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2017年5月、カブールのドイツ大使館の近くで大規模テロが発生し、300人以上が死傷した<ref name=":0">{{Cite web|title=外交青書 2018 | 1 中東地域情勢 | 外務省|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2018/html/chapter2_06_01.html#s26108|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。8月、アメリカ合衆国の[[ドナルド・トランプ]]大統領は「対アフガニスタン・南アジア戦略」を発表し<ref name=":0" />、状況の悪化を防ぐために増派(約4000人)を決定した<ref>{{Cite news|title=トランプ米大統領、アフガン新戦略発表 増派に道開く|url=https://jp.reuters.com/article/usa-trump-afghanistan-idJPKCN1B206V|work=Reuters|date=2017-08-22|accessdate=2019-11-24|language=ja}}</ref>。10月、アフガニスタン政府の支配地域は407郡中231郡(57%)にすぎないことが判明した。政府とターリバーンは122郡(30%)の支配を争っており、ターリバーンが54郡(13%)を支配していることが分かった。ターリバーンの支配地域は2015年11月から2017年8月の間に倍増しており、紛争地域も1.4倍増加した。[[ウルーズガーン州|ウルズガーン州]](7郡中5郡)や[[クンドゥーズ州]](7郡中5郡)、[[ヘルマンド州]](14郡中9郡)の大半はターリバーンに支配されていた<ref>{{Cite web|url=https://www.sigar.mil/pdf/quarterlyreports/2017-10-30qr.pdf|title=October 30, 2017 Quarterly Report to Congress|accessdate=2019-10-09|publisher=SIGAR(アフガニスタン復興特別査察官)|date=2017-10-30|pages=106-107}}</ref>。11月、北大西洋条約機構(NATO)は確固たる支援任務(約1万3000人)に対して3000人の増派を決定した<ref>{{Cite web|title=防衛省・自衛隊|平成30年版防衛白書|2 多国間の安全保障の枠組みの強化|url=http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/2018/html/n12802000.html|website=www.clearing.mod.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。 |
2017年5月、カブールのドイツ大使館の近くで大規模テロが発生し、300人以上が死傷した<ref name=":0">{{Cite web|title=外交青書 2018 | 1 中東地域情勢 | 外務省|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2018/html/chapter2_06_01.html#s26108|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。8月、アメリカ合衆国の[[ドナルド・トランプ]]大統領は「対アフガニスタン・南アジア戦略」を発表し<ref name=":0" />、状況の悪化を防ぐために増派(約4000人)を決定した<ref>{{Cite news|title=トランプ米大統領、アフガン新戦略発表 増派に道開く|url=https://jp.reuters.com/article/usa-trump-afghanistan-idJPKCN1B206V|work=Reuters|date=2017-08-22|accessdate=2019-11-24|language=ja}}</ref>。10月、アフガニスタン政府の支配地域は407郡中231郡(57%)にすぎないことが判明した。政府とターリバーンは122郡(30%)の支配を争っており、ターリバーンが54郡(13%)を支配していることが分かった。ターリバーンの支配地域は2015年11月から2017年8月の間に倍増しており、紛争地域も1.4倍増加した。[[ウルーズガーン州|ウルズガーン州]](7郡中5郡)や[[クンドゥーズ州]](7郡中5郡)、[[ヘルマンド州]](14郡中9郡)の大半はターリバーンに支配されていた<ref>{{Cite web|url=https://www.sigar.mil/pdf/quarterlyreports/2017-10-30qr.pdf|title=October 30, 2017 Quarterly Report to Congress|accessdate=2019-10-09|publisher=SIGAR(アフガニスタン復興特別査察官)|date=2017-10-30|pages=106-107}}</ref>。11月、北大西洋条約機構(NATO)は確固たる支援任務(約1万3000人)に対して3000人の増派を決定した<ref>{{Cite web|title=防衛省・自衛隊|平成30年版防衛白書|2 多国間の安全保障の枠組みの強化|url=http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/2018/html/n12802000.html|website=www.clearing.mod.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。 |
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2018年6月、タリバーンとの間で史上初めての3日間の一時停戦が実現した<ref>{{Cite web|title=外交青書 2019 | 2 中東地域情勢 | 外務省|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2019/html/chapter2_06_02.html#s26210|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。8月、ターリバーンの猛攻により[[ガズニー州]]の州都が[[:en:Ghazni offensive|陥落寸前]]になった。10月、[[2018年アフガニスタン下院議員選挙|第三回の下院議員選挙]]が実施された。 |
2018年6月、ターリバーンとの間で史上初めての3日間の一時停戦が実現した<ref>{{Cite web|title=外交青書 2019 | 2 中東地域情勢 | 外務省|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2019/html/chapter2_06_02.html#s26210|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。8月、ターリバーンの猛攻により[[ガズニー州]]の州都が[[:en:Ghazni offensive|陥落寸前]]になった。10月、[[2018年アフガニスタン下院議員選挙|第三回の下院議員選挙]]が実施された。 |
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2019年1月の時点で、ターリバーンがアフガニスタンの郡の12%を掌握・勢力圏内に入れている<ref>{{Cite web|url=https://www.sigar.mil/pdf/quarterlyreports/2019-01-30qr.pdf|title=January 30, 2019 Quarterly Report to Congress|accessdate=2019-12-14|publisher=SIGAR(アフガニスタン復興特別査察官)}}</ref>。タリバンの勢力が拡大しつつあるという意見もある<ref>{{Cite web|title=アフガニスタン:タリバンの復活と現状 {{!}}|url=http://globalnewsview.org/archives/10141|website=GNV|accessdate=2019-12-04|language=ja}}</ref>。8月、アメリカ合衆国とターリバーンとの間で8回目の和平協議が行われた([[アフガニスタン和平プロセス]])。9月、[[2019年アフガニスタン大統領選挙|第四回の大統領選挙]]が実施された。12月、[[中村哲 (医師)]]が殺害された。 |
2019年1月の時点で、ターリバーンがアフガニスタンの郡の12%を掌握・勢力圏内に入れている<ref>{{Cite web|url=https://www.sigar.mil/pdf/quarterlyreports/2019-01-30qr.pdf|title=January 30, 2019 Quarterly Report to Congress|accessdate=2019-12-14|publisher=SIGAR(アフガニスタン復興特別査察官)}}</ref>。タリバンの勢力が拡大しつつあるという意見もある<ref>{{Cite web|title=アフガニスタン:タリバンの復活と現状 {{!}}|url=http://globalnewsview.org/archives/10141|website=GNV|accessdate=2019-12-04|language=ja}}</ref>。8月、アメリカ合衆国とターリバーンとの間で8回目の和平協議が行われた([[アフガニスタン和平プロセス]])。9月、[[2019年アフガニスタン大統領選挙|第四回の大統領選挙]]が実施された。12月、[[中村哲 (医師)]]が殺害された。 |
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2020年5月17日、昨年の大統領選挙で次点だった[[アブドラ・アブドラ]]と[[アシュラフ・ガニー]]大統領で政治権力を分け合うことで合意文書に署名した<ref>京都新聞2020年5月18日朝刊p5</ref>。 |
2020年5月17日、昨年の大統領選挙で次点だった[[アブドラ・アブドラ]]と[[アシュラフ・ガニー]]大統領で政治権力を分け合うことで合意文書に署名した<ref>京都新聞2020年5月18日朝刊p5</ref>。 |
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アメリカ合衆国がアフガニスタンからの撤兵をすすめる裏でターリバーンは主要都市を次々に制圧。2021年8月15日にはカーブルに迫り、全土を支配下に置いたと宣言した<ref>{{Cite news|url=https://nordot.app/799566209875214336?c=39546741839462401|title=「全土を支配下に置いた」とタリバン|work=47NEWS|agency=[[共同通信社]]|date=2021-08-15|accessdate=2021-08-15}}</ref>。政権側も{{ill2|アブドゥル・サタール・ミルザクワル|en|Abdul Sattar Mirzakwal}}内務相代行が平和裏に権力の移行を進めると表明した<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASP8H65CCP8HUHBI01H.html|title=タリバーンへの「権力移行」 アフガン政府が認める声明|work=朝日新聞デジタル|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2021-08-15|accessdate=2021-08-15}}</ref>。 |
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== 政治 == |
== 政治 == |
2021年8月15日 (日) 12:34時点における版
- アフガニスタン・イスラム共和国
- جمهوری اسلامی افغانستان
Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Afghānestān -
アフガニスタンの国章 (国旗) (国章) - 国の標語:لا إله إلا الله، محمد رسول الله
アッラーフの他に神はなし。ムハンマドはアッラーフの使徒である。 - 国歌:ملی سرود
-
公用語 パシュトー語、ダリー語 首都 カーブル 最大の都市 カーブル 建国
独立
- 宣言1747年
イギリスの保護国より
1919年8月19日通貨 アフガニ(AFN) 時間帯 UTC+4:30 (DST:なし) ISO 3166-1 AF / AFG ccTLD .af 国際電話番号 93
アフガニスタン・イスラム共和国(アフガニスタン・イスラムきょうわこく、ダリー語: جمهوری اسلامی افغانستان、パシュトー語: Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Afghānestān、英:Afghanistan)、通称アフガニスタンは、中央アジアと南アジアの交差点に位置する山岳地帯の内陸国である。東と南にパキスタン、西にイラン、北にトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、北東に中国と国境を接している。面積は65万2,000平方キロメートルで、北部と南西部に平野部がある山岳国である。首都であり最大の都市であるカブール。人口は約3,900万人で、そのほとんどがパシュトゥン人、タジク人、ハザラ人、ウズベク人などの民族である。
概要
人類は少なくとも5万年前には現在のアフガニスタンに住んでいた。9,000年前に定住生活が始まり、紀元前3千年紀のインダス文明(ショルトゥガイ遺跡)、オクサス文明(ダシュリジ遺跡)、ヘルマンド文明(ムンディガク遺跡)へと徐々に進化していった[3]。インド・アーリア人がバクトリア・マルギアナ地方を経てガンダーラに移住し、ゾロアスター教の古代宗教書であるアヴェスターに描かれている文化と密接な関係がある[4]鉄器時代のヤズ1世文化(紀元前1500〜1100年頃)が興った[5]。「アリアナ」と呼ばれていたこの地域は、紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシャ人の手に落ち、その東側のインダス川までの地域を征服した。アレキサンダー大王は前4世紀にこの地域に侵入し、カブール渓谷での戦いの前にバクトリアでロクサネと結婚したが、アスパシオイ族やアサカン族の抵抗に遭ったという。グレコ・バクトリア王国はヘレニズム世界の東端となった。マウリヤ朝インド人による征服の後、この地域では何世紀にもわたって仏教とヒンドゥー教が栄えた。カピシとプルシャプラの双子の都を支配したクシャーナ朝のカニシカ1世は、大乗仏教が中国や中央アジアに広まる上で重要な役割を果たした。また、この地域からは、キダール、エフタル、アルコン、ネザーク、ズンビール、トルキ・シャヒスなど、さまざまな仏教王朝が生まれた。
サーサーン朝の支配下にあったヘラートとザランジには、7世紀半ばにイスラム教徒がイスラム教をもたらし、9世紀から12世紀にかけて、サッファール朝、サマニー朝、ガズナ朝、ゴール朝朝の時代に本格的なイスラム化が進んだ[6]。その後、クワーラズミアン朝、ハルジー朝、ティムール朝、ローディー朝、スール朝、ムガル帝国、サファヴィー朝などに支配された地域もある。現代のアフガニスタンの政治史は、1709年にアフガニスタン南部の独立を宣言したミルワイス・ホタックを始祖とするホータキー朝に始まる。1747年、アフマド・シャー・ドゥッラーニーがカンダハールに首都を置くドゥッラーニー帝国を建国した。1776年、ドゥラーニー帝国の首都はカブールに移され、ペシャーワルが冬の首都となった[7]が、1823年、ペシャワールはシーク教徒に奪われた。19世紀後半、アフガニスタンはイギリス帝国とロシア帝国の「グレート・ゲーム」の緩衝国となった[8] [9]。
1839年から1842年にかけての第一次アングロ・アフガン戦争では、インドから来たイギリス軍がアフガニスタンを制圧したが、その後大敗した。1919年の第三次アングロ・アフガン戦争の後、アフガニスタンは外国の影響から独立することができた。1919年の第3次英・アフガン戦争後、アフガニスタンは外国の影響から独立し、アマーヌッラー・ハーンのもとで君主制となる。しかし、1973年にザーヒル・シャーが倒され、共和制が確立された。1978年、2度目のクーデターにより、アフガニスタンは初めて社会主義国家となり、1980年代にはムジャーヒディーンの反乱軍とのソ連・アフガン戦争が勃発した。1996年までに、国の大部分がイスラム原理主義者のタリバンに取り込まれ、全体主義的な政権によって支配された。2001年のアメリカの侵攻後、彼らは権力から排除されたが、今でも国のかなりの部分を支配している。政府とタリバンとの間で続いている戦争は、アフガニスタンの人権や女性の権利に関する問題をさらに悪化させている。一般市民の殺害、誘拐、拷問など、双方による多くの虐待が行われている。また、アメリカの軍事・経済援助に大きく依存していることから、アメリカの従属国とも言われている[10]。
アフガニスタンは大統領制のイスラム共和国である。テロリズム、貧困、子供の栄養失調、汚職が蔓延している。アフガニスタンは、国連、イスラム協力機構、南アジア地域協力連合、77ヶ国グループ、経済協力機構、非同盟運動に加盟している。アフガニスタンの経済規模は世界第96位で、購買力平価による国内総生産(GDP)は729億ドルである。一人当たりのGDP(PPP)ではもっと悪く、2018年時点で186カ国中169位となっている。
国名
自称国名はافغانستان (Afghānistān ; アフガーニスターン)。ペルシア語・ダリー語で「アフガーン人(パシュトゥーン人)の国(土地)」を意味する。正式名称は1973年の王制打倒以来政体が変化するごとに新政権によって改められてきたが、ターリバーン政権崩壊後のロヤ・ジルガ(国民大会議)で定められた2004年憲法による正式名称はダリー語で、جمهوری اسلامی افغانستان (ラテン文字転写 : Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Afghānestān , 読み : ジョムフーリーイェ・エスラーミーイェ・アフガーネスターン)という。
公式の英語表記は、Islamic Republic of Afghanistan。通称Afghanistan。日本語の表記は、アフガニスタン・イスラム共和国。通称アフガニスタン。漢字表記は阿富汗斯坦または亜富汗斯坦。
国名の変遷
- 1834年 - 1926年 アフガニスタン首長国
- 1926年 - 1973年 アフガニスタン王国
- 1973年 - 1978年 アフガニスタン共和国
- 1978年 - 1987年 アフガニスタン民主共和国
- 1987年 - 1992年 アフガニスタン共和国
- 1992年 - 1996年 アフガニスタン・イスラム国
ターリバーン政権期
ボン合意以降
国旗
現在の国旗は2002年1月に制定されたもの。中央の紋章に書かれている文字はコーランの冒頭の聖句(シャハーダ)である「アッラーフのほかに神はなし、ムハンマドはアッラーフの使徒なり」と書かれている。
歴史
先史時代
紀元前3000年から紀元前2000年にかけて四大文明が起こり、都市文化が生まれつつあった。その背景には農耕文化の発展があった。アフガニスタンは、先史時代からイラン高原やメソポタミアの諸文化と早くからつながりがあり、また、インダス文明とも交流があった[11]。
紀元前2000年から紀元前1800年は青銅器時代で、ムンディガク遺跡[注釈 1]、デー・モラシ・グンダイ遺跡が見つかっている。また、バクトリア地方から出土した数体の石製女性像が見つかっている。
紀元前12世紀、リグ・ヴェーダによれば、十王戦争が勃発し、バルフからパンジャブへ侵攻した。
ペルシア・ギリシア・インド文化の時代
ペルシアとアレクサンドロス大王の支配
紀元前6世紀、アケメネス朝ペルシャ帝国に編入され、アレイヴァ(ヘラート)、アラコシア(カンダハール、ラシュカルガー、クエッタ)、バクトリア(バルフ)、サッタギディア(ガズニー)、ガンダーラ(カーブル、ジャラーラーバード、ペシャーワル)の地方名で呼ばれた。カンダハルの旧市シャル・イ・コナの発掘によって、紀元前6世紀にはこの町がすでにアフガニスタン南方の首邑になっていたことが明らかになった。
紀元前5世紀ごろ、アラコシアには古代民族Pactyansが住んでいたことがサンスクリットや古代ギリシャ語文献から知られている。
紀元前4世紀、アレクサンドロス3世(大王)はこの地を征服し、アレクサンドリアオクシアナ(Alexandria on the Oxus)と呼ばれる都市を建設した[注釈 2][13]。
南方のマウリア朝と北方のグレコ・バクトリア王国
紀元前3世紀中ごろ、アフガニスタン北部からタジキスタン南部にかけてはギリシャ人の建てたグレコ・バクトリア王国が支配した。
紀元前130年ごろ、インド・グリーク朝のメナンドロス1世が死んで、分裂すると、サカ族がガンダーラ地方でインド・スキタイ王国を興した。
紀元前2世紀後半、匈奴に追われた遊牧民の月氏が侵入し、グレコ・バクトリア王国は滅びた。
1世紀以降、先の大月氏の立てたクシャーナ朝がこの地に栄える。このころギリシア文化は影響力を失い、代わって南方のマウリヤ朝から流入したインド文化や仏教の影響が強く見られるようになる。4世紀ごろまでバクト商人がシルクロード交易を掌握する。
3世紀末、クシャーナ朝に代わりサーサーン朝の支配がこの地に及ぶ。
5世紀前半、エフタルが起りアフガニスタン・パキスタンの地を支配する。
6世紀後半、アルタイ方面から南下してきた突厥による支配を受ける。
イスラーム化の進展
8世紀初頭、イスラム帝国・アッバース朝のイスラム教徒軍がハザール・ソグディアナに侵攻し(アラブ・ハザール戦争、トランスオクシアナ征服)、その支配下へ入る。751年のタラス河畔の戦いによりイスラム商人がシルクロード交易を掌握する。ゾロアスター教や仏教、ヒンズー教の影響は、イスラム教が伝わったあとも10世紀ごろまで残存した。
9世紀中ごろ、再び土着イラン人によるターヒル朝・サッファール朝・サーマーン朝が興り統治する。
995年、マームーン朝のイスラム教徒軍が侵攻、アムダリヤ川右岸の古都キャトに栄えていた土着のゾロアスター教国家、アフリーグ朝は滅亡した。
1017年、ガズナ朝がマームーン朝を滅ぼした。10世紀以降、このころからパシュトゥーン人の存在が確認され始める。
1117年、シャンサブ家がゴール朝を興し、シハーブッディーン・ムハンマドに仕えるクトゥブッディーン・アイバクは北インド征服事業を成功させ奴隷王朝を開いた。1215年にホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドによってゴール朝は滅亡した。
モンゴル帝国
モンゴルのホラズム・シャー朝征服のあと、アフガニスタンはモンゴル帝国およびチャガタイ・ハン国、タジク人のクルト朝の支配を受ける。
ティムール朝
1370年ごろ、テュルク系のティムール朝による支配を受ける。1470年、ティムール朝が分裂しヘラート政権に移行。1507年、ウズベク族のシャイバーン朝のムハンマド・シャイバーニー・ハーンの攻撃によってティムール朝は滅亡する。
サファヴィー朝、ムガル朝、オスマン帝国の抗争
1510年、サファヴィー朝イランによって征服される。1526年、第一次パーニーパットの戦い。カーブルを拠点とするティムール朝の王子バーブルがインドにムガル朝を建設。
1540年、北インドのスール朝がカンダハール、カーブルを占拠。1545年、ムガル帝国がカンダハール、カーブルを占拠。1556年、第二次パーニーパットの戦いでスール朝のヘームーを破る。
1623年、サファヴィー朝がカンダハールを奪還。1638年、ムガル帝国がカンダハールを占拠。1649年、サファヴィー朝がカンダハールを奪還。
アフガンの王家による統治のはじまり
ホータキー朝
1709年、パシュトゥーン人ギルザーイー部族のミール・ワイス・ホータキーが反乱を起こし、カンダハールにホータキー朝を樹立。
1719年、ホータキー族のミール・マフムードがサファヴィー朝のケルマーンに侵攻。
1722年、ミール・マフムードがサファヴィー朝の首都・イスファハーンを占拠(グルナーバードの戦い)。マフムードがサファヴィー朝を支配下に治める。
1725年、シャー位が、マフムードから、アシュラフに代わる。
1729年、アシュラフがアフシャール朝のナーディル・シャーに敗れ、ペルシアがアフガン支配下から脱した(ダムガンの戦い)。
ドゥッラーニー朝
サドーザイ朝
1747年10月、パシュトゥーン人ドゥッラーニー部族連合のザドーザイ族長アフマド・シャー・ドゥッラーニーによるドゥッラーニー朝が成立。
1757年、マラーターのインド北西部侵攻でパンジャーブが占領される。
バーラクザイ朝
1826年、ドゥッラーニー系部族の間で王家が交代し、バーラクザイ朝が成立。1834年に国名をアフガニスタン首長国(en)とする。
1838年 - 1842年、第一次アフガン戦争でイギリスに勝利。
イギリス保護国期
第二次アフガン戦争(1878年 - 1880年)のカンダハールの戦いでアフガニスタン首長国はイギリスに敗れ、ガンダマク条約でその保護国となり、イギリスとロシアはアフガニスタンを新たな緩衝国家として中央アジアで対峙した。
1885年、イギリスとロシア帝国との間でパンジェ紛争が起きる。イギリスは朝鮮半島沖の巨文島で巨文島事件を起こし、ロシアを牽制した。
1893年、パキスタンとの国境線デュアランド・ラインにアフガニスタン首長国とイギリスが合意。1895年、チトラル遠征。
アフガンの王家による再独立
1919年に第三次アフガン戦争に勝利したアマーヌッラー・ハーンはイギリスからの独立を達成し、独立した君主として即位した。1926年、国名をアフガニスタン王国とする。同年、オーレル・スタインがインダス川上流およびスワート川流域(デュアランド・ライン)を調査旅行した。アマーヌッラーは、トルコ共和国の新指導者ケマル・アタテュルクの世俗主義、民族主義、共和主義を柱とする改革に影響され、同様の改革を推進したが、宗教改革に反対する保守派の蜂起が相次いだ。
王妃ソラヤ・タルズィーは近代化のひとつとして家庭内での女性の地位向上を図ったが、アフガニスタンの歴史上初めて登場した女性の統治者に対して、保守派の激しい反対があった。
タジク人の指導者ハビーブッラー・カラカーニーは、イギリスから資金と武器の支援を受けてカーブルを占領し、アマーヌッラー政権を打倒した(アマーヌッラー・ハーンの改革と内戦)。
1929年、バーラクザイ王家の分家筋にあたるムハンマド・ナーディル・シャーが混乱を収めて、国王(アミール)に就任。
1931年に制定した新憲法の第一条でスンナ派ハナフィー学派を国教に定めた。この条文が国内少数派のシーア派に対する反ハザラ人政策の法的根拠となったことで恨みを買い、1933年11月8日に暗殺された。同日、息子のザーヒル・シャーが即位した。
第二次世界大戦
1939年9月に開戦した第二次世界大戦では、1941年10月にイギリスとソ連両国はドイツとイタリアなど枢軸国の外交官や民間人の国外退去を要求した。これに対しアフガニスタン政府は、枢軸国のみならず交戦中のすべての国の外交官以外の民間人に国外退去を命じた。
このように、ザーヒル・シャー国王の統治下で、英領インドとソ連、中華民国に挟まれた中央アジアにおける緩衝国家として、日本やドイツ、イタリアや満洲国などからなる枢軸国、イギリスやアメリカ、ソ連と中華民国などからなる連合国の、どちらにもつかない中立国として1945年9月の終戦まで機能していた。
冷戦
パシュトゥーニスタン独立運動
1947年にイギリスのインド統治が終了すると、バルチスタン地方は「もともとインドの一部ではない」ためインドやパキスタンには参加せず、イギリスやパキスタンもカラート藩王国の独立を認めたうえで、パキスタンとは特別の関係を結ぶことを模索し、1952年にバルチスタン藩王国連合として独立させた。
しかし、その後のパキスタンからの軍事的圧迫(バルチスタン紛争)に抗すことができず藩王は併合条約に調印し、パキスタンに軍事併合された。その後もしばらく内政自治は続いていたが権限は大幅に縮小され、1955年には藩王国自体が名目上も消滅させられ、バローチスターン州とされた。
パキスタンがバルチスタンのみならずアフガニスタンも併合しようとしたため、国王ザーヒル・シャーは逆にパキスタン領(連邦直轄部族地域、ワズィーリスターン)内のパシュトゥーン人を支援して「パシュトゥーニスタン独立運動」を起こし牽制した。
ザーヒル・シャーは、1960年代には立憲君主制を導入して民主化路線を推進し、日本やイギリス、ソ連などからの資本の導入や輸入品の導入を推進した。
王政廃止からソ連軍の撤退
1973年、ザーヒル・シャーがイタリアでの病気療養のため、国を離れていた隙を狙い、旧バーラクザイ王族のムハンマド・ダーウードがクーデターを起こし王政を廃止、共和制を宣言して大統領に就任、アフガニスタン共和国を建国した。ダーウードはアフガン社会の近代化と軍事近代化を目指し、ソ連に接近してイスラム主義者たちを弾圧する。このときパキスタンに脱出したヘクマティヤールはヒズベ・イスラーミー(ヘクマティヤール派)を結成し、イスラム主義のラッバーニーらはジャマーアテ・イスラーミー(イスラム協会、ラッバーニー派)を結成した。
1978年4月、アフガニスタン人民民主党主導による軍事クーデター「四月革命」が発生し、ダーウードおよび一族が処刑される。人民民主党による社会主義政権が樹立し、国名をアフガニスタン民主共和国に変更、ヌール・ムハンマド・タラキーが初代革命評議会議長兼大統領兼首相に就任した。これに対し、全土でムジャーヒディーンが蜂起、アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)が始まる。政情が不安定化する中、1979年2月に隣国でイラン革命が勃発。9月17日、ヌール・ムハンマド・タラキーが副首相のハフィーズッラー・アミーン一派に殺害され、アミーンが革命評議会議長兼大統領兼首相に就任。
1979年12月24日、ソ連はアフガニスタンへ軍事侵攻を開始した。ブレジネフソビエト連邦共産党書記長が、領内の中央アジア諸国にイスラム原理主義が飛び火することを恐れての侵略であるとされている。12月27日、ソ連はムジャーヒディーンを抑えられないアミーンをKGBを使って暗殺、バブラク・カールマル副議長を革命評議会議長兼大統領兼首相に擁立する。ソ連軍および政府軍とこれに抵抗するムジャーヒディーンとの戦闘が激化する。
1982年、国連総会において、外国軍の撤退を要求する国連決議(37/37)が採択される。
1987年、ムハンマド・ナジーブッラーが大統領に就任。国名をアフガニスタン共和国に戻す。
1988年、「アフガニスタンに関係する事態の調停のための相互関係に関する協定」が締結。ソ連軍の撤退と国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション設置が決定される。
1989年、ソ連軍撤退完了。各国から参加したムジャーヒディーンの多くも引き上げた。しかし、戦後も国内のムジャーヒディーン各派は人民民主党政府打倒を目指して武装闘争を続けた。
ソ連軍の撤退、ターリバーン政権の統治
1989年、ソ連軍が撤退したあと国内の支配をめぐってアフガニスタン紛争 (1989年-2001年)が始まる。2月にアフガニスタン国内のムジャーヒディーン各派はシブガトゥッラー・ムジャッディディーを暫定国家元首に指名、ジャラーラーバードの戦いでナジーブッラーが率いる人民民主党政府と戦うも敗北する。
1992年、ナジーブッラー政権崩壊。ムジャーヒディーンのジャマーアテ・イスラーミー(イスラム協会、ラッバーニー派)主導によるアフガニスタン・イスラム国が成立。
1993年、イスラム協会のブルハーヌッディーン・ラッバーニー指導評議会議長が大統領に就任。
1994年、内戦が全土に広がる。ターリバーン、パキスタンの北西辺境州(旧北西辺境州がパキスタン領となったもの)から勢力を拡大。
1996年、ターリバーンがカーブルを占領し、アフガニスタン・イスラム首長国の成立を宣言する。アフガニスタン・イスラム国政府とムジャーヒディーンの一部が反ターリバーンで一致、北部同盟[注釈 3](マスード派とドスタム派)となる。同年、米国の指示によりスーダン政府はウサーマ・ビン=ラーディンの国外追放を実行、ビン=ラーディンの率いるアル・カーイダがアフガニスタン国内に入り、ターリバーンと接近する。
1997年、第一次マザーリシャリーフの戦いでターリバーンが敗北。
1998年、第二次マザーリシャリーフの戦いでターリバーンが勝利、ドスタム派を駆逐してアフガン全土の9割を掌握するが、イラン領事館員殺害事件が発生。イランとターリバーンの双方が国境付近に兵を集結させ、一触即発の危機を招いたが、ラフダル・ブラヒミ国連特使の仲介により危機が回避された[15]。また、ケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破事件にともなうアル・カーイダ引き渡し要求をターリバーンが拒否したため、アメリカとの関係が緊張化する。
1999年、ターリバーン支配地域に対する経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1267が採択される。
2000年、ターリバーン支配地域に対する追加経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1333が採択される。
2001年3月2日、ターリバーンがバーミヤンの石仏を爆破する。9月10日、北部同盟のアフマド・シャー・マスード司令官が、自称アルジェリア人ジャーナリスト2名による自爆テロで死亡した。9月16日、マスードの遺体が故郷パンジシールで埋葬された。ターリバーン情報省が全土要塞化を宣言し、徹底抗戦姿勢を示す。9月25日、サウジアラビア、ターリバーンとの断交を決定。9月26日、閉鎖されたままのアメリカ大使館が、カーブル市民によって襲撃される。
テロとの戦い
多国籍軍による攻撃と暫定政権の樹立
2001年10月2日、アメリカ同時多発テロ事件を受けてNATOがアルカーイダを匿うターリバーン政権に対して自衛権の発動を宣言。10月7日、アメリカ軍が不朽の自由作戦の名の下で空爆を開始、イギリスも参加。北部同盟も地上における攻撃を開始。これよりアフガニスタン紛争 (2001年-)が開始される。11月13日、北部同盟は、無血入城でカーブルを奪還した。年末にターリバーン政権崩壊。11月22日、パキスタン政府、ターリバーンとの断交を決定し、駐イスラマバードアフガニスタン大使館を閉鎖した。11月27日、空爆が続くなか、国連は新政権樹立に向けた会議をドイツのボン郊外で開催した。会議には北部同盟、国王支持派のローマ・グループ、キプロス・グループ、そしてペシャーワルからのグループが参加した[注釈 4]。11月29日、行政府に相当する暫定行政機構の設立案について合意した。12月5日、暫定行政機構人事で各派間の確執があったが、国連の調整で、議長にパシュトゥーン人のハーミド・カルザイを据え、暫定政権協定の調印が実現した(ボン合意)。アフガニスタン主要4勢力、暫定政権発足とその後の和平プロセスで合意。国際連合安全保障理事会決議1386にもとづき国際治安支援部隊(ISAF)創設、カーブルの治安維持にあたる。また国際連合安全保障理事会決議1401により、国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)がスタート。アフガニスタン暫定行政機構が成立し、ハーミド・カルザイが議長となる。
暫定政権樹立と新共和国成立
2001年12月22日、カーブルで暫定政権発足の記念式典が挙行された。約3,000人が出席し、ラバニ大統領からカルザイ暫定行政機構議長に政権が委譲される形で執り行われ、カルザイが暫定政権の首相となった。カルザイは国民に平和と法をもたらすことを誓い、言論と信教の自由、女性の権利の尊重、教育の復興、テロとの戦いなど13項目の施政方針を発表した。暫定政権の閣僚は29名[注釈 5]で構成され、うち北部同盟が19ポスト[注釈 6]、元国王支持派が8ポスト[注釈 7]、ペシャワル派が2ポスト[注釈 8]占めた。
2002年1月21日、東京でアフガニスタン復興支援会議が開催された。約60各国と22の国際機関の代表が出席した。これに先立ちNGO59団体による会議も開かれた。日本は2年で5億ドル、アメリカは1年で2億9,600万ドル、サウジアラビアは3年で2億2,000万ドル、欧州連合は1年で5億ドル、ドイツは5年で3億5,000万ドル、イギリスは5年で3億7,200万ドルの拠出を決定し、世界銀行とアジア開発銀行はそれぞれ2年半で5億ドルの拠出を決定した。また周辺各国は、イランが1年で1億2,000ドル、パキスタンは5年で1億ドル、インドも1年で1億ドルの支援を発表した。各国の支援総額は30億ドルを超えた。さらに支援は、行政能力の向上や教育、保健衛生、インフラ、経済システム、農業および地方開発、地雷撤去などの作業を実施し、定期的に復興運営会議をカーブルで開催することなどを決定した。2月14日、アブドゥール・ラフマン航空観光大臣がカーブル国際空港で自国民に撲殺される。6月10日 - 6月19日、緊急ロヤ・ジルガ(国民大会議)が開催され[注釈 9]、1,500人以上の代表が参加した。6月13日、国家元首(大統領)を決める選挙が緊急ロヤ・ジルガで行われ、ハーミド・カルザイが圧倒的多数の票を獲得し当選した[18]。6月15日、今後2年間の国名を「アフガニスタン・イスラム暫定政府」に決定する。 6月19日、新暫定政府主要14閣僚と最高裁判所長官の名簿を公表。副大統領にファヒーム国防相・アブドゥッラー外相・アシュラフ・アリー財務相(カルザイ顧問兼任)らが兼任。ザーヒル・シャーの閉会宣言でロヤ・ジルガ閉会する。7月1日、米軍が南部ウルズガン州で誤爆。市民48人死亡、117人が負傷する。
新共和国成立以降
2004年1月、新憲法が発布された[19]。10月9日、第一回の大統領選挙が行われ、12月7日にハミード・カルザイが大統領に就任した[20]。同年3月、パキスタンでワジリスタン紛争が勃発した。
2005年9月、下院議員選挙や州議会選挙が行われ、国家統治機構の整備が完了した[19]。12月、国会が開会した[19]。
2006年、南部・南東部・東部を中心にターリバーンの攻撃が増加した[21]。7月、国際治安支援部隊(ISAF)が国内全土に展開した[22]。
2007年、前年に引き続きターリバーンの攻撃が増加した[23]。
2008年、治安が著しく悪化し、南部や東部だけでなく首都カブールの近隣でもターリバーンの攻撃が行われた[24]。8月にはアフガニスタン日本人拉致事件が起きた。
2009年8月、第二回の大統領選挙が実施された。カルザイが過半数の票を得るが、国連の調査で不正が発見される。2位のアブドラ前外相が決選投票をボイコットしたため、11月に行われた決選投票でカルザイの再選が決定した[25]。一方、ターリバーンは「比較的安定していた地域の不安定化を招き、市民の犠牲を顧みない、より洗練され、かつ複合的な攻撃を増加させて」おり、即席爆発装置(IED)による攻撃が急増した[26]。同年、アメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領は3回の増派を行った(1万7000人[27]、4000人[28]、1万3000人[29])。アメリカ合衆国の駐留軍の総数は6万8000人に達し[29]、その中から国際治安支援部隊(ISAF)に1万人以上が追加派遣された[26]。
第二回大統領選挙後
2010年1月、カルザイ政権の外務・内務・国防・財務の4主要閣僚が確定した[30]。同年、国際治安支援部隊(ISAF)は4万5000人以上が増員され、49か国・約13万人に達した[31]。国際治安支援部隊(ISAF)は積極的に作戦行動を行ったので、戦争は更に激しくなり国際治安支援部隊(ISAF)や民間人の死傷者が急増した[32][33]。6月、アメリカ合衆国の駐留軍司令官のスタンリー・マクリスタルが政権批判により解任された[34]。7月、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン政府への治安権限の移譲が始まった[35]。9月18日、第二回の下院議会選挙が実施された[36]。同年、カルザイ大統領がターリバーンとの和平を目指す高等和平評議会を発足させた[32]。2010年の経済成長率は22.5%に達した[31]。
2011年5月2日、アメリカ軍がパキスタンでビン=ラーディンを殺害した(ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害)[37]。同年、アメリカ合衆国の駐留軍は約10万人に達したが[38]、年内に1万人、2012年夏までに3万3000人の兵員を削減すると発表した[35]。
2012年7月、日本国政府は「アフガニスタンに関する東京会合」を開催し、アフガニスタン政府が統治を改善し開発戦略を自発的に実施する代わりに、国際社会がアフガニスタンに対して2015年まで160億ドルを超える支援を行うことを約束した。12月、依然として約10万人の国際治安支援部隊(ISAF)がアフガニスタンに展開していた[39]。一方、同年のアフガニスタンの腐敗認識指数は167か国中の最下位だった[40]。
2013年6月、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン政府への治安権限の移譲の対象が全国に拡大した[41]。
2014年4月、第三回の大統領選挙が実施され、9月29日にアシュラフ・ガニーがアフガニスタン第二代大統領に就任した。これはアフガニスタン史上初の民主的な政権交代だった[42]。大統領選挙の決選投票で敗れたアブドラ・アブドラ元外相も首相格の行政長官に就任し、ガニー大統領と政治権力を分け合う国家統一政府(NUG)が発足した。12月、国際治安支援部隊(ISAF)が終了した[42]。多国籍軍はアフガニスタン安全保障協定(BSA)やNATO・アフガニスタン地位協定(SOFA)によりアフガニスタンに残留するが確固たる支援任務に移行し、治安はアフガニスタン治安部隊(ANSF)が独力で維持することになった[42]。
第三回大統領選挙後
2015年1月、イスラム国が「ホラサン州」(ISIL-K)の設置を宣言し、アフガニスタンで活動を始めた[43]。7月、ターリバーンとアフガニスタン政府の和解協議が開催されたが、ターリバーンの指導者ムハンマド・オマルの死亡が公表され中断した[44]。国家統一政府は大統領選挙から1年が経過しても全閣僚を任命できず、国防相の就任を議会に否決され、国内の治安に責任を持てないでいた[44]。2015年9月28日、ターリバーンはアフガニスタン第5の都市クンドゥーズを一時的に占領した(クンドゥーズの戦い)。衝撃を受けたアメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領はアメリカ軍(9800人)の完全撤退を断念した[38]。また選挙制度改革の遅れにより予定されていた下院議員選挙は実施できず、GDP成長率も1.3%に鈍化した[44]。
2016年1月11日、パキスタン・アフガニスタン・中国・アメリカがターリバーンとの和平を目指す4か国調整グループ(QCG)を設立したが[45]、ターリバーンは和平交渉を拒否した[46]。国家統一政府ではガニー大統領とアブドラ行政長官との関係が悪化し、閣僚7人が弾劾された。9月、ヘクマティアル派との和解合意が成立した[47]。
2017年5月、カブールのドイツ大使館の近くで大規模テロが発生し、300人以上が死傷した[48]。8月、アメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領は「対アフガニスタン・南アジア戦略」を発表し[48]、状況の悪化を防ぐために増派(約4000人)を決定した[49]。10月、アフガニスタン政府の支配地域は407郡中231郡(57%)にすぎないことが判明した。政府とターリバーンは122郡(30%)の支配を争っており、ターリバーンが54郡(13%)を支配していることが分かった。ターリバーンの支配地域は2015年11月から2017年8月の間に倍増しており、紛争地域も1.4倍増加した。ウルズガーン州(7郡中5郡)やクンドゥーズ州(7郡中5郡)、ヘルマンド州(14郡中9郡)の大半はターリバーンに支配されていた[50]。11月、北大西洋条約機構(NATO)は確固たる支援任務(約1万3000人)に対して3000人の増派を決定した[51]。
2018年6月、ターリバーンとの間で史上初めての3日間の一時停戦が実現した[52]。8月、ターリバーンの猛攻によりガズニー州の州都が陥落寸前になった。10月、第三回の下院議員選挙が実施された。
2019年1月の時点で、ターリバーンがアフガニスタンの郡の12%を掌握・勢力圏内に入れている[53]。タリバンの勢力が拡大しつつあるという意見もある[54]。8月、アメリカ合衆国とターリバーンとの間で8回目の和平協議が行われた(アフガニスタン和平プロセス)。9月、第四回の大統領選挙が実施された。12月、中村哲 (医師)が殺害された。
2020年5月17日、昨年の大統領選挙で次点だったアブドラ・アブドラとアシュラフ・ガニー大統領で政治権力を分け合うことで合意文書に署名した[55]。
アメリカ合衆国がアフガニスタンからの撤兵をすすめる裏でターリバーンは主要都市を次々に制圧。2021年8月15日にはカーブルに迫り、全土を支配下に置いたと宣言した[56]。政権側もアブドゥル・サタール・ミルザクワル内務相代行が平和裏に権力の移行を進めると表明した[57]。
政治
アフガニスタンは共和制・大統領制を採用する立憲国家である。現行憲法は2004年1月16日に公布されたもの。そのほかにもクルアーンやシャリーアを法の源泉とする規定があり、アフガニスタンはイスラム国家の色彩が強い。
国家元首
国家元首である大統領は国民による直接選挙で選出され、任期は5年。3選禁止。大統領は強力な指導権を憲法により保障されている。副大統領職あり。ムスリム以外は大統領になることができない。
行政
行政府たる内閣は大統領が任命するが、議会の承認が必要。当初首相職は設置されていなかった[注釈 10]。しかし2014年のアフガニスタン大統領選挙において混乱が続いたため、首相格として行政長官が設けられた[59]。
腐敗問題
BBCやNHKの報道によると、カルザイ政権発足以降政府高官や公務員による汚職が急増している。アフガン政府の腐敗にアフガン国民が失望し、そのためアフガン国民は政府ではなくターリバーンを頼るようになり、ターリバーンが復活する一因となったという[60]。
立法
立法府は二院制の国民議会で、憲法により、国家の最高立法機関と規定されている。国民議会は下院に相当する人民議会(ウォレシ・ジルガ)と、上院に相当する長老議会(メシュラノ・ジルガ)で構成される。人民議会は249議席以下と規定され、議員は国民の直接選挙で選出される。任期は5年。長老議会は定数102議席で、5年任期議員(大統領の任命)、4年任期議員(各州議会の選出)、3年任期議員(各郡議会の選出)が3分の1ずつを占める。
国民議会とは別に、国家主権、安全保障、憲法改正、反乱の鎮圧、甚大な自然災害への対処など、国家の最重要事項に関しては、議会制度が成立する前からアフガニスタンに存在してきた伝統的な国家意思決定機関である国民大会議(ロヤ・ジルガ)が最高機関として機能する。非常設であり、国民議会議員、州議会議長、郡議会議長で構成される。閣僚と最高裁判所長官および最高裁判所裁判官はロヤ・ジルガに参加できるが、投票権はない。
憲法により複数政党制が認められているが、アメリカやそれに従属するカルザイ政権による制限があり、また政党政治が根付いていないアフガニスタンでは、政党の活動は低調である。それでも比較的有力なものとして、かつてアフマド・シャー・マスードが率い、現在はブルハーヌッディーン・ラッバーニー元大統領の指導するイスラム協会(タジク人中心。北部同盟)、アブドゥルラシード・ドーストム率いるウズベク人勢力のイスラム民族運動、ハザーラ人主体のイスラム統一党がある。また、これらの政党は政党連合統一国民戦線(単に国民戦線とも)を結成し、無党派のカルザイ政権に対する野党として活動している。アフガニスタンの主要民族であるパシュトゥーン人による旧政権ターリバーンやヘクマティヤール派(en:Hezb-e-Islami Gulbuddin)などの反政府活動も存在し、南部の一部を実効支配している。
- アフガニスタン人民民主党 - 社会主義政権時代の執権党。
- 北部同盟 - 旧ムジャーヒディーンによる反ターリバーン同盟。現在は統一国民戦線に移行。
司法
司法府の最高機関は最高裁判所で、その下に高等裁判所などが存在する。三審制。
人権問題
純然たるイスラム国家であったターリバーン政権が崩壊したあと、カルザイ政権下でアフガニスタンにおける世俗化は一定程度進んだとされる。しかし、現在でもアフガニスタンはイスラーム法およびその強い影響下にある世俗法に基づく統治が行われ、イスラム国家としての色彩が強い。
そのため、信条の自由などが聖職者の定義するところのイスラーム法に反するものとされ、シャリーアに基づく背教罪や冒涜罪によって罪となることがある。
欧州での生活中にキリスト教に改宗した男性が、これを理由に死刑を宣告された。これに対しては西側世界からの批判が起こり、最終的に死刑判決は撤回されたが、男性は亡命を余儀なくされた[61]。また、女性の権利について、「クルアーンを根拠に女性差別を擁護する人々は預言者ムハンマドの見解を歪曲している」という趣旨の文書を読み、問題提起をしようとした学生に対し、宗教法廷により「冒涜」として死刑が宣告された[62]。これに対しても西側世界は非難しているが、カルザイ政権も今回はムスリム保守層の国民から圧力を受け態度を硬化させており、上院では死刑判決を支持する決議が採択された。
飲酒などにおいてはイスラム教・非イスラム教を問わず、発覚した場合は鞭打ちに科せられることがある。最悪の場合は死刑が言い渡される場合もある。[要出典]
アフガニスタンの地方では部族の伝統が根強く、たとえば、姦通を犯した女性がその家族の手で処刑される、いわゆる「名誉殺人」も行われているという[63]。2014年2月には被告の家族一員の女性だけでなく、女性の弁護士、女医、女の子供など、女性に区分される人々が裁判の証人として出廷することも禁止する法改正が行われようとしていると報じられた[64][65]。
ターリバーン政権崩壊後に一度は廃止された勧善懲悪省(宗教警察)が、同政権時代と比較して幾分穏健化しているものの、巡礼・宗教問題省の名で復活している。
軍事
地理
もともとの国土はパキスタン北部まで広がっていたが、平野部はイギリスにより引きちぎられ、現在は山岳地帯が大部分を占めている。北部や南西部にはわずかに平野部がある[注釈 11]。もっとも標高の高い地点は、海抜7,485メートルのノシャック山である。国土の大半は乾燥しており、真水の入手できる場所は限られているが、水系は、アム・ダリア水系、ハリ・ルー水系、ヘルマンド・アルガンダ水系の四つに大別できる。ヒンドゥー・クシュの中心山系から国土を潤す三つの川が流れていて、一つは東流してインダス川に合流するカーブル川、もう一つは南流してハムーン沼沢地に消えるヘルマンド・アルカンダブ川、さらにもう一つは西流してカラクム砂漠に消えるハリ・ルード川(Hari Rud River)である。
気候は大陸性で、夏は暑く、冬は寒い。また地震が頻繁に発生している。年平均降水量は、国の南西部で75ミリ、マザーリシャリーフで213ミリ、東部のカズニーで213ミリ、サラング峠の上方で1,150ミリである[67]。主要都市は首都カーブルのほか、西部のヘラート、東部のジャラーラーバード、北部のマザーリシャリーフ、クンドゥーズ、南部のカンダハールなどである。
地域区分
アフガニスタンは34の州(velāyat)で構成されている。
- バダフシャーン州(Badakhshān)
- バードギース州(Badghīs)
- バグラーン州(Baghlān)
- バルフ州(Balkh)
- バーミヤーン州(Bāmiyān)
- ダーイクンディー州(Dāykondī)
- ファラー州(Farāh)
- ファーリヤーブ州(Fāryāb)
- ガズニー州(Ghaznī)
- ゴール州(Ghowr)
- ヘルマンド州(Helmand)
- ヘラート州(Herāt)
- ジョウズジャーン州(Jowzjān)
- カーブル州(Kābul)
- カンダハール州(Kandahār)
- カーピーサー州(Kāpīsā)
- ホースト州(Khowst)
- クナル州(Konar)
- クンドゥーズ州(Kondoz)
- ラグマーン州(Laghmān)
- ローガル州(Lowgar)
- ナンガルハール州(Nangarhār)
- ニームルーズ州(Nīmrūz)
- ヌーリスターン州(Nūrestān)
- ウルーズガーン州(Orūzgān)
- パクティヤー州(Paktiyā)
- パクティーカー州(Paktīkā)
- パンジシール州(Panjshīr)
- パルヴァーン州(Parvān)
- サマンガーン州(Samangān)
- サーレポル州(Sār-e Pol)
- タハール州(Takhār)
- ヴァルダク州(Vardak)
- ザーブル州(Zābol)
経済
後発開発途上国のひとつで、農業と牧畜への依存度が高い。1973年の王政崩壊以降の断続的な紛争による社会・政治的な混乱、インフラの破壊、慢性的な旱魃により経済は壊滅状態となっている。また同じ理由から、大半の国民に充分な食料、衣料、住居、医療が提供できない状態が続いている。2004年10月のユニセフの報告によると、幼児の死亡原因の多くは非衛生的な水の飲料使用による慢性的な下痢であるとされ、死亡率は25.7%と高く、国内の医療・衛生状態はきわめて悪い。
国家予算の約7割を国際支援に依存している。国民の3分の2は1日2ドル以下で生活しており、IMFの統計によると、2013年時点のアフガニスタンのGDPは207億ドルである。1人あたりのGDPでは679ドルとなるが、この数値は世界平均の10%未満であり、アジアの中でもっとも低い[2]。失業率も高く、ネパール、レソトなどと同じように40%を超える。
2002年1月に東京で開催された「復興支援国会議」で支援計画が提出され、世界銀行の監督下に45億ドルの資金が集められた。復興の主要対象は、教育、医療、下水施設、行政機関、農業、道路、エネルギー、通信と多岐に渡っている。
原油
2012年10月22日、中国石油天然気集団がアムダリヤ川流域の鉱区で、本格的な原油生産を初めて開始した[68]。
ガス
同国での天然ガス生産はないが、トルクメニスタン南部の巨大ガス田から同国とパキスタンを経由してインド西部へ通じるTAPIガスパイプラインが2015年に建設着手された。同国に通過料が落ちるほか、一定量のガス輸入が見込まれる。
鉱業
古くからアフガニスタンには世界最大規模の各種金属、希少金属、貴金属、宝石を含有する豊富な鉱脈が数多く存在することが知られており、インフラの整備や権益の開発が進めば資源企業に莫大な富をもたらすと考えられている。
もっとも歴史のあるのは紀元前から採掘が続いた青色の宝石ラピスラズリである。首都カーブルの東南東190キロ、ヒンドゥークシュ山脈山中のサリ・サング鉱山(Sar-i Sang)[69]が主力。産出量は数トン程度。そのほか、北東部のコクチャ川の渓谷に位置するサリ・サング近郊の鉱床、アフガニスタンとパキスタンの国境沿い、クエッタの西のチャガイ山からも産出する。
有機鉱物資源では北部の天然ガス(4,300兆ジュール、2003年)が主力で、石炭(3万5,000トン)も採掘されている。金属鉱物資源ではクロム(6,364トン)がある。このほか岩塩(1万3,000トン)も採取されている。
アイナック銅鉱山(Aynak Copper)は1970年代初めに発見され、1978年に旧ソ連が中央鉱区と西部鉱区の地質探査を終えている。総資源量は鉱石量7億500万トン、平均銅品位1.56%、銅含有金属量1,100万トンの超大型の銅鉱床である。そのほかには、カーブルの南のローガル渓谷、ヘラートのやや南西のいくつかの地点、カンダハルの北のアルガンダー川沿い、パンジシール渓谷のアンダラーブ近郊に銅鉱床が存在している。
金はカンダハールの北東のムクル近郊、バタフシャーンのいくつかの川で発見されている。鉄鉱石の大規模な鉱床はカーブルの西のハージガク峠の近くで見られる[70]。
麻薬
アフガニスタンは「黄金の三日月地帯」に属し、はじめ古代よりメソポタミア文明以来[71]、旱魃地域では医薬品の抗がん剤やモルヒネ(鎮痛剤)「植物性アルカロイド」、麻薬のアヘンやヘロインなどの原料となるケシの栽培が伝統的に盛んで、ヘロインの全世界流通量の90%以上をアフガン産が占めるなど世界一の麻薬密造国である。また、国内の麻薬依存者の数も深刻であり、2005年から2010年にかけての依存者数は最大150万人にも達するとされる。政府は麻薬対策省を設け撲滅にあたっているものの、予算や人員の不足、麻薬に代わる産業の育成などの問題もあり、いまだに解決を見ていない。
国際連合薬物犯罪事務所の年次報告書によれば、2018年現在もアフガニスタン南部のタリバーン支配地を中心に推定26万30,00ヘクタールの面積でケシの栽培が行われている[72]。
2013年頃からは、ケシの栽培に使用する地下水の汲み上げにソーラーパネルによる太陽光発電と電力式ポンプが使われ始め、現在も普及が進んでいる。これらは中長期的に見た際、軽油で可動させるポンプより安価で利益を増やしやすいため、ケシ農業新規参入者と生産量の増加要因になると共に、この分野の低炭素化が進んでいる[73]。
交通
交通インフラストラクチャーも度重なる戦乱により破壊され、またはメインテナンスが行われていなかったために現在も復興が行われている。なお、多くの先進諸国でみられるような高速道路網はないものの、主要都市間は舗装された幹線道路によって結ばれており、長距離バスによる移動が行われている。
かつては国際列車カイバル鉄道(カブール〜パキスタン国ペシャワール間)があったが、戦乱で荒廃し不通となっている。現在、アフガン公共事業庁の監督のもと、ウズベキスタン国境の貨物駅Hayratanからマザーリシャリーフまでの鉄道建設が進んでおり、2011年8月20 - 21日に開業した[74]。また、首都カブールには1992年当時トロリーバスが存在したが[75]、現在は存在しない。
なお、諸外国との交通は上記の長距離バスによって行われているほか、カーブル国際空港をハブとした国営航空会社のアリアナ・アフガン航空や、そのほかに乗り入れる外国航空会社の定期便で結ばれている。
国民
民族
主要民族 (2003年推計)
- パシュトゥーン人 45%、言語:パシュトー語(イラン語群)、宗教:ハナフィー派スンニー
- タジク人 32%、言語:ダリー語、タジク語(イラン語群)、宗教:ハナフィー派スンニー、イスマイール派シーア(北部の若干)
- ハザーラ人 12%、言語:ハザラギ語(イラン語群、ダリー方言)、宗教:イマーム派シーア、イスマイール派シーア、スンニー(極少数)
- ウズベク人 9%、言語:ウズベク語(テュルク諸語)、宗教:ハナフィー派スンニー
- トルクメン人、言語:トルクメン語(テュルク諸語)、宗教:ハナフィー派スンニー
そのほかにアイマーク人、ヌーリスターン人、バローチ人、パシャイー人など(言語と宗教は前田(2002)p.14より)。
言語
公用語
地方言語
その他
宗教
その他には、シーク教徒、ヒンドゥー教徒、キリスト教徒が存在する[76]。
イスラム教から他宗教への改宗には死刑が適用されたが、2006年、ドイツでキリスト教に改宗した人の死刑判決に対し国際的非難を浴びたことでこの法律は撤廃され、現在は布教活動も許されるようになった。2006年8月、ターリバーンは韓国人のキリスト教宣教師を拉致監禁し、キリスト教の宣教活動をやめるよう要求した事件があった。
教育
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文化
食文化
国民の99%がイスラム教であり、アルコール類の取り扱いが禁じられている。
小麦で練ったナーンやビリヤニなどが有名。飲料としてはチャイがよく飲まれる。
かつては飲酒文化が栄えてたという。
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スポーツ
クリケットがもっとも人気のあるスポーツである[77]。2018年にトゥエンティ20方式のクリケットリーグであるアフガニスタン・プレミアリーグが開始された。またサッカー人気も高い。
世界遺産
アフガニスタンには多くの貴重な遺跡が残っており、以下の2つがユネスコの世界遺産に登録されている。
-
ジャームのミナレットと考古遺跡群(2002年)
-
バーミヤーン渓谷の文化的景観と古代遺跡群(2003年)
バーミヤーン渓谷には大仏と多くの壁画が残されていたが、紛争により破壊され続け、殊に2体の大仏は破壊されつつ持ちこたえ立ち続けていたが、2001年にターリバーンによって完全に破壊された。
音楽
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関連作品
- 映画
- モフセン・マフマルバフ 『サイクリスト』『カンダハール』『アフガン・アルファベット』
- サミラ・マフマルバフ 『午後の五時』
- ハナ・マフマルバフ 『ハナのアフガンノート』『子供の情景』
- セディク・バルマク 『アフガン零年』
- マーク・フォースター 『君のためなら千回でも』
- ティモー・ベクマムベトフ 『エスケープ・フロム・アフガン』
- マイク・ニコルズ 『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』
- ピーター・マクドナルド『ランボー3/怒りのアフガン』
- ジョン・フランケンハイマー『ホースメン』
- 評論
- 小説
- 『きみのためなら千回でも』 カーレド・ホッセイニ
- 『カブールの燕たち』ヤスミナ・カドラ
- ボードゲーム
- Joseph Miranda【Holy war, Afghanistan】,Strategy & Tactics No.147,Decision Games
- ※1978年に始まったソビエトの軍事介入に対する聖戦。
- Joseph Miranda【Asia Crossroads】,Strategy & Tactics No.216,Decision Games
- ※19世紀のロシア、ペルシャ、中国、アフガニスタン周辺でのイギリスとロシアの覇権争い。
- Joseph Miranda【Operation Aaconda】,Strategy & Tactics No.276,Decision Games
- ※2002年に実施された多国籍軍のアナコンダ作戦。
- Brian Train, Volko Ruhnke【A distant plain】, ,GMT games
- ※同社の非正規戦マルチプレイヤーズゲームCOINシリーズ第3作、1990年代以降の現代紛争。
- Joseph Miranda【The sun never sets II】,Strategy & Tactics No.274,Decision Games
- ※イギリスの植民地戦争のクワドリゲームで、その一つが1878年からの第二次アフガン戦争。
- Joseph Miranda【Khyber rifles】, ,Decision Games
- ※1842年にアフガンが大英帝国に勝利した戦い(第一次アフガン戦争の末期)。
- Joseph Miranda【First Afghan war】,Strategy & Tactics No.179,Decision Games
- ※タイトルの通り第一次アフガン戦争(1838-42)の全体を描いた戦役級ゲーム。
- Joseph Miranda【Invasion Afghanistan】,Modern War No.26,Decision Games
- ※タイトルの通りソビエトのアフガン侵攻(18793894全体を描いたソロプレイゲーム。
- ビデオゲーム
- メダル・オブ・オナー (2010年のゲーム) - 2010年10月12日発売予定のFPS。舞台が911後のアフガニスタン。
- メタルギアソリッドV - 2015年9月2日発売のゲーム。舞台が1984年のアフガニスタン。
- 漫画
脚注
注釈
- ^ アフガニスタンの南部における金石併用時代と青銅器時代の遺跡の内で最も知られており、重要な遺跡である。遺跡はカンダハルの北西約35キロメートル、アルガンダーブ川の支流であるクシュキ・ナフド・ルード川沿いにある。1951年、フランス人考古学者によって発見された。この遺跡は北方の山岳地帯と南方のカンダハル平原を結ぶルートの重要な位置にある。カンダハル・オアシスは北方の山岳地帯と南方の砂漠地帯の境界に位置している。このオアシスでは、北東と東から、様々な川が流れ込んでいるため、豊富な水が供給される。そのためこのカンダハル・オアシスは最も重要地域の一つになっており、遺跡はこのオアシスの周辺集落の内でも最も古いものである[12]。
- ^ アレクサンドリア・アレイア(ヘラート)、アレクサンドリア・アラコシア(カンダハル)、アレクサンドリア・カズニー(カズニー)、アレクサンドリア・カビサ(カビサ・ベクラム)、アレクサンドリア・オクシアナ(アイ・ハヌム)、アレクサンドリア・バクトラ(バルフ)など、アレクサンドロスが自分の名を付けた町は多い
- ^ 「北部同盟」という名称は俗称であり、正式には、「アフガニスタン救国統一戦線」である[14]。
- ^ キプロス・グループはイラン、ペシャーワル・グループはパキスタンの影響下にあり、この二つのグループの参加により、アフガニスタンにとって重要な隣国であるイランとパキスタンが事実上、ボン会合に参加することになったという[16]。
- ^ タジク人12名・パシュトゥン人9名・ハザーラ人5名、ウズベク人4名
- ^ 外相・内相・国防相・法相・通信相・運輸相・都市開発相・高等教育相などの主要ポスト、外相のアブドゥッラーや内相のカヌニはラバニ派からの横滑り、国防相もマスードの後継者ファヒーム、都市開発相はジャララバードの市長カディルが就任
- ^ 観光相・情報文科相・復興相・財務相・教育相・女性問題担当相など
- ^ 保健相・灌漑相
- ^ ロヤ・ジルガはもともとパシュトゥ語で、「ロヤ」は「大きい」、「ジルガ」は「会合」を意味する。部族にかかわる問題が生じると、その解決のために集まるのが「ジルガ」であり、ジルガの中で最大のものが「ロヤ・ジルガ」であるという[17]。
- ^ 憲法制定ロヤ・ジルガにおいて少数民族は権力の集中を避け、権力バランスを図るため、大統領に加えて首相を設けることを主張したが、実現しなかった[58]。
- ^ 国土の四分の三がヒンドゥー・クシュ(インド人殺し)と呼ばれる高山とその支脈に覆われている。国を南西に1920キロメートルも縦貫している。この山脈は北東部が最も高く、南西に行くほど低くなっている[66]。
出典
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参考文献
- 渡辺光一『アフガニスタン/戦乱の現代史』岩波書店(新書・新赤版828)2003年(ISBN 4-00-430828-3)
- 前田耕作・山根聡『アフガニスタン史』河出書房新社、2002年(ISBN 4-309-22392-3)
- マーティン・ユアンズ『アフガニスタンの歴史』(柳沢圭子ほか訳)明石書店、2002年(ISBN 4-750-31610-5)
- ヴィレム・フォーヘルサング著、前田耕作・山内和也監訳、愛甲恵子・前田龍彦・村山和之訳『アフガニスタンの歴史と文化』明石書店、2005年(ISBN 978-4-7503-2070-0)
関連項目
関連項目が多すぎます。 |
1978年以降
- 復興関連
- アフガニスタン日本人拉致事件
- ボン合意
- 国連アフガニスタン支援ミッション
- 国際治安支援部隊
- アフガニスタン復興支援国際会議(02年に東京で開催)
- アフガニスタンに関する国際会議(04年3月31日にベルリンで開催)
- その他
外部リンク
- 政府
- 日本政府
- その他
- JCCME - アフガニスタン
- 『アフガニスタン』 - コトバンク
- ウィキボヤージュには、アフガニスタンに関する旅行情報があります。
- ウィキボヤージュには、アフガニスタンに関する旅行情報があります。