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「ミホノブルボン」の版間の差分

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'''ミホノブルボン'''(欧字名:{{Lang|en|Mihono Bourbon}}、[[1989年]][[4月25日]] - [[2017年]][[2月22日]])は、日本の[[競走馬]]、[[種牡馬]]<ref name="jbis"/>。
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1992年の[[皐月賞]]、[[東京優駿]](日本ダービー)を無敗で優勝。無敗で[[菊花賞]]までたどり着いたが、[[ライスシャワー]]に敗れて[[中央競馬クラシック三冠]]を逃し、[[二冠馬]]にとどまった。[[1991年]][[JRA賞最優秀2歳牡馬|JRA賞最優秀3歳牡馬]]、1992年[[JRA賞#歴代年度代表馬|JRA賞年度代表馬]]および[[JRA賞最優秀3歳牡馬|最優秀4歳牡馬]]である。
馬名の由来は、「ミホノ=冠名」にフランス語の「ブルボン=16世紀末からフランスに栄えたブルボン王朝」をつなげたものである。欧語表記は「Mihono Bourbon」である。


当時最新の施設であった[[坂路]]での調教によって鍛え上げられた分厚いトモ腰から臀部にかけての筋肉を持ち、機械の如く正確なペースで[[脚質#逃げ|逃げ]]を打つことから、「'''坂路の申し子'''」「'''サイボーグ'''」「'''栗毛の超特急'''」など数々の異名で呼ばれた。
最新の施設であった[[坂路]]での調教によって鍛え上げられた分厚いトモ<ref group="注釈">腰から臀部にかけての筋肉</ref>を持ち、機械の如く正確なペースで[[脚質#逃げ|逃げ]]を打つことから、「'''坂路の申し子'''」「'''サイボーグ'''」「'''栗毛の超特急'''」などと形容された。


== デビューまで ==
(以下、デビュー前および競走馬時代の[[馬齢]]は旧表記([[数え年]])とする)


== 出自 ==
=== 誕生までの経緯 ===
1968年に北海道藤原牧場で生産された牝馬のハイフレームは、10戦1勝で競走馬を引退し藤正牧場<ref group="注釈">「とうしょうぼくじょう」と読む。</ref>で[[繁殖牝馬]]となった<ref>{{Cite web |title=ハイフレーム |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000024471/ |website=JBISサーチ |accessdate=2021-06-04}}</ref>。[[ダンディルート]]を配合し1977年に産まれた牡馬のトウショウハイネスは[[鶴留明雄]]厩舎に所属し中央競馬で5勝、[[高知競馬場|高知競馬]]で20勝を挙げる活躍で[[種牡馬]]となった<ref>{{Cite web |title=トウシヨウハイネス |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000100254/ |website=JBISサーチ |accessdate=2021-06-04}}</ref>。13歳となったハイフレームは原田圭二に見初められ、北海道門別町にて家族経営の原田良牧場に譲渡された。母体にダンディルートの仔を宿した状態であったが、トウショウ牧場{{#tag:ref|藤正牧場をカタカナ(トウショウ)に変更した。|group="注釈"}}に産まれた仔を返すという契約であった<ref>『優駿』1992年3月号 9頁</ref>。(詳細は後述。)
ミホノブルボンは1989年4月25日カツミエコーの初仔として北海道門別町の原口牧場で誕生した。ミホノブルボンの父[[マグニテュード]]は、それまで[[桜花賞]]馬[[エルプス]]を送り出していたものの、生産界では[[ミルジョージ]]の[[種牡馬#代替種牡馬|代替種牡馬]]というポジションであった。また、母父シャレーも、[[1970年代]]後半から[[1980年代]]前半にかけて人気種牡馬であった[[ダンディルート]](産駒に[[ビゼンニシキ]]など)の代替種牡馬であった。さらに、母カツミエコーが[[地方競馬]]([[南関東公営競馬|南関東公営]])の下級条件(1勝)馬で、さらに初仔ということもあり、生まれた当初のミホノブルボンの評価は非常に低く、わずか700万円(資料によっては750万円とするものもある)という低額で取引された。


圭二の父、原田良はトウショウハイネスの活躍を見て、自力で再びダンディルートとの配合を検討していた。しかし、ダンディルートの種付け料は、家族経営の牧場では賄えないほど高く設定されて実現することができなかった。代わりに、ダンディルートと同じ父[[リュティエ]]のシャレーが配合された<ref name="優駿1992-2-146149">『優駿』1992年2月号、146-149頁</ref>。
取引された時点では低評価であり、後年はハードトレーニングをこなした馬としてクローズアップされてはいるが、父マグニテュードは血統だけは超一流と言って良い馬であり<ref>父[[ミルリーフ|Mill Reef]]は[[ダービーステークス|エプソムダービー]]・[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス|キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]]・[[凱旋門賞]]を同一年に制覇し、史上初のヨーロッパ3大競走制覇([[三冠 (競馬)#ヨーロッパ三冠|欧州三冠]])をした名馬中の名馬であり、母[[アルテッスロワイヤル|Altesse Royale]]も[[1000ギニー|英1000ギニー]]・[[オークス|英オークス]]・[[アイリッシュオークス|愛オークス]]を制した名牝である。</ref>、母系も曾祖母が名牝[[スターロツチ]]の妹と、ある程度は強調できる水準の血統背景も持ち合わせていた。


1983年5月18日に産まれたシャレーの牝馬は後に、カツミエコーと名付けられて[[南関東公営競馬|南関東競馬]]で12戦1勝の成績を残し、生まれ故郷の原田良牧場で繁殖牝馬となった。[[ミルリーフ]]の仔である種牡馬が多く活躍しており、圭二{{#tag:ref|良にとって3番目の子で姉が二人、長男であった。|group="注釈"}}は、その中でも[[イナリワン]]などを産んだ[[ミルジョージ]]を初年度の配合相手として検討していた<ref name="優駿1992-2-146149" /><ref name="優駿1992-8-9">『優駿』1992年8月号、9頁</ref>。しかし牧場では、1回100万円を越える種付け料を賄うことができないために断念。代わりに同じミルリーフの仔の種牡馬で、2年間で50万円という安価な種付け料に設定された[[マグニテュード]]が選ばれた<ref name="優駿1992-2-146149" />。
== 戦績 ==
=== 3歳時代 ===
1991年[[6月6日]]、[[栗東トレーニングセンター]]の[[戸山為夫]]厩舎に入厩し調教を積み始めた。そして[[9月7日]]、ミホノブルボンは[[中京競馬場]]の[[新馬|新馬戦]](芝1000m)でデビュー、坂路調教で古馬顔負けのタイムを連発した(当時、古馬でも坂路500mを31秒台で走ればいいタイムと言われていたが、ミホノブルボンはデビュー前にして29秒9という驚異的なタイムを記録していた)こともあり圧倒的な1番人気(単勝1.4倍、2番人気ダイタクガイアは6.3倍)に支持された。レースではスタートで1000mという距離では致命的ともいえる出遅れをしながらも、最後方から直線一気の末脚([[上がり (競馬)|上がり]]3ハロン33.1)で差しきり、58.1秒の3歳コースレコード(当時)で優勝した。なおデビューから引退まで調教師[[戸山為夫]]の弟子である[[小島貞博]]が手綱をとった。2ヶ月後[[11月23日]]の[[東京競馬場]]の500万下条件戦(芝1600m)は2番手から抜け出し2着に6馬身をつけて勝利する。


高井克敏は、この配合の父マグニテュードを「一流に手が届くかどうかの種牡馬」、母の父シャレーを「三流と呼んでも一向に構わない種牡馬」と表していた<ref>『優駿』1992年3月号 10-11頁</ref>。
同年[[12月8日]]、この年から3歳牡馬チャンピオン決定戦としてリニューアルされた第43回[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]]に出走。鞍上がやや抑え、2番手から早めに先頭に立ち、直線強襲してきた[[ヤマニンミラクル]]をハナ差抑えて優勝し、単勝1.5倍の1番人気に応え、騎手の小島貞博とともにGl初勝利を飾った。ミホノブルボンは3戦3勝の成績で3歳を終え、同年のJRA賞最優秀3歳牡馬に選出された。


=== 4歳時代 ===
=== 幼駒時代 ===
1989年4月25日、良が引退し圭二が引き継いで名を改めた、原口圭二牧場でカツミエコーの初仔となる牡馬(後のミホノブルボン)が誕生<ref name="jbis" />。出産の際には、腰幅が広く引っ掛かってしまうほどであった<ref name="優駿1991-1-1011" />。牧場では一人ぼっちでいることが多くおとなしい気性であり、馬体も目立つものではなかった<ref name="優駿2013-3-75">『優駿』2013年3月号、75頁</ref>。
翌1992年、ミホノブルボンは[[シンザン記念]]から始動する予定であったが[[1月8日]]、坂路調教中に左腰を捻挫したためこれを回避。4ヶ月の休養を挟んで[[3月29日]]第41回[[スプリングステークス]]に出走した。ここでは朝日杯での辛勝ぶりと血統<ref>父マグニテュードの血統は特に短距離血統ではなかったが、代表産駒が主にマイル以下の距離で活躍した[[エルプス]]等だったことから短距離血統のイメージが拭えなかったと[[須田鷹雄]]が「20世紀の名勝負100」で語っている。</ref>から距離限界説が持ち上がり、戸山調教師からも「納得のいかないレースをするようなら皐月賞をきっぱりあきらめ短距離路線を進む」との発言もあった。[[スプリングステークス]]では、[[ノーザンテースト]]産駒の大物と言われた[[武豊]]騎乗の[[ノーザンコンダクト]]が1番人気となった。ミホノブルボンは生涯唯一の2番人気となったが、レースではミホノブルボンは重馬場の中を単騎先頭に立ち、2着に7馬身差をつけて優勝した。なお、この競走では長距離で活躍することとなる[[ライスシャワー]]が4着、短距離で活躍することとなる[[サクラバクシンオー]]が12着と、それぞれ異なる距離で活躍する馬が3頭出揃った唯一のレースとなった。


産まれた原田牧場は、1951年に農業とともに[[アラブ種]]の競走馬生産を始め、次第に[[サラブレッド]]生産に取り組んでいた<ref name="優駿1992-8-9" />。牧場の人脈に乏しく、ほとんどの生産馬が地方競馬に登録されており、中央競馬への登録はそれまでに5頭ほどであった。そのため、圭二の当面の目標は中央競馬への生産馬の登録、加えて未勝利戦を勝利することであった<ref name="優駿1992-6-132133">『優駿』1992年6月号 132-133頁</ref>。750万円で取引されて美浦商事が所有することとなり、「'''ミホノブルボン'''」と命名された<ref name="優駿1992-6-132133" />。
同年[[4月19日]]第52回[[皐月賞]]もハナを切り、良馬場発表とはいえ午後から降り始めた雨の影響で馬場が渋る中、前半1000mを59.8というペースを刻み、終始セーフティリードをキープ、直線に入るとさらに末脚を伸ばし後続を突き放した。[[ナリタタイセイ]]が直線追い上げたものの最後は鞍上が追うことをやめ、2着に2馬身1/2差をつけて逃げ切り、ミホノブルボンは5戦全勝のままクラシックを制覇した。また鞍上の小島にとってデビュー22年目40歳にしてこれが[[クラシック (競馬)|クラシック]]初制覇となった。


[[栗東トレーニングセンター]]の[[戸山為夫]]調教師は、坂路を用いたスパルタ調教で実績を残していた<ref name="優駿2013-3-75" />。戸山は初仔の方が調教に耐えうる丈夫な体質になりやすいという持論から、初仔の幼駒獲得に集中していた<ref name="優駿2013-3-75" />。小柄になりやすいとされる初仔、同じくその傾向にあるマグニテュードの仔だったが、傾向に反して大柄であったことを戸山に気に入られた<ref name="優駿2013-3-75" />。さらにトウショウハイネスに注目していた過去も手伝って、当歳の頃に戸山厩舎の所属が決定、中央競馬でデビューすることが決定した<ref name="優駿2013-3-75" />。すぐに戸山は圭二に飼料に[[アルファルファ]]を用いることや、与える[[カルシウム]]の品種などを指定した<ref name="優駿2013-3-75" /><ref name="優駿1992-3-1213">『優駿』1992年3月号 12-13頁</ref>。2歳10月から、三石軽種馬共同育成センターに移動して育成が施された後、1991年4月に栗東トレーニングセンターの戸山厩舎に入厩した<ref name="優駿2013-3-75" />。
[[5月31日]]の[[第59回東京優駿|第59回東京優駿(日本ダービー)]]、父マグニテュードの産駒の多くが短距離馬であったことからミホノブルボンの距離限界説がささやかれ、15番という外枠からの発走であったが前日の雨で稍重ということもあり1番人気に支持された。レースではスタートから先頭に立ち、他馬に影をも踏ませることなく2着のライスシャワーに4馬身差をつけて圧勝し、前年の[[トウカイテイオー]]に続きデビューから6戦6勝の無敗で牡馬クラシック二冠を制した。このレースの場内実況を担当した[[日経ラジオ社|ラジオたんぱ]]の[[白川次郎]]アナウンサーは「'''これは強い!!とてつもない強さ!!'''」と実況した。
{{Main2|レースに関する詳細|第59回東京優駿}}


入厩直後から戸山により坂路調教が課され、他の厩舎が登坂3回で終えるところ、4回を消化した<ref name="優駿1992-3-1213" />。負担の大きい調教をこなしたのは食事量の多さにある<ref name="優駿1992-3-1213" />。[[厩務員]]と[[調教助手]]を兼ねていた<ref group="注釈">「持ち乗り」と呼ばれる。</ref>安永司によれば、食事中に人が近寄ることを嫌っていた<ref name="優駿1992-3-1213" />。安永自身も食事中のミホノブルボンに接近することは恐怖だったという<ref name="優駿1992-3-1213" />。
同年[[6月11日]]北海道早来町の吉田牧場に放牧に出され夏を越し、[[9月9日]]に栗東に帰厩。そして[[10月18日]][[菊花賞]][[トライアル競走|トライアル]]の第40回[[京都新聞杯]]に出走し、2分12秒0の日本レコード(当時)で逃げ切り勝利、重賞5勝目を飾った。


== 競走馬時代 ==
同年[[11月8日]]、本番の第53回菊花賞では、日本ダービーよりも600m長い3000mという距離に距離限界説が再燃したが、その一方で[[シンボリルドルフ]]以来となる無敗の[[三冠 (競馬)|三冠馬]]誕生も期待され、ここでも圧倒的1番人気(単勝1.5倍、2番人気ライスシャワーは7.3倍)に支持されていた。レースでは事前に逃げ宣言をしていた[[キョウエイボーガン]]が先頭に立ち、ミホノブルボンは2番手を追走する形となった。ミホノブルボンは最終第4コーナーで先頭に立つが、残り100mのところでライスシャワーにかわされ、さらに内から伸びてきた[[マチカネタンホイザ]]にもかわされかけた。ミホノブルボンはマチカネタンホイザは差し返したものの、結局1馬身1/2差でライスシャワーの2着に敗れた。しかしながらミホノブルボンの走破タイム、3分05秒2は従来のレコードタイムを更新するものであった。
当時の朝日杯3歳ステークス、そして現在の名称の朝日杯フューチュリティステークスを勝ってからの無敗の三冠馬は2018年現在も誕生していない為、もし菊花賞を勝っていれば史上初の快挙となっていた(その後[[ナリタブライアン]]が朝日杯3歳ステークスを勝ってから三冠馬になったが、新馬戦、[[函館2歳ステークス|函館3歳ステークス]]等計3回負けている)。


=== 3歳(1991年) ===
その後はこの年から国際Glに格付けされた第12回[[ジャパンカップ]]を目指し調整されていたが、[[11月24日]]、脚部不安を発症しジャパンカップ出走を断念。[[12月3日]]には[[有馬記念]]を回避することを正式に決定した。菊花賞後は一度もレースに出走していないが活躍が認められ、1992年JRA賞[[JRA賞#歴代年度代表馬|年度代表馬]]およびJRA賞最優秀4歳牡馬(旧称。現在のJRA賞最優秀3歳牡馬)に選ばれた。翌年も復帰を目指したが[[1月27日]]に右後脚脛骨骨膜炎を発症していることが明らかになり更なる長期休養を余儀なくされる。[[2月4日]]に早来の吉田牧場に放牧に出され療養していたが、[[4月7日]]、右後脚第3中足骨を骨折してしまった。[[5月29日]]管理していた戸山調教師の死去に伴い鶴留厩舎に転厩、さらに[[9月21日]]に松元茂樹厩舎に転厩した。[[10月13日]]には[[福島県]][[いわき市]]の[[競走馬総合研究所|競走馬総合研究所常磐支所]]に移動し懸命に復帰を目指したが結局かなわず、[[1994年]][[1月19日]]に現役引退を正式に発表、同年[[2月6日]]に東京競馬場で小島貞博騎手を背にダービー優勝時のゼッケン「15」をつけて引退式を行い競走生活にピリオドを打った。

==== デビュー2連勝 ====
[[ファイル:Sadahiro-Kojima20120115.jpg|サムネイル|[[小島貞博]]]]
1991年8月に安永が騎乗して坂路での追い切り<ref group="注釈" name="追い切り">レース出走直前の調教のこと。</ref>を実施。オープンクラスの[[古馬]]が500メートル30秒台で駆けるところ、3歳で29.9秒{{#tag:ref|一部29.8秒と伝えられているものもある。|group="注釈"}}を記録し{{#tag:ref|坂路500メートルのレコードは、1992年6月時点で[[センリョウヤクシャ]]、[[ヌエボトウショウ]]が記録した「29.6秒」。ミホノブルボンは、デビュー前にそれに迫るタイムで駆けていた。なお1987年に坂路は、570メートルに延長されている。|group="注釈"}}、調教スタンドの戸山は興奮して声を張り上げるほどであった<ref name="優駿2013-3-76">『優駿』2013年3月号 76頁</ref>。[[9月7日]]、[[中京競馬場]]の[[新馬|新馬戦]](芝1000メートル)に[[小島貞博]]が騎乗してデビュー。先の調教内容から単勝オッズ1.4倍の1番人気に推されていた<ref name="優駿2013-3-76" />。出走する他の馬が[[発馬機|ゲート]]入りを拒み、ゲートの中で長時間待ったことで良いスタートを切れなかった。さらに両隣から挟まれるなど先行できず、第3コーナーは13頭立て10番手で通過した<ref name="優駿2013-3-76" />。直線コースでは進路を外に選択して追い上げ、残り50メートルで先頭となり後方に1馬身4分の1差を広げて入線。走破タイム58.1秒は3歳コースレコードを更新する勝利であった。上がり3ハロンはメンバー中最速の33.1秒を記録。これはメンバー中2位のホーマンチカラが34.7秒、同3位のホウエイセイコーが34.9秒と1.6秒以上も上回っていた<ref name="優駿2013-3-76" />。

直後にソエのため、連戦することができなかった。2か月後の11月23日、東京競馬場の500万円以下(芝1600メートル)で復帰。2番手から残り400メートルで先頭となり、後方に6馬身離して入線、2連勝とした<ref name="優駿2013-3-76" />。

==== 朝日杯3歳ステークス ====
[[ファイル:Owner Mihono International.svg|サムネイル|ミホノブルボンの[[勝負服_(競馬)|勝負服]](桃、黄銭形散、桃袖)]]
前年までの3歳馬の{{GI}}競走は、関東の[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]]に対して、関西の[[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神3歳ステークス]]があり、それぞれ東西の3歳チャンピオンを決定する舞台であった。しかし、この年より阪神3歳ステークスが阪神3歳牝馬ステークスと名を改め牝馬限定戦となり、3歳牝馬チャンピオンを決定する舞台となった<ref name="優駿1991-1-1011">『優駿』1991年1月号、10-11頁</ref>。対して朝日杯3歳ステークスは、東西の3歳牡馬<ref group="注釈">なお、[[騸馬]]も出走可能。牝馬は出走不可。</ref>のチャンピオンを決定する{{GI}}競走に生まれ変わった<ref name="優駿1991-1-1011" />。12月8日の朝日杯3歳ステークスでは、1.5倍の1番人気に推された。8頭立ての中、[[京王杯2歳ステークス|京成杯3歳ステークス]]({{GII}})優勝の[[ヤマニンミラクル]]、[[東京スポーツ杯2歳ステークス|府中3歳ステークス]](OP)優勝の[[マチカネタンホイザ]]がオッズ4倍台で続き、オッズ一桁台の3頭はすべて関西馬であった<ref name="優駿1992-2-146149" />。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=WJkrw3z6RNQ 1991年 朝日杯3歳ステークス<br />レース映像 jraofficial(JRA公式YouTubeチャンネル)による動画]}}スタートからマイネルアーサーが逃げたが、ミホノブルボンが並び2頭が先頭となった<ref name="優駿1992-2-146149" />。短い間隔で出走するミホノブルボンは走る気が勝ってしまい、小島は折り合いをつけるのに苦労していた<ref name="優駿1992-2-146149" />。最終コーナーまでそのまま2頭が先頭で進み、直線に入るとマイネルアーサーが後退し、ミホノブルボンが先頭となった<ref name="優駿1992-2-146149" />。後方外からヤマニンミラクルが追い上げて並びかけ、そのまま2頭並んだまま、決勝線を通過した。ミホノブルボンがハナ差先着<ref>『優駿』1992年2月号、32頁</ref>。3連勝で{{GI}}優勝となった。小島は平地競走{{GI}}初勝利<ref group="注釈">{{GI}}級競走としては[[障害競走]]、1982年の[[中山大障害#中山大障害(春)|中山大障害(春)]]、[[中山大障害|中山大障害(秋)]](ともに騎乗馬:[[キングスポイント]])の2勝を挙げていた。</ref>であり、戸山にとってもグレード制導入後初の{{GI}}優勝となった<ref name="優駿1992-2-146149" /><ref name="優駿2013-3-77" />。小島は「瞬発力が抜群。これからがとても楽しみな馬<ref name="優駿1992-2-146149" />」と発言。しかし距離については「2000メートルがぎりぎり<ref name="優駿1992-2-146149" />」とし、戸山も[[皐月賞]]に向けて「現状では不安が先立つ<ref name="優駿1992-2-146149" />」と考えていた。序盤から走る気を抑え、ハナ差の決着を招いた小島の騎乗に対し、戸山は走る気のままにさせていれば楽勝と考えていた。そのため、戸山は小島に対し、顔を赤らめるなど激怒した<ref name="優駿2013-3-77">『優駿』2013年3月号 77頁</ref>。小島は、これを機にミホノブルボンの走る気を抑えることなく、逃がす競馬をするようになった<ref name="優駿2013-3-77" />。

年末のJRA賞選定では、全176票中、ミホノブルボンが174票{{#tag:ref|残り2票は[[ノーザンコンダクト]](4戦3勝、[[ホープフルステークス_(中央競馬)|ラジオたんぱ杯3歳ステークス]]({{GIII}})優勝)だった。|group="注釈"}}を集めて、[[JRA賞最優秀2歳牡馬|JRA賞最優秀3歳牡馬]]を獲得した<ref name="1991年JRA賞">『優駿』1992年2月号、7-8頁</ref>。[[美浦トレーニングセンター]]と栗東トレーニングセンターの[[ハンデキャッパー]]が競走馬の実力を数値化する「フリーハンデ」では、3歳馬関西部門首位の「56」が与えられ{{#tag:ref|3歳馬では、同じ「56」に牝馬の[[ニシノフラワー]]、「55」に朝日杯3歳ステークス2着のヤマニンミラクルが続いた。さらに関東部門首位は「53」で朝日杯3歳ステークス3着のエーピージェットであった。|group="注釈"}}、[[テンポイント]]と[[サッカーボーイ]]、[[リンドシェーバー]]と並ぶ評価となった{{#tag:ref|直近の評価では、1989年アイネスフウジン、1990年ビッグファイトは「55」が与えられていた。|group="注釈"}}<ref>『優駿』1992年2月号、14-15頁</ref>。

==== 3歳時の評価 ====
この頃の戸山は、ミホノブルボンを短距離を得意とする「スプリンター」と考えていた<ref name="優駿1992-3-1213" />。さらなるスピードを追求し、調教と調教の間に十分な休息を設け、いかに速いタイムで走れるかを重視した<ref name="優駿1992-3-1213" />。戸山はこう言い表している。{{Quotation|速さというのは、間違いなく才能なんです。それもミホノブルボンは、デビュー前に坂路で30秒を切った。これはかなりのものですよ。ただしこの馬はデビュー戦の後でソエに苦しんだように、骨が決して丈夫とはいえないし、行く気が先走って体力やスタミナもそんなにある方じゃない。<br/>極端な言い方をすれば、ただ速いだけの馬なんです。だったらない物ねだりをするよりも、いいところを伸ばしてやった方が馬のためにはずっといいんですよ。幸い日本の競馬は馬場も含めて、スプリンター向きですからね。いくらスタミナが足りない馬でも、ある程度の距離まではこなすことができるんですよ。|戸山為夫<ref name="優駿1992-3-1213" />}}

戸山の調教により、馬体は大きく変化していった。朝日杯3歳ステークス当日、1年2か月ぶりにミホノブルボンと対面した原田圭二は、胴の伸長や、顔つき、目つきの変化を認めるほどだった<ref name="優駿1992-3-1213" />。

=== 4歳(1992年) ===

==== スプリングステークス ====
[[シンザン記念]]({{GIII}})から始動する予定であったが、1月8日の坂路調教中に左腰を捻挫したため回避<ref name="優駿1992-4-25">『優駿』1992年4月号 25頁</ref>。[[皐月賞]]の[[トライアル競走]]である[[スプリングステークス]]と菜の花ステークス{{#tag:ref|3月28日の[[中山競馬場]]芝1200メートル。4歳限定の[[オープン競走]]。|group="注釈"}}の二択から、[[3月29日]]のスプリングステークス({{GII}})に出走した<ref name="優駿1992-4-25" />。前回から200メートル距離が伸び、1800メートルに挑戦することとなった。勝ちにこだわる戸山は、ここでよい走りを見せなかった場合、皐月賞出走を諦め、短距離路線へ転向すると宣言<ref name="優駿1992-5-158">『優駿』1992年5月号 158頁</ref>。また「デビュー以来最高の状態」に仕上げたと話した<ref name="優駿1992-6-132133" />。世代唯一の{{GI}}優勝馬に加えて無敗にもかかわらず、長い距離への適性が疑われて2番人気に甘んじた。代わって1番人気に推されたのは、既に2000メートルの重賞を優勝し距離に不安のない[[ノーザンコンダクト]]であった<ref name="優駿2013-3-77" />。

小島は、朝日杯3歳ステークス後の戸山の指示を守りハナを奪って逃げを打った。重馬場としては速いペース<ref group="注釈">馬場状態が悪化している時の芝コースは、通過タイムが遅くなる傾向にある。</ref>でレースは進み、2番手のサクラバクシンオーが失速するなど、先行する馬に不利な状況にあった<ref name="優駿2013-3-77" />。しかし、有利となる後方の馬がミホノブルボンに迫ることができず、最後の直線では差を広げる一方となった。後方に7馬身離して決勝線を通過、4連勝を果たした。小島は「精神的にも肉体的にも大人になった」と証言<ref name="優駿1992-5-158" />。戸山も「満足できる勝ち方」とし、皐月賞出走を決断した。この勝利に、[[サンケイスポーツ]]の[[石田敏徳]]は「'''栗毛の超特急'''」と言い表している<ref name="優駿1992-5-158" />。

==== 皐月賞 ====
{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=XE_LfiGnmCs 1992年 皐月賞<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}4月19日の[[皐月賞]]({{GI}})に出走、戸山は「最高」と表した前走以上の状態であるとしていた。距離に対する不安が解消されたのか、単勝オッズ1.4倍の1番人気という支持であった<ref name="優駿1992-6-1011">『優駿』1992年6月号 10-11頁</ref>。スタート後最初の3歩{{#tag:ref|馬の歩幅は「完歩」と表され、一歩は7メートルから8メートルとされる。|group="注釈"}}で先頭を奪い、馬なり<ref group="注釈">騎手が促すわけでもなく、馬自身で走る様子。</ref>の状態で逃げた。第1コーナーで外に張り出したが、抑えることに成功した。第2コーナーでは、小島が落ち着かせるために1歩、2歩踏み出すのに合わせて口笛を吹いていた<ref name="優駿1992-6-3839">『優駿』1992年6月号 38-39頁</ref>。前半の1000メートルを59秒8で通過するという速いペースとなり、ミホノブルボンにとって不利な状況となっていた<ref name="優駿1992-6-132133" />。第3コーナーから最終コーナーにかけて後方が追い上げリードは縮まったが、並びかけるほどではなかった<ref name="優駿1992-6-1011" />。小島は位置取りに自信がなく、最終コーナーで3回後ろを振り返り後続の位置を確認していた。直線では追い上げる後続が失速し、そのまま後方に2馬身半離して決勝線を通過。逃げ切り勝利を果たした。

入線後、クールダウンを1周して退場する際に「小島コール」が発生、小島はそれに応えて右手でガッツポーズを披露した<ref name="優駿1992-6-3839" />。クラシック競走初勝利となり、[[富士重工業]]より[[アルシオーネSVX]]が贈呈された<ref>『優駿』1992年6月号 13頁</ref>。レース後のインタビューでは「僕を男にしてくれたミホノブルボンにお礼を言いたい」と答えると同時に、騎手デビュー22年目40歳にして初めてうれし涙を流した<ref name="優駿1992-6-3839" />。

==== 東京優駿 ====
{{Main|第59回東京優駿}}
[[5月31日]]の[[東京優駿]](日本ダービー)({{GI}})出走を目指した。さらに400メートルの距離延長に対応するために、戸山はついに登坂5回を課したが、余りにも消耗が激しく結局登坂4回で調整された。しかし5月15日の調教後に右前脚[[橈骨]]に骨膜炎の兆候が表れ、患部を癒すために2日間プールでの調教に切り替えられた<ref name="優駿1992-7-2021">『優駿』1992年7月号 20-21頁</ref>。[[ルーチン]]の坂路調教を実施せず、5月18日のメディアは「ミホノブルボンの体調不安説」を展開したが、翌19日には坂路調教に復帰。本番が近づくにつれて、登坂4回をこなすなど良化して参戦することとなった<ref name="優駿1992-7-2021" />。

出走する18頭は、皐月賞のメンバーに[[青葉賞]]、[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]勝ち馬と5頭の900万円以下の馬を加えた構成で、ミホノブルボンを脅かすパフォーマンスを見せた馬はおらず、大勢はミホノブルボン有利の状況とされていた<ref name="優駿1992-7-2021" />。月刊誌『[[優駿]]』が展開した著名人61人の「ダービー・アンケート」では、6割以上の38人がミホノブルボンの逃げ切り勝利を支持するほどであった{{#tag:ref|前年のトウカイテイオー優勝には、90パーセントの支持があった。|group="注釈"}}<ref>『優駿』1992年6月号 16-19頁</ref>。小島は逃げるために「内枠の偶数番」を希望していたが、ミホノブルボンは「外枠の奇数番」の7枠15番となり、それまで優勝馬の出ていない枠番からの発走となった<ref>『優駿』1992年7月号 16頁</ref>。単勝オッズ2.3倍の1番人気の評価を受けた。

{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=02ZevrMOwxE 1992年 東京優駿(日本ダービー)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}スタートから内枠の馬を制して先頭となり、第1コーナーで後方を2-3馬身離して逃げ、第2コーナーで独走状態となった<ref name="優駿1992-7-1011">『優駿』1992年7月号 10-11頁</ref>。1000メートルを61.2秒で通過し、第3コーナーから最終コーナーにかけて後続が追い上げてきた<ref name="優駿1992-7-1011" />。後続は直線に入って騎手により再度前進を促されていたが、追いつくことができなかった。坂でミホノブルボンが差を広げて独走し、後方に4馬身離して決勝線を通過<ref>『優駿』2013年3月号 78頁</ref>。デビューから6連勝となり、[[フレーモア]]や[[ガヴアナー|ガヴァナー]]、前年の[[トウカイテイオー]]などに続く史上8頭目<ref group="注釈">[[フレーモア]]、[[ガヴァナー]]、[[クリフジ]]、[[トキノミノル]]、[[コダマ (競走馬)|コダマ]]、[[シンボリルドルフ]]、[[トウカイテイオー]]に続く8頭目。</ref>となる無敗のダービー馬<ref name="優駿1992-7-154155">『優駿』1992年7月号 154-155頁</ref>、また前年のトウカイテイオーに続いて史上5頭目となる「'''無敗の[[二冠馬]]'''」が誕生した<ref name="優駿2013-3-80">『優駿』2013年3月号 80頁</ref>。

小島は、皐月賞の時よりもリラックスした状態で騎乗することができ、直線坂を登るまで「馬なり」だったと振り返っている<ref name="優駿1992-7-154155" />。また[[トヨタ自動車]]より[[トヨタ・セリカXX|セリカ]]が贈呈された<ref name="優駿1992-7-15">『優駿』1992年7月号 15頁</ref>。戸山は「ここまでは能力が違ったということでしょうね。これなら次(三冠目、菊花賞)を考えてみたい。ひと夏越して[[メジロマックイーン]]{{#tag:ref|夏の函館開催から頭角を現し、1990年の[[菊花賞]]を制した。|group="注釈"}}のようなステイヤーが出てきたら、どうなるかわかりませんけどね<ref name="優駿1992-7-154155" />」と話していた。なお2着には、単勝16番人気のライスシャワーが入り、[[馬番連勝|馬番連勝式]]「13 - 15」は2万9580円という配当となった<ref name="優駿1992-7-15" />。直後に、北海道早来町の吉田牧場に放牧に出され、夏休みに入った<ref name="優駿2013-3-80" />。

==== 京都新聞杯====
9月上旬、栗東トレーニングセンターに戻り、10月18日[[菊花賞]]の[[トライアル競走]]である[[京都新聞杯]]({{GII}})で再始動した。当日の京都競馬場には{{GII}}にもかかわらず開門前から行列を作るなど、7万人が来場した。単勝オッズ1.2倍の1番人気という支持を集め、続く7.1倍の2番人気にライスシャワー、8.9倍の3番人気に[[キョウエイボーガン]]と続いた。本馬場入場で落ち着きがないと感じた小島は、返し馬をいつもより加減させた<ref name="優駿1992-12-142143">『優駿』1992年12月号 142-143頁</ref>。

主に逃げで4連勝中だったキョウエイボーガンとの兼ね合いに注目が集まったが、スタートでキョウエイボーガンが出遅れてしまった。一方のミホノブルボンは、スタートから前に出て単独で逃げることができた<ref name="優駿1992-12-142143" />。先頭のまま向こう正面を過ぎ、第3コーナーの坂の下りからライスシャワーが迫って来たが、1馬身後方まで接近したのみで並びかけるものではなく、そのまま直線でも先頭を保ち続けた<ref name="優駿1992-12-142143" />。結局ライスシャワーに1馬身半離して逃げ切り勝利、勝ちタイムの2分12秒0は、芝2200メートルの中央競馬レコードを0.1秒更新するものであった<ref name="優駿1992-12-142143" />。小島は最終コーナーの手応えから勝利を確信していたが、ゴール手前では「正直なところ一杯一杯<ref name="優駿1992-12-142143" />」として、促してもそれ以上伸びなかったことを明かしていた<ref name="優駿1992-12-142143" />。

==== 菊花賞 ====
菊花賞出走に向けた11月4日の追い切り<ref name="追い切り" group="注釈" />では、登坂4回を実施。2本目に「29秒4」という栗東トレーニングセンターの坂路レコード{{#tag:ref|坂路500メートルのレコードは、1992年6月時点で[[センリョウヤクシャ]]、[[ヌエボトウショウ]]が記録した「29.6秒」。|group="注釈"}}を更新する動きを見せ、さらに4本目にも同じ「29秒4」で登坂した<ref name="優駿1992-12-13">『優駿』1992年12月号 13頁</ref>。戸山は「バチが当たるくらい順調<ref name="優駿1992-12-13" />」と状態を言い表していた。以降の2日間は主にプール調教を行った。この時集めた報道陣は40人と、プール調教施設に来た報道陣の数としては過去最高であった<ref>『優駿』1992年12月号 14頁</ref>。

前年の無敗の二冠馬トウカイテイオーが骨折で三冠目に到達できなかったこともあり、無事出走を果たしたミホノブルボンには、なおのこと三冠達成が期待された。かつて1800メートルのスプリングステークスでも距離を不安視されていたが、東京優駿よりもさらに距離が伸びる3000メートルに参戦することとなった。戸山は本質的に「スプリンター」であるという見方を崩しておらず、報道陣90人が集まった記者会見の場で「先生は(中略)スプリンターが3000メートルのレースに出走するというのは、どんな意味があるんですか?<ref name="優駿1992-12-13" />」という質問に、このように答えた。{{Quotation|確かに(ミホノ)ブルボンはかわいそうですね。(ミホノ)ブルボン自身は走りたくないに決まっています。菊花賞に出すのは競馬に携わる人間の勝手ですよ。天皇賞は来年でも出られるけれど、このチャンスは1回しかありませんからね。出す意味といったら、『人間の欲』しかないと思います。|戸山為夫<ref name="優駿1992-12-13" />}}{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=-K7aJZFBd14 1992年 菊花賞<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}

菊花賞当日の11月8日、京都競馬場には12万人が集まり<ref name="優駿1992-12-810" />、単勝オッズ1.5倍の1番人気という支持を集めた。戦前に逃げることを宣言した11番人気のキョウエイボーガンが積極的に動き、予告通り先頭に立った。逃げようとしたミホノブルボンだったが、キョウエイボーガンの逃げを認識した小島は、焦ることなく2番手の位置につけ、馬なりの状態であった<ref name="優駿2013-3-80" />。スプリングステークス以降はすべて逃げ切り勝ちであり、前に逃げ馬がいる状況は、かかってしまい僅差で勝利した朝日杯3歳ステークス以来のことだった。そのため、無理に逃げるキョウエイボーガンを追い抜こうとする姿も見られてしまい、小島がそれを抑えた<ref name="優駿2013-3-80" />。キョウエイボーガンが変わらず逃げ、最初の1000メートル通過は59.7秒という「菊花賞史上、稀にハイペース<ref name="優駿1992-12-810">『優駿』1992年12月号 8-10頁</ref>」([[優駿]])となり、馬群は縦長となった<ref name="優駿1992-12-810" /><ref name="優駿2013-3-80" />。

第3コーナーから最終コーナーの中間で失速するキョウエイボーガンをかわして先頭に立つものの<ref name="優駿1992-12-810" />、残り100メートルで外から追い上げるライスシャワーにかわされ、差し返す余力もなく1馬身4分の1離されての2着となった<ref name="優駿1992-12-810" />。デビュー以来初の敗戦を喫し、三冠達成とはならなかった。

=== クラシック以後 ===

==== 故障、復帰することなく引退 ====
[[ジャパンカップ]]({{GI}})の追い切り直前に、右後肢跛行が確認されて出走を断念。続いて目標に据えた有馬記念も回避を表明した。二冠達成が評価されて、1992年[[JRA賞年度代表馬]]および[[JRA賞最優秀3歳牡馬|JRA賞最優秀4歳牡馬]]を獲得した。

5歳となっても復帰を目指していたが、[[1月27日]]に右後脚脛骨骨膜炎を発症。[[2月4日]]に吉田牧場に放牧に出されたが、[[4月7日]]に今度は、右後脚第3中足骨を骨折。[[5月29日]]、管理していた戸山の死去に伴い鶴留厩舎に一時転厩したが、戸山厩舎の後継者である[[森秀行]]調教師が受け入れ拒否したため、安永とともに9月に松元茂樹厩舎に転厩した。[[10月13日]]には[[福島県]][[いわき市]]の馬用の温泉施設がある[[競走馬総合研究所|競走馬総合研究所常磐支所]]に移動して療養された。

しかし、[[1994年]][[1月19日]]に現役引退を正式に発表。[[2月6日]]に東京競馬場にて、小島を背に東京優駿(日本ダービー)優勝時のゼッケン「15」をつけて引退式を行った。

== 種牡馬時代 ==
1994年、[[日高軽種馬農業協同組合]]で[[種牡馬]]生活に入った。[[地方競馬]]では重賞勝ち馬を出したが、[[日本中央競馬会|JRA]]重賞の勝ち馬を出すことはできなかった。日高軽種馬農業協同組合を退いた後は、生まれ故郷である[[日高町 (北海道)|日高町]]のファニーフレンズファーム<ref group="注釈">原田圭二牧場から改称</ref>で繋養された<ref name=":0">『優駿』2013年4月号 155頁</ref>。圭二は、自身の繁殖牝馬を中心に4,5頭の種付けを実施した<ref>{{Cite web2 |url=http://uma-furusato.com/column/detail/_id_33533 |title=あの馬は今Vol.23~皐月賞・ミホノブルボン |website=競走馬のふるさと案内所 |date=2007-05-02 |accessdate=2021-06-05}}</ref>。2012年11月1日付で用途変更となり、種牡馬を引退。その後は圭二の義理の息子が経営するスマイルファームで余生を送った<ref name=":0" />。

[[1996年]]にはJRAの[[コマーシャルメッセージ]]に出演し、その背中に女優の[[鶴田真由]]が跨った。[[2000年]]、[[日本中央競馬会]]が実施した「[[Dream Horses 2000|20世紀の名馬大投票]]」で7474票を集め第17位となった。[[2004年]][[6月13日]]にはJRA50周年記念キャンペーン([[JRAゴールデンジュビリーキャンペーン]])の一環として中京競馬場で「ミホノブルボンメモリアル」という名称の競走が行われた<ref group="注釈">[[エリモハリアー]]が勝利。</ref>。[[2010年]][[8月8日]]には、[[函館競馬場]]のパドックにて展示周回した。

[[2017年]][[2月21日]]朝より寝たきりの状態となり、[[2月22日|22日]]午後6時過ぎ、老衰のため死亡した<ref>{{Cite news2 |title=「坂路の申し子」ミホノブルボン死す 老衰、28歳 |newspaper=日刊スポーツ |date=2017-02-24 |url=http://p.nikkansports.com/goku-uma/news/article.zpl?topic_id=1&year=2017&month=02&day=24&id=1783294 |accessdate=2017-02-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170224143750/http://p.nikkansports.com/goku-uma/news/article.zpl?topic_id=1&year=2017&month=02&day=24&id=1783294 |archivedate=2017-02-24}}</ref>。


== 競走成績 ==
== 競走成績 ==
以下の内容は、[[netkeiba.com]]<ref>{{Cite web2 |title=ミホノブルボンの競走成績 |url=https://db.netkeiba.com/horse/1989103049/ |website=netkeiba.com |accessdate=2021-06-05}}</ref>の情報に基づく。
{|style="border-collapse:collapse; font-size:90%; text-align:center; white-space:nowrap"
{| style="border-collapse:collapse; font-size:90%; text-align:center; white-space:nowrap"
!競走日!!競馬場!!競走名!!格!!距離(馬場)!!頭<br />数!!枠<br />番!!馬<br />番!!オッズ<br />(人気)!!着順!!タイム<br />(上り3F)!!着差!!騎手!!斤量!!1着馬(2着馬)
!競走日!!競馬場!!競走名!!格!!距離(馬場)!!頭<br />数!!枠<br />番!!馬<br />番!!オッズ<br />(人気)!!着順!!タイム<br />(上り3F)!!着差!!騎手!!斤量<br />[kg]!!1着馬(2着馬)!!馬体重<br />[kg]
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|-
|[[1991年|1991.]][[9月7日|{{0}}9.{{0}}7]]
| [[1991年|1991.]][[9月7日|{{0}}9.{{0}}7]]
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| [[中京競馬場|中京]]
|[[新馬|3歳新馬]]
| [[新馬|3歳新馬]]
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|-
|{{0|0000.}}[[12月8日|12.{{0}}8]]
| {{0|0000.}}[[12月8日|12.{{0}}8]]
|[[中山競馬場|中山]]
| [[中山競馬場|中山]]
|[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳S]]
| [[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳S]]
|{{color|darkred|GI}}
| {{GI}}
|芝1600m(良)
| 芝1600m(良)
|8
| 8
|4
| 4
|4
| 4
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| {{0}}1:34.5(35.4)
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|小島貞博
| {{0}}小島貞博
| 54
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|(ヤマニンミラクル)
| (ヤマニンミラクル)
| 496
|-
|-
|[[1992年|1992.]][[3月29日|{{0}}3.29]]
| [[1992年|1992.]][[3月29日|{{0}}3.29]]
|中山
| 中山
|[[スプリングステークス|スプリングS]]
| [[スプリングステークス|スプリングS]]
|{{color|darkblue|GII}}
| {{GII}}
|芝1800m(重)
| 芝1800m(重)
|14
| 14
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| 1
|1
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|小島貞博
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| 56
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| (マーメイドタバン)
| 490
|-
|-
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|中山
| 中山
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| [[皐月賞]]
|{{color|darkred|GI}}
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|芝2000m(良)
| 芝2000m(良)
|17
| 17
|2
| 2
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| 4
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| {{0}}2:01.4(37.1)
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| 57
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| (ナリタタイセイ)
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|-
|-
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|東京
| 東京
|[[東京優駿]]
| [[東京優駿]]
|{{color|darkred|GI}}
| {{GI}}
|芝2400m(稍)
| 芝2400m(稍)
|18
| 18
|7
| 7
|15
| 15
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| {{0}}2.3(1人)
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
| {{color|darkred|1着}}
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| {{0}}2:27.8(37.1)
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|小島貞博
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| 57
|57kg
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| ([[ライスシャワー]])
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|-
|-
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|[[京都競馬場|京都]]
| [[京都競馬場|京都]]
|[[京都新聞杯]]
| [[京都新聞杯]]
|{{color|darkblue|GII}}
| {{GII}}
|芝2200m(良)
| 芝2200m(良)
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| 10
|8
| 8
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| 10
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| {{0}}1.2(1人)
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| {{color|darkred|1着}}
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| {{color|red|R2:12.0}}(35.9)
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|小島貞博
| {{0}}小島貞博
| 57
|57kg
|(ライスシャワー)
| (ライスシャワー)
| 508
|-
|-
|{{0|0000.}}[[11月8日|11.{{0}}8]]
| {{0|0000.}}[[11月8日|11.{{0}}8]]
|京都
| 京都
|[[菊花賞]]
| [[菊花賞]]
|{{color|darkred|GI}}
| {{GI}}
|芝3000m(良)
| 芝3000m(良)
|18
| 18
|4
| 4
|7
| 7
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| {{0}}1.5(1人)
|{{0}}{{color|darkblue|2着}}
| {{color|darkblue|2着}}
|{{0}}3:05.2(35.2)
| {{0}}3:05.2(35.2)
|{{0|-}}0.2
| {{0|-}}0.2
|小島貞博
| {{0}}小島貞博
| 57
|57kg
|ライスシャワー
| ライスシャワー
| 512
|}
|}


* タイム欄の{{Color|red|R}}はレコード勝ちを示す。
== 種牡馬時代以降 ==
1994年、[[日高軽種馬農業協同組合]]で[[種牡馬]]生活に入った。[[地方競馬]]では重賞勝ち馬を出したが、[[日本中央競馬会|JRA]]の重賞勝ち馬は出ていない。日高軽種馬農業協同組合を退厩後は、生まれ故郷である[[日高町 (北海道)|日高町]]のファニーフレンズファーム(旧:原口圭二牧場)で繋養された。同牧場代表で生産者である原口圭二がインタビューにおいて「今でも、現役の種牡馬ですよ。その方が馬も幸せでしょう。毎年、4・5頭は配合しているよ。自分でも配合しているし」というコメントをしており<ref>[http://uma-furusato.com/column/detail/_id_33533 馬産地コラム 名馬を訪ねて あの馬は今Vol.23〜皐月賞・ミホノブルボン](競走馬のふるさと案内所、2007年5月2日)</ref>、同牧場において種付けを行っていた。2012年11月1日付で用途変更となり種牡馬を引退。その後は原口の義理の息子が経営するスマイルファームで余生を送ることが決まった。


== 種牡馬成績 ==
[[1996年]]にはJRAのコマーシャルに出演し、その背中に女優の[[鶴田真由]]が跨った。[[2000年]]、[[日本中央競馬会]]が実施した「[[Dream Horses 2000|20世紀の名馬大投票]]」で7474票を集め第17位となった。[[2004年]][[6月13日]]にはJRA50周年記念キャンペーン([[JRAゴールデンジュビリーキャンペーン]])の一環として中京競馬場で「ミホノブルボンメモリアル」という名称の競走が行われた(勝ち馬は[[エリモハリアー]])。[[2007年]][[7月8日]]放送の『[[ドリーム競馬]]』内の特集で[[お笑い芸人]]の[[間寛平]]がミホノブルボンに跨る一幕があった。[[2010年]][[8月8日]]に[[函館競馬場]]でお披露目され、パドックを周回した。
=== 主な産駒 ===
* [[ミヤシロブルボン]]([[南部駒賞]]、東北サラブレッド3歳チャンピオン)<ref>{{Cite web2 |title=ミヤシロブルボン |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000298821/ |website=JBISサーチ |accessdate=2021-07-25}}</ref>
* ナムラライジン([[福島3歳ステークス]])<ref>{{Cite web2 |title=ナムラライジン |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000292792/ |website=JBISサーチ |accessdate=2021-07-25}}</ref>
* メモリーフォーラム([[北関東ダービー (競馬)|北関東ダービー]]、[[北関東皐月賞]])<ref>{{Cite web2 |title=メモリーフォーラム |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000329718/ |website=JBISサーチ |accessdate=2021-07-25}}</ref>
* メモリーブロンコ(北関東ダービー、[[北関東菊花賞]]、スプリンターズカップ、スプリンターズ賞、エメラルドカップ)<ref>{{Cite web2 |title=メモリーブロンコ |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000615154/ |website=JBISサーチ |accessdate=2021-07-25}}</ref>
* トップコーリング(牛若丸ジャンプステークス)<ref>{{Cite web2 |title=トップコーリング |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000612701/ |website=JBISサーチ |accessdate=2021-07-25}}</ref>
* シュイベモア(種牡馬)<ref>{{Cite web2 |title=シュイベモア |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000329682/ |website=JBISサーチ |accessdate=2021-07-25}}</ref>


== エピソード ==
[[2017年]][[2月21日]]朝より寝たきりの状態となり、[[2月22日|22日]]午後6時過ぎ、老衰のため死亡した。スマイルファーム代表の中村広樹は「ひと冬ごとに体がさみしくなっていった。ファンからいただく贈り物も多すぎるくらいで、本当に愛された馬だった」とその死を惜しんだ<ref>{{Cite news |title=「坂路の申し子」ミホノブルボン死す 老衰、28歳 |newspaper=日刊スポーツ |date=2017-02-24 |author= |url=http://p.nikkansports.com/goku-uma/news/article.zpl?topic_id=1&year=2017&month=02&day=24&id=1783294 |accessdate=2017-02-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170224143750/http://p.nikkansports.com/goku-uma/news/article.zpl?topic_id=1&year=2017&month=02&day=24&id=1783294 |archivedate=2017-02-24}}</ref>。


=== 主な産駒 ===
=== 種牡馬の「代用」 ===
ミホノブルボンは、原口良、圭二がダンディルートの代わりにシャレー、ミルジョージの代わりにマグニテュードと安い種付け料の種牡馬を配合したことで生み出された。それから約20年後、原口圭二牧場から名を改めたファニーフレンズファームでは、再び「[[種牡馬#代替種牡馬|代替種牡馬]]」[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]の全弟<ref group="注釈">ディープインパクトと同じ、父[[サンデーサイレンス]]、母[[ウインドインハーヘア]]の種牡馬。</ref>[[オンファイア]]を配合<ref>{{Cite web2 |title=今月の立ち読み 未来に語り継ぎたい名馬物語(30) |url=https://www.prcenter.jp/yushun/read/1712.php |website=優駿 Official web Site |accessdate=2021-06-13}}</ref>。2010年に生産された[[ウキヨノカゼ]]は、[[クイーンカップ]]({{GIII}})[[福島牝馬ステークス]]({{GIII}})など重賞3勝<ref>{{Cite web2 |title=ウキヨノカゼ |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001124735/ |website=JBISサーチ |accessdate=2021-06-13}}</ref>、前身の原口圭二牧場も含めた生産馬のJRA重賞勝利は、ミホノブルボンが勝利した京都新聞杯以来であった<ref>{{Cite web2 |title=ファニーフレンズファームの生産者成績(通算 重賞勝利レース) |url=https://db.netkeiba.com/?pid=breeder_select&id=013320&year=0000&mode=gw |website=netkeiba.com |accessdate=2021-06-13}}</ref><ref>{{Cite web2 |title=原口圭二の生産者成績(通算 重賞勝利レース) |url=https://db.netkeiba.com/?pid=breeder_select&id=030320&year=0000&mode=gw |website=netkeiba.com |accessdate=2021-06-13}}</ref>。
*[[ミヤシロブルボン]](南部駒賞・東北サラブレッド3歳チャンピオン)
*ナムラライジン(福島3歳ステークス)
*メモリーフォーラム([[北関東ダービー (競馬)|北関東ダービー]]・北関東皐月賞)
*メモリーブロンコ(北関東ダービー・北関東菊花賞・スプリンターズカップ・スプリンターズ賞・エメラルドカップ)
*トップコーリング(牛若丸ジャンプステークス)
*シュイベモア(種牡馬)


=== ハイフレーム ===
== 鍛えて作り上げた最強馬 ==
原口圭二は、長男であることから牧場の後継者とみなされていたが、当初は牧場を継ぐつもりはなかった<ref name="優駿1992-8-910">『優駿』1992年8月号 9-10頁</ref>。大学卒業後に、肉牛の研究と語学の勉強を目的にアメリカ留学したが、結局[[ワシントンD.C.|ワシントン]]のサラブレッドの生産牧場に身を置いた<ref name="優駿1992-8-910"/>。しかし帰国後に、[[オイルショック]]が直撃して就職先がなく、結局父のコネクションから藤正牧場に約1年間在籍することとなった。中でも初めての仕事は、デビュー前の[[トウショウボーイ]]を東京競馬場に輸送することだった<ref name="優駿1992-8-910"/>。
当時関係者の間では、ミホノブルボンは本質的に短距離馬であると言われており、調教師の戸山為夫自身も「本来はスピードのみに恵まれた天性のスプリンター」と述べていた。しかし戸山は「鍛えて強い馬を作る」という信念のもと、徹底的に鍛え上げることで距離の限界も克服できると考え<ref>主戦を務めていた小島貞博も常に周囲で囁かれていた距離不安説に悩み、戸山に相談する事がしばしばあった。しかし戸山は一貫して「スピードにものを言わせてハナを切れ(先頭に立てという意味)。バテたらそれまでの馬だという事」と答えていた。これは戸山が1ハロン(約200メートル)12秒という理想的なラップタイムを、いかなる距離でもミホノブルボンであれば確実に刻めると確信していたためだったという。</ref>、ミホノブルボンに入厩当初から1日4本もの坂路調教を課した<ref>優駿 1992年 3月号 12p</ref>(一旦は1日5本を課したがさすがのミホノブルボンでも体調を崩したため、4本に戻されたという)。また3歳時に坂路調教を1日4本こなしたのはミホノブルボンが初めてといわれている。


主に繁殖牝馬の世話を担当し、その中の1頭ハイフレームがいた。サクラスターオー、サクラユタカオーなど{{GI}}優勝馬を輩出している[[牝系]]、クレイグダーロッチ系に属する良血馬で、高額の繁殖牝馬であった<ref name="優駿1992-8-11">『優駿』1992年8月号 11頁</ref>。原口は、藤正牧場のハイフレームの様子をこう振り返っている。{{Quotation|あそこ(藤正牧場)へ入ってまず驚いたのは、まるっきり馬が違うということでしたね。ウチ(原口良牧場)で繋養していた馬と比べると、どんな馬でもひと回りは大きい。こりゃ敵わないなって思いましたよ。中でもハイフレームは惚れ惚れする馬体で、そのくせ、性格は猫のようにおとなしいんです。僕の目からすれば、理想の繁殖牝馬でした。|原田圭二<ref name="優駿1992-8-11" />}}圭二が牧場を継いだ2年後、前述のように条件付きで自らの牧場にハイフレームを迎えることができた。原口牧場の初年度、1981年の父ダンディルートの牝馬を産んだものの、放牧中の事故で死亡<ref name="優駿1992-8-12">『優駿』1992年8月号 12頁</ref><ref>{{Cite web2 |title=ハイフレームの1981 |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000499099/ |website=JBISサーチ |accessdate=2021-06-15}}</ref>。翌年の父[[グリーングラスグリーン]]の仔は、[[死産]]に終わった<ref name="優駿1992-8-12" /><ref name="ハイフレーム-JBIS" />。3年目にして父シャレーの牝馬(後のカツミエコー)を生産した。その後、4年目の父[[トウショウゲート]]の仔を産んだ直後に、ハイフレームは死亡した<ref name="優駿1992-8-12" />。結局、原口牧場では2頭しか産駒を残すことができず、そのうち牝馬はカツミエコー(後述)だけであった<ref name="ハイフレーム-JBIS">{{Cite web2 |title=繁殖牝馬情報:牝系情報|ハイフレーム |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000024471/broodmare/info/ |website=JBISサーチ |accessdate=2021-06-15}}</ref>。原口牧場では、同時期にハイフレーム以外にも死産、母馬の死亡が相次いだこともあり、圭二は何度も涙を流してしまった<ref name="優駿1992-8-12" />{{#tag:ref|圭二は「僕は人が死んでも泣かないけど、馬が死んだら涙が止まらないんです。」とも話している。|group="注釈"}}。
このハードトレーニングによって鍛えられたミホノブルボンは距離限界説を退けて2400mの日本ダービーで優勝、戸山の理論を体現する馬となった。その後戸山はミホノブルボンの故障が回復しない事を気にしながら、[[1993年]][[5月29日]]に病没した。くしくもこの日は栄光のダービー制覇から1年、第60回日本ダービーの前日であった。

=== カツミエコー ===
カツミエコーはミホノブルボンを産んだ後、2年連続で受胎に失敗した。小規模家族経営の原口牧場にとって、生産馬の減少は大きな損失であり、原口圭二は、手放すことを決意した<ref>『優駿』1992年8月号 13頁</ref>。父シャレーという血統に対する評価が低いことに加え、目立った競走成績でもなかったことから、繁殖牝馬として他所に売却することもできなかった<ref name="優駿1992-5-158" />。そのため、圭二は殺処分を計画していた<ref name="優駿1992-5-158" />。しかし圭二の妻が、牧場生産馬であることを理由に猛反対し、殺処分が1年間先送りになった<ref name="優駿1992-5-158" />。するとデビューしたミホノブルボンが、{{GI}}を勝利するなど活躍。殺処分を免れたカツミエコーは原口牧場で生産を続けた。

殺処分回避後にカツミエコーから産まれた唯一の牝馬、4番仔ダンシングエコーは、繁殖牝馬となった。カツミエコーから繋がって4代目、2017年生まれのアベニンドリーム(父:オンファイア)は、2020年の[[北海優駿]](H1)を優勝<ref name="アベニンドリーム-jbis">{{Cite web2 |title=アベニンドリーム |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001234572/ |website=JBISサーチ |accessdate=2021-06-13}}</ref>。他に2019年の[[北海道2歳優駿]]({{JpnIII}})や[[鎌倉記念]](SII)、[[王冠賞]](H2)で2着に入った<ref name="アベニンドリーム-jbis" />。(以下、ファミリーラインを参照。)

==== 産駒とファミリーライン ====
以下、ミホノブルボンの弟妹である。

{| class="wikitable" border="1" style="font-size: 90%"
!
!生年
!馬名
!性
!毛色
!生産
!父
!戦績
!出典
|-
|初仔
|1989年
|'''ミホノブルボン'''
|[[牡馬|牡]]
|栗毛
| rowspan="13" |原口圭二
|マグニテュード
|8戦7勝
|<ref name="jbis" />
|-
|
|1990年
| rowspan="2" |不受胎
|
|
|
|
| rowspan="2" |<ref name="カツミエコー-繁殖">{{Cite web2 |title=繁殖牝馬情報:牝系情報|カツミエコー |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000159583/broodmare/info/ |website=JBISサーチ |accessdate=2021-06-13}}</ref>
|-
|
|1991年
|
|
|
|
|-
|2番仔
|1992年
|血統登録されず
|牡
|
|セクレフアスター
|
|<ref>{{Cite web2 |title=カツミエコーの1992 |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000563228/ |website=JBISサーチ |accessdate=2021-06-13}}</ref>
|-
|3番仔
|1993年
|ミホノポタラ
|牡
|[[鹿毛]]
|マグニテュード
|未出走
|<ref>{{Cite web2 |title=ミホノポタラ |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000268206/ |website=JBISサーチ |accessdate=2021-06-13}}</ref>
|-
|4番仔
|1994年
|ロドリゴオーカン
|牡
|[[黒鹿毛]]
|[[ロドリゴデトリアーノ]]
|19戦2勝
|<ref>{{Cite web2 |title=ロドリゴオーカン |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000281629/ |website=JBISサーチ |accessdate=2021-06-13}}</ref>
|-
|5番仔
|1995年
|ダンシングエコー
|[[牝馬|牝]]
|黒鹿毛
|[[ダンシングブレーヴ]]
|未出走
|<ref>{{Cite web2 |title=ダンシングエコー |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000293596/ |website=JBISサーチ |accessdate=2021-06-13}}</ref>
|-
|
|1996年
|不受胎
|
|
| rowspan="2" |マグニテュード
|
| rowspan="2" |<ref name="カツミエコー-繁殖" />
|-
|
|1997年
|[[流産]]
|
|
|
|-
|6番仔
|1998年
|血統登録されず
|牡
|
|[[フォーティナイナー]]
|
|<ref name="カツミエコー-繁殖" />
|-
|7番仔
|1999年
|ローレルファイター
|牡
|黒鹿毛
| rowspan="2" |マグニテュード
|17戦0勝
|<ref>{{Cite web2 |title=ローレルファイター |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000614778/ |website=JBISサーチ |accessdate=2021-06-13}}</ref>
|-
|
|2000年
|不受胎
|
|
|
| rowspan="2" |<ref name="カツミエコー-繁殖" />
|-
|
|2001年
|
|
|
|[[コロニアルアッフェアー]]
|
|-
|}

{{tree list}}カツミエコー 1983 牝
** '''ミホノブルボン''' 1989 牡(種牡馬)
** ミホノポタラ 1993 牡
** ロドリゴオーカン 1994 牡
** ダンシングエコー 1995 牝(繁殖牝馬)
*** ダンシングバード 2000 牝(繁殖牝馬)
**** ジュンノヒーロー 2005 牡
**** ソラトブペンギン 2007 牡
**** アベニンプラナス 2008 牝(繁殖牝馬)
***** アベニンマルカート 2015 牝
***** アベニンローズ 2016 牝
***** '''アベニンドリーム''' 2017 牡(2019年'''[[北海優駿]]''')
***** アベニンバード 2012 牡
***** ショーマン 2013 牡
*** オオカゼ 2001 牡
*** ゴーグルシチー 2002 牡
*** デサイドシチー 2003 牡
*** ローレルスマッシュ 2004 牡
*** ラッシュオブラブ 2006 牝
*** ミュルザンヌ 2007 牝
*** アルカンシエル 2008 牝(繁殖牝馬)
**** シュクセサール 2017 牝
** ローレルファイター 1999 牡{{Tree list/end}}

* 情報は、2021年6月19日現在。


== 血統表 ==
== 血統表 ==
220行目: 456行目:
|fff = [[ネヴァーベンド|Never Bend]]
|fff = [[ネヴァーベンド|Never Bend]]
|ffm = Milan Mill
|ffm = Milan Mill
|fmf = *[[セントクレスピン]]
|fmf = * [[セントクレスピン]]
|fmm = Bleu Azur
|fmm = Bleu Azur
|mff = [[リュティエ|Luthier]]
|mff = [[リュティエ|Luthier]]
240行目: 476行目:
|mmff = [[シャモセール|Chamossaire]]
|mmff = [[シャモセール|Chamossaire]]
|mmfm = Lady Grand
|mmfm = Lady Grand
|mmmf = *[[ライジングフレーム]]
|mmmf = * [[ライジングフレーム]]
|mmmm = コロナ
|mmmm = コロナ
|ref1 = [http://www.jbis.or.jp/horse/0000220336/pedigree/ JBISサーチ ミホノブルボン 5代血統表]2016年7月6日閲覧。
|ref1 = <ref name="jbis-5代血統表">{{Cite web2 |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000220336/pedigree/ |title=ミホノブルボン 5代血統表 |website=JBISサーチ |accessdate=2016-07-06}}</ref>
|mlin = [[ミルリーフ系]]
|mlin = [[ミルリーフ系]]
|ref2 = [http://db.netkeiba.com/horse/ped/1989103049/ netkeiba.com ミホノブルボン 5代血統表]2016年7月6日閲覧。
|ref2 = <ref>{{Cite web2 |url=http://db.netkeiba.com/horse/ped/1989103049/ |title=ミホノブルボン 5代血統表 |website=netkeiba.com |accessdate=2016-07-06}}</ref>
|flin = クレイグダーロッチ系
|flin = クレイグダーロッチ系
|FN = [[11号族|11-c]]
|FN = [[11号族|11-c]]
|ref3 = <ref>『優駿』1992年12月号、日本中央競馬会、143頁</ref>[http://www.jbis.or.jp/horse/0000220336/pedigree/ JBISサーチ ミホノブルボン 5代血統表]2016年7月6日閲覧。
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*母の半兄トウショウハイネス(父ダンディルート)は中央競馬で5勝したほか高知で[[二十四万石賞]]などに勝ち、引退後は種牡馬となった。

== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[連対率100%の競走馬一覧]]
* [[連対率100%の競走馬一覧]]

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* 『[[優駿]]』([[日本中央競馬会]]、[[中央競馬ピーアール・センター]])
** 1991年1月号
***「平成3年度競馬番組 重賞競走の主な変更点」
**1992年2月号
*** 「1991年度JRA賞決定/1991年度フリーハンデ決定」
*** 「視界良好'92クラシック、ミホノブルボン」
*** [[橋本邦治]]「【今月の記録室】第43回朝日杯3歳ステークス({{GI}})」
** 1992年3月号
*** 高井克敏「【近づく'92クラシック開幕】朝日杯3歳ステークスの勝馬 ミホノブルボン」
** 1992年4月号
*** 「【皐月賞の有力馬&ジョッキー】ミホノブルボン&小島貞博」
** 1992年5月号
*** [[石田敏徳]]([[サンケイスポーツ]])「【今月の記録室】第41回フジテレビ賞スプリングステークス〈皐月賞トライアル〉({{GII}})」
** 1992年6月号
*** 「【第52回皐月賞詳報】ミホノブルボンは重戦車特急だ。」
*** 鶴木遵「ダービー・主役への22年 小島貞博」
*** 石田敏徳(サンケイスポーツ)「【今月の記録室】第52回皐月賞({{GI}})」
** 1992年7月号
*** [[黒鉄ヒロシ]]「【第59回日本ダービー観戦記】ダバ、ダービー、ダブ、ダベ、ダボ」
*** 鶴木遵「【ダービージョッキー&ダービートレーナー】これはファミリーの勝利です」
*** 西村一学([[夕刊フジ]])「【今月の記録室】第59回日本ダービー({{GI}})」
** 1992年8月号
*** 高井克敏「【'92春の{{GI}}競走勝ち馬の故郷】すべてが幸運、これは生涯一の祭り」
** 1992年11月号
*** 畠山直毅「【第53回菊花賞】ミホノブルボンは淀の3000メートルも逃げきれるか!?」
** 1992年12月号
*** 畠山直毅「1頭の栗毛馬をめぐる 栗東狂騒曲」
*** 濱野圭司([[京都放送]])KBS京都)「【今月の記録室】第40回京都新聞杯〈菊花賞トライアル〉({{GII}})」
** 2013年3月号
*** [[河村清明]]「【優駿激闘譜】ミホノブルボン 強固な信念が生みだした無敗の二冠馬」
** 2013年4月号
*** 田中哲実「【牧場探訪】スマイルファーム(旧ファニーフレンズファーム)」
** 2017年12月号
*** [[石田敏徳]]「[https://www.prcenter.jp/yushun/read/1712.php 【未来に語り継ぎたい名馬物語 30】鍛えて強くなった二冠馬 ミホノブルボンと坂路]」


== 外部リンク ==
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2021年7月28日 (水) 14:01時点における版

ミホノブルボン
ファイル:Mihono bourbon.jpg
京都新聞杯出走時(1992年10月18日)
欧字表記 Mihono Bourbon[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 栗毛[1]
生誕 (1989-04-25) 1989年4月25日[1]
死没 2017年2月22日(28歳没)
マグニテュード[1]
カツミエコー[1]
母の父 シャレー[1]
生国 日本の旗 日本北海道門別町[1]
生産者 原口圭二[1]
馬主)美浦商事[2]
→(有)ミホノインターナショナル[1]
調教師 戸山為夫[3]栗東
鶴留明雄(栗東)
松元茂樹[1](栗東)
調教助手 安永司[注釈 1]
厩務員 安永司[3]
競走成績
タイトル JRA賞年度代表馬[1]1992年
JRA賞最優秀3歳牡馬[1]1991年
JRA賞最優秀4歳牡馬[1](1992年)
生涯成績 8戦7勝[1]
獲得賞金 5億2596万9800円[1]
勝ち鞍
GI 皐月賞 1992年
GI 東京優駿 1992年
GI 朝日杯3歳ステークス 1991年
GII スプリングステークス 1992年
GII 京都新聞杯 1992年
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ミホノブルボン(欧字名:Mihono Bourbon1989年4月25日 - 2017年2月22日)は、日本の競走馬種牡馬[1]

1992年の皐月賞東京優駿(日本ダービー)を無敗で優勝。無敗で菊花賞までたどり着いたが、ライスシャワーに敗れて中央競馬クラシック三冠を逃し、二冠馬にとどまった。1991年JRA賞最優秀3歳牡馬、1992年JRA賞年度代表馬および最優秀4歳牡馬である。

最新の施設であった坂路での調教によって鍛え上げられた分厚いトモ[注釈 2]を持ち、機械の如く正確なペースで逃げを打つことから、「坂路の申し子」「サイボーグ」「栗毛の超特急」などと形容された。

デビューまで

誕生までの経緯

1968年に北海道藤原牧場で生産された牝馬のハイフレームは、10戦1勝で競走馬を引退し藤正牧場[注釈 3]繁殖牝馬となった[4]ダンディルートを配合し1977年に産まれた牡馬のトウショウハイネスは鶴留明雄厩舎に所属し中央競馬で5勝、高知競馬で20勝を挙げる活躍で種牡馬となった[5]。13歳となったハイフレームは原田圭二に見初められ、北海道門別町にて家族経営の原田良牧場に譲渡された。母体にダンディルートの仔を宿した状態であったが、トウショウ牧場[注釈 4]に産まれた仔を返すという契約であった[6]。(詳細は後述。)

圭二の父、原田良はトウショウハイネスの活躍を見て、自力で再びダンディルートとの配合を検討していた。しかし、ダンディルートの種付け料は、家族経営の牧場では賄えないほど高く設定されて実現することができなかった。代わりに、ダンディルートと同じ父リュティエのシャレーが配合された[7]

1983年5月18日に産まれたシャレーの牝馬は後に、カツミエコーと名付けられて南関東競馬で12戦1勝の成績を残し、生まれ故郷の原田良牧場で繁殖牝馬となった。ミルリーフの仔である種牡馬が多く活躍しており、圭二[注釈 5]は、その中でもイナリワンなどを産んだミルジョージを初年度の配合相手として検討していた[7][8]。しかし牧場では、1回100万円を越える種付け料を賄うことができないために断念。代わりに同じミルリーフの仔の種牡馬で、2年間で50万円という安価な種付け料に設定されたマグニテュードが選ばれた[7]

高井克敏は、この配合の父マグニテュードを「一流に手が届くかどうかの種牡馬」、母の父シャレーを「三流と呼んでも一向に構わない種牡馬」と表していた[9]

幼駒時代

1989年4月25日、良が引退し圭二が引き継いで名を改めた、原口圭二牧場でカツミエコーの初仔となる牡馬(後のミホノブルボン)が誕生[1]。出産の際には、腰幅が広く引っ掛かってしまうほどであった[10]。牧場では一人ぼっちでいることが多くおとなしい気性であり、馬体も目立つものではなかった[11]

産まれた原田牧場は、1951年に農業とともにアラブ種の競走馬生産を始め、次第にサラブレッド生産に取り組んでいた[8]。牧場の人脈に乏しく、ほとんどの生産馬が地方競馬に登録されており、中央競馬への登録はそれまでに5頭ほどであった。そのため、圭二の当面の目標は中央競馬への生産馬の登録、加えて未勝利戦を勝利することであった[12]。750万円で取引されて美浦商事が所有することとなり、「ミホノブルボン」と命名された[12]

栗東トレーニングセンター戸山為夫調教師は、坂路を用いたスパルタ調教で実績を残していた[11]。戸山は初仔の方が調教に耐えうる丈夫な体質になりやすいという持論から、初仔の幼駒獲得に集中していた[11]。小柄になりやすいとされる初仔、同じくその傾向にあるマグニテュードの仔だったが、傾向に反して大柄であったことを戸山に気に入られた[11]。さらにトウショウハイネスに注目していた過去も手伝って、当歳の頃に戸山厩舎の所属が決定、中央競馬でデビューすることが決定した[11]。すぐに戸山は圭二に飼料にアルファルファを用いることや、与えるカルシウムの品種などを指定した[11][13]。2歳10月から、三石軽種馬共同育成センターに移動して育成が施された後、1991年4月に栗東トレーニングセンターの戸山厩舎に入厩した[11]

入厩直後から戸山により坂路調教が課され、他の厩舎が登坂3回で終えるところ、4回を消化した[13]。負担の大きい調教をこなしたのは食事量の多さにある[13]厩務員調教助手を兼ねていた[注釈 6]安永司によれば、食事中に人が近寄ることを嫌っていた[13]。安永自身も食事中のミホノブルボンに接近することは恐怖だったという[13]

競走馬時代

3歳(1991年)

デビュー2連勝

小島貞博

1991年8月に安永が騎乗して坂路での追い切り[注釈 7]を実施。オープンクラスの古馬が500メートル30秒台で駆けるところ、3歳で29.9秒[注釈 8]を記録し[注釈 9]、調教スタンドの戸山は興奮して声を張り上げるほどであった[14]9月7日中京競馬場新馬戦(芝1000メートル)に小島貞博が騎乗してデビュー。先の調教内容から単勝オッズ1.4倍の1番人気に推されていた[14]。出走する他の馬がゲート入りを拒み、ゲートの中で長時間待ったことで良いスタートを切れなかった。さらに両隣から挟まれるなど先行できず、第3コーナーは13頭立て10番手で通過した[14]。直線コースでは進路を外に選択して追い上げ、残り50メートルで先頭となり後方に1馬身4分の1差を広げて入線。走破タイム58.1秒は3歳コースレコードを更新する勝利であった。上がり3ハロンはメンバー中最速の33.1秒を記録。これはメンバー中2位のホーマンチカラが34.7秒、同3位のホウエイセイコーが34.9秒と1.6秒以上も上回っていた[14]

直後にソエのため、連戦することができなかった。2か月後の11月23日、東京競馬場の500万円以下(芝1600メートル)で復帰。2番手から残り400メートルで先頭となり、後方に6馬身離して入線、2連勝とした[14]

朝日杯3歳ステークス

ミホノブルボンの勝負服(桃、黄銭形散、桃袖)

前年までの3歳馬のGI競走は、関東の朝日杯3歳ステークスに対して、関西の阪神3歳ステークスがあり、それぞれ東西の3歳チャンピオンを決定する舞台であった。しかし、この年より阪神3歳ステークスが阪神3歳牝馬ステークスと名を改め牝馬限定戦となり、3歳牝馬チャンピオンを決定する舞台となった[10]。対して朝日杯3歳ステークスは、東西の3歳牡馬[注釈 10]のチャンピオンを決定するGI競走に生まれ変わった[10]。12月8日の朝日杯3歳ステークスでは、1.5倍の1番人気に推された。8頭立ての中、京成杯3歳ステークスGII)優勝のヤマニンミラクル府中3歳ステークス(OP)優勝のマチカネタンホイザがオッズ4倍台で続き、オッズ一桁台の3頭はすべて関西馬であった[7]

映像外部リンク
1991年 朝日杯3歳ステークス
レース映像 jraofficial(JRA公式YouTubeチャンネル)による動画

スタートからマイネルアーサーが逃げたが、ミホノブルボンが並び2頭が先頭となった[7]。短い間隔で出走するミホノブルボンは走る気が勝ってしまい、小島は折り合いをつけるのに苦労していた[7]。最終コーナーまでそのまま2頭が先頭で進み、直線に入るとマイネルアーサーが後退し、ミホノブルボンが先頭となった[7]。後方外からヤマニンミラクルが追い上げて並びかけ、そのまま2頭並んだまま、決勝線を通過した。ミホノブルボンがハナ差先着[15]。3連勝でGI優勝となった。小島は平地競走GI初勝利[注釈 11]であり、戸山にとってもグレード制導入後初のGI優勝となった[7][16]。小島は「瞬発力が抜群。これからがとても楽しみな馬[7]」と発言。しかし距離については「2000メートルがぎりぎり[7]」とし、戸山も皐月賞に向けて「現状では不安が先立つ[7]」と考えていた。序盤から走る気を抑え、ハナ差の決着を招いた小島の騎乗に対し、戸山は走る気のままにさせていれば楽勝と考えていた。そのため、戸山は小島に対し、顔を赤らめるなど激怒した[16]。小島は、これを機にミホノブルボンの走る気を抑えることなく、逃がす競馬をするようになった[16]

年末のJRA賞選定では、全176票中、ミホノブルボンが174票[注釈 12]を集めて、JRA賞最優秀3歳牡馬を獲得した[3]美浦トレーニングセンターと栗東トレーニングセンターのハンデキャッパーが競走馬の実力を数値化する「フリーハンデ」では、3歳馬関西部門首位の「56」が与えられ[注釈 13]テンポイントサッカーボーイリンドシェーバーと並ぶ評価となった[注釈 14][17]

3歳時の評価

この頃の戸山は、ミホノブルボンを短距離を得意とする「スプリンター」と考えていた[13]。さらなるスピードを追求し、調教と調教の間に十分な休息を設け、いかに速いタイムで走れるかを重視した[13]。戸山はこう言い表している。

速さというのは、間違いなく才能なんです。それもミホノブルボンは、デビュー前に坂路で30秒を切った。これはかなりのものですよ。ただしこの馬はデビュー戦の後でソエに苦しんだように、骨が決して丈夫とはいえないし、行く気が先走って体力やスタミナもそんなにある方じゃない。
極端な言い方をすれば、ただ速いだけの馬なんです。だったらない物ねだりをするよりも、いいところを伸ばしてやった方が馬のためにはずっといいんですよ。幸い日本の競馬は馬場も含めて、スプリンター向きですからね。いくらスタミナが足りない馬でも、ある程度の距離まではこなすことができるんですよ。 — 戸山為夫[13]

戸山の調教により、馬体は大きく変化していった。朝日杯3歳ステークス当日、1年2か月ぶりにミホノブルボンと対面した原田圭二は、胴の伸長や、顔つき、目つきの変化を認めるほどだった[13]

4歳(1992年)

スプリングステークス

シンザン記念GIII)から始動する予定であったが、1月8日の坂路調教中に左腰を捻挫したため回避[18]皐月賞トライアル競走であるスプリングステークスと菜の花ステークス[注釈 15]の二択から、3月29日のスプリングステークス(GII)に出走した[18]。前回から200メートル距離が伸び、1800メートルに挑戦することとなった。勝ちにこだわる戸山は、ここでよい走りを見せなかった場合、皐月賞出走を諦め、短距離路線へ転向すると宣言[19]。また「デビュー以来最高の状態」に仕上げたと話した[12]。世代唯一のGI優勝馬に加えて無敗にもかかわらず、長い距離への適性が疑われて2番人気に甘んじた。代わって1番人気に推されたのは、既に2000メートルの重賞を優勝し距離に不安のないノーザンコンダクトであった[16]

小島は、朝日杯3歳ステークス後の戸山の指示を守りハナを奪って逃げを打った。重馬場としては速いペース[注釈 16]でレースは進み、2番手のサクラバクシンオーが失速するなど、先行する馬に不利な状況にあった[16]。しかし、有利となる後方の馬がミホノブルボンに迫ることができず、最後の直線では差を広げる一方となった。後方に7馬身離して決勝線を通過、4連勝を果たした。小島は「精神的にも肉体的にも大人になった」と証言[19]。戸山も「満足できる勝ち方」とし、皐月賞出走を決断した。この勝利に、サンケイスポーツ石田敏徳は「栗毛の超特急」と言い表している[19]

皐月賞

映像外部リンク
1992年 皐月賞
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

4月19日の皐月賞GI)に出走、戸山は「最高」と表した前走以上の状態であるとしていた。距離に対する不安が解消されたのか、単勝オッズ1.4倍の1番人気という支持であった[20]。スタート後最初の3歩[注釈 17]で先頭を奪い、馬なり[注釈 18]の状態で逃げた。第1コーナーで外に張り出したが、抑えることに成功した。第2コーナーでは、小島が落ち着かせるために1歩、2歩踏み出すのに合わせて口笛を吹いていた[21]。前半の1000メートルを59秒8で通過するという速いペースとなり、ミホノブルボンにとって不利な状況となっていた[12]。第3コーナーから最終コーナーにかけて後方が追い上げリードは縮まったが、並びかけるほどではなかった[20]。小島は位置取りに自信がなく、最終コーナーで3回後ろを振り返り後続の位置を確認していた。直線では追い上げる後続が失速し、そのまま後方に2馬身半離して決勝線を通過。逃げ切り勝利を果たした。

入線後、クールダウンを1周して退場する際に「小島コール」が発生、小島はそれに応えて右手でガッツポーズを披露した[21]。クラシック競走初勝利となり、富士重工業よりアルシオーネSVXが贈呈された[22]。レース後のインタビューでは「僕を男にしてくれたミホノブルボンにお礼を言いたい」と答えると同時に、騎手デビュー22年目40歳にして初めてうれし涙を流した[21]

東京優駿

5月31日東京優駿(日本ダービー)(GI)出走を目指した。さらに400メートルの距離延長に対応するために、戸山はついに登坂5回を課したが、余りにも消耗が激しく結局登坂4回で調整された。しかし5月15日の調教後に右前脚橈骨に骨膜炎の兆候が表れ、患部を癒すために2日間プールでの調教に切り替えられた[23]ルーチンの坂路調教を実施せず、5月18日のメディアは「ミホノブルボンの体調不安説」を展開したが、翌19日には坂路調教に復帰。本番が近づくにつれて、登坂4回をこなすなど良化して参戦することとなった[23]

出走する18頭は、皐月賞のメンバーに青葉賞NHK杯勝ち馬と5頭の900万円以下の馬を加えた構成で、ミホノブルボンを脅かすパフォーマンスを見せた馬はおらず、大勢はミホノブルボン有利の状況とされていた[23]。月刊誌『優駿』が展開した著名人61人の「ダービー・アンケート」では、6割以上の38人がミホノブルボンの逃げ切り勝利を支持するほどであった[注釈 19][24]。小島は逃げるために「内枠の偶数番」を希望していたが、ミホノブルボンは「外枠の奇数番」の7枠15番となり、それまで優勝馬の出ていない枠番からの発走となった[25]。単勝オッズ2.3倍の1番人気の評価を受けた。

映像外部リンク
1992年 東京優駿(日本ダービー)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

スタートから内枠の馬を制して先頭となり、第1コーナーで後方を2-3馬身離して逃げ、第2コーナーで独走状態となった[26]。1000メートルを61.2秒で通過し、第3コーナーから最終コーナーにかけて後続が追い上げてきた[26]。後続は直線に入って騎手により再度前進を促されていたが、追いつくことができなかった。坂でミホノブルボンが差を広げて独走し、後方に4馬身離して決勝線を通過[27]。デビューから6連勝となり、フレーモアガヴァナー、前年のトウカイテイオーなどに続く史上8頭目[注釈 20]となる無敗のダービー馬[28]、また前年のトウカイテイオーに続いて史上5頭目となる「無敗の二冠馬」が誕生した[29]

小島は、皐月賞の時よりもリラックスした状態で騎乗することができ、直線坂を登るまで「馬なり」だったと振り返っている[28]。またトヨタ自動車よりセリカが贈呈された[30]。戸山は「ここまでは能力が違ったということでしょうね。これなら次(三冠目、菊花賞)を考えてみたい。ひと夏越してメジロマックイーン[注釈 21]のようなステイヤーが出てきたら、どうなるかわかりませんけどね[28]」と話していた。なお2着には、単勝16番人気のライスシャワーが入り、馬番連勝式「13 - 15」は2万9580円という配当となった[30]。直後に、北海道早来町の吉田牧場に放牧に出され、夏休みに入った[29]

京都新聞杯

9月上旬、栗東トレーニングセンターに戻り、10月18日菊花賞トライアル競走である京都新聞杯GII)で再始動した。当日の京都競馬場にはGIIにもかかわらず開門前から行列を作るなど、7万人が来場した。単勝オッズ1.2倍の1番人気という支持を集め、続く7.1倍の2番人気にライスシャワー、8.9倍の3番人気にキョウエイボーガンと続いた。本馬場入場で落ち着きがないと感じた小島は、返し馬をいつもより加減させた[31]

主に逃げで4連勝中だったキョウエイボーガンとの兼ね合いに注目が集まったが、スタートでキョウエイボーガンが出遅れてしまった。一方のミホノブルボンは、スタートから前に出て単独で逃げることができた[31]。先頭のまま向こう正面を過ぎ、第3コーナーの坂の下りからライスシャワーが迫って来たが、1馬身後方まで接近したのみで並びかけるものではなく、そのまま直線でも先頭を保ち続けた[31]。結局ライスシャワーに1馬身半離して逃げ切り勝利、勝ちタイムの2分12秒0は、芝2200メートルの中央競馬レコードを0.1秒更新するものであった[31]。小島は最終コーナーの手応えから勝利を確信していたが、ゴール手前では「正直なところ一杯一杯[31]」として、促してもそれ以上伸びなかったことを明かしていた[31]

菊花賞

菊花賞出走に向けた11月4日の追い切り[注釈 7]では、登坂4回を実施。2本目に「29秒4」という栗東トレーニングセンターの坂路レコード[注釈 22]を更新する動きを見せ、さらに4本目にも同じ「29秒4」で登坂した[32]。戸山は「バチが当たるくらい順調[32]」と状態を言い表していた。以降の2日間は主にプール調教を行った。この時集めた報道陣は40人と、プール調教施設に来た報道陣の数としては過去最高であった[33]

前年の無敗の二冠馬トウカイテイオーが骨折で三冠目に到達できなかったこともあり、無事出走を果たしたミホノブルボンには、なおのこと三冠達成が期待された。かつて1800メートルのスプリングステークスでも距離を不安視されていたが、東京優駿よりもさらに距離が伸びる3000メートルに参戦することとなった。戸山は本質的に「スプリンター」であるという見方を崩しておらず、報道陣90人が集まった記者会見の場で「先生は(中略)スプリンターが3000メートルのレースに出走するというのは、どんな意味があるんですか?[32]」という質問に、このように答えた。

確かに(ミホノ)ブルボンはかわいそうですね。(ミホノ)ブルボン自身は走りたくないに決まっています。菊花賞に出すのは競馬に携わる人間の勝手ですよ。天皇賞は来年でも出られるけれど、このチャンスは1回しかありませんからね。出す意味といったら、『人間の欲』しかないと思います。 — 戸山為夫[32]
映像外部リンク
1992年 菊花賞
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

菊花賞当日の11月8日、京都競馬場には12万人が集まり[34]、単勝オッズ1.5倍の1番人気という支持を集めた。戦前に逃げることを宣言した11番人気のキョウエイボーガンが積極的に動き、予告通り先頭に立った。逃げようとしたミホノブルボンだったが、キョウエイボーガンの逃げを認識した小島は、焦ることなく2番手の位置につけ、馬なりの状態であった[29]。スプリングステークス以降はすべて逃げ切り勝ちであり、前に逃げ馬がいる状況は、かかってしまい僅差で勝利した朝日杯3歳ステークス以来のことだった。そのため、無理に逃げるキョウエイボーガンを追い抜こうとする姿も見られてしまい、小島がそれを抑えた[29]。キョウエイボーガンが変わらず逃げ、最初の1000メートル通過は59.7秒という「菊花賞史上、稀にハイペース[34]」(優駿)となり、馬群は縦長となった[34][29]

第3コーナーから最終コーナーの中間で失速するキョウエイボーガンをかわして先頭に立つものの[34]、残り100メートルで外から追い上げるライスシャワーにかわされ、差し返す余力もなく1馬身4分の1離されての2着となった[34]。デビュー以来初の敗戦を喫し、三冠達成とはならなかった。

クラシック以後

故障、復帰することなく引退

ジャパンカップGI)の追い切り直前に、右後肢跛行が確認されて出走を断念。続いて目標に据えた有馬記念も回避を表明した。二冠達成が評価されて、1992年JRA賞年度代表馬およびJRA賞最優秀4歳牡馬を獲得した。

5歳となっても復帰を目指していたが、1月27日に右後脚脛骨骨膜炎を発症。2月4日に吉田牧場に放牧に出されたが、4月7日に今度は、右後脚第3中足骨を骨折。5月29日、管理していた戸山の死去に伴い鶴留厩舎に一時転厩したが、戸山厩舎の後継者である森秀行調教師が受け入れ拒否したため、安永とともに9月に松元茂樹厩舎に転厩した。10月13日には福島県いわき市の馬用の温泉施設がある競走馬総合研究所常磐支所に移動して療養された。

しかし、1994年1月19日に現役引退を正式に発表。2月6日に東京競馬場にて、小島を背に東京優駿(日本ダービー)優勝時のゼッケン「15」をつけて引退式を行った。

種牡馬時代

1994年、日高軽種馬農業協同組合種牡馬生活に入った。地方競馬では重賞勝ち馬を出したが、JRA重賞の勝ち馬を出すことはできなかった。日高軽種馬農業協同組合を退いた後は、生まれ故郷である日高町のファニーフレンズファーム[注釈 23]で繋養された[35]。圭二は、自身の繁殖牝馬を中心に4,5頭の種付けを実施した[36]。2012年11月1日付で用途変更となり、種牡馬を引退。その後は圭二の義理の息子が経営するスマイルファームで余生を送った[35]

1996年にはJRAのコマーシャルメッセージに出演し、その背中に女優の鶴田真由が跨った。2000年日本中央競馬会が実施した「20世紀の名馬大投票」で7474票を集め第17位となった。2004年6月13日にはJRA50周年記念キャンペーン(JRAゴールデンジュビリーキャンペーン)の一環として中京競馬場で「ミホノブルボンメモリアル」という名称の競走が行われた[注釈 24]2010年8月8日には、函館競馬場のパドックにて展示周回した。

2017年2月21日朝より寝たきりの状態となり、22日午後6時過ぎ、老衰のため死亡した[37]

競走成績

以下の内容は、netkeiba.com[38]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離(馬場)


オッズ
(人気)
着順 タイム
(上り3F)
着差 騎手 斤量
[kg]
1着馬(2着馬) 馬体重
[kg]
1991.09.07 中京 3歳新馬 芝1000m(良) 13 3 3 01.4(1人) 1着 R-058.1(33.1) -0.2 0小島貞博 53 (ホウエイセイコー) 496
0000.11.23 東京 3歳500万下 芝1600m(良) 11 7 9 01.5(1人) 1着 01:35.1(35.7) -1.0 0小島貞博 54 (クリトライ) 506
0000.12.08 中山 朝日杯3歳S GI 芝1600m(良) 8 4 4 01.5(1人) 1着 01:34.5(35.4) -0.0 0小島貞博 54 (ヤマニンミラクル) 496
1992.03.29 中山 スプリングS GII 芝1800m(重) 14 1 1 04.5(2人) 1着 01:50.1(37.6) -1.2 0小島貞博 56 (マーメイドタバン) 490
0000.04.19 中山 皐月賞 GI 芝2000m(良) 17 2 4 01.4(1人) 1着 02:01.4(37.1) -0.4 0小島貞博 57 (ナリタタイセイ) 490
0000.05.31 東京 東京優駿 GI 芝2400m(稍) 18 7 15 02.3(1人) 1着 02:27.8(37.1) -0.7 0小島貞博 57 ライスシャワー 494
0000.10.18 京都 京都新聞杯 GII 芝2200m(良) 10 8 10 01.2(1人) 1着 R2:12.0(35.9) -0.2 0小島貞博 57 (ライスシャワー) 508
0000.11.08 京都 菊花賞 GI 芝3000m(良) 18 4 7 01.5(1人) 2着 03:05.2(35.2) -0.2 0小島貞博 57 ライスシャワー 512
  • タイム欄のRはレコード勝ちを示す。

種牡馬成績

主な産駒

エピソード

種牡馬の「代用」

ミホノブルボンは、原口良、圭二がダンディルートの代わりにシャレー、ミルジョージの代わりにマグニテュードと安い種付け料の種牡馬を配合したことで生み出された。それから約20年後、原口圭二牧場から名を改めたファニーフレンズファームでは、再び「代替種牡馬ディープインパクトの全弟[注釈 25]オンファイアを配合[45]。2010年に生産されたウキヨノカゼは、クイーンカップGIII福島牝馬ステークスGIII)など重賞3勝[46]、前身の原口圭二牧場も含めた生産馬のJRA重賞勝利は、ミホノブルボンが勝利した京都新聞杯以来であった[47][48]

ハイフレーム

原口圭二は、長男であることから牧場の後継者とみなされていたが、当初は牧場を継ぐつもりはなかった[49]。大学卒業後に、肉牛の研究と語学の勉強を目的にアメリカ留学したが、結局ワシントンのサラブレッドの生産牧場に身を置いた[49]。しかし帰国後に、オイルショックが直撃して就職先がなく、結局父のコネクションから藤正牧場に約1年間在籍することとなった。中でも初めての仕事は、デビュー前のトウショウボーイを東京競馬場に輸送することだった[49]

主に繁殖牝馬の世話を担当し、その中の1頭ハイフレームがいた。サクラスターオー、サクラユタカオーなどGI優勝馬を輩出している牝系、クレイグダーロッチ系に属する良血馬で、高額の繁殖牝馬であった[50]。原口は、藤正牧場のハイフレームの様子をこう振り返っている。

あそこ(藤正牧場)へ入ってまず驚いたのは、まるっきり馬が違うということでしたね。ウチ(原口良牧場)で繋養していた馬と比べると、どんな馬でもひと回りは大きい。こりゃ敵わないなって思いましたよ。中でもハイフレームは惚れ惚れする馬体で、そのくせ、性格は猫のようにおとなしいんです。僕の目からすれば、理想の繁殖牝馬でした。 — 原田圭二[50]

圭二が牧場を継いだ2年後、前述のように条件付きで自らの牧場にハイフレームを迎えることができた。原口牧場の初年度、1981年の父ダンディルートの牝馬を産んだものの、放牧中の事故で死亡[51][52]。翌年の父グリーングラスグリーンの仔は、死産に終わった[51][53]。3年目にして父シャレーの牝馬(後のカツミエコー)を生産した。その後、4年目の父トウショウゲートの仔を産んだ直後に、ハイフレームは死亡した[51]。結局、原口牧場では2頭しか産駒を残すことができず、そのうち牝馬はカツミエコー(後述)だけであった[53]。原口牧場では、同時期にハイフレーム以外にも死産、母馬の死亡が相次いだこともあり、圭二は何度も涙を流してしまった[51][注釈 26]

カツミエコー

カツミエコーはミホノブルボンを産んだ後、2年連続で受胎に失敗した。小規模家族経営の原口牧場にとって、生産馬の減少は大きな損失であり、原口圭二は、手放すことを決意した[54]。父シャレーという血統に対する評価が低いことに加え、目立った競走成績でもなかったことから、繁殖牝馬として他所に売却することもできなかった[19]。そのため、圭二は殺処分を計画していた[19]。しかし圭二の妻が、牧場生産馬であることを理由に猛反対し、殺処分が1年間先送りになった[19]。するとデビューしたミホノブルボンが、GIを勝利するなど活躍。殺処分を免れたカツミエコーは原口牧場で生産を続けた。

殺処分回避後にカツミエコーから産まれた唯一の牝馬、4番仔ダンシングエコーは、繁殖牝馬となった。カツミエコーから繋がって4代目、2017年生まれのアベニンドリーム(父:オンファイア)は、2020年の北海優駿(H1)を優勝[55]。他に2019年の北海道2歳優駿JpnIII)や鎌倉記念(SII)、王冠賞(H2)で2着に入った[55]。(以下、ファミリーラインを参照。)

産駒とファミリーライン

以下、ミホノブルボンの弟妹である。

生年 馬名 毛色 生産 戦績 出典
初仔 1989年 ミホノブルボン 栗毛 原口圭二 マグニテュード 8戦7勝 [1]
1990年 不受胎 [56]
1991年
2番仔 1992年 血統登録されず セクレフアスター [57]
3番仔 1993年 ミホノポタラ 鹿毛 マグニテュード 未出走 [58]
4番仔 1994年 ロドリゴオーカン 黒鹿毛 ロドリゴデトリアーノ 19戦2勝 [59]
5番仔 1995年 ダンシングエコー 黒鹿毛 ダンシングブレーヴ 未出走 [60]
1996年 不受胎 マグニテュード [56]
1997年 流産
6番仔 1998年 血統登録されず フォーティナイナー [56]
7番仔 1999年 ローレルファイター 黒鹿毛 マグニテュード 17戦0勝 [61]
2000年 不受胎 [56]
2001年 コロニアルアッフェアー
カツミエコー 1983 牝
    • ミホノブルボン 1989 牡(種牡馬)
    • ミホノポタラ 1993 牡
    • ロドリゴオーカン 1994 牡
    • ダンシングエコー 1995 牝(繁殖牝馬)
      • ダンシングバード 2000 牝(繁殖牝馬)
        • ジュンノヒーロー 2005 牡
        • ソラトブペンギン 2007 牡
        • アベニンプラナス 2008 牝(繁殖牝馬)
          • アベニンマルカート 2015 牝
          • アベニンローズ 2016 牝
          • アベニンドリーム 2017 牡(2019年北海優駿
          • アベニンバード 2012 牡
          • ショーマン 2013 牡
      • オオカゼ 2001 牡
      • ゴーグルシチー 2002 牡
      • デサイドシチー 2003 牡
      • ローレルスマッシュ 2004 牡
      • ラッシュオブラブ 2006 牝
      • ミュルザンヌ 2007 牝
      • アルカンシエル 2008 牝(繁殖牝馬)
        • シュクセサール 2017 牝
    • ローレルファイター 1999 牡
  • 情報は、2021年6月19日現在。

血統表

ミホノブルボン血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 ミルリーフ系
[§ 2]

* マグニテュード
Magnitude
1975 鹿毛
父の父
Mill Reef
1968 黒鹿毛
Never Bend Nasrullah
Lalun
Milan Mill Princequillo
Virginia Water
父の母
Altesse Royale
1968 栗毛
* セントクレスピン Aureole
Neocracy
Bleu Azur Crepello
Blue Prelude

カツミエコー
1983 青毛
* シャレー
Chalet
1976 青鹿毛
Luthier Klairon
Flute Enchantee
Christiana Double Jump
Mount Rosa
母の母
ハイフレーム
1968 栗毛
* ユアハイネス Chamossaire
Lady Grand
カミヤマト * ライジングフレーム
コロナ
母系(F-No.) クレイグダーロッチ系(FN:11-c) [§ 3]
5代内の近親交配 Nearco 5・5(父内) [§ 4]
出典
  1. ^ [62]
  2. ^ [63]
  3. ^ [62][64]
  4. ^ [62]


関連項目

脚注

注釈

  1. ^ 厩務員、調教助手の兼務。
  2. ^ 腰から臀部にかけての筋肉
  3. ^ 「とうしょうぼくじょう」と読む。
  4. ^ 藤正牧場をカタカナ(トウショウ)に変更した。
  5. ^ 良にとって3番目の子で姉が二人、長男であった。
  6. ^ 「持ち乗り」と呼ばれる。
  7. ^ a b レース出走直前の調教のこと。
  8. ^ 一部29.8秒と伝えられているものもある。
  9. ^ 坂路500メートルのレコードは、1992年6月時点でセンリョウヤクシャヌエボトウショウが記録した「29.6秒」。ミホノブルボンは、デビュー前にそれに迫るタイムで駆けていた。なお1987年に坂路は、570メートルに延長されている。
  10. ^ なお、騸馬も出走可能。牝馬は出走不可。
  11. ^ GI級競走としては障害競走、1982年の中山大障害(春)中山大障害(秋)(ともに騎乗馬:キングスポイント)の2勝を挙げていた。
  12. ^ 残り2票はノーザンコンダクト(4戦3勝、ラジオたんぱ杯3歳ステークスGIII)優勝)だった。
  13. ^ 3歳馬では、同じ「56」に牝馬のニシノフラワー、「55」に朝日杯3歳ステークス2着のヤマニンミラクルが続いた。さらに関東部門首位は「53」で朝日杯3歳ステークス3着のエーピージェットであった。
  14. ^ 直近の評価では、1989年アイネスフウジン、1990年ビッグファイトは「55」が与えられていた。
  15. ^ 3月28日の中山競馬場芝1200メートル。4歳限定のオープン競走
  16. ^ 馬場状態が悪化している時の芝コースは、通過タイムが遅くなる傾向にある。
  17. ^ 馬の歩幅は「完歩」と表され、一歩は7メートルから8メートルとされる。
  18. ^ 騎手が促すわけでもなく、馬自身で走る様子。
  19. ^ 前年のトウカイテイオー優勝には、90パーセントの支持があった。
  20. ^ フレーモアガヴァナークリフジトキノミノルコダマシンボリルドルフトウカイテイオーに続く8頭目。
  21. ^ 夏の函館開催から頭角を現し、1990年の菊花賞を制した。
  22. ^ 坂路500メートルのレコードは、1992年6月時点でセンリョウヤクシャヌエボトウショウが記録した「29.6秒」。
  23. ^ 原田圭二牧場から改称
  24. ^ エリモハリアーが勝利。
  25. ^ ディープインパクトと同じ、父サンデーサイレンス、母ウインドインハーヘアの種牡馬。
  26. ^ 圭二は「僕は人が死んでも泣かないけど、馬が死んだら涙が止まらないんです。」とも話している。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t "ミホノブルボン". JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2021年6月4日閲覧
  2. ^ "3歳新馬|1991年09月07日". netkeiba.com. 2021年6月12日閲覧
  3. ^ a b c 『優駿』1992年2月号、7-8頁
  4. ^ ハイフレーム”. JBISサーチ. 2021年6月4日閲覧。
  5. ^ トウシヨウハイネス”. JBISサーチ. 2021年6月4日閲覧。
  6. ^ 『優駿』1992年3月号 9頁
  7. ^ a b c d e f g h i j k 『優駿』1992年2月号、146-149頁
  8. ^ a b 『優駿』1992年8月号、9頁
  9. ^ 『優駿』1992年3月号 10-11頁
  10. ^ a b c 『優駿』1991年1月号、10-11頁
  11. ^ a b c d e f g 『優駿』2013年3月号、75頁
  12. ^ a b c d 『優駿』1992年6月号 132-133頁
  13. ^ a b c d e f g h i 『優駿』1992年3月号 12-13頁
  14. ^ a b c d e 『優駿』2013年3月号 76頁
  15. ^ 『優駿』1992年2月号、32頁
  16. ^ a b c d e 『優駿』2013年3月号 77頁
  17. ^ 『優駿』1992年2月号、14-15頁
  18. ^ a b 『優駿』1992年4月号 25頁
  19. ^ a b c d e f 『優駿』1992年5月号 158頁
  20. ^ a b 『優駿』1992年6月号 10-11頁
  21. ^ a b c 『優駿』1992年6月号 38-39頁
  22. ^ 『優駿』1992年6月号 13頁
  23. ^ a b c 『優駿』1992年7月号 20-21頁
  24. ^ 『優駿』1992年6月号 16-19頁
  25. ^ 『優駿』1992年7月号 16頁
  26. ^ a b 『優駿』1992年7月号 10-11頁
  27. ^ 『優駿』2013年3月号 78頁
  28. ^ a b c 『優駿』1992年7月号 154-155頁
  29. ^ a b c d e 『優駿』2013年3月号 80頁
  30. ^ a b 『優駿』1992年7月号 15頁
  31. ^ a b c d e f 『優駿』1992年12月号 142-143頁
  32. ^ a b c d 『優駿』1992年12月号 13頁
  33. ^ 『優駿』1992年12月号 14頁
  34. ^ a b c d e 『優駿』1992年12月号 8-10頁
  35. ^ a b 『優駿』2013年4月号 155頁
  36. ^ "あの馬は今Vol.23~皐月賞・ミホノブルボン". 競走馬のふるさと案内所. 2 May 2007. 2021年6月5日閲覧
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  61. ^ "ローレルファイター". JBISサーチ. 2021年6月13日閲覧
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  64. ^ 『優駿』1992年12月号、143頁、日本中央競馬会

参考文献

  • 優駿』(日本中央競馬会中央競馬ピーアール・センター
    • 1991年1月号
      • 「平成3年度競馬番組 重賞競走の主な変更点」
    • 1992年2月号
      • 「1991年度JRA賞決定/1991年度フリーハンデ決定」
      • 「視界良好'92クラシック、ミホノブルボン」
      • 橋本邦治「【今月の記録室】第43回朝日杯3歳ステークス(GI)」
    • 1992年3月号
      • 高井克敏「【近づく'92クラシック開幕】朝日杯3歳ステークスの勝馬 ミホノブルボン」
    • 1992年4月号
      • 「【皐月賞の有力馬&ジョッキー】ミホノブルボン&小島貞博」
    • 1992年5月号
    • 1992年6月号
      • 「【第52回皐月賞詳報】ミホノブルボンは重戦車特急だ。」
      • 鶴木遵「ダービー・主役への22年 小島貞博」
      • 石田敏徳(サンケイスポーツ)「【今月の記録室】第52回皐月賞(GI)」
    • 1992年7月号
      • 黒鉄ヒロシ「【第59回日本ダービー観戦記】ダバ、ダービー、ダブ、ダベ、ダボ」
      • 鶴木遵「【ダービージョッキー&ダービートレーナー】これはファミリーの勝利です」
      • 西村一学(夕刊フジ)「【今月の記録室】第59回日本ダービー(GI)」
    • 1992年8月号
      • 高井克敏「【'92春のGI競走勝ち馬の故郷】すべてが幸運、これは生涯一の祭り」
    • 1992年11月号
      • 畠山直毅「【第53回菊花賞】ミホノブルボンは淀の3000メートルも逃げきれるか!?」
    • 1992年12月号
      • 畠山直毅「1頭の栗毛馬をめぐる 栗東狂騒曲」
      • 濱野圭司(京都放送)KBS京都)「【今月の記録室】第40回京都新聞杯〈菊花賞トライアル〉(GII)」
    • 2013年3月号
      • 河村清明「【優駿激闘譜】ミホノブルボン 強固な信念が生みだした無敗の二冠馬」
    • 2013年4月号
      • 田中哲実「【牧場探訪】スマイルファーム(旧ファニーフレンズファーム)」
    • 2017年12月号

外部リンク