'''[[アフガニスタン王国]]'''とする。同年、[[オーレル・スタイン]]が[[インダス川]]上流および{{仮リンク|スワート川|en|Swat River}}流域([[デュアランド・ライン]])を調査旅行した。アマーヌッラーは、[[トルコ共和国]]の新指導者[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ケマル・アタテュルク]]の[[世俗主義]]、[[民族主義]]、[[共和主義]]を柱とする改革に影響され、同様の改革を推進したが、宗教改革に反対する保守派の蜂起が相次いだ。

王妃{{仮リンク|ソラヤ・タルズィー|en|Soraya Tarzi}}は近代化のひとつとして家庭内での女性の地位向上を図ったが、アフガニスタンの歴史上初めて登場した女性の統治者に対して、保守派の激しい反対があった。

[[タジク人]]の指導者{{仮リンク|ハビーブッラー・カラカーニー|en|Habibullāh Kalakāni}}は、[[イギリス]]から資金と武器の支援を受けてカーブルを占領し、アマーヌッラー政権を打倒した({{仮リンク|アマーヌッラー・ハーンの改革と内戦|fa|خلاصه تاریخ افغانستان|no|Amanullah Khans reformer og borgerkrig|en|Reforms of Amānullāh Khān and civil war}})。

[[1929年]]、バーラクザイ王家の分家筋にあたる[[ムハンマド・ナーディル・シャー]]が混乱を収めて、国王(アミール)に就任。

[[1931年]]に制定した新憲法の第一条で[[スンナ派]][[ハナフィー学派]]を国教に定めた。この条文が国内少数派の[[シーア派]]に対する反[[ハザラ人]]政策の法的根拠となったことで恨みを買い、[[1933年]][[11月8日]]に暗殺された。同日、息子の[[ザーヒル・シャー]]が即位した。

==== 第二次世界大戦 ====
[[1939年]]9月に開戦した[[第二次世界大戦]]では、[[1941年]]10月にイギリスと[[ソ連]]両国は[[ドイツ]]と[[イタリア]]など[[枢軸国]]の[[外交官]]や[[民間人]]の国外退去を要求した。これに対しアフガニスタン政府は、枢軸国のみならず交戦中のすべての国の外交官以外の民間人に国外退去を命じた。

このように、ザーヒル・シャー国王の統治下で、[[英領インド]]とソ連、[[中華民国]]に挟まれた中央アジアにおける緩衝国家として、[[日本]]やドイツ、イタリアや[[満洲国]]などからなる枢軸国、イギリスや[[アメリカ]]、ソ連と中華民国などからなる[[連合国]]の、どちらにもつかない[[中立国]]として[[1945年]]9月の終戦まで機能していた。

=== 冷戦 ===
==== パシュトゥーニスタン独立運動 ====
[[ファイル:King Zahir Shah of Afghanistan in 1963.jpg|thumb|150px|left|[[ザーヒル・シャー]]([[1963年]])]]
1947年に[[インド・パキスタン分離独立|イギリスのインド統治が終了]]すると、[[バルチスタン|バルチスタン地方]]は「もともとインドの一部ではない」ためインドやパキスタンには参加せず、イギリスやパキスタンも{{仮リンク|カラート藩王国|en|Kalat (princely state)}}の独立を認めたうえで、パキスタンとは特別の関係を結ぶことを模索し、1952年に{{仮リンク|バルチスタン藩王国連合|en|Baluchistan States Union}}として独立させた。

しかし、その後のパキスタンからの軍事的圧迫({{仮リンク|バルチスタン紛争|en|Balochistan conflict}})に抗すことができず藩王は併合条約に調印し、パキスタンに軍事併合された。その後もしばらく内政自治は続いていたが権限は大幅に縮小され、1955年には藩王国自体が名目上も消滅させられ、[[バローチスターン州]]とされた。

パキスタンがバルチスタンのみならずアフガニスタンも併合しようとしたため、国王ザーヒル・シャーは逆にパキスタン領([[連邦直轄部族地域]]、[[ワズィーリスターン]])内の[[パシュトゥーン人]]を支援して「{{仮リンク|パシュトゥーニスタン|en|Pashtunistan}}独立運動」を起こし牽制した。

ザーヒル・シャーは、1960年代には[[立憲君主制]]を導入して民主化路線を推進し、日本やイギリス、ソ連などからの資本の導入や輸入品の導入を推進した。

==== 王政廃止からソ連軍の撤退 ====

[[File:BMD-1 in Afghanistan.jpg|thumb|right|首都[[カーブル]]に展開するソ連の[[空挺兵]]]]
[[File:Charlie Wilson with Afghan man.jpg|thumb|1right|[[チャールズ・ネスビット・ウィルソン|チャールズ・ウィルソン]]と[[ムジャーヒディーン]]]]

[[1973年]]、ザーヒル・シャーが[[イタリア]]での病気療養のため、国を離れていた隙を狙い、旧バーラクザイ王族の[[ムハンマド・ダーウード]]が[[クーデター]]を起こし王政を廃止、[[共和制]]を宣言して[[大統領]]に就任、'''[[アフガニスタン共和国 (1973年-1978年)|アフガニスタン共和国]]'''を建国した。ダーウードはアフガン社会の[[近代化]]と軍事近代化を目指し、[[ソビエト連邦|ソ連]]に接近して[[イスラム主義]]者たちを弾圧する。このとき[[パキスタン]]に脱出した[[グルブッディーン・ヘクマティヤール|ヘクマティヤール]]は{{仮リンク|ヘズブ・エ・イスラミ・グルブッディーン|en|Hezb-e Islami Gulbuddin|label=ヒズベ・イスラーミー}}(ヘクマティヤール派)を結成し、[[ブルハーヌッディーン・ラッバーニー|イスラム主義のラッバーニー]]らは{{仮リンク|ジャマーアテ・イスラーミー (アフガニスタン)|fa|جمعیت اسلامی افغانستان|ru|Исламское общество Афганистана|en|Jamiat-e Islami|label=ジャマーアテ・イスラーミー}}(イスラム協会、ラッバーニー派)を結成した。

[[1978年]]4月、[[アフガニスタン人民民主党]]主導による軍事クーデター「{{仮リンク|四月革命 (アフガニスタン)|en|Saur Revolution|label=四月革命}}」が発生し、ダーウードおよび一族が[[死刑|処刑]]される。人民民主党による[[社会主義]]政権が樹立し、国名を'''[[アフガニスタン民主共和国]]'''に変更、[[ヌール・ムハンマド・タラキー]]が初代革命評議会議長兼大統領兼首相に就任した。これに対し、全土で[[ムジャーヒディーン]]が蜂起、'''[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)]]'''が始まる。政情が不安定化する中、[[1979年]]2月に隣国で[[イラン革命]]が勃発。[[9月17日]]、ヌール・ムハンマド・タラキーが副首相の[[ハフィーズッラー・アミーン]]一派に殺害され、アミーンが革命評議会議長兼大統領兼首相に就任。

[[1979年]]12月24日、ソ連はアフガニスタンへ軍事侵攻を開始した。[[レオニード・ブレジネフ|ブレジネフ]][[ソビエト連邦共産党]]書記長が、領内の中央アジア諸国にイスラム原理主義が飛び火することを恐れての侵略であるとされている。[[12月27日]]、ソ連はムジャーヒディーンを抑えられないアミーンを[[ソ連国家保安委員会|KGB]]を使って暗殺、[[バブラク・カールマル]]副議長を革命評議会議長兼大統領兼首相に擁立する。ソ連軍および政府軍とこれに抵抗するムジャーヒディーンとの戦闘が激化する。

[[1982年]]、国連総会において、外国軍の撤退を要求する[[国連決議]](37/37)が採択される。

[[1987年]]、[[ムハンマド・ナジーブッラー]]が大統領に就任。国名を'''[[アフガニスタン共和国 (1987年-1992年)|アフガニスタン共和国]]'''に戻す。

[[1988年]]、「アフガニスタンに関係する事態の調停のための相互関係に関する協定」が締結。ソ連軍の撤退と[[国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション]]設置が決定される。

[[1989年]]、ソ連軍撤退完了。各国から参加したムジャーヒディーンの多くも引き上げた。しかし、戦後も国内のムジャーヒディーン各派は人民民主党政府打倒を目指して武装闘争を続けた。

=== ソ連軍の撤退、ターリバーン政権の統治 ===
[[ファイル:Hamid Mir interviewing Osama bin Laden.jpg|thumb|200px|left|[[カーブル]]でインタビューを受ける[[ウサーマ・ビン・ラーディン|ビン・ラーディン]]([[1997年]])]]
[[ファイル:1996afghan.png|thumb|200px|right|[[1996年]]時点のアフガニスタン、赤と緑の[[北部同盟 (アフガニスタン)|北部同盟]]、黄色が[[ターリバーン]]の支配地域]]
[[1989年]]、ソ連軍が撤退したあと国内の支配をめぐって'''[[アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)]]'''が始まる。2月にアフガニスタン国内のムジャーヒディーン各派は[[シブガトゥッラー・ムジャッディディー]]を暫定国家元首に指名、[[アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)#ジャラーラーバードの戦い|ジャラーラーバードの戦い]]でナジーブッラーが率いる人民民主党政府と戦うも敗北する。

[[1992年]]、ナジーブッラー政権崩壊。ムジャーヒディーンの{{仮リンク|ジャマーアテ・イスラーミー (アフガニスタン)|fa|جمعیت اسلامی افغانستان|ru|Исламское общество Афганистана|en|Jamiat-e Islami|label=ジャマーアテ・イスラーミー}}(イスラム協会、ラッバーニー派)主導による'''[[アフガニスタン・イスラム国]]'''が成立。

[[1993年]]、イスラム協会の[[ブルハーヌッディーン・ラッバーニー]]指導評議会議長が大統領に就任。

[[1994年]]、内戦が全土に広がる。[[ターリバーン]]、パキスタンの[[カイバル・パクトゥンクワ州|北西辺境州]](旧{{仮リンク|北西辺境州 (1901年 - 1955年)|en|North-West Frontier Province (1901–55)|label=北西辺境州}}がパキスタン領となったもの)から勢力を拡大。

[[1996年]]、ターリバーンがカーブルを占領し、'''[[アフガニスタン・イスラム首長国]]'''の成立を宣言する。アフガニスタン・イスラム国政府とムジャーヒディーンの一部が反ターリバーンで一致、[[北部同盟 (アフガニスタン)|北部同盟]]{{efn|「北部同盟」という名称は俗称であり、正式には、「アフガニスタン救国統一戦線」である<ref>進藤雄介『アフガニスタン祖国平和の夢』朱鳥社、2004年、80-81頁、ISBN 4-434-05210-1 </ref>。}}([[アフマド・シャー・マスード|マスード]]派と[[ラシッド・ドスタム|ドスタム]]派)となる。同年、米国の指示によりスーダン政府は[[ウサーマ・ビン=ラーディン]]の国外追放を実行、ビン=ラーディンの率いる[[アル・カーイダ]]がアフガニスタン国内に入り、ターリバーンと接近する。

[[1997年]]、第一次{{仮リンク|マザーリシャリーフの戦い (1997年-1998年)|en|Battles of Mazar-i-Sharif 1997-1998|label=マザーリシャリーフの戦い}}でターリバーンが敗北。

[[1998年]]、第二次マザーリシャリーフの戦いでターリバーンが勝利、[[ラシッド・ドスタム|ドスタム]]派を駆逐してアフガン全土の9割を掌握するが、イラン領事館員殺害事件が発生。イランとターリバーンの双方が国境付近に兵を集結させ、一触即発の危機を招いたが、ラフダル・ブラヒミ国連特使の仲介により危機が回避された<ref>進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、46-47頁、ISBN 9784763405302 </ref>。また、ケニアとタンザニアの[[アメリカ大使館爆破事件 (1998年)|アメリカ大使館爆破事件]]にともなうアル・カーイダ引き渡し要求をターリバーンが拒否したため、アメリカとの関係が緊張化する。

[[1999年]]、ターリバーン支配地域に対する経済制裁を定めた{{仮リンク|国際連合安全保障理事会決議1267|en|United Nations Security Council Resolution 1267}}が採択される。

[[2000年]]、ターリバーン支配地域に対する追加経済制裁を定めた{{仮リンク|国際連合安全保障理事会決議1333|en|United Nations Security Council Resolution 1333}}が採択される。

[[2001年]][[3月6日|3月2日]]、ターリバーンが[[バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群#ターリバーンによる破壊|バーミヤンの石仏を爆破]]する。[[9月10日]]、北部同盟の[[アフマド・シャー・マスード]]司令官が、自称アルジェリア人ジャーナリスト2名による自爆テロで死亡した。[[9月16日]]、マスードの遺体が故郷パンジシールで埋葬された。ターリバーン情報省が全土要塞化を宣言し、徹底抗戦姿勢を示す。[[9月25日]]、サウジアラビア、ターリバーンとの断交を決定。[[9月26日]]、閉鎖されたままのアメリカ大使館が、カーブル市民によって襲撃される。

=== テロとの戦い ===
{{main|テロとの戦い}}

==== 多国籍軍による攻撃と暫定政権の樹立 ====
[[ファイル:WTC smoking on 9-11.jpeg|thumb|200px|left|[[アメリカ同時多発テロ事件]]([[2001年]][[9月11日]])]]
[[File:011007-N-1523C-001 First Strike into Afghanistan.jpg|thumb|170px|アフガニスタンに向けて発射されるミサイル]]

[[2001年]][[10月2日]]、[[アメリカ同時多発テロ事件]]を受けて[[北大西洋条約機構|NATO]]が[[アルカーイダ]]を匿うターリバーン政権に対して[[自衛権]]の発動を宣言。[[10月7日]]、[[アメリカ軍]]が[[不朽の自由作戦]]の名の下で空爆を開始、イギリスも参加。北部同盟も地上における攻撃を開始。これより'''[[アフガニスタン紛争 (2001年-)]]'''が開始される。[[11月13日]]、北部同盟は、無血入城でカーブルを奪還した。年末にターリバーン政権崩壊。[[11月22日]]、パキスタン政府、ターリバーンとの断交を決定し、[[在パキスタンアフガニスタン大使館|駐イスラマバードアフガニスタン大使館]]を閉鎖した。[[11月27日]]、空爆が続くなか、国連は新政権樹立に向けた会議をドイツのボン郊外で開催した。会議には北部同盟、国王支持派のローマ・グループ、キプロス・グループ、そして[[ペシャーワル]]からのグループが参加した{{efn|キプロス・グループはイラン、ペシャーワル・グループはパキスタンの影響下にあり、この二つのグループの参加により、アフガニスタンにとって重要な隣国であるイランとパキスタンが事実上、ボン会合に参加することになったという<ref>進藤雄介『アフガニスタン祖国平和の夢』朱鳥社、2004年、87頁、ISBN 4-434-05210-1 </ref>。}}。[[11月29日]]、行政府に相当する暫定行政機構の設立案について合意した。[[12月5日]]、暫定行政機構人事で各派間の確執があったが、国連の調整で、議長にパシュトゥーン人の[[ハーミド・カルザイ]]を据え、暫定政権協定の調印が実現した([[ボン合意]])。アフガニスタン主要4勢力、暫定政権発足とその後の和平プロセスで合意。[[国際連合安全保障理事会決議1386]]にもとづき国際治安支援部隊(ISAF)創設、カーブルの治安維持にあたる。また[[国際連合安全保障理事会決議1401]]により、[[国連アフガニスタン支援ミッション]](UNAMA)がスタート。アフガニスタン暫定行政機構が成立し、ハーミド・カルザイが議長となる。

==== 暫定政権樹立と新共和国成立 ====
[[File:Romanian TAB-77 (8x8) Armored Personnel Carrier.jpg|thumb|移動する有志連合の部隊([[ルーマニア]]軍、2003年)]]

[[2001年]][[12月22日]]、カーブルで暫定政権発足の記念式典が挙行された。約3,000人が出席し、ラバニ大統領からカルザイ暫定行政機構議長に政権が委譲される形で執り行われ、カルザイが暫定政権の首相となった。カルザイは国民に平和と法をもたらすことを誓い、言論と信教の自由、女性の権利の尊重、教育の復興、テロとの戦いなど13項目の施政方針を発表した。暫定政権の閣僚は29名<ref group="注釈">タジク人12名・パシュトゥン人9名・ハザーラ人5名、ウズベク人4名</ref>で構成され、うち北部同盟が19ポスト<ref group="注釈">外相・内相・国防相・法相・通信相・運輸相・都市開発相・高等教育相などの主要ポスト、外相のアブドゥッラーや内相のカヌニはラバニ派からの横滑り、国防相もマスードの後継者ファヒーム、都市開発相はジャララバードの市長カディルが就任</ref>、元国王支持派が8ポスト<ref group="注釈">観光相・情報文科相・復興相・財務相・教育相・女性問題担当相など</ref>、ペシャワル派が2ポスト<ref group="注釈">保健相・灌漑相</ref>占めた。

[[2002年]][[1月21日]]、東京でアフガニスタン復興支援会議が開催された。約60各国と22の国際機関の代表が出席した。これに先立ちNGO59団体による会議も開かれた。日本は2年で5億ドル、アメリカは1年で2億9,600万ドル、サウジアラビアは3年で2億2,000万ドル、欧州連合は1年で5億ドル、ドイツは5年で3億5,000万ドル、イギリスは5年で3億7,200万ドルの拠出を決定し、世界銀行とアジア開発銀行はそれぞれ2年半で5億ドルの拠出を決定した。また周辺各国は、イランが1年で1億2,000ドル、パキスタンは5年で1億ドル、インドも1年で1億ドルの支援を発表した。各国の支援総額は30億ドルを超えた。さらに支援は、行政能力の向上や教育、保健衛生、インフラ、経済システム、農業および地方開発、地雷撤去などの作業を実施し、定期的に復興運営会議をカーブルで開催することなどを決定した。[[2月14日]]、[[アブドゥール・ラフマン (アフガニスタンの政治家)|アブドゥール・ラフマン]]航空観光大臣が[[カーブル国際空港]]で自国民に撲殺される。[[6月10日]] - [[6月19日]]、緊急[[ロヤ・ジルガ]](国民大会議)が開催され{{efn|ロヤ・ジルガはもともとパシュトゥ語で、「ロヤ」は「大きい」、「ジルガ」は「会合」を意味する。部族にかかわる問題が生じると、その解決のために集まるのが「ジルガ」であり、ジルガの中で最大のものが「ロヤ・ジルガ」であるという<ref>進藤雄介『アフガニスタン祖国平和の夢』朱鳥社、2004年、29-32頁、ISBN 4-434-05210-1 </ref>。}}、1,500人以上の代表が参加した。[[6月13日]]、国家元首(大統領)を決める選挙が緊急ロヤ・ジルガで行われ、ハーミド・カルザイが圧倒的多数の票を獲得し当選した<ref>進藤雄介『アフガニスタン祖国平和の夢』朱鳥社、2004年、126頁、ISBN 4-434-05210-1 </ref>。[[6月15日]]、今後2年間の国名を「アフガニスタン・イスラム暫定政府」に決定する。<!--6月、'''アフガニスタン・イスラム移行国'''発足。--> [[6月19日]]、新暫定政府主要14閣僚と最高裁判所長官の名簿を公表。副大統領にファヒーム国防相・アブドゥッラー外相・アシュラフ・アリー財務相(カルザイ顧問兼任)らが兼任。ザーヒル・シャーの閉会宣言でロヤ・ジルガ閉会する。[[7月1日]]、米軍が南部ウルズガン州で誤爆。市民48人死亡、117人が負傷する。

==== 新共和国成立以降 ====
[[File:Inauguration of President Hamid Karzai in December 2004.jpg|thumb|[[ハーミド・カルザイ|カルザイ]]大統領の就任式(2004年)右奥に着席しているのは[[ザーヒル・シャー]]元国王]]
[[2004年]]1月、新憲法が発布された<ref name=":8">{{Cite web|title=平成18年版 外交青書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2006/html/framefiles/honbun.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。[[10月9日]]、第一回の大統領選挙が行われ、12月7日にハミード・カルザイが大統領に就任した<ref>{{Cite web|title=【アフガニスタン】|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2005/html/honmon2604.html#1|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。同年3月、パキスタンで[[ワジリスタン紛争]]が勃発した。

[[2005年]]9月、下院議員選挙や州議会選挙が行われ、国家統治機構の整備が完了した<ref name=":8" />。12月、国会が開会した<ref name=":8" />。

[[2006年]]、南部・南東部・東部を中心にターリバーンの攻撃が増加した<ref>{{Cite web|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2007/html/h2/h2_81.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24|title=平成19年版 外交青書 - 第2章 地域別に見た外交|publisher=}}</ref>。7月、[[国際治安支援部隊]](ISAF)が国内全土に展開した<ref>{{Cite web|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2007/html/h2/h2_82.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24|title=平成19年版 外交青書 - 第2章 地域別に見た外交|publisher=}}</ref>。

2007年、前年に引き続きターリバーンの攻撃が増加した<ref>{{Cite web|title=3.アフガニスタン {{!}} 【各論】 {{!}} 第6節 中東と北アフリカ {{!}} 第2章 {{!}} 外交青書08本編|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2008/html/h2/h2_24.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。

2008年、治安が著しく悪化し、南部や東部だけでなく首都カブールの近隣でもターリバーンの攻撃が行われた<ref>{{Cite web|title=第6節 中東と北アフリカ(4/8) {{!}} 第2章 {{!}} 外交青書09本編|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2009/html/h2/h2_24.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。8月には[[アフガニスタン日本人拉致事件]]が起きた。

[[2009年]]8月、[[:en:2009 Afghan presidential election|第二回の大統領選挙]]が実施された。カルザイが過半数の票を得るが、国連の調査で不正が発見される。2位の[[アブドラ・アブドラ|アブドラ]]前外相が決選投票をボイコットしたため、11月に行われた決選投票でカルザイの再選が決定した<ref>[http://www.asahi.com/international/update/1102/TKY200911020291.html アフガン大統領選、カルザイ氏再選と選管宣言 決選中止] [[asahi.com]]2009年11月2日22時45分配信記事</ref>。一方、ターリバーンは「比較的安定していた地域の不安定化を招き、市民の犠牲を顧みない、より洗練され、かつ複合的な攻撃を増加させて」おり、[[即席爆発装置]](IED)による攻撃が急増した<ref name=":4">{{Cite web|title=第2章 地域別に見た外交 第6節 中東と北アフリカ 2.アフガニスタン/外交青書2010(HTML)目次|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2010/html/chapter2/chapter2_06_02.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。同年、アメリカ合衆国の[[バラク・オバマ]]大統領は3回の増派を行った(1万7000人<ref>{{Cite web|title=オバマ米大統領、アフガニスタン増派を承認 1万7000人規模|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2572699|website=www.afpbb.com|accessdate=2019-11-24|language=ja|publisher=|date=2009-02-18}}</ref>、4000人<ref>{{Cite web|title=アフガニスタン戦争とアメリカ ―― アメリカ国内政治の展開を中心に {{!}} SYNODOS -シノドス-|url=https://synodos.jp/international/5478|website=synodos.jp|accessdate=2019-11-24|language=ja|publisher=|date=2013-09-05}}</ref>、1万3000人<ref name=":9">{{Cite web|title=オバマ米大統領、アフガニスタンへ支援部隊1万3000人追加増派|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2652300|website=www.afpbb.com|accessdate=2019-11-24|language=ja|publisher=|date=2009-10-13}}</ref>)。アメリカ合衆国の駐留軍の総数は6万8000人に達し<ref name=":9" />、その中から国際治安支援部隊(ISAF)に1万人以上が追加派遣された<ref name=":4" />。

==== 第二回大統領選挙後 ====
[[2010年]]1月、カルザイ政権の外務・内務・国防・財務の4主要閣僚が確定した<ref>[http://nsearch.yahoo.co.jp/bin/search?p=%A5%A2%A5%D5%A5%AC%A5%CB%A5%B9%A5%BF%A5%F3+%C2%E82%BC%A1%C0%AF%B8%A2&st= 新閣僚、再び過半が不信任=外相ら14ポストは確定-アフガン] 2010年1月16日 海外総合(時事通信)</ref>。同年、国際治安支援部隊(ISAF)は4万5000人以上が増員され、49か国・約13万人に達した<ref name=":1">{{Cite web|title=第2章 地域別に見た外交 第6節 中東と北アフリカ 2 アフガニスタン/外交青書2011|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2011/html/chapter2/chapter2_06_02.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。国際治安支援部隊(ISAF)は積極的に作戦行動を行ったので、戦争は更に激しくなり国際治安支援部隊(ISAF)や民間人の死傷者が急増した<ref name=":2">{{Cite web|title=アフガニスタン駐留兵の今年の死者600人に、過去最悪のペース|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2769812|website=www.afpbb.com|accessdate=2019-11-24|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|title=2010年の民間人死者、タリバン政権崩壊後最悪に アフガニスタン|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2789605|website=www.afpbb.com|accessdate=2019-11-24|language=ja}}</ref>。6月、アメリカ合衆国の駐留軍司令官の[[スタンリー・マクリスタル]]が政権批判により解任された<ref>{{Cite web|title=アフガン駐留米軍司令官、更迭か 雑誌で政権批判|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2737317|website=www.afpbb.com|accessdate=2019-11-24|language=ja}}</ref>。7月、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン政府への治安権限の移譲が始まった<ref name=":3">{{Cite web|title=第2章 地域別に見た外交 第6節 中東と北アフリカ 2 中東・北アフリカ情勢/外交青書2012|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2012/html/chapter2/chapter2_06_02.html#h10|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。[[9月18日]]、[[:en:2010 Afghan parliamentary election|第二回の下院議会選挙]]が実施された<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2010091900263 投票所97カ所に攻撃=民間人21人犠牲か-アフガン総選挙] [[時事ドットコム]]、2010/09/19-22:58</ref>。同年、カルザイ大統領がターリバーンとの和平を目指す'''高等和平評議会'''を発足させた<ref name=":2" />。2010年の経済成長率は22.5%に達した<ref name=":1" />。

[[2011年]][[5月2日]]、アメリカ軍がパキスタンで[[ウサーマ・ビン・ラーディン|ビン=ラーディン]]を殺害した([[ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害]])<ref>[http://www.cnn.com./2011/WORLD/asiapcf/05/01/bin.laden.obit/index.html?hpt=T1&iref=BN1 Osama bin Laden, the face of terror, killed in Pakistan www.cnn.com.「Osama bin Laden, the face of terror, killed in Pakistan」May 1, 2011 11:31 p.m. EDT]</ref>。同年、アメリカ合衆国の駐留軍は約10万人に達したが<ref name=":7" />、年内に1万人、2012年夏までに3万3000人の兵員を削減すると発表した<ref name=":3" />。

2012年7月、日本国政府は「アフガニスタンに関する東京会合」を開催し、アフガニスタン政府が統治を改善し開発戦略を自発的に実施する代わりに、国際社会がアフガニスタンに対して2015年まで160億ドルを超える支援を行うことを約束した。12月、依然として約10万人の国際治安支援部隊(ISAF)がアフガニスタンに展開していた<ref>{{Cite web|title=第2章 地域別に見た外交 第6節 中東と北アフリカ 3 中東・北アフリカ情勢/外交青書2013|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2013/html/chapter2/chapter2_06_03.html#h02060307|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。一方、同年のアフガニスタンの[[腐敗認識指数]]は167か国中の最下位だった<ref>{{Cite web|title=2012 Corruption Perceptions Index -- Results|url=https://www.transparency.org/cpi2012/results|website=www.transparency.org|accessdate=2019-11-24}}</ref>。

2013年6月、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン政府への治安権限の移譲の対象が全国に拡大した<ref>{{Cite web|title=外交青書 2014 | 3 中東・北アフリカ各国情勢 | 外務省|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2014/html/chapter2_06_03.html#s26306|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。

2014年4月、[[2014年アフガニスタン大統領選挙|第三回の大統領選挙]]が実施され、[[9月29日]]に[[アシュラフ・ガニー]]がアフガニスタン第二代大統領に就任した。これはアフガニスタン史上初の民主的な政権交代だった<ref name=":5" />。大統領選挙の決選投票で敗れた[[アブドラ・アブドラ]]元外相も首相格の行政長官に就任し、ガニー大統領と政治権力を分け合う'''国家統一政府'''(NUG)が発足した。12月、[[国際治安支援部隊]](ISAF)が終了した<ref name=":5" />。多国籍軍はアフガニスタン安全保障協定(BSA)やNATO・アフガニスタン地位協定(SOFA)によりアフガニスタンに残留するが[[確固たる支援任務]]に移行し、治安はアフガニスタン治安部隊(ANSF)が独力で維持することになった<ref name=":5">{{Cite web|title=外交青書 2015 | 4 アフガニスタン | 外務省|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2015/html/chapter2_06_04.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。

==== 第三回大統領選挙後 ====
2015年1月、[[ISIL|イスラム国]]が「ホラサン州」(ISIL-K)の設置を宣言し、アフガニスタンで活動を始めた<ref>{{Cite web|title=イラク・レバントのイスラム国(ISIL)の「ホラサン州」 {{!}} 国際テロリズム要覧(Web版) {{!}} 公安調査庁|url=http://www.moj.go.jp/psia/ITH/organizations/SW_S-asia/ISIL-Khorasan.html|website=www.moj.go.jp|accessdate=2019-11-24|publisher=|year=2019}}</ref>。7月、ターリバーンとアフガニスタン政府の和解協議が開催されたが、ターリバーンの指導者[[ムハンマド・オマル]]の死亡が公表され中断した<ref name=":6" />。国家統一政府は大統領選挙から1年が経過しても全閣僚を任命できず、国防相の就任を議会に否決され、国内の治安に責任を持てないでいた<ref name=":6" />。[[2015年]][[9月28日]]、ターリバーンはアフガニスタン第5の都市クンドゥーズを一時的に占領した([[クンドゥーズの戦い]])。衝撃を受けたアメリカ合衆国の[[バラク・オバマ]]大統領はアメリカ軍(9800人)の完全撤退を断念した<ref name=":7">{{Cite news|title=米軍、アフガン駐留を延長へ オバマ政権方針転換|url=https://www.bbc.com/japanese/34546742|date=2015-10-16|accessdate=2019-11-24|language=en-GB}}</ref>。また選挙制度改革の遅れにより予定されていた下院議員選挙は実施できず、GDP成長率も1.3%に鈍化した<ref name=":6">{{Cite web|title=外交青書 2016 | 4 アフガニスタン | 外務省|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2016/html/chapter2_06_04.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。

[[2016年]][[1月11日]]、パキスタン・アフガニスタン・中国・アメリカがターリバーンとの和平を目指す4か国調整グループ(QCG)を設立したが<ref>{{Cite news|url=http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/afghanistan/data.html|publisher=[[外務省]]|author=|title=アフガニスタン基礎データ|date=2017-07-25|accessdate=2018-01-01}}</ref>、ターリバーンは和平交渉を拒否した<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM05H8L_V00C16A3FF8000/|publisher=[[日本経済新聞]]|author=|title=アフガン、タリバンが和平交渉拒否|date=2016-03-06|accessdate=2018-01-01}}</ref>。国家統一政府ではガニー大統領とアブドラ行政長官との関係が悪化し、閣僚7人が弾劾された。9月、[[グルブッディーン・ヘクマティヤール|ヘクマティアル]]派との和解合意が成立した<ref>{{Cite web|title=外交青書 2017 | 4 アフガニスタン | 外務省|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2017/html/chapter2_06_04.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。

2017年5月、カブールのドイツ大使館の近くで大規模テロが発生し、300人以上が死傷した<ref name=":0">{{Cite web|title=外交青書 2018 | 1 中東地域情勢 | 外務省|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2018/html/chapter2_06_01.html#s26108|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。8月、アメリカ合衆国の[[ドナルド・トランプ]]大統領は「対アフガニスタン・南アジア戦略」を発表し<ref name=":0" />、状況の悪化を防ぐために増派(約4000人)を決定した<ref>{{Cite news|title=トランプ米大統領、アフガン新戦略発表 増派に道開く|url=https://jp.reuters.com/article/usa-trump-afghanistan-idJPKCN1B206V|work=Reuters|date=2017-08-22|accessdate=2019-11-24|language=ja}}</ref>。10月、アフガニスタン政府の支配地域は407郡中231郡(57%)にすぎないことが判明した。政府とターリバーンは122郡(30%)の支配を争っており、ターリバーンが54郡(13%)を支配していることが分かった。ターリバーンの支配地域は2015年11月から2017年8月の間に倍増しており、紛争地域も1.4倍増加した。[[ウルーズガーン州|ウルズガーン州]](7郡中5郡)や[[クンドゥーズ州]](7郡中5郡)、[[ヘルマンド州]](14郡中9郡)の大半はターリバーンに支配されていた<ref>{{Cite web|url=https://www.sigar.mil/pdf/quarterlyreports/2017-10-30qr.pdf|title=October 30, 2017 Quarterly Report to Congress|accessdate=2019-10-09|publisher=SIGAR(アフガニスタン復興特別査察官)|date=2017-10-30|pages=106-107}}</ref>。11月、北大西洋条約機構(NATO)は確固たる支援任務(約1万3000人)に対して3000人の増派を決定した<ref>{{Cite web|title=防衛省・自衛隊|平成30年版防衛白書|2 多国間の安全保障の枠組みの強化|url=http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/2018/html/n12802000.html|website=www.clearing.mod.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。

2018年6月、タリバーンとの間で史上初めての3日間の一時停戦が実現した<ref>{{Cite web|title=外交青書 2019 | 2 中東地域情勢 | 外務省|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2019/html/chapter2_06_02.html#s26210|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。8月、ターリバーンの猛攻により[[ガズニー州]]の州都が[[:en:Ghazni offensive|陥落寸前]]になった。10月、[[2018年アフガニスタン下院議員選挙|第三回の下院議員選挙]]が実施された。

2019年1月の時点で、ターリバーンがアフガニスタンの郡の12%を掌握・勢力圏内に入れている<ref>{{Cite web|url=https://www.sigar.mil/pdf/quarterlyreports/2019-01-30qr.pdf|title=January 30, 2019 Quarterly Report to Congress|accessdate=2019-12-14|publisher=SIGAR(アフガニスタン復興特別査察官)}}</ref>。タリバンの勢力が拡大しつつあるという意見もある<ref>{{Cite web|title=アフガニスタン:タリバンの復活と現状 {{!}}|url=http://globalnewsview.org/archives/10141|website=GNV|accessdate=2019-12-04|language=ja}}</ref>。8月、アメリカ合衆国とターリバーンとの間で8回目の和平協議が行われた([[アフガニスタン和平プロセス]])。9月、[[2019年アフガニスタン大統領選挙|第四回の大統領選挙]]が実施された。12月、[[中村哲 (医師)]]が殺害された。

2020年5月17日、昨年の大統領選挙で次点だった[[アブドラ・アブドラ]]と[[アシュラフ・ガニー]]大統領で政治権力を分け合うことで合意文書に署名した<ref>京都新聞2020年5月18日朝刊p5</ref>。


== 政治 ==
== 政治 ==
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=== 麻薬 ===
=== 麻薬 ===
アフガニスタンは「[[黄金の三日月地帯]]」に属し、はじめ古代より[[メソポタミア]]文明以来<ref name="Aniszewski 182">Aniszewski, p. 182</ref>、旱魃地域では[[医薬品]]の[[抗がん剤]]や[[モルヒネ]]([[鎮痛剤]])「植物性[[アルカロイド]]」、[[麻薬]]の[[アヘン]]や[[ヘロイン]]などの原料となる[[ケシ]]の栽培が伝統的に盛んで、ヘロインの全世界流通量の90%以上をアフガン産が占めるなど世界一の麻薬密造国である。また、国内の麻薬依存者の数も深刻であり、2005年から2010年にかけての依存者数は最大150万人にも達するとされる。政府は麻薬対策省を設け撲滅にあたっているものの、予算や人員の不足、麻薬に代わる産業の育成などの問題もあり、いまだに解決を見ていない。
アフガニスタンは「[[黄金の三日月地帯]]」に属し、はじめ古代より[[メソポタミア]]文明以来<ref name="Aniszewski 182">Aniszewski, p. 182</ref>、旱魃地域では[[医薬品]]の[[抗がん剤]]や[[モルヒネ]]([[鎮痛剤]])「植物性[[アルカロイド]]」、[[麻薬]]の[[アヘン]]や[[ヘロイン]]などの原料となる[[ケシ]]の栽培が盛んで、ヘロインの全世界流通量の90%以上をアフガン産が占めるなど世界一の麻薬密造国である。また、国内の麻薬依存者の数も深刻であり、2005年から2010年にかけての依存者数は最大150万人にも達するとされる。政府は麻薬対策省を設け撲滅にあたっているものの、予算や人員の不足、麻薬に代わる産業の育成などの問題もあり、いまだに解決を見ていない。


国際連合薬物犯罪事務所の年次報告書によれば、2018年現在もアフガニスタン南部のタリバーン支配地を中心に推定26万30,00ヘクタールの面積でケシの栽培が行われている<ref>{{Cite web |date= 2018-11-20|url= http://www.afpbb.com/articles/-/3198355|title=アフガニスタンのアヘン生産、干ばつや価格下落で減少 国連報告書 |publisher= AFP|accessdate=2018-11-20}}</ref>。
国際連合薬物犯罪事務所の年次報告書によれば、2018年現在もアフガニスタン南部のタリバーン支配地を中心に推定26万30,00ヘクタールの面積でケシの栽培が行われている<ref>{{Cite web |date= 2018-11-20|url= http://www.afpbb.com/articles/-/3198355|title=アフガニスタンのアヘン生産、干ばつや価格下落で減少 国連報告書 |publisher= AFP|accessdate=2018-11-20}}</ref>。

2021年8月15日 (日) 13:12時点における版

アフガニスタン・イスラム共和国
جمهوری اسلامی افغانستان
Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Afghānestān
アフガニスタンの国旗 アフガニスタンの国章
国旗 (国章)
国の標語:لا إله إلا الله، محمد رسول الله
アッラーフの他に神はなし。ムハンマドはアッラーフの使徒である。
国歌ملی سرود
アフガニスタンの位置
公用語 パシュトー語ダリー語
首都 カーブル
最大の都市 カーブル
政府
大統領 アシュラフ・ガニー
第一副大統領 アムルッラー・サーレハ
第二副大統領サルワル・ダーニシュ
面積
総計 652,225[1]km240位
水面積率 極僅か
人口
総計(2019年 32,225,560人(44位
人口密度 46人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(xxxx年 xxx,xxxアフガニ
GDP(MER
合計(2013年207億[2]ドル(106位
1人あたり xxxドル
GDP(PPP
合計(2013年588億[2]ドル(96位
1人あたり 1,924[2]ドル
建国
独立
 - 宣言
1747年
イギリス保護国より
1919年8月19日
通貨 アフガニAFN
時間帯 UTC+4:30 (DST:なし)
ISO 3166-1 AF / AFG
ccTLD .af
国際電話番号 93

アフガニスタン・イスラム共和国(アフガニスタン・イスラムきょうわこく、ダリー語: جمهوری اسلامی افغانستانパシュトー語: Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Afghānestān‎、英:Afghanistan)、通称アフガニスタンは、中央アジア南アジアの交差点に位置する山岳地帯の内陸国である。東と南にパキスタン、西にイラン、北にトルクメニスタンウズベキスタンタジキスタン、北東に中国と国境を接している。面積は65万2,000平方キロメートルで、北部と南西部に平野部がある山岳国である。首都であり最大の都市であるカブール。人口は約3,900万人で、そのほとんどがパシュトゥン人タジク人ハザラ人ウズベク人などの民族である。

アフガニスタンでは、反政府勢力タリバンとアフガニスタン政府による内戦が続いているが、米軍の撤退発表をきっかけに、タリバンの勢力が急速に拡大した。2021年8月15日、攻勢のタリバンが、アフガンの国土のほぼ全土を掌握し、政府側は、タリバン側の政権移行と降伏の要求を認める声明を出しているため、20年ぶりにタリバン政権が復活する見通しだ[3]

概要

人類は少なくとも5万年前には現在のアフガニスタンに住んでいた。9,000年前に定住生活が始まり、紀元前3千年紀のインダス文明(ショルトゥガイ遺跡)、オクサス文明(ダシュリジ遺跡)、ヘルマンド文明(ムンディガク遺跡)へと徐々に進化していった[4]インド・アーリア人バクトリア・マルギアナ地方を経てガンダーラに移住し、ゾロアスター教の古代宗教書であるアヴェスターに描かれている文化と密接な関係がある[5]鉄器時代のヤズ1世文化(紀元前1500〜1100年頃)が興った[6]。「アリアナ」と呼ばれていたこの地域は、紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシャ人の手に落ち、その東側のインダス川までの地域を征服した。アレキサンダー大王は前4世紀にこの地域に侵入し、カブール渓谷での戦いの前にバクトリアでロクサネと結婚したが、アスパシオイ族やアサカン族の抵抗に遭ったという。グレコ・バクトリア王国ヘレニズム世界の東端となった。マウリヤ朝インド人による征服の後、この地域では何世紀にもわたって仏教ヒンドゥー教が栄えた。カピシとプルシャプラの双子の都を支配したクシャーナ朝カニシカ1世は、大乗仏教が中国や中央アジアに広まる上で重要な役割を果たした。また、この地域からは、キダール、エフタル、アルコン、ネザーク、ズンビール、トルキ・シャヒスなど、さまざまな仏教王朝が生まれた。

サーサーン朝の支配下にあったヘラートとザランジには、7世紀半ばにイスラム教徒がイスラム教をもたらし、9世紀から12世紀にかけて、サッファール朝、サマニー朝、ガズナ朝ゴール朝朝の時代に本格的なイスラム化が進んだ[7]。その後、クワーラズミアン朝、ハルジー朝ティムール朝ローディー朝スール朝ムガル帝国サファヴィー朝などに支配された地域もある。現代のアフガニスタンの政治史は、1709年にアフガニスタン南部の独立を宣言したミルワイス・ホタックを始祖とするホータキー朝に始まる。1747年、アフマド・シャー・ドゥッラーニーカンダハールに首都を置くドゥッラーニー帝国を建国した。1776年、ドゥラーニー帝国の首都はカブールに移され、ペシャーワルが冬の首都となった[8]が、1823年、ペシャワールはシーク教徒に奪われた。19世紀後半、アフガニスタンはイギリス帝国ロシア帝国の「グレート・ゲーム」の緩衝国となった[9] [10]

1839年から1842年にかけての第一次アングロ・アフガン戦争では、インドから来たイギリス軍がアフガニスタンを制圧したが、その後大敗した。1919年の第三次アングロ・アフガン戦争の後、アフガニスタンは外国の影響から独立することができた。1919年の第3次英・アフガン戦争後、アフガニスタンは外国の影響から独立し、アマーヌッラー・ハーンのもとで君主制となる。しかし、1973年にザーヒル・シャーが倒され、共和制が確立された。1978年、2度目のクーデターにより、アフガニスタンは初めて社会主義国家となり、1980年代にはムジャーヒディーンの反乱軍とのソ連・アフガン戦争が勃発した。1996年までに、国の大部分がイスラム原理主義者のタリバンに取り込まれ、全体主義的な政権によって支配された。2001年のアメリカの侵攻後、彼らは権力から排除されたが、今でも国のかなりの部分を支配している。政府とタリバンとの間で続いている戦争は、アフガニスタンの人権や女性の権利に関する問題をさらに悪化させている。一般市民の殺害、誘拐、拷問など、双方による多くの虐待が行われている。また、アメリカの軍事・経済援助に大きく依存していることから、アメリカの従属国とも言われている[11]

アフガニスタンは大統領制のイスラム共和国である。テロリズム、貧困、子供の栄養失調、汚職が蔓延している。アフガニスタンは、国連イスラム協力機構南アジア地域協力連合77ヶ国グループ経済協力機構非同盟運動に加盟している。アフガニスタンの経済規模は世界第96位で、購買力平価による国内総生産(GDP)は729億ドルである。一人当たりのGDP(PPP)ではもっと悪く、2018年時点で186カ国中169位となっている。

国名

自称国名はافغانستان (Afghānistān ; アフガーニスターン)。ペルシア語ダリー語で「アフガーン人(パシュトゥーン人)の国(土地)」を意味する。正式名称は1973年の王制打倒以来政体が変化するごとに新政権によって改められてきたが、ターリバーン政権崩壊後のロヤ・ジルガ(国民大会議)で定められた2004年憲法による正式名称はダリー語で、جمهوری اسلامی افغانستان (ラテン文字転写 : Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Afghānestān , 読み : ジョムフーリーイェ・エスラーミーイェ・アフガーネスターン)という。

公式の英語表記は、Islamic Republic of Afghanistan。通称Afghanistan。日本語の表記は、アフガニスタン・イスラム共和国。通称アフガニスタン漢字表記阿富汗斯坦または亜富汗斯坦

国名の変遷

ターリバーン政権期

ボン合意以降

  • 2001年 - 2002年 アフガニスタン(公式国名なし)
  • 2002年 - 2004年 アフガニスタン・イスラム移行国
  • 2004年 - 2021年 アフガニスタン・イスラム共和国

国旗

現在の国旗は2002年1月に制定されたもの。中央の紋章に書かれている文字はコーランの冒頭の聖句(シャハーダ)である「アッラーフのほかに神はなし、ムハンマドはアッラーフの使徒なり」と書かれている。

歴史

歴史

先史時代

紀元前10万年旧石器の文化があった。

紀元前7000年新石器の文化があった。

紀元前3000年から紀元前2000年にかけて四大文明が起こり、都市文化が生まれつつあった。その背景には農耕文化の発展があった。アフガニスタンは、先史時代からイラン高原メソポタミアの諸文化と早くからつながりがあり、また、インダス文明とも交流があった[12]

紀元前2000年から紀元前1800年は青銅器時代で、ムンディガク遺跡[注釈 1]、デー・モラシ・グンダイ遺跡が見つかっている。また、バクトリア地方から出土した数体の石製女性像が見つかっている。

紀元前12世紀リグ・ヴェーダによれば、十王戦争が勃発し、バルフからパンジャブへ侵攻した。

ペルシア・ギリシア・インド文化の時代

ペルシアとアレクサンドロス大王の支配

紀元前5世紀ごろ、アラコシア英語版には古代民族Pactyans英語版が住んでいた

紀元前6世紀アケメネス朝ペルシャ帝国に編入され、アレイヴァヘラート)、アラコシア英語版カンダハールラシュカルガークエッタ)、バクトリアバルフ)、サッタギディア英語版ガズニー)、ガンダーラカーブルジャラーラーバードペシャーワル)の地方名で呼ばれた。カンダハルの旧市シャル・イ・コナ英語版の発掘によって、紀元前6世紀にはこの町がすでにアフガニスタン南方の首邑になっていたことが明らかになった。

紀元前5世紀ごろ、アラコシア英語版には古代民族Pactyans英語版が住んでいたことがサンスクリット古代ギリシャ語文献から知られている。

紀元前4世紀アレクサンドロス3世(大王)はこの地を征服し、アレクサンドリアオクシアナ(Alexandria on the Oxus)と呼ばれる都市を建設した[注釈 2][14]

南方のマウリア朝と北方のグレコ・バクトリア王国

カンダハールで発見されたギリシャ語アラム語で書かれたアショーカ王碑文紀元前3世紀

紀元前3世紀中ごろ、アフガニスタン北部からタジキスタン南部にかけてはギリシャ人の建てたグレコ・バクトリア王国が支配した。

紀元前130年ごろ、インド・グリーク朝のメナンドロス1世が死んで、分裂すると、サカ族ガンダーラ地方でインド・スキタイ王国を興した。

紀元前2世紀後半、匈奴に追われた遊牧民の月氏が侵入し、グレコ・バクトリア王国は滅びた。

1世紀以降、先の大月氏の立てたクシャーナ朝がこの地に栄える。このころギリシア文化は影響力を失い、代わって南方のマウリヤ朝から流入したインド文化や仏教の影響が強く見られるようになる。4世紀ごろまでバクト商人シルクロード交易を掌握する。

3世紀末、クシャーナ朝に代わりサーサーン朝の支配がこの地に及ぶ。

5世紀前半、エフタルが起りアフガニスタン・パキスタンの地を支配する。

6世紀後半、アルタイ方面から南下してきた突厥による支配を受ける。

イスラーム化の進展

ゴール朝の時代に建てられたヘラートの金曜モスク英語版

8世紀初頭、イスラム帝国アッバース朝のイスラム教徒軍がハザールソグディアナに侵攻し(アラブ・ハザール戦争トランスオクシアナ征服英語版)、その支配下へ入る。751年タラス河畔の戦いによりイスラム商人がシルクロード交易を掌握する。ゾロアスター教や仏教、ヒンズー教の影響は、イスラム教が伝わったあとも10世紀ごろまで残存した。

9世紀中ごろ、再び土着イラン人によるターヒル朝サッファール朝サーマーン朝が興り統治する。

995年マームーン朝英語版のイスラム教徒軍が侵攻、アムダリヤ川右岸の古都キャトカタルーニャ語版ドイツ語版ペルシア語版に栄えていた土着のゾロアスター教国家、アフリーグ朝英語版は滅亡した。

1017年ガズナ朝がマームーン朝を滅ぼした。10世紀以降、このころからパシュトゥーン人の存在が確認され始める。

1117年、シャンサブ家がゴール朝を興し、シハーブッディーン・ムハンマドに仕えるクトゥブッディーン・アイバクは北インド征服事業を成功させ奴隷王朝を開いた。1215年ホラズム・シャー朝アラーウッディーン・ムハンマドによってゴール朝は滅亡した。

モンゴル帝国

モンゴルのホラズム・シャー朝征服のあと、アフガニスタンはモンゴル帝国およびチャガタイ・ハン国タジク人のクルト朝の支配を受ける。

ティムール朝

1370年ごろ、テュルク系のティムール朝による支配を受ける。1470年、ティムール朝が分裂しヘラート政権に移行。1507年ウズベク族シャイバーン朝ムハンマド・シャイバーニー・ハーンの攻撃によってティムール朝は滅亡する。

サファヴィー朝、ムガル朝、オスマン帝国の抗争

カンダハールを奪還するムガル帝国1638年

1510年サファヴィー朝イランによって征服される。1526年第一次パーニーパットの戦いカーブルを拠点とするティムール朝の王子バーブルインドムガル朝を建設。

1540年、北インドのスール朝がカンダハール、カーブルを占拠。1545年、ムガル帝国がカンダハール、カーブルを占拠。1556年第二次パーニーパットの戦いスール朝ヘームーを破る。

1623年、サファヴィー朝がカンダハールを奪還。1638年、ムガル帝国がカンダハールを占拠。1649年、サファヴィー朝がカンダハールを奪還。

アフガンの王家による統治のはじまり

ホータキー朝

1709年、パシュトゥーン人ギルザーイー部族ミール・ワイス・ホータキー英語版が反乱を起こし、カンダハールにホータキー朝を樹立。

1719年、ホータキー族のミール・マフムード英語版がサファヴィー朝のケルマーンに侵攻。

1722年、ミール・マフムードがサファヴィー朝の首都・イスファハーンを占拠(グルナーバードの戦い英語版)。マフムードがサファヴィー朝を支配下に治める。

1725年、シャー位が、マフムードから、アシュラフに代わる。

1729年アシュラフがアフシャール朝のナーディル・シャーに敗れ、ペルシアがアフガン支配下から脱した(ダムガンの戦い英語版)。

1736年アフシャール朝が成立。サファヴィー朝が消滅。

ドゥッラーニー朝

サドーザイ朝
アフマド・シャー時代のドゥッラーニー朝の版図

1747年10月、パシュトゥーン人ドゥッラーニー部族連合のザドーザイ族長アフマド・シャー・ドゥッラーニーによるドゥッラーニー朝が成立。

1757年マラーターのインド北西部侵攻英語版パンジャーブが占領される。

バーラクザイ朝

1826年、ドゥッラーニー系部族の間で王家が交代し、バーラクザイ朝が成立。1834年に国名をアフガニスタン首長国en)とする。

1838年 - 1842年第一次アフガン戦争でイギリスに勝利。

イギリス保護国期

左からJenkyns、Cavagnariヤアクーブ・ハーン英語版、Daoud Shah、Habibullah Moustafi(ガンダマク条約英語版1879年

第二次アフガン戦争1878年 - 1880年)のカンダハールの戦い英語版でアフガニスタン首長国はイギリスに敗れ、ガンダマク条約英語版でその保護国となり、イギリスとロシアはアフガニスタンを新たな緩衝国家として中央アジアで対峙した。

1885年、イギリスとロシア帝国との間でパンジェ紛争英語版が起きる。イギリスは朝鮮半島沖の巨文島巨文島事件を起こし、ロシアを牽制した。

1893年、パキスタンとの国境線デュアランド・ラインにアフガニスタン首長国とイギリスが合意。1895年チトラル遠征英語版

アフガンの王家による再独立

1919年第三次アフガン戦争に勝利したアマーヌッラー・ハーンはイギリスからの独立を達成し、独立した君主として即位した。1926年、国名をアフガニスタン王国とする。同年、オーレル・スタインインダス川上流およびスワート川英語版流域(デュアランド・ライン)を調査旅行した。アマーヌッラーは、トルコ共和国の新指導者ケマル・アタテュルク世俗主義民族主義共和主義を柱とする改革に影響され、同様の改革を推進したが、宗教改革に反対する保守派の蜂起が相次いだ。

王妃ソラヤ・タルズィー英語版は近代化のひとつとして家庭内での女性の地位向上を図ったが、アフガニスタンの歴史上初めて登場した女性の統治者に対して、保守派の激しい反対があった。

タジク人の指導者ハビーブッラー・カラカーニー英語版は、イギリスから資金と武器の支援を受けてカーブルを占領し、アマーヌッラー政権を打倒した(アマーヌッラー・ハーンの改革と内戦ペルシア語版ノルウェー語版英語版)。

1929年、バーラクザイ王家の分家筋にあたるムハンマド・ナーディル・シャーが混乱を収めて、国王(アミール)に就任。

1931年に制定した新憲法の第一条でスンナ派ハナフィー学派を国教に定めた。この条文が国内少数派のシーア派に対する反ハザラ人政策の法的根拠となったことで恨みを買い、1933年11月8日に暗殺された。同日、息子のザーヒル・シャーが即位した。

第二次世界大戦

1939年9月に開戦した第二次世界大戦では、1941年10月にイギリスとソ連両国はドイツイタリアなど枢軸国外交官民間人の国外退去を要求した。これに対しアフガニスタン政府は、枢軸国のみならず交戦中のすべての国の外交官以外の民間人に国外退去を命じた。

このように、ザーヒル・シャー国王の統治下で、英領インドとソ連、中華民国に挟まれた中央アジアにおける緩衝国家として、日本やドイツ、イタリアや満洲国などからなる枢軸国、イギリスやアメリカ、ソ連と中華民国などからなる連合国の、どちらにもつかない中立国として1945年9月の終戦まで機能していた。

冷戦

パシュトゥーニスタン独立運動

ザーヒル・シャー1963年

1947年にイギリスのインド統治が終了すると、バルチスタン地方は「もともとインドの一部ではない」ためインドやパキスタンには参加せず、イギリスやパキスタンもカラート藩王国英語版の独立を認めたうえで、パキスタンとは特別の関係を結ぶことを模索し、1952年にバルチスタン藩王国連合英語版として独立させた。

しかし、その後のパキスタンからの軍事的圧迫(バルチスタン紛争英語版)に抗すことができず藩王は併合条約に調印し、パキスタンに軍事併合された。その後もしばらく内政自治は続いていたが権限は大幅に縮小され、1955年には藩王国自体が名目上も消滅させられ、バローチスターン州とされた。

パキスタンがバルチスタンのみならずアフガニスタンも併合しようとしたため、国王ザーヒル・シャーは逆にパキスタン領(連邦直轄部族地域ワズィーリスターン)内のパシュトゥーン人を支援して「パシュトゥーニスタン独立運動」を起こし牽制した。

ザーヒル・シャーは、1960年代には立憲君主制を導入して民主化路線を推進し、日本やイギリス、ソ連などからの資本の導入や輸入品の導入を推進した。

王政廃止からソ連軍の撤退

首都カーブルに展開するソ連の空挺兵
チャールズ・ウィルソンムジャーヒディーン

1973年、ザーヒル・シャーがイタリアでの病気療養のため、国を離れていた隙を狙い、旧バーラクザイ王族のムハンマド・ダーウードクーデターを起こし王政を廃止、共和制を宣言して大統領に就任、アフガニスタン共和国を建国した。ダーウードはアフガン社会の近代化と軍事近代化を目指し、ソ連に接近してイスラム主義者たちを弾圧する。このときパキスタンに脱出したヘクマティヤールヒズベ・イスラーミー英語版(ヘクマティヤール派)を結成し、イスラム主義のラッバーニーらはジャマーアテ・イスラーミーペルシア語版ロシア語版英語版(イスラム協会、ラッバーニー派)を結成した。

1978年4月、アフガニスタン人民民主党主導による軍事クーデター「四月革命」が発生し、ダーウードおよび一族が処刑される。人民民主党による社会主義政権が樹立し、国名をアフガニスタン民主共和国に変更、ヌール・ムハンマド・タラキーが初代革命評議会議長兼大統領兼首相に就任した。これに対し、全土でムジャーヒディーンが蜂起、アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)が始まる。政情が不安定化する中、1979年2月に隣国でイラン革命が勃発。9月17日、ヌール・ムハンマド・タラキーが副首相のハフィーズッラー・アミーン一派に殺害され、アミーンが革命評議会議長兼大統領兼首相に就任。

1979年12月24日、ソ連はアフガニスタンへ軍事侵攻を開始した。ブレジネフソビエト連邦共産党書記長が、領内の中央アジア諸国にイスラム原理主義が飛び火することを恐れての侵略であるとされている。12月27日、ソ連はムジャーヒディーンを抑えられないアミーンをKGBを使って暗殺、バブラク・カールマル副議長を革命評議会議長兼大統領兼首相に擁立する。ソ連軍および政府軍とこれに抵抗するムジャーヒディーンとの戦闘が激化する。

1982年、国連総会において、外国軍の撤退を要求する国連決議(37/37)が採択される。

1987年ムハンマド・ナジーブッラーが大統領に就任。国名をアフガニスタン共和国に戻す。

1988年、「アフガニスタンに関係する事態の調停のための相互関係に関する協定」が締結。ソ連軍の撤退と国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション設置が決定される。

1989年、ソ連軍撤退完了。各国から参加したムジャーヒディーンの多くも引き上げた。しかし、戦後も国内のムジャーヒディーン各派は人民民主党政府打倒を目指して武装闘争を続けた。

ソ連軍の撤退、ターリバーン政権の統治

カーブルでインタビューを受けるビン・ラーディン1997年
1996年時点のアフガニスタン、赤と緑の北部同盟、黄色がターリバーンの支配地域

1989年、ソ連軍が撤退したあと国内の支配をめぐってアフガニスタン紛争 (1989年-2001年)が始まる。2月にアフガニスタン国内のムジャーヒディーン各派はシブガトゥッラー・ムジャッディディーを暫定国家元首に指名、ジャラーラーバードの戦いでナジーブッラーが率いる人民民主党政府と戦うも敗北する。

1992年、ナジーブッラー政権崩壊。ムジャーヒディーンのジャマーアテ・イスラーミーペルシア語版ロシア語版英語版(イスラム協会、ラッバーニー派)主導によるアフガニスタン・イスラム国が成立。

1993年、イスラム協会のブルハーヌッディーン・ラッバーニー指導評議会議長が大統領に就任。

1994年、内戦が全土に広がる。ターリバーン、パキスタンの北西辺境州(旧北西辺境州英語版がパキスタン領となったもの)から勢力を拡大。

1996年、ターリバーンがカーブルを占領し、アフガニスタン・イスラム首長国の成立を宣言する。アフガニスタン・イスラム国政府とムジャーヒディーンの一部が反ターリバーンで一致、北部同盟[注釈 3]マスード派とドスタム派)となる。同年、米国の指示によりスーダン政府はウサーマ・ビン=ラーディンの国外追放を実行、ビン=ラーディンの率いるアル・カーイダがアフガニスタン国内に入り、ターリバーンと接近する。

1997年、第一次マザーリシャリーフの戦い英語版でターリバーンが敗北。

1998年、第二次マザーリシャリーフの戦いでターリバーンが勝利、ドスタム派を駆逐してアフガン全土の9割を掌握するが、イラン領事館員殺害事件が発生。イランとターリバーンの双方が国境付近に兵を集結させ、一触即発の危機を招いたが、ラフダル・ブラヒミ国連特使の仲介により危機が回避された[16]。また、ケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破事件にともなうアル・カーイダ引き渡し要求をターリバーンが拒否したため、アメリカとの関係が緊張化する。

1999年、ターリバーン支配地域に対する経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1267英語版が採択される。

2000年、ターリバーン支配地域に対する追加経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1333英語版が採択される。

2001年3月2日、ターリバーンがバーミヤンの石仏を爆破する。9月10日、北部同盟のアフマド・シャー・マスード司令官が、自称アルジェリア人ジャーナリスト2名による自爆テロで死亡した。9月16日、マスードの遺体が故郷パンジシールで埋葬された。ターリバーン情報省が全土要塞化を宣言し、徹底抗戦姿勢を示す。9月25日、サウジアラビア、ターリバーンとの断交を決定。9月26日、閉鎖されたままのアメリカ大使館が、カーブル市民によって襲撃される。

テロとの戦い

多国籍軍による攻撃と暫定政権の樹立

アメリカ同時多発テロ事件2001年9月11日
アフガニスタンに向けて発射されるミサイル

2001年10月2日アメリカ同時多発テロ事件を受けてNATOアルカーイダを匿うターリバーン政権に対して自衛権の発動を宣言。10月7日アメリカ軍不朽の自由作戦の名の下で空爆を開始、イギリスも参加。北部同盟も地上における攻撃を開始。これよりアフガニスタン紛争 (2001年-)が開始される。11月13日、北部同盟は、無血入城でカーブルを奪還した。年末にターリバーン政権崩壊。11月22日、パキスタン政府、ターリバーンとの断交を決定し、駐イスラマバードアフガニスタン大使館を閉鎖した。11月27日、空爆が続くなか、国連は新政権樹立に向けた会議をドイツのボン郊外で開催した。会議には北部同盟、国王支持派のローマ・グループ、キプロス・グループ、そしてペシャーワルからのグループが参加した[注釈 4]11月29日、行政府に相当する暫定行政機構の設立案について合意した。12月5日、暫定行政機構人事で各派間の確執があったが、国連の調整で、議長にパシュトゥーン人のハーミド・カルザイを据え、暫定政権協定の調印が実現した(ボン合意)。アフガニスタン主要4勢力、暫定政権発足とその後の和平プロセスで合意。国際連合安全保障理事会決議1386にもとづき国際治安支援部隊(ISAF)創設、カーブルの治安維持にあたる。また国際連合安全保障理事会決議1401により、国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)がスタート。アフガニスタン暫定行政機構が成立し、ハーミド・カルザイが議長となる。

暫定政権樹立と新共和国成立

移動する有志連合の部隊(ルーマニア軍、2003年)

2001年12月22日、カーブルで暫定政権発足の記念式典が挙行された。約3,000人が出席し、ラバニ大統領からカルザイ暫定行政機構議長に政権が委譲される形で執り行われ、カルザイが暫定政権の首相となった。カルザイは国民に平和と法をもたらすことを誓い、言論と信教の自由、女性の権利の尊重、教育の復興、テロとの戦いなど13項目の施政方針を発表した。暫定政権の閣僚は29名[注釈 5]で構成され、うち北部同盟が19ポスト[注釈 6]、元国王支持派が8ポスト[注釈 7]、ペシャワル派が2ポスト[注釈 8]占めた。

2002年1月21日、東京でアフガニスタン復興支援会議が開催された。約60各国と22の国際機関の代表が出席した。これに先立ちNGO59団体による会議も開かれた。日本は2年で5億ドル、アメリカは1年で2億9,600万ドル、サウジアラビアは3年で2億2,000万ドル、欧州連合は1年で5億ドル、ドイツは5年で3億5,000万ドル、イギリスは5年で3億7,200万ドルの拠出を決定し、世界銀行とアジア開発銀行はそれぞれ2年半で5億ドルの拠出を決定した。また周辺各国は、イランが1年で1億2,000ドル、パキスタンは5年で1億ドル、インドも1年で1億ドルの支援を発表した。各国の支援総額は30億ドルを超えた。さらに支援は、行政能力の向上や教育、保健衛生、インフラ、経済システム、農業および地方開発、地雷撤去などの作業を実施し、定期的に復興運営会議をカーブルで開催することなどを決定した。2月14日アブドゥール・ラフマン航空観光大臣がカーブル国際空港で自国民に撲殺される。6月10日 - 6月19日、緊急ロヤ・ジルガ(国民大会議)が開催され[注釈 9]、1,500人以上の代表が参加した。6月13日、国家元首(大統領)を決める選挙が緊急ロヤ・ジルガで行われ、ハーミド・カルザイが圧倒的多数の票を獲得し当選した[19]6月15日、今後2年間の国名を「アフガニスタン・イスラム暫定政府」に決定する。 6月19日、新暫定政府主要14閣僚と最高裁判所長官の名簿を公表。副大統領にファヒーム国防相・アブドゥッラー外相・アシュラフ・アリー財務相(カルザイ顧問兼任)らが兼任。ザーヒル・シャーの閉会宣言でロヤ・ジルガ閉会する。7月1日、米軍が南部ウルズガン州で誤爆。市民48人死亡、117人が負傷する。

新共和国成立以降

カルザイ大統領の就任式(2004年)右奥に着席しているのはザーヒル・シャー元国王

2004年1月、新憲法が発布された[20]10月9日、第一回の大統領選挙が行われ、12月7日にハミード・カルザイが大統領に就任した[21]。同年3月、パキスタンでワジリスタン紛争が勃発した。

2005年9月、下院議員選挙や州議会選挙が行われ、国家統治機構の整備が完了した[20]。12月、国会が開会した[20]

2006年、南部・南東部・東部を中心にターリバーンの攻撃が増加した[22]。7月、国際治安支援部隊(ISAF)が国内全土に展開した[23]

2007年、前年に引き続きターリバーンの攻撃が増加した[24]

2008年、治安が著しく悪化し、南部や東部だけでなく首都カブールの近隣でもターリバーンの攻撃が行われた[25]。8月にはアフガニスタン日本人拉致事件が起きた。

2009年8月、第二回の大統領選挙が実施された。カルザイが過半数の票を得るが、国連の調査で不正が発見される。2位のアブドラ前外相が決選投票をボイコットしたため、11月に行われた決選投票でカルザイの再選が決定した[26]。一方、ターリバーンは「比較的安定していた地域の不安定化を招き、市民の犠牲を顧みない、より洗練され、かつ複合的な攻撃を増加させて」おり、即席爆発装置(IED)による攻撃が急増した[27]。同年、アメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領は3回の増派を行った(1万7000人[28]、4000人[29]、1万3000人[30])。アメリカ合衆国の駐留軍の総数は6万8000人に達し[30]、その中から国際治安支援部隊(ISAF)に1万人以上が追加派遣された[27]

第二回大統領選挙後

2010年1月、カルザイ政権の外務・内務・国防・財務の4主要閣僚が確定した[31]。同年、国際治安支援部隊(ISAF)は4万5000人以上が増員され、49か国・約13万人に達した[32]。国際治安支援部隊(ISAF)は積極的に作戦行動を行ったので、戦争は更に激しくなり国際治安支援部隊(ISAF)や民間人の死傷者が急増した[33][34]。6月、アメリカ合衆国の駐留軍司令官のスタンリー・マクリスタルが政権批判により解任された[35]。7月、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン政府への治安権限の移譲が始まった[36]9月18日第二回の下院議会選挙が実施された[37]。同年、カルザイ大統領がターリバーンとの和平を目指す高等和平評議会を発足させた[33]。2010年の経済成長率は22.5%に達した[32]

2011年5月2日、アメリカ軍がパキスタンでビン=ラーディンを殺害した(ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害[38]。同年、アメリカ合衆国の駐留軍は約10万人に達したが[39]、年内に1万人、2012年夏までに3万3000人の兵員を削減すると発表した[36]

2012年7月、日本国政府は「アフガニスタンに関する東京会合」を開催し、アフガニスタン政府が統治を改善し開発戦略を自発的に実施する代わりに、国際社会がアフガニスタンに対して2015年まで160億ドルを超える支援を行うことを約束した。12月、依然として約10万人の国際治安支援部隊(ISAF)がアフガニスタンに展開していた[40]。一方、同年のアフガニスタンの腐敗認識指数は167か国中の最下位だった[41]

2013年6月、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン政府への治安権限の移譲の対象が全国に拡大した[42]

2014年4月、第三回の大統領選挙が実施され、9月29日アシュラフ・ガニーがアフガニスタン第二代大統領に就任した。これはアフガニスタン史上初の民主的な政権交代だった[43]。大統領選挙の決選投票で敗れたアブドラ・アブドラ元外相も首相格の行政長官に就任し、ガニー大統領と政治権力を分け合う国家統一政府(NUG)が発足した。12月、国際治安支援部隊(ISAF)が終了した[43]。多国籍軍はアフガニスタン安全保障協定(BSA)やNATO・アフガニスタン地位協定(SOFA)によりアフガニスタンに残留するが確固たる支援任務に移行し、治安はアフガニスタン治安部隊(ANSF)が独力で維持することになった[43]

第三回大統領選挙後

2015年1月、イスラム国が「ホラサン州」(ISIL-K)の設置を宣言し、アフガニスタンで活動を始めた[44]。7月、ターリバーンとアフガニスタン政府の和解協議が開催されたが、ターリバーンの指導者ムハンマド・オマルの死亡が公表され中断した[45]。国家統一政府は大統領選挙から1年が経過しても全閣僚を任命できず、国防相の就任を議会に否決され、国内の治安に責任を持てないでいた[45]2015年9月28日、ターリバーンはアフガニスタン第5の都市クンドゥーズを一時的に占領した(クンドゥーズの戦い)。衝撃を受けたアメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領はアメリカ軍(9800人)の完全撤退を断念した[39]。また選挙制度改革の遅れにより予定されていた下院議員選挙は実施できず、GDP成長率も1.3%に鈍化した[45]

2016年1月11日、パキスタン・アフガニスタン・中国・アメリカがターリバーンとの和平を目指す4か国調整グループ(QCG)を設立したが[46]、ターリバーンは和平交渉を拒否した[47]。国家統一政府ではガニー大統領とアブドラ行政長官との関係が悪化し、閣僚7人が弾劾された。9月、ヘクマティアル派との和解合意が成立した[48]

2017年5月、カブールのドイツ大使館の近くで大規模テロが発生し、300人以上が死傷した[49]。8月、アメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領は「対アフガニスタン・南アジア戦略」を発表し[49]、状況の悪化を防ぐために増派(約4000人)を決定した[50]。10月、アフガニスタン政府の支配地域は407郡中231郡(57%)にすぎないことが判明した。政府とターリバーンは122郡(30%)の支配を争っており、ターリバーンが54郡(13%)を支配していることが分かった。ターリバーンの支配地域は2015年11月から2017年8月の間に倍増しており、紛争地域も1.4倍増加した。ウルズガーン州(7郡中5郡)やクンドゥーズ州(7郡中5郡)、ヘルマンド州(14郡中9郡)の大半はターリバーンに支配されていた[51]。11月、北大西洋条約機構(NATO)は確固たる支援任務(約1万3000人)に対して3000人の増派を決定した[52]

2018年6月、タリバーンとの間で史上初めての3日間の一時停戦が実現した[53]。8月、ターリバーンの猛攻によりガズニー州の州都が陥落寸前になった。10月、第三回の下院議員選挙が実施された。

2019年1月の時点で、ターリバーンがアフガニスタンの郡の12%を掌握・勢力圏内に入れている[54]。タリバンの勢力が拡大しつつあるという意見もある[55]。8月、アメリカ合衆国とターリバーンとの間で8回目の和平協議が行われた(アフガニスタン和平プロセス)。9月、第四回の大統領選挙が実施された。12月、中村哲 (医師)が殺害された。

2020年5月17日、昨年の大統領選挙で次点だったアブドラ・アブドラアシュラフ・ガニー大統領で政治権力を分け合うことで合意文書に署名した[56]

タリバンの勢力拡大

アメリカ合衆国ジョー・バイデンは、2021年9月11日までに駐留米軍を完全撤退させると発表した。ドナルド・トランプ2020年タリバンと2021年5月までの米軍撤退で合意していたが、この期限を超過することになる。 2001年以降 米軍が軍事介入してから20年経過するが、アメリカにとって史上最長の戦いとなっている[57]。一方、タリバン側は、「アメリカ軍が完全撤退に向けて行動をとったことは理解できるが、和平合意に違反した撤退だ」とし、米軍撤退が9月に延期されたことに対し強く反発した。「今後、アメリカ軍などへの対抗措置も辞さない」とし、米軍やNATOに対し攻撃を行うことも示唆した[58]

これ以降、アフガニスタンの各州都が次々とタリバンによって陥落し、急速にタリバンの勢力が拡大している[59]。そして、8月15日、タリバンは、首都カブールを除くほぼ全土を支配下に置き、タリバンの報道担当者は、「(戦闘員には)市内の入り口で待機せよと命じた。我々は政府に対して平和的な権力の移譲を求めている」と述べ、平和的降伏を要求し、政権移行に向けて政府側と交渉しているとした。また、カブールに駐在するアメリカの外交官は大使館を脱出し、空港に向かって退避を始めた[60]。アフガニスタン政府のアブドゥル内務相代行は、タリバンへの政権移行を認める声明を発表した。タリバンによる国家運営が始まる見通しだ[61]日本政府は、アフガニスタン情勢の緊迫化を受け、カブールにある日本大使館の職員を退避させる方針を固めた[62]

ペルシア・ギリシア・インド文化の時代

ペルシアとアレクサンドロス大王の支配

紀元前5世紀ごろ、アラコシア英語版には古代民族Pactyans英語版が住んでいた

紀元前6世紀アケメネス朝ペルシャ帝国に編入され、アレイヴァヘラート)、アラコシア英語版カンダハールラシュカルガークエッタ)、バクトリアバルフ)、サッタギディア英語版ガズニー)、ガンダーラカーブルジャラーラーバードペシャーワル)の地方名で呼ばれた。カンダハルの旧市シャル・イ・コナ英語版の発掘によって、紀元前6世紀にはこの町がすでにアフガニスタン南方の首邑になっていたことが明らかになった。

紀元前5世紀ごろ、アラコシア英語版には古代民族Pactyans英語版が住んでいたことがサンスクリット古代ギリシャ語文献から知られている。

紀元前4世紀アレクサンドロス3世(大王)はこの地を征服し、アレクサンドリアオクシアナ(Alexandria on the Oxus)と呼ばれる都市を建設した[注釈 10][63]

南方のマウリア朝と北方のグレコ・バクトリア王国

カンダハールで発見されたギリシャ語アラム語で書かれたアショーカ王碑文紀元前3世紀

紀元前3世紀中ごろ、アフガニスタン北部からタジキスタン南部にかけてはギリシャ人の建てたグレコ・バクトリア王国が支配した。

紀元前130年ごろ、インド・グリーク朝のメナンドロス1世が死んで、分裂すると、サカ族ガンダーラ地方でインド・スキタイ王国を興した。

紀元前2世紀後半、匈奴に追われた遊牧民の月氏が侵入し、グレコ・バクトリア王国は滅びた。

1世紀以降、先の大月氏の立てたクシャーナ朝がこの地に栄える。このころギリシア文化は影響力を失い、代わって南方のマウリヤ朝から流入したインド文化や仏教の影響が強く見られるようになる。4世紀ごろまでバクト商人シルクロード交易を掌握する。

3世紀末、クシャーナ朝に代わりサーサーン朝の支配がこの地に及ぶ。

5世紀前半、エフタルが起りアフガニスタン・パキスタンの地を支配する。

6世紀後半、アルタイ方面から南下してきた突厥による支配を受ける。

イスラーム化の進展

ゴール朝の時代に建てられたヘラートの金曜モスク英語版

8世紀初頭、イスラム帝国アッバース朝のイスラム教徒軍がハザールソグディアナに侵攻し(アラブ・ハザール戦争トランスオクシアナ征服英語版)、その支配下へ入る。751年タラス河畔の戦いによりイスラム商人がシルクロード交易を掌握する。ゾロアスター教や仏教、ヒンズー教の影響は、イスラム教が伝わったあとも10世紀ごろまで残存した。

9世紀中ごろ、再び土着イラン人によるターヒル朝サッファール朝サーマーン朝が興り統治する。

995年マームーン朝英語版のイスラム教徒軍が侵攻、アムダリヤ川右岸の古都キャトカタルーニャ語版ドイツ語版ペルシア語版に栄えていた土着のゾロアスター教国家、アフリーグ朝英語版は滅亡した。

1017年ガズナ朝がマームーン朝を滅ぼした。10世紀以降、このころからパシュトゥーン人の存在が確認され始める。

1117年、シャンサブ家がゴール朝を興し、シハーブッディーン・ムハンマドに仕えるクトゥブッディーン・アイバクは北インド征服事業を成功させ奴隷王朝を開いた。1215年ホラズム・シャー朝アラーウッディーン・ムハンマドによってゴール朝は滅亡した。

モンゴル帝国

モンゴルのホラズム・シャー朝征服のあと、アフガニスタンはモンゴル帝国およびチャガタイ・ハン国タジク人のクルト朝の支配を受ける。

ティムール朝

1370年ごろ、テュルク系のティムール朝による支配を受ける。1470年、ティムール朝が分裂しヘラート政権に移行。1507年ウズベク族シャイバーン朝ムハンマド・シャイバーニー・ハーンの攻撃によってティムール朝は滅亡する。

サファヴィー朝、ムガル朝、オスマン帝国の抗争

カンダハールを奪還するムガル帝国1638年

1510年サファヴィー朝イランによって征服される。1526年第一次パーニーパットの戦いカーブルを拠点とするティムール朝の王子バーブルインドムガル朝を建設。

1540年、北インドのスール朝がカンダハール、カーブルを占拠。1545年、ムガル帝国がカンダハール、カーブルを占拠。1556年第二次パーニーパットの戦いスール朝ヘームーを破る。

1623年、サファヴィー朝がカンダハールを奪還。1638年、ムガル帝国がカンダハールを占拠。1649年、サファヴィー朝がカンダハールを奪還。

アフガンの王家による統治のはじまり

ホータキー朝

1709年、パシュトゥーン人ギルザーイー部族ミール・ワイス・ホータキー英語版が反乱を起こし、カンダハールにホータキー朝を樹立。

1719年、ホータキー族のミール・マフムード英語版がサファヴィー朝のケルマーンに侵攻。

1722年、ミール・マフムードがサファヴィー朝の首都・イスファハーンを占拠(グルナーバードの戦い英語版)。マフムードがサファヴィー朝を支配下に治める。

1725年、シャー位が、マフムードから、アシュラフに代わる。

1729年アシュラフがアフシャール朝のナーディル・シャーに敗れ、ペルシアがアフガン支配下から脱した(ダムガンの戦い英語版)。

1736年アフシャール朝が成立。サファヴィー朝が消滅。

ドゥッラーニー朝

サドーザイ朝
アフマド・シャー時代のドゥッラーニー朝の版図

1747年10月、パシュトゥーン人ドゥッラーニー部族連合のザドーザイ族長アフマド・シャー・ドゥッラーニーによるドゥッラーニー朝が成立。

1757年マラーターのインド北西部侵攻英語版パンジャーブが占領される。

バーラクザイ朝

1826年、ドゥッラーニー系部族の間で王家が交代し、バーラクザイ朝が成立。1834年に国名をアフガニスタン首長国en)とする。

1838年 - 1842年第一次アフガン戦争でイギリスに勝利。

イギリス保護国期

左からJenkyns、Cavagnariヤアクーブ・ハーン英語版、Daoud Shah、Habibullah Moustafi(ガンダマク条約英語版1879年

第二次アフガン戦争1878年 - 1880年)のカンダハールの戦い英語版でアフガニスタン首長国はイギリスに敗れ、ガンダマク条約英語版でその保護国となり、イギリスとロシアはアフガニスタンを新たな緩衝国家として中央アジアで対峙した。

1885年、イギリスとロシア帝国との間でパンジェ紛争英語版が起きる。イギリスは朝鮮半島沖の巨文島巨文島事件を起こし、ロシアを牽制した。

1893年、パキスタンとの国境線デュアランド・ラインにアフガニスタン首長国とイギリスが合意。1895年チトラル遠征英語版

アフガンの王家による再独立

1919年第三次アフガン戦争に勝利したアマーヌッラー・ハーンはイギリスからの独立を達成し、独立した君主として即位した。1926年、国名をアフガニスタン王国とする。同年、オーレル・スタインインダス川上流およびスワート川英語版流域(デュアランド・ライン)を調査旅行した。アマーヌッラーは、トルコ共和国の新指導者ケマル・アタテュルク世俗主義民族主義共和主義を柱とする改革に影響され、同様の改革を推進したが、宗教改革に反対する保守派の蜂起が相次いだ。

王妃ソラヤ・タルズィー英語版は近代化のひとつとして家庭内での女性の地位向上を図ったが、アフガニスタンの歴史上初めて登場した女性の統治者に対して、保守派の激しい反対があった。

タジク人の指導者ハビーブッラー・カラカーニー英語版は、イギリスから資金と武器の支援を受けてカーブルを占領し、アマーヌッラー政権を打倒した(アマーヌッラー・ハーンの改革と内戦ペルシア語版ノルウェー語版英語版)。

1929年、バーラクザイ王家の分家筋にあたるムハンマド・ナーディル・シャーが混乱を収めて、国王(アミール)に就任。

1931年に制定した新憲法の第一条でスンナ派ハナフィー学派を国教に定めた。この条文が国内少数派のシーア派に対する反ハザラ人政策の法的根拠となったことで恨みを買い、1933年11月8日に暗殺された。同日、息子のザーヒル・シャーが即位した。

第二次世界大戦

1939年9月に開戦した第二次世界大戦では、1941年10月にイギリスとソ連両国はドイツイタリアなど枢軸国外交官民間人の国外退去を要求した。これに対しアフガニスタン政府は、枢軸国のみならず交戦中のすべての国の外交官以外の民間人に国外退去を命じた。

このように、ザーヒル・シャー国王の統治下で、英領インドとソ連、中華民国に挟まれた中央アジアにおける緩衝国家として、日本やドイツ、イタリアや満洲国などからなる枢軸国、イギリスやアメリカ、ソ連と中華民国などからなる連合国の、どちらにもつかない中立国として1945年9月の終戦まで機能していた。

冷戦

パシュトゥーニスタン独立運動

ザーヒル・シャー1963年

1947年にイギリスのインド統治が終了すると、バルチスタン地方は「もともとインドの一部ではない」ためインドやパキスタンには参加せず、イギリスやパキスタンもカラート藩王国英語版の独立を認めたうえで、パキスタンとは特別の関係を結ぶことを模索し、1952年にバルチスタン藩王国連合英語版として独立させた。

しかし、その後のパキスタンからの軍事的圧迫(バルチスタン紛争英語版)に抗すことができず藩王は併合条約に調印し、パキスタンに軍事併合された。その後もしばらく内政自治は続いていたが権限は大幅に縮小され、1955年には藩王国自体が名目上も消滅させられ、バローチスターン州とされた。

パキスタンがバルチスタンのみならずアフガニスタンも併合しようとしたため、国王ザーヒル・シャーは逆にパキスタン領(連邦直轄部族地域ワズィーリスターン)内のパシュトゥーン人を支援して「パシュトゥーニスタン独立運動」を起こし牽制した。

ザーヒル・シャーは、1960年代には立憲君主制を導入して民主化路線を推進し、日本やイギリス、ソ連などからの資本の導入や輸入品の導入を推進した。

王政廃止からソ連軍の撤退

首都カーブルに展開するソ連の空挺兵
チャールズ・ウィルソンムジャーヒディーン

1973年、ザーヒル・シャーがイタリアでの病気療養のため、国を離れていた隙を狙い、旧バーラクザイ王族のムハンマド・ダーウードクーデターを起こし王政を廃止、共和制を宣言して大統領に就任、アフガニスタン共和国を建国した。ダーウードはアフガン社会の近代化と軍事近代化を目指し、ソ連に接近してイスラム主義者たちを弾圧する。このときパキスタンに脱出したヘクマティヤールヒズベ・イスラーミー英語版(ヘクマティヤール派)を結成し、イスラム主義のラッバーニーらはジャマーアテ・イスラーミーペルシア語版ロシア語版英語版(イスラム協会、ラッバーニー派)を結成した。

1978年4月、アフガニスタン人民民主党主導による軍事クーデター「四月革命」が発生し、ダーウードおよび一族が処刑される。人民民主党による社会主義政権が樹立し、国名をアフガニスタン民主共和国に変更、ヌール・ムハンマド・タラキーが初代革命評議会議長兼大統領兼首相に就任した。これに対し、全土でムジャーヒディーンが蜂起、アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)が始まる。政情が不安定化する中、1979年2月に隣国でイラン革命が勃発。9月17日、ヌール・ムハンマド・タラキーが副首相のハフィーズッラー・アミーン一派に殺害され、アミーンが革命評議会議長兼大統領兼首相に就任。

1979年12月24日、ソ連はアフガニスタンへ軍事侵攻を開始した。ブレジネフソビエト連邦共産党書記長が、領内の中央アジア諸国にイスラム原理主義が飛び火することを恐れての侵略であるとされている。12月27日、ソ連はムジャーヒディーンを抑えられないアミーンをKGBを使って暗殺、バブラク・カールマル副議長を革命評議会議長兼大統領兼首相に擁立する。ソ連軍および政府軍とこれに抵抗するムジャーヒディーンとの戦闘が激化する。

1982年、国連総会において、外国軍の撤退を要求する国連決議(37/37)が採択される。

1987年ムハンマド・ナジーブッラーが大統領に就任。国名をアフガニスタン共和国に戻す。

1988年、「アフガニスタンに関係する事態の調停のための相互関係に関する協定」が締結。ソ連軍の撤退と国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション設置が決定される。

1989年、ソ連軍撤退完了。各国から参加したムジャーヒディーンの多くも引き上げた。しかし、戦後も国内のムジャーヒディーン各派は人民民主党政府打倒を目指して武装闘争を続けた。

ソ連軍の撤退、ターリバーン政権の統治

カーブルでインタビューを受けるビン・ラーディン1997年
1996年時点のアフガニスタン、赤と緑の北部同盟、黄色がターリバーンの支配地域

1989年、ソ連軍が撤退したあと国内の支配をめぐってアフガニスタン紛争 (1989年-2001年)が始まる。2月にアフガニスタン国内のムジャーヒディーン各派はシブガトゥッラー・ムジャッディディーを暫定国家元首に指名、ジャラーラーバードの戦いでナジーブッラーが率いる人民民主党政府と戦うも敗北する。

1992年、ナジーブッラー政権崩壊。ムジャーヒディーンのジャマーアテ・イスラーミーペルシア語版ロシア語版英語版(イスラム協会、ラッバーニー派)主導によるアフガニスタン・イスラム国が成立。

1993年、イスラム協会のブルハーヌッディーン・ラッバーニー指導評議会議長が大統領に就任。

1994年、内戦が全土に広がる。ターリバーン、パキスタンの北西辺境州(旧北西辺境州英語版がパキスタン領となったもの)から勢力を拡大。

1996年、ターリバーンがカーブルを占領し、アフガニスタン・イスラム首長国の成立を宣言する。アフガニスタン・イスラム国政府とムジャーヒディーンの一部が反ターリバーンで一致、北部同盟[注釈 11]マスード派とドスタム派)となる。同年、米国の指示によりスーダン政府はウサーマ・ビン=ラーディンの国外追放を実行、ビン=ラーディンの率いるアル・カーイダがアフガニスタン国内に入り、ターリバーンと接近する。

1997年、第一次マザーリシャリーフの戦い英語版でターリバーンが敗北。

1998年、第二次マザーリシャリーフの戦いでターリバーンが勝利、ドスタム派を駆逐してアフガン全土の9割を掌握するが、イラン領事館員殺害事件が発生。イランとターリバーンの双方が国境付近に兵を集結させ、一触即発の危機を招いたが、ラフダル・ブラヒミ国連特使の仲介により危機が回避された[65]。また、ケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破事件にともなうアル・カーイダ引き渡し要求をターリバーンが拒否したため、アメリカとの関係が緊張化する。

1999年、ターリバーン支配地域に対する経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1267英語版が採択される。

2000年、ターリバーン支配地域に対する追加経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1333英語版が採択される。

2001年3月2日、ターリバーンがバーミヤンの石仏を爆破する。9月10日、北部同盟のアフマド・シャー・マスード司令官が、自称アルジェリア人ジャーナリスト2名による自爆テロで死亡した。9月16日、マスードの遺体が故郷パンジシールで埋葬された。ターリバーン情報省が全土要塞化を宣言し、徹底抗戦姿勢を示す。9月25日、サウジアラビア、ターリバーンとの断交を決定。9月26日、閉鎖されたままのアメリカ大使館が、カーブル市民によって襲撃される。

テロとの戦い

多国籍軍による攻撃と暫定政権の樹立

アメリカ同時多発テロ事件2001年9月11日
アフガニスタンに向けて発射されるミサイル

2001年10月2日アメリカ同時多発テロ事件を受けてNATOアルカーイダを匿うターリバーン政権に対して自衛権の発動を宣言。10月7日アメリカ軍不朽の自由作戦の名の下で空爆を開始、イギリスも参加。北部同盟も地上における攻撃を開始。これよりアフガニスタン紛争 (2001年-)が開始される。11月13日、北部同盟は、無血入城でカーブルを奪還した。年末にターリバーン政権崩壊。11月22日、パキスタン政府、ターリバーンとの断交を決定し、駐イスラマバードアフガニスタン大使館を閉鎖した。11月27日、空爆が続くなか、国連は新政権樹立に向けた会議をドイツのボン郊外で開催した。会議には北部同盟、国王支持派のローマ・グループ、キプロス・グループ、そしてペシャーワルからのグループが参加した[注釈 12]11月29日、行政府に相当する暫定行政機構の設立案について合意した。12月5日、暫定行政機構人事で各派間の確執があったが、国連の調整で、議長にパシュトゥーン人のハーミド・カルザイを据え、暫定政権協定の調印が実現した(ボン合意)。アフガニスタン主要4勢力、暫定政権発足とその後の和平プロセスで合意。国際連合安全保障理事会決議1386にもとづき国際治安支援部隊(ISAF)創設、カーブルの治安維持にあたる。また国際連合安全保障理事会決議1401により、国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)がスタート。アフガニスタン暫定行政機構が成立し、ハーミド・カルザイが議長となる。

暫定政権樹立と新共和国成立

移動する有志連合の部隊(ルーマニア軍、2003年)

2001年12月22日、カーブルで暫定政権発足の記念式典が挙行された。約3,000人が出席し、ラバニ大統領からカルザイ暫定行政機構議長に政権が委譲される形で執り行われ、カルザイが暫定政権の首相となった。カルザイは国民に平和と法をもたらすことを誓い、言論と信教の自由、女性の権利の尊重、教育の復興、テロとの戦いなど13項目の施政方針を発表した。暫定政権の閣僚は29名[注釈 13]で構成され、うち北部同盟が19ポスト[注釈 14]、元国王支持派が8ポスト[注釈 15]、ペシャワル派が2ポスト[注釈 16]占めた。

2002年1月21日、東京でアフガニスタン復興支援会議が開催された。約60各国と22の国際機関の代表が出席した。これに先立ちNGO59団体による会議も開かれた。日本は2年で5億ドル、アメリカは1年で2億9,600万ドル、サウジアラビアは3年で2億2,000万ドル、欧州連合は1年で5億ドル、ドイツは5年で3億5,000万ドル、イギリスは5年で3億7,200万ドルの拠出を決定し、世界銀行とアジア開発銀行はそれぞれ2年半で5億ドルの拠出を決定した。また周辺各国は、イランが1年で1億2,000ドル、パキスタンは5年で1億ドル、インドも1年で1億ドルの支援を発表した。各国の支援総額は30億ドルを超えた。さらに支援は、行政能力の向上や教育、保健衛生、インフラ、経済システム、農業および地方開発、地雷撤去などの作業を実施し、定期的に復興運営会議をカーブルで開催することなどを決定した。2月14日アブドゥール・ラフマン航空観光大臣がカーブル国際空港で自国民に撲殺される。6月10日 - 6月19日、緊急ロヤ・ジルガ(国民大会議)が開催され[注釈 17]、1,500人以上の代表が参加した。6月13日、国家元首(大統領)を決める選挙が緊急ロヤ・ジルガで行われ、ハーミド・カルザイが圧倒的多数の票を獲得し当選した[68]6月15日、今後2年間の国名を「アフガニスタン・イスラム暫定政府」に決定する。 6月19日、新暫定政府主要14閣僚と最高裁判所長官の名簿を公表。副大統領にファヒーム国防相・アブドゥッラー外相・アシュラフ・アリー財務相(カルザイ顧問兼任)らが兼任。ザーヒル・シャーの閉会宣言でロヤ・ジルガ閉会する。7月1日、米軍が南部ウルズガン州で誤爆。市民48人死亡、117人が負傷する。

新共和国成立以降

カルザイ大統領の就任式(2004年)右奥に着席しているのはザーヒル・シャー元国王

2004年1月、新憲法が発布された[20]10月9日、第一回の大統領選挙が行われ、12月7日にハミード・カルザイが大統領に就任した[69]。同年3月、パキスタンでワジリスタン紛争が勃発した。

2005年9月、下院議員選挙や州議会選挙が行われ、国家統治機構の整備が完了した[20]。12月、国会が開会した[20]

2006年、南部・南東部・東部を中心にターリバーンの攻撃が増加した[70]。7月、国際治安支援部隊(ISAF)が国内全土に展開した[71]

2007年、前年に引き続きターリバーンの攻撃が増加した[72]

2008年、治安が著しく悪化し、南部や東部だけでなく首都カブールの近隣でもターリバーンの攻撃が行われた[73]。8月にはアフガニスタン日本人拉致事件が起きた。

2009年8月、第二回の大統領選挙が実施された。カルザイが過半数の票を得るが、国連の調査で不正が発見される。2位のアブドラ前外相が決選投票をボイコットしたため、11月に行われた決選投票でカルザイの再選が決定した[74]。一方、ターリバーンは「比較的安定していた地域の不安定化を招き、市民の犠牲を顧みない、より洗練され、かつ複合的な攻撃を増加させて」おり、即席爆発装置(IED)による攻撃が急増した[27]。同年、アメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領は3回の増派を行った(1万7000人[75]、4000人[76]、1万3000人[30])。アメリカ合衆国の駐留軍の総数は6万8000人に達し[30]、その中から国際治安支援部隊(ISAF)に1万人以上が追加派遣された[27]

第二回大統領選挙後

2010年1月、カルザイ政権の外務・内務・国防・財務の4主要閣僚が確定した[77]。同年、国際治安支援部隊(ISAF)は4万5000人以上が増員され、49か国・約13万人に達した[32]。国際治安支援部隊(ISAF)は積極的に作戦行動を行ったので、戦争は更に激しくなり国際治安支援部隊(ISAF)や民間人の死傷者が急増した[33][78]。6月、アメリカ合衆国の駐留軍司令官のスタンリー・マクリスタルが政権批判により解任された[79]。7月、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン政府への治安権限の移譲が始まった[36]9月18日第二回の下院議会選挙が実施された[80]。同年、カルザイ大統領がターリバーンとの和平を目指す高等和平評議会を発足させた[33]。2010年の経済成長率は22.5%に達した[32]

2011年5月2日、アメリカ軍がパキスタンでビン=ラーディンを殺害した(ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害[81]。同年、アメリカ合衆国の駐留軍は約10万人に達したが[39]、年内に1万人、2012年夏までに3万3000人の兵員を削減すると発表した[36]

2012年7月、日本国政府は「アフガニスタンに関する東京会合」を開催し、アフガニスタン政府が統治を改善し開発戦略を自発的に実施する代わりに、国際社会がアフガニスタンに対して2015年まで160億ドルを超える支援を行うことを約束した。12月、依然として約10万人の国際治安支援部隊(ISAF)がアフガニスタンに展開していた[82]。一方、同年のアフガニスタンの腐敗認識指数は167か国中の最下位だった[83]

2013年6月、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン政府への治安権限の移譲の対象が全国に拡大した[84]

2014年4月、第三回の大統領選挙が実施され、9月29日アシュラフ・ガニーがアフガニスタン第二代大統領に就任した。これはアフガニスタン史上初の民主的な政権交代だった[43]。大統領選挙の決選投票で敗れたアブドラ・アブドラ元外相も首相格の行政長官に就任し、ガニー大統領と政治権力を分け合う国家統一政府(NUG)が発足した。12月、国際治安支援部隊(ISAF)が終了した[43]。多国籍軍はアフガニスタン安全保障協定(BSA)やNATO・アフガニスタン地位協定(SOFA)によりアフガニスタンに残留するが確固たる支援任務に移行し、治安はアフガニスタン治安部隊(ANSF)が独力で維持することになった[43]

第三回大統領選挙後

2015年1月、イスラム国が「ホラサン州」(ISIL-K)の設置を宣言し、アフガニスタンで活動を始めた[85]。7月、ターリバーンとアフガニスタン政府の和解協議が開催されたが、ターリバーンの指導者ムハンマド・オマルの死亡が公表され中断した[45]。国家統一政府は大統領選挙から1年が経過しても全閣僚を任命できず、国防相の就任を議会に否決され、国内の治安に責任を持てないでいた[45]2015年9月28日、ターリバーンはアフガニスタン第5の都市クンドゥーズを一時的に占領した(クンドゥーズの戦い)。衝撃を受けたアメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領はアメリカ軍(9800人)の完全撤退を断念した[39]。また選挙制度改革の遅れにより予定されていた下院議員選挙は実施できず、GDP成長率も1.3%に鈍化した[45]

2016年1月11日、パキスタン・アフガニスタン・中国・アメリカがターリバーンとの和平を目指す4か国調整グループ(QCG)を設立したが[86]、ターリバーンは和平交渉を拒否した[87]。国家統一政府ではガニー大統領とアブドラ行政長官との関係が悪化し、閣僚7人が弾劾された。9月、ヘクマティアル派との和解合意が成立した[88]

2017年5月、カブールのドイツ大使館の近くで大規模テロが発生し、300人以上が死傷した[49]。8月、アメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領は「対アフガニスタン・南アジア戦略」を発表し[49]、状況の悪化を防ぐために増派(約4000人)を決定した[89]。10月、アフガニスタン政府の支配地域は407郡中231郡(57%)にすぎないことが判明した。政府とターリバーンは122郡(30%)の支配を争っており、ターリバーンが54郡(13%)を支配していることが分かった。ターリバーンの支配地域は2015年11月から2017年8月の間に倍増しており、紛争地域も1.4倍増加した。ウルズガーン州(7郡中5郡)やクンドゥーズ州(7郡中5郡)、ヘルマンド州(14郡中9郡)の大半はターリバーンに支配されていた[90]。11月、北大西洋条約機構(NATO)は確固たる支援任務(約1万3000人)に対して3000人の増派を決定した[91]

2018年6月、タリバーンとの間で史上初めての3日間の一時停戦が実現した[92]。8月、ターリバーンの猛攻によりガズニー州の州都が陥落寸前になった。10月、第三回の下院議員選挙が実施された。

2019年1月の時点で、ターリバーンがアフガニスタンの郡の12%を掌握・勢力圏内に入れている[93]。タリバンの勢力が拡大しつつあるという意見もある[94]。8月、アメリカ合衆国とターリバーンとの間で8回目の和平協議が行われた(アフガニスタン和平プロセス)。9月、第四回の大統領選挙が実施された。12月、中村哲 (医師)が殺害された。

2020年5月17日、昨年の大統領選挙で次点だったアブドラ・アブドラアシュラフ・ガニー大統領で政治権力を分け合うことで合意文書に署名した[95]

政治

国民議会2006年

アフガニスタンは共和制大統領制を採用する立憲国家である。現行憲法2004年1月16日に公布されたもの。そのほかにもクルアーンやシャリーアを法の源泉とする規定があり、アフガニスタンはイスラム国家の色彩が強い。

国家元首

国家元首である大統領は国民による直接選挙で選出され、任期は5年。3選禁止。大統領は強力な指導権を憲法により保障されている。副大統領職あり。ムスリム以外は大統領になることができない。

行政

行政府たる内閣は大統領が任命するが、議会の承認が必要。当初首相職は設置されていなかった[注釈 18]。しかし2014年のアフガニスタン大統領選挙において混乱が続いたため、首相格として行政長官が設けられた[97]

腐敗問題

BBCNHKの報道によると、カルザイ政権発足以降政府高官や公務員による汚職が急増している。アフガン政府の腐敗にアフガン国民が失望し、そのためアフガン国民は政府ではなくターリバーンを頼るようになり、ターリバーンが復活する一因となったという[98]

立法

立法府二院制国民議会で、憲法により、国家の最高立法機関と規定されている。国民議会は下院に相当する人民議会(ウォレシ・ジルガ)と、上院に相当する長老議会(メシュラノ・ジルガ)で構成される。人民議会は249議席以下と規定され、議員は国民の直接選挙で選出される。任期は5年。長老議会は定数102議席で、5年任期議員(大統領の任命)、4年任期議員(各州議会の選出)、3年任期議員(各郡議会の選出)が3分の1ずつを占める。

国民議会とは別に、国家主権安全保障憲法改正反乱の鎮圧、甚大な自然災害への対処など、国家の最重要事項に関しては、議会制度が成立する前からアフガニスタンに存在してきた伝統的な国家意思決定機関である国民大会議ロヤ・ジルガ)が最高機関として機能する。非常設であり、国民議会議員、州議会議長、郡議会議長で構成される。閣僚と最高裁判所長官および最高裁判所裁判官はロヤ・ジルガに参加できるが、投票権はない。

憲法により複数政党制が認められているが、アメリカやそれに従属するカルザイ政権による制限があり、また政党政治が根付いていないアフガニスタンでは、政党の活動は低調である。それでも比較的有力なものとして、かつてアフマド・シャー・マスードが率い、現在はブルハーヌッディーン・ラッバーニー元大統領の指導するイスラム協会英語版タジク人中心。北部同盟)、アブドゥルラシード・ドーストム率いるウズベク人勢力のイスラム民族運動ハザーラ人主体のイスラム統一党英語版がある。また、これらの政党は政党連合統一国民戦線(単に国民戦線とも)を結成し、無党派のカルザイ政権に対する野党として活動している。アフガニスタンの主要民族であるパシュトゥーン人による旧政権ターリバーンヘクマティヤール派(en:Hezb-e-Islami Gulbuddin)などの反政府活動も存在し、南部の一部を実効支配している。

司法

司法府の最高機関は最高裁判所で、その下に高等裁判所などが存在する。三審制

人権問題

純然たるイスラム国家であったターリバーン政権が崩壊したあと、カルザイ政権下でアフガニスタンにおける世俗化は一定程度進んだとされる。しかし、現在でもアフガニスタンはイスラーム法およびその強い影響下にある世俗法に基づく統治が行われ、イスラム国家としての色彩が強い。

そのため、信条の自由などが聖職者の定義するところのイスラーム法に反するものとされ、シャリーアに基づく背教罪や冒涜罪によって罪となることがある。

欧州での生活中にキリスト教に改宗した男性が、これを理由に死刑を宣告された。これに対しては西側世界からの批判が起こり、最終的に死刑判決は撤回されたが、男性は亡命を余儀なくされた[99]。また、女性の権利について、「クルアーンを根拠に女性差別を擁護する人々は預言者ムハンマドの見解を歪曲している」という趣旨の文書を読み、問題提起をしようとした学生に対し、宗教法廷により「冒涜」として死刑が宣告された[100]。これに対しても西側世界は非難しているが、カルザイ政権も今回はムスリム保守層の国民から圧力を受け態度を硬化させており、上院では死刑判決を支持する決議が採択された。

飲酒などにおいてはイスラム教・非イスラム教を問わず、発覚した場合は鞭打ちに科せられることがある。最悪の場合は死刑が言い渡される場合もある。[要出典]

アフガニスタンの地方では部族の伝統が根強く、たとえば、姦通を犯した女性がその家族の手で処刑される、いわゆる「名誉殺人」も行われているという[101]。2014年2月には被告の家族一員の女性だけでなく、女性の弁護士、女医、女の子供など、女性に区分される人々が裁判の証人として出廷することも禁止する法改正が行われようとしていると報じられた[102][103]

ターリバーン政権崩壊後に一度は廃止された勧善懲悪省宗教警察)が、同政権時代と比較して幾分穏健化しているものの、巡礼・宗教問題省の名で復活している。

軍事

アフガニスタン国軍

地理

アフガニスタンの地図
アフガニスタン国土の高度分布図灰色に写っている部分は高度3,000メートルを越えており、白が強くなるほど高度が上がる。この部分がほぼヒンドゥークシュ山脈に相当する

もともとの国土はパキスタン北部まで広がっていたが、平野部はイギリスにより引きちぎられ、現在は山岳地帯が大部分を占めている。北部や南西部にはわずかに平野部がある[注釈 19]。もっとも標高の高い地点は、海抜7,485メートルのノシャック山である。国土の大半は乾燥しており、真水の入手できる場所は限られているが、水系は、アム・ダリア水系、ハリ・ルー水系、ヘルマンド・アルガンダ水系の四つに大別できる。ヒンドゥー・クシュの中心山系から国土を潤す三つの川が流れていて、一つは東流してインダス川に合流するカーブル川、もう一つは南流してハムーン沼沢地に消えるヘルマンド・アルカンダブ川、さらにもう一つは西流してカラクム砂漠に消えるハリ・ルード川(Hari Rud River)である。

気候は大陸性で、夏は暑く、冬は寒い。また地震が頻繁に発生している。年平均降水量は、国の南西部で75ミリ、マザーリシャリーフで213ミリ、東部のカズニーで213ミリ、サラング峠の上方で1,150ミリである[105]。主要都市は首都カーブルのほか、西部のヘラート、東部のジャラーラーバード、北部のマザーリシャリーフクンドゥーズ、南部のカンダハールなどである。

地域区分

アフガニスタンは34の州(velāyat)で構成されている。

  1. バダフシャーン州(Badakhshān)
  2. バードギース州(Badghīs)
  3. バグラーン州(Baghlān)
  4. バルフ州(Balkh)
  5. バーミヤーン州(Bāmiyān)
  6. ダーイクンディー州(Dāykondī)
  7. ファラー州(Farāh)
  8. ファーリヤーブ州(Fāryāb)
  9. ガズニー州(Ghaznī)
  10. ゴール州(Ghowr)
  11. ヘルマンド州(Helmand)
  12. ヘラート州(Herāt)
  13. ジョウズジャーン州(Jowzjān)
  14. カーブル州(Kābul)
  15. カンダハール州(Kandahār)
  16. カーピーサー州(Kāpīsā)
  17. ホースト州(Khowst)
  18. クナル州(Konar)
  19. クンドゥーズ州(Kondoz)
  20. ラグマーン州(Laghmān)
  21. ローガル州(Lowgar)
  22. ナンガルハール州(Nangarhār)
  23. ニームルーズ州(Nīmrūz)
  24. ヌーリスターン州(Nūrestān)
  25. ウルーズガーン州(Orūzgān)
  26. パクティヤー州(Paktiyā)
  27. パクティーカー州(Paktīkā)
  28. パンジシール州(Panjshīr)
  29. パルヴァーン州(Parvān)
  30. サマンガーン州(Samangān)
  31. サーレポル州(Sār-e Pol)
  32. タハール州(Takhār)
  33. ヴァルダク州(Vardak)
  34. ザーブル州(Zābol)

経済

名産であるザクロを加工する労働者

後発開発途上国のひとつで、農業牧畜への依存度が高い。1973年の王政崩壊以降の断続的な紛争による社会・政治的な混乱、インフラの破壊、慢性的な旱魃により経済は壊滅状態となっている。また同じ理由から、大半の国民に充分な食料、衣料、住居、医療が提供できない状態が続いている。2004年10月のユニセフの報告によると、幼児の死亡原因の多くは非衛生的な水の飲料使用による慢性的な下痢であるとされ、死亡率は25.7%と高く、国内の医療・衛生状態はきわめて悪い。

国家予算の約7割を国際支援に依存している。国民の3分の2は1日2ドル以下で生活しており、IMFの統計によると、2013年時点のアフガニスタンのGDPは207億ドルである。1人あたりのGDPでは679ドルとなるが、この数値は世界平均の10%未満であり、アジアの中でもっとも低い[2]失業率も高く、ネパールレソトなどと同じように40%を超える。

2002年1月に東京で開催された「復興支援国会議」で支援計画が提出され、世界銀行の監督下に45億ドルの資金が集められた。復興の主要対象は、教育、医療、下水施設、行政機関、農業、道路、エネルギー、通信と多岐に渡っている。

原油

2012年10月22日、中国石油天然気集団アムダリヤ川流域の鉱区で、本格的な原油生産を初めて開始した[106]

ガス

同国での天然ガス生産はないが、トルクメニスタン南部の巨大ガス田から同国とパキスタンを経由してインド西部へ通じるTAPIガスパイプラインが2015年に建設着手された。同国に通過料が落ちるほか、一定量のガス輸入が見込まれる。

鉱業

サリ・サング鉱山英語版バダフシャーン州クラン・ワ・ムンジャン県英語版)から採れるラピスラズリは世界でもっとも良質なことで知られる

古くからアフガニスタンには世界最大規模の各種金属、希少金属、貴金属、宝石を含有する豊富な鉱脈が数多く存在することが知られており、インフラの整備や権益の開発が進めば資源企業に莫大な富をもたらすと考えられている。

もっとも歴史のあるのは紀元前から採掘が続いた青色の宝石ラピスラズリである。首都カーブルの東南東190キロ、ヒンドゥークシュ山脈山中のサリ・サング鉱山英語版(Sar-i Sang)[107]が主力。産出量は数トン程度。そのほか、北東部のコクチャ川の渓谷に位置するサリ・サング近郊の鉱床、アフガニスタンとパキスタンの国境沿い、クエッタの西のチャガイ山からも産出する。

有機鉱物資源では北部の天然ガス(4,300兆ジュール、2003年)が主力で、石炭(3万5,000トン)も採掘されている。金属鉱物資源ではクロム(6,364トン)がある。このほか岩塩(1万3,000トン)も採取されている。

アイナック銅鉱山英語版(Aynak Copper)は1970年代初めに発見され、1978年に旧ソ連が中央鉱区と西部鉱区の地質探査を終えている。総資源量は鉱石量7億500万トン、平均銅品位1.56%、銅含有金属量1,100万トンの超大型の銅鉱床である。そのほかには、カーブルの南のローガル渓谷、ヘラートのやや南西のいくつかの地点、カンダハルの北のアルガンダー川沿い、パンジシール渓谷のアンダラーブ近郊に銅鉱床が存在している。

金はカンダハールの北東のムクル近郊、バタフシャーンのいくつかの川で発見されている。鉄鉱石の大規模な鉱床はカーブルの西のハージガク峠の近くで見られる[108]

麻薬

アフガニスタンは「黄金の三日月地帯」に属し、はじめ古代よりメソポタミア文明以来[109]、旱魃地域では医薬品抗がん剤モルヒネ鎮痛剤)「植物性アルカロイド」、麻薬アヘンヘロインなどの原料となるケシの栽培が盛んで、ヘロインの全世界流通量の90%以上をアフガン産が占めるなど世界一の麻薬密造国である。また、国内の麻薬依存者の数も深刻であり、2005年から2010年にかけての依存者数は最大150万人にも達するとされる。政府は麻薬対策省を設け撲滅にあたっているものの、予算や人員の不足、麻薬に代わる産業の育成などの問題もあり、いまだに解決を見ていない。

国際連合薬物犯罪事務所の年次報告書によれば、2018年現在もアフガニスタン南部のタリバーン支配地を中心に推定26万30,00ヘクタールの面積でケシの栽培が行われている[110]

2013年頃からは、ケシの栽培に使用する地下水の汲み上げにソーラーパネルによる太陽光発電と電力式ポンプが使われ始め、現在も普及が進んでいる。これらは中長期的に見た際、軽油で可動させるポンプより安価で利益を増やしやすいため、ケシ農業新規参入者と生産量の増加要因になると共に、この分野の低炭素化が進んでいる[111]

交通

首都カーブルと南部のカンダハールを結ぶ幹線道路

交通インフラストラクチャーも度重なる戦乱により破壊され、またはメインテナンスが行われていなかったために現在も復興が行われている。なお、多くの先進諸国でみられるような高速道路網はないものの、主要都市間は舗装された幹線道路によって結ばれており、長距離バスによる移動が行われている。

かつては国際列車カイバル鉄道(カブール〜パキスタン国ペシャワール間)があったが、戦乱で荒廃し不通となっている。現在、アフガン公共事業庁の監督のもと、ウズベキスタン国境の貨物駅Hayratanからマザーリシャリーフまでの鉄道建設が進んでおり、2011年8月20 - 21日に開業した[112]。また、首都カブールには1992年当時トロリーバスが存在したが[113]、現在は存在しない。

なお、諸外国との交通は上記の長距離バスによって行われているほか、カーブル国際空港ハブとした国営航空会社アリアナ・アフガン航空や、そのほかに乗り入れる外国航空会社の定期便で結ばれている。

国民

民族

民族構成(アフガニスタン)
パシュトゥーン人
  
45%
タジク人
  
32%
ハザーラ人
  
12%
ウズベク人
  
9%
その他
  
2%
2001年のアフガニスタンの民族

主要民族 (2003年推計)

  • パシュトゥーン人 45%、言語:パシュトー語(イラン語群)、宗教:ハナフィー派スンニー
  • タジク人 32%、言語:ダリー語、タジク語(イラン語群)、宗教:ハナフィー派スンニー、イスマイール派シーア(北部の若干)
  • ハザーラ人 12%、言語:ハザラギ語(イラン語群、ダリー方言)、宗教:イマーム派シーア、イスマイール派シーア、スンニー(極少数)
  • ウズベク人 9%、言語:ウズベク語(テュルク諸語)、宗教:ハナフィー派スンニー
  • トルクメン人、言語:トルクメン語(テュルク諸語)、宗教:ハナフィー派スンニー

そのほかにアイマーク人ヌーリスターン人バローチ人パシャイー人英語版など(言語と宗教は前田(2002)p.14より)。

言語

公用語

地方言語

その他

宗教

カーブルアブドゥッラフマーン・モスク英語版

その他には、シーク教徒ヒンドゥー教徒キリスト教徒が存在する[114]

イスラム教から他宗教への改宗には死刑が適用されたが、2006年、ドイツキリスト教に改宗した人の死刑判決に対し国際的非難を浴びたことでこの法律は撤廃され、現在は布教活動も許されるようになった。2006年8月、ターリバーン韓国人のキリスト教宣教師を拉致監禁し、キリスト教の宣教活動をやめるよう要求した事件があった。

教育

文化

食文化

国民の99%がイスラム教であり、アルコール類の取り扱いが禁じられている。

小麦で練ったナーンやビリヤニなどが有名。飲料としてはチャイがよく飲まれる。

かつては飲酒文化が栄えてたという。

スポーツ

クリケットがもっとも人気のあるスポーツである[115]2018年トゥエンティ20方式のクリケットリーグであるアフガニスタン・プレミアリーグが開始された。またサッカー人気も高い。

世界遺産

アフガニスタンには多くの貴重な遺跡が残っており、以下の2つがユネスコ世界遺産に登録されている。

バーミヤーン渓谷には大仏と多くの壁画が残されていたが、紛争により破壊され続け、殊に2体の大仏は破壊されつつ持ちこたえ立ち続けていたが、2001年にターリバーンによって完全に破壊された。

音楽

関連作品

映画
評論
小説
ボードゲーム
  • Joseph Miranda【Holy war, Afghanistan】,Strategy & Tactics No.147,Decision Games
    ※1978年に始まったソビエトの軍事介入に対する聖戦。
  • Joseph Miranda【Asia Crossroads】,Strategy & Tactics No.216,Decision Games
    ※19世紀のロシア、ペルシャ、中国、アフガニスタン周辺でのイギリスとロシアの覇権争い。
  • Joseph Miranda【Operation Aaconda】,Strategy & Tactics No.276,Decision Games
    ※2002年に実施された多国籍軍のアナコンダ作戦。
  • Brian Train, Volko Ruhnke【A distant plain】, ,GMT games
    ※同社の非正規戦マルチプレイヤーズゲームCOINシリーズ第3作、1990年代以降の現代紛争。
  • Joseph Miranda【The sun never sets II】,Strategy & Tactics No.274,Decision Games
    ※イギリスの植民地戦争のクワドリゲームで、その一つが1878年からの第二次アフガン戦争。
  • Joseph Miranda【Khyber rifles】, ,Decision Games
    ※1842年にアフガンが大英帝国に勝利した戦い(第一次アフガン戦争の末期)。
  • Joseph Miranda【First Afghan war】,Strategy & Tactics No.179,Decision Games
    ※タイトルの通り第一次アフガン戦争(1838-42)の全体を描いた戦役級ゲーム。
  • Joseph Miranda【Invasion Afghanistan】,Modern War No.26,Decision Games
    ※タイトルの通りソビエトのアフガン侵攻(18793894全体を描いたソロプレイゲーム。
ビデオゲーム
漫画

脚注

注釈

  1. ^ アフガニスタンの南部における金石併用時代と青銅器時代の遺跡の内で最も知られており、重要な遺跡である。遺跡はカンダハルの北西約35キロメートル、アルガンダーブ川の支流であるクシュキ・ナフド・ルード川沿いにある。1951年、フランス人考古学者によって発見された。この遺跡は北方の山岳地帯と南方のカンダハル平原を結ぶルートの重要な位置にある。カンダハル・オアシスは北方の山岳地帯と南方の砂漠地帯の境界に位置している。このオアシスでは、北東と東から、様々な川が流れ込んでいるため、豊富な水が供給される。そのためこのカンダハル・オアシスは最も重要地域の一つになっており、遺跡はこのオアシスの周辺集落の内でも最も古いものである[13]
  2. ^ アレクサンドリア・アレイア(ヘラート)、アレクサンドリア・アラコシア(カンダハル)、アレクサンドリア・カズニー(カズニー)、アレクサンドリア・カビサ(カビサ・ベクラム)、アレクサンドリア・オクシアナ(アイ・ハヌム)、アレクサンドリア・バクトラ(バルフ)など、アレクサンドロスが自分の名を付けた町は多い
  3. ^ 「北部同盟」という名称は俗称であり、正式には、「アフガニスタン救国統一戦線」である[15]
  4. ^ キプロス・グループはイラン、ペシャーワル・グループはパキスタンの影響下にあり、この二つのグループの参加により、アフガニスタンにとって重要な隣国であるイランとパキスタンが事実上、ボン会合に参加することになったという[17]
  5. ^ タジク人12名・パシュトゥン人9名・ハザーラ人5名、ウズベク人4名
  6. ^ 外相・内相・国防相・法相・通信相・運輸相・都市開発相・高等教育相などの主要ポスト、外相のアブドゥッラーや内相のカヌニはラバニ派からの横滑り、国防相もマスードの後継者ファヒーム、都市開発相はジャララバードの市長カディルが就任
  7. ^ 観光相・情報文科相・復興相・財務相・教育相・女性問題担当相など
  8. ^ 保健相・灌漑相
  9. ^ ロヤ・ジルガはもともとパシュトゥ語で、「ロヤ」は「大きい」、「ジルガ」は「会合」を意味する。部族にかかわる問題が生じると、その解決のために集まるのが「ジルガ」であり、ジルガの中で最大のものが「ロヤ・ジルガ」であるという[18]
  10. ^ アレクサンドリア・アレイア(ヘラート)、アレクサンドリア・アラコシア(カンダハル)、アレクサンドリア・カズニー(カズニー)、アレクサンドリア・カビサ(カビサ・ベクラム)、アレクサンドリア・オクシアナ(アイ・ハヌム)、アレクサンドリア・バクトラ(バルフ)など、アレクサンドロスが自分の名を付けた町は多い
  11. ^ 「北部同盟」という名称は俗称であり、正式には、「アフガニスタン救国統一戦線」である[64]
  12. ^ キプロス・グループはイラン、ペシャーワル・グループはパキスタンの影響下にあり、この二つのグループの参加により、アフガニスタンにとって重要な隣国であるイランとパキスタンが事実上、ボン会合に参加することになったという[66]
  13. ^ タジク人12名・パシュトゥン人9名・ハザーラ人5名、ウズベク人4名
  14. ^ 外相・内相・国防相・法相・通信相・運輸相・都市開発相・高等教育相などの主要ポスト、外相のアブドゥッラーや内相のカヌニはラバニ派からの横滑り、国防相もマスードの後継者ファヒーム、都市開発相はジャララバードの市長カディルが就任
  15. ^ 観光相・情報文科相・復興相・財務相・教育相・女性問題担当相など
  16. ^ 保健相・灌漑相
  17. ^ ロヤ・ジルガはもともとパシュトゥ語で、「ロヤ」は「大きい」、「ジルガ」は「会合」を意味する。部族にかかわる問題が生じると、その解決のために集まるのが「ジルガ」であり、ジルガの中で最大のものが「ロヤ・ジルガ」であるという[67]
  18. ^ 憲法制定ロヤ・ジルガにおいて少数民族は権力の集中を避け、権力バランスを図るため、大統領に加えて首相を設けることを主張したが、実現しなかった[96]
  19. ^ 国土の四分の三がヒンドゥー・クシュ(インド人殺し)と呼ばれる高山とその支脈に覆われている。国を南西に1920キロメートルも縦貫している。この山脈は北東部が最も高く、南西に行くほど低くなっている[104]

出典

  1. ^ アフガニスタン・イスラム共和国基礎データ”. 外務省. 2018年11月5日閲覧。
  2. ^ a b c d World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). IMF (2014年10月). 2014年11月24日閲覧。
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関連項目

1978年以降

復興関連
その他

外部リンク

政府
日本政府
その他