ムハンマド・シャイバーニー・ハン
ムハンマド・シャイバーニー・ハン | |
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ウズベク・ハン国ハン | |
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在位 | 1500年 - 1510年 |
出生 |
1451年 |
死去 |
1510年12月2日 メルヴ郊外 |
子女 |
フッラム・シャー テムル |
家名 | シバン家 |
王朝 | シャイバーニー朝 |
父親 | シャー・ブダグ |
ムハンマド・シャイバーニー・ハン(ウズベク語: Muhammad Shayboniy / Муҳаммад Шайбоний 、ペルシア語: شایبک خان, ラテン文字転写: Muḥammad Shaybānī Khān、1451年 - 1510年12月2日)は、ウズベク・ハン国シャイバーニー朝の初代ハン。アブル=ハイル・ハンの孫。
生涯
[編集]1451年、シャー・ブダグの子として生まれる。
1468年にアブル=ハイル・ハンが没すると、ウズベクのウルスは分裂状態に陥り、その多くはケレイ・ハンとジャニベク・ハンの支配するカザフ・ハン国に流れた。アブル=ハイル・ハンの孫であるムハンマド・シャイバーニーは各地を転々とし、亡命生活を送る。
1496年/1497年、ムハンマド・シャイバーニーはティムール朝の内部抗争に乗じてシル川中流域に拠点を置き、ウズベク集団の再統合に成功した[1]。
1500年、ムハンマド・シャイバーニー・ハンはサマルカンドを占領し、マー・ワラー・アンナフルの支配権を得た[1]。一時はティムール家のバーブルにサマルカンドを奪われるが3カ月余りで奪還した[1]。
1503年、アム川上流域のクンドゥーズからフェルガナ盆地,タシュケントを占領。1505年にはホラズム地方を、1507年にはヘラートを占領してティムール朝を滅ぼし、ホラーサーンに進出した[1]。
しかし、その後のカザフ遠征(1508年 - 1509年)や、ハザーラ族遠征に失敗し、諸王族に対する分封政策が失敗したため、彼らからの支持を得られなくなった[1]。折しもサファヴィー朝のシャー・イスマーイール(在位:1501年 - 1524年)の侵攻に遭い、ムハンマド・シャイバーニー・ハンはメルヴ郊外で敗死した(1510年)[1]。ムハンマド・シャイバーニー・ハンの頭蓋骨はシャー・イスマーイールによって金箔を貼られ、盃にされた(髑髏杯)。
子
[編集]- フッラム・シャー
- テムル
参考資料
[編集]- 小松久男編『世界各国史4 中央ユーラシア史』(山川出版社、2005年、ISBN 463441340X)
- 永田雄三編『世界各国史9 西アジア史』(山川出版社、2002年、ISBN 4634413906)
脚注
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