アフマド・シャー・ドゥッラーニー
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アフマド・シャー・ドゥッラーニー | |
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ドゥッラーニー朝 シャー | |
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在位 | 1747年7月 - 1772年6月4日 |
戴冠式 | 1747年7月 |
出生 |
1722年 ヘラートのサドーザイ・スルターン国、ヘラート |
死去 |
1772年10月16日 ドゥッラーニー帝国、カンダハール州、マルフ |
家名 | サドーザイ氏族 |
王朝 | ドゥッラーニー朝 |
父親 | モハンマド・ザマン・ハーン・アブダーリ |
母親 | ザーホナ・アナア |
宗教 | イスラム教スンナ派 |
アフマド・シャー・ドゥッラーニー(Ahmad Shāh Durrāni, 1722年 - 1772年10月16日)は、ドゥッラーニー朝の初代シャー、在位:1747年 - 1772年。パシュトゥーン人アブダーリー部族連合ポーパルザイ族サドーザイ氏族出身。アフマド・シャーは、アブダーリー部族連合の名前を「真珠の時代」を意味するドゥッラーニーに変え、彼が創始した王朝の名前ともなった。
生涯
[編集]自立するまでは、アフマド・ハーン・アブダーリーとして、アフシャール朝の君主ナーディル・シャーに武将として仕えていた。
1747年、ナーディル・シャーの死後、カンダハールに進軍してアフシャール朝から自立した。同年10月、ローヤ・ジルガにおいて、アフガニスタン最初のシャーに推戴された。ここにアフガニスタンは政治的独立を確立した。
→「アフマド・シャー・ドゥッラーニーのインド遠征」も参照
1749年春、25,000の軍でヘラートを征服。ついでマシュハドとニーシャープールを攻め、1750年の春にはアフシャール朝の首都ニーシャープールを陥落させた。
翌1751年には東に向かい、インドのムガル朝から、パンジャーブとカシミールを割譲させた。その後も各地で転戦し、王国の基礎を築いた。
1761年1月14日には、インドの覇権を握りつつあったマラーター同盟の軍勢を第三次パーニーパットの戦いで破り、その北進の中断と結束を崩すことに成功した。
参考文献
[編集]- ヴィレム・フォーヘルサング 著、前田耕作、山内和也 訳『世界歴史叢書 アフガニスタンの歴史と文化』明石書店、2005年。
関連項目
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